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2013/04/28

北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相撲守諌言 竝 唐船を造る

      ○宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相撲守諫言 竝 唐船を造る

宋人陳和卿(そうひとちんくわけい)は左右なき佛工(ぶつく)なり。學智勝れ、道德あり。本朝に来りて、跡を留め、東大寺の大佛を造立せり。右大將賴朝卿、彼の寺供養結緣の爲上洛して、對面を遂げらるべき由、仰せらる。陳和卿、申して曰く、「右大將家は多く人の命を斷ち給ふ、罪業、是、重し、對面を遂げん事は我に於て憚(はゞかり)あり」とて、遂に拜謁せざりしが、今度鎌倉に下りて申入れけるやう、「當時の將軍實朝卿は権化(ごんげ)の再誕にておはします。恩顏を拜し奉らん爲(ため)、遙(はるか)に東關の地に赴き參りたり」と言上しければ、筑後(ちくごの)左衞門尉朝重が家に置(おか)れ、廣元朝臣を以て慰勞せしめられけり。かくて御所に召出(めしいだ)し、將軍家對面あり。陳和卿、合掌三拜して申しけるは、「君の前生は大宋(たいそう)の朝(てう)に育王山(いくわうざん)の禪師長老なり。我その時に弟子たりき。値遇の緣淺からず。二世の對面を遂げ得る有難さよ」とて、涙をぞ流しける。將軍實朝卿、聞召(ここしめさ)れ、去ぬる建曆元年六月三日の夜、御夢想のことあり。一人の貴僧、この趣を告げたまひき。御言葉には出し給はず、六年を過し給ふ。今既に符合す。和卿が申す旨、全く夢想に違(たが)ふ事なしとて、御信仰淺からず。然らば前生の御住所育王山巡禮の爲、入唐せばやと思召(おぼしめし)立ち給ふ。扈從(こしよう)の人六十餘輩を定めらる。相摸守義時、武藏守泰時、頻に諫め申すといへども、御許容なく、陳和卿に仰せて唐船をぞ造らせらる。相摸守、竊(ひそか)に廣元朝臣を招きて申されけるは、「將軍家、内々渡唐の事を思召立ち給ふ。甚(はなはだ)然るべからず。頻(しきり)に諫言を奉れ共(ども)、御許容なし。尤歎存(もつともなげきぞん)ずる所にて候。しかのみならず、右大將賴朝公は、官位の宣下、是(これ)ある時は毎度固辭して受け給はざりけるに、當將軍家は未だ壮年にも及ばせ給はで、昇進甚(はなはだ)早速(さつそく)なり。貴殿何ぞ申されざるや」とありければ、廣元、答へて申さるるやう、「仰(おほせ)の如く、日比、此事を歎息する所、丹府(たんふ)を惱しながら、微言(びげん)を吐くに遑(いとま)なくして、獨(ひとり)腸(はらわた)を斷ちて默止(もだし)來れり。臣は己を量りて職を受くとこそいふに、當家、僅(わづか)に先君(せんくん)の貴跡(きせき)を繼ぎ給ふ計(ばかり)にて、指(させ)る勲功おはしまさず。然るを諸國の官領職(くわんれいしよく)だに過分の義なり、其(それ)に中納言、左中將に補せられ給ふ、頗る攝關(せつくわん)の御息に替らず、 嬰害積殃(ようがいせきわう)の兩篇(へん)を遁れ給ふべからず、佳運、更に後胤(こういん)に傳難(つたへがた)からんか。早く御使として申し試み候はん」とて、座を立て歸られ、御所に參じて、相州の中使(ちうし)と稱し、諷諫(ふうかん)を奉り、「只希(ねがは)くは、御子孫繁榮の御爲には當官を辭して、征東將軍の一職を守り、御高年の後には、如何にも公卿の大職をも受け給へかし」とぞ申されける。實朝卿、仰せられけるに「諷諫、尤も(もつとも)甘心すべしといへども、源氏の正統、今この時に縮(ちゞま)りて、子孫、更に相續(そうぞく)し難(がた)し。然らば我飽(あく)まで官職を兼守(かねまも)り、家名を後代に輝(かゝやか)さんと思ふなり」と、宣へば、廣元、是非を申すに及ばず、退出して、相州にこの由を語り、諸共(もろとも)に累卵(るゐらん)の危(あやぶ)みをぞ歎きける。翌年四月に唐船(たうせん)を造畢(ざうひつ)す。數百人の匹夫(ひつぷ)を召して、由比浦(ゆひにうら)に引き浮(うか)ぶべき由、仰出(おほせいだ)さる。信濃守行光、奉行して、午刻(うまのこく)より申刻(さるのこく)まで人歩(にんぷ)の筋力を盡さしめ、曳(えい)や曳やと引(ひか)せけれども、此浦もとより、唐船の浮ぶべきにあらねば、何の詮(せん)なく、徒(いたづら)に船は海濱に朽損(くちそん)じけり。將軍家、御出ありしも興(きよう)さめて、還御あり。陳和卿は賴朝卿の殺罪を知り、實朝の前生(ぜんしやう)を覺え、他心宿命(たしんしゆくめい)の通力(つうりき)ありと、貴(たつと)かりけれども、唐船の浮ぶまじき事を知らで、かく廣大に造出(つくりいだ)し、用なき費(ついえ)を致しける。行足(ゆきたら)ぬ神通(じんつう)かなと、手を拍(たゝ)きて笑合(わらひあ)へり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十二の建保四(一二一六)年六月八日・十五日及び九月十八日・二十日及び十一月二十四日と、翌建保五年四月十七日の条に基づく。私の頗る好きなエピソードであるので、本話には私のオリジナルな全文現代語訳を附した。

