フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013/05/31

明恵上人夢記 17

この私の解釈――解釈している自分に何だかエクスタシーを感じたことを告白しておく――



17
 元久二年 神護寺槇尾に於いて、寶樓閣法を修して、佛頂(ぶつちやう)を讀す。
一、十月十一日、道場より出でて、初夜の時の後に學文等畢んぬ。丑の尅(こく)許り、熟眠す。夢に云はく、此の住房に小兒五六人許りを置けり。然るに、四五人許り學問處に在り。今一人、持佛堂之方より足音來(く)。障子を引き開き、宿物(よるのもの)を引き擧げ、中に入りて臥す。生絹の如くなる物を著たり。我が心に淸涼の心地す。覺めて後、又悦喜太(はなは)だ深しと云々。

[やぶちゃん注:「元久二年」西暦一二〇五年。明恵満三二歳。この年の初めに明恵は再度の天竺渡航計画を断念している。底本注に、ここより「41夢」までは、『「明恵上人夢の記〔九紙〕」と外題ある一冊』とある。
「槇尾」三尾(北へ向かって高雄(高尾)・槇尾・栂尾)の一。現在は高雄の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺として知られる。それぞれが京都屈指の紅葉名所でもある。
「寶樓閣法」宝楼閣経法。諸尊が住む楼閣を讃え、その陀羅尼の功徳を説いた唐の不空訳になる「宝楼閣経」(ほうろうかくきょう。正式には「大宝広博楼閣善住秘密陀羅尼経」という)三巻に拠って滅罪・息災・増益などを祈る修法をいう(中経出版「世界宗教用語大事典」に拠った)。底本注に、『釈迦如来のいる楼閣を中央に描いた曼陀羅を掛けて行う』とある。
「佛頂」大仏頂陀羅尼。底本注に、『仏頂呪。楞厳経の中の大仏頂の悟りの徳を説いた陀羅尼』とある。「楞厳経」は「りょうごんきょう」と読み、大乗仏典の一つ(正式には「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経」という)唐の則天武后の時代(六九〇年~七〇四年)にインド僧が口訳したものを流謫中の宰相房融が筆録したとされる。早くより偽経の疑いがあり、現在は、当時の新興勢力であった禅や菩薩戒・密教の教義を仏説の権威を借りて総合的に主張しようとしたものとされている。「楞厳」とはクマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の「首楞厳三昧経」と同様、「堅固な三昧」の意である(「楞厳経」については平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
「初夜の時」この場合は六時の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行。
「丑の尅」午前二時頃。]

■やぶちゃん現代語訳

17
 元久二年。神護寺の槇尾に於いて、宝楼閣法を修して、大仏頂陀羅尼を読み上げる。
一、十月十一日、その日の修法を終えて道場より出でて、いつも通りの初夜の勤行をなし終えた後、少し必要があった調べ物などをもし終え、丑の刻頃になって、やっと就寝した。その時の夢。
「現在の私の住房に、童子を五人か六人か、養っているのである。
 その内の四、五人は学問所で修学に励んでいる。
 ところが、その欠けている今一人の童子が、丁度、その時、持仏堂の方より走って来る気配がするのである。
――とんとんとんとん――
と、廊下を軽やかに走って来る足音が聞こえてくる。
……と……
――さっ
と、部屋の障子を引き開いたかと思うと、
――ぱっ
と、夜着を引き挙げたかと見るや、
――くるん
と褥(しとね)の中にすっかり包(くる)み入って臥した。
 その童子は如何にも柔らかく美しい生絹のようなる物を着ていたのだけが分かった。
 その顔貌(かおかたち)も、いや、姿さえも――実はよう、見えなんだ。
 しかし、その童子が部屋に入って夜具に入るまでのその刹那――我らが心は、えも言われぬ清々しい心地に満ち満ちたのであった。」
 目覚めた後も、またずっと、その喜悦が、とても深く、持続していたのが実に印象的であった。

[やぶちゃん注:その日の昼間の修法でやったことを簡潔ながらも具体的に記して、就寝に至るまでの仔細を記載していること、覚醒後も非常に強くその論理的な因果関係の不明な摩訶不思議な法悦のエクスタシーが持続したことを特に注記している点でかなり特異点にある夢である。宝楼閣法、大仏頂陀羅尼そして明恵が初夜の行法の後にした何かの調べ物――それらが総てこの夢と関連付けられている(と明恵は思っている)と考えて差し支えあるまい。
 また、その一少年が教学を学んでいる残りの少年たちのいる学問所(教学という理学)からではなく、持仏堂(仏法の真相)から明恵のいるところへと確かな足取りで速やかにやって来るというのも何か如何にもという設定である……待て?……そもそもこの時実は明恵はどこに「居る」のであろう?……私は実は、明恵はその障子のある部屋で横臥しているのではないのか、と思うのである。……即ち、この少年は今、まさにその明恵の褥に鮮やかに同衾しているのではなかろうか?……この少年の顔貌が語られぬにも拘わらず、最後に「生絹の如くなる物を著たり」と描写出来るのは、実は子宮の中の胎児のように褥の中にすっぽりとくるまった少年を、同じくそこにくるまっている少年の双子の胎児の如き明恵が、目と鼻の先で見ているからではないか?……いや! かく表現し得る場所はそこしかないんではないか?!……そしてその着衣は胞衣(えな)のような(!)「生絹の如くなる物」なのである!……ああ!……これはまるで……“2001: A Space Odyssey”のあの衝撃のラスト・シーンではないか!!……]

栂尾明恵上人伝記 32

 或る時上人語りて云はく、今夜夢に予一の世界に往生せり。其の世界の衆生悉く七寶莊嚴(しつぱうしやうごん)の瓔珞(やうらく)奇麗殊妙(きれいしゆめう)なるを以て、其身を莊嚴せり。然るに此を見れば、我が前世に書きて諸人に施與(せよ)せし所の三寶なり。此の國の衆生、前世に皆三寶を持し奉りしに依つて、今併(しかしなが)ら三寶の瓔珞を莊(かざ)りて、其の形うつくしと思ひて、不思議の思ひに住(ぢゆう)して覺(さ)めぬと云々。
[やぶちゃん注:夢記述である。それも明恵はここで別な世界に生まれ変わっている。しかもその世界の人々の、この上もなく美しいその装身具の瓔珞は、なんと、明恵がこの現世で多くの民草に書き与えた三宝で出来ていた、というのである。ここでは少しも明恵は奢っていない。これは殊更に明恵自身の神聖性を称揚する逸話というよりは、寧ろ、こうした夢を誇ることなく、三宝の絶対の功徳の神聖性に感動したことを素直に語っている明恵自身の、確信に満ちた「あるべきようは」=ゾルレンへの信仰告白であると私には思えるのである。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 6 秋の鎌倉

     想思出(おもひで)多き秋の鎌倉

 「行く秋やさてさて人を泣かせたり」、「もの言へば唇寒し秋の風」などゝ、古人が詠んだ通りに、兎角秋は悲哀のものである。殊に疎雨蕭々として四隣寂(せき)たるの時、微かに椽下に切れ切れの蟲聲を耳にするの夜半に至りては、眞に愁(うれひ)を起し此秋獨り吾身に迫るなるかなと幾多の感想に打たるゝのである。然れども雲收まりて月明かの夕、波穩かなる海邊に逍遙せんか、微風波を起して金龍走るの絶景言わん方ないのである。秋は詩的である。高潔である。悲哀的である。又浩然の氣を養ふべき好期である。此時鎌倉に杖を曳く者は如何に多くの追想に驅らるゝのであらうか。秋の鎌倉は實に思出多き鎌倉である。

[やぶちゃん注:見出しの「想思出」はママ。冒頭二句の太字は底本では傍点「ヽ」。

「行く秋やさてさて人を泣かせたり」は、蕉門十哲の一人越智越人の句と思われるが、ネット検索で掛かるものでは「行く秋のさてさて人を泣かせたり」と初句のてにをはが異なる。]

 長空一碧秋天拭ふが如きの時一度び杖を鎌倉に曳き、往時の舊蹟古趾を探るものこそ眞の鎌倉を知る人である。

 鎌倉停車場に下車して鶴ケ岡八幡に歩を進め二の鳥居前を右折し、それより左折日蓮上人辻説法の趾を過ぎて二丁餘進めば玆處(ここ)は往時北條義時以後執權の屋敷跡である。今は寶戒寺境内となつて居る。寺内に入りて滑川を捗れば富士に似たる小山がある。其右に連れる山が屏風山と云ふのである。此富士に似たる山は小富士山と稱してある。此邊は往昔右府賴朝公の邸の庭前になつて居たので政子の請に依り此山にて富士の牧狩りの再演をしたと云ふ事である。又寶戒寺の南隣は土佐坊昌俊の屋敷趾であるのだ。又小富士山の南屏風山の稍々凹み居る谷合がある。之れ即ち葛西ケ谷にして俗に腹切坂と云ひ、元弘三年五月新田義貞が北條高時を攻めんとて稻村ケ崎に金裝の刀を投じて、潮を退け鎌倉に攻め入つた時、北條一族が此やぐらの内にて切腹した舊跡で、今や蟲の音淸く露荒れて幽魂を吊ふ客もなきこそ哀なれ。それより雪の下大倉に至れば師範學校の東方に畑地がある。治承四年十二月右府賴朝玆に居住せしより賴家、實朝、賴經等四代の將軍の邸趾である。

[やぶちゃん注:「日蓮上人辻説法の趾」これは当時としては極めて新しい史跡であったことを確認しておきたい。「花の鎌倉」で注した如く扇ヶ谷亀ヶ谷坂に別荘を構えていた田中智学は、日蓮腰掛石と称するものが小町大路(現在の「小町通り」ではなく、若宮大路を隔てた「小町通り」の対称位置にある大路の正式古名)の路傍に捨て置かれているのを見るに忍びず(この石は同大路にあった日蓮宗妙勝寺の門前にあったが同寺が福島県に移転して以後、放置されていた)、これを日蓮宗布教の布石ともせんと旧跡地の同定を行い、結果としては現在の蛭子神社から正覚寺夷堂附近と推測された。但し、その辺りには碑跡を建立する余地がなかったため、現在地に明治三四(一九〇一)年(本書の出る十一年前)に腰掛石を安置して顕彰したものである。無論、実際には日蓮の辻説法地は固定していたわけではないが、当時、町屋が多くあって賑わい、商業地域としても発展していた小町大路を布教活動の要衝としたことは事実と考えてよく、それもあってか、この大路周辺には日蓮宗寺院が現在も密集している。

「牧狩り」は厳密には「卷狩り」が正しい。

「腹切坂」これは現在ではあまり聞かれない呼称で興味深い。]

 鶴ケ岡八幡の左り建長寺に至る街道に漸次上り坂となる。巨福坂(こふくざか)及び其左りの假粧(けはい)坂はこれで、正平六年新田義興・脇谷義治鎌倉に攻め入らんとしたる新田・足利の攻守趾である。如何に多くの將士が白骨となつて埋もれ居るかと思へば凄然たらざるを得ない。また、扇ケ谷壽福寺境内に入りて彼の末松謙澄子別莊の附近は永承年間より源賴義・義家等の邸があつたのである。更に雪の下八幡前を由比ケ濱に進む。一の鳥居附近は由比ケ濱沿岸に渉り建曆年間和田氏と北條氏とが血戰した古戰場である。

[やぶちゃん注:「巨福坂(こふくざか)」表記ルビともにママ。

「正平六年新田義興・脇谷義治鎌倉に攻め入らんとした」これは正平七(一三五二)年の誤り。同年閏二月に足利幕府と南朝の講和が破れ、新田義貞の三男義宗とその次兄義興及び義貞の甥脇屋義治が後醍醐天皇皇子宗良親王を奉じ、さらに北条高時次男時行も加えて上野(こうずけ)で南朝軍として挙兵、同十八日に鎌倉を攻略し、足利尊氏を一時、武蔵国狩野川(現在の横浜市)へ敗走させた際のことを指している(但し、じきに巻き返した尊氏は一ヶ月後の同年三月十二日は鎌倉を奪還している)。

「末松謙澄子」末松謙澄(すえまつけんちょう 安政二(一八五五)年~大正九(一九二〇)年)子爵。衆議院議員・逓信大臣・内務大臣などを歴任。帝国学士院会員。]

 極樂寺坂に到れば玆處は新田義貞の家臣大館又次郎宗民主從が北條氏と血戰して討死した凄慘の舊趾である。今尚ほ此邊を發掘すれば五輪塔や多くの白骨古錢等が續々として掘り出されるのである。之れより南すれば元弘三年新田義貞北條氏を攻めんとし此地に入りたるも、陸は要塞峻嚴にして入るを得ず海神に祈り金裝の刀を投じて、干潮を見たるより大擧一陣府中に火を放ちて攻め入り遂に高時を逐ふて滅亡の偉勳を奏した古戰場の稻村ケ崎に出るのである。七里ケ濱は寶德三年四月の交足利成氏上杉憲定と大戰した古戰場である。幾多寶刀は折れて砂底に埋められ、白骨又黄土と化して乙女摘むすみれと化せしが、今尚海濱砂中より時々刀劍の折れを發見するのである。

[やぶちゃん注:どうも作者大橋氏は記年の誤りが多い。「寶德三年四月の交足利成氏上杉憲定と大戰した」の「交」は何と読んでいるのか分からないが(これ、もしかするとかつてあった地図記号の「古戦場」の類か?)、これは宝徳二(一四五〇)年四月の江の島合戦の誤りである。これは山内上杉家家宰長尾景仲及び景仲の婿扇谷上杉家家宰太田資清が成氏を襲撃、成氏は鎌倉から江の島に避難してことなきを得るという内紛であるが、その間、腰越から由比の浦(七里ヶ浜と由比ヶ浜)に於いて烈しい交戦が行われた。]

 七里ケ濱を過ぎて腰越に至れば滿福寺がある。源義經の鎌倉に入らんとするや右府賴朝の怒に觸れて入る事を許されなかつたのだ。即ち義經が此地に滯在して辨慶に草さした陳情書の腰越狀が此寺に保存してある。當時義經の心中や如何に多くの感慨に打たれたであらうか。兎に角鎌倉は到る處因緣の舊趾に充たされて居る。

  押立てゝ早や散る笹の色紙かな      鳴 雪

[やぶちゃん注:内藤鳴雪(弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)。当時、鳴雪はまだ存命していた点、筆者の「左狂」という筆名、越智越人の引用句がそれほど知られた句でない点、ここで特異的に発句・俳句を引用し、傍点まで施していることなどを考えると、この大橋左狂という人物、相当に俳句を好んだ人物と考えてよかろう。]

叙情小曲 萩原朔太郎

 叙情小曲

きみがやえばのうす情け
ほのかににほふたそがれに
遠海(とほみ)の松を光らしめ
遠海(とほみ)の櫻を光らしめ
浪は浪浪きみがかたへと。

[やぶちゃん注:『遍路』第一年第六号・大正四(一九一五)年六月号に掲載された。底本第三巻「拾遺詩篇」より。校訂本文では「叙」を「敍」、「やえば」を「やへば」、「遠海」を「遠見」に『補正』している。]

無言の顏 大手拓次 + 同詩自筆画像

 無言の顏

ちからをまきおこすともしびの裸形(らげふ)のかげに
ひとり想念のいただきにたふれふす。
永遠をあゆむ無言の顏。

[やぶちゃん注:当該詩は「178」頁で以下、ハトロン紙を挟んで末尾の「目次」で『筆蹟(グラブア版)・大手拓次筆』とある本詩(題名はなし)の自筆画像が入る(頁としては数えられておらず次の「毛がはえる」は左頁で「179」とノンブルが振られる)。以下に示す。拓次の筆跡は一見、優しい柔らかで優しい、少し可愛い嫋やかささえ感じさせる筆遣いで、私は非常に好きである。]

Img042

鬼城句集 夏之部 旱

旱     山畑に巾着茄子の旱かな



以上を以って「夏之部 天文」が終わる。

「電子テキスト情報」アーカイヴを見て仰天!

どういう方かはよく分からないが、ネット上の電子テクスト・サイトをアップ・トゥ・デイトに収集しておられる(この手の収集サイトの大半は実際には数十年から更新されていないものが大半で利用価値が存外低いものが大半である。また、このサイトのように頻繁に更新するためには検索と更新確認に恐るべき時間を必要する難儀な仕事である)

「電子テキスト情報」

を昨日発見した。2/3程度は概ね僕もチェックしているサイトで(僕も電子テキストサイトの検索蒐集では、一応、人後に落ちない自負はある。読めもしない癖にと言われそうな中国古典籍からカラマーゾフのロシア語原文まで9年で蒐集した資料は既に100GBを超えている)、古いものには消失しているものもあるが、非常によく収集がなされている。アーカイヴから見ても、この困難な作業を日常的になさっておられるようで頭が下がる。僕の知らなかった、特に海外サイトの随筆大成のPDF完全版など、「ほんまに手に入るんかいな?」と疑ったほど、信じ難い凄いものが入手出来ることに驚愕したサイトもある。

これは現在望み得る、最も新しい優れた電子テキスト情報サイトといってよい。フィールド購読をお薦めするものである。

……と……見ていくと……名立たる知られた内外の電子テクスト・サイトの中に……ありゃ?……「やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」……「鬼火」……「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版新版)」……あちゃあ!――有り難やぁ!!!

2013/05/30

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法  一 雌雄異體

   一 雌雄異體

 雌雄異體とは個體に二種の區別があつて、一方は雄一方は雌である場合をいふ。普通に人の知つて居る動物は殆ど皆かやうになつて居る。人間を始め獸類・鳥類は素より蛇・「とかげ」・龜・蛙及び魚類に至るまで脊椎動物は悉く雌雄異體である。また日常人の目に觸れる昆蟲類・「えび」・「かに」の類なども雌雄は必ず別である。それ故、雌雄異體は動物の通性の如くに思はれ、わざわざこれを論ずる必要がないかの如くにも感ぜられるが、生物には雌雄の別のないものも少くないから、それらに比べて雌雄異體の動物にのみ特に具はつて居る性質に就いて考へて見よう。
 個體に雌雄の別があつて、その間に生殖の行はれる動物の中にもさまざまのものがある。「からす」や「さぎ」の如くに一見しては雌雄の別のわからぬものもあれば、鹿や鷄の如くに遠くからでも雌雄の區別の判然と知れるものもある。犬や龜の如くに交尾して暫時離れぬものもあれば、「うに」・「なまこ」などの如くに雌雄相觸れずして生殖するものもある。これらの相違及びその生じた原因に就いては後の章に述べることとしてここには略するが、雌雄異體の動物にはかやうに相異なる性質の外に全部に通じた肝要な點がある。それは即ち雌性の個體は卵細胞を生じ、雄性の個體は精蟲を生ずることであつて、この一事に關しては決して例外はない。卵細胞を生ずる個體ならば如何なる形狀を呈し、如何なる性質を具へて居てもこれは雌であつて、精蟲を生ずる個體ならば如何なる形狀を呈し、如何なる性質を具へて居てもこれは雄である。雌雄異體の動物が生殖する際には、雌の身體から離れた卵細胞と雄の身體から離れた精蟲とが一個づつ相合して、新たなる一個體の基礎を造る。そして雌雄の身體・性質等に相違のある場合には、これは皆卵細胞と精蟲とを相出遇はしめるため、また新たに生じた個體を保護し養ふためのものである。雌雄兩性による生殖は、種々の生殖法の中で最も進んだ最も複雜なものであるが、雌雄の間に著しい相違のある種類では、更に一層働が複雜になつて居るから、たゞこれだけを見ると頗る不思議に思はれ、何か神祕的の事情が含まれてあるかの如くにも感ぜられる。しかしこれを他の簡單な生殖法に比べて見ると、初めてその理窟が稍々明瞭になつて來る。その有樣は恰も人間だけを調べたのでは人間とは如何なるものであるかが到底わからぬが、他の下等動物と比較して見ると、その素性が明らかに知れるのと同じである。
 卵細胞を生ずる器官は卵巣であって、精蟲を造る器官は睾丸であるから、雌とは卵巣を有する個體、雄とは睾丸を具へた個體というて差支はない。一方に卵巣を一方は睾丸を具へて居るといふ外に何の相違もない雌雄は、外見上には少しも區別が出來ぬ。「うに」や「なまこ」はこの類に屬する。しかし雄の身體から離れた精蟲を確實に卵細胞まで達せしめるには、これを雌の身體の内へ移し入れるのがもっとも有功である。そして、雄が精蟲を雌の體内へ移し入れる器官は交接器であるが、これを具へた動物になると、如何に雌雄の形狀が相似て居てもその部さへ見れば容易に區別することが出來る。犬・猫などはこの程度にある。
 なお雌雄異體の動物には、雌雄によつて體形の非常に相違するものがあり、中には雄と雌とが同一種の動物とは思はれぬ程のものもあるが、これらに就いては更に後の章に詳しく述べるからこゝには略する。
 とにかく、雌雄異體の生殖は、すべての生殖法の中でも最も進んだもので、それだけ他に勝つた利益はあるに違ないが、物には必ず損と得とがあるもので、雌雄異體の生殖にもまた多少不利益な點がないでもない。例へばこの類に屬する動物では、一疋づつ離して置けば全く棲息が出來ぬ。假に一疋の雌鼠が鼠の一疋も居ない離れ島へ漂著したと想像するに、もしその後他の鼠が漂流して來なかつたならばい一代限りで絶てしまふ。また偶然第二囘の漂著者があつたとしても、もしこれが同じく雌であつたならば、二疋寄つても子を遺すことは出來ぬ。雌と雌とが出遇うても、雄と雄とが出遇うても子を産むことが出來ぬから、雌雄異體の動物では、二疋の個體が偶然相出遇うたときに子を産む機會は五割により當らぬ。それ故、新領土に種族を節分布するに當つては、雌雄の別のあることは餘程の損になる。尤も同種類の個體が多數に近邊に居る場合にはかやうな不都合は無論起らぬ。

栂尾明恵上人伝記 31 雨乞成功と民草の見た霊夢

 上人紀州に栖み給ひける夏、八十餘日に及ぶまで大旱魃(だいかんばつ)しけり。國々村々の田畠悉く燒け枯れて、萬民の歎き斜ならず。爰に上人哀しみに堪へずして、試みに大佛頂(だいぶつちやう)の法を修し給ふ。手づから自(みづか)ら二龍を圖して、一龍をば加持して海中に入れ、一龍をば壇上に安んじて祈誓を致し給ふ。二龍の銘に毘盧舍那(びるしやな)の大龍王と書き付け給ふ。是は毘盧舍那の一解脱の主たる大龍を請ずるに依つてなり。此の法三日を期限とし給ふ。其の間同法兩三をして、別譯の華嚴世主妙嚴品(けごんせしゆめうごんぼん)を轉讀せしむ。亦彼の法に依つて水を加持して、高山の峰に登りて是を灑(そゝ)ぎ給ふに、第三日の未の刻に至りて、雲一片彼の神谷(かみだに)の山寺の上に靉靆(たなびき)て、程なく大虛(おほぞら)に遍滿して、霹靂轟き、大雨降ること三日なり。萬民悦び合ふ事限り無し。其の近隣の里人多く夢に見けるは、上人の草菴の上より二龍空に登りて、一龍は水を天に灑ぎ、一龍は洪水を止め、田地を損ぜじとし給ふと見る由、申合ひにけり。此の二龍の圖加持の事、御弟子一兩輩の外更に知る人なし。各披露に及ばず。然るに此の如き夢想奇異不思議の事なり。
[やぶちゃん注:これはすこぶる興味深い。ここでのき夢記述は民が共時的に見た霊夢なのである。なお、「是は毘盧舍那の一解脱の主たる大龍を」の「る」は底本では植字ミスによって空欄になっているのを諸本で補った。]

 建暦二年〔壬申〕、摧邪輪(ざいじやりん)三卷之を作る。

 同三年〔癸酉〕六月莊嚴記(しやうごんき)一卷之を作る。

 建保三年〔甲戌〕三寶禮釋(さんばうらいしやく)一卷之を撰ぶ。又同(おなじく)功德義(くどくぎ)之を抄す。

 又同年、華嚴經十廻向の中に、菩薩五臟の中の心の臟をさきて衆生に施與(せよ)するとて、二十種の菩提心を列せり。其の中の四種の菩提心を左右に書きて能求(のうぐ)の心として、上に横に三寶の梵號(ぼんがう)を書きて本尊とす。必ず生々世々普賢大菩提心の行者として、三寶の値遇を遂げんが爲なり。委しくは三寶禮釋竝に功德義等に之を載せらる。尋ね見るべし。

仙人掌開花

20130530155638
20130530155724
20130530155809
20130530155838_2

耳嚢 巻之七 鱣魚は眼氣の良藥なる事

 鱣魚は眼氣の良藥なる事

 

 宝曆の初(はじめ)、日本左衞門といへる強盜ありて、其節の盜賊改(たうぞくあらため)德山五兵衞方へ被召捕(めしとらへられ)御仕置に成りし。右吟味の節、同組與力何某、日本左衞門闇夜にも物を見(みる)事顯然たる由を聞(きき)、吟味處(ぎんみどころ)の燈を消して闇(くら)くなし日本左衞門を引出し、右吟味所に有之(これある)手鎖捕繩等の數を尋(たづね)しに、聊(いささか)相違無(なく)答へけれど、右は晝見置(みおき)候哉(や)の疑ひある故、其邊に有合(ありあふ)訴書(うつたへがき)を渡し讀(よむ)由好(この)みければ、燈火にて讀(よむ)程にはなけれ共、無滯讀(とどこほりなくよみ)ける故、何ぞ藥等有(あり)て眼精如斯哉(かくのごとしや)と尋(たづね)しに、若手の頭人の教(をしへ)けるは、うなぎを澤(たく)さんに食すれば眼精格別と語(かたる)。其喰(くひ)しやふは、縱令(たとへ)ば朔日(ついたち)より八日迄日々うなぎを澤山に喰(くひ)、夫よりは斷(たち)もの同樣に一向不喰(くはず)、最初先(まづ)佛神えなり共(とも)祈誓して斷物(たちもの)にして、扨(さて)七日程喰(しよく)するよし。尤(もつとも)、鱣(うなぎ)の首の處は不給(たべず)、首より五分(ぶ)程の間(あひだ)、肝のある所を捨(すて)、尾先は末の所迄給(たべ)候由。鱣の肝は目の藥抔といへど、大き成(なる)そら事にて、尾先はすべて精身(せいしん)の集(あつま)る所故、尾先へは隨分肉を不殘喰(のこらずしよく)するよし申(まうし)けるを、彼(かの)與力聞(きき)て、右にならひうなぎを不絶(たえず)食しけるに、眼氣人よりはよかりしと、其子孫のかたりしと也。谷何某(たになにがし)物語也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間習俗ながら天下の大盗賊の首魁日本左衛門の実録物とカップリングされた話柄は、なかなかに面白い。

・「鱣魚」鰻。目によいとされるビタミンAを多量に持っていることは事実である。但し、老婆心ながら申し上げておくと、ビタミンAは過剰摂取すると下痢などの食中毒様症状から倦怠感や全身の皮膚剥離などの重篤な皮膚障害などを引き起こし、また多量の体内蓄積は催奇形性リスクが非常に高くなるとされる。ビタミンというとまさに「鱣の社」に仕立て上げてしまう向きはご注意あれ。

・「宝曆」西暦一七五一年から一七六三年。「初」とあるから、日本左衛門が本格的に大盗賊として知れ渡ったのは三十代前半であったことが知れる。

・「日本左衞門」(にっぽんざえもん 享保四(一七一九)年~延享四(一七四七)年)は本名浜島庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左衞門」を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『一七四七年一月七日に京都で自首し、同年三月十一日(十四日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで十四件、二千六百二十二両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、一八〇センチメートル近い長身の精悍な美丈夫で、顔に五センチメートルほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』とある。「耳嚢 巻之一」の「武邊手段の事」には、その子分の捕縛時の逸話が記されてある。

・「盜賊改」火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、江戸時代に主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職。本来、臨時の役職で幕府常備軍である御先手組頭、持組頭などから選ばれた。明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を寛文五(一六六五)年に設置。その後「火付改」を天和三(一六八三)年に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかったこと、また、捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの出来る現代でいうところの警察軍として設置されたものである。決められた役所はなく、先手組頭などの役宅を臨時の役所として利用した。任命された先手組の組織(与力五~一〇騎・同心三〇~五〇人)がそのまま使われたが、取り締まりに熟練した者は、火付盗賊改方頭が代わってもそのまま同職に残ることもあった。町奉行所と同じように目明しも使った。天明七(一七八七)年から寛政七(一七九五)年まで長官を務めや長谷川宣以(のぶため)が池波正太郎「鬼平犯科帳」で有名。但し、火付盗賊改方は窃盗・強盗・放火などにおける捜査権こそ持つものの、裁判権は殆んど認められておらず、敲(たた)き刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。火付盗賊改方は番方であるが故に取り締まりは乱暴になる傾向があり、町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦無く検挙することが認められていたことから、苛烈な取り締まりによる誤認逮捕等の冤罪も多かった。市井の人々は町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼び、一方の捜査機関たる町奉行所役人からも嫌われていた記録が見られ、こうした弊害を受けて元禄一二(一六九九)年には盗賊改と火付改は一度廃止されて三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)の管轄となったが、元禄赤穂事件があった元禄一五(一七〇二)年に盗賊改が復活、博打改が新たに登場、さらに翌年には火付改も復活した。享保三(一七一八)年には盗賊改と火付改は「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役となり、文久二(一八六二)年になると、先手頭兼任からも独立して加役から専任制になった(博打改は火付盗賊改ができた年に町奉行配下に移管)。以上はウィキの「火付盗賊改方」に拠った。

・「德山五兵衞」底本鈴木氏注に、『秀栄(ヒデイヘ)。享保九年本所火事場見廻、十八年御使番、布衣を許さる。延享元年御先鉄砲組頭、三年盗賊火付改、宝暦四年西城御持筒組頭、七年没、六十八。日本左衛門こと浜島庄兵衛が召捕となり、遠州見付で処刑されたのは延享四年三月であった』とある。

・「若手の頭人の教けるは」の「若手」には底本には右に『(ママ)』表記する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『若年の頃人の教(おしえ)しは』で、すんなり読める。この部分はこのバークレー校版で訳した。

・「不給(たべず)」は底本のルビ。

・「五分」約一センチ五ミリメートル。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鰻は視力の良薬であるという事

 

 宝暦の初め、日本左衞門(にっぽんざえもん)という知られた強盜がおり、その当時の火付盗賊改方徳山五兵衛殿に召し捕えられて御仕置と相い成った。

 その吟味の折り、同組与力の何某(なにがし)、

――日本左衛門は闇夜にてもはっきりと物を見ることが出来る

由を聞き、その日、夜間の訊問の折りから、吟味所(ぎんみどころ)の燈(ひ)をわざと消して暗くしておき、日本左衛門を引き出ださせると、吟味所の壁に掛けてある手鎖(てぐざり)や捕繩(とりなわ)なんどの数を訊いてみたところが、いささかの相違もなく正確に答えた。

 しかし、その与力、

「……うむ。しかしこれは……昼になした吟味の際、たまたま見覚えておったものでないとも限らぬ――」

と申した。

 すると日本左衛門は、

「――ではお近くにあるやに見えまするところの、その、訴状と思しい類いのもの――これ、どれでも一つ、お渡し下されい。――この場にてお読み申そうず……」

と言うたによって、与力は、訴状の中(うち)より、彼に読ませても問題のないものを選び出し、日本左衛門の前に差し出した。

 すると、彼は――燈火(ともしび)を照らして読むほどに流暢ではなかったものの――その一字一句を、これ、滞りのう、読み終えて御座った。

 されば、与力、

「……お主は、何ぞ、目に良き薬などを以って、その視力を養って参ったものか?」

と訊ねたところ、日本左衛門曰はく、

「……我ら、若き頃、さる人の教え呉れたことには、鰻をさわに食すれば、眼精(がんせい)は格別とのことで御座った。……我ら、それを守って御座ったとは申そうず。……その食い方と申さば、そうさ――例えば、月の朔日(ついたち)より八日までは、鰻をさわに食う――がしかし、その明けた九日よりは、逆に、断ち物同様、一切これを食わずにおくので御座る。少し具体に申さば――九日目の最初に、まず、何ぞ神仏へなりとも、これより鰻を断つ旨の祈誓を致いて、さても、それから七日ほどは一切、鰻を除いたものを食するので御座る。……もっとも、鰻の首の所は決して食い申さぬ。……そうさ、首より五分(ぶ)ほどの間にあるところの――俗に「肝」と申す――あそこは捨てて、尾先の方(かた)は末の末の部分まで、これ、綺麗に食べて御座る。……さても「鰻の肝」と申すを目の薬なんどと世間にては申しまするが……これは大いなる誤りにて――寧ろ、尾の先までは、これすべて、鰻の精気の凝り固まって御座るところなればこそ――尾先の方までは、随分、丁寧に、肉を残らず食うて御座った。……」

と申した由。

 その与力、これを聴いて――謂わば、日本左衛門の遺言のしきたりに倣って、鰻を絶えず食しては断ち、食しては断ちを繰り返してみたところが、人よりは眼が遙かにようなった――とは、その与力の子孫の者の語って御座った由。

 我らが知れる谷何某(なにがし)殿の物語りで御座った。

大橋左狂「現在の鎌倉」 5 海水浴場

     海水浴場

 

 鎌倉の海水浴場と云へば海岸到る處皆海水浴場となるのである。即ち材木座の由比ケ濱海岸より長汀曲浦淸砂を辿りて長谷、坂の下、片瀨、鵠沼に至る海岸は悉く海水浴に適して居る。只七里ケ濱の峯ケ原附近は稍々危險だそうだ。夏期避暑客の續々と押し寄せて來る七、八月の頃は此一帶の海岸に數十の私設海水浴場が設けられる。別莊客は箇人專用の海水浴場を設ける。海岸は見渡す限り萱津(よしづ)に包まれた脱衣場が軒を並べて隙がないと言ても良い程である。此外に鎌倉町から避暑客の便利を圖つて町費にて設けられた公開海水浴場がある。此れは明治四十三年から初めて設けられたのである。江の島長橋の手前片瀨の東濱にも川口村公設の海水浴場がある。

[やぶちゃん注:江ノ電鎌倉高校前駅と七里ケ浜駅の間にある峰ヶ原信号場(退避線有)附近。かつてこの付近には旧七里ヶ浜駅が置かれており、現在の七里ヶ浜駅は戦中に旧駅が廃駅となった後、昭和二六(一九五一)年に行合駅を改称、更に旧七里ヶ浜駅と行合駅(現在の七里ヶ浜駅)間には峰ヶ原駅が、日坂駅(現在の鎌倉高校前駅)と旧七里ヶ浜駅間には谷沢駅が存在した(かつての駅の並び〈日坂―谷沢―七里ヶ浜―峰ヶ原―行合(当初の駅名は田辺)〉/現在の駅等の並び〈鎌倉高校前―(峰ヶ原信号所)―七里ヶ浜〉。以上はウィキ峰ヶ原信号場に拠った)。この峰ヶ原は古記録に出る金洗沢で、「新編鎌倉志卷之六」に、

〇金洗澤 金洗澤(かねあらひざは)は、七里濵の内、行合川(ゆきあひがは)の西の方なり。此所ろにて昔し金を掘りたる故に名く。【東鑑】に、養和二年四月、賴朝、腰越(こしごへ)に出で、江島に赴き還り給ふ時、金洗澤の邊にて牛追物(うしをふもの)ありと有。又元年六月六日、炎旱渉旬(炎旱(えんかん)旬を渉(はた)る)。仍て今日雨を祈ん爲に、靈所七瀨の御祓(はらへ)を行ふ。由比濱(ゆひのはま)・金洗澤(かねあらひざは)・固瀨河(かたせがは)・六連(むつら)・柚河(ゆのかは)・杜戸(もりと)・江島龍穴(えのしまのりうけつ)とあり。

と記す。「金洗」とは、恐らくは稲村ヶ崎から七里ヶ浜一帯で採取される砂鉄の精錬を行った場所と考えられている。

「川口村」現在の藤沢市片瀬地区、旧片瀬町(まち)の前身。明治二二(一八八九)年に町村制施行により片瀬村と江島村が合併して川口村となり、明治三五(一九〇二)年九月に江之島電氣鐵道(現在の江ノ島電鉄線)の新屋敷・西方(現在の湘南海岸公園駅)・浜須賀・山本橋及び片瀬(現在の江ノ島駅)の各停留所が、同三六(一九〇三)年六月には龍ノ口及び中原停留所が開業している。昭和八(一九三三)年に町制施行で片瀬町となり、昭和二二(一九四七)年四月一日を以って藤沢市へ編入合併された(以上はウィキ片瀬町に拠った。]

 鎌倉の海水浴場は毎年七月二十日より九月七日迄の間開設してある。場所は由比ケ濱、極樂寺、坂の下、材木座海岸の四ケ所である。各所には間口七間奧行三間の更衣所が建設されて内部は男女の區別が嚴然としてある。又救護用として繃帶材料、アンモニヤ、其他應急上必要の藥品は全部各更衣所に備付けてある。何時何人(いつなんぴと)でも必要あれば使用しても差支ないのである。公衆の隨意使用を許してあるのは便利である。浴場の海上には絶へず三隻の救護船を浮べて浴客の危險なき樣にと見張らしめてある。由井ケ濱浴場の中央に公設海水浴場事務所を設けて毎日時間中は警察官町役場吏員が交代に出張して諸般の事務や萬一の警戒に怠りない。赤い饅頭笠を冠つた掃除夫は間斷なく海岸砂上を淸潔にして居る。中央事務所の番人は絶へず各浴場と連絡して信號を爲して危險を豫防して居る。周強く波荒くならんとするときには水浴を禁ずる爲め各浴場とも赤旗を樹てゝ信號する。波穩かに水浴適當に復したときは靑旗を掲げて信號する。毎日の水浴時間午前は七時より十一時まで、午後は二時より六時迄と制限されてある。此時間外にても水浴は出來るとは言へ救護船も引上げ監視員も退場するから甚だ危險である。公設水浴場には各所毎に眞水井を据つてあつて浴後の淸拭(きよふき)に用意されてある。川口村片瀨の水浴場も東濱に十數箇建てられてあるが、其設備は鎌倉の浴場と差異はない。

[やぶちゃん注:当時の海水浴場が我々の想像するよりも遙かに近代化されており、保安救護体制も完備していたことが分かる。僕らはこの映像の中に「こゝろ」の「私」と「先生」を配さねばならなかったのだ。僕らはもっと田舎染みた映像を想定してはいなかっただろうか?

