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2013/04/25

藝術の映画化に就いて 萩原朔太郎

 藝術の映画化に就いて

 

 著名なる文學を活動寫眞にすることは、藝術の民衆化といふ方面で、非常に效果が多いと思ふ。今日のやうな時代では、人々が落付いて讀書する餘裕がない。特に古典に屬する長篇の文學などは、一層さうであり、生涯かかつて讀む機會がない。然るに一方では、時代が多方面の常識を民衆に要求する。今日の民衆は、すくなくとも文學の常識として、古来の世界的名著、たとへばミルトンの失樂園、ダンテの地獄篇、ゲーテのフアウスト、ホーマーのオデツセイ、それからアラビアンナイトや、ドン・キホーテや、ガリバアの旅行記や、その他の一般的名著を知つて居らねばならぬ。同時に自国の代表作を知ることも必要で、我が國で言へば、源氏物語、平家物語、古事記の類を始め馬琴、西鶴、春水等の小説も、國民常識として一應は讀まねばならないのだ。

 かく今日は、民衆に課せられた讀書の負擔が非常に多く、しかも時間の餘裕が益々すくなくなつてゐる。以上の多き多數の名著は、その梗概を讀破するだけでも容易でない。その上に讀書といふことは、非常に頭腦を疲らせる仕事であるから、一般の民衆はあまり好まない。圖書館といふものも、民衆文化の普及的意義からは、今日既に時代遅れであり、博覧會や馬車と同じく、もはや古風の詩美に屬してゐる。

 そこで現代の通俗文庫は、どうしても活動寫眞でなければならない。活動は眼から印象が入つてくるため、讀書の如く頭腦を疲らすことがない。それに短かい時間の中に、よく作の梗概を會得できる。その上尚一の得點は、古典の堅苦しい文學を、興味本位の通俗に嚙みこなして、素養のない民衆にも解り易くして見せることだ。尤もそれだけ原作の眞趣が失はれ、名作の價値を傷つけるわけであるが、一般の民衆常識として紹介するには、それで充分であり、それ以上の理想は望まれない。何となれば民衆は、藝術の深い素養をもつてゐないから、通俗的の興味が無い限りは、彼等を牽きつけることができないのである。

 かくの如く「藝術の映畫化」は、實に「藝術の民衆化」といふことに意義を有する。所謂「文藝映畫」を見る人は、鑑賞の基準を此所に置き、その常識で價値を判斷すべきである。さうでなく、もし實に純粋の藝術を寫眞に要求するならば、いつでも必ず失望するにきまつてゐる。所謂文藝映畫の鑑賞における興味は、いかに巧みに原作を通俗化したか? といふ見方にあるので、いかに忠實に原作を紹介したか? といふのでない。といふのは、今日の活動寫眞なるものが、多数の民衆を對手にする娯楽的の興行物であり、本質的に通俗のものであるからである。活動寫眞に高級な藝術を要求するのは、民衆娯樂の本質を忘れてゐる、一の沒常識にすぎないだらう。ただ劇における自由劇場のやうに、小人數の識者ばかりを會員とし、限られたる範圍で興行するものならば、吾人の欲求してゐる如き、眞の高級の藝術映畫が見られるだらう○。今の所で言へば、その最も高尚で「藝術的」と呼ばれる映畫も、實は表の通俗小説にすぎないのである。(すべての高級映畫に就いて、その興味の中心を考へて見よ。いかに淺薄で通俗であるかがわかる。)

 それ故に飜譯映畫は、その原作を知らない人が、興味と好奇心で見るのであつて、既に原作を讀んでゐる人は、決して見ない方が好いのである。見れば必ず失望するに極つてゐる。名著の原作から受けたやうな藝術的感動は、どんな名監督の飜案からも、決して受けることができないのだ。尤も原作の性質により、或る程度のものは成功する。一般に古代の文學は、事件を筋で運んでゆくため、映畫に翻案することが容易である。しかるに近代の文學は、ずつと心理的であり、気分や、思想が主になつてゐるため、映畫に寫すことが困難である。私の見た範圍でも、比較的古典文學の映畫化には難がすくなく、近代文學の方で著るしく原作を傷つけてゐる。ドストエフスキイの「カラマゾフ兄弟」や「罪と罰」の映畫化などは、所謂ファンの喝采するに關らず、飜譯としても失敗である上に、映畫それ自身の興味がなく、實に退屈千萬のものであつた。その他近代文学の飜譯映畫で、一として感心したものに出逢はない。單に原作の感動がないといふのでなく、映畫それ自體として退屈なのである。そこで所謂「文藝映畫」なる觀念が、概ね私には「欠伸の出る映畫」を表象させる。けだし映畫中での最もつまらぬものは文藝映畫である