「陳和卿(ちんくわけい)」(生没年未詳)南宋からの渡来工人。本文通りだと、現代仮名遣では「ちんかけい)」となるが、「和」は呉音が「ワ」、漢音が「カ(クヮ)」であるから問題なく、また私はどうしても習慣的に「ちんなけい」と読みたいので、「吾妻鏡」もそれで振った。以下、ウィキの「陳和卿」によれば、平安末の十二世紀末に来日したものと思われ、「南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」で既に見たように治承四(一一八〇)年の東大寺焼失後、勧進上人の重源に従って焼損した大仏の鋳造と大仏殿の再建に尽力、その功によって播磨国大部荘など五箇所の荘園を賜ったが、それらを重源の大勧進職に寄進して彼はその経営に関与していた。ところが、東大寺の僧侶たちから、彼が材木を船を造るために流用して再建を妨害し、重源を裏切って先に寄進した荘園を押領して再び自分のものにしようとしている、と告発されたため、元久三(一二〇六)年には、『後鳥羽上皇から「宋人陳和卿濫妨停止下文」が出されて、当該荘園及び東大寺の再建事業から追放された。新井孝重によればこの告発は事実ではなく、外部の人間である重源や陳和卿によって寺の再建の主導権を握られた東大寺の僧侶の反感によるものであったという』。その後、本話のように彼は鎌倉に現われ、驚天動地のパフォーマンスを演じて、実朝の信任を勝ち取り、渡宋を思い立った実朝に命じられて、かくの如き大船の建造に着手したが、御覧の通りの仕儀となった。『その後は消息不明。経歴には不明な点が多い』とあるのみ。私はこの陳和卿という男、少なくともこの実朝の一件にあっては、二十の時に書いた超駄作時代小説「雪炎」以来、ずーぅっと、とんだ食わせ者だと思っている。

「育王山」阿育王山。浙江省寧波の阿育王禅寺。二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)が釈迦入滅の百年(または二百年)後の古代インドで仏教を守護した阿育王(アショーカ王)の舎利塔を建立した地で、宋代には広利寺と称して五山の一つであった。

「丹府」「丹腑」で「赤心」のことであろう。嘘いつわりのない、ありのままの心。丹心。真心(まごころ)。

「臣は己を量りて職を受く」文脈から見ると、広元の言うここでの「臣」とは、元征夷大将軍の「職」の「主」であった父頼朝から、その「職」を「享け」継いだところの実朝を指しているものと思われる。但し、この故実が何に基づくものかは不学にして不明である。識者の御教授を乞うものである。

「嬰害積殃」「嬰害」の「嬰」は、加算の意で、たび重なる禍い、「積殃」は「積悪の余殃 (せきあくのよおう)」で、悪事を積み重ねれば必ず「殃」(禍い)によって報われることとなるという謂いで、ここは禍いを重ねて、その結果として、更にまた、その悪しき応報が降り懸かることを言っている。

