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2013/04/03

北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉

 

朝夷(あさひな)はもとより大力武勇(ぶよう)の健者(したゝかもの)にて二領重(がさね)の大鎧に、星甲(ほしかぶと)の緒(を)をしめ、九尺計(ばかり)の鐡撮棒(かなさいぼう)をうち振りて、當るを幸(さいはひ)に、馬人を云はず打伏(うちふ)せ薙(なぎ)倒す。新野(にひの)左近將監景直は、緋威(ひをどし)の鎧に同じ毛の甲(かぶと)を猪頸(ゐくび)に著(き)なし、黑鴾毛(くろつきげ)の馬に乘り、太刀を眞甲(まつかふ)に翳(かざ)して、朝夷に走せ掛(かゝ)る。義秀、是を見て横樣に打(うち)開けば、棒の當りし所より新野二つにちぎれて、血煙(ちけぶり)と共に落ちたりけり。葛貫(くずぬきの)三郎盛重、隙間なく馳(はせ)寄せ、義秀に組まんとする所に、朝夷、棒を取り延べて衝いたりければ、馬は横に倒れて、盛重、下に敷(しか)れたりしを、義秀、續けて突けるに、甲の鉢共に首(かうべ)碎けて失せにけり。五十嵐小文次(いがらしのこぶんじ)、是を見て、「あな、事々しや。さりながら、一騎打(うち)寄せ、手合(てあひ)の勝負を思ふ故に、兵多く討(うた)るゝぞ。大勢一同に前後左右より攻(せめ)付けよ」とて、郎從七、八人、我身諸共に聲を合せて、同時に打て掛りしかば、朝夷、れいの鐡撮棒(かなさいぼう)を振(ふり)上げ、向樣(むかふざま)に、小文次が甲の眞向を、丁と打てば、太刀にて受け流さんとして、翳(かざ)しけるが、その太刀共に首(かうべ)は胴ににえ入りて、馬より落ちたりけり。此勢(いきほひ)に恐れて、郎從共はばらばらと引退(ひきしりぞ)く。高井〔の〕三郎兵衞尉重茂(しげもち)は、和田〔の〕次郎義茂が嫡子として、義盛には甥にてあり、一族を離れて將軍家に屬(しよく)し奉り、忠を存じ、道を立(たつ)る。この度の軍(いくさ)に私(わたくし)なき大功を現(あらは)さんと、義盛が郎從、數多打取りしが、朝夷と寄(よせ)合せて、暫(しばし)戰ふに勝負なし。義秀は大力にて、重茂は手利(てきゝ)なり。打開き切流し、右に掛り、左に廻(めぐ)り、半時ばかり戰ひしが、重茂、太刀を打折(うちをら)れしかば、轡(くつばみ)を竝べて、雌雄を決せんと、義秀が草摺(くさずり)に取りつき、兩人、馬より動(どう)と落ち、しばしは組(くみ)合ひたりけれども、朝夷、流石に力まさりて重茂を押へて、首を搔く。相摸次郎朝時(ともとき)は、泰時の舍弟なり。心剛(がう)にして變化(へんくわ)の權(けん)を工(たくみ)にす。味方の陣を馳廻(はせめぐ)り、軍の樣(やう)を下知せられしが、朝夷と戰うて、手を負うて、引退(ひきしりぞ)く。足利(あしかゞの)三郎義氏は、政所の前橋(まえばし)のつめにて、義秀に渡(わたり)あふ。朝夷、屹(きつ)と見て、「善き敵ぞ、いざ、組(くま)ん」とて、義氏が鎧の袖に取付きたり。義氏、叶はじと思ひて、乘たる馬に一鞭當てて廣さ二丈餘(あまり)の堀を飛越(とびこえ)、莞爾(につこ)と笑うて立たりけり。鎧の袖はちぎれて、朝夷が手にのこり、主(ぬし)は向ふに飛越えたり。義秀、力及ばず、隍(ほり)の東より橋を渡りて追ひかゝれば、足利の郎等、其中を隔てて、防ぎけるが、皆、多く打殺さる。この間に、義氏は虎口を遁れて、引退ぞく。若宮大路米町(こめまち)の口にして、武田(たけだの)五郎信光と朝夷と出合うたり。互に目を掛けて馳せ寄する所に、信光が嫡子惡三郎信忠、生年十五歳、父が前に蒐塞(かけふさが)り、太刀拔側(ぬきそば)めて、打て掛る。義秀、之を見て、「かゝる少年を討ちたればとて何事かあるべき。父が命に替らんとする形勢(ありさま)、志の優しさよ」とて.、馳(はせ)通りければ、聞く人、朝夷を感ぜぬはなかりけり。