「間口七間奧行三間」間口約一二・七メートル、奥行約五・五メートル。]

 此外海水浴場として毎年此期節の休暇日を見計らつて、近衞師團や第一師團の軍隊が此の鎌倉迄水浴に來る。短かきは一週日間長きも三週間位の豫定である。軍隊の水浴場は大概由井ケ濱海岸を選定せられる。由井ケ濱の小學校、材木座の光明寺等は常に此水浴軍人の宿泊所と定められる。陸軍幼年學校生徒も毎年此鎌倉に來て、材木座の光明寺に宿泊するものは其山門前の由比ケ濱にて、又片瀬學習院の寄宿舍に宿泊する生徒は片瀨の濱にて水泳の練習をする。而して各級の修了期には、江の島一圓やら由井ケ濱江の島間等の壯烈なる遠泳を試みるのである。數百の健兒が激浪に押しつ押されつ或は丈餘の浪に碎けて、隊伍を散づると思へば又寄せ來る波を越へて、隊伍整々堂々と互ひに拔手を切つて、目的の彼岸に上陸して、意氣豪然萬歳を絶叫するに至つては、實に壯觀である。

[やぶちゃん注:この光明寺裏に漱石は避暑に来ており、高い確率で「こゝろ」の先生の宿所もそこである。因みに「私」の宿所も冒頭部分の『宿は鎌倉でも邊鄙な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた』という描写から材木座・大町地域にあったと考えてよい。]

 江の島の翠黛(すいたい)を前に眺めたる、白砂靑松風涼しき片瀨川の濱に、數隻のボートを繋ぎある其前に見ゆる小松原内の建物は、學習院の寄宿舍である。之れは毎年の夏期に於て學習院の若殿原が紅塵場裏の暑を避けて、日課の水泳練習を行ふべく與へられた樂境である。尚ほ山本橋を渡つた靑松白砂の間に點在する臨時天幕の宿舍が建られる。學習院の公達は毎年七月中旬から三週間の見込で此片瀨の濱に寄宿するのだ。中にも畏き御在學中の宮殿下のお參加を拜すのである。金枝玉葉の御身をば、此荒磯邊の波に揉ませられ、潮に洗わせ給ふ御技、拜するも畏多き事なり、實に宮殿下の水浴場に充てられたる片瀬濱の光榮こそ譽なれ。尚ほ乘馬軍隊の水馬演習も片瀨の濱に見受けられる。夏の鎌倉砂淨らかの海濱は、吾國軍隊や學校の水泳場と定められてあるのは眞に鎌倉繁榮の一彩色である。

[やぶちゃん注:「山本橋」現在の藤沢市片瀬海岸三丁目一にある片瀬川の河口から三番目の橋で、西浜公園の東角で対岸の片瀬海岸一丁目に架橋する。

「宮殿下」裕仁親王、後の昭和天皇。明治四〇(一九〇七)年四月に学習院初等科入学、まさに本書が出版された明治四五(一九一二)年七月三〇日に祖父明治天皇が崩御、父嘉仁親王が践祚したことに伴って皇太子となった。明治四五当時は満十一歳。その少年の泳ぐ姿を「金枝玉葉の御身をば、此荒磯邊の波に揉ませられ、潮に洗わせ給ふ御技、拜するも畏多き事なり、實に宮殿下の水浴場に充てられたる片瀬濱の光榮こそ譽なれ」たぁ、流石に、時代が時代なだけ、モノすげー表現だねえ……。但し、この叙述は正確にはまさにこの前年より正しゝないと言わざるを得ないのである。何故か? ウィキ片瀬東浜海水浴場を見よう。そこにこう書かれているからである(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『一八九一年(明治二四年)、学習院が隅田川の浜町河岸にあった游泳演習場を川口村片瀬に移す。一九〇四年(明治三七年)には片瀬海岸に学習院の寄宿舎(平屋建て、九棟)が翌年にかけて竣工し、三年後に学習院院長に就任した乃木希典の褌姿の写真も残っている。乃木院長は軍隊式の幕営という方法も採用した。一九〇五年(明治三八年)八月の記録には江の島片瀬に避暑客三〇〇人、学習院職員生徒一三二人来訪とある。しかし、一九一一年(明治四四年)、学習院は游泳演習場を片瀬から沼津御用邸の隣接地に移す。片瀬の海水浴場が一般客で混雑し、游泳演習場に適さなくなったのが理由とされる。この混雑のきっかけは一九〇二年(明治三五年)、藤沢駅から片瀬まで開通した江之島電氣鐵道によるアクセスの利便性の発展である』(下線部やぶちゃん)。しかし更に見てゆくと、この跡地がまたまた海水浴場になって発展するのである。『この学習院游泳演習場跡地の活用が一九一五年(大正四年)七月二十一日、鎌倉郡川口村の天野村長や村内有力者六名の協議により、更衣所や衣類所持品預かり所を設置し、見張り番・救助船などを準備した村営の海水浴場を開設することとなった。江ノ電の開通により、日帰り海水浴客が一般化してきたことが理由であろう。この傾向は一九二九年(昭和四年)四月一日の小田急江ノ島線開通によって決定的となった。江ノ電の方も一九三一年(昭和六年)七月十日、四輪車五両の海水浴納涼電車の運行を開始し、「海水浴納涼往復割引乗車券」を発売する。この賑わいは一九四〇年(昭和一五年)の頃まで続いたようで、東海道本線が品川駅 - 藤沢駅間に臨時列車を増発するほどだった。この年の東浜には休憩所、飲食店、売店等六十余軒が建ち並んだというから、今日の姿とほとんど変わらない』とある。従って泳ぐ神の子はもっと幼少の今の小学校三、四年生の映像が正しいということになろうか。]

年寄の馬 大手拓次

 年寄の馬

わたしは手でまねいた、
岡のうへにさびしくたつてゐる馬を、
岡のうへにないてゐる年寄(としより)の馬を。
けむりのやうにはびこる憂鬱、
はりねずみのやうに舞ふ苦悶(くもん)、
まつかに燒けただれたたましひ、
わたしはむかうの岡のうへから、
やみつかれた年寄の馬をつれてこようとしてゐる。
やさしい老馬よ、
おまへの眼(め)のなかにはあをい水草(すゐさう)のかげがある。
そこに、まつしろなすきとほる手をさしのべて、
水草のかげをぬすまうとするものがゐる。

鬼城句集 夏之部 露凉し

露凉し   露凉し形あるもの皆生ける

漠然たる敵 萩原朔太郎

       ●漠然たる敵

 

 すべての偉大な人物等は、避けがたく皆その敵を持つてゐる。より偉大なものほど、より力の強い、恐るへき敵を持つであらう。單純な人物――政治家や、軍人や、社會主義者や――は、いつでも正體のはつきりしてゐる、単純な目標の敵を持つてる。だがより性格の複雜した、意識の深いところに生活する人々は、社会のずつと内部に隱れてゐる、目に見えない原動力の敵を持つてる。しばしばそれは、概念によつて抽象されない、一つの大きなエネルギイで、地球の全体をさへ動かすところの、根本のものでさえもあるだろう。彼等は敵の居る事を心に感ずる。だが敵の實體が何であり、どこに挑戰されるものであるかを、容易に自ら知覺し得ない。彼等はずつと長い間――おそらくは生涯を通じて――敵の名前さえも知らないところの、漠然たる戰鬪に殉じて居る。死後になつて見れば、初めてそれが解るのである。

   何所(いづこ)にか我が敵のある如し

 

   敵のある如し………           北原白秋斷章

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の最終章「思想と爭鬪」より。「はつきり」「より」は底本では傍点「ヽ」、「原動力」は底本では傍点「●」。引用の白秋の詩は、詩集「思ひ出」に載る以下の詩の冒頭と思われるが、底本校異に、朔太郎は『記憶によって記したものと思われる』とある。

 

   敵

 

いづこにか敵のゐて、

敵のゐてかくるるごとし。

酒倉(さかぐら)のかげをゆく日も、

街(まち)の問屋に

銀紙(ぎんがみ)買ひに行くときも、

うつし繪を手の甲に捺(お)し、

手の甲に捺し、

夕日の水路見るときも、

ただひとりさまよふ街の

いづこにか敵のゐて

つけねらふ、つけねらふ、靜(しづ)こころなく。

 

以上は、昭和四二(一九六七)年新潮社刊「日本詩人全集7 北原白秋」所載のものを恣意的に正字化して示した。]

2013/05/29

虛無の鴉 萩原朔太郎

 虛無の鴉

 

我はもと虛無の鴉

かの高き冬至の家根に口を開けて

風見の如くに咆號(はいがう)せん。

季節に認識ありやなしや

我の持たざるものは一切なり。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年刊新潮社版現代詩人全集第九巻「萩原朔太郎集」より。この詩はこの詩集で初めて収録された。因みに晩年の朔太郎はこの詩を遺愛し、詩集「氷島」や「宿命」に再録(一部文字表記に異同有り)するとともに、色紙などにもよく揮毫している(リンク先は私の所持する複製色紙)。]

否定せよツ!!! 萩原朔太郎 (「虛無の鴉」初出形)

 否定せよツ!!!

ああ汝はもと「虛無」の鴉
かの高き冬至の家根に口を開けて
風見(かざみ)の如くに咆號せよ。
季節に認識ありやなしや
我の持たざるものは一切なり。

[やぶちゃん注:「文芸春秋」第五巻第三号・昭和二(一九二七)年三月号に掲載された。後に改稿され、昭和四(一九二九)年刊新潮社版現代詩人全集第九巻「萩原朔太郎集」に「虛無の鴉」と改題して所収された。次に示す。なお、「!!!」は底本では一文字分に横三列。]

蛙の夜 大手拓次

 蛙の夜

いつさいのものはくらく、
いつさいのおとはきえ、
まんまんたる闇の底に、
むらがりつどふ蛙のすがたがうかびでた。
かずしれぬ蛙の口は、
ぱく、ぱく、ぱく、ぱく、…… とうごいて、
その口のなかには一つ一つあをい星がひかつてゐる。

鬼城句集 夏之部 靑嵐

靑嵐    馬に乘つて千里の情や靑嵐

中島敦「山月記」 + 藪野直史「山月記」授業ノート 公開

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に中島敦「山月記」及び私藪野直史の「山月記」授業ノートを公開した。

教え子の諸君の中には僕の朗読を思い出して呉れる奇特な方もいると存ずる。僕の授業を、少しばかりブラッシュ・アップした教案とともに、そうした僕の愛する子らに贈る。

2013/05/28

僕が忘れていたことを

僕が忘れていたことを……やらなきゃ……

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 序

    第九章 生殖の方法

 前章まではおもに食ふため食はれぬために生物の行ふことを述べたが、何故食ふこと食はれぬことにかくまで力を盡すかといへば、これは子を産み終るまで生き延びんがために他ならぬ。されば食ふことは産むための準備とも考へられるが、しからばなんのために産むかと尋ねると、これはまた更に多く食はんがためともいへる。一疋が一代限では何程も食へぬが、蕃殖して數多くなれば、それだけ多く食へ、更に蕃殖すれば更に多く食へる。食ふのは産むためで、産むのは食ふためだといへば、いづれが目的かわからぬやうであるが、およそ生物の生活は他物をとって自體とするにあることを思ふと、食ふのも産むのもそのためであつて、決して一方だけを目的と見做すことはできぬ筈である。言い換へれば個體の食ふことと産むこととによつて種族の生活が成り立つて居るから、一方だけに離しては生活を繼續することが出來ぬ。他物を食うて自己の身體に加へれば、自己の身體は無論それだけ大きくなる。これが即ち成長である。しかしながら生物の各種には種々の原因から、それぞれ個體の大きさに定まりがあつてこれを超えることは出來ぬから、更に食つて更に大きくならうとすれば、數が殖えるより外に途はない。これが即ち蕃殖である。かやうに考へると、蕃殖は個體の範圍を超えた生長であるというても宜しい。たゞ一つ不思議なのは何故普通の動植物では個體の殖えるためには、前以て雌雄兩性の相合することが必要かといふ點であるが、これに就いては今日もなほ議論があつて確なことはまだ知られて居ない。或は老いた體質を若くするためともいひ、または生まれる子に變異を多くするためともいひ、その他にも種々の説がある。著者自身は寧ろ食ふために働いて古くなつた體質を更に多く食ふに適した若い體質に囘復するためであらうといふ説に傾いて居るが、いづれにしても生殖のために雌雄の相合することは、種族の生存上何か特に有利な點があることだけは疑がない。犬でも猫でも雞でも蠶でも世人の普通に知つて居る動物には皆雌雄の別があつて、生殖に當つては必ず雌雄が相合するゆえ、生殖といへば即ち雌雄の相合することである如くに考へるが、廣く生物界を見渡すと、雌雄に關係のない生殖法もあれば、雌雄の別はあつても雌雄相合するに及ばぬ生殖法もある。そしてこれらの相異なつた生殖法を順々に比べて行くと、終には日頃生殖とは名づけて居ない身體の變化にまで達して、その間に境を設けることが出來ぬ。されば生殖の眞の意義を知らうとするには、まづ生物界に現に行はれて居る種々の生殖法から調べて掛らねばならぬ。
[やぶちゃん注:「一疋が一代限では何程も食へぬが、蕃殖して數多くなれば、それだけ多く食へ、更に蕃殖すれば更に多く食へる」というのは極めて形而上的な謂いであることに注目したい。ここでは「多く食へ」るという言辞、「食ふ」という個体行動の行為が、各個体を超越して種の保存のためのレベルでのメタな概念へと変換されているからである。
「相合する」は「あひがつする(あいがっする)」と訓じているようである(講談社文庫版でもかくルビを振っている)。
「何故普通の動植物では個體の殖えるためには、前以て雌雄兩性の相合することが必要かといふ點であるが、これに就いては」「著者自身は寧ろ食ふために働いて古くなつた體質を更に多く食ふに適した若い體質に囘復するためであらうといふ説に傾いて居る」というのが丘先生の拠って立つところであられるようだ。恐らく現代の生物学者の多くは無難に〈個体が持つところの基本的なDNAを継承することを目的とするもの〉と答えるのであろうか。私などはイギリスの生物学者クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins 一九四一年~)が提唱する、生物は遺伝子のヴィークル(乗り物)に過ぎないという考え方を支持するゆえに、厳密には主体は個体ではなくDNAであり、〈個体の持つところの基本的なDNAが自己を継承することを目的とするもの〉と言うべきであろうと考えている。そして、私はこれが前の注で指摘した「食う」のメタ概念化とオーバー・ラップしてくるのである。生物が遺伝子によって利用されている乗り物に過ぎないからこそ、実は生物個体が自己認識によって合目的目的性を持つと信じて疑わぬ採餌も生殖も、結局は、DNAによって操られた、DNAだけの意志であって、我々生物はそれを与り知らぬ――そこには実は――自然界にあって、超越的自立的存在として自覚的に生きていると信じている人間を含めて――自立的で論理的な目的性など存在しないのだということになるからである。]

明恵上人夢記 16

16

一、同二月、此の事を聞きて後、此の郡の諸人を不便(ふびん)に思ふ。夢に云はく、屏風の如き大盤石の纔少(ざんせう)の尖(とが)りを歩みて、石に取り付きて過ぐ。此の義林房等、前に過ぐ。成辨、又、同じく之を過ぐ。糸野の御前は、成辨とかさなりて、手も一つの石に取り付き、足も一つの石の面を踏みて過ぎらる。成辨、あまりに危ふく思ひて、能々(よくよく)之を喜びて過ぐ。安穩に之を過ぎ了りて行き、海邊に出づ。成辨、服を脱ぎ、將に沐浴せむとす。善友の御前、服を取りて樹に懸く。沐浴し畢りて後に、二枝の桃の枝を設けて、其の桃を折れば、普通の桃に非ず、都(すべ)て希(まれ)に奇(あや)しく未曾有之桃也。白き毛三寸許りなる、枝に生ひ聚(あつま)りて、毛の端そろひなびきて、其の形、手の如し。尾、其の毛、幷に其の中にひたる如くなる桃あり。之を取りて之を食ふ。今一枝をば、向ひの方を見遣(みや)りたれば、三丁許り去りて、殿原おはします。一番に、彌太郎殿、見らる。彼の處に之を遣はし了んぬ。

一、同月、夢に云はく、

 

[やぶちゃん注:「同二月」これが連続していて脱落のない記載ならば、「元久元年」西暦一二〇四年である。

「此の事」「15」の注で述べた通り、この具体な内容が分からない。夢の意味を解く鍵もそこにあればこそ、識者の御教授を乞うものである。

「義林房」明恵の高弟喜海(治承二(一一七八)年~建長二(一二五一)年)の号。山城国栂尾高山寺に入って明恵に師事して華厳教学を学び、明恵とともに華厳教学やその注釈書「華厳経探玄記」の書写校合に携わった。明恵の置文に高山寺久住の一人として高山寺の学頭と定められ、明恵の没後も高山寺十無尽院に住した。明恵一次資料として重要な明恵の行状を記した「高山寺明恵上人行状」は彼の手になる。弟子には静海・弁清などがいる(以上はウィキ喜海に拠る)。

「善友の御前」糸野の御前(「15」注参照)のことと採る。春日大明神の神託を受ける人物でるから善友(善知識)と称されても何の不思議もない。

「善友の御前、服を取りて樹に懸く」これを私は、天女のような糸野の御前が服を脱いで美しい裸身となり、羽衣のように自分の衣を木に懸ける、というシーンを激しく想起してしまうのであるが、文脈からは、やや無理があるようにも思えるので、訳では沐浴は明恵だけにした。但し、その私の気持ちは、人によっては御理解戴けるものと思う。

「尾」不詳。外して訳した。

「三寸」約九センチメートル。

「三丁」約三二七メートル。「三」は明恵の神聖数であろう。

「彌太郎」底本注に、『湯浅宗弘。明恵の従兄弟』とある。ウィキ湯浅宗弘には、生没年未詳として『紀伊国在田郡湯浅荘の地頭。通称として弥太郎、太郎、兵衛入道など。湯浅宗重の孫。湯浅宗景の子。湯浅宗良、湯浅宗直、湯浅朝弘の父』とある。

「一、同月、夢に云はく、」底本注に『以下欠文』とある。本文がないのでこれは「17」とはせず、訳でも省略した。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

16

一、同年二月のこと、例の事実を聞いて後は、しきりに、この有田郡(こほり)の諸人(もろびと)らが不便(ふびん)に思われて仕方がなかった。そんな中で見た夢。

「屏風の如き大盤石(だいばんじゃく)が幾つも聳え立っている。

 私はその頂きの、猫の額ほどもない、その屹立した巌の尖頭を踏み歩んで、やっとの思いで岩にとりついて峨々たる山嶺を渡ってゆくのであった。

 私の弟子の義林房喜海らも、私の前を、同じようにして踏み歩んでいるのであった。

 私もまた、同じく彼らの行った後を踏み越えてゆくのである。

 しかし、私は独りではなかった。

 糸野の御前も、私と一緒になって――手も同じ一つの石に添えてとりついては引き支え、足も同じ一つの石の平らなところを踏みしめて――私と同行二人、歩まれているのであった。

 私は断崖絶壁なれば、あまりに危うきことと理窟では思うのであったが、糸野の御前がこうして一緒に歩んで下さっていることが、とても嬉しく、何故か実に不思議なことに、恐ろしいとも思わず安心していられ、嬉々として御前さまとともに歩んでゆくのであった。

 難なく無事、この列岩を通り抜けることが出来、海辺に出た。

 私は服を脱ぎ、まさに沐浴をしようとした。

 善知識たる糸野の御前が私の脱いだ服をお取りになって、そこにあった樹にお懸け下された。

 沐浴をし終えて後、浜へと上がってみると、浜辺に二枝の大きな桃の枝が挿し設(しつら)えてあった。

 その桃の一枝を折りとってよく見て見ると、これが、普通の桃では、ない。

 なんと表現してよいか――ともかく――そのすべてが稀にして奇(く)しきもの――見たことも聞いたこともない未曾有(みぞう)の桃――なのであった。

 長くて三寸ばかりもある白い毛が枝にびっしりと束を成して生えており、それぞれの毛の端が皆、綺麗に揃って靡いている。

 その靡く形は、まるで人の手が何かを招くようであった。

 その無数の毛、並びにその手の形の毛の中に、浸る如くにして――未曾有の桃の実が――あるのであった。

 私は取って、この実を食った。

 今一枝を如何にせんものか――と思うたと同時に、私は、真向いの浜辺の方を見やった。

 すると三町許り向こうに、有田郡の殿方たちがいらっしゃった。

 一番に湯浅彌太郎宗弘殿を見つけた。

 私は、彼のところに、その、今一枝の桃を持ってゆき、そして、渡した。

栂尾明恵上人伝記 30 食人鬼、明恵に帰依す

 承元元年〔丁寅〕秋の比、院宣に依つて東大寺尊勝院(そんじようゐん)の學頭として、華嚴宗興隆すべき由、仰せ下されけり。依りて道性(だうしやう)法印の院主の時、餘りに衆徒の懇切に請じ申さるゝ間、春秋二季の傳法の時一兩年下向ありき。

 又同四年七月に、金獅子章(こんじししやう)の光顯鈔(くわいけんせう)一部二卷之を撰す。

 或る時鬼類(きるい)來つて御前なる小童に付きて云はく、我は是、毘舍遮鬼(びしやじやき)の類なり。世間に名僧達(だち)多くましませども、名聞を捨てゝ利養(りやう)に拘らず、如法に道を修(しゆ)する人少し。上人の如くなる僧は、天竺をば未だ委しく尋ねみず、晨旦(しんたん)には當時更になし、况んや本朝に於てをや。去る二月十三日の夜、洞中(とうちゆう)月朗に石上(せきじやう)風和に候ひしに、通夜(よもすがら)坐禪入定の御姿を見進(まゐ)らせ候に、貴敬(きけい)の思ひ深く感涙押へ難し。又經典讀誦の御聲心肝(しんかん)に徹(とほ)り殊勝(しゆしよう)に候間、我れ願を立てて生々世々に値遇(ちぐう)し奉りて、佛法に歸依し永く肉食(にくじき)を斷ずべし。願はくは我に戒を授け給へと云々。仇て上人此の小童に向つて、戒を授け給へり。其の時鬼類申すやう、我れ肉食を斷たば食物有るまじく候、御時の次(ついで)に少し御計らひに預り候はんと、仍て上人其れより施餓鬼法を毎夕(まいせき)修し給ひける。
[やぶちゃん注:「毘舍遮鬼」梵語「ピシャーチャ」(piśāca)の音写。啖精鬼(たんしょうき)と漢訳する。インド神話における鬼神の一種で人の血肉を喰らい、五穀の精気を吸う鬼とされる。ものによって「食人鬼」「食人血鬼」「喰屍鬼」とも書かれる。仏典では「畢舎遮」「毘舎遮」などと音写されて仏法に開明後、持国天の従者となったとされる。]

耳嚢 巻之七 植替指木に時日有事

 植替指木に時日有事

 

 櫻は十月十日にさし木すれば、根付(ねつく)事妙也。竹を植替(うゑかへ)に五月十三日を期日とす。是又根付事奇々の由、於營中に諸侯の語りしが、其外をなす事も同じと語る。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。

・「五月十三日」「大辞泉」によれば、中国の俗説で竹を植えるのに適する日といわれているとあり、転じて陰暦五月十三日を指す言葉として夏の季語となった。竹迷日。個人ブログ「今日のことあれこれと…」の竹酔日(ちくすいじつ の記載が詳しい。部分的に引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂き、記号やリンクを変更、末尾の一部を省略して引用させて戴いた)。

   《引用開始》

この日は、竹が酒に酔った状態になる日で、移植されたことにいっこうに気づかないので、よく活着するという意味から出たもの。中国の徐石麒(しゅしち)によって著わされた「花庸月令(かようげつれい)」には著者が永年にわたって口伝などを集めて実験観察した結果が記録されているそうで、この日に竹を植えられない場合でも、「五月十三日」と書いた紙を植えた竹の枝につるせばよく活着するのだとか……。

 こんなことは信じられないが、江戸時代の俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の句に以下のようなものがある。

 「降らずとも竹植うる日は蓑と笠」(真蹟自画賛一、画賛二・笈日記)

以下参考に記載の「芭蕉DBの説明によると、『貞亨元年(四十一歳)頃から死の元禄七年(五十一歳)までの間の作品。『笈日記』では、貞亨五年木因亭としているが不明。竹はそのまま植えてもなかなかつかない。この国では新緑の頃に植えないと他の季節ではむずかしい。中国では古来、旧暦五月十三日を「竹酔日<チクスイジツ>」といって竹を植える日とされた。意味は、たとえ雨が降っていない日であろうとも、竹を植える日には蓑笠(以下参考に記載の蓑笠」参照)を着てやってほしいといった意味で、芭蕉の美意識の現れだ』という。「竹植うる日」は、俳句の夏の季題ともなっており、『去来抄』には「先師の句にて始(はじめ)て見侍(みはべ)る」とあるから、芭蕉がその使い始めであろう。

   《引用終了》

・「於營中に」はママ。「營中に於いて」と読む。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 植え替えや挿し木には最適の時日がある事

 

 桜は十月十日にさし木すれば、根付くこと、これ、絶妙なる由。

 竹を植え替るには五月十三日を最適の期日とする。これもまた、根付くこと、摩訶不思議なる由、御城内に於いてさる御大名の語って御座られたが、その他の植え替えや挿し木をする場合でも、これと同様、それぞれの樹種によって最適の時日があるもの、と語っておられた。

大橋左狂「現在の鎌倉」 4 夏の鎌倉

     夏の鎌倉

 

 炎帝威を逞ふして下界爲めに沸くが如きの三伏期、身は恰かも甑中に閉ざ込められた樣の思を爲し、鬱陶として五尺の小身も、殆んど容るゝに餘地がないと言ふ樣の時、此鎌倉は何ふであらうか。流石は山水明媚、風光佳絶、冬暖かに夏涼しと、先輩諸人が定評された丈け、それだけ苦熱を覺へない。外人が鎌倉を評して世界の公園だと稱贊したのも無理はない。年々歳々歐米各國より日本の風光を見んとて觀光する團體は、必ず一度は鎌倉に足を踏むのだ。それは鎌倉を見ないのは日本を見ないのと同樣だとの觀念であるそうだ。歐米外人が已にその觀念だ。それ故吾人は自己の故國である以上は、一生涯に尠くも一度は、此地の風光を見るの義務は在るだらうとは稍々出過ぎた鎌倉贔屓の過言だ。年々夏期に於て此鎌倉に遊覽する客人は、何億萬何十億萬あるか測り知られない。外國人さへ來るのだから臺灣、九州、樺太、北海道は、別に遠い事はないが、常に九州又は東北地方から見物に來る遊覽者が絶へずある。其他に毎年七月中旬か又は八月上旬頃より、九月の下旬頃迄定則の樣に、必ず此地に來て別莊或は貸別莊又は貸間に避暑する人が多い。之れ等の人を別莊客、避暑客と云ふて、鎌倉土着の諸商人其他貸家業者は大に崇拜するのだ。それも其筈で鎌倉人士の財源は全く此避暑客別莊客にあるからだ。鎌倉は此夏期を書入時としてあるので一部の營業者は此期節の收入が一年の諸經費に充てられるのである。

[やぶちゃん注:「三伏期」「三伏」は「さんぷく」と読み、陰陽五行説に基づく選日(せんじつ:暦注に於いて主な六曜・七曜・二十八宿・九星・以外の特定の期日の総称。)の一つ。初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。庚(かのえ)は「金の兄」で金性であり、相剋説によって「火剋金」(金は火に伏せられる)ことから、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする。そこで、夏の間の三回の庚の日を三伏として、種蒔き・療養・遠行・男女の和合などは全て慎むべき日とされる。三伏の時期は、七月中旬から八月上旬で酷暑の頃に当たるため、「三伏の候」「三伏の猛暑」と手紙の前文に書くなど、酷暑の頃を表す言葉として現在も用いられている(以上は主にウィキ伏」に拠った)。

「閉ざ」底本では右に『(ママ)』表記がある。]

 僅かに三ケ月内外の收入が一ケ年の生活費を除いて尚ほ相當の利益を爲すと言へば餘程の暴利を貪る樣に見受けられる樣だが、其實は反て損失をする商人も多いのだ。由來鎌倉は避暑地であり、又別莊地であるから、避暑客の年々増加して貸間貸屋を賃借する者も増加し、或は自己の別莊を建築する人も續々殖へて來たので隨て家督、地代等の高騰する樣の傾向は昨年頃迄往々認められたが、此等の事は勿論一般商業品等の相場が各店毎に一定してないのは、遊覽客避暑客別莊客等に非常に不安の念慮を懷かしめ終には鎌倉の衰微する樣な基を招く虞ありとて玆に逸早く覺醒したのは、鎌倉商業界の中心たる米酒業者である。此等の者が幾度となく集會して鳩首協議の結果昨年末から鎌倉米酒商組合なるものを組織し、可及的品質の精良を選び確實なる價格の均一を取る事に決定された。鎌倉に商業組合の組織されたのは米酒商組合を以て囁矢とするのである。毎日相場の移動や其他樞要の事共の通告を發して居る此組合組織以來地主、家主、其他の營業者も悉く之に倣つて互に相談して標準額を一定する樣になつたので、今日此頃の鎌倉諸營業の活動振りは實に確實となつた。商家の雇人手代連も商業道德修養の必要を自覺して商家雇人會なるものを組織し、毎月囘數を定めて、講師を聽し商業上有益なる講演を教へられて居る。斯くして久しく他から非難の聲を浴せ掛けられつゝあつた鎌倉の商業界も、今日此頃は面目を一新したのは實に快絶と叫ばざるを得ない。遊覽避暑客も別莊客も大に安心して續々入込んで來る。鎌倉の前途も玆に於てか、一點の光明を認め得たのである。續いて鎌倉の經濟界も活躍して來たのは、大に祝すべき譯だ。

[やぶちゃん注:現在、鎌倉商工会議所の公式サイトの「歴史」を見ても、昭和二一(一九四六)年の戦後の社団法人鎌倉商工会議所の創設しか記されていない。この叙述はその前史を知る上で貴重である。]

 夏の鎌倉とは夏期七月上旬より九月下旬に至る此三ケ月を云ふので、僅か九十日足らずの短日月が、鎌倉に取つては唯一の玉緒(たまのを)で、土着民の生命と言ふべき財源である。鎌倉は此夏季遊覽客、避暑客、夏他の別莊客を歡迎すべく、町費の許す限り、有志者寄附金の在る限り最大限の出費を爲して、町内の街路下水は勿論材木座、由井ケ濱、長谷、坂の下、七里ケ濱に至る海岸迄の大掃除を爲して、例令(たとへ)如何なる人、何國の人が來遊して見ても愧しくない樣にと苦心して諸々の設備をするのだ。一昨年夏より鎌倉公設海水浴場なるものも開設せられた。又縣下に未だ見ざる鎌倉圖書館なるものも鎌倉小學校附屬庫内に設けられて一般公衆の縱覽を許して居る。尚ほ又鎌倉博物館やら、鎌倉水族館、動物園等も建設されるとの風評であるが、此分は現在の鎌倉にては未だ急速の建設は見られまいと信ずるのである。

[やぶちゃん注:由比ヶ浜の海水浴場について、つい先日の二〇一三年四月十一日附「産経新聞」の「鎌倉の海水浴場が9月まで営業延長」という記事の中で、『鎌倉の海水浴場は130年の歴史を誇るが、営業を9月まで延長することは今回がはじめて』という下りが現われる。単純に計算すると一三〇年前は明治一六(一八八三)年になるが、これは恐らく二年後の明治一八(一八八五)年に内務省初代衛生局長長与専齋の奨めによって鎌倉由比ヶ浜の三橋旅館が海水浴場を開設したことを「東京横浜毎日新聞」で広告した辺りを起点としているものと思われる(医療目的でない日本最古の海水浴場はオランダ人医師ポンペからオランダ医学を学んだ初代軍医総監松本順によって明治一五(一八八二)年十月に三重県伊勢市二見町の立石浜が国によって公的指定を受けたのを嚆矢とするという)。以上の海水浴場の歴史はウィキ海水浴場」を参照した)。

「玉緒」魂(たま)の緒の意から、生命線の意。

「鎌倉水族館」恐らくご存知の方はあるまいが、鎌倉には「鎌倉水族館」がかつてあった。富田康裕著「トミタクンの思い出の記」によれば『稲村ヶ崎から長谷に向かい、坂を降りたところに鎌倉パークホテルがある。その敷地内に当時、鎌倉水族館があった』とある。昭和二八(一九五三)年開園で六年後に閉園したとあり、展示物の殆んどはホルマリン漬けの標本展示という恐るべき水族館であったらしい。私は閉園時二歳であったから行っていたとしても記憶はない(行った可能性は結構高い気はする。私の両親は当時、六地蔵の高濱虚子の娘の家の隣に間借りしていたからである)。ただ、幼少の頃にぼろぼろになるまで読んだ小学館の「魚貝の図鑑」の裏表紙にあった日本の水族館一覧にしっかりと「鎌倉水族館」とあって、ずうっと行きたくて行きたくて仕方がなかったのを思い出す(勿論、最早なくなっていることを知らずに)。ホルマリン漬けでもいい、今でも私は「鎌倉水族館」に行くことを夢見ている……。]

 鎌倉の避暑客は前陳の通り歳々年々増殖の趨勢を示して居る。最近二ケ年間に於ける鎌倉避暑客數を統計すると左記の如き數字を顯はすのである。小天地の鎌倉としては實に多數の避暑客があると言つても差支はない樣に考へられる。避暑客は多くは七月に避暑して九月に歸るので此三ケ月の各月毎に人員に差異を生ずるのは絶へず避暑客の出入がある故理の當然である。此處に記した統計は夏期三ケ月を統計した一ケ月の平均避暑客數である。

    明治四十二年   五、九〇七人

    明治四十三年   六、四一六人

    明治四十四年   八、八二六人

前記の統計を示すので、之れを七、八、九の三箇月に延算すると四十五年の如きは實に一萬八千四百七十八人となる。此避暑客は旅館、別莊、或は貸家貸間其他寺院等思ひ思ひの方面に散在假住するのである。この外に一日二日の滯在見込にて出掛るもの或は日曜祭日を利用して來る遊覽客等を數へると一ケ月平均七十萬以上に昇るそうだ。此大多數の遊覽客は鎌倉の土地に相當の金を散じて歸るのである。夏季鎌倉の收入は非常の高額に上るのだ。即ち避暑客、遊覽客は鎌倉の財源なりとは此邊より割り出されたものである。

[やぶちゃん注:「四十五年の如きは實に一萬八千四百七十八人となる」底本では「四十五年」及び「一萬八千四百七十八人」の右に『(ママ)』注記がある。一ヶ月平均の単純三倍であるから、ここは最も多い明治四四(一九一一)年の数値×3倍したものと思われるから、正しくは「四十四年の如きは實に二萬六千四百七十八人となる」でなくてはなるまい。

「一ケ月平均七十萬以上」鎌倉公式サイト統計(PDFファイル)で平成二三(二〇一一)年の鎌倉への年間入込観光客数見ると、

    年間  一八、一一〇、八六八人

で、

  一ヶ月平均  一、五〇九、二三九人

と当時の二倍以上に増えている。延入込観光客数推計表の同年の七・八・九月分を見ると、

    七月     九〇七、七三八人

    八月   一、五六二、〇三〇人

    九月     八九五、一八〇人

とあり、この平均値をとると、

  一ヶ月平均  一、一二一、六四九人

となり、明治四十四年の実に百二十七倍である。]

斷橋! 萩原朔太郎

斷橋!  夜道を走る汽車まで、一つの赤い燈火を示せよ。今そこに危險がある。斷橋! 斷橋! ああ悲鳴は風をつんざく。だれがそれを知るか。精神は闇の曠野をひた走る。急行し、急行し、急行し、彼の悲劇の終驛へと。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第五放射線」より。これは後の散文詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に、

 

 斷橋

 

 夜道を走る汽車まで、一つの赤い燈火を示せよ。今そこに危險がある。斷橋! 斷橋! ああ悲鳴は風をつんざく。だれがそれを知るか。精神は闇の曠野をひた走る。急行し、急行し、急行し、彼の悲劇の終驛へと。

 

の形で載る。萩原朔太郎にとって――総ての世界の通路は「斷橋」していた――のだと思う。近々、そうした彼のテクストをHPで公開する予定である。]

はにかむ花 大手拓次

 はにかむ花

黄金(こがね)の針のちひさないたづら、
はづかしがりのわたしは、
りやうはうのほほをほんのりそめて、
そうつとかほをたれました。
黄金(こがね)の針のちひさないたづら、
わたしは、わたしは、
ああ やはらかいにこげのなかに顔をうめるやうに、
だんだんに顔がほてつてまゐります。

[やぶちゃん注:「にこげ」「和毛」「毳」で、鳥獣の柔らかい毛。また、人の柔らかい毛。産毛(うぶげ)のこと。私は個人的にこの言葉が大好きだが、かつて亡き母にそれを言ったら「鍋の煮焦げみたいで厭だわ」と切り返され、何だか、妙に淋しくなったのを思い出す。]

鬼城句集 夏之部 五月闇

五月闇   提灯に風吹き入りぬ五月闇
[やぶちゃん注:「五月闇」は「さつきやみ」と読み、五月雨(さみだれ)の降る頃の夜が暗いこと、また、その暗闇。また、その頃の昼の薄暗い空模様をも言う。因みに和歌では、「くら」に掛かる枕詞としても用いられる。]

2013/05/27

栂尾明恵上人伝記 29 高山寺を興す/北斗七星の神人来臨す

 建永元〔丙寅〕年十一月後鳥羽院より院宣を成し下されて、高雄の一院栂尾を給はりぬ。則ち此の處を華嚴宗興隆の勝地と定む。仍て高山寺と號す。

[やぶちゃん注:「建永元〔丙寅〕年」西暦一二〇六年。]

 

 同年極月(ごくげつ)の比、月輪(つきのわ)の禪定殿下より世俗の爲の祈(いのり)にてはあらで、聯か願あるに依つて、星供(ほしく)を七ケ日修行有るべき由懇切に仰(おほせ)あり。辭し給ひ難きに依つて是を修し給ふ。始め兩三座の程は、上人自ら是を修し給ふ。爰に靈典(りやうてん)承仕の役勤仕(ごんし)して一二間の外に住するに、後夜の時蠟燭の尅限(こくげん)に至て、道場に入らんとするに、北方の空中より貴俗十餘人寶冠を戴き白服を着して來入す。暫く有つて又空中に還歸し給ふ。後日に北斗の圖像を見るに、其の姿少しも違はず。さては北斗七星等の親(まのあた)り降臨ありけるにこそと希有に覺えき。

[やぶちゃん注:「月輪の禪定殿下」九条兼実。

「星供」星祭(ほしまつり)・星供養。主に密教で災いを除くために個人の当年星(とうねんじょう:当年属星ともいう)と本命星(ほんみょうじょう)を祀る祭り。密教の占星術では北斗七星の七つの星の内の一つをその人の生まれ星として本命星と定め、運命を司る星と考える。また、一年ごとに巡ってくる運命を左右する星を「当年属星」と呼んで、これらの星を供養して個人の一年間の幸福を祈り、災いを除く。一般に旧暦の年の初め(立春)に行われることが多い(以上はウィキり」に拠る)。試みに調べて見たところ、建永元年は年内立春で旧暦十二月二十九日が立春であることが分かったので本文の記述に合致する。]

耳嚢 巻之七 婦人に執着して怪我をせし事

 婦人に執着して怪我をせし事

 

 下谷邊の醫師の由、色情深き生質(きしつ)にや、或時、洗湯(せんたう)濟(すみ)て晝前の事のよし、二階に上(あが)り、裸にて風抔入(いれ)ける。隣は女湯にて、入湯の者少(すくな)く、小奇麗(こぎれい)成(なる)女壹人湯桶をひかへ、人も見ざれば、陰門をあらはし洗ひ居たりしを、彼(かの)醫ちらと見て、二階のひさし續(つづき)の女湯故、引窓(ひきまど)のふちへ手を掛(かけ)、片手は糸に懸(かけ)る竹に取(とり)つき眺居(ながめをり)しに、みへ兼ける故兩手共引糸(ひきいと)を懸る竹へ取つき候と、右竹折(をれ)てまつさかさまに女湯の方へ落(おち)ける故、彼(かの)女は驚(おどろき)て氣を失ひ、醫師も高き所より落ける故、湯桶にて頸をうちて是(これ)又氣絶せし故、湯屋(ゆうや)の亭主は勿論家内周章(あはて)出てみしに、壹人は女、壹人は男氣絶なしければ、何分わからばこそ、氣附(きつけ)抔あたへ其譯を尋(たづね)ければ、其答も一向わからず。強(しひ)て尋ければ、粂(くめ)の仙痛(せんつう)とゆふべき事と、其所の物わらひと成りし由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:医師関連譚で軽く連関。久々の好色譚である。

・「洗湯」銭湯。湯屋(ゆうや)。

・「二階」底本の鈴木氏注に、当時の湯屋の『男湯には二階があって、菓子や茶なを売り、湯女が客の世話をした。(酒は禁制で出せない)』とあり、ウィキの「銭湯」にも、『社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた』とある。当時の『営業時間としては朝から宵のうち』、現在の夜八時頃まで開店していたらしい。また、これも知られたことであるが、こうした男女の湯が分かれているのは必ずしも一般的ではなく、『実際には男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した』。寛政三(一七九一)年には『「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた』とある。

・「引窓」屋根の勾配に沿って作った明かり取りの窓。下から綱を引いて戸を開閉する天窓のこと。

・「糸」「引糸」前の引窓の紐のこと。

・「何分わからばこそ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『何分わからず。』となっている。次の注との絡みで、この部分はバークレー校版で訳した。

・「粂の仙痛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『久米野仙庵』で、長谷川氏は久米の仙人の逸話に『医師であるので医師に多い名に似せて仙庵とした』とあるが、こちらではそれに加えて明らかに当時、根岸も患っていた流行病の疝気の「疝痛」をも掛けてあり、しかもこの文脈では「其譯を尋ければ、其答も一向わからず。強て尋ければ」と前にあって、これは「どうして女湯へ落ちたんじゃ? 覗いていたんじゃなかったんかい?!」と問い詰められた医師が、苦し紛れに「……いや、その急に持病の疝痛が起こりまして、二階より、足を踏み外しましたので……」という、如何にもな弁解を聴いて、その場の者が「――ほほう? そりゃまた久米の仙痛さんという訳かい?!」と皮肉って笑い飛ばしたという形になって、より面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 婦人を出歯亀することに執着(しゅうじゃく)致いたによって怪我を致いた事

 

 下谷辺の医師の由。

 この男、どうにも色好みの度が過ぎた気質ででも御座ったものか、ある時、銭湯から上がって――未だ昼前のことであったと申す――二階に上がり、素っ裸(ぱだか)のまんま、一物に風なんど入れては涼んで御座ったところが、すぐ隣りが女湯で御座って、入湯(にゅうとう)の者も少なく、中には小綺麗なる女が一人、湯桶を脇に置いて、人気もなきと、陰部をあからさまにおっ広(ぴろ)げては、大事丁寧に洗って御座ったを、かの医者、ちらと見て、二階の庇(ひさし)続きの女湯であったがため、その女湯の引き窓の縁に手を掛けて、片手は紐のぶら下った竹枠に手を添えて眺めて居った。

 ところが、どうにもよく見えざれば、思わず、両手でもって引き紐を懸けた竹枠へ倚りかかったところが、

――バキン!

と、美事、竹の折れて、

――グヮラグヮラ! ドッシャン!

と、真っ逆さまに女湯の方(かた)へと落ちてしもうた。

――ギャアッ! ウン!

と、かの女は驚きて気を失のう、

――ウ! ムムッツ! グッフ!