「中納言、左中將に補せられ給ふ」「吾妻鏡」によれば、実朝はこの建保四年六月二十日に権中納言に転任(この場合の「権」は定員外配当で同等)、七月二十一日には左近衛中将を兼任している。所謂、官打ちの始まりである。

「諷諫」遠回しの忠告。

「累卵の危み」一般に「累卵の危うき」で使う。「史記」范雎(はんしょ)伝に基づき、積み上げた卵のように非常に不安定で危険な状態の意。

「午刻より申刻まで」正午頃から午後四時頃まで。

 

まず、建保四(一二一六)年六月八日の条を見る(書き下しは時制上の相違を改行とダッシュで示した)。

○原文

八日庚寅。晴。陳和卿參著。是造東大寺大佛宋人也。彼寺供養之日。右大將家結緣給之次。可被遂對面之由。頻以雖被命。和卿云。貴客者多令斷人命給之間。罪業惟重。奉値遇有其憚云々。仍遂不謁申。而於當將軍家者。權化之再誕也。爲拜恩顏。企參上之由申之。即被點筑後左衞門尉朝重之宅。爲和卿旅宿。先令廣元朝臣問子細給。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日庚寅。晴る。陳和卿(ちんなけい)、參著す。

――是れ、東大寺大佛を造れる宋人(そうひと)なり。彼の寺供養の日、右大將家、結緣し給ふの次でに、對面を遂げらるべきの由、頻りに以て命ぜらると雖も、和卿云はく、

「貴客は多く人命を斷たしめ給ふの間、罪業、惟(こ)れ重し。値遇(ちぐ)し奉ること、其の憚り有り。」

と云々。

仍つて遂に謁し申さず。――

而るに當將軍家に於ては、

「權化(ごんげ)の再誕なり。恩顏を拜さんが爲に、參上を企つ。」

の由、之を申す。即ち、筑後左衞門尉朝重が宅を點ぜられ、和卿の旅宿と爲す。先づ廣元朝臣をして子細を問はしめ給ふ。

東大寺供養については、「卷第一」の「南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」にあり、和卿も登場しているが、ここに記された会見固辞の一件はここで初めて明かされる。但し、「吾妻鏡」には載るので、この回想記録と対比するために、

「巻十五」の建久六(一一九五)年三月十三日

の条をも以下に掲げておく。

○原文

十三日戊戌。晴。將軍家御參大佛殿。爰陳和卿爲宋朝來客。應和州巧匠。凡厥拜盧遮那佛之修飾。殆可謂毘首羯摩之再誕。誠匪直也人歟。仍將軍以重源上人爲中使。爲値遇結緣。令招和卿給之處。國敵對治之時。多斷人命。罪業深重也。不及謁之由。固辭再三。將軍抑感涙。奥州征伐之時以所著給之甲冑。幷鞍馬三疋金銀等被贈。和卿賜甲冑爲造營釘料。施入于伽藍。止鞍一口。爲手搔會十列之移鞍。同寄進之。其外龍蹄以下不能領納。悉以返獻之云々。

○原文

十三日戊戌。晴る。將軍家、大佛殿に御參。爰に陳和卿、宋朝の來客として、和州の巧匠に應ず。凡そ厥(そ)の盧遮那佛(るしやなぶつ)の修飾を拜むに、殆んど毘首羯摩(びしゆかつま)の再誕と謂ひつべし。誠に直(ただ)なる人に匪ざるか。仍つて將軍、重源(ちやうげん)上人を以て中使と爲し、値遇結緣(ちぐけちえん)の爲に、和卿(なけい)を招かしめ給ふの處、

「國敵對治の時、多く人命を斷つ。罪業深く重きなり。謁に及ばず。」

の由、固辭再三す。將軍、感涙を抑(をさ)へ、奥州征伐の時、著し給ふ所の甲冑幷びに鞍馬三疋、金銀等を以つて贈らる。和卿、賜はる甲冑を造營の釘料(くぎれう)として、伽藍に施入(せにふ)す。鞍一口を止どめ、手搔會(てがいゑ)十列(じふれつ)の移鞍(うつしぐら)として、同じく之を寄進す。其の外の龍蹄(りゆうてい)以下、領納に能はず、悉く以つて之を返し獻ずると云々。