 思ふにこの失敗の理由は、監督や筋書者が、生じつかの藝術意識で、原作に忠實にならうとするからである。映畫は始めから文學でない。映畫で原作を生かさうとするならば、全く原作のプロセスを叩き壞して、全然別な組織の上に、その「精神」だけを抽象せねばならないだらう。強ひて映畫に文學の組織を求め、木に竹を繼ぐやうな無理をするから、不自然で退屈なものができるのである。むしろその藝術意識を捨ててしまひ、文藝の民衆化を目的として、思ひきり原作を通俗北し、ひとへに興味本位のものとして、大體の骨格だけを紹介するやうにせよ。さういふ仕方で行つたものは、今迄にも決して失敗してゐない。

 

 そこで私の望んでゐるのは、「藝術の映畫化」ではなくして、逆に「映畫の藝術化」である。與へられたる原本を、映童に飜譯するといふのでなく、始めから映畫それ自身を、藝術として創作することだ。しかしこれも前言ふ通り、自由劇場の組織でない限りは、思ひ切つたことができないだらう。劇の方には「讀む脚本」といふものがあり、それだけで藝術品たり得るけれども、映畫の方は、寫眞となつて始めて表現ができるのだから、上演不可能のものは仕方がない。そして上演の可能性は、一般の通俗向にあるのだから、藝術映畫の實現は、今の所では困難である。せいぜいの所で通俗の中に藝術味を暗示する位のものだ。

 それ故に我々は、今日の所、映畫に藝術を要求しようと思はない。映畫に對する僕等の興味は、純粋に娯樂本位であり、ただ面白く、氣持ちの好い時間をすごさしてくれれば滿足なのだ。即ち僕等の鑑賞は、それが娯樂として、いかに氣が利いてゐるか? いかに監督の機智が働らいてゐるか? いかに俳優が表出するか? 等の興味にのみかかつてゐる。即ち探偵小説や筋書小説などに對する興味と同樣であり、實に「氣の利いた頭腦」を監督に要求し、技巧の未技を寫眞と俳優とに見れば好いのである。

 映畫の本質をかうして見ると、世界第一の頭腦の所有者は、どうしてもチヤツプリンである。悲劇、喜劇、史劇等のあらゆる映畫を通じてみて、矢張最も面白いのはチヤツプリンの映畫である。しかし近頃では、ロイドの方が人気が高いやうに思はれる。

 ロイドの喜劇は、實に「新時代そのもの」の象徴である。所謂「新時代」の何物たるかを知らうとする人は、ロイドの映畫を見るに限る。陽氣で、明るく、無邪氣で、自由で、快活で、皮肉や陰謀の暗い影が少しもなく、眞に自然兒のオープンハートであり、若き民族の有する溌剌たる元氣と精力が躍動してゐる。即ちロイドそれ自饅體が、アメリカニズムの生きた象徴である。今やアメリカの新興文化は、ジヤヅバンドとロイドの映畫で、全世界を風靡しようとしてゐるのだ。(汎米國主義を世界に宣傳し、アメリカ魂で世界を統一することが、米國の内部で計畫されてゐる。先年の決議によれば、活動寫眞宣傳中、ロイド映畫が第一位に選ばれたさうである。)

 

 映董に対する私の不滿は、色と浮出しのないことである。色彩といふものが全くなく、立體としての奥行もなく、陰氣で眞黑の影繪が、薄ぺらのシーツの上で動いてゐるのを見てゐると、何とはなしに悲しくなつてくる。生きた人間ではなく、手ごたへのないそれの影、厚みも色もない、幕に寫つた陰氣の影繪を、いつしんに見てゐる人々の心を思ふと、この世紀の文明といふものが寂しくなる。