と、医者も、これ、高い所より落ちたばかりか、運悪く、かの女子(おなご)の脇にあった湯桶にそっ首をしたたかに打ったによって、これまた、気絶。

 尋常ならざる物音なればこそ、

「な、何じゃッ!」

と、湯屋(ゆうや)の亭主は勿論のこと、家内の者ども皆、慌てて女湯へと飛び込んで見たところが、

――一人は素っ裸の女

――一人は素っ裸の男

――これ、それぞれ両人、雁首揃えて、気絶して御座る

……一瞬、これ、何が起こったものやら分からず、気付薬なんどを与えて、二人ともようように正気には返った。

 一体、何がどうしたものかと訊いてみても、女子(おなご)勿論、自身、訳も分からざれば、青うなって、はあはあと荒き息をするばかり。……

 男の方に訊ねてみても、これまた、もごもごと訳の分からぬことを呟くばかりで、一向に埒が明かぬ。

 如何にも怪しきは、この男なれば、亭主、さらに責めて糺いたところ、

「……い、痛たたたッ!……わ、我ら、医師で御座る……と、隣の二階にて涼んで御座ったれど……そ、その、じ、持病の、その、そうじゃ、疝痛が、これ、に、にわかに起って御座って、その……」

と、しどろもどろの言い訳をなした。

 されば亭主、横手を打って、

「……ははぁん! さればそれは――粂(くめ)の仙痛――と申すようなものじゃ、のぅ!」

と皮肉ったによって、この医師、そこら辺りにては永いこと、もの笑いの種となって御座った由。

 さる御仁の語って御座った話である。

大橋左狂「現在の鎌倉」 3  「花の鎌倉」

    花の鎌倉

 

 鎌倉を探らんとする人、鎌倉に遊ばんとする人は、必ず皆萬人萬律に鎌倉の古址多きを探りて往昔時代の如何に隆盛なりしかを追想し、自然の風光が如何に絶勝なるかを嘆賞するのである。未だ曾つて花の鎌倉を探らんとしたる人は殆んど僅少、否反て皆無である。鎌倉の花は眞に隱君子の態度をなしてゐる。

 上野公園の櫻ケ岡、淸水堂、パノラマ前の早咲き、遲くは竹の臺、動物園前、さては向島、飛鳥山の櫻を賞する者は數多し、鎌倉の櫻を觀んとする人は少ないのである。此れ鎌倉に花あるを知らなかつたのである。人或は言はん、花を賞せんとせば須らく東都の花を賞すべし、何ぞ閑散靜寂の鎌倉の花を賞するの遑あらんと、之れ眞に時代的趣味深き鎌倉の花を知らない人である。

[やぶちゃん注:「上野公園の櫻ケ岡」上野の山は別名桜ヶ岡と呼んだ。

「淸水堂」不忍池を見下ろす清水観音堂。

「パノラマ」浅草公園第六区にあった巨大なジオラマを興行した日本パノラマ館。明治二三(一八九〇)年開館。

「竹の臺」現在の上野公園のほぼ中央部にある、知られた大噴水を中心とした広場のある所の地名。江戸時代にはここに東叡山寛永寺の中心であった根本中堂の大伽藍があったが戊辰戦争で失われた(明治一二(一八七九)年に現在地である旧子院大慈院跡に寺とともに復興再建)。名称は両側に慈覚大師が唐の五台山から竹を根分けして持ち帰って比叡山に移植したものが更に根分されて、当時の寛永寺のこの付近に植えられたことに由来するものと思われる。

「飛鳥山」現在の東京都北区にある桜の名所として知られる区立飛鳥山公園。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』という。]

 東都の花を見んとて其地に到れば、寸尺も餘地なき程觀客相肩摩して押返すばかりなる中に、醉態狂狀の人多くして俗趣味と云ふより外はないのである。鎌倉の花は此俗塵を去つて高潔淸澄、高尚優美、一たび雙眸に映ずるや眞に鬱々たる精神をも靜養するに足るのである。鎌倉の花が他所の花と異なるのは即ち此點にある。

 鎌倉の花を記さんとて冐頭第一位に鎌倉の梅を案内することにした。由來鎌倉の梅樹は悉く數十年を經たる老骨鐵幹である。倒まに蜿蜒(えんえん)たるあり、白臺枝を沒して蛟龍淵を出づるの態を爲すのがある。隨て開花の期が非常に遲いのである。即ち三月上旬頃が例年最(もつとも)の見頃である。

[やぶちゃん注:「蜿蜒」底本では「蜒」は「虫」が「延」の下方にある字体であるが、同字であるのでこれに代えた。また読みは歴史的仮名遣では正しくは「ゑんえん」である。蛇がうねるようにどこまでも続くさまをいう。

「白臺枝を沒して蛟龍淵を出づるの態を爲す」とは、白い台(うてな:通常なら花の萼(がく)を指すが、この場合は極楽に往生した者の座る蓮の花の形をした台を梅花に譬えていよう)が枝を没し去るほどに美しく咲き、その中を苔生したごつごつとした枝が蛟龍(みずち)が深い淵から天へ昇るが如き体(てい)を成すものがある、というのであろう。]

 鶴ケ岡八幡境内の梅 赤橋を渡りて境内に入れば左に鬱蒼たる杉林右に二層建の馬見(ばけん)樓を見て、數段の石段を登れば、玆は拜殿地と名けられた境内の中庭である。右に上村將軍寄附の野猪及び猿猴が檻の中に參詣者の投入する食料を樂みに、いと嬉しく遊んで居る。其前方に八十餘株の白苔帶びたる老梅樹が白兵戰の如く縱横入り亂れて銃劍の交るが如くに見える。左り半僧坊に入るの道傍に偃蹇(えんけん)して虎の天風に哮ゆるが如き屈鐵せる古梅が百數十株ある。何れも陽春三月の交、杖を境内に曳けば、樹々六花の花を綴るかと疑われ香氣馥郁嘆賞の外ないのである。而して暮鐘沈々花間に傳ふるも尚ほ歸るを忘るゝ程絶快である。

[やぶちゃん注:「馬見樓」不詳。幾つかの明治後期の地図や写真を見ても分からない。位置からすると流鏑馬馬場の沿道と思われ、もしかするとこれは神社の公施設ではなく、茶屋の名か? 識者の御教授を乞うものである。

「上村將軍」日本海海戦を勝利に導いた名将として知られる海軍大将上村彦之丞(かみむらひこのじょう 嘉永二(一八四九)年~大正五(一九一六)か。

「半僧坊」建長寺の半僧坊を指すとは思われない。按ずるに旧二十五坊(ヶ谷)の誤りではあるまいか?

「偃蹇」物が延び広がったり、高くそびえたりしているさまをいう。]

 大佛の梅 長谷大佛に詣で、山門を入れば右に古物店がある。それより蓮池に至るの間は、一面の梅樹である。今を盛りと咲き競はゞ恰かも雲の如く、雪の如くである。東風一たび梢を吹くときは落花片々六花を降らすが如く眞に佳景筆舌の及ばぬ程である。其他大巧寺、圓覺寺、建長寺、安國論寺、極樂寺境内等にも見るべき花は實に多い。

[やぶちゃん注:「六花」雪の雅称。]

 鎌倉の櫻 敷島の大和心を人問はゞ、旭日に匂ふ山櫻花と詠じられた通り、櫻は大和武士の神髓を表示した日本特有の花である。此賞玩すべき櫻花も鎌倉の個所々々に多くある。鎌倉停車場構内の櫻は例年三月下旬頃より班(まばら)に蕾を破りて四月三日神武天皇祭の佳辰頃は第一の好見頃である。長谷大佛境内の櫻は八重櫻が尤も多い。四月第一日曜より第二日曜前後が好見頃である。鶴ケ岡八幡境内殊に段蔓一帶の櫻は之れも神武天皇祭前後が丁度滿開の眞最中である。後醍醐天皇第三皇子護長親王を祀れる官幣中社大塔宮境内の櫻は大樹老木が多く、例年遲咲きの方である。四月第二日曜頃より第三日曜日頃は尤も見頃である。師範學校々庭の櫻は鎌倉第一の古木と評されて居る。四月第二日曜頃が花盛りである。此時分には授業を妨げない限り公衆に校庭櫻樹の觀櫻を許してある。鎌倉唯一の花やしき要山の櫻は眺望絶佳なる自然の高丘に靉靆(あいたい)として雲霞の如く咲き匂ひ、淡紅なるものは美人の薄化粧のそれの如く、濃白なるものは貴女の盛裝した樣に觀客に婚びて居る。自然の風致と相俟つて對照は嘆賞の外はない。此花も四月第一日曜頃迄からそろそろ咲き初めて第二日曜頃迄には好見頃となる。極樂寺境内にある八重一重咲き分けの櫻、源平咲分けの櫻等は最も有名なる櫻樹である。鎌倉に花期杖を曳くものは、必ず此源平咲き分けの櫻花を見て、多大の趣味を覺へて嘆賞するのである。四月三日頃より見頃となる。此外扇ケ谷永勝寺、山の内建長寺内半僧坊等の櫻花も此日頃より見頃となるのである。

[やぶちゃん注:「敷島の……」は、本居宣長の和歌。

    おのがかたを書きてかきつけたる歌

 敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花

寛政二(一七九〇)年に六十一歳の自身肖像画に書き付けた自賛。自撰家集には採られていないが、宣長の名歌として人口に膾炙する。

「護長親王」は護良親王の誤り。

「師範學校」神奈川師範学校。現在の横浜国立大学教育人間科学部の前身。現在、横浜国立大学教育人間科学部附属鎌倉小中学校の校地。

「要山」後掲される「名所舊蹟」の項の文中に『要山(かなめやま)香風園』とあり、ここもそれを指すと考えてよいであろう。但し、要山という呼称は廃れている。また、ここは田中智学の別荘であったものが、大正九(一九二〇)年に売られ、旅館としたものが香風園と認識していた。しかし本書は明治四五年の刊行であるから、実は田中の別荘であった時代から香風園と呼ばれていたことがこれで分かる。

「永勝寺」英勝寺の誤り。]

 鎌倉の桃 鎌倉に見るべき桃花は、極樂寺境内に一町餘歩の空地を利用して四十一年秋頃田中住職が苦辛して植付けられた桃樹がある。花季玆に到れば、今は盛りと咲き匂ふ桃花、紅(くれなゐ)を朝(てう)して幔幕の如く棚びき、坐ろに武陵桃源の感興に入るのである。此外鵠沼旅館東家(あづまや)主人の風流に成る、鵠沼花壇に數丁歩の桃園あり。尚ほ鵠沼停留場前及び藤ケ谷附近にも、觀るべき桃花少なからず。

[やぶちゃん注:「朝して」呈していって、達して。

「鵠沼旅館東家」明治三〇(一八九七)年頃から昭和一四(一九三九)年まで鵠沼海岸(高座郡鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼海岸二丁目八番一帯)にあった旅館東屋。多くの文人に愛され、広津柳浪を初めとする尾崎紅葉主宰の硯友社の社中や斎藤緑雨・大杉栄・志賀直哉・武者小路実篤・芥川龍之介・川端康成ら錚々たる面々が好んで長期に利用し、「文士宿」の異名で知られた。約二万平方メートルの広大な敷地に舟の浮かぶ大きな庭池を持ったリゾート旅館であった。ここで「東屋主人」とあるが、参照したウィキの「旅館東屋」によれば、本来の経営権者は創始者伊東将行であるが、実際の切り盛りは初代女将で元東京神楽坂の料亭「吉熊」の女中頭であった長谷川榮(ゑい)が取り仕切り、明治三五(一九〇二)年九月に江之島電気鉄道が藤沢―片瀬(現在の江ノ島)間で営業運転を開始(鎌倉市街との開通は明治四〇(一九〇七)年八月)すると、伊東将行は鵠沼海岸別荘地開発の仕事が多忙となって東屋の経営権は長谷川榮に委ねられたとある(その後にこの経営権の問題で伊東家と長谷川家で意見の対立が生じたものの大正九(一九二〇)年には和解した模様である)が、「鵠沼花壇」という固有名詞風の呼称からもこの桃林の「主人」とは、とりあえず伊藤将行を指していると考えてよいであろう。

「藤ケ谷」は現存しない江ノ電の駅名。鵠沼駅と柳小路駅の間にあったが、昭和一九(一九四四)年に廃止された。因みに、現在の路線域とほぼ一致するようになるのは昭和二四(一九四九)年三月一日に横須賀線高架を潜った若宮大路にあった鎌倉駅(旧小町駅)を国鉄鎌倉駅構内に移転して以降のことである(その後では昭和四九(一九七四)年六月に藤沢―石上間が高架線化して藤沢駅を江ノ電百貨店(現小田急百貨店藤沢店)二階に移転している)。前の注も含めて、江ノ電関連の記載は主にウィキの「江ノ島電鉄線」を参考にした)。]

 鎌倉の花と東都の花とを問はず、花を見花を記(き)する、心中既に花となるのである。實に花は奇麗である、濃艷である、誰れも愛玩するのである。然れども此花を記して花の快味を覺ゆると共に、一面頻りに反響の感想に打たるゝのである。此花や風雨一たび過ぎて香雲地に委すればどうである。今迄仰ぎ見られた花も今は花辨地上に落ちて泥土と何ぞ撰ばんのである。人も榮華に誇り、綺羅を纏ひ、金殿に住み、玉食に飽く者と雖も、一朝風雨の變に遇えば、此落花の觀なきを得ないのである。花を見て嘆賞すると共に、處世の前途を警成するを要するのである。花は人を嬉ばしめ又眞に人を戒むるものかな。

 誰れやらの歌に曰く、

  明日ありと思ふ心のあだ櫻 夜半に嵐の吹かぬものかは

[やぶちゃん注:「香雲」桜の花などが一面に咲いているようすを雲に見立てた語。

「地に委すれば」は恐らくは「委(まか)すれば」若しくは「委(い)すれば」と読んでおり、委ねれば、の意であろう(「委(い)す」には捨てるの意もあるが、であるなら、この場合は受身で「委さるれば」とならないとおかしい)。

「玉食」「ぎよくしよく(ぎょくしょく)」で、非常に贅沢なものを食べること。美食。

「警成」見慣れない熟語であるが、戒めるように己れに成すよすがとする、の意であろう。

「明日ありと……」は「親鸞上人絵詞伝」に載る、親鸞が九歳で得度する前夜に詠んだとされる和歌。]

きのふけふ 萩原朔太郎 (「利根川のほとり」初出形)

」 きのふけふ

きのふまた身を投げんと思ひて、
利根川のほとりをさまよひしが、
水の流れはやくして、
わがなげき、せきとむるすべしなければ、
おめおめと生きながらへて、
今日もまた川邊に來り石投げてあそびくらしつ、
きのふけふ、
あるかひもなきわが身をば、
かくばかりいとしと思ふうれしさ、
たれかは殺すとするものぞ、
抱きしめて、抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

[やぶちゃん注:「創作」第三巻第一号・大正二(一九一三)年八月号に掲載された。以下に示す大正一四(一九二五)年八月新潮社刊「純情小曲集」の「利根川のほとり」の初出形である。

 利根川のほとり

きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に來り石投げてあそびくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

題名及び読点の全除去その他、詩集中の「愛憐詩篇」の一連の詩群の表記統一によるものとは思われるが、どれも私には解せない改変である。朔太郎が多く望んだ朗唱を考えるならば、初出の方が遙かに優れていると私は思う。]

手のきずからこぼれる花 大手拓次

 手のきずからこぼれる花

手のきずからは
みどりの花がこぼれおちる。
わたしのやはらかな手のすがたは物語をはじめる。
なまけものの風よ、
ものぐさなしのび雨よ、
しばらくのあひだ、
このまつしろなテエブルのまはりにすわつてゐてくれ、
わたしの手のきずからこぼれるみどりの花が、
みんなのひたひに心持よくあたるから。

鬼城句集 夏之部 雲の峰

雲の峰   海の上にくつがへりけり雲の峰

      わら屋根や南瓜咲いて雲の峯

 

2013/05/26

大橋左狂「現在の鎌倉」 2

    戸數人口

 

 鎌倉は東西北の三面に山嶺負ひ、南面海に瀕する故夏涼しく冬暖かにして眞に氣候温順である。夏季寒暖計九十三四度冬期四十度に降らないのである。加ふるに到る處名所古蹟ならざるはないのである。故に都人士が紅塵萬丈の地去つて此地に別莊を構ふるもの多く、年々避暑避寒者は數を加へるのである。貸別莊も貸間も、夏季に至れば一軒一間も空きがないのである。此地に常住して京濱間の官衙銀行會社へ通勤する官吏紳商も横須賀に通勤する陸海軍人も數多いのである。鎌倉の戸數及び人口が年々歳々増加する事は前記の通りである。玆に記した戸數人口は大町、小町、由井ケ濱、材木座、雪の下、長谷、坂の下、極樂寺、扇ケ谷、二階堂、西御門、十二所、淨明寺の十三字が、純粹の鎌倉町の戸數人口である。江の島、片瀨、腰越の戸數人口は別に記載してある。此戸數人口は寄留すると否とに係らず現在鎌倉に起臥しつゝある者の實地に就ての調査である。記者自からの實地踏査ではない、警察官が實地に就て調査された毎年の戸口調査表を移記したのである。

[やぶちゃん注:「夏季寒暖計九十三四度冬期四十度に降らない」は華氏表記なので、摂氏に変換すると凡そ「夏季寒暖計三三・九から三四・四度、冬期四・四度に降らない」ということになる。

「瀕する」現在は「瀕死」という熟語でしかお目にかからないのであるが、「瀕」はもともとは水際・渚・水辺・浜・岸、土地が河や海などに沿って存在する、の意である。

「官衙」役所。官庁。]

 鎌倉町四十二年末の戸口は、戸數二千三百七戸、人口一萬二丁百四十二人であつた。四十三年末には戸數二千三百九十二戸、人口一萬一千五百六十八人を數えられた。四十四年末の調査で四十五年二月二日の現在戸口は、戸數二千四百二十二戸、人口一萬一千七百五十九人である。今各字に區別すれば左の通りである。

[やぶちゃん注:以下、底本では二段組であるが、一段で示す。]

       戸數    人口

  小町   二五一   一、二〇五

  大町   二七二   一、四九二

  雪の下  二九〇   一、三一二

  由井ケ濱 二一九   一、〇七九

  長谷   三九八   一、八二一

  坂の下  二〇四   一、〇六二

  極樂寺  一〇五     五四五

  材木座  三九〇   一、七八三

  扇ケ谷  一一八     四二二

  二階堂   五七     三一六

  西御門   三二     一八六

  淨明寺   四三     二五九

  十二所   四三     二七七

 

 以上は鎌倉町の戸數及人口の字別である。更に片瀨、江の島、腰越の四十五年二月現在の戸口は左の通りである。

       戸數    人口

  片瀨   三三七   二、〇一九

  江の島  一九八   一、二二五

  腰越   四九〇   二、八五五

  津村   二一七     七五五

[やぶちゃん注:鎌倉市公式サイトの二〇一三五月現在口動態累計によれば、

   鎌倉市総人口  一七三、七一一人

    同総世帯数   七三、三二七世帯

で、この当時(実に一〇一年前である)の

   総人口比で  一四・八倍

   総世帯数比で 三〇・三倍

に膨れ上がっている。各字との比較はリンク先のPDFファイルで確認されたい。

なお、ここでは「鎌倉町」となっているが、ウィキ鎌倉市」によれば、明治二二(一八八九)年にそれまで三〇あまりあった村が、東鎌倉村・西鎌倉村・腰越津村・深沢村・小坂村・玉縄村に纏まり(この年に軍港横須賀への搬路としての横須賀線が開通しており、これを機に鎌倉の観光地化が一気に進んだ)、明治二七(一八九四)年に東鎌倉村と西鎌倉村が合併して鎌倉町となった。鎌倉市としての市制施行は昭和一四(一九三九)年十一月であった。]

明恵上人夢記 15

15
一、二月十日の夜、夢に云はく、此の郡(こほり)の諸人、皆、馬に乘りて猥雜す。糸野の護持僧と云ふ人二人、馬より墮ち、倒れ墮ち了んぬ。餘人もおちなむずと思ひて見れども、只、護持僧二人許り墮ちて、餘は墮ちず。心に思はく、護持僧の墮つるは不吉の事かと思ふ。然りといへども、餘人は墮ちず。糸野の御前、上人の御房の居給ふを瞻(み)る。上人の御房等も大路におはしますと見る。
  已上、未だ此の事を聞かざる以前の夢想也。

[やぶちゃん注:この夢、後半部分が分かりにくい。識者の御教授を乞うものである。この後にある「已上、未だ此の事を聞かざる以前の夢想也」という補記は、この「15」よりも前の(特に「14」の)もの総てに係る注であることに着目せねばならない。但し、次の「16」の冒頭にも「此の事を聞きて後、此の郡の諸人を不便に思ふ」とあって、実は「此の事」とは明恵が後に心から「此の郡の諸人を不便に思ふ」ような具体的な、ある事実を指していることが判明する。従って、以下の私の訳はその文脈では間違っているものと思われるが、残念ながら私にはその「此の事」というのが如何なる事件事故出来事であるかが不分明である。従って現代語訳は、そうしたごまかしを私が敢えてなしたものであることをご理解頂きたい。
「二月十 日」は底本のママ。現代語訳では詰めたが、記載時に日を失念していた明恵が、後日の記載を期してわざと空けておいたものかも知れない。
「糸野の御前」底本の注には、『明恵の母の兄弟である糸野の豪族湯浅宗光の妻か。春日大明神の神託を受け、明恵に渡天を止まらせた人』とある。]

「糸野の御前」底本の注には、『明恵の母の兄弟である糸野の豪族湯浅宗光の妻か。春日大明神の神託を受け、明恵に渡天を止まらせた人』とある。]

■やぶちゃん現代語訳

15
一、二月十日の夜、こんな夢を見た。
「この有田郡(こほり)のお歴々の方々が、皆、馬に乗って、何やらん、ざわめいているのである。
 糸野の護持僧であると称する人が二人、馬より墮ちて、倒れ、地べたに転落してしまった。
 私は少し離れたところから見ていたのだが、その他の人々のことも、
『ああっ! あれでは落ちてしまう!』
と思いながら眺めていたのだが、ただ、その護持僧と称した二人だけが墮ちただけで、他の方々は馬から墮ちなかったのである。
 夢の中の私の心には、
『護持僧が落馬して墮ちるとは、これ、何か、不吉の謂いであろうか。』
という思いが強く起こった。
 そうは言っても、おかしいのだ。……
 何故なら、他の人々は落馬し墮ちることはなかったからである。……
――その後、場面が変わって――
 糸野の御前、そして、我らの師文覚上人様が、そこに居なさるのを確かに見たのであった。
 糸野御前や上人様がいらっしゃる場所は――先とは違って――京の大路を歩いていらっしゃる、という映像を見たのである。
〈明恵注〉
 以上の夢の数々は、未だ、その実際の事実関係について、それが起こる、それを知る以前の――一切の事実について私はまだ聞いてはいなかった時点での――夢想であったことを、ここに明記しておきたい。

栂尾明恵上人伝記 28―2 諸天来臨

 同二年の秋比(ごろ)、紀州の庵所(あんじよ)、地頭職掠(かす)め申す人在りて他領に成りしかば、むづかしき事ありて又、栂尾に還住(げんぢゆう)す。
[やぶちゃん注:元久二(一二〇五)年。明恵、満三十二歳。]

 其の年の冬、極寒(ごくかん)の後夜に臨みて坐禪し給ふに、曉天に至りて五體遍身冷え通りぬ。時に持佛堂の方より人の來る足音しけり。心を澄(すま)し聞き給へば、傍の障子をあくる。何者やらんと見るに、ゆゝしく氣高(けだか)げにて、其の裝束吉祥天(きちじやうてん)・辨才天等の如くなる天童來つて曰はく、餘りに冷えとほりて御坐(おは)す間、暖めて奉らんとて、頂をなで、靈藥(れいやく)などを與へ給へり。然らば則ち遍身軈(やが)て暖まりけり。其の後も此の天童常に來り仕へ給へり。

 又大威德の眷屬と覺しくて四五歳ばかりなる小童、頭は禿(かむろ)にて、手に弓箭を帶(たい)し來りて曰はく、我れに一の善巧方便(ぜんげうはうべん)を授け給ふに依つて、無始の煩惱忽に除滅(ぢよめつ)し、無邊の善根則ち生得(しやうとく)し、心も潔(きよ)く身も輕く成つて候と申して去りぬ。此の如き事、御弟子直(ぢき)に見給ふ時もあり。

耳嚢 巻之七 同病重躰を不思議に扱ふ事

 同病重躰を不思議に扱ふ事

 

 是も柴田玄養の物語の由。或家の小兒、至(いたつ)ての重き疱瘡にて面部口の廻り共に一圓にて、貮歳なれば乳を呑(のむ)事ならず。纔(わづか)に口のあたり少しの穴ある故、彼(かの)穴より乳をしぼり入(いれ)て諸醫療治なせど、誰(たれ)ありて□といふ者なく各斷(おのおのことわり)なるよし。彼小兒の祖母の由、逗留して看病なしけるが、立出て玄養に向ひ、此小兒御藥も給りけるが全快なるべき哉(や)、諸醫不殘御斷(のこらずおことわり)の樣(やう)、藥給る處は御見込といふある哉と尋ける故、我迚(われとて)も見込といふ事はなし、強(しひ)て兩親の藥を乞(こひ)給ふによりあたへしと語りけるに、然る上は御見込もなく十死一生(じつしいつしやう)の者と思召(おぼしめし)候哉、然らば我等療治致(いたし)候心得有間(あるあいだ)、此段申(まうし)承るよしに付、實(じつ)も十死の症と存(ぞんず)る由答へければ、あるじ夫婦を呼びて、是迄醫者衆も不殘斷(のこらずことわり)にて、玄養とてもあの通りなれば、迚も不治ものにあらず、然る上は我に與へ、心儘(こころのまま)になさしめよ、若(もし)、我(わが)療治にて食事もなるべき口つきならば可申上(まうしあぐべし)と玄養えも斷(ことわり)て、彼小兒風呂敷に包(つつみ)、我へまかせよと宿へ立歸りし故、玄養はけしからぬ老女と思ひ捨て歸しが、翌日、彼小兒乳も呑付(のみつけ)候間、療治給り候樣申來(まうしこす)故、驚(おどろき)てかの許(もと)へ至りしに、彼老婆の語りけるは、迚も不治(なほらざる)者と存(ぞんずる)ゆへ、宿元へ歸り湯をあつくわかし、彼小兒を右の湯へ入(いれ)、衣類澤山にきせて火の邊(あたり)に置(おき)てあたゝめしに、一向に出來(いでき)し痘瘡ひゞわれて、口の所も少し明(あ)ける故、乳を付(つけ)しに給(たべ)付(つけ)たると語りしが、かゝる奇成(きなる)事もありしと語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:小児痘瘡奇譚柴田玄養発信二連発。この祖母はおばあちゃんではない。ラスト・シーン、乳が出る程度の、今なら相当に若い女性である。私はこの話が、しみじみ好きである。

・「同病重躰を不思議に扱ふ事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『疱瘡の重体を不思義に救ふ事』とある。

・「□といふ」底本では「□」の右に『(諾カ)』と傍注する。それで採る。

・「十死一生」殆んど助かる見込みがないこと。九死一生をさらに強めた語で、「漢書」の「外戚伝」に基づく。

・「迚も不治ものにあらず」底本では「不」の右に『(可カ)』と傍注する。それならば「治るべきものにあらず」で意味が通る。それで採る。因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『迚も可活(いくべき)ものにもあらず』とあって、こっちの方が自然ではある。

・「一向に」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『一面に』。

・「給(たべ)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 同じく痘瘡の重体の児童を不思議に扱って命を救った事

 

 これも柴田玄養殿の物語の由。

 

……とある家の小児、至って重い疱瘡にて、面部・口ともに一面に膿疱が重なった瘡蓋となって、酷くくっ付き、固まってしまい、いまだ二歳のことなれば乳を呑むこともならずなって御座った。僅かに口の辺り、瘡蓋の山の間に、少しだけ穴のようなものがあったによって、その穴より絞った乳を流し入れては、辛うじて授乳させておる始末で御座った。

 諸医、療治なしたれど、あまりにひどい痂(かせ)なれば、誰(たれ)一人として療治せんとする者とてなく、頼んだ医師、悉く皆、断ったと申す。

 かの小児の祖母なる者、その家に逗留して看病して御座ったが、ある日――両親のたっての望みなれば、我ら仕方なく、この小児の療治をなして御座ったが――その我らの傍らへと出でて参り、我に向こうて、

「……この小児……お薬も戴いておりまするが……全快致すもので御座いましょうか?……他のお医者さまは、皆……残らず療治をお断りになられたとのこと……先生は、かくも、お薬を処方致いて下さいます上は……これ、見込みのあると……お思いにて御座いましょうか?……」

と訊ねて参りましたゆえ、

「……我とても――見込み――といふことは、これ、残念ながら御座らぬ。……強いてご両親が薬だけでもと切(せち)に願われたによって、言われるがままに、効き目もあまり御座らぬながら、せぬよりはましと薬を処方致いておる次第……正直申し、それが実情で御座る。……」

と語ったところ、

「……しかる上は……それは……実は快癒のご賢察も、これ、御座なく……十死(じっし)一生の者と、内心は思し召しになっておらるるので御座いましょうや?……しからば……我らに一つだけ、療治として致してみたき心得の御座いますれば……それに附き……一つ、本当のところのお見立てを、これ、申し承りとう存じまする……」

とのことなれば、酷いとは存じたれど、

「……正直……とてものこと、助かりよう、これ、御座ない病態と、存ずる。……」

と率直に答えました。

 すると、その祖母、急に主人(あるじ)夫婦を呼び寄せ、

「……これまでの医者衆も、これ、残らず匙を投げた!……今、この玄養さまにもお伺いを立てたところ、『この通りなれば、とてものことに癒ゆることも、生き残ろうはずも、まず、これ、ない』とのことじゃ!……かくなる上は、この子を我らに任せて、我らの思うがままにさせて、お呉れ!……玄養さまにおかせられては、もし、我らが療治をなして、口の辺りの、乳なんども吸わるるようになるようなことが御座いましたならば、また、その後の療治方について、ご処方なんどお受け致したく、その折りにはまた、改めてお願いに上がりまする。……さればこそ、今日までのご療治は有り難く存じまして御座った。……」

と、我らへも療治の終わりを一方的に告ぐるが早いか、かの小児を大きな風呂敷に包むと、

「――我らに任せよ!――」

と両親に言うと、小児を背負って実家へとさっさと帰ってしもうたので御座る。

 我らも、鳩が鉄砲玉を喰らったようなもので、暫く手持無沙汰のまま、向かっ腹も立って参りましてな、

『……如何にも失礼千万な老女じゃ!……』

と不快に思うて、困って平身低頭して御座った若夫婦を尻目に、そそくさと自邸へ帰って御座った。

 ところが、その翌日、かの若夫婦の所より使いの参って、

「――かの小児、やっと乳も飲みつけるようになりましたによって痂(かさ)の後(あと)療治を給りますよう、お願い申し上げまする――」

申し越して参りましたから、これには、我らも吃驚仰天、とり急ぎ、かの若夫婦の元へと往診致しましたところが、

……これ……

……かの小児……

――元気に若妻の乳を含んで、美味そうに吸うて御座いましたのじゃ。

 傍に御座った老婆は、

「……昨日のまことに失礼なる仕儀、これ幾重にもお詫び申し上げまする。……ただ、まっこと、玄養さまのお見立ての通り、とてものことに治らぬ者と存じましたによって、我が実家へと連れ帰りまして、湯を熱く沸かし、その小児をその湯へ入れ、衣類なんどもたんと着せ、さらに囲炉裏火(いろりび)の近くに置いて、十分に温めてやりましたところが……さわに出て御座った痘瘡の痂(かさ)が、これ、みるみる乾いて罅(ひび)割れ、口の辺りにても、少しばかし、大きに開きましたゆえ、即座に我らが乳を宛がってやりましたところ、まあ、ちゅうちゅうと吸いつき、力強う、飲み始めまして御座いました。……」

と深々と礼をなして語って御座いました。……

 ……いや、実にこのような、医の常識の及びもつかぬ奇妙なことも、これ、時には御座いまする。……

大橋左狂「現在の鎌倉」 1

大橋左狂「現在の鎌倉」

 

[やぶちゃん注:本作は明治の末年明治四五(一九一二)年七月十五日に鎌倉町小町の通友社から発行されたもので、作者は『鎌倉二の鳥居のほとりに』(自序末より)住んでいたと思われる左狂大橋良平なる人物によって書かれた、統計数値を各所に示した本格的な近代鎌倉の案内書である。但し、作者及び発行所についての詳細は不明である。

 底本(上記の書誌も含む)は、吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」(児玉幸多氏編)に載る同部分(同書は但し、以下に示す目次の内、残念ながら別荘・学校・営業の部分は省略されているので、正確には標題は『大橋左狂「現在の鎌倉」より』とすべきであるが、ブログ公開では煩瑣なので、かくした)を用いたが、私のポリシーに則り、恣意的に正字化した。但し、字配の空きなどは原則、無視した。踊り字「〱」は正字化し、傍点「ヽ」は太字で示した。また、ブログ公開版ではブラウザ表示の関係上、文字の段組の一部を変更した(それはその都度、当該箇所で断ってある)。一部に私の注を附した。なお、解説によれば、原本の振り仮名は一部を残すにとどめ、句読点を若干加えたともあり、親本は澤壽郎氏所蔵本、村田書店一九七七年刊行の『珍籍鎌倉文庫』の一冊として収められているとあるので(私は所持しない)、完本を読まれたい方はそちらを捜されたい。

 私が本作を電子化したい欲求は一に、耽溺する夏目漱石の「こゝろ」の冒頭に於いて「私」と「先生」が出会う鎌倉の実景を細部までくっきりとさせたいからに他ならない(リンク先は私の初出テクスト「心」)。私は二人の鎌倉海岸(材木座海岸)での出逢いを、本書が刊行される四年前の明治四一(一九〇八)年の七月下旬か八月に同定しているからである(私の「こゝろ」の論考「こゝろマニアックス」の最後の年表を参照されたい)。目次を例にとってみても『最近三ヶ年の戸數人口』『避暑の三ヶ年統計、水浴場案内』とあり、本作の叙述はまさに限りなく明治四一年に近いのである。私たちはこの大橋氏の行間に(目次だけしか読めない「營業一覽」の中にさえ)、二人が運命的に出逢った当時の鎌倉の活況をリアル・タイムの映像で見出すことが出来るのだと考えているのである。【作業開始:2013年5月26日】]

 

現在の鎌倉   大橋左狂

 

    目次

[やぶちゃん注:小項目の一部を改行して示した。]

 

鎌倉の地理

  位置、地勢、面積、風俗、産物、名物、

戸數人口

  気候、最近三ヶ年の戸數人口、現在の各字別戸數人口、

花の鎌倉

  鎌倉の花は隱君子的である、東都の花と鎌倉の花、

  各所の櫻、各所の桃

夏の鎌倉

  避暑地としての鎌倉、鎌倉は日本の代表的公園、

  鎌倉唯一の財源は夏期にあり、鎌倉商家の覚醒、

  避暑の三ヶ年統計、水浴場案内

想出多き秋の鎌倉

  鎌倉の長所は秋にあり、古戰場案内

國寶に充たされた錬倉

  鶴ケ岡八幡の國寶、建長寺の國寶、圓賞寺の國寶、

  淨智寺の國寶、子育闇魔堂、明月院、束慶寺、杉本寺、

  光觸寺、光明寺、廣德寺、極樂寺、淸淨光寺等

[やぶちゃん注:「廣德寺」は鎌倉大仏高徳院(正式には大異山高徳院清浄泉寺)の誤表記(本文も誤っている)である。「淸淨光寺」は鎌倉外の藤沢にある時宗総本山遊行寺のこと(正式には藤沢山無量光院清浄光寺)。以下の「名所古跡」に示されたように、記載範囲は鎌倉周縁域まで延びている。]

鎌倉の交通機關

  江の島電車は何時頃より出來たか、

  同社の沿革、同社の營業振り、

  鎌倉人力車は如何に活動しつつあるか

現在の貸家貸間料

  鎌倉の貸家數、貸間の戸數は何程あるか、

  貸家貸間料の標準調

名所古跡

  鎌倉、腰越、片瀨、江の島、鵠沼、藤澤、逗子、葉山

別莊一覽

   皇族、華族、文武官、銀行會社員、其他

[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、本文のこれより以下は底本では省略されているため、私もテクスト化出来ないが、黒部五郎氏のサイト「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の「明治末の別荘」に、本書のこの「別莊一覽」を参考にしつつ、更に他の資料をも駆使なさって製作された「明治末の鵠沼海岸別荘地の土地取得者・関係者」一覧表がある。本書の記載内容を想像するよすがとなろう。]

學校一覽

   學校、幼稚園

營業一覽

[やぶちゃん注:以下は底本では八段組となっているが、三段組に変えた。]

銀行會社    醫師      齒科醫

藥劑師     産婆      料理店

旅館      藝者家     温泉

待合所     米穀商     荒物商

酒類商     家具一式    菓子商

靑物乾物商   獸鳥肉販賣   牛乳搾取

魚商      蕎麥屋     運送業

藥種業     石炭商     佛塗師

賣藥化粧品   表具師     雜誌書籍業

呉服太物店   蒲鉾製造業   ラムネ製造業

和服裁縫    洋服仕立    小間物雜貨商

鎌倉彫     印刻業     印刷業

履物商     傘製造     時計店

石材商     金物商     陶器商

材木商     提燈張商    竹材商

篩製造業    綿製造業    骨董商

建具指物職   ペンキ塗職   寫眞業

桶職      疊職      硝子商

代書業     錺職      土木請負

染物職     足袋商     金錢貸附業

質商      西洋洗濯    靴製造

 

     鎌倉の地理

 

 鎌倉は相模國鎌倉郡の南端に位して、東は淺間、名越、辨ケ谷、丸山等の諸山を負ふて武州の久良岐、及三浦の田越に隣り、北西は太平、鷲峯、天臺等の山嶽を略して本郡の本郷、小坂、深澤、腰越の諸村に接して居る。南の一面は蒼茫たる相模灘に臨んで遙かに豆州の大島と相對して居る。東西二里一丁南北一里四丁餘ある。周圍は六里二十五丁餘、面積一方里半あつて南に弓形の由比ケ濱を嚙んで居るので、恰も節句の菱餠の形をして居る。地勢東北西に高くして漸次南に低下して居る。往昔靑砥左衞門藤綱扮撈錢(らうせん)の舊跡として名高い滑川は、東北より流れて鎌倉町の中央部を貫通して由井ケ濱に灌いで居る。西部には稻瀨川と云ふ小流がある。此川も滑川と同樣由比ケ濱に注いで居る。地味とて別段豐饒の方でない。が東北即ち名越、淨明寺及山の内に近き土地は米麥木綿等に適して居る。西南に下りて海に近(ちかづ)くに從つて砂地となるので甘薯、西瓜、蔬菜等が漸く作られてある。

[やぶちゃん注:「淺間」これは現在の横須賀線が潜る名越切通のある名越山の北東、「かまくら幼稚園」の南西の二〇〇メートルの所のピークの古称である。

「撈錢」の「撈」は「掬(すく)う」の意で、滑川に落ちた銭十文を銭五十文で松明を買い求めて川底から掬った例の故事をいう。]

 由來鎌倉は農業者尤も多く次は漁業者、商工の順位であつたのである。然るに年一年と別莊の新築多く殊に避暑避寒客が年々歳々其數を増加するので、專門の農業者も資産ある商工家も悉く貸別莊貸間等を設けて、避暑避寒客を見込んで相當利益を計つて居る。一方避暑避寒客もこれが爲め非常に便利に感ずるのである。鎌倉の産物として南沿海に荒布、和布(わかめ)、海藻、蛸、黑鯛、甘鯛、鮪、鰺、海老、海豚、烏賊、飽等の漁りがある。農産物としての大麥、小麥、蕎麥、米、豆類等は多く隣村からの産出である。

 又鎌倉名物としては中々に數多いのであるが、其内にも「おみやげ」品に適する重なるものは、八幡前に鎌倉彫、武者煎餠、同二の鳥居前豐島屋菓舖には元祖古代煎餠鎌倉時代の瓦煎餠、大佛煎餠、勝栗羊羹、新案鳩袋鳩ポツポ等奇拔の名物がある。殊に此鳩ポツポ菓子は八幡の神鳩其儘の原形にて腹中より豐の福德を顯はす同舖獨特の趣味菓なるより鎌倉土産として坊ちやん孃さん方の愛玩は一通りでない。由井ケ濱下馬には常盤屋の磯羊羹、長谷に至りては大佛前通りの鎌倉燒女夫饅頭等がある。長谷電車停留場附近にも各茶屋に大佛胎内調べと云奇拔の菓子や武者煎餠がある。坂の下權五郎神社前には、權五郎力餠がある。片瀨には片瀬饅頭、江の島には飽粕漬、もづく、榮螺子(さゞえ)、蛤、黄金飴、埋木貝細工等がある。此貝細工、黄金飴は特に鎌倉名物と稱されて江の島のみではない、八幡前は勿論長谷通り、片瀬江の島通に至る迄各所に陳列販賣して居る。

[やぶちゃん注:「新案鳩袋鳩ポツポ」ウィキ鳩サブレ―」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『鳩サブレーは、豊島屋の初代店主が店に来た外国人からもらったビスケットが原点である。フレッシュバターをふんだんに使用した製品だが、開発を始めた当時はバターが使われていることが分からず、それを見つけるまで大変苦労をしたという。 ビスケットとの違いを出し、日本人に馴染みやすい味にするため、スパイスやフレーバーは使用していない。 鳩の形となったのは、初代店主が鶴岡八幡宮を崇敬しており、本宮の掲額の八が鳩の向き合わせであることと、宮鳩が多数いるところから着想を得たためと言われている。なお、開発当初は鳩の尻びれは二本であったが、尻尾が太く見えるという理由で三本になった。現在、本店二階にあるギャラリー「鳩巣」に尾びれが二本の型が展示されている』。『鳩サブレーは明治時代末期の発売当初には「鳩三郎」とも呼ばれていた。これは、この菓子を開発した初代店主が最初に「サブレー」と言う耳慣れない単語を聞いた時に「サブレー」=「三郎」と連想したためである。また、当時は一般的にも「サブレー」という外来語よりも「鳩三郎」の方が馴染みがあり、通りがよかったという。 現在でも鳩サブレーのマスコットグッズの中には「鳩三郎」の名称を付けられたものがある。 ただし、「鳩三郎」はあくまでも初代が付けた愛称であり、正式な商品名は当初より「鳩サブレー」である』とあるから、この大橋氏の「鳩袋鳩ポツポ」というのは勝手な呼称のようだが、誕生とその後のエピソードを詳しく綴った豊島屋公式サイトの鳩サブレー 鎌倉生鎌倉育によれば、『初代は意気揚々とこの新作を焼き続け店に並べたものの、明治末の頃のことでございます「バタ臭い!」と云われ、売れる筈もございませんでした』とある、更には『そこで、ご近所の皆様、知己にお配りしたようです。皆様から「ご馳定さま、美味しかったヨ」勿論お世辞でございましょうが、これが初代には励みとなり、一層に頑張ったようでした』が、『或る時初代のツレアイがご近所に伺った折、裏庭で鳩サブレーが犬の餌になっていたのを見たそうでございますが、初代の鳩サブレーに対する情熱を思うと、伝え難く、数年の間ないしょにしていたとのことでした。今日でこそ私達はチーズ、バターなどにはなじんでいますが、明治の頃のことです、全く異質の味であったのでしょう』とあって、やっと『十年程経てから、ようやく少しずつ知られるようになって参りました。大正に入り秋場隆一、竹内薫兵両小児医博より(離乳期の幼児食に最適である)とご推せんを頂いてより逐次、ご贔屓筋も増え、御用邸各宮家よりもご用命を受けるようになったのでございます』とあるのと、この大橋氏の叙述を比べると、この絶大なる褒め言葉は「鳩袋鳩ポツポ」、いやさ、鳩サブレーのヒットに、多大な貢献した解説であったと言えはしまいか? 推測であるが、事実は豊島屋公式サイトの記載でさえそれほど人気土産であったようには書かれていないところをみると、「殊に此鳩ポツポ菓子は八幡の神鳩其儘の原形にて腹中より豐の福德を顯はす同舖獨特の趣味菓なるより鎌倉土産として坊ちやん孃さん方の愛玩は一通りでない」という評言コピー――これは一種のタイアップ広告のようにさえ見えて来はしまいか? 実に面白いではないか。