[やぶち
ゃん注:〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉

引き続いて「吾妻鏡」五月二日の条に基づく。前の引用の続きを示す。

〇原文

依之。將軍家入御于右大將家法花堂。可遁火災御之故也。相州。大官令被候御共。此間及挑戰。鳴鏑相和。利劔耀刄。就中義秀振猛威。彰壯力。既以如神。敵于彼之軍士等無免死。所謂五十嵐小豐次。葛貫三郎盛重。新野左近將監景直。禮羽蓮乘以下數輩被害。其中。高井三郎兵衞尉重茂。〔和田二郎義茂子。義盛甥也〕與義秀攻戰。互弃弓並轡。欲決雌雄。兩人取合。共以落馬。遂重茂被討訖。取落義秀之者。爲此一人之上。不與一族之謀曲。獨參御所殞命也。人以莫不感歎。爰義秀未騎馬之際。相摸次郎朝時取太刀。戰于義秀。比其勢。更雖不恥對揚。朝時主逢蒙疵也。然全其命。是兵略與筋力之所致。殆越傍輩之故也。又足利三郎義氏。於政所前橋之傍相逢義秀。義秀追取義氏之鎧袖。縡太急兮。義氏策駿馬。令飛隍西。其間鎧袖絶從中。然而馬不倒。主不落。義秀雖勵志。合戰數剋。乘馬疲極之間。泥而留于隍東。論兩士之勇力。互無強弱掲焉也。見者抵掌鳴舌。義秀猶廻橋上。擬追義氏之刻。鷹司官者隔其中。依相支。爲義秀被害。此間義氏得遁奔走云々。又武田五郎信光。於若宮大路米町口。行逢于義秀。互懸目。已欲相戰之處。信光男惡三郎信忠馳入其中。于時義秀感信忠欲代父之形勢。馳過畢。

〇やぶちゃんの書き下し文

之れに依つて、將軍家、右大將家の法花堂に入御す。火災を遁れ御(たま)ふべきの故なり。相州、大官令、御共に候ぜられしむ。此の間、挑み戰ふに及びて、鳴鏑(なりかぶら)、相ひ和し、利劔、刄を耀(かかや)かす。就中(なかんづく)、義秀、猛威を振ひ、壯力を彰(あら)はすは、既に以つて神のごとし。彼に敵するの軍士等、死を免るるは無し。所謂、五十嵐小豐次(いがらしこぶんじ)・葛貫(くずぬき)三郎盛重・新野(しんや)左近將監景直・禮羽蓮乘(れいはれんじやう)以下の數輩、害せらる。其の中、高井三郎兵衞尉重茂〔和田二郎義茂が子。義盛の甥なり。〕、義秀と攻め戰ふ。互に弓を弃(す)て、轡(くつばみ)を並べて、雌雄を決せんと欲す。兩人、取り合ひ、共に以つて馬より落つ。遂に重茂、討られ訖んぬ。義秀を取り落すの者は、此の一人たるの上、一族の謀曲に與(くみせず、獨り御所に參じて命を殞(おと)すなり。人、以て感歎せざる莫し。爰に義秀、未だ騎馬せざるの際(きは)、相摸次郎朝時、太刀を取り、義秀と戰ふ。其の勢(せい)を比ぶれば、更に對揚(たいやう)を恥ぢずと雖も、朝時主(ぬし)、逢ひて疵を蒙るなり。然も其の命を全うす。是れ、兵略と筋力との致す所、殆んど傍輩(はうばい)を越ゆるの故なり。又、足利三郎義氏、政所の前の橋の傍(かたはら)に於いて義秀に相ひ逢ふ。義秀追ひて義氏が鎧の袖を取る。縡(こと)、太だ急にして、義氏、駿馬に策(むちう)つて、隍(ほり)の西に飛ばしむ。其の間、鎧の袖、中より絶つ。然れども馬は倒れず。主(ぬし)は落ちず。義秀、志を勵ますと雖も、合戰數剋(こく)して、乘馬疲れ極むるの間、泥(なづ)みて隍(ほり)の東に留まる。兩士の勇力を論ずれば、互ひに強弱無きこと、掲焉(けちえん)なり。見る者、掌を抵(う)ち、舌を鳴らす。義秀、猶ほ橋上を廻り、義氏を追はんと擬(ぎ)するの刻(きざみ)、鷹司官(たかつかさのくわん)なる者、其の中を隔だて、相ひ支へるに依つて、義秀が爲に害せらる。此の間に義氏、遁るるを得て奔走すと云々。

