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2013/04/17

北條九代記 將軍實朝民部大夫が家に渡御 付 行光馬を戲する歌

      ○將軍實朝民部大夫が家に渡御 付 行光馬を戲する歌

同じき十二月十九日夜の明方より雪降りて、山々峯々、白妙(しろたへ)に、木々の稍は花を抽出(ぬきい)で、白銀(びやくごん)世界もかくやらんと面白くぞ覺えし。將軍實朝卿は、山家(さんか)の雪の風景を御覽ぜんとて、狩野(かの)民部〔の〕大夫行光が宅(いへ)に渡御し給ふ。行光俄の事なれども、盃酒(はいしゆ)を調へ、形(かた)の如くの饗應(あるじまうけ)をぞ致しける。山城〔の〕判官行村、蔵人〔の〕大夫朝親、山〔の〕内刑部〔の〕大夫經俊以下御供に候じて、夜に入りければ、和歌管絃の御遊宴ありて、更過(ふけすぐ)る程に還御あり。行光、大に喜び、奥州二戸より出つる驪(くろ)の龍蹄(りうてい)を獻じたり。翌日その馬を御覽するに、鬣(たてがみ)の上に結び付けたる物あり。取らせて御覽すれば、

  この雪を分けて心の君にあれば主(ぬし)知る駒(こま)の例(ためし)をぞひく

將軍家、數返(すへん)御詠吟あり。行光が志優しく思召さるゝ由、御感ありて、御自筆を染められ、御返歌をぞ遣はし下されける。

  主知れと引きける駒の雪を分けば賢きあとに歸れとぞ思ふ

御使内藤馬允(のじよう)知親、是を行光に渡しければ、民部大夫三度頂戴し、家の寳と定めたり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十一の建保元(一二一三)年十二月十九日と二十日の条に基づく。山家の雪景色の中の詩歌詠唱と管弦の音(ね)、白銀の篝火に映える「驪」(黒馬)と、モノクロームの映像美が頗る美しい。この他愛もない話ながら、筆者があえてこれを配したのは、ひとえにこのヴィジュアル感覚によるものであろう。「吾妻鏡」の中でも、悲劇の歌人将軍実朝を哀憐するように挿入される歌物語的なシークエンスである。同原文を二日続けて見ておく。

○原文

十九日乙巳。雪降。將軍家爲御覽山家景趣。入御民部大夫行光之宅。以此次。行光獻盃酒。山城判官行村等群參。有和歌管絃等御遊宴。入夜還御。行光進龍蹄〔黑。〕云々。

廿日丙午。今朝。將軍家御覽去夕行光所進馬。而結付紙於其立髮。召寄之披覽之處。

 この雪をわけて心の君にあれは主知る駒のためしをそひく

如此載之。將軍家數反。以御詠吟。行光所爲優美之由。及再三御感。相叶賢慮之故也。即染自筆。被遣御返歌。撰好士。以内藤馬允知親爲御使。

 主しれと引ける駒の雪を分は賢き跡にかへれとそ思ふ

○やぶちゃんの書き下し文

十九日乙巳。雪、降る。將軍家、山家の景趣を御覽ぜんが爲に、民部大夫行光が宅に入御す。此の次でを以つて、行光、盃酒を獻ず。山城判官行村等(ら)群參して、和歌管絃等の御遊宴有り。夜に入りて還御す。行光、龍蹄〔黑。〕を進むと云々。

廿日丙午。今朝、將軍家、去ぬる夕べ、行光進ずる所の馬を御覽ず。而るに紙を其の立髮に結(ゆ)ひ付く。之を召し寄せ、披覽せる處、

 この雪をわけて心の君にあれば主知る駒のためしをそひく

此のごとく、之を載す。將軍家、數反(すへん)を以つて御詠吟、行光が所爲(しよゐ)優美の由、再三、御感に及ぶ。賢慮に相ひ叶ふの故なり。即ち、自筆を染めて、御返歌を遣はせらる。好士を撰び、内藤馬允知親を以て御使と爲す。