「常盤屋の磯羊羹」店自体が既に現存しない模様である。

「大佛胎内調べ」この菓子の様態には非常に興味がある。識者の御教授を乞うものである。

「片瀨饅頭」片瀬龍口門前(藤沢市片瀬海岸)にある創業天保元(一八二八)年の和菓子屋「上州屋」の「片瀬まんじゅう」。田山花袋「一日行楽」の「島」に既注済。

天景 萩原朔太郎

 天景

しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり。
しづかにきしれ四輪馬車、
光る魚鳥の天景を、
また窓靑き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。

[やぶちゃん注:「地上巡礼」第一巻第三号・大正三(一九一四)年十一月号に掲載され、後に詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)に所収された。その際、句読点が変更され、現行では、次の詩形が本「天景」として公的に認知されている。

しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥の天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。

私はどう朗読しても、初出の句読点の方を全力で支持するものである。]

きれをくびにまいた死人 大手拓次

 きれをくびにまいた死人

ふとつてゐて、
ぢつとつかれたやうにものをみつめてゐる顏、
そのかほもくびのまきものも、
すてられた果實(くだもの)のやうにものうくしづまり、
くさかげろふのやうなうすあをい息(いき)にぬれてゐる。
ながれる風はとしをとり、
そのまぼろしは大きな淵にむかへられて、
いつとなくしづんでいつた。
さうして あとには骨だつた黑いりんかくがのこつてゐる。

鬼城句集 夏之部 夕立

夕立    夕立や橋下の君子飯自分
[やぶちゃん注:「橋下の君子」河原や橋の下に停留して河原乞食とも称されたホカイビト、流浪の旅芸人をかく言い換えた。鬼城の弱者への共感的な優しい視線を私は感じる。]
      夕立の小ぶりになりぬてふてふ飛ぶ
[やぶちゃん注:底本では「てふてふ」の後半は踊り字「〱」。]
      夕立や池に龍住む水柱

2013/05/25

チェルノブイリで被曝したナターシャ・グジーの悲しみ「視点・論点〜チェルノブイリと広島」

知人の教えてくれた

チェルノブイリで被曝したナターシャ・グジーの悲しみ「視点・論点〜チェルノブイリと広島」

明恵上人夢記 14

14

一、同八日、初夜の行法已(をは)る。出でて後、眠り入りたる夢に云はく、一つの野の如き處有り。而るに、野に非ずして、古き家の跡の如し。以ての外に廣くして、其の四方に大きなる獅子の形像(ぎやうざう)有り。而るに、行動(ぎやうどう)して生身(しやうじん)の如く也。成辨、彼のひげなんどの整ほらざるを切りそろふ。怖畏すること極り無けれども、之を整ふ。小さき犬等あまた有りて、此の獅子之腹の下の毛の中に聚(あつま)り伏(ふ)す。心に思はく、此の小さき犬等、此の獅子を以て我が母と思へり。二方をそろへて、今二方をば同じき事也と思ひて、思ひ止まりぬと云々。案じて曰はく、文殊、此の郡を守護し給ふ也。小さき犬は此の殿原也。古き家の跡の如くなるは、當時、此の郡に人無き故也。後に案じて云はく、崎山の糸野(いとの)の家は、四方に鎭護の呪(じゆ)を懸く。後に湯淺に遣はすと思ふに、同じき事也と思ふは此の事也。

 

[やぶちゃん注:「初夜の行法」この夢の「同八日」の「同」は記載時系列の前後があったとしても九月以降のことになるから以下の記載が無化される可能性はあるが(実際には次の15が「二月十日」のこととあるから必ずしも無効とは言えない)、東大寺で旧暦二月行われた修二会について、東大寺公式サイトでは、平日は十九時に東大寺の大鐘がならされ、それを合図に「おたいまつ」が点火され、練行衆が上堂すると、初夜の行法として、まず読経(法華音曲)・初夜の時・神名帳・初夜大導師の祈り・初夜咒師作法が行われる、というのが一つの参考にはなろうと思われる。この場合の初夜は、六時の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行。

「崎山の糸野の家」底本の「歌集」の注記によれば、現在の和歌山県有田郡金屋町糸野上人谷にあった明恵の伯父湯浅宗光の館とする。湯浅宗光(生没年不詳)は鎌倉前期の武士で宗重(紀伊国湯浅城(現在の和歌山県有田郡湯浅町青木)を領した平清盛配下の有力武将。清盛の死後、平重盛の子忠房を擁して湯浅城に立て籠もるも源頼朝に降伏して文治二(一一八六)年に所領を安堵される。以後、順調に所領を増やして紀の川流域まで勢力を広げ、後に湯浅党と呼ばれた)の七男(養子とも)。七郎左衛門尉と称した。後に出家して浄心と号した。当初は父と共に平氏に仕えたが、やがて源氏に味方するようになり、鎌倉幕府御家人となった。父から紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を譲られて保田氏を名乗るようになる。嫡流でなかったにも拘わらず、湯浅一族の中での最有力者となり、保田氏が湯浅一族全体の主導的立場に立つ基礎を築いた。甥に当たる明恵の後援者でもあった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)但し、「崎山」というのは有田郡有田川町井口にある。因みにこの井口の法蔵寺境内には明恵が三十六歳から三十八歳頃まで修行を行った崎山遺跡があり、有田川町公式サイトの「崎山遺跡(町指定史跡)」記載には、『明恵上人が幼少の頃に養育を受けた叔母が夫の菩提供養のために寺を建て、明恵を迎え』『明恵は寺の後方に庵を造って居住し』たが、『現在、明恵上人紀州八所遺跡の中で、この崎山遺跡のみが卒塔婆の所在が不明となっており、遺跡の正確な位置は明らかではな』く、顕彰のために、『田殿橋の北詰、通称大師山と呼ばれる法蔵寺境内に復興された卒塔婆が立てられている』とあるので、この「夢記」の「崎山」こそが実は、最早、同定は出来なくなった正しい地名を指しているのかも知れない。ともかくもこの最後の辺りの解釈は私にはすこぶる難解でお手上げの感がある。力技の牽強付会の訳なれば、よろしく識者の御教授を乞うものである。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

14

同八日、初夜の行法を終えて、退出した後、眠りに入って見た夢。

「ある野原のようなところである――と思ったが、いや、そうではない――自然の野原ではなくて――古い屋敷が滅んで何も無くなった跡――のようである。ただ、それが、途轍もなく広いもので、その遺跡の四方には大きな獅子の姿を彫った像があるのである――と思ったが――像には像なのだが――これ――生きた獅子の如く――動く――のである。

 私は――その獅子の髭なんどが、これ如何にも疎らになって不揃いなのが気になって――切り調えている――のである。

 勿論、生きた獅子同様なれば――我らは大いに恐れ戦いておるのであるが――それでも――これを切り調えている――のである。

 そんな中、ふと見ると、小さな犬どもが数多おって、そ奴らが、これまた、この獅子の腹の下のふさふさした毛の中にびっしりと集まって頭を突き合わせ、眠っておるのであった。

 私は内心、思った。

『……この小さな犬どもは、この獅子のことを我が母と思っている。……』

と。

 その遺跡の四方の獅子像の内、二つの髭を切り揃え終え、残る二つも……同じ如、致そうと思ったが――そこで私は――何故か――思い止まった。……

〈私明恵の夢解釈〉

 幾つかの事柄を考え合せてみると、この夢は、文殊菩薩が、この有田郡(ありたのこおり)を守護なさっておらるる、ということを意味している。

 「小さな犬」というのは、今現在、この郡内にあられる主だった有力なる他所(よそ)から移入なされてこられた御仁らを象徴するものである。

 「古い家の跡のようなもの」というのは、この有田郡には、元来は人が住んでは居らなかった土地柄であったことに基づくものである。

〈後日の附記〉

 さらに後の再考してみたのであるが、有田の崎山(さきやま)の家に繋がるところの御前様の実家湯浅宗光殿の御屋敷は、これ、普段より、その四方に鎮護の呪符を懸けておらるることを実は知っていた。

 後日のある時のことであるが、私はその伯父なる湯浅の屋敷に宛てて、私の製した護符を贈ろうと考えたことがあった。

 ところがその時、私は

『待てよ? それは結局――もう、既に呪符のあるところに護符を贈るとは――同じこと、無駄なこと、ではないか!』

と、はっと気がつくという、如何にも恥ずかしいことがあったのである。

 この夢の最後の部分は、後に私に起こったところの、その失敗を予兆していた、のである。

「義古」という名の僕の隠し子の夢

今朝方の夢。



……僕はどこかの高原の芝生の上で一人の西洋人の三歳ほどの少女と遊んでいる。金髪の巻毛でぬけるように白い肌の美少女の彼女は英語しか話さないのだが、彼女がいたく僕を慕っているのが分かるのであった。そうして林の中を手を繫いで二人で歩きながら、僕は彼女が実は僕の子であることが分かった。そしてその少女の名は「義古」という名なのであることも何故か知るのである……。



覚醒の直後に、この「義古」という少女の漢字名だけが強く残っていた。――ふと――これは「よしこ」と読むのだと思った――因みに、僕は西洋人と肉体関係をもったことはない。「よしこ」という女性名は僕が片思いして、美事にフラれた中学時代の同級生の名ではある――そんなことを考えた。そこに意味や連関があるとも思われないかった。しかし、その少女が、哀しいまでに愛おしく感じられたのであった……

栂尾明恵上人伝記 28

 又其の比、南都の住侶(じゆうりよ)焚賢(ふんげん)僧都の許より、態(わざ)と人を奉れり。其の狀に云はく、「去る二十四日、春日の社壇に參詣、念誦の間に、折節(をりふし)御神樂(みかぐら)あり。舞巫(まひみこ)の中に俄に神託し給ひて云はく、我自(みづか)ら無量劫以來、一切の佛法を護つて、一切衆生を度せん事を誓ひぬ。然るに明惠房程の僧、此の比(ごろ)異朝(いてう)にも稀なり。況んや我が朝にあらんや。此の國に於て度衆生(どしゆじやう)の緣ありて、此の處に生ぜり。然れども前生(ぜんしやう)に中天竺に在りし餘執(よしふ)にて、釋尊の御遺跡(ごゆゐせき)を慕ふ志深くして、天竺に渡らん事を思ふ。天竺には是程の比丘もまゝあり。依て我れ闕(か)けたる所を補はん爲(ため)、又此の國の衆生に緣ある事を思ひて、渡天竺の事頻りに先年より惜み留むといへども、猶其の志休せずして、其の營みに及べり。先途(ぜんと)程(ほど)遠し。渡らば定めて歸る事を得んや。若し我が心を破つて進發せば、本意(ほんい)を成就せん事あらじ。此の趣を知らずやと云々。言多しと雖も詮(せん)を取れり。此の焚賢は事の緣有りて上人に日來(ひごろ)申承くる人なり。其の好(よし)みを以て示し申さるゝにや。かやうのことゞもに依つて、渡天竺の事延引(えんにん)と云々。

[やぶちゃん注:前段での私の感懐が強ち誤りではないことがお分かり戴けるものと思う。

「詮」は真理部分。]

耳嚢 巻之七 痘瘡の神なきとも難申事

 痘瘡の神なきとも難申事

 

 予がしれる人の方にて柴田玄養語りけるは、いづれ疱瘡には鬼神のよる所もあるにや。名も聞(きき)しが忘れたり。玄養預りの小兒に疱瘡にて、玄養療治しけるが、或時病人の申(まうし)けるは、早々さら湯をかけ、湯を遣ひ度(たき)よし申ける故、未(いまだ)かせに不至(いたらざる)時日故、難成(なりがたき)よし申ければ、かゝる輕き疱瘡にはかさかゝり候はゞ不宜(よろしからず)とて、何分早く湯を可遣(つかふべき)由強(しひ)て申(まうす)故、兩親も甚(はなはだ)こまり、玄養え呼(よび)に越(こし)候故參りけるに、しかじかの事なりと語りける故、輕き疱瘡なれ共、未(いまだ)詰痂の定日(ぢやうじつ)にもいたらず、玄養直々彼(かの)病人に向ひて道利(だうり)を説聞(とききか)せけるに、かゝる疱瘡に長(ながく)かゝり合せては迷惑なり、我も外えゆかねばならぬ事也といふ故、いづ方え參る哉と玄養尋ければ、四ツ谷何町何某(なにがし)と申(まうす)町家え參る由答ける故、奇なる事と思へども、父母と申合(まうしあはせ)、酒湯(ささゆ)のまなびしていわゐ抔してけるに、無程(ほどなく)肥立(ひだち)て無程相濟(あひすみ)ぬ。玄養歸宅のうへ、去(さる)にても怪敷(あやしき)事をと四ツ谷何町何や某(なにがし)と申(まうす)者方え人を遣して承りけるに、一兩日熱氣強(つよく)小兒疱瘡と存(ぞんずる)よし答ひける故、然れば彼(かの)疱瘡にて、鬼神のよる所ある、諺(ことわざ)に又うそならずと物語りせし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狐妖から疱瘡神の奇譚で軽く連関。疱瘡及び疱瘡神の話は、流石に死亡率も高い流行病であった故に「耳嚢」には多く出る。疱瘡(天然痘)については「耳嚢 巻之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の注を参照のこと。

・「柴田玄養」不詳。

・「さら湯」新湯・更湯で沸かしたばかりのまだ誰も用いていない風呂のことをであるが、後文から考えるとこれは酒湯で、「ささ湯」か「さか湯」の誤写の可能性が強いように思われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『さゝ湯』とある。「酒湯」(後注参照)で訳す。

・「かせ」「かさかゝり」は「痂」(かせ/かさ)。天然痘は発症である発熱の後、七~九日目に四〇度を越える高熱(発疹が化膿して膿疱となることによる)が発するが、それが収まって二~三週目に、発疹部の膿疱が瘢痕を残して治癒に向かう。その瘡蓋(かさぶた)状になった膿疱患部のことを指す。

 

・「詰痂」「つめかさ」と読んでいるか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『結※』(「※」=「扌」+「加」)とある右に『〔痂〕』とする。この結痂(けっか)ならば、先に示した発症後二~三週目の発疹部の膿疱の瘡蓋化(「痂(かさぶた)」を「結」ぶ)の謂いで採れる。この意味で採る。

・「道利」底本には右に『(道理)』と補正注がある。

・「酒湯」底本の鈴木氏注に、『サカユ。疱瘡が治癒した後、温湯に酒をまぜて沿びさせること』とある。潔斎と寿ぎの禊ぎの意味があるのであろう。私は個人的な趣味から「ささゆ」と読むことにした。

・「答ひ」底本には右にママ注記がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 痘瘡の神なんどというものは存在しないとは言い切れぬという事

 

 私の知人の所でたまたま逢った、柴田玄養殿と申す医師の語ったことで御座る。

「……結局のところ……疱瘡の病いに於いては、これ……鬼神が憑くことによって発するという病因も、また一つ、あるのでしょうか……。」

と語り出した(その際、その患者の姓も聴いたが、失念致いた)。

「……主治医として担当して御座る〇〇家の小児が疱瘡に罹患致し、我らが往診療治致いて御座った。

 高熱を発して数日の後、病児が突如、看病して御座った家人に向かって、

「……早(はよ)う、酒湯(ささゆ)をかけてくんない……もう、湯を使いとうてならんのじゃ……」

と申したによって、

「……いやいや、未だ痂(かさ)も生じておらぬ頃合いなれば……とてものことに成し難きことなるぞ……」

と諭せども、

「……この程度の軽(かろ)き疱瘡の場合はの、痂(かさ)がかかってからでは酒湯を用いるは、これ、逆に良ろしゅうないのじゃ!……どうか……かえって悪うなってしまう前に……早(はよ)うに湯をつかわするがよろしいのじゃて!……」

と、しきりに訴え、その様子は、これ、この小児の謂いとも思われなんだと申しました。

 この奇体なる愁訴には、両親ともにはなはだ困って御座って、遂には我らが屋敷へ使いを寄越して御座ったによって往診致いた。

 かくかくしかじかの旨、聞き及んだによって、我ら、

「――軽い疱瘡にてはあれども、未だ、熱が下がって瘡蓋(かさぶた)が出来て良うなる頃合いにも、今は至ってはおらんでの――辛抱せい!」

と直々に、噛んで含むように道理を説いて言い聞かせました。

 ところが、

「……いや――このような軽(かろ)き疱瘡なんぞのために――長々とこの坊主に関わっておったのでは、こっちが迷惑じゃ!――我らも外(ほか)へ行かねばならぬ場所があるのじゃて!」

と、これまた、妙なことを口走って御座ったゆえ、

「――一体、何処(いず)方へ行くと申すか?」

と、我ら、すかざす糺いた。

 と――

「――四谷××町〇△□△申す町家へ参るじゃ――」

と答えたので御座る。

 我ら、怪しきこととは思えども、病児の父母とも相談の上、それから、一両日の内に酒湯(ささゆ)の儀の真似事を致いて、形ばかりの快癒の祝いなんどを執り行ったところが、これ、ほどのう、軽快致し、それからほどなく小児の疱瘡、これ、すっかり治って御座ったのじゃ。

 一方、我ら、その酒湯を成した日、帰宅致いてより、

「……それにしても……如何にも不思議なることを口走って御座ったのぅ……」

と、つい、気になって、

「四谷××町〇△屋□△と申す商家のあるやなしやを聴き、あったれば、今日只今、急患などのなきかと訊ねよ。」

と、使いの者を走らせて調べさせたところが、帰ったその者の曰く、

「――二日ほど前より、当家の小児が相当な熱を発し、まずは疱瘡に罹ったものと思わるるの由にて御座いました。」

との答えで御座った。……

 ……さればこそ、かの疱瘡にては……これ――鬼神がとり憑いたるによって発するものもある――と俚諺に申しまするも、強ち偽りにては御座らぬと存ずる。……」

と物語って御座った。

所感斷片 萩原朔太郎

 所感斷片

 

 掏摸といふ人種は何時でも靈性を帶びて居る。彼は鋼鐵製の光る指をもつて居る、彼の眼はラヂウムのやうに人の心臟を透視する、その手は金屬に對して磁石の作用をする。

 彼の犯罪は明らかに靈智の閃光であつて、同時に纖微なる感觸のトレモロである。

 掏摸の犯罪行爲の如きは明らかに至上藝術の範圍に屬すべき者である。

 

 地上に於て最も貴族的なる職業は探偵である。彼の武器は鋭利なる觀察と推理と直覺と磨かれたるピストルである。

 彼の職業は常に最も緊張され――時としては生命かけである――然も未知數の問題に對して冥想的である。犯罪が秘密性を帶びて來れば來る程彼の冥想は藝術的となり、犯罪が危險性を所有すればする程彼のピストルは光つて來る。探偵それ自身が光輝體となつて來る。

 

 探偵及び兇賊を主人公とした活動寫眞が他の如何なる演藝にも優つて我々の感興を索く所以が此處にある。『T組』の兇賊チグリス及び美人探偵プロテヤ(淺草電氣館)の一代記は詩人室生犀星をして狂氣する迄に感激せしめた。

 

 如何なる犯罪でも犯罪はそれ自身に於て既に靈性を有して居る。何となれば兇行を果せるものは其の刹那に於て最も勇敢なる個人主義者となり感傷主義者となり得るからだ。のみならず彼は直接眞理と面接することが出來る、人類の僞善と虛飾と假面を眞額から引ぱがすことが出來る。

 

『人間にパンを與へろ、それから藝術を與へろ』孔子の言つたことは一般に眞理だ。けれどもパンをあたへられないでも藝術を所有する人がある。その人が眞個(ほんと)の藝術家だ。

 

 最初にパンを獲るために勞働する人がある、一般の藝術愛好家(ヂレツタント)である。最初にパンを獲るために乞食をする人がある、生れたる詩人である。

 

 藝術家とは人生の料理人である。料理人とは『如何にしてパンを獲得すべきや』といふ問題の解答者ではない。料理人とは『如何にしてパンより多くの滋養分と美味とを攝取すべきや』といふ質問の答案者である。

 

 汝の生活の心持を灼熱しろ。センチメンタリズムを以て汝の生活を白熱しろ。

 汝のセンチメンタルを尊べ、人生に於ける總ての光と美とは汝の感傷によつてのみ體得することが出來る。此處に新らしい生活がある。祈禱と奇蹟と眞理のための生活がある。キリストの生活がある。ベルレーヌの生活がある。小説サアニンの生活がある。光りかがやく感傷生活がある。

 

 最も光ある藝術とは最も深甚に人を感動せしむる藝術を意味する。最も人を感動せしむる者は言ふ迄もなく光と熱である。而して光と熱の核は感傷である。

 我々は第一に日本の自然主義が教へた蛆虫の生活を超越せねばならぬ、じめじめとした賤民の藝術を踏みにじらねばならぬ。

 

 至上の感傷は人情を無視する、寧ろ虐殺する。我に順ふものは妻と子と父母とを捨てねばならぬとキリストは訓へた。感傷門に至らんとする者は最初に新派悲劇と人情本から超越しなければならぬ。

 

 狂氣も一種の感傷生活である。情熱と祈禱と光に充ちた生活である。然も狂人の生活が如何ばかり光榮に輝ける者だといふことを狂人以外の人は全く知らない。

 

[やぶちゃん注:大正四(一九一五)年一月一日附「上毛新聞」に掲載された初出形を底本の校異に基づき復元した。具体的には校訂本文では以下のように訂されてある。

 (初出)  →  (校訂本文)

 生命かけ  →  生命がけ

 秘密性   →  祕密性

 索く    →  牽く

 眞額から  →  眞向から

 蛆虫    →  蛆蟲

但し、太字は底本では傍点「ヽ」であり、更に言えば底本は総ルビであると底本(筑摩版全集第八巻)の校異注があるので、完全な初出復元ではない(底本にはルビはない)。

「『T組』の兇賊チグリス及び美人探偵プロテヤ(淺草電氣館)の一代記」というのは、当時上映された活動写真の一本と思われるが不詳。因みに、ネット検索では、ツイッターの「室生犀星@MUROUSAISEI_bot」氏のツイートに『せんちめんたる組の凶賊チグリスといふ別名をこしらへました。萩原は女探偵プロテア氏。』という謎めいた一節を発見したきり。私は犀星の全集を持っていないので、ここまでである。識者の御教授を乞う。

「小説サアニンの生活」一九〇七年に刊行されたロシアの作家ミハイル・ペトローヴィチ・アルツィバーシェフ(Михаил Петрович Арцыбашев 一八七八年~一九二七年)の長編小説“Санин”「サーニン」(Sanin)。主人公の青年サーニンの性欲を賛美する、虚無的刹那的快楽に生きる姿を通して、一九〇五年のロシア革命で敗北したインテリ階級の挫折感を描いた近代主義小説の代表的作品とされる(以上は「大辞泉」の「サーニン」及びウィキミハイル・アルツィバーシェフに拠った)。]

黄色い帽子の蛇 大手拓次

 黄色い帽子の蛇

ながいあひだ、
草の葉のなかに笛をふいてゐたひとりの蛇、
草の葉の色に染(そ)められて化粧する蛇のくるしみ、
夜(よる)の花をにほはせる接吻のうねりのやうに、
火と焰との輪をとばし、
眞黄色な、靑(あを)ずんだ帽子のしたに、
なめらかな銀(ぎん)のおもちやのやうな蛇の顏(かほ)があらはれた。

鬼城句集 夏之部 虎が雨

虎が雨  かりそめに京にある日や虎が雨
[やぶちゃん注:「虎が雨」曾我兄弟の仇討がなされた陰暦五月二十八日に降る雨のことをいう。兄十郎祐成が斬り死にして、それを悲しんだ愛人の虎御前の涙雨とされた。「曽我の雨」「虎が涙」ともいう夏の季語。鬼城には
      寢白粉(ねおしろい)香にたちけり虎が雨
という句もあり、私はこの嗅覚的にすこぶる上手い「寢白粉」の方が好みである。]

2013/05/24

栂尾明恵上人伝記 27 二度目の天竺渡航断念

 元久二年春比(ごろ)、年來の本意たる問、天竺(てんぢく)へ渡るのこと思ひ立ち給ひけり。同心の同行五六人なり。志を一にして、既に其の營みに及ぶ。又大唐の長安城より中天竺王舍城(ちゆうてんぢくわうしやじやう)に至るまでの路次(ろじ)の里數に付きて、先達(せんだつ)の舊記を尋ね、これを檢(しら)べ注し給ふ。今に上人の御經袋(おきやぶくろ)の中にあり。然る間評定(ひやうぢやう)し營みて、殆んど衣裳の出でたちに及ぶ。然るに上人俄に重病を煩ひ給へり。其の病の躰(てい)普通にあらず。飮食なども例の如し、起居(ききよ)あへて煩ひなし。只此の渡天竺談合(とてんぢくだんがふ)の時のみ身心苦痛す。或時は左の片腹切り裂くが如く、痛く、或時は右の方苦痛す。心中に深く思ひ定むる時は、兩方の腹背に通りて刺疼(しとう)し悶絶す。是れ只事にあらず。先年渡天竺の事既に思ひ立ちし時、春日大明神種々の御託宣ありしに依つて思ひ留りき。思ひ留るといへども、其の志休(とゞ)め難くして、亦思ひ立つ處なり。さりながら、數日病惱して身心疲極(ひきよく)する間、遠行(ゑんかう)叶ひ難し。仇て試みに、本尊釋迦の御前と、春日大明神の御前と、善財(ぜんざい)童子等の知識の御前と、此の三所に御鬮(みくじ)を書して取るべし。一には西天に渡るべきや、一には渡るべからざるかと云々。然るに此の三所の御鬮の中、たとひ一處にても渡ると云ふ鬮あらば、其の志變ずべからずとて、心神深く潔齋して誠を致して、祈請して是を取る。善知識と大明神の御前の鬮をば他人に是を取らしめ、本尊の御前の鬮をば上人自ら是を取り給ふ。佛前の壇上に二の鬮をうつす。一の鬮忽にころびて壇の下に落つ。是を求むるに終に失せぬ。不思議の思ひに住して其の殘る鬮を開き見るに、渡るべからずと云ふ鬮なり。知識・明神の御前の鬮同じく渡るべからずと云ふ鬮なり。上人其の朝(あした)語つて云はく、今夜の夢に、空中に白鷺(しらさぎ)二つ飛ぶ。其の上に白服を着せる俗人一人立てり。春日大明神の御使と覺しくて、弓箭(ゆみや)を取りて一の鷺を射落すと見つると云々。今思ひ合はするに、此の鬮の一つ失せつるに符合して不思議に思ひき。
[やぶちゃん注:私は明恵を尊敬するが信徒ではないから平気で言えるのであるが、この時の明恵の病態は、所謂、重度の心身症のように思われるのである。明恵の無意識の中には、実は天竺への渡航を『実はしたくはないのだ』若しくは『実はすべきではないのだ』という希求が有意に大きく存在したのではなかったろうか? 但し、尋常でない明恵のストイックさを考える時、死の恐怖や災難による『実はしたくはないのだ』というレベルの低い卑怯な内心は全く考えられぬから、寧ろ、自ら衆生を還相廻向によって済度すべき存在であると認識していたと思われる明恵が、自分自身の正法の追究を主たる目的として天竺へ渡航するということに対し、実は根本的な部分で非常に強い疑義を抱いていた――西方巡礼の途次で命を落とすかも知れないという予覚に基づくところの、自己の本来の衆生済度という使命の放棄に繋がるかもしれない蛮挙としてそれが無意識下に於いて増殖していた――のではなかったか、それによって激しい身体変調と不定愁訴を訴える重い心身症を発症していたのではないか、と私は考えるのである。]

こんなことを考えて鬱々としている

どこかの国のジャーナリストが広島の被爆を「神の懲罰」であるとするのなら、そのコラムシストは、エニウェトク環礁の村人もチェルノブイリや福島の人々も皆その「懲罰」を受けて当然の人々であると言って憚らない人物であるということになる。彼が新聞人失格である以前に、それを載せて平然としていられる新聞社自体の愚劣さに反吐が出る。愚者の慰安婦へのおぞましい発言への返報として差別的に返すその言葉は結局、何らの正義をも平和をももたらしはしない。

先日、多くの悲惨な犠牲者を出した竜巻のエネルギを、その国は気象学者の算定に基づいてと称して、原爆の8倍から600倍と公的に報じている。僕はこれに激しい違和感を覚えた。しかし日本のメディアはどこもその違和感を指摘しないのは何故だ!? 今の日本人は、その報道を、何の抵抗もなく素直に納得してしまうようになってしまったのだろうか? 原爆を落とした国の悪逆なるこの正当化の一端をうさぎ小屋の飼いならされたうさぎはへらへらと認めるようになってしまったのか!? 日本で天変地異が起こり、その凄惨な被害をもたらしたエネルギを原爆何個分などと報じたら、その日本のメディアは失格である。私はその換算自体を非科学的だと言っているのではない。その換算自体が倫理的に「人間ならば」許されないということを、言っているのである。

福島第二原発の汚染と向後の状況は我々日本国民が『認識させられている』程度のものではない。もっともっと深刻である。私の知人には、まさに事故直前まであそこに関係していた人物がいるが、「汚染の深刻な事実は隠蔽されている」とはっきり言っている。

この数日、僕はそんなことを考えて、鬱々としていた。

ただ言えることは、こうした感じ方を僕が失っていないことは――僕にとっては――すこぶる附きで『幸せ』だということである。僕が僕であるために――である。

耳嚢 巻之七 稻荷宮奇異の事

 稻荷宮奇異の事

 

 久保田何某は、久しく小日向江戸川端に借地して住(すみ)けるが、拜領の屋敷と相對替(あひたいがへ)して、其儘右借地を居(ゐ)やしきとしてありしが、借地の比(ころ)より稻荷とてちゐさき洞(ほら)ありしが、地にては甚だおろそかにせしに、地主相對替なしけるが右洞も地主へ歸し、本所へ右地主引移りけるに、二三日過(すぎ)て取拂(とりはらひ)候元(もと)の場所え引渡しけるが、祠(ほこら)を唯持來るや、以前の通りありしゆへ、驚き陰陽家(おんみやうか)の者抔招(まねき)て、地祭(ぢまつり)して鎭守となしけるよし。右の陰陽師、此稻荷は餘り立派になしては不宜(よろしから)じ、麁末(そまつ)にても奇麗に祭り可然(しかるべき)者(もの)といゝし儘、有來(ありきたる)ちいさき祠のうへは、覆敷埋(おほひしつらひ)て鎭主なすよし語りぬ。引渡(ひきわたし)の節、地主僕抔元の所へ密(ひそか)に置ける由、又は稻荷には狐をつかはしめと被申せば、狐は靈獸ゆへ斯(かく)なしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。この一条、表現が無駄に繰り返され、誤字としか思えぬものが散見されて、ひどく読みにくい。実は底本でも鈴木氏が例外的な注を附しておられる。以下に全文であるが本条読解には必須と思われるので引用させて頂く。

   《引用開始》

 この一条、悪文の見本のような感がある。写本も悪いせいであろうが分りにくい文章である。要するに久保田某が江戸川端の借地を地主と相談の上で、拝領屋敷と交換して居宅とした。そこにもとからあった稲荷の祠と洞穴は、もともと地主も大切にはしていなかったが、祠は旧地主の所有として取払い、地主の住居である本所へ移した。しかるにまた元の所にその祠が戻っていたので、久保田某は驚いて祭った。内実は地主の下男が横着をして、祠を片付ける振りをしてそのままにして置いたのを、稲荷が舞戻ったと早合点したのが真相らしいというのである。

   《引用終了》

但し、稲荷が岩の洞穴のようなものの中にあったのなら、最後のような屋根覆いの必然性が減じるように思われので、私は「洞」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『祠』の誤字と採った(以下の注を参照)。

・「小日向江戸川端」岩波版長谷川氏注には『小日向水道橋の南、江戸川沿いの地をいうか』と注されておられる。

・「拜領の屋敷」幕臣が江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷と称し、大名が個人的に民間の所有する屋敷や土地を購入して建築したものは抱屋敷(かかえやしき)と呼んだ。

・「相對替」当事者双方の合意に基づいて田畑・屋敷等を交換すること。田畑の永代売買が禁止されていたために行われた事実上の土地所有権移動の一形態である。幕臣も幕府の許可を得て、拝領屋敷の相対替をすることが出来た。当初は新規に拝領した屋敷の場合は、相対替えには三年経過することが条件であり、また一度相対替した屋敷は替えて十年が経過している必要があったが、文化元(一八〇四)年には前者は年限の規制が廃止され、後者は五年に短縮された。さらに文久元(一八六一)年には五ヶ月経過後ならば再度の相対替が許可されるようになった、と参照した小学館「日本大百科全書」にはある。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、この規制緩和によって、久保田何某は恐らく新規拝領の屋敷を相対替えしたものと判断される。なお、この言葉が用いらているからには相手も幕臣であるのは言うまでもなく、この久保田の住まう借家もその幕臣が貸していた自身の拝領屋敷でなくてはならない。

・「小さき洞」「右洞」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はいずれも『小さき祠』『右祠』。岩を穿った祠ともとれなくなくはないが、ここではその移転が問題になっているので、ここは孰れもバークレー校版で採る。

・「地にては」底本では右に『(主脱カ)』と傍注し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では正しく『地主にては』とあるので、「地主」で訳す。

・「唯持來るや」一読、前後の意味がよく分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『唯』は『誰』とあるので合点出来る。バークレー校版で採る。

・「陰陽家」ここでは単なる市井の祈祷師であろう。

・「有來(ありきたる)ちいさき祠のうへは、覆敷埋(おほひしつらひ)て鎭主なすよし語りぬ」この部分、やはりどう読むか非常に困った。「有來」はありふれているの意の「ありきたり(在り来り)」の当て字と読めるが、「覆敷埋」はお手上げであった。当初は「覆敷埋(おほひしきうめ)て」と読んではみたものの、読んだ自分も何だか意味が分からない。結局、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは、

 手軽く有来(ありきたる)小さき祠の上へ、

 上(う)は覆補理(おおいしつらい)して

 鎮主となすよしかたりぬ

とあって、さらに長谷川氏の注で「上は覆補理して」は『上部におおいを設けて』とあり、目から鱗。最早、このバークレー校版で採る以外に本条を読み解くことは出来ないほどである。

・「又は稻荷には狐をつかはしめと被申せば」底本には右にママ注記を附す。訓読不能である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、『又は稲荷には狐を使はしめとか申せば』とある。バークレー校版がよい。なお、我々は稲荷を狐を祀るものと思い込んでいるが、本来は京都一帯の豪族秦氏の氏神であり、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神を主神とする食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。その後の神仏習合思想においては仏教の荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られるに至った。現行の神仏分離の中にあっては神道系の稲荷神社にあっては「古事記」「日本書紀」などの宇迦之御魂神(うかのみたま)・豊宇気毘売命(とようけびめ)・保食神(うけもち)・大宣都比売神(おおげつひめ)・若宇迦売神(わかうかめ)・御饌津神(みけつ)といった穀物・食物の神を主祭神としている。狐との関連は以下、参照したウィキ稲荷神」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅四年(七一一年)には最初の稲荷神が文献に登場する。宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれて上下社に祀られるようにもな』り、『江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐は稲荷神という誤解が一般に広がった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である』。『稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれることが多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった。ただし狐は肉食であり、実際には油揚げが好物なわけではない』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 稲荷の宮の奇異の事

 

 久保田何某(なにがし)殿は、永く小日向江戸川端に借地をして住んで御座ったが、この度、お上より拝領した屋敷と相対替(あいたいが)えを致し、そのまま、現在の借地を御自身の正式な拝領屋敷として続けて住むことと致いたと申す。

 さて、その小日向江戸川端の屋敷内には、借地であった頃よりずっと、稲荷と称した小さな祠(ほこら)が、これ、御座った。

 この祠――しかし元の地主方にては、はなはだ疎かに扱って御座ったやに見えた――と久保田殿の談。

 久保田殿、この度の地主との相対替えを期に、この祠も地主方へと返し、本所にあるその地主の屋敷へと引き移させて御座ったと申す。

 ところが、二、三日過ぎて見てみると、取り払って先方へ送ったはずのその祠が、またしても元の場所へ――引き渡したにも拘わらず、その祠を誰かが再び持ち来たったものか――以前の通りにあった。

 久保田殿、流石に大いに驚き、祈祷を生業(なりわい)と致す者なんどを招いて、地鎮祭など執り行い、鎮守として祀ることとなさった由。

 その際、祈祷師が言うことに、

「この稲荷はあまり立派に祀りなしてはよろしゅう御座らぬ。まあ、質素なものでよろしゅう御座るによって、まずは綺麗に祀っておけば、よろしいという代物にて御座る。」

との見立てを成したればこそ、言うがままに、そのありがちな小さな祠の、その上に、雨風を除け得る程度の小ざっぱりとした覆いなんどを設(しつら)えて、屋敷の鎮守と成した――とは、久保田殿の直談で御座った。

 

 さてもこれ、按ずるに、祠の引き渡しの際、取りに参った地主方の下僕なんどが、一度は運び出す振りを致いたものの、面倒になってすぐに元あった場所へこっそりと戻し置いた、と申すが事の真相ででもあろうかと思わるるが、噂では、稲荷神に於いては狐を使者として使役致すと申すによって、狐は霊獣なればこそ、あるべき元の場所へと彼らが戻したのじゃ、と、まことしやかに申すものもおるやに聴いておる。

處女の言葉 萩原朔太郎

 處女の言葉

 處女の言葉といふ課題であるが、處女といふ意味を、此處では一般に「若い娘」として解釋したい。今日の世の中では、若い娘だけが獨り朗らかで快活である。なぜなら今のやうな社會、すべての人が希望を失ひ、就職に窮し、靑年や學生でさへも、老人のやうに意氣消耗してゐる社會に於て、獨り若い女たちは、至る所に就職の道があり、手痛い生活難もなく、前途に花やかな夢を抱いて居られるからである。したがつて今の世の中では、若い娘たちの言葉だけが、いちばんエネルギッシュに生々とし、魚のやうに潑剌として泳いで居る。實際今日に於て、眞に「生きてる言葉」を持つてるものは、街路の若き女性群のみ、他はすべて死語にすぎないといふ觀がある。

 今の日本の若い女、特に女學生の言葉については、前にも他の新聞雜誌に書いた通り、アクセントが強く、齒切れの好いことが特色である。齒切れの好いことは、智的で意志の強い性格を反映し、アクセントの強いことは、感情の表出が露骨になつたこと、即ち主觀の主張が強く、エゴイスチックになつたことを實證する。試みに彼等の間の流行語、
「ちやッかりしてンの。」
「モチよ。」
「斷然行くわ。」
等々を聽いて見給へ。いかに言葉の齒切れが好く、アクセントが強いかが解るだらう。日本の若い娘たちが、かうした言葉を使ふといふのは、つまり彼等の感情や思想やが、エゴの主張の強い、個人主義の西洋風になつたからである。日本の傳統的な言葉といふものは、すべて「私」の主觀的エゴを省略する。例へば I love you.(私は君が好きだ)といふ時、日本語では單に「君が好きだ」と言ふ。つまり東洋の文化は、西洋のヒューマニズムと反對に、主觀人のエゴを殺して、自然と同化することを理念するからである。所でまた、人間の言葉といふものは、主觀の感情が強くなるほど、言葉に自然の抑揚がつき、アクセントが強くなつて來る。そこで外國語にはアクセントが強く、日本語にはそれが極めて弱いのである。
 今の若い娘たちは、かうした日本語の傳統を破壞し、より西洋語の本質に近い言葉の方へ、日本語を新しく革命しようとして居るのである。その意味に於て、彼等はまことに意識せざる時代の詩人(言葉の革命者)である。そればかりではない。彼等は日本語の本質してゐる、文法そのものさへ變へようとしてゐをのである。
 エゴの主張の強い西洋人は、すべて主觀の意欲する感情を先に言ひ、次に目的の事物を言ふ。例へば I want some cakes.(欲しい。菓子が)と言ふ。日本語はこれの反對であり、先づ名詞を先に言ひ、最後に「欲しい」といふ主觀を言ふ。したがつて日本語は、感情の發想が力弱く、主觀の欲望やパッションを、充分に強く表出できないのである。僕等のやうな文學者も、今日の半ば歐風化した日本に生れ、さうした文化的環境に育つた爲に、この點で常に言葉の不自由に苦しんでゐる。今の日本で、僕等の詩文學が畸形的にしか成育し得ないのは、僕等の詩想の内容と、現存する日本語との間に、かうしたギャップの矛盾性があるためである。然るに町の若い娘や女學生やは、彼等一流の無邪氣さと大膽とで、僕等の敢て爲し得ない困難事を、何の苦もなく解決して居るのである。即ち例へば、
「好かんわ。そんな。」
「厭だわ。私。」
「行くわよ。どこでも。あんたと。」
「嫌ひ。そんなの。」
「欲しいわ。私。蜜豆。」
「ねえ。よくつて。」
といふ工合に言ふ。此等の言葉の構成法は、すつかり英語や獨逸語と同じである。即ち主觀の感情を最初に言ひ、次に事物や用件の説明をする。「私はお菓子が欲しい」でなく、「欲しいわ。私。お菓子。」である。
 これは驚くべきことである。今の若い娘たちによつて、これほどまで日本語が革命されてるといふことは、現代に於ける何よりも大きな驚異である。何となれば言葉の變化は、それ自ら文化情操の變化であり、社會の根本的改革に外ならないから。日本は何處へ行くか? この問題を思惟する人は、先づ町に出て若い女たちの會話をきけ!