又、武田五郎信光、若宮大路米町(こめまち)口に於いて、義秀に行き逢ひ、互ひに目を懸け、已に相ひ戰はんと欲するの處、信光が男(なん)惡三郎信忠、其の中に馳せ入る。時に義秀、信忠、父に代らんと欲するの形勢(ありさま)に感じ、馳せ過ぎ畢んぬ。

・「高井三郎兵衞尉重茂」和田一族でありながら幕府軍についてかく討死したが、彼の子息高井時茂(ときもち ?~建治三(一二七七)年:和田の乱後に出家して道円と号した)は母の津村尼から相模鎌倉南深沢郷と越後奥山荘の地頭職を譲られ、子孫は三浦和田氏を称して和田氏を再興している。

・「相摸次郎朝時」北条義時の次男で名越流北条氏の祖北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)。北条泰時の異母弟。参照したウィの「北条朝時によれば、この和田の乱の前年である建暦二(一二一二)年五月七日、二十歳の時に将軍実朝の御台所信子に仕える官女佐渡守親康の娘に艶書を送り、一向に靡かないことから、業を煮やした末、深夜に彼女の局に忍んで誘い出した事が露見、実朝の怒りを買って父義時から義絶され、駿河国富士郡に蟄居していたが、この戦さで鎌倉に呼び戻されて、かく戦ったのであった。この後、御家人として幕府に復帰する。後、父義時は承久の乱でも『大将軍として朝時を起用する一方、小侍所別当就任、国司任官はいずれも兄の朝時を差し置いて同母弟の重時を起用するなど、義時・朝時の父子関係は複雑なものがあり、良好ではなかったと見られ』、朝時は『得宗家の風下に甘んじ』ざるを得なかった。その後の『名越流は得宗家には常に反抗的で、朝時の嫡男光時をはじめ時幸・教時らが宮騒動、二月騒動で度々謀反を企てている』とある。

・「掲焉なり」はっきりしている。

・「見る者、掌を抵ち、舌を鳴らす」直前に二人の臂力が互角であったのは言を俟たない、と或る以上、これは敵味方いずれもが、義氏が戦わずして逃げたことに対し、不満を示したと読むべきところであろう。

・「鷹司官なる者」と訓じておいたが、これはどうも原典の、鷹司冠者の誤りであるらしい。熱田神宮大宮司で鷹司冠者と呼ばれた鷹司禅門藤原野田朝季という人物と思われる。

・「武田五郎信光」「梶原叛逆同意の輩追捕」で示した「伊澤五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)のこと。甲斐武田氏第五代当主。第四代当主武田信義五男。武田有義の弟。

・「米町」「新編鎌倉志卷之七」の「大町〔附米町〕」の項に、

大町(をほまち)は、夷堂橋(えびすだうばし)と逆川橋(さかがはばし)の間(あいだ)の町なり。大町の四つ辻より西へ行く横町(よこまち)を、米町(こめまち)と云。大町・米町の事、【東鑑】に往々見へたり。