  主しれと引ける駒の雪を分けば賢き跡にかへれとぞ思ふ

「狩野民部大夫行光」二階堂行光(長寛二(一一六四)年~承久元(一二一九)年)は二階堂行政(父は藤原行遠、母は頼朝の外祖父熱田大宮司藤原季範の妹)の子で政所執事として絶大な力を持っていた。この五年後の建保六(一二一八)年十二月二日に実朝が右大臣となり、その関連行事として「吾妻鏡」十二月二十日の条に「政所始(まんどころはじめ)」の儀が記されてあるが、

○原文

廿日戊午。晴。去二日。將軍家令任右大臣給。仍今日有政所始。右京兆幷當所執事信濃守行光。及家司文章博士仲章朝臣。右馬權頭賴茂朝臣。武藏守親廣。相州。伊豆左衞門尉賴定。圖書允淸定等著布衣列座。淸定爲執筆。書吉書。右京兆起座爲覽吉書。參御所給。路次行光捧持之。從于右京兆御後。將軍家故出御南面階間覽之。〔京兆持參彼吉書於御前給。〕京兆又令歸政所給。被行垸飯。其後行光進御馬御釼等於京兆。

○やぶちゃんの書き下し文

廿日戊午。晴。去ぬる二日、將軍家右大臣に任ぜしめ給ふ。仍つて今日、政所始有り。右京兆幷びに當所執事信濃守行光、及び家司(けいし)文章博士(もんじやうはかせ)仲章(なかあきら)朝臣・右馬權頭賴茂朝臣・武藏守親廣・相州・伊豆左衞門尉賴定・圖書允淸定等、布衣(ほうい)を著して列座す。淸定、執筆(しゆひつ)として、吉書(きつしよ)を書く。右京兆、座を起ち、吉書を覽(み)んが爲に、御所へ參り給ふ。路次(ろし)は行光、之を捧げ持ち、右京兆の御後に從ふ。將軍家、故に南面の階(はし)の間(ま)へ出御して之を覽(み)る〔京兆、彼(か)の吉書を御前に持參し給ふ。〕。京兆、又、政所へ歸らしめ給ひ、垸飯(わうばん)を行はる。其の後、行光、御馬・御釼等を京兆に進ず。

とあって、北条義時(「右京兆」は右京権大夫の唐名)の次席で政所の実務官僚のトップとして登場、儀式の間中、終始、実朝の直近に侍している様が見てとれる(「相州」は後に幕府初代連署となる北条時房)。参考にしたウィキの「二階堂行光」によれば、『この時代は源実朝の時代であるが、実権はその母の北条政子にあり、ちょうど朝廷における天皇と院政の関係にも似ている。二階堂行光はその尼将軍政子の側近として様々な場面に登場するが、その中でも重要なものが、源実朝が公暁に暗殺された後の』「吾妻鏡」承久元(一二一九)年二月十三日の条に、「十三日庚戌。信濃前司行光上洛。是六條宮。冷泉宮兩所之間。爲關東將軍可令下向御之由。禪定二位家令申給之使節也。宿老御家人又捧連署奏狀。望此事云云。」(十三日庚戌。信濃前司行光、上洛す。是れ、六條宮・冷泉宮兩所の間、關東將軍として下向せしめ御ふべきの由、禪定二位家[やぶちゃん注:政子。]、申さしめ給ふの使節なり。宿老の御家人、又、連署の奏狀を捧げ、此の事を望むと云云)とあって、『政子の使者として朝廷に赴き、その交渉を行っていることである。慈円の『愚管抄』にもそのときの行光のことが記されている』。『このときの交渉は、後鳥羽上皇の子を鎌倉の将軍に迎えたいというものであったが、既に北条氏打倒を考えていた後鳥羽上皇に拒絶される。しかしこの時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務はこの二階堂行光を中心に動いていたともみられ、『吾妻鏡』のこの時期の記録の多くはこの二階堂行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている』。『行光の後の政所執事は行光の甥の伊賀光宗となったが、光宗が』元仁元(一二二四)年の伊賀氏の変(北条義時の死去に伴って伊賀光宗とその妹で義時の後妻伊賀の方が伊賀の方の実子政村の執権就任と娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した事件)で流罪となった後、『行光の子の二階堂行盛が就任し、以降この家系がほぼ政所執事を世襲する』こととなったとある。彼は父の代から鎌倉の二階堂に屋敷を持っており、姓もその地に因んで改姓されていた。現在の瑞泉寺下の谷戸辺りと考えられる。