[やぶちゃん注:「婦人畫報」第三九四号。昭和一一(一九三六)年十一月号に掲載され、後、昭和一二(一九三七)年三月第一書房刊のエッセイ集「詩人の宿命」に掲載された。底本は筑摩書房版全集第十巻に拠り、末尾近くの「社會の根本的改革に外ならないから。」については、底本「社會の根本的改革に外ならないから、」であるのを、校訂本文の句点にしたものを採用した以外は、「詩人の宿命」と同じである。この文章をどう読むか? それは貴女や貴方やにお任せしよう。]

鬼城句集 夏之部 雷

雷    北山に雷を封せよ御坊達
     雷の落ちてけぶりぬ草の中
     北山の遠雷や湯あみ時
[やぶちゃん注:「遠雷」は「とほかみなり」と訓じているか考えられない。]
     雷落ちて火になる途上かな
     吹落す樫の古葉の雷雨かな

魚の祭禮 大手拓次

 魚の祭禮

人間のたましひと蟲のたましひとがしづかに抱(だ)きあふ五月のゆふがた、
そこに愛につかれた老婆の眼が永遠にむかつてさびしい光をなげかけ、
また、やはらかなうぶ毛のなかににほふ處女(をとめ)の肌が香爐のやうにたえまなく幻想を生んでゐる。
わたしはいま、窓の椅子によりかかつて眠らうとしてゐる。
そのところへ澤山の魚はおよいできた、
けむりのやうに また あをい花環(はなわ)のやうに。
魚のむれはそよそよとうごいて、
窓よりはひるゆふぐれの光をなめてゐる。
わたしの眼はふたつの雪洞(ぼんぼり)のやうにこの海のなかにおよぎまはり、
ときどき その溜塗(ためぬり)のきやしやな椅子のうへにもどつてくる。
魚のむれのうごき方(かた)は、だんだんに賑(にぎや)かさを増してきて、
まつしろな音樂ばかりになつた。
これは凡(すべ)てのいきものの持つてゐる心靈のながれである。
魚のむれは三角の帆となり、
魚のむれはまつさをな森林となり、
魚のむれはまるのこぎりとなり、
魚のむれは亡靈の形(かたち)なき手となり、
わたしの椅子のまはりに いつまでもおよいでゐる。

[やぶちゃん注:「溜塗」漆塗りの一種で、朱またはベンガラで漆塗りをして乾燥させた後、透漆(すきうるし)でさらに上塗りしたものをいう。半透明の美しさがある。「花塗(はなぬり)」ともいう。]

2013/05/23

中島敦漢詩全集 十

  十

 

 早春下利根川 二首

 

水上黄昏欲雨天

春寒抱病下長川

菰荻未萌鳧鴨罕

不似江南舊畫船

 

 

淼洋濁水廻長坡

薄暮扁舟客思多

春寒料峭催冰雨

荻枯洲渚少游鵝

 

○やぶちゃんの訓読

 

早春利根川を下る 二首

 

水上 黄昏(くわうこん)して 雨(あめ)ふらんと欲するの天

春寒 病ひを抱きて 長川(ちやうせん)を下る

菰荻(こてき) 未だ萌えず 鳧鴨(ふあふ) 罕(すく)なし

似ず 江南 舊畫船(きうぐわせん)

 

 

淼洋(びやうやう)たる濁水 長坡(ちやうは)を廻(めぐ)り

薄暮の扁舟 客 思ひ多し

春寒の料峭(れうせう) 冰雨(ひようう)を催す

荻(おぎ)枯れて 洲渚(しうしよ) 游鵝(いうが)少なし

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「長川」長い川。中国古典でも複数の用例がある。

・「菰荻」「菰」はマコモ。沼地などに群生するイネ科の多年草、高さ約二メートル。「荻」はオギ。湿地に群落を作るイネ科ススキ属の多年草。一見ススキに似ている。

・「鳧鴨」狭義にはそれぞれ「鳧」は野生のカモ、「鴨」はカモを家畜化したアヒルを指すが、転じてカモ(アヒル)、水鳥の総称として用いられる。

・「」まれであること。少ないこと。

・「畫船」画舫(がぼう)。華麗な装飾を持つ遊覧のための船。水路の多い中国江南地方において一般的であった。江南の水上を渡ってゆく古式の美しい画舫という意味であろう。

・「」水が果てしなく広がっているさま。

・「長坡」地名ではあるまい。文字の意味は長い傾斜地で、ここでは長々と横たわった河岸の傾斜地としてよい。

・「扁舟」小船。

・「料峭」「料」は「なでる」、「峭」は「厳しい・きつい」の意で、春風が皮膚に寒く感じられるさま。

・「冰雨」現代中国語では、降った雨が冷たい地面に冷やされて凍るという、春浅い頃に見られる自然現象を指す。但し、ここでは日本語でいうところの、「霙(みぞれ)になりそうな冷たい雨」と採って良かろう。

・「洲渚」水の中の小さな陸地。中州。

・「」鵞鳥。ガチョウ。

 

T.S.君による現代日本語訳

 

■自由詩訳

 

小舟が進む…

 

垂れ籠めた雲

枯果てた菰荻(こてき)

夕暮れの川面(かわも)

映るは病(やまい)の影

心をよぎる

夢の残照――

 

小舟が進む…

 

鉛のような水

鳥の影なき汀(みぎわ)

墨いろの土手

氷雨を孕む空

涯なく続く

春寒の夕(ゆうべ)――

 

■散文詩訳

 

 もうすぐ夜が来る。今にも雨が降り出しそうな黝(くろ)い空が、暮れ方の生気のない川面に映っている。コートの内に忍び寄る寒気に身を縮めながら、私はさっきから、病に蒼ざめた顔を単調に続く河辺の方に向けている。岸一面に群生する菰荻(こてき)には芽吹きの兆しさえ見えず、水鳥の姿もほとんどない。私はひとり心の中で呟く。かつて夢見た江南の画舫(がぼう)の舟遊びとは、似ても似つかぬ船旅だ……。

 

 果てしなく広がるこの濁った川は、延々と続く岸辺の堤(つつみ)を浸しつつ、ゆっくりと流れている。このたそがれ、小舟で下って行く私の胸に、様々な思いが去来する。遠くに去ってしまった人々、数々の思い出、そして不安や幽かな希望。春とは名ばかりのこの寒気に、霙(みぞれ)さえ落ちて来そうだ。河辺の荻(おぎ)の群れも見渡す限り枯れ果て、向うの中洲にも鵞鳥の姿はほとんど見えない……。

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 この詩の現代語訳には大変苦しんだ。心の中で反芻し続けること約一週間、それでもぼんやりとしか形が見えないほどであった。それは、前半と後半の七絶で描写される世界の近似に戸惑ったからだ。似たような二枚の画像。それらが微妙にずれて重なった二重映しのスクリーンの処理に躓いたからだ。

 両者はどのような関係なのだろうか。

 すぐに気づくことがある。それは、ともに同じようなことを詠っているということだ。試みに、両方に出てくるモチーフを列挙してみよう。

――川の水が遥かに広がっている様子

――今にも雨が降りそうな薄暮の空

――春だというのに寒いということ

――水鳥の姿がほとんど見えないこと

――菰(こも)や荻(おぎ)などの群落が枯れ果てた姿で広がっていること……

……もう気づかれたであろう。これらはすなわち、この詩世界を構築するための主要部材なのである。

 つまりこれらの詩は、『お互い非常に近い詩世界を構築しつつ、並び立っている』のだ。

 では、ひとつの詩世界を詠んだ、ふたつの作品なのだろうか?

 いや、そうとは言えまい。

 前半だけに出てくる大切なモチーフ(詩世界の味付けのために不可欠なモチーフ)が、まるで隠し味のように、両方の詩の味わいをひき立てているからだ。

 そのモチーフとは何か?

 それは、ふたつ、ある。

――詩人が病を抱えているということ

そして、

――心の中の華やかな江南の画のイメージ

である。

 試みに、後半の詩だけを、それだけでひとつの作品とみなして再読してみていただきたい。病いのイメージと、華やかな画舫のイメージが存在しないことによって、前半の詩より明らかに色彩が単純であることが分かる。

 後半には、様々な思いが去来するという独自のモチーフはあるものの、それだけでは前半の詩に匹敵する奥行きを出せない。つまり、後半の詩には前半の詩が不可欠なのだ。

 したがって、これはほぼ同じ世界を詠う二篇の七絶によって構成された、ひとつの作品だと結論づけることができる。

 念のために申し上げたいのだが、近似した詩境を二度繰り返して表現することは、別に問題ではない。その逆である。調子をほんの少し変化させて二度歌うことに意味があるのだ。

 私はグレン・グールドによるバッハのピアノ演奏を思い出す。彼は、ひとつのモチーフの反復に差し掛かると、二回目は必ず速度やリズムや陰翳の在り処を変化させ、まさに『そこでそう歌わなければならないもの』として音楽を創った……。そういえば彼自身も口にしていたではないか。「全く同じものなら繰り返す意味などないのだ」、と。

 

 現代語訳に苦労した理由はもうひとつあった。それは、この詩のどこかに力点を置いたり、焦点を当てたりすることができないという点にあった。

 薄暮の空――濁った水――枯れた菰荻――見渡す限りの単調な眺め――思念――寒さ――船――病い……。

 どこにも特別なスポットライトを当ててはならない。

 全て同等な重みを持つモチーフだからだ。

 同じ大きさの積み木で隙間なく組み上げられた塔のような詩……。

 どれかひとつでも欠けると、構築物としての耐久性が著しく減じて崩れ去ってしまうような尖塔……。

 しかも、それぞれの部材は『ふたつずつある』のだ。どれかの部材に、構造上、他よりも大きな力が加わることのないよう、これらを『均等に配置』しなければならない……。

 

 以上の詩人の示したふたつの公案を解決するために、私は試行錯誤の末、自由詩と散文詩の二篇を編んでみた。そこで注意したことは次の通りであった。

 自由詩について意識したのはみっつ。外見上全く同様の二篇の詩形に組み上げるということ。

 そしてひとつのモチーフを二度描く際に同じ言葉は決して遣わないということ。

 さらには、前半は視線を空から水へと導き、後半は前半の鏡像のように視線を水から空へと導くことによって、各部材に均等な力がかかるようにするということ。

 一方、散文詩で配慮したのは、全てに均一な力が加わるようにしながら、感情が平坦に進行するように配慮し、淡々と速度を変えずに叙していくことであった。

 如何であろう……果たして詩人の懐いた世界に、少しは近づくことが、できたであろうか……。

 

 ともかくもそれが私なりに成就したという前提に基づいて、改めてこの詩世界を味わってみたい。

 描写されているのは――まことに物淋しい世界である。何かを見据え、それを取っ掛かりにして淋しさを詠うのではない。

 詩人の視線はどこにも固定されない。

 空、草、水……。

 枯れ果てた、冷たい、薄暗い世界を、どこにも留まることなく、どこにも照準を合わせることなく、彷徨い続けるのだ。

 しかも、詩人自身が居る場所ですら、水に浮かび、川下へと下っていく、覚束ない船の上なのである。

 どこにも係留されず、中身が完膚なきまでに欠落したような、心が無限の空洞になったような、淋しさ……。

 そして、寒さ、だ。

 それも厳しい冬の寒さではなく、春浅い曇天の寒さ。厳しい寒気ではないだけに、かえって身体や心にしみじみと感じられる寒さ……。

 まるで虚無の川に浮いたようなこんな淋しさを、一体、どのように説明したら良いのだろうか。

 それは対位法のように示されてあるのだ。

 江南の画舫は彼の暖かい夢の象徴だ。

 ああ……、人は誰しも必ず、そうした拠り所を心のどこかに持っているものだ。

 それは懐かしい人の面影であったり、憧れであったりする。

 病いを抱えた詩人の胸に、一瞬、昔、夢見た華やかな春がよぎる。

 その幻と、眼前の世界との――落差よ!

 

 誰も、幼い頃に、こんな経験をしたことはないだろうか。

 

――原っぱ

――灰色の沈鬱な雲が、そもそも雲であるとは判別できないくらい空一面に広がった、底冷えのする冬の夕暮れ

――仲間と一緒に、自分の背丈よりも高い雑草の迷路の中を探検していた、そのとき……

……ふっと一瞬

――皆の姿も声も足音も消え

――気づけば

――冷たい地面と――草と――憂鬱な空だけに囲まれ、唯ひとり

――音といえば、鳥が苛立たしく叫ぶ声だけが、遠くの方から冷気を貫いて響いてくるだけ

――その瞬間

――自分がいる場所も

――帰れば会えるはずの両親の存在も

――日常の全てが

――まるで嘘だったかのように頼りない空虚なものに暗転する

――そしてなんとも言えない淋しい塊りが

――みぞおちのあたりからこみ上げて来る

――しみ込むような淋しさ、血の気が引いたような淋しさ……

……そこから逃れるには、ただ身じろぎもせず、じっと耐えて待つしか、ない……

 

 私はこの詩に、そんな静かな深い淋しさを感じるのである。

 

 最後に申し上げたい。

 この詩を反芻する私には、

平均律クラヴィア曲集第一巻ヘ短調プレリュード

が聴こえる――。

 冒頭の右手の四つの音。三度…、三度…、四度…と気体か何かのように上昇する不思議な音型。

 ゆっくりと、しかも重力を感じさせずに高音へ向かうその虚ろな音の段差に、どこにも寄る辺のない、虚空を彷徨う魂の淋しさを感じる。

 曲は、静かに、沈潜したまま、終始歩みを変えずに、とぼとぼと、進んでいく。その旋律に、川面を音もなく沈鬱に進む小船の姿が見える。

 さらには――

 詩人の孤独な魂の佇まいまでもが、浮かんで来る……。

 人というものは、全て例外なく、こんな淋しさを抱えて生きていくしかない。

 おそらくは皆、気づきたくないだけなのだ。

 そうだ……

 きっと、そうに違いない……

 

[やぶちゃん補注:私とT.S.君とがこよなく愛するグレン・グールドによるバッハ「平均律クラヴィア曲集第一巻第十二曲(BWV857)前奏曲4声のフーガヘ短調プレリュード演奏は、とりあえず今ならば、ここで聴くことが出来る。当該ページ内の「ericinema」氏のコメントにリンクされた“Fm 12P 46:34”をクリックされたい。そこまで飛んで演奏して呉れるはずである。]

 

北條九代記 實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ (完全版 / 【第四巻~了】)

      ○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

 

同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる。明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮にして、御拜賀あるべしとて、大夫判官行村、奉行を承り、供奉の行列隨兵(ずゐびやう)以下の人數を定めらる、御装束(ごしやうぞく)御車以下の調度は、仙洞より下されける。右大將頼朝卿の御時に隨兵を定められしには、譜代の勇士(ようし)、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人を撰びて、拜賀の供奉を勤させらる。然るにこの度の拜賀は、關東未だ例なき睛(はれ)の儀なりとて、豫てその人を擇(えら)び定めらる。建保七年正月二十七日は、今日良辰(りやうしん)なりとて、將軍家右大臣御拜賀酉刻(とりのこく)と觸れられけり。路次(ろじ)行列の裝(よそほひ)、嚴重なり。先づ居飼(ゐかい)四人、舍人(とねり)四人、一員(ゐん)二行に列(つらな)り、將曹菅野景盛(しやうざうすがのかげもり)、府生狛盛光(ふしやうこまのもりみつ)、中原成能(なかはらのなりより)、束帶して續きたり。次に殿上人(でんじやうびと)北條〔の〕侍従(じじう)能氏、伊豫(いよの)少將實雅、中宮權亮(ごんのすけ)信義以下五人、随身(ずゐしん)各四人を倶す。藤勾當(とうのこいたう)賴隆以下前驅(ぜんく)十八人二行に歩む。次に官人秦兼峰(はたのかねみね)、番長下毛野敦秀(ばんちやうしもつけのあつひで)、次に將軍家檳榔毛(びりやうげ)の御車、車副(くるまそひ)四人、扈從(こしよう)は坊門(ぼうもんの)大納言、次に隨兵十人、皆、甲胄を帶(たい)す。雜色(ざつしき)二十人、檢非違使(けんびゐし)一人、調度懸(てうどかけ)、小舎人童(こどねりのわらは)、看督長(かどのをさ)二人、火長(かちやう)二人、放免(はうべん)五人、次に調度懸佐々木〔の〕五郎左衞門尉義淸、下﨟の隨身(ずいじん)六人、次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人、各々(おのおの)前驅隨身あり。次に受領の大名三十人、路次の隨兵一千騎、花を飾り、色を交へ、辻堅(つじがため)嚴しく、御所より鶴ヶ岡まで、ねり出て赴き給ふ裝(よそほひ)、心も言葉も及ばれず。前代にも例(ためし)なく後代も亦有べからずと、貴賤上下の見物は飽(いや)が上に集りて錐(きり)を立る地もなし。路次の両方込合うて推合(おしあ)ひける所には、若(もし)狼藉もや出來すべきと駈靜(かりしづ)むるに隙(ひま)ぞなき。既に宮寺(きうじ)の樓門に入り給ふ時に當りて、右京〔の〕大夫義時、俄に心神違例(ゐれい)して、御劍をば仲章朝臣(なかあきらのあそん)に讓りて退出せらる。右大臣實朝公、小野(をのゝ)御亭より、宮前(きうぜん)に參向(さんかう)し給ふ。夜陰に及びて、神拜の事終り、伶人(れいじん)、樂(がく)を奏し、祝部(はふり)、鈴を振(ふり)て神慮をいさめ奉る。當宮(たうぐう)の別當阿闍梨公曉、竊(ひそか)に石階(いしばし)の邊(へん)に伺來(うかゞひきた)り、劍(けん)を取りて、右大臣實朝公の首、打落(うちおと)し、提(ひつさ)げて逐電(ちくてん)す。武田〔の〕五郎信光を先として、聲々に喚(よばは)り、隨兵等(ら)走散(はしりち)りて求むれども誰人(たれびと)の所爲(しよゐ)と知難(しりがた)し。別當坊公曉の所爲ぞと云出しければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公曉はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も亂れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落失(おちう)せ、一千餘騎の随兵等、馬を馳(はせ)て込來(こみきた)り、見物の上下は蹈殺(ふみころ)され、打倒(うちたふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗(くらやみ)になり、これはそも如何なる事ぞとて、人々魂(たましひ)を失ひ、呆れたる計(ばかり)なり。禪師公曉は、御後見(ごこうけん)備中阿闍梨の雪下の坊に入りて、乳母子(めのとご)の彌源太(みげんだ)兵衞尉を使として、三浦左衞門尉義村に仰せ遣されけるやう、「今は將軍の官職、既に闕(けつ)す。我は關東武門の長胤(ちやういん)たり。早く計議(けいぎ)を廻らすべし。示合(しめしあは)せらるべきなり」とあり。義村が息駒若丸、かの門弟たる好(よしみ)を賴みて、かく仰せ遣(つかは)さる。義村、聞きて、「先(まづ)此方(こなた)へ來り給へ。御迎(おんむかひ)の兵士(ひやうし)を參(まゐら)すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人(たゞびと)にあらず、武勇兵略(ぶようひやうりやく)勝れたれば、輒(たやす)く謀難(はかりがた)かるべしとて、勇悍(ようかん)の武士を擇び、長尾〔の〕新六定景を大將として、討手をぞ向けられける。定景は黑皮威(くろかはおどし)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、大力(だいりき)の剛者(がうのもの)、雜賀(さいがの)次郎以下郎従五人を相倶して、公曉のおはする備中阿闍梨の坊に赴く。公曉は鶴ヶ岡の後(うしろ)の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり。素絹(そけん)の下に腹卷をぞ召されける。長尾御首を持ちて馳歸り、義村、義時是を實檢す。前〔の〕大膳〔の〕大夫中原(なかはらの)廣元入道覺阿、申されけるは、「今日の勝事(しようじ)は豫て示す所の候。將軍家御出立の期(ご)に臨みて申しけるやうは、覺阿成人して以來(このかた)、遂に涙の面に浮ぶ事を知らず。然るに、今御前に參りて、頻に涙の出るは是(これ)直事(たゞごと)とも思はれず。定(さだめ)て子細あるべく候か。東大寺供養の日、右大將家の御出の例(れい)に任せて、御束帶(ごそくたい)の下に腹卷(はらまき)を著せしめ給へと申す。仲章朝臣、申されしは、大臣、大將に昇る人、未だ其例式(れいしき)あるべからずと。是(これ)に依(よる)て止(とゞ)めらる。又、御出の時、宮田兵衞〔の〕尉公氏(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、

  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな

其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。御臺所、御飾(かざり)を下(おろ)し給ふ。御家人一百餘輩、同時に出家致しけり。翌日、御葬禮を營むといへ共、御首(おんくび)は失せ給ふ、五體不具にしては憚りありとて、昨日(きのふ)、公氏に賜る所の鬢(びんのかみ)を御首に准(じゆん)じて棺に納め奉り、勝長壽院の傍(かたはら)に葬りけるぞ哀(あはれ)なる。初(はじめ)、建仁三年より、實朝、既に將軍に任じ、今年に及びて治世(ぢせい)十七年、御歳(おんとし)二十八歳、白刃(はくじん)に中(あたつ)て黄泉(くわうせん)に埋(うづも)れ、人間を辭して幽途(いうと)に隱れ、紅榮(こうえい)、既に枯落(こらく)し給ふ。賴朝、賴家、實朝を源家三代將軍と稱す、其(その)間、合せて四十年、公曉は賴家の子、四歳にて父に後(おく)れ、今年十九歳、一朝に亡び給ひけり。

 

[やぶちゃん注:遂に実朝が暗殺され、源家の正統が遂に滅ぶ。そうしてこれを以って「卷第四」は終わっている。「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年十二月二十日・二十一日・二十六日、同七年一月二十七日・二十八日の条に基づく。本章は私にとって因縁のあるシークエンスである。されば、最後に現代語訳を附すこととする。

「同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる」という記事は「吾妻鏡」では二十日の政所始の儀式の冒頭にある。

「大夫判官行村」二階堂行村。

「仙洞」後鳥羽上皇。

「右大將頼朝卿の御時」建久元(一一九〇)年十月三日、上洛中の頼朝は右近衛大将を拝賀し、仙洞御所に参向して後白河法皇に拝謁したが、ここはその際の随兵を指す。「吾妻鏡」建久元(一一九〇)年十二月一日の条によれば、例えば前駈の中には異母弟源範頼がおり、頼朝の牛車のSPの一人は八田知家、布衣の侍の中には三浦義澄や工藤祐経らが、扈従に附くのは一条能保と藤原公経、最後の乗馬の儀杖兵七人に至っては北条義時・小山朝政・和田義盛・梶原景時・土肥実平・比企能員・畠山重忠という、鎌倉幕府創生の錚々たるオール・スター・キャストで固められていた。因みにこの時、頼朝は右大将と権大納言に任ぜられたが、二日後の十二月三日に両官を辞している。これは望んだ征夷大将軍でなかったことから両官への執着(幕府自体にとっては実質上何の得にもならない地位であった)が頼朝に全くなかったこと、また両官が朝廷に於ける実際的公事の実務運営上の重要なポストであるために形式上は公事への参加義務が生ずることを回避したためと考えられている。

「譜代の勇士、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人」通常、「三德」の基本は「中庸」で説かれている智・仁・勇であるが、ここは武家に於ける、代々嫡流の君子に仕える家柄の勇者であること、弓馬術の達人であること、容姿端麗であることの三つを指す。中でも「吾妻鏡」建保六(一二一八)年十二月二十六日の条には、わざわざ、

○原文

亦雖譜代。於疎其藝者。無警衞之恃。能可有用意云々。

○やぶちゃんの書き下し文

亦、譜代と雖も、其の藝に疎きに於いては、警衞の恃(たの)み無し。能く用意有るべしと云々。

あって、本来の坂東武士にとっての「三德」の内、弓馬の名人であることは必要十分条件であったことが分かる。しかも注意せねばならぬのは、ここで作者は『然るに』という逆接の接続詞を用いている点にある。実は、「吾妻鏡」のこの前の部分には、

○原文

兼治定人數之中。小山左衞門尉朝政。結城左衞門尉朝光等。依有服暇。被召山城左衞門尉基行。荻野二郎景員等。爲彼兄弟之替也。

○やぶちゃんの書き下し文

兼ねて治定(ぢじやう)する人數(にんず)の中(うち)、小山左衞門尉朝政・結城左衞門尉朝光等、服暇(ふくか)有るに依つて、山城左衞門尉基行・荻野二郎景員等を召さる。彼(か)の兄弟の替と爲すなり。

という事態が記されているのである。「服暇」とは近親の死による服喪を指す。問題はこの代替要員として指名された二人なのである。増淵氏はここの現代語訳に際し、ここに『しかるに(今回は三徳兼備でない者も入ったが)「このたびの大臣の拝賀は……』とわざわざ附加されておられるのに私は共感するのである。筆者は恐らくまずは「吾妻鏡」のこの二十六日の条の後に続く二件の記載が気になったのである。その冒頭は『而』で始まるが(以下の引用参照)、これは順接にも逆接にも読めるものの、私は逆接以外にはありえないと思うのである。何故なら、この後に書かれるこの二人の代替対象者についての解説には、実は微妙に「三德」を満たさない内容が含まれているからなのである。一人目の荻野影員というのは、実は父が梶原景時の次男梶原景高なのである。

○原文

而景員者去正治二年正月。父梶原平次左衞門尉景高於駿河國高橋邊自殺之後。頗雖爲失時之士。相兼件等德之故。被召出之。非面目乎。

○やぶちゃんの書き下し文

而るに、景員は、去ぬる正治二年正月、父梶原平次左衞門尉景高、駿河國高橋邊に於いて自殺するの後、頗る時を失ふの士たりと雖も、件等(くだんら)の德を相ひ兼ぬるの故、之を召し出ださる。面目に非ずや。

ここで「件等の德を相ひ兼ぬる」とするが、そうだろうか? 弓馬と容姿は優れていたに違いない。梶原景時は確かにかつての「譜代の勇士」ではあった。しかし、その後にその狡猾さが祟って謀叛人として(というより彼を嫌った大多数の御家人の一種のプロパガンダによって)滅ぼされた。だからこそ景員はその梶原一族の血を引くという一点から全く日の目を見ることがなかった。とすれば彼には源家嫡流に対する遺恨さえもあって当然と言える。されば、この時点では彼は第一条件である嫡流君子の代々の忠臣という「譜代の勇士」足り得ない。

二人目は二階堂基行である。彼は、

○原文

次基行者。雖非武士。父行村已居廷尉職之上。容顏美麗兮達弓箭。又依爲當時近習。内々企所望云。乍列將軍家御家人。偏被定號於文士之間。並于武者之日。於時有可逢恥辱之事等。此御拜賀者。關東無雙晴儀。殆可謂千載一遇歟。今度被加隨兵者。子孫永相續武名之條。本懷至極也云々。仍恩許。不及異儀云々。

○やぶちゃんの書き下し文

次に基行は、武士に非ずと雖も、父行村、已に廷尉の職に居るの上、容顏美麗にして弓箭にも達す。又、當時の近習たるに依つて、内々に所望を企てて云はく、

「將軍家の御家人に列し乍ら、偏へに號(な)を文士に定めらるるの間、武者に並ぶの日、時に於いて恥辱に逢ふべきの事等(など)有り。此の御拜賀は、關東無雙の晴の儀、殆んど千載一遇と謂ひつべきか。今度(このたび)の隨兵に加へらるれば、子孫永く武名のを相續せんの條、本懷至極なり」

と云々。仍て恩許、異儀に及ばずと云々。

とあるのである。彼二階堂基行(建久九(一一九八)年~仁治元(一二四〇)年)は代々が幕府実務官僚で評定衆あった二階堂行村の子である。父行村は右筆の家柄であったが京都で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍した人物であり、また祖父で二階堂氏の始祖行政は、藤原南家乙麿流で、父は藤原行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司藤原季範の妹である(その関係から源頼朝に登用されたと考えられている)。無論、基行も評定衆となり、実質的にも実朝側近の地位にあったことがこの叙述からも分かる。当時満二十歳。武家の出自でないが故に、今まで色々な場面で何かと屈辱を味わってきたのを、この式典を千載一遇のチャンスとして武家連中の若侍等と対等に轡を並べて、必ずや、子孫に二階堂家を武門の家柄として継承させん、という強い野心を持って実朝に直願して、まんまと許諾を得たというのは、これ、「三德」の純粋にして直(なお)き「譜代の勇士」とは到底言えぬと私は思うのである。……そうして民俗学的には、土壇場の服喪の物忌みによる二名もの変更(兄弟であるから仕方がないとしても二名の欠員はすこぶるよろしくない。これはまさに以前の「吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる」でも実朝自身が口をすっぱくして言った問題ではないか)や、「三德」の中に遺恨や実利的な野望を孕ませた「ケガレ」た者が参入する、これ自体がハレの場を穢して、実朝を死へと誘う邪悪な気を呼び込むことになったのだとも、私は読むのである。

実際、彼ら二人は目出度く、右大臣拝賀の式当日の実朝の牛車の直後の後方の随兵に以下のように名を連ねている(「吾妻鏡」建保七年一月二十七日の条より)。

○原文

  次隨兵〔二行。〕

 小笠原次郎長淸〔甲小櫻威〕   武田五郎信光〔甲黑糸威〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲萌黄威〕  隱岐左衞門尉基行〔甲紅〕

 大須賀太郎道信〔甲藤威〕    式部大夫泰時〔甲小櫻〕

 秋田城介景盛〔甲黒糸威〕    三浦小太郎時村〔甲萌黄〕

 河越次郎重時〔甲紅〕      荻野次郎景員〔甲藤威〕

   各冑持一人。張替持一人。傍路前行。但景盛不令持張替。

○やぶちゃんの書き下し文

 次に隨兵〔二行。〕。

 小笠原次郎長淸〔甲(よろひ)、小櫻威(おどし)。〕   武田五郎信光〔甲、黑糸威。〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲、萌黄威。〕  隱岐左衞門尉基行〔甲、紅。〕

 大須賀太郎道信〔甲、藤威。〕    式部大夫泰時〔甲、小櫻。〕

 秋田城介景盛〔甲、黑糸威。〕    三浦小太郎時村〔甲、萌黄。〕

 河越次郎重時〔甲、紅。〕      荻野次郎景員〔甲、藤威。〕

   各々冑持(かぶともち)一人、張替持(はりかへもち)一人、傍路に前行(せんかう)す。但し、景盛は張替を持たしめず。

この「冑持」は兜を持つ者(これによってこの式典の行列では兜を外して参加することが分かる)、「張替」は弓弦が切れた際の予備の弓持ちであろう(景盛が張替持を附けていないのには何か意味があるものと思われるが分からぬ。識者の御教授を乞う)。

「良辰」吉日。「辰」は「時」の意。古くは「良辰好景」「良辰美景」とも言った。

「酉刻」午後六時頃

「居飼」牛馬の世話を担当する雑人。

「舎人」牛車の牛飼いや乗馬の口取りを担当した雑人。

「一員」本来は各省や寮の役人の謂い。以下の三人を指す。全員が束帯である。「一員二行に列り」とあるのは、影盛と成能で一列、もう一列は盛光一人で一列。なお、中原成能の職名は「吾妻鏡」では「將監」で近衛府の判官(じょう)である。

「將曹」近衛府の主典(さかん)。普通は「しやうさう」と濁らない。

「府生」六衛府(りくえふ)・や検非違使庁などの下級職員。「ふせい」「ふそう」とも。

「狛盛光」建久四(一一九三)年頃に八幡宮の楽所の役人に任ぜられていることが鶴岡八幡宮公式サイトの宝物の記載に見える。

「勾當」「勾当内侍(こうとうのないし)」。掌侍(ないしのじょう)四人の内の第一位の者で天皇への奏請の取次及び勅旨の伝達を司る。

「前驅」古くは「せんぐ」「ぜんぐ」とも読んだ。行列などの前方を騎馬で進んで先導する役。先乗り。先払い。

「官人」通常、「かんにん」と読む。増渕氏の注によれば、『衛府などの三等官』とある。

「秦兼峰」「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には、秦兼村の名でかの公氏と並んで載る。

「番長下毛野敦秀」「番長」は諸衛府の下級幹部職員のことを指す。上﨟の随身である。やはり「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には下毛野敦光及び同敦氏という名が載る。

「檳榔毛の御車」通常は「檳榔毛」は「びらうげ(びろうげ)」と読む。牛車の一種で白く晒した檳榔樹(びんろうじゅ)の葉を細かく裂いて車の屋形を覆ったものを指す。上皇・親王・大臣以下、四位以上の者及び女官・高僧などが乗用した。

「扈從」朝廷からの勅書に随行してきた公卿の筆頭の意で述べているようだが、以下の「殿上人」とダブるのでここに示すのはおかしい。

「坊門大納言」坊門忠信(承元元(一一八七)年~?)。建永二(一二〇七)年に参議、建保六(一二一八)年に権大納言。後鳥羽天皇及び順徳天皇の寵臣として仕えた。妹の信子が実朝の妻であるから実朝は義弟に当たる。因みに、この後にある「隨兵」が先の注で示した十人の武者となる。

「調度懸」武家で外出の際に弓矢を持って供をした役。調度持ち。

「小舎人童」本来は近衛中将・少将が召し使った少年を指すが、後、公家・武家に仕えて雑用をつとめた少年をいう。

「看督長」検非違使庁の下級職員。役所に付属する獄舎を守衛したり、犯人追捕の指揮に当たった。かどのおさし。

「火長」検非違使配下の属官。衛門府の衛士(えじ)から選抜され、囚人の護送・宮中の清掃・厩の守備などに従事した。彼等は課役を免除されており、身分としては低い役職ながら、宮中への出仕であることから一定の権威を有した。

「放免」「ほうめん」とも。検非違使庁に使われた下部(しもべ)。元は釈放された囚人で、罪人の探索・護送・拷問・獄守などの雑務に従事したが、先の火長よりも遙かに下級の官吏である。

「調度懸佐々木五郎左衞門尉義淸」「吾妻鏡」を見ると、この直前にいる検非違使大夫判官加藤景兼の下に割注があって、そこに「調度懸」が一名とある。この義清の「調度懸」には「御」という接頭語が附いていることから、前のそれは加藤の調度懸であり、義清の肩書は実朝の調度懸であると判断される。

「次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人」建保七年一月二十七日には、

○原文

  次公卿

 新大納言忠信〔前駈五人〕    左衞門督實氏〔子随身四人〕

 宰相中將國道〔子随身四人〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各乘車〕

○やぶちゃんの書き下し文

  次に公卿。

 新大納言忠信〔前駈五人。〕    左衞門督實氏〔子、随身四人。〕

 宰相中將國道〔子、随身四人。〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各々乘車。〕)

「子」というのは、殿上人に従う者、という意味であろうか。ここの先頭を行くのが先に出た坊門忠信で、筆者は誤って「忠淸」としている。

 

以下、北条義時の脱出劇のパート。

「宮寺の樓門」これによって当時の鶴岡八幡宮寺の入り口には二階建ての門があったことが分かる。

「右大臣實朝公、小野御亭より、宮前に參向し給ふ」不審。実朝は無論、御所から拝賀の式に向かったはずである。ここは思うに「吾妻鏡」の筆者の誤読であるように思われる。「吾妻鏡」の行列の列序の詳細記載の後には、

○原文

令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拜事終。

○やぶちゃんの書き下し文

宮寺の樓門に入らしめ御(たま)ふの時、右京兆、俄かに心神に御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に讓り、退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱の後、小町の御亭へ歸らしめ給ふ。

とあり、

拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺楼門に御参入なされたその直後、前駈しんがりを勤めていた右京兆義時殿が俄かに御気分が悪くなるという変事が出来(しゅったい)した。そこで急遽、御剣持を前方の一団である殿上人のしんがりを勤めていた文章博士源仲章朝臣に譲って、退去なさり、神宮寺門前に於いて直ちに行列から離脱された後、そのまま小町大路にある御自宅にお帰った。

とあるのを、文字列を読み違えた上に、「小町」を「小野」と誤読したのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである(増淵氏の訳では特に注がない)。

「伶人」雅楽を奏する官人。楽人(がくにん)。

「祝部」禰宜の下に位置する下級神職。「はふり」は「穢れを放(はふ)る」の意ともするが語源未詳。

「神慮をいさめ奉る」この「いさむ」は、忠告するの意で、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制などの神の思し召しをお伝え申し上げた、という意。

 

以下、この公暁による暗殺及びその直後のパートを「吾妻鏡」より示しておく。

○原文

及夜陰。神拜事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中。〔武田五郎信光進先登。〕無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟惡僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰場之法。人以爲美談。遂惡僧敗北。闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。

○やぶちゃんの書き下し文

夜陰に及びて、神拜の事終り、漸くに退出せしめ御(たま)ふの處、當宮別當阿闍梨公曉、石階(いしばし)の際(きは)に窺ひ來たり、劔を取つて丞相を侵し奉る。其の後、隨兵等、宮中に馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光、先登に進む。〕讎敵(しうてき)を覓(もと)る所無し。或る人の云はく、

「上宮(かみのみや)の砌りに於いて、『別當阿闍梨公曉、父の敵を討つ。』の由、名謁(なの)らると云々。

之に就き、各々、件(くだん)の雪下(ゆきのした)の本坊に襲ひ到る。彼の門弟惡僧等、其の内に籠り、相ひ戰ふの處、長尾新六定景・子息太郎景茂・同次郎胤景等と先登を諍(あらそ)ふと云々。

勇士の戰場に赴くの法、人、以つて美談と爲す。遂に惡僧、敗北す。闍梨、此の所に坐(おは)し給はず。軍兵、空しく退散し、諸人、惘然(ぼうぜん)の外、他(ほか)無し。

「武田五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。当時五十七歳(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「武田信光」を参照した)。

「巍々たる」雄大で厳かなさま。

 

以下、公暁誅殺までを「吾妻鏡」で見る。

○原文

爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者弥源太兵衞尉〔闍梨乳母子。〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。京兆無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅。〕不能辞退。起座著黑皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也。〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟闍梨〔着素絹衣腹卷。年廿云々。〕首。是金吾將軍〔頼家。〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也。〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。亭主出居。被見其首。安東次郎忠家取指燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。

○やぶちゃんの書き下し文

爰に阿闍梨、彼(か)の御首を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨の雪下(ゆきのした)北谷の宅に向はる。膳を羞(すす)むる間、猶ほ手を御首より放たずと云々。

使者弥源太兵衞尉〔闍梨(じやり)の乳母子(めのことご)。〕を義村に遣はさる。

「今、將軍の闕(けつ)有り。吾れ專ら東關の長に當るなり。早く計議を廻らすべし。」

の由、示し合はさる。是れ、義村息男駒若丸、門弟に列するに依つて、其の好(よし)みを恃(たの)まるるの故か。義村、此の事を聞き、先君の恩化を忘れざる間、落涙數行、更に言語に及ばず。少選(しばらく)あつて、

「先づ蓬屋(ほうおく)に光臨有るべし。且つは御迎への兵士を獻ずべし。」

の由、之を申す。使者退去の後、義村、使者を發し、件(くだん)の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右(さう)無く、

「阿闍梨を誅し奉るべし。」

の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。

「阿闍梨は、太(はなは)だ武勇に足り、直(ただ)なる人に非ず。輙(たやす)く之を謀るべからず。頗る難儀たり。」

との由、各々相ひ議すの處、義村、勇敢の器(うつは)を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景、遂に〔雪下の合戰後、義村が宅へ向ふ。〕辞退に能はず、座を起ち、黑皮威の甲を著し、雜賀(さひか)次郎〔西國の住人、強力の者なり。〕以下郎從五人を相ひ具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨が宅に赴くの刻(きざみ)、阿闍梨は、義村が使ひ、遲引の間、鶴岳後面の峯に登り、義村が宅に至らんと擬す。仍つて定景と途中に相ひ逢ふ。雜賀次郎、忽ちに阿闍梨を懷き、互ひに雌雄を諍ふの處、定景、太刀を取り、闍梨〔素絹の衣、腹卷を着す。年廿と云々。〕が首を梟(けう)す。是れ、金吾將軍〔賴家。〕の御息、母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女なり。〕。公胤僧正に入室、貞曉僧都受法の弟子なり。定景、彼(か)の首を持ちて皈(かへ)り畢んぬ。即ち義村、京兆の御亭に持參す。亭主、出で居(ゐ)にて其の首を見らる。安東次郎忠家、指燭(しそく)を取る。李部、仰せられて云はく、

「正しく未だ阿闍梨の面(おもて)を見奉らず。猶ほ疑貽有り。」

と云々。

「吾妻鏡」では、実は当時の幕府の要人が阿闍梨の顔を誰も知らなかったと推測されることが首実検に立ち会った「李部」(式部省の唐名。当時の泰時の経官歴は式部丞)北条泰時(当時満二十一歳)が本当に公暁の首であるかどうかに疑義を挟んでいるのが注目される。話として頗る面白い(肝心の実朝の首は見つからず、謀叛人の首が残るとは如何にも不思議ではないか)が、通史としての「北條九代記」では、何やらん、判官贔屓の実朝トンデモ生存説(大陸に渡って実は知られた○〇禅師こそが実朝だった! なってえのはどうよ?)でも臭わせそうな雰囲気になるから、やっぱ、カットやろうなぁ……。

・「備中阿闍梨」彼の名は、この後、三日後の三十日の条に彼の雪ノ下(後の二十五坊ヶ谷である)の屋敷が没収されたという条、翌二月四日にその屋敷地が女官三条局の望みによって付与された旨の記載を以って一切載らない。怪しいではないか。