・「毘首羯摩」帝釈天の弟子で仏師の祖とされる伝説上の人物。

・「手搔會十列の移鞍」「手搔會」は「転害会」とも書く。東大寺西方の雑司町にある平城左京一条大路に西面して建つ転害門で行われる祭礼儀式。現在は毎年十月五日の東大寺鎮守手向山八幡宮の祭礼の際、神輿遷座の門として、ここから総ての祭儀が開催される。平安期には八幡宮祭と呼ばれた。転害門は謂わば、この祭礼に於ける御旅所である。名称はこの門の位置が大仏殿の西北に置かれており、これが吉祥の位置であって、「害を転ずる」の意から「転害門」とも呼ばれ、それが祭儀の名ともなったものである。奈良時代、宇佐八幡宮を東大寺の守護神として東大寺境内に遷座して以来の、非常に古い祭礼であると言われている(以上は「なら・観光ボランティアガイドの会 朱雀」の「東大寺の転害会」に拠った)。「移鞍」は、その儀式に於いて乗換用として用意される馬(行列の十列目に配されものか)におく鞍、の意である。

 

続いて建保四(一二一六)年六月十五日の条。

○原文

十五日丁酉。晴。召和卿於御所。有御對面。和卿三反奉拜。頗涕泣。將軍家憚其禮給之處。和卿申云。貴客者。昔爲宋朝醫王山長老。于時吾列其門弟云々。此事。去建暦元年六月三日丑尅。將軍家御寢之際。高僧一人入御夢之中。奉告此趣。而御夢想事。敢以不被出御詞之處。及六ケ年。忽以符合于和卿申狀。仍御信仰之外。無他事云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日丁酉。晴る。和卿を御所に召して、御對面有り。和卿、三反(さんべん)拜し奉り、頗る涕泣す。將軍家、其の禮を憚り給ふの處、和卿申して云はく、

「貴客(きかく)は、昔、宋朝醫王山(いわうざん)の長老たり。時に吾れ、其の門弟に列す。」

と云々。

此の事、去ぬる建暦元年六月三日丑の尅、 將軍家、御寢の際、高僧一人、御夢(おんゆめ)の中に入りて、此の趣きを告げ奉る。而れども御夢想の事、敢へて以つて御詞(おんことば)に出だされざるの處、六ケ年に及び、忽ちに以つて和卿の申し狀に符合す。仍つて御信仰の外、他事無しと云々。

 

続いて建保四(一二一六)年九月十八日と二十日の連続する条を示す。

○原文

九月小十八日戊戌。晴。相州招請廣元朝臣。被仰云。將軍家任大將事。内々思食立云々。右大將家者。官位事宣下之毎度。固辭之給。是爲令及佳運於後胤給也。而今御年齡未滿成立。壯年御昇進。太以早速也。御家人等亦不候京都兮。面々補任顯要官班。可謂過分歟。尤所歎息也。下官以愚昧短慮。縱雖傾申。還可蒙其誡。貴殿盍被申之哉云々。廣元朝臣答申云。日來思此事。雖惱丹府。右大將家御時者。於事有下問。當時無其儀之間。獨断膓。不及出微言。今預密談。尤以爲大幸。凡本文之所訓。臣量己受職云々。今繼先君貴(遺)跡給計也。於當代無指勳功。而匪啻管領諸國給。昇中納言中將御。非攝關御息子者。於凡人不可有此儀。爭遁嬰害積殃之兩篇給乎。早爲御使。可申試愚存之趣云々。

廿日庚子。晴。廣元朝臣參御所。稱相州中使。御昇進間事。諷諫申。須令庶幾御子孫之繁榮給者。辭御當官等。只爲征夷將軍。漸及御高年。可令兼大將給歟云々。仰云。諫諍之趣。尤雖甘心。源氏正統縮此時畢。子孫敢不可相繼之。然飽帶官職。欲擧家名云々。廣元朝臣重不能申是非。即退出。被申此由於相州云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十八日戊戌。晴る。相州、廣元朝臣を招請し、仰せられて云はく、