とある。この逆川橋は大町四ツ角(本文の「四つ辻」)から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に架橋されている(「逆川」という名は、この滑川の支川が地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向に流れているために付けられたもの)。鎌倉幕府は商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年に御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止された。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町(いおまち)・穀町(米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている。

・「信光が男惡三郎信忠」武田信光次男。承久の乱で奮戦し、功を立てたが、何故か、仁治二(一二四一)年十二月二十七日に父信光より義絶されている(「吾妻鏡」同条)。義絶の理由は明らかではないが、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注では、『三月二十五日の海野幸氏との境相論に対する泰時の判決に対して不満を流布した落し前のようだ』と推定されておられる。しかし、四郎勝頼氏の個人ブログ「四郎勝頼の京都祇園日記」の甲斐武田氏総集編②武田有義・信光~信政兄弟の人物目録の中の「武田信忠(悪三郎)」の項には、「石和町誌」の記載に『少しでも危険を減らすために、義絶という形で信忠との関係を絶つことによって、武田の安泰を図ろうとしたと考えることができよう』とあるとされ、『義絶された信忠は『武田源氏一流系図』によれば、「高信と改む。子孫は紀州熊野八庄司のうちの湯川庄司」とある。おそらく執権北条泰時に湯川庄を与えられたのであろう』と推定されておられる。何れも興味深い見解である。なお、この「吾妻鏡」の仁治二(一二四一)年十二月二十七日の条では、本義秀との対決の下りが、義絶を不審として信光を糺す執権泰時に対し、切々たる思いの中で信忠の孝を語る父信光(この当時は出家して光蓮を名乗っている)の台詞の中に再現されている(それだけにこの義絶はますます不思議である)。私は個人的に、この超人ハルク義秀が頗る好きである。以下にこの部分も抜粋して示しておきたい。

〇原文

先建曆年中。和田左衞門尉義盛謀叛之時。諸人以防戰雖爲事。怖朝夷名三郎義秀武威。或違于彼發向之方。或雖見逢遁傍路。以逢義秀爲自之凶。爰光蓮者。奉尋武州。通若宮大路東頰米町前。向由比浦方。義秀者自牛渡津橋。打出同西頰。指御所方馳參。各相逢于妻手番。義秀見光蓮。頗合鎧進寄。光蓮暫者不懸目。只雖降行。已在箭比之間。聊向轡於西取直弓。于時信忠忽爲相代父命。捨身馳隔兩人中之處。義秀雖取太刀。見信忠無二之體。直加感詞。不及鬪戰。馳過訖。且是兼知信忠武略實之故歟。

〇やぶちゃんの書き下し文

先の建曆年中、和田左衞門尉義盛謀叛の時、諸人防戰を以つて事と爲すと雖も、朝夷名(あさひな)三郎義秀の武威を怖れ、或ひは彼が發向の方に違(たが)へ、或ひは見逢ふと雖も傍路に遁れ、義秀に逢ふを以つて自らの凶と爲す。爰に光蓮は、武州を尋ね奉り、若宮大路東頰(つら)の米町の前を通り、由比の浦の方へ向ひ、義秀は牛渡津橋(うしわたつばし)より、同じく西頰に打ち出で、御所方を指して馳せ參ず。各々妻手(めて)の番(つが)ひに相ひ逢ふ。義秀、光蓮を見て、頗る鎧を合はせ進み寄る。光蓮、暫くは目を懸けず、只た降り行くと雖も、已に箭比(やごろ)に在るの間、聊か轡(くつばみ)を西に向け、弓を取り直す。時に信忠、忽ち父の命に相ひ代らんが爲に、身を捨てて兩人の中を馳せ隔つるの處、義秀、太刀を取ると雖も、信忠が無二の體(てい)を見て、直ちに感詞を加へ、鬪戰に及ばず、馳せ過ぎ訖んぬ。且つは是れ、兼ねて信忠の武略の實を知るが故か。

・「牛渡津橋」不詳。この名称からは、例えば干潮時には牛が渡渉可能であるような、当時の滑川の比較的河口近くにあった橋の呼称か。識者の御教授を乞うものである。]

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