・「彌源太兵衞尉〔闍梨の乳母子。〕」ここで「乳母子」とあるということは次に示す「駒若丸」北条光村の兄弟(恐らく弟)でなくてはならない。

・「義村息男駒若丸、門弟に列するに依つて、其の好みを恃まるる」「駒若丸」は三浦義村の四男三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)の幼名。後の三浦氏の当主となる三浦泰村の同母弟。早い時期に僧侶にさせるために鶴岡八幡宮に預けられたらしく、この頃は公暁の門弟であった。「吾妻鏡」では建保六(一二一八)年九月十三日の条で、将軍御所での和歌会の最中、鶴岡八幡宮境内に於いて月に浮かれ出た児童・若僧が鶴岡廻廊に配されていた宿直人に乱暴狼藉を働き、その不良少年団の張本人として挙げられ、出仕を止められる、という記事を初見とする。暗殺当時でも未だ満十四歳である。後に実家である三浦氏に呼び戻され、兄泰村とともに北条氏と並ぶ強大な権力を有するようになったが、後の宝治元(一二四七)年の宝治合戦で北条氏によって兄とともに滅ぼされた。小説家永井路子氏が実朝暗殺三浦氏説の最大の根拠(乳母の家系はその養育した家系の子を殺めることはないという不文律)とするように、公暁の乳母は三浦義村の妻であり、その子であったこの駒若丸は公暁の乳兄弟であって門弟でもあった。一方、実朝の乳母は北條時政の娘で政子や義時の姉妹で兄弟である阿波局である。但し、私はこの歴史学者の支持も多い永井説には全く組出来ない。私は北条義時策謀張本説を採る(三浦は北条の謀略に気づいてはいた)。この時の義時の壮大な謀略計画の体系(後の北条得宗の濫觴となるような)の中では、乳母―乳母子血脈説なんどという問題は容易に吹き飛んでしまうと考えているのである。私のその考えは、私が二十一歳の時に書いた噴飯小説「雪炎」以来、今も一貫して変化していない。よろしければ、御笑覧あれ。……あの頃……どこかで小説家になりたいなどと考えていたことをむず痒く思い出した……。

・『使者退去の後、義村、使者を發し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右無く、「阿闍梨を誅し奉るべし』この下りが、私のとって永い間、疑問なのである。真の黒幕を追求すべき必要性が少しでもあるとならば、義時は生捕りを命ぜねばならない。しかも(と同時に、にも拘わらず)源家の嫡統である公暁を「左右(さう)無く」(ためらうことなく)「誅し奉」れ、というのは如何にも『変』である。そのおかしさには誰もが気づくはずであり、それがやる気がない理由があるとすれば、ただ一つ、謀略の総てを義時が最早、知尽していたから以外にはあり得ない。だからこそ彼は危機一髪、『難』を逃れているのだ。これについては「吾妻鏡」の事件直後、翌二月八日の条に早くも弁解染みて奇妙に示されていることは知られた話である。

〇原文

八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌尅供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。此の梵宇は、靈夢の告げに依つて、草創せらるるの處、去ぬる月廿七日戌の尅、供奉の時、夢のごとくにして、白き犬、御傍に見るの後、御心神違亂の間、御劍を仲章朝臣に讓り、伊賀四郎許りを相ひ具して、退出し畢んぬ。而るに右京兆は、御劔を役せらるるの由、禪師、兼て以つて存知するの間、其の役の人を守りて、仲章の首を斬る。彼の時に當りて、此の堂の戌神(いぬがみ)、堂中に坐(おは)しまし給はずと云々。

というあからさまなトンデモな霊験譚である。大倉薬師堂は既に見た通り、義時が大方の反対を押し切って前年に私財を擲って建立した『変』な寺なのだ。さて――拝賀の式の行列が鶴岡社頭にさしかかった際、彼にだけ白い犬が自分の傍へやってくるのが見え、俄に気分が悪くなって、内々に急遽、実朝の御剣持を仲章に代行してもらうこととして、たった一人の従者を連れてこっそりと自邸へ戻ったが、仲章が代役になっていることを知らずに、事前に何者かに知らされていた通り、御剣持役の人間を義時と信じて疑わずに今一つのターゲットとして首を刎ねた――というのである。しかも――その拝賀の式当日、不思議なことに大倉薬師堂の十二神将の戌神の像だけが、忽然と消えており、事件後には再び戻っていた――というのである。――この話、読み物としてはそれなりに面白いはずなのに「北條九代記」の作者は採用していない。大倉薬師堂の建立の事実をわざわざ書いておきながら、である。わざわざ書いたということは、私は恐らく筆者はこの後日譚を書くつもりだったのだと思う。ところが、どうにもこの如何にも『変』な作話ばればれの話に、筆を進めて行くうちに、筆者自身があきれ返ってしまい、結局、書かず仕舞いとなったのではなかったか? 逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め(義時に謀略がばれたことの危険性が最も高いであろう)公暁の蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計ればよい(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置からも、義村は失敗した謀略ならばそれを簡単に総て抹消することが出来たのである。義時から万一、事後に抗議や疑義があったとしてもそれらは、公暁は将軍家を放伐した許し難い賊であり、公暁が抗った故に仕方なく誅殺した当然の処置であったと答えればよいのである)。その「不自然さ」を十全に説明しないで、乳母一連托生同族説から三浦陰謀説(中堅史家にも支持者は多い)を唱える永井路子氏には、私は今以って同調出来ないでいるである。

・「長尾新六定景」(生没年不詳)既に暗殺直後にテロリスト探索に名が挙がっているがここで注す。石橋山の合戦では大庭景親に従って平家方についたが、源氏勝利の後、許され、和田合戦で功を立てた。ここで公暁を打ち取った時には既に相当な老齢であったと考えられる。今、私の書斎の正面に見える鎌倉市植木の久成寺境内に墓所がある。

『義村、聞きて、「先此方へ來り給へ。御迎の兵士を參すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人にあらず、武勇兵略勝れたれば、輒(たやす)く謀難かるべしとて、勇悍の武士を擇び、長尾新六定景を大將として、討手をぞ向けられける』この部分、「北條九代記」の筆者は、「吾妻鏡」にある、重要な義時の即決部分を省略してしまっている。即ち、

京兆、左右無く、

「阿闍梨を誅し奉るべし。」

の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。

の部分がないのである。これは如何にも不審である。そもそもこれでは公暁誅殺の合議をし、長尾を選抜したのが北条義時であるかのようにさえ誤読されてしまう危険性さえあるのだ。私はこの違和感は実は、「北條九代記」の筆者が、この北条義時の即決の台詞に対して強烈な、私と同じ違和感を感じたからではないか、と考えている。これを記すと「北條九代記」はその輝かしい北条の歴史の当初於いて血塗られた疑惑を読者に与えてしまうからに他ならない。

……そうである。この「吾妻鏡」の伝える部分こそが私の昔からの違和感としてあるのである。――真の黒幕の可能性の追求すべき必要性がある以上、義時は生捕りを命ぜねばならない。にも拘わらず、現在唯一残っている源家の嫡統である公暁を、有無を言わせず、しかも自身の手ではなく、三浦氏に命じて「誅し奉」ったのは何故か? また、逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め、公暁蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計らねばならない(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置や事実結果からみても、義村は失敗したと判断する謀略ならばそれを簡単に総て抹消させることは極めて容易であったはずである)。そうしなければ、普通なら当然の如く行われると考えるはずの公暁への訊問によって三浦謀略の全容が明らかになってしまうからである。にも拘わらず、三浦は義時に伺いを立て、義時は捕縛ではなく誅殺を命じている。義時が潔白であるなら、公暁の背後関係を明らかにし、それらを一掃させることが最大の利となるこの時にして、これは不自然と言わざるを得ない。寧ろ、これはこの実朝暗殺公暁誅殺という呪われた交響詩のプログラムが、総演出者・総指揮者たる北条義時によって組み立てられたものであったことを示唆すると私は考えるのである。そこでは多くの役者が暗躍した。実際にこの後の「吾妻鏡」を見ると、実に怪しいことに気がつく。この実朝暗殺に関わった人間たちの殆んどすべての関係者が、簡単な訊問の後、無関係であるとか、誤認逮捕であったとかという理由で、さりげなく記載されているのである。そして誰もいなくなって、殆んど公暁一人が悪者にされている。こうした関係者までもが皆、三浦氏の息のかかったものであって、三浦の謀略指示について幕府方の訊問でも一切口を割らず、事件が速やかに終息するというのは、この方が如何にも考えにくいことではないか? 寧ろ、総ての駒の動きがフィクサーとしての義時によって神のように管理されていたからこその、鮮やかにして速やかな終息であったと考えた方が自然である。三浦義村は確かに和田合戦でも同族の和田氏を裏切っており、千葉胤綱から「三浦の犬は友を食らうぞ」と批判された権謀術数に長けた男ではある。しかしだからこそ、義時の想像を絶する策謀をもいち早く見抜くことが出来、三浦一族の危機を回避するために、同族乳母子の公暁をも――義時の謀略にはまらないために――蜥蜴の尻尾切りした、とも言えるのである。

「雜賀次郎」三浦の被官であるが、「吾妻鏡」ではここにしか見えない。紀伊国南西の雑賀荘を領有したか。

「公曉は鶴ヶ岡の後の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり」それでなくても、実朝殺害直後の公暁の行方は不明で神出鬼没なればこそ、これは三浦義村が予め、使者であった北弥源太兵衛尉に援軍の移送経路は間道の峯筋であると指示したものと考えなければ、こんなに都合よく行くはずがない。なお、この部分「北條九代記」の作者は「吾妻鏡」のこの場面の「定景と途中に相ひ逢ふ。雜賀次郎、忽ちに阿闍梨を懷き、互ひに雌雄を諍ふの處、定景、太刀を取り、闍梨が首を梟す」という立ち回りシーンを浄瑠璃風に簡略化している。

「素絹」素絹の衣(ころも)。素絹で作った白い僧服。垂領(たりくび:襟を肩から胸の左右に垂らし、引き合わせるもの。)で袖が広くて丈が長く、裾に襞がある。

「腹卷」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。次のシークエンスの広元の台詞でも重要な単語として登場する。

 

以下、実朝暗殺のコーダ部分を「吾妻鏡」で見る。

〇原文

抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令著腹卷給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自拔御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。

 出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ

次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。

又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。

〇やぶちゃんの書き下し文

抑(そもそも)、今日の勝事(しようし)、兼ねて變異を示す事一(いつ)に非ず。所謂、御出立の期(ご)に及びて、前大膳大夫入道、參進し申して云はく、

「覺阿成人の後、未だ涙の浮ぶ顏面を知らず。而るに今、昵近(ぢつきん)奉るの處、落涙禁じ難し、是れ、直(ただ)なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日の、右大將軍御出の例に任せ、御束帶の下に、腹卷を著せしめ給ふべし。」

と云々。

仲章朝臣、申して云はく、

「大臣大將に昇るの人、未だ其の式有らず。」

と云々。

仍つて之を止めらる。又、公氏、御鬢(ごびん)に候ふの處、御鬢より一筋拔き、

「記念。」

と稱し、之を賜ふ。次いで、庭の梅を覽ぜられて、禁忌の和歌を詠じ給ふ。

 

 出でていなば主(ぬし)なき宿と成りぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな

 

次いで、南門を御出の時、靈鳩、頻りに鳴き囀(さへづ)り、車より下り給ふの刻(きざみ)、雄劔(ゆうけん)を突き折らると云々。

又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃國住人中野太郎助能(すけよし)、少輔阿闍梨勝圓を生虜(いけど)り、右京兆の御亭へ具し參る。是れ、彼の受法の師たるなりと云云。

・「中野助能」(生没年未詳)幕府御家人。信濃出身。「吾妻鏡」では本件以外に、寛喜二(一二三〇)年二月八日の条で承久の乱での功績により、領していた筑前勝木荘の代わりに筑後高津・包行(かねゆき)の両名田を賜るという記事で登場する。

・「少輔阿闍梨勝圓を生虜」公暁の後見人であったこの勝円なる人物は同月末日の三十日に義時の尋問を受けるが、申告内容から無罪となって、本職を安堵されている。一方、「吾妻鏡」同条には、公暁が最初に逃げ込んだ同じく「後見」の「備中阿闍梨」については、先に掲げた通り、雪の下宅地及び所領の没収が命ぜられている(但し、この備中阿闍梨にしても、その後の本人の処罰内容は掲げられていない。おかしくはあるまいか? 犯行後に真っ先に逃亡した先の住僧であり、同じく公暁の後見人である。如何にも怪しいではないか)。

「勝事」快挙の意以外に、驚くべき大事件の意があり、ここでは後者。

「仲章朝臣」文書博士源(中原)仲章(なかあきら/なかあき ?~建保七(一二一九)年一月二十七日)。元は後鳥羽院近臣の儒学者であったが、建永元(一二〇六)年辺りから将軍実朝の侍読(教育係)となった。「吾妻鏡」元久元(一二〇四)年一月十二日の条に『十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此「僧」儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。』(十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始め。相摸權守、御侍讀をたり。此の儒、殊なる文章無きに依りて、才名の譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御讀合せの後、砂金五十兩、御劔一腰を中章に賜はる。)と記す。御存知のように、彼は実朝と一緒に公暁によって殺害されるのであるが、現在では、彼は宮廷と幕府の二重スパイであった可能性も疑われており、御剣持を北条義時から譲られたのも、実は偶然ではなかったとする説もある。

「宮田兵衞尉公氏公氏」宮内公氏が正しい。実朝側近。秦姓とも。

 

又、御出の時、(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、

  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな

其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。

「御臺所……」以下は、「吾妻鏡」の翌一月二十八日の条の基づく。以下に示す。

〇原文

廿八日。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰尅。御臺所令落飾御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衞門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌尅。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日。今曉、加藤判官次郎、使節と爲し上洛す。是れ、將軍家薨逝の由、申さるるに依つてなり。行程五箇日と定めらると云云。

辰の尅、御臺所、落飾せしめ御(たま)ふ。莊嚴房(しやうごんばう)律師行勇、御戒師たり。又、武藏守親廣・左衞門大夫時廣・前駿河守季時・秋田城介景盛・隱岐守行村、大夫尉景廉・以下の御家人百餘輩、薨御の哀傷に堪へず、出家を遂ぐるなり。戌の尅、將軍家、勝長壽院の傍らに葬り奉る。去ぬる夜、御首の在所を知ず、五體不具たり。其の憚り有るべきに依つて、昨日、公氏に給はる所の御鬢(ごびん)を以つて、御頭(みぐし)に用ゐ、棺に入れ奉ると云云。

・「辰の刻」午前八時頃。

・「御臺所」坊門信子(ぼうもんのぶこ 建久四(一一九三)年~文永一一(一二七四)年)。実朝正室。西八条禅尼と通称された。出家後の法名は本覚尼。父は公卿坊門信清。元久元(一二〇四)年に実朝の正室となって鎌倉に赴いた。実朝との仲は良かったといわれるが、子は出来なかった。出家後は京に戻った。当時、満二十六歳であった。その後、承久三(一二二一)年五月に起こった承久の乱では兄坊門忠信・坊門忠清らが幕府と敵対して敗北するも、彼女の嘆願によって死罪を免れている。九条大宮の地に夫の菩提寺遍照心院(現在の大通寺)を建立。享年八十二で亡くなった。なお、「北條九代記」では信子及び次の御家人らの出家は当日中となっている。

・「武藏守親廣」源親広。以下、「左衞門大夫時廣」は大江時広、「前駿河守季時」は中原季時、「秋田城介景盛」は安達景盛、「隱岐守行村」は二階堂行村、「大夫尉景廉」は加藤景廉。

 

実朝の首は一体、何処へ行ってしまったのだろう?

現在、秦野市東田原に「源実朝公御首塚(みしるしづか)」なるものがあるが、同市観光協会の記載などには、『公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)』や大津兵部『によってこの秦野の地に持ちこまれ』、『当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられ』とするが、これは到底、信じ難い。……失われた実朝の首の謎……彼はそれ故に顔なき悲劇の貴公子であり――puer eternus――プエル・エテルヌスであり続ける……]

 

■やぶちゃん現代語訳(各パートごとに分けてそれぞれにオリジナルな標題を附し、御列記載は「吾妻鏡」の記載方式に准じた。誤りと思われる部分でもそのまま訳した。但し、一部に敷衍訳を施してある)

 

      〇実朝公右大臣に任ぜらる事

        付けたり 同拝賀の式の事

        並びに  同拝賀の式にて、禅師公暁、実朝を討つ事

〈右大臣叙任の段〉

 同建保六年十二月二日、将軍実朝公は、遂に正二位右大臣に任ぜられた。

 「明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮に於いて、右大臣拝賀の儀を執り行なう」と決し、同拝賀の式次第奉行として大夫判官二階堂行村が、これを承って、供奉(ぐぶ)の随兵以下の人員及びその選抜をお定めになられる。

 御装束及び御牛車以下の調度類はその総てが仙洞御所の後鳥羽院様より下し賜わられた。

 右大将故頼朝卿の右大将拝賀の御時に随兵を定められた際には、かねてより代々、将軍家に仕えた勇士にして、弓馬の達人であって、且つ、容姿端麗なることという、三徳を兼ね備えた者を選んで、拝賀の供奉をお勤めさせなされた。――あの頃は、まっこと、古き良き時代で御座った。……

 しかるに――この度は世も移り変わったとは申せ、この三徳兼備とは言い難き者も含まれて御座った――まあ、それは謂うまい……ともかくも、

「この度の右大臣拝賀の儀は、これ、関東にては未だ例(ためし)なき晴れの儀式である。」

ということなれば、早い時点に、あらかじめ、その参加すべき人員の選抜を行われ、お定めになられた。

 建保七年正月二十七日のこと、今日はまさに儀式を執り行うに相応しき吉日なり、とのことなれば、

――将軍家右大臣御拝賀の式は酉の刻――

との触れられて御座った。

 

〈右大臣拝賀行列の段〉

 拝賀の路次(ろし)の行列の装備は華麗荘重にしてしかも厳重である。

 まず、

 居飼(いかい)四人

 舎人(とねり)四人、

 次に、一員(いちいん)は二列に連なって、

将曹(しょうそう)菅野景盛・府生(ふしょう)狛(こまの)盛光・将監(しょうげん)中原成能(なりよし)

 の三名が束帯で続いている。

 次に、殿上人、

一条侍従能氏(よしうじ)・伊予(いよの)少将実雅(さねまさ)・中宮権亮(ごんのすけ)信義以下の五人

 が各々、随身四人を伴っている。

 次に、

藤勾当(とうのこうとう)頼隆以下、前駆(まえがけ)の十八人

 が二列を組んで進む。

 次に、官人、

秦兼峰(はたのかねみね)・番長下毛野敦秀(なんちょうしもつけのあつひで)。

 次に、

将軍家実朝卿。

 将軍家の御乗物は檳榔毛(びろうげ)の牛車。

 車副(くるまぞえ)四人、

扈従(こじゅう)は坊門大納言忠信卿。

 次に随兵十人、

 皆、甲冑を帯びている。

 次に雑色(ぞうしき)二十人、

 検非違使(けびいし)一人、

  その検非違使の供奉として、

   調度懸(ちょうどがけ)一人、

   小舎人童(こどねりわらわ)一人、

 看督長(かどのおさ)二人、

 火長(かちょう)二人、

 放免(ほうめん)五人。

 次に、将軍家御調度懸、

佐々木五郎左衛門尉義清

 次に、随身(ずいじん)六人。

 次に、

新大納言忠清・宰相中将国道以下

 公卿五人

 が、各々、前駆と随身を伴う。

 次に、

受領(ずりょう)の大名三十人。

 行列掉尾には、

 路次(ろし)の随兵一千騎

が、それぞれに花を飾り、色鮮やかに着こなして、道中辻々警護を厳しく致して、御所より鶴岡八幡宮まで、大河の如くにねり廻り出でて赴き遊ばされる絢爛は、とても想像だにし得ず、また、筆舌にさえ尽くし得ぬほどのもので御座る。

「前代にもかくなる盛大なる儀式は例(ためし)、これなく、後代にも二度とはあるまじい。」

とて、貴賤上下の見物人は、なおますます膨れ上がって、立錐の余地もないほどで御座る。

 道中の路次(ろし)は両側ともに何処(いずこ)も混み合って、その中でも特に押し合いへし合いしおる場所にては、

「万一、乱暴狼藉等、出来(しゅったい)致いては。」

と、警備の兵どもが駆け回っては騒ぎを静めるのに躍起で、落ち着いている暇もない。

 

〈鶴岡八幡宮社前の段〉

 まさに拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺の楼門にお入りにならんとした、丁度その時、右京大夫(うきょうのだいふ)義時殿、俄かに御気分が悪くなられ、御剣持(みけんもち)を仲章朝臣殿に急遽、譲られて退出なされる。

 

〈右大臣拝賀の段〉

 右大将実朝公は小野の御亭より八幡の社前に参向なされ、夜に入って、参拝の儀式を終えられ、楽人(がくじん)が楽を奏し、祝部(ほうり)が鈴を持って鳴らしつつ最後に、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制と思しい神の思し召しをお伝え申し上げた。

 

〈鶴ヶ岡石階(いしだん)の段〉

 上宮(かみのみや)での式次第を滞りなく終えられ、二尺ほども積もった雪の中、清浄に雪の除かれた社前の道をお下りになられた。

 その時、当八幡宮の別当、阿闇梨公暁殿、秘かに下る石階(いしだん)の辺りにて隙を覗い、ぱっと飛び出でたかと思うと、剣を抜き放って、右大臣実朝公の首を一太刀に打ち落とした。

――白き雪に真っ紅な血の華が飛び散った……

……公暁殿は、その御頭(みぐし)を乱暴に引っ提げると、電光の如、素早く逃げて行方を眩ました。

 

〈鶴岡境内の段〉

 闇夜の混乱の中、武田五郎信光を先頭に、大声を張り上げては互いに味方を確認し合いつつ、随兵らが四方八方へ走り散って、逃げた賊を探し求めたが、暗中の模索なればこそ、一体、実朝公暗殺、これ誰人(たれびと)の仕出かしたことかさえも相い分からぬ。

 

〈別当本坊の段〉

 暫くして、

「――これ、別当坊公暁の所為じゃ!――」

と、誰ともなく口に出し、それが知れ渡ったによって、別当職となれば! とて、雪ノ下の公暁の本坊に方々、押し寄せてはみたものの、公暁殿はおわさぬ。

 

〈鶴岡社頭の段〉

 かくも盛大荘厳であった行列の順列なんども、これ、みるみるうちに乱れに乱れ、公卿・殿上人は裸足のままに逃げ惑い、束帯の冠なんども脱げてどこぞに落ち失せる。

 一千余騎の随兵らは、皆、馬手(めて)を絞って馬を廻しては馳せ、雲霞の如くなだれ込んで来る。

 暗夜の騒擾なれば、逃げ遅れ、前へと突き出だされた貴賤を問わざる見物の人々は、これ、多くが兵馬に踏み殺され、或いは鎮圧のために不用意に抜き振られた太刀に打ち倒されて、これ、鎌倉中、目にも心にも全き闇(やみ)と相い成って、

「……これは……そ、そもそもが……一体、何が如何(いかが)致いたことなるぞ!?」

と、人々は魂消(たまげ)、ただただ呆然とするばかりであった。

 

〈三浦屋敷の段〉

 その頃、公暁禅師は後見人であられた備中阿闍梨殿の雪ノ下の坊にお入りになっていた。

 ともかくもと、ともにここまで連れ逃げて参った乳母子(めのとご)の弥源太兵衛尉(みげんたひょうえのじょう)を使者として、三浦左衛門尉義村殿に仰せ遣わせられた御消息には、

「……今は以って将軍の官職は欠員となった。我は関東の武門棟梁のの嫡孫である。速やかに将軍職就任への企計を廻らすがよい――ともかくも委細面談の上――」

とあった。

 なお、ここで何故三浦義村殿の元へ消息を送って事後を頼んだのかと申せば、義村の子息 である駒若丸は、かの公暁殿の門弟であったればこそ、その好(よし)みを頼んで、かくも言いやられたので御座った。

 さて、義村、これを聞いて、

「――まずは――拙宅へと来たり給え。――御迎えの護衛の兵士を追っ付け、差し向けますれば――」

と返答して、使者の弥源太をば帰し、そのそばから直ちに右京大夫義時殿に、以上の経緯を急告致いた。

 そうして――義時邸からの返事は――これ――「左右(そう)なく誅し奉るべし」――で御座った。――

 そこで義村は、

「……公暁は並みの人物にては、これ、御座ない!……武威も蛮勇も兵法も功者なればこそ……そう容易くは我らが謀りごとには載って参るまい。……」

と評議一決、彼に劣らぬ蛮勇にして精悍なる武士を選び、長尾新六定景を大将として、万全の誅殺部隊を組織して討手(うって)として備中阿闍梨の坊へと直ちに向けられた。

 

〈鶴岡後背大臣山峰の段〉

 定景は黒皮縅(くろかわおどし)の鎧を着し、無双の大力を誇る強者(つわもの)雑賀(さいか)次郎以下、郎従五人を引き連れて、公暁のおわす備中阿閣梨の坊へと向かう。

 公暁殿はと言えば、三浦の兵の迎えの来ぬに痺れを切らし、指示通り鶴岡の後ろの峰に登って、そこから間道を義村の家の方へを迂回して向かおうとなさっておられたが、まさしくその途次にて、長尾定景と行き合った。

 公暁殿は定景に尋常ならざる気配を見抜きはした。――が――しかし――それは遅過ぎたのだった。

 定景、太刀をすかさず抜き取り、あっと言う間に御頭(みぐし)を打ち落とし申し上げたのであった。

 その場で探り見ると、公暁殿は、素絹(そけん)の法衣の下に腹巻(はらまき)をしっかりとなさっておられた。

 長尾は、そこで公暁の御頭を持って馳せ帰って、三浦義村、そして北条義時とがこれを実検した。

 

〈大江広元の証言〉

 前(さき)の大膳大夫(だいぜんのだいふ)大江広元入道覚阿殿の語り。

「……今日の恐るべき出来事は、拙者には何か、かねてより予感さるるところが、これ、御座ったように思わるる。……今朝、将軍家が御所を御出立するの時に臨んで、我ら、直(じき)に申し上げたことには、

『……この覚阿、成人してよりこの方、今日(こんにち)に至るまで遂に、涙の面(おもて)に浮かびしことは、これ、一度として御座らなんだ。……しかるに、只今――御前に参って――かくもしきりに涙の出ずる……これ、ただ事とも思われませぬ。――定めて、何か深い因縁のあるものかとも存じ奉る。――さればこそ――東大寺供養の砌り、右大将家の御出座の際の先例に倣い、御束帯の下に腹巻を御着帯下さいまするように――』

と申し上げたのであった。ところが、その場にあった、かの将軍家とともに右京兆(うきょうのちょう)殿の身代わりとして亡くなられた源仲章朝臣殿が、

『――大臣・大将に昇った人にあっては未だ嘗て腹巻を着帯なされたという例式は、これ、御座らぬ。』

と口を挟まれた。

 されば、その仲章殿の一言によって、その腹巻の着用は沙汰止みとなったて御座ったのじゃ。……

 また、御出立の直前には、宮田兵衞尉公氏(きんうじ)が御調髪をし申し上げて御座ったが、その折り、実朝公は、自ら御自身の鬢(びん)の御髪(みぐし)を一筋お抜きになられ、

『――これを形見に――』

とおっしゃっられて、公氏にお授けになられ、そうして……次に、縁端(えんばな)へとお歩み寄りになられると庭の梅をご覧になられ、

 

  出ていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな

   ――私が出で去ってしまったならば……

   ――この宿居は主人(あるじ)がおらぬ屋敷となって……

   ――誰からも忘れ去られてしまって浅茅が宿と化すにしても……

   ――しかし……そうなったとしても……

   ――お前、軒端に美しく咲く梅よ、……

   ――この世の春を……忘れずに……

   ――いつまでも……咲いて……いよ……

 

とお詠みになられた。……

 その他にも、例えば、南門を出られ際には、白き霊鳩(れいきゅう)がしきりに鳴き騒ぎ、また、鶴岡社頭にて牛車よりお降りになられた時には、お佩きになられておられた礼式の御剣(ぎょけん)を突き折られてしまわれるなど……これ、禁忌に触るる、不穏にして不吉なる出来事が、まっこと、多くに御座った。……返す返すも……我らさえ、後悔致いておるところにて御座る。」

と語られたと申す。

 

〈葬儀埋葬次第〉

 その日の内に、故将軍家御台所坊門信子(ぼうもんのぶこ)様が落飾なされる。

 御家人百余名も、これ、同時に出家致いた。

 翌二十八日、御葬礼を営まんとしたが、御頭(みぐし)は未だに御所在、これ、不明なれば、

「五体不具のままにては、葬送の事、甚だ、差支え、これ、あり。」

とのことなれば、昨日、公氏に賜わられたところの鬢(びん)の髪一筋を、これ、御頭(みぐし)と擬(なぞら)えて、棺に納め申し上げ奉り、勝長寿院の傍らに葬り申し上げたは、……ああぁ! これ、何たる、哀れなるかな!……

 

 その初め、建仁三年に実朝卿の将軍に任ぜられなさってよりこのかた、今年に至るまで、治世十七年、御年二十八歳にして白刃の一閃に中(あた)って黄泉(こうせん)へとう埋もれなさって、人間(じんかん)を辞して幽冥の途次(とじ)へと隠れになられ、紅いの華麗な花の如き栄華も、瞬く間に、枯れ落ち朽ち尽きてしまわれた。

 頼朝公・頼家公・実朝公――これを源家三代将軍と称す。その治世の間、合わせて四十年。公暁殿は頼家公の子息にて、四歳にして父に死に別れ、この年、未だ十九歳、僅かの間(ま)に亡んでしまわれたのであった。――

 

[やぶちゃん補注:今回、現代語訳をしながら、私の若書きの駄作「雪炎」の考証上の問題点が幾つか浮かび上がってきたのを感じた。特に最大の誤りは「前駈(まえがけ)の列の先頭に加わっていた右京兆が」の部分で、「吾妻鏡」によれば、北條義時は二列の恐らくは右の最後尾であること、そうするとその前の集団の殿上人のやはり恐らく右の最後尾にいた源仲章がリアル・タイムで義時の体調不良の演技の瞬間の傍らに、たまたまいるという設定はあり得ない。そもそも御剣持の大役の交代がそんな場当たり的に行われることなどあり得ないから、これは噴飯なこの小説でも、実は最も噴飯物のシーンであると言える。寧ろ、近年の仲章朝廷方スパイ説を踏まえるなら、一石二鳥で義時が仲章を指名して自分の身代わりとしたという設定の方が説得力を持つであろう。それにしても広元の言にダメ出しした仲章が、哀れ、犠牲となる図式は、すこぶる附きで、偶然とは思えなくなってくる。更に言えば、この事件では、

――首のない実朝の一人分の胴体

があり、遂に実朝の首は発見されない。一方、首実検の際に北条泰時が「これが本当に公暁殿の御首級であると、一体、どなたが断言出来ると申さるるのか? 誰(たれ)も彼の顔を見知った者など、おらぬというに!」(ちょっと脚色した)と言った、

――公暁のものと称する一人分の首

という奇体な設定だ!(考えて見ると公暁の胴体や墓はどうしたんだろう?)……私は今、既に一杯呑んでこれを書いている……その酩酊の意識の中で……実は死んでいるのは一人なんじゃないか?……殺されたのは実朝ではなくって……実は公暁なんであって……その遺体がそれぞれ二人分を演出しているとうのはどうだ!?……というかの「相棒」でさえも採用して呉れそうもない、トンデモ偽装殺人トリックという仮説も面白い……なんどいう気がしてきたりしている……

……ともかくも……実朝の死は未だに古くて新しい、謀殺という現象の、悪魔的な『魅力』を持続しているのだと言えよう。]

〇公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 全現代語訳

■やぶちゃん現代語訳(各パートごとに分けてそれぞれにオリジナルな標題を附し、御列記載は「吾妻鏡」の記載方式に准じた。誤りと思われる部分でもそのまま訳した。但し、一部に敷衍訳を施してある)

      〇実朝公右大臣に任ぜらる事
        付けたり 同拝賀の式の事
        並びに  同拝賀の式にて、禅師公暁、実朝を討つ事
〈右大臣叙任の段〉
 同建保六年十二月二日、将軍実朝公は、遂に正二位右大臣に任ぜられた。
 「明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮に於いて、右大臣拝賀の儀を執り行なう」と決し、同拝賀の式次第奉行として大夫判官二階堂行村が、これを承って、供奉(ぐぶ)の随兵以下の人員及びその選抜をお定めになられる。
 御装束及び御牛車以下の調度類はその総てが仙洞御所の後鳥羽院様より下し賜わられた。
 右大将故頼朝卿の右大将拝賀の御時に随兵を定められた際には、かねてより代々、将軍家に仕えた勇士にして、弓馬の達人であって、且つ、容姿端麗なることという、三徳を兼ね備えた者を選んで、拝賀の供奉をお勤めさせなされた。――あの頃は、まっこと、古き良き時代で御座った。……
 しかるに――この度は世も移り変わったとは申せ、この三徳兼備とは言い難き者も含まれて御座った――まあ、それは謂うまい……ともかくも、
「この度の右大臣拝賀の儀は、これ、関東にては未だ例(ためし)なき晴れの儀式である。」
ということなれば、早い時点に、あらかじめ、その参加すべき人員の選抜を行われ、お定めになられた。
 建保七年正月二十七日のこと、今日はまさに儀式を執り行うに相応しき吉日なり、とのことなれば、
――将軍家右大臣御拝賀の式は酉の刻――
との触れられて御座った。

〈右大臣拝賀行列の段〉
 拝賀の路次(ろし)の行列の装備は華麗荘重にしてしかも厳重である。
 まず、
 居飼(いかい)四人
 舎人(とねり)四人、
 次に、一員(いちいん)は二列に連なって、
将曹(しょうそう)菅野景盛・府生(ふしょう)狛(こまの)盛光・将監(しょうげん)中原成能(なりよし)
 の三名が束帯で続いている。
 次に、殿上人、
一条侍従能氏(よしうじ)・伊予(いよの)少将実雅(さねまさ)・中宮権亮(ごんのすけ)信義以下の五人
 が各々、随身四人を伴っている。
 次に、
藤勾当(とうのこうとう)頼隆以下、前駆(まえがけ)の十八人
 が二列を組んで進む。
 次に、官人、
秦兼峰(はたのかねみね)・番長下毛野敦秀(なんちょうしもつけのあつひで)。
 次に、
将軍家実朝卿。
 将軍家の御乗物は檳榔毛(びろうげ)の牛車。
 車副(くるまぞえ)四人、
扈従(こじゅう)は坊門大納言忠信卿。
 次に随兵十人、
 皆、甲冑を帯びている。
 次に雑色(ぞうしき)二十人、
 検非違使(けびいし)一人、
  その検非違使の供奉として、
   調度懸(ちょうどがけ)一人、
   小舎人童(こどねりわらわ)一人、
 看督長(かどのおさ)二人、
 火長(かちょう)二人、
 放免(ほうめん)五人。
 次に、将軍家御調度懸、
佐々木五郎左衛門尉義清
 次に、随身(ずいじん)六人。
 次に、
新大納言忠清・宰相中将国道以下
 公卿五人
 が、各々、前駆と随身を伴う。
 次に、
受領(ずりょう)の大名三十人。
 行列掉尾には、
 路次(ろし)の随兵一千騎
が、それぞれに花を飾り、色鮮やかに着こなして、道中辻々警護を厳しく致して、御所より鶴岡八幡宮まで、大河の如くにねり廻り出でて赴き遊ばされる絢爛は、とても想像だにし得ず、また、筆舌にさえ尽くし得ぬほどのもので御座る。
「前代にもかくなる盛大なる儀式は例(ためし)、これなく、後代にも二度とはあるまじい。」
とて、貴賤上下の見物人は、なおますます膨れ上がって、立錐の余地もないほどで御座る。
 道中の路次(ろし)は両側ともに何処(いずこ)も混み合って、その中でも特に押し合いへし合いしおる場所にては、
「万一、乱暴狼藉等、出来(しゅったい)致いては。」
と、警備の兵どもが駆け回っては騒ぎを静めるのに躍起で、落ち着いている暇もない。

〈鶴岡八幡宮社前の段〉
 まさに拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺の楼門にお入りにならんとした、丁度その時、右京大夫(うきょうのだいふ)義時殿、俄かに御気分が悪くなられ、御剣持(みけんもち)を仲章朝臣殿に急遽、譲られて退出なされる。

〈右大臣拝賀の段〉
 右大将実朝公は小野の御亭より八幡の社前に参向なされ、夜に入って、参拝の儀式を終えられ、楽人(がくじん)が楽を奏し、祝部(ほうり)が鈴を持って鳴らしつつ最後に、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制と思しい神の思し召しをお伝え申し上げた。

〈鶴ヶ岡石階(いしだん)の段〉
 上宮(かみのみや)での式次第を滞りなく終えられ、二尺ほども積もった雪の中、清浄に雪の除かれた社前の道をお下りになられた。
 その時、当八幡宮の別当、阿闇梨公暁殿、秘かに下る石階(いしだん)の辺りにて隙を覗い、ぱっと飛び出でたかと思うと、剣を抜き放って、右大臣実朝公の首を一太刀に打ち落とした。
――白き雪に真っ紅な血の華が飛び散った……
……公暁殿は、その御頭(みぐし)を乱暴に引っ提げると、電光の如、素早く逃げて行方を眩ました。

〈鶴岡境内の段〉
 闇夜の混乱の中、武田五郎信光を先頭に、大声を張り上げては互いに味方を確認し合いつつ、随兵らが四方八方へ走り散って、逃げた賊を探し求めたが、暗中の模索なればこそ、一体、実朝公暗殺、これ誰人(たれびと)の仕出かしたことかさえも相い分からぬ。

〈別当本坊の段〉
 暫くして、
「――これ、別当坊公暁の所為じゃ!――」
と、誰ともなく口に出し、それが知れ渡ったによって、別当職となれば! とて、雪ノ下の公暁の本坊に方々、押し寄せてはみたものの、公暁殿はおわさぬ。

〈鶴岡社頭の段〉
 かくも盛大荘厳であった行列の順列なんども、これ、みるみるうちに乱れに乱れ、公卿・殿上人は裸足のままに逃げ惑い、束帯の冠なんども脱げてどこぞに落ち失せる。
 一千余騎の随兵らは、皆、馬手(めて)を絞って馬を廻しては馳せ、雲霞の如くなだれ込んで来る。
 暗夜の騒擾なれば、逃げ遅れ、前へと突き出だされた貴賤を問わざる見物の人々は、これ、多くが兵馬に踏み殺され、或いは鎮圧のために不用意に抜き振られた太刀に打ち倒されて、これ、鎌倉中、目にも心にも全き闇(やみ)と相い成って、
「……これは……そ、そもそもが……一体、何が如何(いかが)致いたことなるぞ!?」
と、人々は魂消(たまげ)、ただただ呆然とするばかりであった。

〈三浦屋敷の段〉
 その頃、公暁禅師は後見人であられた備中阿闍梨殿の雪ノ下の坊にお入りになっていた。
 ともかくもと、ともにここまで連れ逃げて参った乳母子(めのとご)の弥源太兵衛尉(みげんたひょうえのじょう)を使者として、三浦左衛門尉義村殿に仰せ遣わせられた御消息には、
「……今は以って将軍の官職は欠員となった。我は関東の武門棟梁のの嫡孫である。速やかに将軍職就任への企計を廻らすがよい――ともかくも委細面談の上――」
とあった。
 なお、ここで何故三浦義村殿の元へ消息を送って事後を頼んだのかと申せば、義村の子息 である駒若丸は、かの公暁殿の門弟であったればこそ、その好(よし)みを頼んで、かくも言いやられたので御座った。
 さて、義村、これを聞いて、
「――まずは――拙宅へと来たり給え。――御迎えの護衛の兵士を追っ付け、差し向けますれば――」
と返答して、使者の弥源太をば帰し、そのそばから直ちに右京大夫義時殿に、以上の経緯を急告致いた。
 そうして――義時邸からの返事は――これ――「左右(そう)なく誅し奉るべし」――で御座った。――
 そこで義村は、
「……公暁は並みの人物にては、これ、御座ない!……武威も蛮勇も兵法も功者なればこそ……そう容易くは我らが謀りごとには載って参るまい。……」
と評議一決、彼に劣らぬ蛮勇にして精悍なる武士を選び、長尾新六定景を大将として、万全の誅殺部隊を組織して討手(うって)として備中阿闍梨の坊へと直ちに向けられた。

〈鶴岡後背大臣山峰の段〉
 定景は黒皮縅(くろかわおどし)の鎧を着し、無双の大力を誇る強者(つわもの)雑賀(さいか)次郎以下、郎従五人を引き連れて、公暁のおわす備中阿閣梨の坊へと向かう。
 公暁殿はと言えば、三浦の兵の迎えの来ぬに痺れを切らし、指示通り鶴岡の後ろの峰に登って、そこから間道を義村の家の方へを迂回して向かおうとなさっておられたが、まさしくその途次にて、長尾定景と行き合った。
 公暁殿は定景に尋常ならざる気配を見抜きはした。――が――しかし――それは遅過ぎたのだった。
 定景、太刀をすかさず抜き取り、あっと言う間に御頭(みぐし)を打ち落とし申し上げたのであった。
 その場で探り見ると、公暁殿は、素絹(そけん)の法衣の下に腹巻(はらまき)をしっかりとなさっておられた。
 長尾は、そこで公暁の御頭を持って馳せ帰って、三浦義村、そして北条義時とがこれを実検した。