「山城判官行村」二階堂行村。二階堂行光の弟で彼の屋敷も兄の家の近くにあったらしい。

「奥州二戸」現在の岩手県内陸部北端に位置する二戸市付近。ウィキの「二戸市」によれば、『かつて奥六郡の北には郡は置かれなかったが、延久蝦夷合戦の結果、糠部郡、鹿角郡、比内郡、津軽平賀郡、津軽田舎郡、津軽山辺郡、津軽鼻和郡、外浜、西浜が建郡された。 二戸の名前は、糠部郡に敷かれていた「四門九戸(しもんくのへ)」の制に由来する。 四門九戸の制とは、糠部郡を東西南北の四つの門と、一から九までの「戸」(あるいは部)に分けるものであり、糠部郡内の主な地域を一戸〜九戸に分画して余った四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼んだと思われる。 「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる』とある。THRC(有限会社十和田乗馬倶楽部)の「幻の南部馬を訪ねて」の「源氏と南部馬」には((アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した))、

   《引用開始》

 平家物語の第九巻に「宇治川の先陣争い」と題された有名なくだりがあります。

 源氏方の二人の武将が、われ先に相手に斬りこんで武勲を立てるべく、宇治川を馬で渡ったというエピソードです。この二人の武将を乗せて宇治川を渡った馬、すなわち佐々木四郎高綱の生咬(いけづき)と梶原源太景季の磨墨(するすみ)はいずれも南部馬です。

 生咬と磨墨は、ともに頼朝が奥州藤原氏から贈られた秘蔵馬でした。生咬は蟻渡野(同県七戸町)の産。磨墨は住谷野(青森県三戸町(の産と伝えられています。どちらも「高(たけ)八寸」と書かれていますから、体高四尺八寸、つまり一四四センチです。この当時の馬の標準は、牡馬で四尺三~四寸、牝馬で四尺二寸でしたから、生咬や磨墨は抜きんでた良馬といえるでしょう。

 両者が宇治川に乗り入れた時は、景季のほうが一歩先んじていました。それに焦った高綱は、景季に「鞍の腹帯が緩んでいるぞ」と言って磨墨の足を止めさせ、その間に先陣をものにしています。

 同じく源平合戦の「一ノ谷の合戦」では別な南部馬が活躍します。

 いったんは都落ちした平氏でしたが、京都を奪回すべく一ノ谷(現在の神戸市)に陣を張ります。その平氏を東西からはさみ撃ちするために、義経たちが六甲山を進軍していると、眼下では熊谷直実らが作戦を無視して戦端を切っていました。上述の宇治川と同様、先陣の勲功を目論んだのです。

 そこで義経は「鹿も馬も同じ四つ足。鹿にできて馬にできないはずはない」とばかりに、崖を駆け下りて奇襲攻撃をかけます。ひよ鳥ぐらいしか渡れないという峡谷を、馬に乗って渡ってしまった義経の勇猛ぶりは「ひよどり越えの逆落とし」として有名ですが、このとき義経が駆っていた馬大夫黒(たゆうぐろ)も南部馬でした。

 あるいは、戦端を切った熊谷直実の権太栗毛(ごんたくりげ)、その子・小次郎の西楼(さいろう)、義経に従った弁慶の馬なども、ことごとく南部馬だったのです。

 かくして武家の時代、戦国の時代へとつき進む日本史の中で、有名無名の南部馬たちが歴史を作っていくのです。

 この当時、南部馬がいかに高い評価を与えられていたかを知る資料として「延喜式」に触れておきましょう。この「左馬寮の巻」に次のように馬の価格が記されています。

「陸奥の駅馬、上一疋稲六百束、中五百束、下三百束」 

まだ貨幣経済が発達していない時代なので、米による換算で、稲六百束は約五十五俵に相当します。ちなみに他国産馬の上モノでだいたい三百束というところでした。南部馬の最低ランクと、他国産の優秀な馬が同じ値段だったのですから、南部馬の価値のほどが判ります。