 この一の感情は、私の映畫に對する根本の憂鬱である。色もなく、聲もなく、匂ひもなく、そして肉體そのものが實在しない。幕に寫る幽靈の動作を見てゐるといふ意識が、たまらなく私を憂鬱にする。しかもそれが、この時代における唯一の民衆娯樂であり、地球のすべての人間どもが、唯一の慰安をそれに求めてゐるではないか。活動寫眞に対する憂鬱は、實に「文明の沒落」である。「人間の末路」である。機械文明に心醉して、唯物思想に靈魂をくびられ、生きた肉情を失つてしまつた所の、あはれな造兵のやうな人間共が、陰氣な壁に映つてゐる、眞黑の影繪を見て悦んでゐる。悲しい世の中のすがたでないか! 活動寫眞館の中に入るとき、いつでも絶望的な厭世思想が、私の心に湧いてくるので、苦痛にたまらなくなるのである。それ故に私は、活動が好きでありながら、それを見に行くことを好まない。

 

 もし映畫に色彩と浮出しがついたならば、私の病的な憂鬱性が、ずつと輕くなつてしまふであらう。なぜなれば、それは「眞黑のさびしい影繪」でなく、現實の色と厚みを有する、生きた肉體の再現であり、この三次元の空間に棲む、實の生物の幻燈だから。

 毒を制するものは毒である。人類の娯楽樂に於ける文明的堕落は、より進歩せる文明によって救はれねばならないのだ。「色なき世界」は考へるだに陰慘である。「厚みなき世界」は思ふだに畸形である。世界の民衆が、いつまでもかかる不倫の娯樂を愛し、畸形にして陰惨な趣味に惑溺してゐることは許されない。それは文化の健全性から許されない。正義人道のためにすら、映畫は改良せねばならないのだ。もし眞に完全なる「天然色立體映畫」を發明する人があるならば、その文化的名譽は不朽であらう。但し現在せる如きものは、尚不完全の玩具にすぎない。

 

 藝術映畫といつても、現在のものは單に演劇映畫にすぎない。もつと技術が進歩したら、美術映畫(動く繪畫)や、叙情詩映畫(寫眞で表現する詩)などが創案されるであらう。そして活動寫眞そのものが、畫家のカンバスや繪具に代り、詩人の思想や韻律に代り、一の新しき藝術表現となるであらう。僕等はその未来を期待してゐる。

 

[やぶちゃん注:『中央公論』第四十年第七号・大正一四(一九二五)年六月号に掲載。底本(昭和五一(一九七六)年刊筑摩版全集第八巻)の「初出雜誌・新聞一覽」の注記によれば、『本篇は「文藝の映畫化と音樂のラヂオ化」と總題するうちの一篇である』とある(私はとても凄いことだと思うのだが、この筑摩版全集は編者の記載も何もかも(奥附に至るまで!)総てが正字なのである)。「けだし映畫中での最もつまらぬものは文藝映畫である。」の下線部は、底本では傍点「〇」、「この時代」の斜体下線部は、底本では傍点「●」である。

……朔太郎少年よ。今や「色彩と浮出しがついた」總天然色カラーそして3Dなんて當り前なのだ。寧ろ若者たちからは優れたモノクローム映畫がモノクロであるが故に觀られることがなくなつてしまつた。さうして多くの者たちが自身の内なる絢爛たる色彩を自由に夢想する權利をとつくに失くしてしまつた。はたしてほんたうにこれが君の望む映畫だつたのだらうか?……朔太郎少年よ、君がさうした物量と小手先の技法――着色もSFXも3Dも所詮は科學技術といふ通俗的願望の所産なのだ――に賴つてすつかり曠野となつてしまつた末世の映畫を知らずにゐることは幸ひだと思ふと同時に、今、君があのアンドレヰ・タルコフスキヰのたつた八本許りの作品のその一本をだに見ることが出來ないのだということを私は殘念に思ふであらう。]

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