〈大江広元の証言〉
 前(さき)の大膳大夫(だいぜんのだいふ)大江広元入道覚阿殿の語り。
「……今日の恐るべき出来事は、拙者には何か、かねてより予感さるるところが、これ、御座ったように思わるる。……今朝、将軍家が御所を御出立するの時に臨んで、我ら、直(じき)に申し上げたことには、
『……この覚阿、成人してよりこの方、今日(こんにち)に至るまで遂に、涙の面(おもて)に浮かびしことは、これ、一度として御座らなんだ。……しかるに、只今――御前に参って――かくもしきりに涙の出ずる……これ、ただ事とも思われませぬ。――定めて、何か深い因縁のあるものかとも存じ奉る。――さればこそ――東大寺供養の砌り、右大将家の御出座の際の先例に倣い、御束帯の下に腹巻を御着帯下さいまするように――』
と申し上げたのであった。ところが、その場にあった、かの将軍家とともに右京兆(うきょうのちょう)殿の身代わりとして亡くなられた源仲章朝臣殿が、
『――大臣・大将に昇った人にあっては未だ嘗て腹巻を着帯なされたという例式は、これ、御座らぬ。』
と口を挟まれた。
 されば、その仲章殿の一言によって、その腹巻の着用は沙汰止みとなったて御座ったのじゃ。……
 また、御出立の直前には、宮田兵衞尉公氏(きんうじ)が御調髪をし申し上げて御座ったが、その折り、実朝公は、自ら御自身の鬢(びん)の御髪(みぐし)を一筋お抜きになられ、
『――これを形見に――』
とおっしゃっられて、公氏にお授けになられ、そうして……次に、縁端(えんばな)へとお歩み寄りになられると庭の梅をご覧になられ、

  出ていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
   ――私が出で去ってしまったならば……
   ――この宿居は主人(あるじ)がおらぬ屋敷となって……
   ――誰からも忘れ去られてしまって浅茅が宿と化すにしても……
   ――しかし……そうなったとしても……
   ――お前、軒端に美しく咲く梅よ、……
   ――この世の春を……忘れずに……
   ――いつまでも……咲いて……いよ……

とお詠みになられた。……
 その他にも、例えば、南門を出られ際には、白き霊鳩(れいきゅう)がしきりに鳴き騒ぎ、また、鶴岡社頭にて牛車よりお降りになられた時には、お佩きになられておられた礼式の御剣(ぎょけん)を突き折られてしまわれるなど……これ、禁忌に触るる、不穏にして不吉なる出来事が、まっこと、多くに御座った。……返す返すも……我らさえ、後悔致いておるところにて御座る。」
と語られたと申す。

〈葬儀埋葬次第〉
 その日の内に、故将軍家御台所坊門信子(ぼうもんのぶこ)様が落飾なされる。
 御家人百余名も、これ、同時に出家致いた。
 翌二十八日、御葬礼を営まんとしたが、御頭(みぐし)は未だに御所在、これ、不明なれば、
「五体不具のままにては、葬送の事、甚だ、差支え、これ、あり。」
とのことなれば、昨日、公氏に賜わられたところの鬢(びん)の髪一筋を、これ、御頭(みぐし)と擬(なぞら)えて、棺に納め申し上げ奉り、勝長寿院の傍らに葬り申し上げたは、……ああぁ! これ、何たる、哀れなるかな!……

 その初め、建仁三年に実朝卿の将軍に任ぜられなさってよりこのかた、今年に至るまで、治世十七年、御年二十八歳にして白刃の一閃に中(あた)って黄泉(こうせん)へとう埋もれなさって、人間(じんかん)を辞して幽冥の途次(とじ)へと隠れになられ、紅いの華麗な花の如き栄華も、瞬く間に、枯れ落ち朽ち尽きてしまわれた。
 頼朝公・頼家公・実朝公――これを源家三代将軍と称す。その治世の間、合わせて四十年。公暁殿は頼家公の子息にて、四歳にして父に死に別れ、この年、未だ十九歳、僅かの間(ま)に亡んでしまわれたのであった。――

〇公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈コーダ〉 附やぶちゃん注 了

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

〈コーダ〉

前〔の〕大膳〔の〕大夫中原(なかはらの)廣元入道覺阿、申されけるは、「今日の勝事(しようじ)は豫て示す所の候。將軍家御出立の期(ご)に臨みて申しけるやうは、覺阿成人して以來(このかた)、遂に涙の面に浮ぶ事を知らず。然るに、今御前に參りて、頻に涙の出るは是(これ)直事(たゞごと)とも思はれず。定(さだめ)て子細あるべく候か。東大寺供養の日、右大將家の御出の例(れい)に任せて、御束帶(ごそくたい)の下に腹卷(はらまき)を著せしめ給へと申す。仲章朝臣、申されしは、大臣、大將に昇る人、未だ其例式(れいしき)あるべからずと。是(これ)に依(よる)て止(とゞ)めらる。又、御出の時、宮田兵衞〔の〕尉公氏(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。御臺所、御飾(かざり)を下(おろ)し給ふ。御家人一百餘輩、同時に出家致しけり。翌日、御葬禮を營むといへ共、御首(おんくび)は失せ給ふ、五體不具にしては憚りありとて、昨日(きのふ)、公氏に賜る所の鬢(びんのかみ)を御首に准(じゆん)じて棺に納め奉り、勝長壽院の傍(かたはら)に葬りけるぞ哀(あはれ)なる。初(はじめ)、建仁三年より、實朝、既に將軍に任じ、今年に及びて治世(ぢせい)十七年、御歳(おんとし)二十八歳、白刃(はくじん)に中(あたつ)て黄泉(くわうせん)に埋(うづも)れ、人間を辭して幽途(いうと)に隱れ、紅榮(こうえい)、既に枯落(こらく)し給ふ。賴朝、賴家、實朝を源家三代將軍と稱す、其(その)間、合せて四十年、公曉は賴家の子、四歳にて父に後(おく)れ、今年十九歳、一朝に亡び給ひけり。
以下、実朝暗殺のコーダ部分を「吾妻鏡」で見る。
〇原文
抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令著腹卷給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自拔御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。
 出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。
又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
抑(そもそも)、今日の勝事(しようし)、兼ねて變異を示す事一(いつ)に非ず。所謂、御出立の期(ご)に及びて、前大膳大夫入道、參進し申して云はく、
「覺阿成人の後、未だ涙の浮ぶ顏面を知らず。而るに今、昵近(ぢつきん)奉るの處、落涙禁じ難し、是れ、直(ただ)なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日の、右大將軍御出の例に任せ、御束帶の下に、腹卷を著せしめ給ふべし。」
と云々。
仲章朝臣、申して云はく、
「大臣大將に昇るの人、未だ其の式有らず。」
と云々。
仍つて之を止めらる。又、公氏、御鬢(ごびん)に候ふの處、御鬢より一筋拔き、
「記念。」
と稱し、之を賜ふ。次いで、庭の梅を覽ぜられて、禁忌の和歌を詠じ給ふ。

 出でていなば主(ぬし)なき宿と成りぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな

次いで、南門を御出の時、靈鳩、頻りに鳴き囀(さへづ)り、車より下り給ふの刻(きざみ)、雄劔(ゆうけん)を突き折らると云々。
又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃國住人中野太郎助能(すけよし)、少輔阿闍梨勝圓を生虜(いけど)り、右京兆の御亭へ具し參る。是れ、彼の受法の師たるなりと云云。
・「中野助能」(生没年未詳)幕府御家人。信濃出身。「吾妻鏡」では本件以外に、寛喜二(一二三〇)年二月八日の条で承久の乱での功績により、領していた筑前勝木荘の代わりに筑後高津・包行(かねゆき)の両名田を賜るという記事で登場する。
・「少輔阿闍梨勝圓を生虜」公暁の後見人であったこの勝円なる人物は同月末日の三十日に義時の尋問を受けるが、申告内容から無罪となって、本職を安堵されている。一方、「吾妻鏡」同条には、公暁が最初に逃げ込んだ同じく「後見」の「備中阿闍梨」については、先に掲げた通り、雪の下宅地及び所領の没収が命ぜられている(但し、この備中阿闍梨にしても、その後の本人の処罰内容は掲げられていない。おかしくはあるまいか? 犯行後に真っ先に逃亡した先の住僧であり、同じく公暁の後見人である。如何にも怪しいではないか)。
「勝事」快挙の意以外に、驚くべき大事件の意があり、ここでは後者。
「仲章朝臣」文書博士源(中原)仲章(なかあきら/なかあき ?~建保七(一二一九)年一月二十七日)。元は後鳥羽院近臣の儒学者であったが、建永元(一二〇六)年辺りから将軍実朝の侍読(教育係)となった。「吾妻鏡」元久元(一二〇四)年一月十二日の条に『十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此「僧」儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。』(十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始め。相摸權守、御侍讀をたり。此の儒、殊なる文章無きに依りて、才名の譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御讀合せの後、砂金五十兩、御劔一腰を中章に賜はる。)と記す。御存知のように、彼は実朝と一緒に公暁によって殺害されるのであるが、現在では、彼は宮廷と幕府の二重スパイであった可能性も疑われており、御剣持を北条義時から譲られたのも、実は偶然ではなかったとする説もある。
「宮田兵衞尉公氏公氏」宮内公氏が正しい。実朝側近。秦姓とも。

又、御出の時、(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。
「御臺所……」以下は、「吾妻鏡」の翌一月二十八日の条の基づく。以下に示す。
〇原文
廿八日。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰尅。御臺所令落飾御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衞門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌尅。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日。今曉、加藤判官次郎、使節と爲し上洛す。是れ、將軍家薨逝の由申さるるに依つてなり。行程五箇日と定めらると云云。
辰の尅、御臺所、落飾せしめ御(たま)ふ。莊嚴房(しやうごんばう)律師行勇、御戒師たり。又、武藏守親廣・左衞門大夫時廣・前駿河守季時・秋田城介景盛・隱岐守行村、大夫尉景廉・以下の御家人百餘輩、薨御の哀傷に堪へず、出家を遂ぐるなり。戌の尅、將軍家、勝長壽院の傍らに葬り奉る。去ぬる夜、御首の在所を知ず、五體不具たり。其の憚り有るべきに依つて、昨日、公氏に給はる所の御鬢(ごびん)を以つて、御頭(みぐし)に用ゐ、棺に入れ奉ると云云。
・「辰の刻」午前八時頃。
・「御臺所」坊門信子(ぼうもんのぶこ 建久四(一一九三)年~文永一一(一二七四)年)。実朝正室。西八条禅尼と通称された。出家後の法名は本覚尼。父は公卿坊門信清。元久元(一二〇四)年に実朝の正室となって鎌倉に赴いた。実朝との仲は良かったといわれるが、子は出来なかった。出家後は京に戻った。当時、満二十六歳であった。その後、承久三(一二二一)年五月に起こった承久の乱では兄坊門忠信・坊門忠清らが幕府と敵対して敗北するも、彼女の嘆願によって死罪を免れている。九条大宮の地に夫の菩提寺遍照心院(現在の大通寺)を建立。享年八十二で亡くなった。
・「武藏守親廣」源親広。以下、「左衞門大夫時廣」は大江時広、「前駿河守季時」は中原季時、「秋田城介景盛」は安達景盛、「隱岐守行村」は二階堂行村、「大夫尉景廉」は加藤景廉。

実朝の首は一体、何処へ行ってしまったのだろう?
現在、秦野市東田原に「源実朝公御首塚(みしるしづか)」なるものがあるが、同市観光協会の記載などには、『公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)』や大津兵部『によってこの秦野の地に持ちこまれ』、『当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられ』とするが、これは到底、信じ難い。……失われた実朝の首の謎……彼はそれ故に顔なき悲劇の貴公子であり――puer eternus――プエル・エテルヌスであり続ける……]

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈第4パート〉 附やぶちゃん注

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

〈第4パート〉


禪師公曉は、御後見(ごこうけん)備中阿闍梨の雪下の坊に入りて、乳母子(めのとご)の彌源太(みげんだ)兵衞尉を使として、三浦左衞門尉義村に仰せ遣されけるやう、「今は將軍の官職、既に闕(けつ)す。我は關東武門の長胤(ちやういん)たり。早く計議(けいぎ)を廻らすべし。示合(しめしあは)せらるべきなり」とあり。義村が息駒若丸、かの門弟たる好(よしみ)を賴みて、かく仰せ遣(つかは)さる。義村、聞きて、「先(まづ)此方(こなた)へ來り給へ。御迎(おんむかひ)の兵士(ひやうし)を參(まゐら)すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人(たゞびと)にあらず、武勇兵略(ぶようひやうりやく)勝れたれば、輒(たやす)く謀難(はかりがた)かるべしとて、勇悍(ようかん)の武士を擇び、長尾〔の〕新六定景を大將として、討手をぞ向けられける。定景は黑皮威(くろかはおどし)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、大力(だいりき)の剛者(がうのもの)、雜賀(さいがの)次郎以下郎従五人を相倶して、公曉のおはする備中阿闍梨の坊に赴く。公曉は鶴ヶ岡の後(うしろ)の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり。素絹(そけん)の下に腹卷をぞ召されける。長尾御首を持ちて馳歸り、義村、義時是を實檢す。

〈第4パート注〉

[やぶちゃん注:以下、公暁誅殺までを「吾妻鏡」で見る。

○原文

爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者弥源太兵衞尉〔闍梨乳母子。〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。京兆無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅。〕不能辞退。起座著黑皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也。〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟闍梨〔着素絹衣腹卷。年廿云々。〕首。是金吾將軍〔頼家。〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也。〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。亭主出居。被見其首。安東次郎忠家取指燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。

○やぶちゃんの書き下し文

爰に阿闍梨、彼(か)の御首を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨の雪下(ゆきのした)北谷の宅に向はる。膳を羞(すす)むる間、猶ほ手を御首より放たずと云々。

使者弥源太兵衞尉〔闍梨(じやり)の乳母子(めのことご)。〕を義村に遣はさる。

「今、將軍の闕(けつ)有り。吾れ專ら東關の長に當るなり。早く計議を廻らすべし。」

の由、示し合はさる。是れ、義村息男駒若丸、門弟に列するに依つて、其の好(よし)みを恃(たの)まるるの故か。義村、此の事を聞き、先君の恩化を忘れざる間、落涙數行、更に言語に及ばず。少選(しばらく)あつて、

「先づ蓬屋(ほうおく)に光臨有るべし。且つは御迎への兵士を獻ずべし。」

の由、之を申す。使者退去の後、義村、使者を發し、件(くだん)の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右(さう)無く、

「阿闍梨を誅し奉るべし。」

の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。

「阿闍梨は、太(はなは)だ武勇に足り、直(ただ)なる人に非ず。輙(たやす)く之を謀るべからず。頗る難儀たり。」

との由、各々相ひ議すの處、義村、勇敢の器(うつは)を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景、遂に〔雪下の合戰後、義村が宅へ向ふ。〕辞退に能はず、座を起ち、黑皮威の甲を著し、雜賀(さひか)次郎〔西國の住人、強力の者なり。〕以下郎從五人を相ひ具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨が宅に赴くの刻(きざみ)、阿闍梨は、義村が使ひ、遲引の間、鶴岳後面の峯に登り、義村が宅に至らんと擬す。仍つて定景と途中に相ひ逢ふ。雜賀次郎、忽ちに阿闍梨を懷き、互ひに雌雄を諍ふの處、定景、太刀を取り、闍梨〔素絹の衣、腹卷を着す。年廿と云々。〕が首を梟(けう)す。是れ、金吾將軍〔賴家。〕の御息、母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女なり。〕。公胤僧正に入室、貞曉僧都受法の弟子なり。定景、彼(か)の首を持ちて皈(かへ)り畢んぬ。即ち義村、京兆の御亭に持參す。亭主、出で居(ゐ)にて其の首を見らる。安東次郎忠家、指燭(しそく)を取る。李部、仰せられて云はく、

「正しく未だ阿闍梨の面(おもて)を見奉らず。猶ほ疑貽有り。」

と云々。

「吾妻鏡」では、実は当時の幕府の要人が阿闍梨の顔を誰も知らなかったと推測されることが首実検に立ち会った「李部」(式部省の唐名。当時の泰時の経官歴は式部丞)北条泰時(当時満二十一歳)が本当に公暁の首であるかどうかに疑義を挟んでいるのが注目される。話として頗る面白い(肝心の実朝の首は見つからず、謀叛人の首が残るとは如何にも不思議ではないか)が、通史としての「北條九代記」では、何やらん、判官贔屓の実朝トンデモ生存説(大陸に渡って実は知られた○〇禅師こそが実朝だった! なってえのはどうよ?)でも臭わせそうな雰囲気になるから、やっぱ、カットやろうなぁ……。

「備中阿闍梨」彼の名は、この後、三日後の三十日の条に彼の雪ノ下(後の二十五坊ヶ谷である)の屋敷が没収されたという条、翌二月四日にその屋敷地が女官三条局の望みによって付与された旨の記載を以って一切載らない。怪しいではないか。

「乳母子の彌源太兵衞尉」ここで「乳母子」とあるということは次に示す「駒若丸」北条光村の兄弟(恐らく弟)でなくてはならない。

「義村が息駒若丸、かの門弟たる好」「駒若丸」は三浦義村の四男三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)の幼名。後の三浦氏の当主となる三浦泰村の同母弟。早い時期に僧侶にさせるために鶴岡八幡宮に預けられたらしく、この頃は公暁の門弟であった。「吾妻鏡」では建保六(一二一八)年九月十三日の条で、将軍御所での和歌会の最中、鶴岡八幡宮境内に於いて月に浮かれ出た児童・若僧が鶴岡廻廊に配されていた宿直人に乱暴狼藉を働き、その不良少年団の張本人として挙げられ、出仕を止められる、という記事を初見とする。暗殺当時でも未だ満十四歳である。後に実家である三浦氏に呼び戻され、兄泰村とともに北条氏と並ぶ強大な権力を有するようになったが、後の宝治元(一二四七)年の宝治合戦で北条氏によって兄とともに滅ぼされた。小説家永井路子氏が実朝暗殺三浦氏説の最大の根拠(乳母の家系はその養育した家系の子を殺めることはないという不文律)とするように、公暁の乳母は三浦義村の妻であり、その子であったこの駒若丸は公暁の乳兄弟であって門弟でもあった。一方、実朝の乳母は北條時政の娘で政子や義時の姉妹で兄弟である阿波局である。但し、私はこの歴史学者の支持も多い永井説には全く組出来ない。私は北条義時策謀張本説を採る(三浦は北条の謀略に気づいてはいた)。この時の義時の壮大な謀略計画の体系(後の北条得宗の濫觴となるような)の中では、乳母―乳母子血脈説なんどという問題は容易に吹き飛んでしまうと考えているのである。私のその考えは、私が二十一歳の時に書いた噴飯小説「雪炎」以来、今も一貫して変化していない。よろしければ、御笑覧あれ。……あの頃……どこかで小説家になりたいなどと考えていたことをむず痒く思い出した……。

『使者退去の後、義村、使者を發し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右無く、「阿闍梨を誅し奉るべし』この下りが、私のとって永い間、疑問なのである。真の黒幕を追求すべき必要性が少しでもあるとならば、義時は生捕りを命ぜねばならない。しかも(と同時に、にも拘わらず)源家の嫡統である公暁を「左右(さう)無く」(ためらうことなく)「誅し奉」れ、というのは如何にも『変』である。そのおかしさには誰もが気づくはずであり、それがやる気がない理由があるとすれば、ただ一つ、謀略の総てを義時が最早、知尽していたから以外にはあり得ない。だからこそ彼は危機一髪、『難』を逃れているのだ。これについては「吾妻鏡」の事件直後、翌二月八日の条に早くも弁解染みて奇妙に示されていることは知られた話である。
〇原文
八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌尅供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。此の梵宇は、靈夢の告げに依つて、草創せらるるの處、去ぬる月廿七日戌の尅、供奉の時、夢のごとくにして、白き犬、御傍に見るの後、御心神違亂の間、御劍を仲章朝臣に讓り、伊賀四郎許りを相ひ具して、退出し畢んぬ。而るに右京兆は、御劔を役せらるるの由、禪師、兼て以つて存知するの間、其の役の人を守りて、仲章の首を斬る。彼の時に當りて、此の堂の戌神(いぬがみ)、堂中に坐(おは)しまし給はずと云々。
というあからさまなトンデモな霊験譚である。大倉薬師堂は既に見た通り、義時が大方の反対を押し切って前年に私財を擲って建立した『変』な寺なのだ。さて――拝賀の式の行列が鶴岡社頭にさしかかった際、彼にだけ白い犬が自分の傍へやってくるのが見え、俄に気分が悪くなって、内々に急遽、実朝の御剣持を仲章に代行してもらうこととして、たった一人の従者を連れてこっそりと自邸へ戻ったが、仲章が代役になっていることを知らずに、事前に何者かに知らされていた通り、御剣持役の人間を義時と信じて疑わずに今一つのターゲットとして首を刎ねた――というのである。しかも――その拝賀の式当日、不思議なことに大倉薬師堂の十二神将の戌神の像だけが、忽然と消えており、事件後には再び戻っていた――というのである。――この話、読み物としてはそれなりに面白いはずなのに「北條九代記」の作者は採用していない。大倉薬師堂の建立の事実をわざわざ書いておきながら、である。わざわざ書いたということは、私は恐らく筆者はこの後日譚を書くつもりだったのだと思う。ところが、どうにもこの如何にも『変』な作話ばればれの話に、筆を進めて行くうちに、筆者自身があきれ返ってしまい、結局、書かず仕舞いとなったのではなかったか? 逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め(義時に謀略がばれたことの危険性が最も高いであろう)公暁の蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計ればよい(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置からも、義村は失敗した謀略ならばそれを簡単に総て抹消することが出来たのである。義時から万一、事後に抗議や疑義があったとしてもそれらは、公暁は将軍家を放伐した許し難い賊であり、公暁が抗った故に仕方なく誅殺した当然の処置であったと答えればよいのである)。その「不自然さ」を十全に説明しないで、乳母一連托生同族説から三浦陰謀説(中堅史家にも支持者は多い)を唱える永井路子氏には、私は今以って同調出来ないでいるである。

「長尾新六定景」(生没年不詳)既に暗殺直後にテロリスト探索に名が挙がっているがここで注す。石橋山の合戦では大庭景親に従って平家方についたが、源氏勝利の後、許され、和田合戦で功を立てた。ここで公暁を打ち取った時には既に相当な老齢であったと考えられる。今、私の書斎の正面に見える鎌倉市植木の久成寺境内に墓所がある。

『義村、聞きて、「先此方へ來り給へ。御迎の兵士を參すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人にあらず、武勇兵略勝れたれば、輒(たやす)く謀難かるべしとて、勇悍の武士を擇び、長尾新六定景を大將として、討手をぞ向けられける』この部分、「北條九代記」の筆者は、「吾妻鏡」にある、重要な義時の即決部分を省略してしまっている。即ち、

京兆、左右無く、

「阿闍梨を誅し奉るべし。」

の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。

の部分がないのである。これは如何にも不審である。そもそもこれでは公暁誅殺の合議をし、長尾を選抜したのが北条義時であるかのようにさえ誤読されてしまう危険性さえあるのだ。私はこの違和感は実は、「北條九代記」の筆者が、この北条義時の即決の台詞に対して強烈な、私と同じ違和感を感じたからではないか、と考えている。これを記すと「北條九代記」はその輝かしい北条の歴史の当初於いて血塗られた疑惑を読者に与えてしまうからに他ならない。

……そうである。この「吾妻鏡」の伝える部分こそが私の昔からの違和感としてあるのである。――真の黒幕の可能性の追求すべき必要性がある以上、義時は生捕りを命ぜねばならない。にも拘わらず、現在唯一残っている源家の嫡統である公暁を、有無を言わせず、しかも自身の手ではなく、三浦氏に命じて「誅し奉」ったのは何故か? また、逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め、公暁蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計らねばならない(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置や事実結果からみても、義村は失敗したと判断する謀略ならばそれを簡単に総て抹消させることは極めて容易であったはずである)。そうしなければ、普通なら当然の如く行われると考えるはずの公暁への訊問によって三浦謀略の全容が明らかになってしまうからである。にも拘わらず、三浦は義時に伺いを立て、義時は捕縛ではなく誅殺を命じている。義時が潔白であるなら、公暁の背後関係を明らかにし、それらを一掃させることが最大の利となるこの時にして、これは不自然と言わざるを得ない。寧ろ、これはこの実朝暗殺公暁誅殺という呪われた交響詩のプログラムが、総演出者・総指揮者たる北条義時によって組み立てられたものであったことを示唆すると私は考えるのである。そこでは多くの役者が暗躍した。実際にこの後の「吾妻鏡」を見ると、実に怪しいことに気がつく。この実朝暗殺に関わった人間たちの殆んどすべての関係者が、簡単な訊問の後、無関係であるとか、誤認逮捕であったとかという理由で、さりげなく記載されているのである。そして誰もいなくなって、殆んど公暁一人が悪者にされている。こうした関係者までもが皆、三浦氏の息のかかったものであって、三浦の謀略指示について幕府方の訊問でも一切口を割らず、事件が速やかに終息するというのは、この方が如何にも考えにくいことではないか? 寧ろ、総ての駒の動きがフィクサーとしての義時によって神のように管理されていたからこその、鮮やかにして速やかな終息であったと考えた方が自然である。三浦義村は確かに和田合戦でも同族の和田氏を裏切っており、千葉胤綱から「三浦の犬は友を食らうぞ」と批判された権謀術数に長けた男ではある。しかしだからこそ、義時の想像を絶する策謀をもいち早く見抜くことが出来、三浦一族の危機を回避するために、同族乳母子の公暁をも――義時の謀略にはまらないために――蜥蜴の尻尾切りした、とも言えるのである。

「雜賀次郎」三浦の被官であるが、「吾妻鏡」ではここにしか見えない。紀伊国南西の雑賀荘を領有したか。

「公曉は鶴ヶ岡の後の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり」それでなくても、実朝殺害直後の公暁の行方は不明で神出鬼没なればこそ、これは三浦義村が予め、使者であった北弥源太兵衛尉に援軍の移送経路は間道の峯筋であると指示したものと考えなければ、こんなに都合よく行くはずがない。

「素絹」素絹の衣(ころも)。素絹で作った白い僧服。垂領(たりくび:襟を肩から胸の左右に垂らし、引き合わせるもの。)で袖が広くて丈が長く、裾に襞がある。

「腹卷」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。次のシークエンスの広元の台詞でも重要な単語として登場する。]

曉の香料 大手拓次

   黄色い帽子の蛇

 曉の香料

みどりの毛、
みどりのたましひ、
あふれる騷擾のみどりの笛、
木の間をけむらせる鳥の眼のいかり、
あけぼのを吹く地のうへに匍ひまはるみどりのこほろぎ、
波のうへに祈るわたしは、
いま、わきかへるみどりの香料の鐘をつく。



ここより「黄色い帽子の蛇」の章。

鬼城句集 夏之部 夏の月

夏の月  麥飯に何も申さじ夏の月
       長々と蜘蛛さがりけり夏の月

マーラー アダージェット 交響曲 第5番から

マーラー アダージェット 交響曲 第5番から
ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1977年

ああ……僕はヴィスコンティの「ヴェニスに死す」を観るずっと前から……この曲を聴くと涙が止めどなく出てくるのですよ……

ラムネ・他四編 萩原朔太郎

 ラムネ・他四編

 

       ラムネ

 

 ラムネといふもの、不思議になつかしく愉快なものだ。夏の氷屋などでは、板に丸い穴をあけて、そこに幾つとなく、ラムネを逆さにして立てて居る。それがいかにも、瓦斯(ガス)のすさまじい爆音を感じさせる。僕の或る友人は、ラムネを食つて腹が張つたと言つた。あれはたしかに瓦斯で腹を充滿させる。

 だがこの頃、ラムネといふものを久しく飲まない。僕の子供の時には、まだシヤンパンサイダといふものがなく、主としてラムネを飲用した。この頃では、もうラムネが古風なものになり、俳句の風流な季題にさへもなつてしまつた。それで僕が上野に行くと、あの竹の臺の休み茶屋でラムネを飲む。それがいかにも、僕を田舍者らしく感じさせ、世間を離れた空の上で、旗のへんぽんたるものを感じさせる。僕はラムネを飮むと、ふしぎに故郷のことを聯想するから。

 

 

       アイスクリーム

 

 帝劇にバンドマン歌劇が來た時、二階も棧敷も、着飾つた西洋人で一杯だつた。女たちは黑い毛皮の外套を着て、棧敷の背後から這入つて來た。連れの男がそれを脱ぐと、皆眞白な肌を出した。牛裸體の彫像だづた。

 この裸體の人魚たちが、幕間にぞろぞろと廊下を歩いた。白皙の肌の匂ひと、香水の匂ひとでぎつちりだつた。ところどころに、五六人の女が集まり、小さな群圃をつくつてゐた。一人がアイスクリームのグラスを持ち、皆がそれを少し宛、指につまんで喰べてるのである。その女たちの指には、薄い鹿皮の手袋がはめてあつた。

 僕は始めて知つた。アイスクリームといふものは、鹿皮の手袋をした上から、指先でつまんで食ふものだといふことを。女たちは嬉々としてしやべつてゐた。

 

       ソーダ水

 

 ソーダ水に麦稈(むぎわら)の管をつけて吸ふこと、同じやうに西洋文明の趣味に屬する。あれは巴里の珈琲店で、若い女と氣の輕い話をしつつ、靜かに時間を樂しんで吸ふべきものだ。日本の慌ただしい生活と、東京の雜駁なる市街の店で、いかにあの麦稈は不調和なるかな! 僕は第一にソーダ水から、あの『腹の立つもの』を取り捨ててしまふ。

 

      玉露水

 

 昔は玉露水といふのがあつた。厚い錫の茶碗の中に、汲み立ての冷水を盛つて飮むのである。いつか遠い昔のことだ。死んだ祖母に連れられて伊香保から榛名を越えた。山の中腹の休み茶屋で、砂糖の少し入つた玉露水を飮んだ。

 玉露水は、今の氷水よりもずつとつめたく、淸水のやうに澄みきつてゐる。

 

      麥酒

 

 瀧を見ながら麥酒が飮みたい。

 

[やぶちゃん注:「令嬢界」第七巻第八号・昭和三(一九二八)年八月号に掲載された。太字は底本では傍点「ヽ」。

「竹の臺」上野公園のほぼ中央部にある、知られた大噴水を中心とした広場のある所の地名。江戸時代にはここに東叡山寛永寺の中心であった根本中堂の大伽藍があったが戊辰戦争で失われた(明治一二(一八七九)年に現在地である旧子院大慈院跡に寺とともに復興再建)。名称は両側に慈覚大師が唐の五台山から竹を根分けして持ち帰って比叡山に移植したものが更に根分されて、当時の寛永寺のこの付近に植えられたことに由来するものと思われる。

「バンドマン歌劇」バンドマン喜歌劇団、インドのカルカッタで活躍したイギリスの興行師バンドマン(Maurice E.Bandmann 一八七二年~一九二二年)が東洋巡業のためにロンドンで編成した歌劇団で、五十人前後のキャスト・スタッフに加えて、十人前後の弦楽器とピアノ・管楽器を数本加えた小編成のオーケストラも持っていた。三九(一九〇六)年五月が初来日でその後、毎年一回十年に亙って定期的に来日、浅草オペラへも大きな影響を与えたと考えられている劇団である。参照した個人のジョアン・ロドリゲス・ツヅの顕彰ページ「tsuzuのページ」内の浅草オペラ前史明治時代における外国人によるオペラ・オペレッタ上演の記録―」を見る限りでは明治四四(一九一一)年二月に開場した帝国劇場での上演は、翌四五(一九一二)年六月二十四日の七回目の来日(同年表による)の際の『大阪・京都・東京で公演』とあるものを指す。底本の筑摩版全集第十五巻の年譜の同明治四五(一九一二)年(この年は大正元年である)には、五月二十一日~三十日に『帝國劇場にバンドマン一座のコミックオペラ上演され、一度ならず觀劇した模樣』とある(リンク先と月の齟齬があるが朔太郎の観劇の事実情報としては問題がない)。この時のバンドマンの上演したもの、萩原朔太郎が観たものが何であったかは不明であるが、リンク先の年譜を見ると、同歌劇団の十八番にはフランツ・レハール(一八七〇年~一九四八年)のオペレッタ「メリー・ウィドウ」(陽気な未亡人)があったことは分かる。

「瀧を見ながら麥酒が飮みたい。」萩原朔太郎は遙か昔にコピーライターであった。]

喪服の魚 大手拓次

 喪服の魚

透明の水はうすあをい魚をはらみました。
ともしびはゆらゆらとして星のまばたく路をあゆみつづける。
こがねいろの波は香氣をふき、
あさみどりの葉はさびしいこゑをあげる。
ゑみわれる微笑の淵におぼれる魚のむれは、
たたまれてゐる秋の陶醉のなかににげてゆきます。

これをもって「濕氣の小馬」の章を終わる。

2013/05/22

草の葉を追ひかける眼 大手拓次

 草の葉を追ひかける眼

ふはふはうかんでゐる
くさのはを、
おひかけてゆくわたしのめ。
いつてみれば、そこにはなんにもない。
ひよりのなかにたつてゐるかげろふ。
おてらのかねのまねをする
のろいのろい風(かざ)あし。
ああ くらい秋だねえ、
わたしのまぶたに霧がしみてくる。

鬼城句集 夏之部 天文 五月雨

  天文

五月雨  五月雨や起き上りたる根無草
     水泡立ちて鴛鴦の古江のさみだるゝ
[やぶちゃん注:「鴛鴦」はオシドリの古名で「をし」と読む。]
     五月雨のふる潰したる藁家かな
     五月雨や松笠燃して草の宿
     鹽湯や朝からけむる五月雨
[やぶちゃん注:「鹽」は底本では「皿」の上部が〔「土」(左)+「鹵」(右)〕の字体。「塩」の正字である「鹽」の異体字であるのでかく表字した。「鹽湯」は塩水を含んだ温泉若しくは塩水を沸かした風呂で「しほぶろ」と当て読みしているか。識者の御教授を乞う。]
     五月雨や浮き上りたる船住居
[やぶちゃん注:「船住居」は「ふなずまひ」と読んでいるか。識者の御教授を乞う。]

2013/05/21

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 〈第3パート〉 附やぶちゃん注

〈パート3〉

當宮(たうぐう)の別當阿闍梨公曉、竊(ひそか)に石階(いしばし)の邊(へん)に伺來(うかゞひきた)り、劍(けん)を取りて、右大臣實朝公の首、打落(うちおと)し、提(ひつさ)げて逐電(ちくてん)す。武田〔の〕五郎信光を先として、聲々に喚(よばは)り、隨兵等(ら)走散(はしりち)りて求むれども誰人(たれびと)の所爲(しよゐ)と知難(しりがた)し。別當坊公曉の所爲ぞと云出しければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公曉はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も亂れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落失(おちう)せ、一千餘騎の随兵等、馬を馳(はせ)て込來(こみきた)り、見物の上下は蹈殺(ふみころ)され、打倒(うちたふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗(くらやみ)になり、これはそも如何なる事ぞとて、人々魂(たましひ)を失ひ、呆れたる計(ばかり)なり。

〈パート3注〉

[やぶちゃん注:以下、この公暁による暗殺及びその直後のパートを「吾妻鏡」より示しておく。

及夜陰。神拜事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中。〔武田五郎信光進先登。〕無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟惡僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰場之法。人以爲美談。遂惡僧敗北。闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。

夜陰に及びて、神拜の事終り、漸くに退出せしめ御(たま)ふの處、當宮別當阿闍梨公曉、石階(いしばし)の際(きは)に窺ひ來たり、劔を取つて丞相を侵し奉る。其の後、隨兵等、宮中に馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光、先登に進む。〕讎敵(しうてき)を覓(もと)る所無し。或る人の云はく、

「上宮(かみのみや)の砌りに於いて、『別當阿闍梨公曉、父の敵を討つ。』の由、名謁(なの)らると云々。

之に就き、各々、件(くだん)の雪下(ゆきのした)の本坊に襲ひ到る。彼の門弟惡僧等、其の内に籠り、相ひ戰ふの處、長尾新六定景・子息太郎景茂・同次郎胤景等と先登を諍(あらそ)ふと云々。

勇士の戰場に赴くの法、人、以つて美談と爲す。遂に惡僧、敗北す。闍梨、此の所に坐(おは)し給はず。軍兵、空しく退散し、諸人、惘然(ぼうぜん)の外、他(ほか)無し。

「武田五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。当時五十七歳(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキ武田信光を参照した)。

「巍々たる」雄大で厳かなさま。]

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 〈第2パート〉 附やぶちゃん注

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈第2パート〉

既に宮寺(きうじ)の樓門に入り給ふ時に當りて、右京〔の〕大夫義時、俄に心神違例(ゐれい)して、御劍をば仲章朝臣(なかあきらのあそん)に讓りて退出せらる。右大臣實朝公、小野(をのゝ)御亭より、宮前(きうぜん)に參向(さんかう)し給ふ。夜陰に及びて、神拜の事終り、伶人(れいじん)、樂(がく)を奏し、祝部(はふり)、鈴を振(ふり)て神慮をいさめ奉る。

〈第2パート注〉

[やぶちゃん注:「宮寺の樓門」これによって当時の鶴岡八幡宮寺の入り口には二階建ての門があったことが分かる。
「右大臣實朝公、小野御亭より、宮前に參向し給ふ」不審。実朝は無論、御所から拝賀の式に向かったはずである。ここは思うに「吾妻鏡」の筆者の誤読であるように思われる。「吾妻鏡」の行列の列序の詳細記載の後には、
令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拜事終。
宮寺の樓門に入らしめ御(たま)ふの時、右京兆、俄かに心神に御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に讓り、退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱の後、小町の御亭へ歸らしめ給ふ。
とあり、
拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺楼門に御参入なされたその直後、前駈しんがりを勤めていた右京兆義時殿が俄かに御気分が悪くなるという変事が出来(しゅったい)した。そこで急遽、御剣持を前方の一団である殿上人のしんがりを勤めていた文章博士源仲章朝臣に譲って、退去なさり、神宮寺門前に於いて直ちに行列から離脱された後、そのまま小町大路にある御自宅にお帰った。
とあるのを、文字列を読み違えた上に、「小町」を「小野」と誤読したのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである(増淵氏の訳では特に注がない)。
「伶人」雅楽を奏する官人。楽人(がくにん)。
「祝部」禰宜の下に位置する下級神職。「はふり」は「穢れを放(はふ)る」の意ともするが語源未詳。
「神慮をいさめ奉る」この「いさむ」は、忠告するの意で、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制などの神の思し召しをお伝え申し上げた、という意。]

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 〈第1パート〉 附やぶちゃん注

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈第1パート〉

同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる。明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮にして、御拜賀あるべしとて、大夫判官行村、奉行を承り、供奉の行列隨兵(ずゐびやう)以下の人數を定めらる、御装束(ごしやうぞく)御車以下の調度は、仙洞より下されける。右大將頼朝卿の御時に隨兵を定められしには、譜代の勇士(ようし)、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人を撰びて、拜賀の供奉を勤させらる。然るにこの度の拜賀は、關東未だ例なき睛(はれ)の儀なりとて、豫てその人を擇(えら)び定めらる。建保七年正月二十七日は、今日良辰(りやうしん)なりとて、將軍家右大臣御拜賀酉刻(とりのこく)と觸れられけり。路次(ろじ)行列の裝(よそほひ)、嚴重なり。先づ居飼(ゐかい)四人、舍人(とねり)四人、一員(ゐん)二行に列(つらな)り、將曹菅野景盛(しやうざうすがのかげもり)、府生狛盛光(ふしやうこまのもりみつ)、中原成能(なかはらのなりより)、束帶して續きたり。次に殿上人(でんじやうびと)北條〔の〕侍従(じじう)能氏、伊豫(いよの)少將實雅、中宮權亮(ごんのすけ)信義以下五人、随身(ずゐしん)各四人を倶す。藤勾當(とうのこいたう)賴隆以下前驅(ぜんく)十八人二行に歩む。次に官人秦兼峰(はたのかねみね)、番長下毛野敦秀(ばんちやうしもつけのあつひで)、次に將軍家檳榔毛(びりやうげ)の御車、車副(くるまそひ)四人、扈從(こしよう)は坊門(ぼうもんの)大納言、次に隨兵十人、皆、甲胄を帶(たい)す。雜色(ざつしき)二十人、檢非違使(けんびゐし)一人、調度懸(てうどかけ)、小舎人童(こどねりのわらは)、看督長(かどのをさ)二人、火長(かちやう)二人、放免(はうべん)五人、次に調度懸佐々木〔の〕五郎左衞門尉義淸、下﨟の隨身(ずいじん)六人、次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人、各々(おのおの)前驅隨身あり。次に受領の大名三十人、路次の隨兵一千騎、花を飾り、色を交へ、辻堅(つじがため)嚴しく、御所より鶴ヶ岡まで、ねり出て赴き給ふ裝(よそほひ)、心も言葉も及ばれず。前代にも例(ためし)なく後代も亦有べからずと、貴賤上下の見物は飽(いや)が上に集りて錐(きり)を立る地もなし。路次の両方込合うて推合(おしあ)ひける所には、若(もし)狼藉もや出來すべきと駈靜(かりしづ)むるに隙(ひま)ぞなき。

〈第一パート〉注
[やぶちゃん注:遂に実朝が暗殺され、源家の正統が遂に滅ぶ。そうしてこれを以って「卷第四」は終わっている。「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年十二月二十日・二十一日・二十六日、同七年一月二十七日・二十八日の条に基づく。

「同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる」という記事は「吾妻鏡」では二十日の政所始の儀式の冒頭にある。

「大夫判官行村」二階堂行村。

「仙洞」後鳥羽上皇。

「右大將頼朝卿の御時」建久元(一一九〇)年十月三日、上洛中の頼朝は右近衛大将を拝賀し、仙洞御所に参向して後白河法皇に拝謁したが、ここはその際の随兵を指す。「吾妻鏡」建久元(一一九〇)年十二月一日の条によれば、例えば前駈の中には異母弟源範頼がおり、頼朝の牛車のSPの一人は八田知家、布衣の侍の中には三浦義澄や工藤祐経らが、扈従に附くのは一条能保と藤原公経、最後の乗馬の儀杖兵七人に至っては北条義時・小山朝政・和田義盛・梶原景時・土肥実平・比企能員・畠山重忠という、鎌倉幕府創生の錚々たるオール・スター・キャストで固められていた。因みにこの時、頼朝は右大将と権大納言に任ぜられたが、二日後の十二月三日に両官を辞している。これは望んだ征夷大将軍でなかったことから両官への執着(幕府自体にとっては実質上何の得にもならない地位であった)が頼朝に全くなかったこと、また両官が朝廷に於ける実際的公事の実務運営上の重要なポストであるために形式上は公事への参加義務が生ずることを回避したためと考えられている。

