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2013/04/21

賴朝の髑髏 萩原朔太郎

  賴朝の髑髏

 

 鎌倉の或る禪寺に、少し以前まで、賴朝公三歳の時の髑髏(されかうべ)が、寶物として陳列してあつたことは有名な話である。五十何歳かで死んだ賴朝の髑髏と、三歳の時の賴朝の髑髏とは、哲學上から言へば別個の實在であるから、それが二つあつたところで不思議はないが、實際の現象として、たしかに一つしかないのだから妙である。實見した人の話によれば、何だか非常に小さな物で、おそらく人間の髑髏ではなく、猿か何かの頭蓋骨だらうといふことであつた。

 その珍らしい「寶物」は、古く江戸時代から飾られてあつた物だが、昔は「三歳の時」といふ註釋がなく、おそらく單に「賴朝公の髑髏」として認めてあつたのだらう。或る時その見物人の一人が不審を抱き、「賴朝公は有名な巨頭であつたといふのに、これはあまりに小さすぎる。」と質問した。すると和尚は即座にぬからず「さればでござる。これは賴朝公三歳の時のされかうべでござる。」と答へた。それ以來無邪氣な案内小僧が、「三歳の時の御されかうべ」を反誦したといふのが、おそらくその寶物の緣起であらう。

 人間死せば木石に化す。蓋世の英雄も猿猴も、絶世の美人も牛馬も、ひとしくこれ皆一片の髑髏にすぎない。生者必滅(しやうじやひつめつ)、會者常離(ゑしやじやうり)、無明長夜(むみやうちやうや)の夢から醒めて、早く悟道に入るが好いといふ、禪の幽玄な機微を教へるために、わざと猿の頭蓋骨などを陳列して、皮肉に賴朝の骨などと言つたのだらう。それで禪機のわからぬ俗物の見物人から、野暮な質問を受けた時、一休まがひの頓智によつて、三歳の時のされかうべで御座ると、胸の透くやうに痛快なイロニイを答辯したのだ。もしその見物人が、もつと執念(しつ)ツこい解らずやで、更らにその不合理を難詰したら、「喝」と和尚から警叱され、髑髏と一所に數珠でなぐられたにちがひない。そこで考へて見ると、「洒落」や「通」を好んだ昔の江戸人の心境には、どこかその本質點で禪や佛教の機微に通じてゐるものがある。市井的に巷話化された一休頓智物語は、所詮彼等によつて市民化された佛教であり、逆にまた佛教は、江戸ツ子によつて卑俗的にユーモア化され、その趣味生活の中に入り込んだ。「大いたち」といふ看板で、戸板に血を塗つた物を見せるインチキの見世物を、大悦びで怒りもせずに見物した江戸人等は、賴朝公三歳のされかうべを見物すべく、わざわざ鎌倉へ旅行したほど、物好きで洒落ツ氣の多い人種であつた。

 江戸ツ子の誇りとする「通」とか「粹」とかいふことも、色に遊んで色に溺れず、情痴の世界に遊樂して、しかも情痴に達觀するところの、一種の禪的佛道心境を意味してゐた。

 しかし元來、洒落とか通とかいふことは、あへて江戸ツ子に限らず、文化の爛熟した社會に於ては、都會人の普遍的趣味性となるものである。それが極端になる場合は、江戸末期の頽廢的社會の如く、或は現代巴里(パリー)ジヤンの代表する佛蘭西(フランス)の如く、遂には社會的、國家的の崩壞を招くことになつて來る。由來、國家社會の強健な精神は、洒落を理解しない野暮な田舍者によつて支持される。だが現代日本の過渡期文化は、あまりに野暮臭く、洒落を知らないことに寂しさがある。小學校の教師に引率された、修學旅行の生徒みたいな圃體客が、京都の古刹や鎌倉の名所見物に來て、洒落も風流も解らぬ兵隊理窟を言ふ世の中では、いきほひ賴朝公のされかうべも、江戸前の洒落と一所に、時世から隱遁せねばならなくなつた。

 

[やぶちゃん注:『モダン日本』第十二巻第七号・昭和一六(一九四一)年七月号に掲載。底本は筑摩版全集第十一巻の「随筆」に拠る。下線部は底本では傍点「ヽ」。個人的な興味から、落語でも知られた頼朝の髑髏であるが、この実際に飾られていたという鎌倉の禅寺とは何処か、識者の御教授を乞うものである。その場合、出来れば資料としてそれを証明し得る記載もともにお教え頂けると助かる。]

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