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2013/04/04

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 16

 はまべの道をはるばるとゆきて腰越にて舟をかり島へわたり、つゞらおりなる坂をのぼり、一坂一坂にて海のおもてを木のまより見おろしたる氣色いふかたなし。丹靑も筆及がたくぞ覺る。來てみる我もよそのながめとやならむ。見盡瀟湘景乘船人畫圖とも、かゝる事をやいひつらむ。[やぶちゃん注:「見盡瀟湘景乘船入畫圖」を訓点を参考にしながら私なりに書き下すと、「瀟湘の景を見盡して、船に乘りては畫圖に入る」としたい。底本そのままだと「瀟湘景を見盡して船に乘りて畫圖に入る」である。]

  なかめぬる我をもこめて江のしまを 筆のあとにや人のとむへき

  下從金際上登空  一島名高州八東

  驅景何知自成景  人乘船入畫圖中

[やぶちゃん注:書き下す。

 

  下(しも) 金際(こんざい)に從ひ 上(かみ) 空に登る

  一島 名は高し 州八(しうはつ)の東(とう)

  景を驅けりて 何ぞ知らん 自づから景を成すを

  人 船に乘りて 畫圖の中(うち)に入る

 

「州八」は日本の古称である八州で平仄上から、かくなしたものと思われる。「州」は平声(〇)、「八」は入声で(●)であるから「〇●」、この詩は「從」(意味からこれは平声〇)であるから正格(平起式)の七言絶句であるから、この承句の五・六字目は「○●」若しくは「●●」でなくてはならないからである。]

 

於同島和天裕和尚之韵

  西湖易地是君山  江島眺望天水間

  潮滿則舟潮落歩  波心一路有人還

[やぶちゃん注:詩題も含めて書き下す。

 

    同島に於いて天裕和尚の韵(ゐん)に和す

  西湖 地を易(か)ゆ 是れ君山

  江島 眺望 天水の間

  潮(しほ)滿つれば 則ち舟 潮落つれば 歩

  波心一路 人の還る有り

 

「天裕和尚」不詳。この沢庵の旅の二年後の寛永一二(一六三五)年に、大徳寺一六九世となるのが天祐紹杲(てんゆうしょうこう 天正十四(一五八六)年~寛文六(一六六六)年)という人物であるが、彼のことか? 大徳寺一五三世であった沢庵よりも十三歳年下ではあるが、おかしくはないように思われる。識者の御教授を乞う。

「韵」詩賦。……しかし、この詩を含む前後の部分は、これ、李白が洞庭湖での舟遊びの際に吟詠した「陪族叔刑部侍郎曄及中書賈舎人至遊洞庭 五首」(族叔刑部侍郎曄及び中書賈舎人至に陪して洞庭に遊ぶ 五首)の「其五」を元としているように見受けられる。

  帝子瀟湘去不還

  空餘秋草洞庭間

  淡掃明湖開玉鏡

  丹靑畫出是君山

   帝子 瀟湘を去つて還らず

   空しく秋草を餘す 洞庭の間

   淡く明湖(めいこ)を掃つて玉鏡を開けば

   丹靑もて畫き出だすは 是れ君山(くんざん)

以下。私にブラウザでの縦書を教えて下さった恩人であるつくば原人氏のウェブサイトのを以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

   堯帝の娘は 瀟湘に身を投げて帰らず

   洞庭湖のほとりには 秋草だけが生えている

   明るい湖面をひと拭きして 玉の鏡を開くと

   絵具で描いたように現れる それが君山だ

 「帝子」というのは堯帝(ぎょうてい)の娘の娥皇(がこう)と女英(じょえい)のことで、夫帝舜の死を知って悲しみ、湘水に身を投じて死にます。

 李白は「空しく秋草を余す 洞庭の間」と人生の空しさを詠います。

転結の二句は洞庭湖に朝の光が射し込む瞬間の描写です。

 「君山」は当時は湖岸に近い湖中にあった島で、「君山」の名は湘君(娥皇)の君にちなむと言われています。朝日がさすと、君山が鏡のような湖面に描いたように浮かびあがってくる。

 五首連作の最後を美しい夜明けの風景でまとめた李白の技はみごとです。

 この七言絶句の連作は李白晩年の名作とされていますが、同船者二人の境遇や故事を理解していないと、詩の隠された意味がわからず、詩のよさを味わいつくすことはできません。

  《引用終了》

 因みに最後の部分を簡単に述べておくと、李白は軍律違反による流罪についてこの時、赦免されていたものの、同行した李曄と賈至なる人物は何れも左遷の身であったことを指す。すると、この時の沢庵境遇との酷似点が見えてくるではないか。冒頭注で示したように、沢庵は寛永四(一六二七)年の紫衣事件で幕府によって出羽国上山に流罪にされ、同じく幕府に物申した同輩たちがやはり流罪となった。その後、寛永九(一六三二)年の秀忠の死の大赦令によって許されて、一旦、江戸へ出て神田広徳寺に入ったものの、京に帰ることはすぐには許されず、同年冬から駒込の堀直寄の別宅に身を寄せて、寛永一一(一六三四)年の夏までそこに留まっていた、とある。寛永一〇(一六三三)年十一月の鎌倉行脚は、そうした中の旅であったのである。ここで沢庵が殊の外、李白のこの詩の心境に強烈な共時性を持ったことは想像に難くないのである。]

 おのくかへさもよほして島をほなれ、もときし道にむかふ。流を片瀨川といふ。

  おもへともおもはぬ人の片瀨川 わたらはすそやぬれまさりけむ

星月夜の井をすぐるに夕日もかたぶけば、

  雲はれて道はまよはし星月夜 かまくら山は名のみなりけり

新長谷寺に詣て、

  大和路やうつせはこ一も泊瀨寺 尾上のかねのよそならぬ聲

 あま小舟泊瀨とよみしは、實に爰なるべし。海山かけてながめ一かたならぬ所なり。くれて雪の下のやどりにかへり、五山の樣體ども所の者にとふ。

[やぶちゃん注:「あま小舟泊瀨」古歌で「あまをぶね」(海人小舟・蜑小舟)は「泊瀬(はつせ)」に掛かる枕詞である。]

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