「將軍家、大將に任ずる事、内々思し食し立つと云々。右大將家者、官位の事宣下の毎度、之を固辭し給ふ。是れ、佳運を後胤に及ばしめ給はん爲なり。而るに今、御年齡、未だ成立に滿たず。壯年の御昇進、太(はなは)だ以つて早速なり。御家人等、亦、京都に候ぜずして、面々に顯要の官班に補任す。過分と謂ひつべきか。尤も歎息する所なり。下官の愚昧短慮を以つて、縱ひ傾(かたぶ)け申すと雖も、還つて其の誡(いまし)めを蒙るべし。貴殿、盍ぞ之を申されざるや。」

と云々。

廣元朝臣、答へ申して云はく、

「日來(ひごろ)、此の事を思ひ、丹府を惱すと雖も、右大將家の御時は、事に於いて下問有り。當時は其の儀無きの間、獨り膓(はらわた)を斷ち、微言を出すに及ばず。今、密談に預り、尤も以つて大幸たり。凡そ本文の訓(おし)ふる所、臣、己れを量り、職を受く。」

と云々。

「今は先君の遺跡を繼ぎ給ふ計りなり。當代に於いて指(さ)せる勳功無し。而るに啻(た)だ諸國を管領し給ふのみに匪(あら)ず、中納言中將に昇り御(たま)ふ。攝關の御息子に非ずんば、凡人に於いては此の儀有るべからず。爭(いかで)か嬰害積殃(ゑいがいせきあう)の兩篇を遁れ給はんか。早く御使として、愚存の趣きを申し試むべし。」

と云々。

廿日庚子。晴る。廣元朝臣、御所へ參り、相州の中使(なかづかひ)と稱し、御昇進の間の事、諷諫し申す。

「須らく御子孫の繁榮を庶幾(しよき)せしめ給ふべくんば、御當官等を辭し、只だ、征夷將軍として、漸くに御高年に及び、大將を兼ねしめ給ふべきか。」

と云々。

仰せて云はく、

「諫諍之趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統は此の時に縮り畢んぬ。子孫、敢へて之を相ひ繼ぐべからず。然れば、飽くまで官職を帶(たい)し、家名を擧げんと欲す。」

と云々。

廣元朝臣、重ねて是非を申す能はず、即ち退出し、此の由、相州に申さると云々。

 

同年十一月二十四日の造船命令の条。

○原文

廿四日癸夘。晴。將軍家爲拜先生御住所醫王山給。可令渡唐御之由。依思食立。可修造唐船之由。仰宋人和卿。又扈從人被定六十餘輩。朝光奉行之。相州。奥州頻以雖被諫申之。不能御許容。及造船沙汰云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿四日癸夘。晴る。將軍家、

「先生(せんしやう)の御住所、醫王山を拜し給はんが爲、唐へ渡りせしめ御(たま)ふべし。うべし。」

の由、思し食(め)し立つに依て、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰(おほ)す。又、扈從の人六十餘輩を定めらる。朝光、之を奉行す。相州・奥州、頻に以つて之を諫め申さると雖も、御許容に能ばず、造船の沙汰に及ぶと云々。

 

そして――翌、建保五(一二一七)年四月十七日の条。

○原文

十七日甲子。晴。宋人和卿造畢唐船。今日召數百輩疋夫於諸御家人。擬浮彼船於由比浦。即有御出。右京兆監臨給。信濃守行光爲今日行事。隨和卿之訓説。諸人盡筋力而曳之。自午尅至申斜。然而此所之爲躰。唐船非可出入之海浦之間。不能浮出。仍還御。彼船徒朽損于砂頭云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十七日甲子。晴る。宋人和卿、唐船を造り畢んぬ。今日、數百輩の疋夫(ひつぷ)、諸御家人を召し、彼の船を由比の浦に浮かべんと擬す。即ち御出有り。右京兆、監臨し給ふ。信濃守行光、今日の行事たり。和卿之の訓説に隨ひ、諸人、筋力を盡して之を曳くこと、午の尅より申の斜めに至る。然れども、此の所躰爲(ていたらく)、唐船の出入すべきの海浦(かいほ)に非ざるの間、浮き出だす能はず。仍つて還御す。彼(か)の船、徒(いたづ)らに砂頭に朽ち損ずと云々。]

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