   《引用終了》

また、江戸期になってからの話であるが、二戸市商工会公式サイトの「にのへむかしばなし」の「藩制時代の馬の牧場」によれば、

   《引用開始》

 金田一上町の長寿寺入口より南に百米位の処を西方向へ右折すると沢田という地名あり。此の沢田より、約三キロ米位行くと右手側の方向は「沼ノ久保」部落がある。直進すると「柳沢」部落。ここから右折すると「長久保」部落に至る。此の最初の沼ノ久保に、藩制時代からの馬の放牧場だった跡が残っている。

 緩やかな傾斜地であるが、昔の人達は放牧場の柵を通称「土手」と呼んでいた。(土をもって作った高さ八尺(二・五米位)この土手の上に松並木が植えられている)この土手の中が放牧場である。馬はこの柵を跳越えることは不可能である。

 この山の下の方には自然に湧き出る水呑場も整えられてあった。場所は、今は「池」となっている。

 初夏の草木が萌える頃になると当歳(一歳)の馬が一斉に大地の青々とした牧場に放され二歳の駒になるまで牧場の係達の行き届いた管理のもとに成長して行き駒になると牧場より連れ出されて、金田一の場合は駒焼場に集合させて上馬、中馬、下馬と分けられ、藩の証明である鉄製の焼印を駒の臀部に、どこの馬であるかを確認するための印を押した、という。

 仕分けされた駒は調教され乗馬となったり或は軍馬用となり、戦になると武器とまでなるのである。昔この放牧場だった山主は、金田一の某地主さんの所有であったようだが、今は個人の山のようで一部に造林している処もある。

 放牧地の面積は見当がつかないが、かなりの広さである。今も土手の上に松並木の残っている風景は少しであるが、昔の面影を偲ぶことが出来る。

 私が子供の頃は土手も大分残ってあったが、今は山に林道が通り大分壊された部分もある。この頃の馬の牧場経営は、おそらく南部藩の指示によって当時の地主さんの山を借用して馬の生産に励んだものではなかろうか。

 書物によると一放牧場に百二十頭から百五十頭位の馬が放牧されたとある。二戸郡内でも数カ所の牧場があり相当数の馬が居たものと思う。

 これが南部藩の馬産地といわれる所以であろう。こうして、中央から馬の要請に何時でもこたえていたのであろう。

   《引用終了》

ともある。本話のブラック・ビューティも、まさにこの正統な日本の在来馬南部馬の血脈の一騎であったのである。

「驪の龍蹄」「驪」(音「リ・レイ・ライ」)は「くろみどりのうま」、深黒色の毛並の馬を言う(国字として二歳馬の謂いもあるので、この馬もそれくらいの若馬とも読める)。「龍蹄」は「りゆうてい(りゅうてい)」又は「りようてい(りょうてい)」と読み、優れた馬。駿馬(しゅんめ)・竜馬(りゅうめ)の謂い。

「この雪を分けて心の君にあれば主知る駒の例をぞひく」――この雪の降る中、雪をお踏み分けになられてまで、お出でになられたほどの風雅なる御主君なればこそ――名馬を愛された佐殿(頼朝)の例に倣って――その風雅を知尽される優れた主人(あるじ)のことをこそ知る、この馬を曳いて参りました――

「主知れと引きける駒の雪を分けば賢きあとに歸れとぞ思ふ」――「おのが主人(あるじ)の心を知尽しておれ」と名臣の命を受けて曳かれて参ったこの馬が――しかし――頻りに雪を掻き分けて恋しい元の主人(あるじ)の元へと帰ろうとする――元の主の元へと帰ること――我が父君佐殿の古えの教えが、そぞろ身に染むことであるよ――

「内藤馬允知親」(生没年未詳)は既注済みであるが再注すると、御家人で実朝の側近にして定家の門弟として和歌をよくした。彼を使いとして選ぶところに実朝の繊細さが窺える。]

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