「譜代の勇士、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人」通常、「三德」の基本は「中庸」で説かれている智・仁・勇であるが、ここは武家に於ける、代々嫡流の君子に仕える家柄の勇者であること、弓馬術の達人であること、容姿端麗であることの三つを指す。中でも「吾妻鏡」建保六(一二一八)年十二月二十六日の条には、わざわざ、

亦雖譜代。於疎其藝者。無警衞之恃。能可有用意云々。

亦、譜代と雖も、其の藝に疎きに於いては、警衞の恃(たの)み無し。能く用意有るべしと云々。

あって、本来の坂東武士にとっての「三德」の内、弓馬の名人であることは必要十分条件であったことが分かる。しかも注意せねばならぬのは、ここで作者は『然るに』という逆接の接続詞を用いている点にある。実は、「吾妻鏡」のこの前の部分には、

兼治定人數之中。小山左衞門尉朝政。結城左衞門尉朝光等。依有服暇。被召山城左衞門尉基行。荻野二郎景員等。爲彼兄弟之替也。

兼ねて治定(ぢじやう)する人數(にんず)の中(うち)、小山左衞門尉朝政・結城左衞門尉朝光等、服暇(ふくか)有るに依つて、山城左衞門尉基行・荻野二郎景員等を召さる。彼(か)の兄弟の替と爲すなり。

という事態が記されているのである。「服暇」とは近親の死による服喪を指す。問題はこの代替要員として指名された二人なのである。増淵氏はここの現代語訳に際し、ここに『しかるに(今回は三徳兼備でない者も入ったが)「このたびの大臣の拝賀は……』とわざわざ附加されておられるのに私は共感するのである。筆者は恐らくまずは「吾妻鏡」のこの二十六日の条の後に続く二件の記載が気になったのである。その冒頭は『而』で始まるが(以下の引用参照)、これは順接にも逆接にも読めるものの、私は逆接以外にはありえないと思うのである。何故なら、この後に書かれるこの二人の代替対象者についての解説には、実は微妙に「三德」を満たさない内容が含まれているからなのである。一人目の荻野影員というのは、実は父が梶原景時の次男梶原景高なのである。

而景員者去正治二年正月。父梶原平次左衞門尉景高於駿河國高橋邊自殺之後。頗雖爲失時之士。相兼件等德之故。被召出之。非面目乎。

而るに、景員は、去ぬる正治二年正月、父梶原平次左衞門尉景高、駿河國高橋邊に於いて自殺するの後、頗る時を失ふの士たりと雖も、件等(くだんら)の德を相ひ兼ぬるの故、之を召し出ださる。面目に非ずや。

ここで「件等の德を相ひ兼ぬる」とするが、そうだろうか? 弓馬と容姿は優れていたに違いない。梶原景時は確かにかつての「譜代の勇士」ではあった。しかし、その後にその狡猾さが祟って謀叛人として(というより彼を嫌った大多数の御家人の一種のプロパガンダによって)滅ぼされた。だからこそ景員はその梶原一族の血を引くという一点から全く日の目を見ることがなかった。とすれば彼には源家嫡流に対する遺恨さえもあって当然と言える。されば、この時点では彼は第一条件である嫡流君子の代々の忠臣という「譜代の勇士」足り得ない。

二人目は二階堂基行である。彼は、

次基行者。雖非武士。父行村已居廷尉職之上。容顏美麗兮達弓箭。又依爲當時近習。内々企所望云。乍列將軍家御家人。偏被定號於文士之間。並于武者之日。於時有可逢恥辱之事等。此御拜賀者。關東無雙晴儀。殆可謂千載一遇歟。今度被加隨兵者。子孫永相續武名之條。本懷至極也云々。仍恩許。不及異儀云々。

次に基行は、武士に非ずと雖も、父行村、已に廷尉の職に居るの上、容顏美麗にして弓箭にも達す。又、當時の近習たるに依つて、内々に所望を企てて云はく、

「將軍家の御家人に列し乍ら、偏へに號(な)を文士に定めらるるの間、武者に並ぶの日、時に於いて恥辱に逢ふべきの事等(など)有り。此の御拜賀は、關東無雙の晴の儀、殆んど千載一遇と謂ひつべきか。今度(このたび)の隨兵に加へらるれば、子孫永く武名のを相續せんの條、本懷至極なり」

と云々。仍て恩許、異儀に及ばずと云々。

とあるのである。彼二階堂基行(建久九(一一九八)年~仁治元(一二四〇)年)は代々が幕府実務官僚で評定衆あった二階堂行村の子である。父行村は右筆の家柄であったが京都で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍した人物であり、また祖父で二階堂氏の始祖行政は、藤原南家乙麿流で、父は藤原行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司藤原季範の妹である(その関係から源頼朝に登用されたと考えられている)。無論、基行も評定衆となり、実質的にも実朝側近の地位にあったことがこの叙述からも分かる。当時満二十歳。武家の出自でないが故に、今まで色々な場面で何かと屈辱を味わってきたのを、この式典を千載一遇のチャンスとして武家連中の若侍等と対等に轡を並べて、必ずや、子孫に二階堂家を武門の家柄として継承させん、という強い野心を持って実朝に直願して、まんまと許諾を得たというのは、これ、「三德」の純粋にして直(なお)き「譜代の勇士」とは到底言えぬと私は思うのである。……そうして民俗学的には、土壇場の服喪の物忌みによる二名もの変更(兄弟であるから仕方がないとしても二名の欠員はすこぶるよろしくない。これはまさに以前の「吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる」でも実朝自身が口をすっぱくして言った問題ではないか)や、「三德」の中に遺恨や実利的な野望を孕ませた「ケガレ」た者が参入する、これ自体がハレの場を穢して、実朝を死へと誘う邪悪な気を呼び込むことになったのだとも、私は読むのである。

実際、彼ら二人は目出度く、右大臣拝賀の式当日の実朝の牛車の直後の後方の随兵に以下のように名を連ねている(「吾妻鏡」建保七年一月二十七日の条より)。

  次隨兵〔二行。〕

 小笠原次郎長淸〔甲小櫻威〕   武田五郎信光〔甲黑糸威〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲萌黄威〕  隱岐左衞門尉基行〔甲紅〕

 大須賀太郎道信〔甲藤威〕    式部大夫泰時〔甲小櫻〕

 秋田城介景盛〔甲黒糸威〕    三浦小太郎時村〔甲萌黄〕

 河越次郎重時〔甲紅〕      荻野次郎景員〔甲藤威〕

   各冑持一人。張替持一人。傍路前行。但景盛不令持張替。

  次に隨兵〔二行。〕。

 小笠原次郎長淸〔甲(よろひ)、小櫻威(おどし)。〕   武田五郎信光〔甲、黑糸威。〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲、萌黄威。〕  隱岐左衞門尉基行〔甲、紅。〕

 大須賀太郎道信〔甲、藤威。〕    式部大夫泰時〔甲、小櫻。〕

 秋田城介景盛〔甲、黑糸威。〕    三浦小太郎時村〔甲、萌黄。〕

 河越次郎重時〔甲、紅。〕      荻野次郎景員〔甲、藤威。〕

   各々冑持(かぶともち)一人、張替持(はりかへもち)一人、傍路に前行(せんかう)す。但し、景盛は張替を持たしめず。

この「冑持」は兜を持つ者(これによってこの式典の行列では兜を外して参加することが分かる)、「張替」は弓弦が切れた際の予備の弓持ちであろう(景盛が張替持を附けていないのには何か意味があるものと思われるが分からぬ。識者の御教授を乞う)。

「良辰」吉日。「辰」は「時」の意。古くは「良辰好景」「良辰美景」とも言った。

「居飼」牛馬の世話を担当する雑人。

「舎人」牛車の牛飼いや乗馬の口取りを担当した雑人。四

「將曹菅野景盛」近衛府の主典(さかん)。普通は「しやうさう」と濁らない。

「府生」六衛府(りくえふ)・や検非違使庁などの下級職員。「ふせい」「ふそう」とも。

「狛盛光」建久四(一一九三)年頃に八幡宮の楽所の役人に任ぜられていることが鶴岡八幡宮公式サイトの宝物の記載に見える。

「勾當」「勾当内侍(こうとうのないし)」。掌侍(ないしのじょう)四人の内の第一位の者で天皇への奏請の取次及び勅旨の伝達を司る。

「前驅」古くは「せんぐ」「ぜんぐ」とも読んだ。行列などの前方を騎馬で進んで先導する役。先乗り。先払い。先

「秦兼峰」「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には、秦兼村の名でかの公氏と並んで載る。

「番長下毛野敦秀」「番長」は諸衛府の下級幹部職員のことを指す。上﨟の随身である。やはり「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には下毛野敦光及び同敦氏という名が載る。

「檳榔毛の御車」通常は「檳榔毛」は「びらうげ(びろうげ)」と読む。牛車の一種で白く晒した檳榔樹(びんろうじゅ)の葉を細かく裂いて車の屋形を覆ったものを指す。上皇・親王・大臣以下、四位以上の者及び女官・高僧などが乗用した。

「扈從」朝廷からの勅書に随行してきた公卿の筆頭の意で述べているようだが、以下の「殿上人」とダブるのでここに示すのはおかしい。

「坊門大納言」坊門忠信(承元元(一一八七)年~?)。建永二(一二〇七)年に参議、建保六(一二一八)年に権大納言。後鳥羽天皇及び順徳天皇の寵臣として仕えた。妹の信子が実朝の妻であるから実朝は義弟に当たる。因みに、この後にある「隨兵」が先の注で示した十人の武者となる。

「調度懸」武家で外出の際に弓矢を持って供をした役。調度持ち。

「小舎人童」本来は近衛中将・少将が召し使った少年を指すが、後、公家・武家に仕えて雑用をつとめた少年をいう。

「看督長」検非違使庁の下級職員。役所に付属する獄舎を守衛したり、犯人追捕の指揮に当たった。かどのおさし。

「火長」検非違使配下の属官。衛門府の衛士(えじ)から選抜され、囚人の護送・宮中の清掃・厩の守備などに従事した。彼等は課役を免除されており、身分としては低い役職ながら、宮中への出仕であることから一定の権威を有した。

「放免」「ほうめん」とも。検非違使庁に使われた下部(しもべ)。元は釈放された囚人で、罪人の探索・護送・拷問・獄守などの雑務に従事したが、先の火長よりも遙かに下級の官吏である。

「次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人」建保七年一月二十七日には、

  次公卿

 新大納言忠信〔前駈五人〕    左衞門督實氏〔子随身四人〕

 宰相中將國道〔子随身四人〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各乘車〕

  次に公卿。

 新大納言忠信〔前駈五人。〕    左衞門督實氏〔子、随身四人。〕

 宰相中將國道〔子、随身四人。〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各々乘車。〕

「子」というのは、殿上人に従う者、という意味であろうか。ここの先頭を行くのが先に出た坊門忠信である。]

胸をうつこの引金をひく人を得んとばかりにわれ戀を戀ふ 萩原朔太郎

胸をうつこの引金をひく人を
得んとばかりにわれ戀を戀ふ

[やぶちゃん注:底本の「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」の歌集群「何處へ行く」の巻頭の一首。「ソライロノハナ」のみに載る短歌。]

森のうへの坊さん 大手拓次

 森のうへの坊さん

坊さんがきたな、
くさいろのちひさなかごをさげて。
鳥のやうにとんできた。
ほんとに、まるで鴉(からす)のやうな坊さんだ、
なんかの前じらせをもつてくるやうな、ぞつとする坊さんだ。
わらつてゐるよ。
あのうすいくちびるのさきが、
わたしの心臟へささるやうな氣がする。
坊さんはとんでいつた。
をんなのはだかをならべたやうな
ばかにしろくみえる森のうへに、
ひらひらと紙のやうに坊さんはとんでいつた。

鬼城句集 夏之部 四月

四月   納豆をまだ食ふ宿の四月かな
[やぶちゃん注:「納豆」は本来の旬から冬の季語である。]



以上で「鬼城句集」の「夏之部」の「時候」は終わる。

湯治にて御心配をおかけした

昨日より一泊で伊豆に妻と湯治に出掛けて御座った。何人かの方からのメールへの返信を致さず、昨日出発前に「北條九代記」の注に没頭してしまい、出立が遅れそうになったため、ばたばたとして更新の停止も示さずに御心配をお掛けした。ここにお詫び申し上げる。

2013/05/20

濕氣の小馬 大手拓次

 濕氣の小馬

かなしいではありませんか。

わたしはなんとしてもなみだがながれます。

あの うすいうすい水色をした角をもつ、

小馬のやさしい背にのつて、

わたしは山しぎのやうにやせたからだをまかせてゐます。

わたしがいつも愛してゐるこの小馬は、

ちやうどわたしの心が、はてしないささめ雪のやうにながれてゆくとき、

どこからともなく、わたしのそばへやつてきます。

かなしみにそだてられた小馬の耳は、

うゐきやう色のつゆにぬれ、

かなしみにつつまれた小馬の足は

やはらかな土壤の肌にねむつてゐる。

さうして、かなしみにさそはれる小馬のたてがみは、

おきなぐさの髮のやうにうかんでゐる。

かるいかるい、枯草のそよぎにも似る小馬のすすみは、

あの、ぱらぱらとうつ Timbale(タンバアル) のふしのねにそぞろなみだぐむ。

[やぶちゃん注:「うゐきやう色」「うゐきやう」はフェンネル(Fennel)。セリ目セリ科ウイキョウ Foeniculum vulgare。茴香。花は黄白色であるが、この場合、生薬として知られる実の薄い茶褐色を指しているように私は思われる。

Timbale(タンバアル)」T先行する「慰安」に既出。フランス語で打楽器のティンパニのこと。ティンパニは英語では“timpani”、本来の語源であるイタリア語では“timpani ”又は“timpano”と綴る。]

鬼城句集 夏之部 秋近し

秋近し  秋近し土間の日ひさること二寸
[やぶちゃん注:「ひさる」は「退(しざ)る」の転訛で後退するの意。]
     秋近しとんぼう蛻けて橋柱
[やぶちゃん注:言わずともお分かりなると思うが、「蛻けて」は「ぬけて」と読み、脱皮羽化したことをいう。]

柴の戸に君を訪ひたるその夜より戀しくなりぬ北斗七星 萩原朔太郎

柴の戸に君を訪ひたるその夜より
戀しくなりぬ北斗七星

[やぶちゃん注:昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」の歌集群「若きウエルテルの煩ひ」の巻頭の一首。「ソライロノハナ」のみに載る短歌。]

2013/05/19

北條九代記 實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ (まずは本文)

僕の好きな実朝の死である。まずは本文を示す。以降、煩を厭わず、注釈を附したものを順次公開する予定である。


      ○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる。明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮にして、御拜賀あるべしとて、大夫判官行村、奉行を承り、供奉の行列隨兵(ずゐびやう)以下の人數を定めらる、御装束(ごしやうぞく)御車以下の調度は、仙洞より下されける。右大將頼朝卿の御時に隨兵を定められしには、譜代の勇士(ようし)、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人を撰びて、拜賀の供奉を勤させらる。然るにこの度の拜賀は、關東未だ例なき睛(はれ)の儀なりとて、豫てその人を擇(えら)び定めらる。建保七年正月二十七日は、今日良辰(りやうしん)なりとて、將軍家右大臣御拜賀酉刻(とりのこく)と觸れられけり。路次(ろじ)行列の裝(よそほひ)、嚴重なり。先づ居飼(ゐかい)四人、舍人(とねり)四人、一員(ゐん)二行に列(つらな)り、將曹菅野景盛(しやうざうすがのかげもり)、府生狛盛光(ふしやうこまのもりみつ)、中原成能(なかはらのなりより)、束帶して續きたり。次に殿上人(でんじやうびと)北條〔の〕侍従(じじう)能氏、伊豫(いよの)少將實雅、中宮權亮(ごんのすけ)信義以下五人、随身(ずゐしん)各四人を倶す。藤勾當(とうのこいたう)賴隆以下前驅(ぜんく)十八人二行に歩む。次に官人秦兼峰(はたのかねみね)、番長下毛野敦秀(ばんちやうしもつけのあつひで)、次に將軍家檳榔毛(びりやうげ)の御車、車副(くるまそひ)四人、扈從(こしよう)は坊門(ぼうもんの)大納言、次に隨兵十人、皆、甲胄を帶(たい)す。雜色(ざつしき)二十人、檢非違使(けんびゐし)一人、調度懸(てうどかけ)、小舎人童(こどねりのわらは)、看督長(かどのをさ)二人、火長(かちやう)二人、放免(はうべん)五人、次に調度懸佐々木〔の〕五郎左衞門尉義淸、下﨟の隨身(ずいじん)六人、次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人、各々(おのおの)前驅隨身あり。次に受領の大名三十人、路次の隨兵一千騎、花を飾り、色を交へ、辻堅(つじがため)嚴しく、御所より鶴ヶ岡まで、ねり出て赴き給ふ裝(よそほひ)、心も言葉も及ばれず。前代にも例(ためし)なく後代も亦有べからずと、貴賤上下の見物は飽(いや)が上に集りて錐(きり)を立る地もなし。路次の両方込合うて推合(おしあ)ひける所には、若(もし)狼藉もや出來すべきと駈靜(かりしづ)むるに隙(ひま)ぞなき。既に宮寺(きうじ)の樓門に入り給ふ時に當りて、右京〔の〕大夫義時、俄に心神違例(ゐれい)して、御劍をば仲章朝臣(なかあきらのあそん)に讓りて退出せらる。右大臣實朝公、小野御亭より、宮前(きうぜん)に參向(さんかう)し給ふ。夜陰に及びて、神拜の事終り、伶人(れいじん)、樂(がく)を奏し、祝部(はふり)、鈴を振(ふり)て神慮をいさめ奉る。當宮(たうぐう)の別當阿闍梨公曉、竊(ひそか)に石階(いしばし)の邊(へん)に伺來(うかゞひきた)り、剣(けん)を取りて、右大臣實朝公の首、打落(うちおと)し、提(ひつさ)げて逐電(ちくてん)す。武田〔の〕五郎信光を先として、聲々に喚(よばは)り、隨兵等(ら)走散(はしりち)りて求むれども誰人(たれびと)の所爲(しよゐ)と知難(しりがた)し。別當坊公曉の所爲ぞと云出しければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公曉はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も亂れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落失(おちう)せ、一千餘騎の随兵等、馬を馳(はせ)て込來(こみきた)り、見物の上下は蹈殺(ふみころ)され、打倒(うちたふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗(くらやみ)になり、これはそも如何なる事ぞとて、人々魂(たましひ)を失ひ、呆れたる計(ばかり)なり。禪師公曉は、御後見(ごこうけん)備中阿闍梨の雪下の坊に入りて、乳母子(めのとご)の彌源太(みげんだ)兵衞尉を使として、三浦左衞門尉義村に仰せ遣されけるやう、「今は將軍の官職、既に闕(けつ)す。我は關東武門の長胤(ちやういん)たり。早く計議(けいぎ)を廻らすべし。示合(しめしあは)せらるべきなり」とあり。義村が息駒若丸、かの門弟たる好(よしみ)を賴みて、かく仰せ遣(つかは)さる。義村、聞きて、「先(まづ)此方(こなた)へ來り給へ。御迎(おんむかひ)の兵士(ひやうし)を參(まゐら)すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人(たゞびと)にあらず、武勇兵略(ぶようひやうりやく)勝れたれば、輒(たやす)く謀難(はかりがた)かるべしとて、勇悍(ようかん)の武士を擇び、長尾〔の〕新六定景を大將として、討手をぞ向けられける。定景は黑皮威(くろかはおどし)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、大力(だいりき)の剛者(がうのもの)、雜賀(さいがの)次郎以下郎従五人を相倶して、公曉のおはする備中阿闍梨の坊に赴く。公曉は鶴ヶ岡の後(うしろ)の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり。素絹(そけん)の下に腹卷をぞ召されける。長尾御首を持ちて馳歸り、義村、義時是を實檢す。前〔の〕大膳〔の〕大夫中原(なかはらの)廣元入道覺阿、申されけるは、「今日の勝事(しようじ)は豫て示す所の候。將軍家御出立の期(ご)に臨みて申しけるやうは、覺阿成人して以來(このかた)、遂に涙の面に浮ぶ事を知らず。然るに、今御前に參りて、頻に涙の出るは是(これ)直事(たゞごと)とも思はれず。定(さだめ)て子細あるべく候か。東大寺供養の日、右大將家の御出の例(れい)に任せて、御束帶(ごそくたい)の下に腹卷(はらまき)を著せしめ給へと申す。仲章朝臣、申されしは、大臣、大將に昇る人、未だ其例式(れいしき)あるべからずと。是(これ)に依(よる)て止(とゞ)めらる。又、御出の時、宮田兵衞〔の〕尉公氏(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。御臺所、御飾(かざり)を下(おろ)し給ふ。御家人一百餘輩、同時に出家致しけり。翌日、御葬禮を營むといへ共、御首(おんくび)は失せ給ふ、五體不具にしては憚りありとて、昨日(きのふ)、公氏に賜る所の鬢(びんのかみ)を御首に准(じゆん)じて棺に納め奉り、勝長壽院の傍(かたはら)に葬りけるぞ哀(あはれ)なる。初(はじめ)、建仁三年より、實朝、既に將軍に任じ、今年に及びて治世(ぢせい)十七年、御歳(おんとし)二十八歳、白刃(はくじん)に中(あたつ)て黄泉(くわうせん)に埋(うづも)れ、人間を辭して幽途(いうと)に隱れ、紅榮(こうえい)、既に枯落(こらく)し給ふ。賴朝、賴家、實朝を源家三代將軍と稱す、其(その)間、合せて四十年、公曉は賴家の子、四歳にて父に後(おく)れ、今年十九歳、一朝に亡び給ひけり。

[やぶちゃん注:遂に実朝が暗殺され、源家の正統が遂に滅ぶ。そうしてこれを以って「卷第四」は終わっている。「吾妻鏡」巻二十三の建保六年十二月廿日及び同七年正月二十七日・二十八日の条に基づく。]

耳嚢 巻之七 疝痛を治する妙藥の事

 疝痛を治する妙藥の事

 

 またゝびの粉を酒又砂糖湯にて用ゆれば、其いたみ去る事妙のよし。營中にて我(われ)症を愁ふるを聞(きき)て傳授なしけるが、予(よの)元へ來る藥店(くすりみせ)を職として眼科をなしける者、疝氣にて腰を痛め候事度々成しが、またゝびを壹匁(もんめ)、酒を茶碗に一盃用ひて即效を得しが、素より酒量なき故、酒(さけ)茶碗に一盃呑(のむ)事甚だ苦しきゆへ、年も老(おい)ぬれば茶湯又砂糖湯にて用(もちゐ)見るに、酒にて用ゆるより、其功はおとりぬと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一つ前とその前の咳に続く民間療法シリーズ。根岸が疝気持ちであったことは既に「耳嚢 巻之四 疝氣呪の事」で明らかになっている。「疝気」については、リンク先の私の注を参照されたい。

・「またゝび」双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ Actinidia polygamaウィキの「マタタビ」によれば、『蕾にタマバエ科の昆虫が寄生して虫こぶになったものは、木天蓼(もくてんりょう)という生薬である。冷え性、神経痛、リューマチなどに効果があるとされる』とあり、ここで「粉」と称するのもこれであろう。「木天蓼」と書き、「もくてんりょう」とも読む。夏梅という別名もある。他にもこのウィキの記載は短いながら興味深い箇所が多い。脱線であるが幾つか引用すると、六月から七月にかけて開花するが、『花をつける蔓の先端部の葉は、花期に白化し、送粉昆虫を誘引するサインとなっていると考えられる。近縁のミヤママタタビでは、桃色に着色する』とあり、所謂、ネコとの関係については、『ネコ科の動物はマタタビ特有の臭気(中性のマタタビラクトンおよび塩基性のアクチニジン)に恍惚を感じ、強い反応を示すため「ネコにマタタビ」という言葉が生まれた』。『同じくネコ科であるライオンやトラなどもマタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカがある』とし、和名の由来については、『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである』。「牧野新日本植物図鑑」(一九八五年北隆館刊/三三一頁)によると、『アイヌ語で、「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で、おそらく果実を表した呼び名だろうとされる。一方で、『植物和名の研究』(深津正、八坂書房)や『分類アイヌ語辞典』(知里真志保、平凡社)によると「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』。『一説に、「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというが、マタタビがとりわけ旅人に好まれたという周知の事実があるでもなく、また「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「復旅」を連想するのは容易であるから、典型的な民間語源であると見るのが自然であろう』とある。博物学と民俗学が美事に復権した素晴らしい記載である。

「一匁」現在は三・七五グラムに定量されているが、江戸時代はやや少なく、近世を通じた平均値は三・七三六グラムであったとウィキ匁」にはある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疝痛を癒す妙薬の事

 

 またたびの粉を酒または砂糖湯にて服用すれば、その痛みがすっと引くこと絶妙の由。

 御城内にて、私が疝痛に悩まされているというのを聞いた、さる御御仁が伝授して下されたことである。

 その後、私の元へ来たる薬屋を本職としつつ、眼科をも兼ねておる者も、疝気にて腰を痛ぬることが、これ、度々御座ったが、その都度、またたびを一匁、酒を茶碗に一杯用いて即効を得る由、聞いた。

 ただ、この者、平素より酒が呑めぬ性質(たち)なれば、この、酒を茶碗に一杯呑みほすことがこれ、以前よりはなはだ苦しゅう御座ったと申す。

 最近では年もとったことと相俟って、すこぶる酒での服用が困難になって御座ったゆえ、今は茶湯または砂糖湯を用いて服用しておるとのこと。

「……但し、酒で服用した場合に比べますると、その効果は、これ、劣りますな。……」

と、本人が語って御座った。

栂尾明恵上人伝記 26

この明恵の手紙文、比喩が面白い。悟りを糞で比喩するというのはカッキ的である。



上人の御消息に云はく、〔遣はされる處、未だ之を勘へ出さず、或る人云はく湯淺權守の許へと云々。〕[やぶちゃん注:「勘へ」は「かんがへ」と読む。宛先が不明であることをいう。以下の明恵の言葉は、底本では全文が一字下げである。]

如來の在世に生れ遇はざる程に、口惜しき事は候はざるなり。我も人も、在世若しくは諸聖(しよしやう)の弟子迦葉・舍利弗・目連等のいませし世に、生れたらましかば、隨分に生死の苦種(くしゆ)を枯らし、佛道の妙因を植ゑて、人界に生れたる思ひ出とし候べきに、如來入滅の後、諸聖の弟子も皆失せ給へる世の中に生れて、佛法の中において一(いつ)の位を得たることも無くて、徒に死する程悲しき事は候はず。昔佛法の盛りに流布して候ひし世には、在家の人と申すも皆或は四菩提の位を得て、近く聖果(しやうくわ)を期するもあり。或は見道(けんだう)と云ひ、無漏(むろ)の智惠を起して三界の迷理(めいり)の煩惱を斷ち盡して、預流果(よるか)と云ふ位を得るもあり、或るは進みて欲界の六品の修惑(しゆわく)を盡して、一來果(いちらいくわ)と云ふ位を得るもあり。是までは在家の人も得る位なり。此の位に至りぬれば、欲界の煩惱を斷ち盡して、不還果(ふげんくわ)と云ふ位を得て、其の次に色界・無色界の煩惱を斷ち盡して、阿羅漢果(あらかんくわ)を得るなり。或は隨分に修行して菩薩の諸位に進むもあり。人間界に生れたらば、此の如き所作を成したらばこそいみじからめ、煩惱惡業にからめ纏(まと)はれて徒に老死にするは、何事にも合はずしてのどかに老死にに死ぬとても、思ひ出であるにも候はざるなり。皆前の世に業力(ごふりき)の催し置きたるに隨つて、今生安くして死ぬる樣なれ共、さりとても、やがて進みて生死を出でて佛に成らんずるにてもなし。只靜かに飯打ち食つて、きる物多くきて、年よりて死ぬる事は、犬・鳥の中にもさる物は多く候なり。今生(こんじやう)安きと云ふも、又實にも非ず。只覺りも無くして、淺間しく穢(きたな)き果報、骨肉を丸がし集めたる身の、流るゝ水の留ることなきが如くして、念々に移り來て生れ出で來ては死なんずることの近付なる間、其の程の月日の重なるに隨つて、一より二に至り、二より三に至る間を、盛(さかり)なると云ひていみじく悦べども、覺り深き聖者の前には、有爲(うゐ)の諸行は轉變無常なりと云ひて、是を大なる苦しみとせり。年若く盛なりと雖も、誇るべきにあらず。喩へば遠き道を行くに、日の午の時に成りぬれば、日盛(さかり)なれども、巳に日たけぬと云ふが如し。午の時程なく過ぎ行きて、日の暮れんことの近付くなるが故に、日盛りなりとても憑(たの)むべからず。若き齡常ならず。念々に衰へ行きて終に盡くることあり。念々生滅の苦しみは、上界の果報も下界の果報も、皆同じ事なり。惣じて有爲の諸法の中心はこき味のなきに、凡夫愚((おろか)にして、嗜みて味を求む。三界の中に眞の樂みなし。凡夫迷ひて苦しみの中に於てみだりに樂を求む。喩へば火の中に入りて凉しきことを求め、苦(にが)き物の中に於て甘きを求めんに、惣(そう)じて得べからざるが如し。凡夫無始(むし)より以來、生るゝ所ごとに夢の中の假(かり)の身を守りて、幻(まぼろし)の如くなる樂を求むれども、生死海の中に本より樂なければ、得たることもなくして、終に苦しみ、愁の中にのみ沈みて、安き事なし。さればかゝる果報を厭はずしては、惣じて安き事を得べからざるなり。佛、是を悲みて、諸行は無常なり皆悉く猒離(おんり)せよ、と勸め給へるなり。法華經に云はく、世(よ)皆(みな)牢固(らうこ)ならず、水沫泡炎(すいまつほうえん)の如し、汝等咸(ことごと)く應に(まさ)に疾(はや)く猒離の心を生ずべしと。此の文の意(こころ)は、世間は皆破れ行く物なり。水に聚(あつま)れる沫(あわ)の如し。此(かく)の如くあやふき世間の中に於て樂の思ひを成すこと勿れ、皆猒離すべしと云へるなり。世間無常なりと云ふことは只此の人間の果報のみにあらず。惣じて四靜慮(じやうりよ)・四無色界(むしきかい)の諸天も、皆行苦(ぎやうく)の悲みを離れず、有頂天の八萬劫の果報も皆念々生滅の苦しみを離れたること無きなり。一人在りて、一室の床の上に眠りて千萬の苦樂の境界を夢に見れ共、夢中の事は皆うつゝの前には無きが如し。根本無明(こんぽんむみやう)の眠(ねむり)深くして、動轉四相(どうてんしさう)の夢の念を起す。其の中の苦樂の境界(きやうがい)は皆實ならざるなり。かゝる處にかゝる果報を受けたれば、惣じて愛着(あいじやく)する所なけれども、凡夫無始生死より以來、性體(しやうたい)も無き煩惱業苦(ぼんのうごふく)の中に於て我(が)・我所(がしよ)、執(しふ)して分別(ふんべつ)深くして、はかなく假(かり)の身を惜しみ、露の命を守ることたえず。地獄・餓鬼・畜生は淺ましき果報なれども、其も皆我が果報を惜しむことは同事なり。如來態(わざ)と世に出で有りのまゝに道理を説きて、生死を出でよと勸め給ふ。跡形(あとかた)もなき緣なる相續(さうぞく)の假(かり)なる法を執(しふ)して、我・我所とすること勿れ。此の所は只苦のみ多し。是に居たらん限りは苦患(くげん)たゆべからず。かゝる苦しみの境を、捨て離れよと教へたまへり。かゝる果報を受けたるは悲みなれども、快きかなや、我等無明の卵殼(らんごく)未ださけずと雖も、幸いに佛の御法(みのり)の流布せる世に生れ遇ひて、終に生死の苦患を盡して、佛果無上(ぶつくわむじやう)の樂を得んずる期在りと云ふことを知りぬ。大なる悦(よろこび)をなすべきなり。亦、生死の苦しみは、我が受くる果報なれども、無明の睡眠(すゐみん)の醉(ゑひ)深くして、此の果報の拙(つたな)く苦なることをも悟らず。大聖慈父無上大覺世尊(だいしやうじふだいがくせそん)世に出でて慇(ねんごろ)に教へ給へり。教への如くに猒(いと)ふべし。愚なる者の思ふべき樣は、諸行無常、有爲皆苦(うゐかいく)の道理は、佛の教ならずともなどかは悟らざるべき。華開きては必ず散り、果結びては定めて落つ。盛なる者は衰へ、生ある者は死す。是等は無常なり。亦打縛殺害(だばくせつがい)等の不可意の心に叶はぬことあり。是は苦なりとなどかは知らざらんなど思ひつべきことなれども、凡夫は一分の覺りもなし。只無始薫習(むしくんじう)の妄識種子(まうしきしゅじ)より現行(げんぎやう)の識體(しきたい)おこり、妄りに虛妄(こまう)の境界(きやうがい)を分別(ふんべつ)して、境界に於て、妄識の動轉(どうてん)するを以て凡夫の分別と名づけたり。是は酒に醉ひたる時の人の狂へる心の如し。眞(まこと)の覺りにあらざるなり。去れば、諸法の實理(じつり)におきては實の如く分別することなきなり。位(くらゐ)無餘(むよ)に入りぬれば、二乘(じじやう)の聖者(しやうじや)すら、猶(なほ)變易微細(へんやくみさい)の苦を知らずして、増上慢(ざうじやうまん)のとがに堕ちぬ。況や凡夫、實の如く如來所知(によらいしよち)の法印を知るこ難かるべし。又諸の外道論師(げだうろんじ)の中に教法あり。其の中にも分々(ぶんぶん)に常(じやう)・無常(むじやう)等の道理をば説けども、其も佛法の實理をば究めずして、或は無想天(むさうてん)を計(けい)して實(まこと)の解脱處(げだつしよ)とし、或は眞義(しんぎ)を立てゝ常住(じやうじゆう)の體(たい)とす。我が本師釋尊の説き給ふ、諸行無常の法印の道理は、三界所繫(さんがいしよけい)の法皆是れ無常なり。一法として常住なるはなし。亦皆悉く實ならざるが故に、一法として苦に非ざるはなきなり。涅槃は寂靜なり。若し人是を證しつれば、即ち法身(ほつしん)の體(たい)を得、又退(たい)することなし。彼の外道論宗(げだうろんしゆう)の中に、冥性(めいしやう)に歸して後、猶返りて衆生と成ると云ふには同じからず。此の如きの正見(しやうけん)は、佛法の力を離れては爭(いか)でか發(おこ)すことを得べき。さればこの諸行無常の道理一を聞きたりとも、無量劫(むりやうこふ)の中の思ひ出でとすべし。昔大王ありき。身に千の穴をゑりて、油を盛りて火を燃(もや)して婆羅門を供養して、此の道理を聞き給へりき。聖教に説きて云はく、若し人生きて百歳にして生滅の法を解(げ)せざらんよりは、如かず、生きて一日にして而して之を解了(げりやう)することを得んにはと。實に朽木(くちき)の如くして何(いつと)なく生(い)けらんよりは、覺り深くして一日生けらんに比ぶべからざるなり。巳に佛の御教(みをしへ)を受けて、有爲(うゐ)の果報は皆(みな)苦(く)なりと知りなば、速に是を捨離(しやり)すべき思ひをなすべし。我等無始より以來生死に輪廻せし間、此の身を痛(いた)はり惜みんで相離れず。徒に苦患(くげん)の中に沈み、妄(みだ)りに樂を求む。喩へば敵(かたき)を養ひて家に置いて、常に敵に惱まされんが如し。早く生死の果報を思ひ捨てゝ佛の位を求め賴むべし。かゝる果報を捨てずば、生々世々の中に苦みの多かるべし。佛の眞實の利益(りやく)は、只是の果報を捨てしめて、大涅槃の樂を與へ給ふなり。有爲生死界の中に於て、衆生の願に隨ひて、隨分に命をのべ官位を與へ給ふと云ふとも、其は只人の願ふことなれば、假令(かりそめ)にすかしこしらへて、其の心をゆかしめて終には佛になさんが爲に、暫く與へ給へども其れを終(つひ)の利益にして、さてやみ給ふ事は無きなり。終には必ず有爲生死の境をこしらへ出して、我と等しき無上の樂を與へ給はんとなり。されば今生(こんじやう)の事に於ては宿報決定(しゆくはうけつぢやう)して、佛菩薩(ぶつぼさつ)の御力も及ばせ給はぬことあれども、一度も佛を緣として心を起して名號をも念ずる功德(くどく)は、必ず有爲生死の中にして朽ちやむことはなきなり。喩へば人の食物は必ず米一粒も栗(くり)柿(かき)一顆(くわ)にても、腹中に入りぬれば、定めて屎(し)となりて腹を通りて出づるが如し。佛の處に於て作る功德は、小さきも大なるも、必ず有爲煩惱の腹を通りて、終に生死を盡す極めとなるなり。名聞利養(みやうもんりやう)の爲に作る功德も終には佛の種(たね)となるなり。されば佛菩薩の利生(りっしやう)によりて現世の願を滿てたりと云ひても、是に依(よつ)てさてやまんずるにてもなし。喩へば幼き赤子愚(おろか)にして土塊(つちくれ)を翫(もてあそ)びたがるには、其の父母慈(いつくし)み深き故に、土塊をば寶とは思はねども、赤子の心をゆかさんが爲に、暫く士くれを與へて其の心をゆかす。後におとなしく成りて實の銀金(しろがねくがね)など云ふ寶を與ふるが如し。終に土くれを翫ばしめてさてやむことはなきなり。只一向(ひとむき)に諸法の眞實の因果は只佛のみ知り給へり。我等が思ひ計るべき處に非ずと信じて、其の心に道理を失はず、生々世々に必ず無理なる果報をば得べからざるなり。亦、頻婆婆羅王(びんばしやらわう)、佛を深く念じ奉りしに依て、忽に七重(なゝへ)の室を出でざれども、如來の光明に照らされて不還果(ふげんくわ)を得たりき。打ちまかせて人の思へるは、如來の神力、などか七重の室を破りて、彼の王を取り出し給はざりしと。然れども諸佛慈悲はたゆることなけれども、三惡道の果報充滿せり。實に諸法の因果の道理は佛の始めて作り出し給へるにも非ず。慈悲深くいますとても法性(ほつしやう)を轉變し給ふべきにあらず。佛の自らの位も皆無量の功德の造り成せる果報なり。因果の道理を破りて推してし給へるにもあらず。只一切世間の所歸依(しよきえ)の處として、衆生の爲に増上緣(ぞうじやうえん)となりて、苦を拔き樂(らく)を與へ給へり。頻婆婆羅王、七重の室を出づべからざりし、因緣難ければ、室を出でずといへども、佛の御力にて斷ち難き欲界の煩惱を斷ち盡して、出で難き欲界を出で、登り難き聖位に登る事を得たり。さりとて佛の位に自在ならざる事のあるにはあらず。凡夫有相(ぼんぷうさう)の分別の前の苦樂の境界は、皆善惡の有漏識(うろしき)の種子現行(しゆじげんぎやう)するが故に、事理(じり)の二位深く隔たり、假實(けじつ)の差別同じからずして、病などするに橘の皮を煎じて飮むには其の病愈ゆることあれれども、經を誦し佛を禮するには愈えざるが如し。皆、無始より以來虚僞(こけ)の妄執深くして、眞理を隔て正智を遠ざかりしに依て、増上の意樂(いげう)を起さざれば、眞法は身に合ひ難きなり。喩へば夢の中に羅刹(らせつ)の姿を見て恐れをなさんに、傍に人有りて此の事を證知(しようち)して、是は羅刹に非ず、恐るゝこと勿れといへども、此の眠らん者の恐れやまじ、只自ら夢の中に、此の羅剃走りぬと見ば、其の恐れやむべし。傍に人有りて實事を示せども、睡覺めての位異なるが故に聞くことなし。眞妄實躰(しんまうじつたい)同じからざるが故に、其の恐れやまず、自ら夢の中にして、羅刹の姿實ならざれども恐れ深し。羅刹の逃げ去りぬるも實ならざれども悦びあり。一種性(いつしゆしやう)の心(こゝろ)相續して起るが故に、不同類(ふどうるい)の心現行(げんぎやう)せざるが故なり。されば善根に串習(げんじふ)せし人などの、増上の意樂(いげふ)を起して經卷を讀誦し佛を念ずるに、現前の災障(さいしやう)を破りて怨敵(ゑんてき)をも降伏(がうぶく)することのあるは、此の人の心力、道理に融(ゆう)するが故に、自ら發(おこ)す所の善根の相用(さうゆう)、佛の増上緣力を感ずるが故に、速疾(そくしつ)の利益は有るなり。是も此(かく)の如くなるべき道理をあやまたざるなり。惣じて諸法の中に道理と云ふものあり。甚深微細(じんじんみさい)にして輙(たやす)く知り難し。此の道理をば佛も作り出し給はず、天・人(にん)・修羅等も作らず。佛は此の道理の善惡の因果となる樣(やう)を覺(さと)りて、實の如く衆生の爲に説き給ふ智者なり。諸佛如來、衆生の苦相を觀じて、利益方便(りやくほうべん)を儲(まう)け給ふ事隙(ひま)なし。人こそ愚にして、俄に病などの發りたるをば、苦みと思ひて、自ら苦聚(くじゆ)に埋(うづ)もれたるをば知らず。喩へば犬のよき食物をば得ずして屎を食はんとするに、こと犬の來て屎を奪つて食せしめざるをば苦と思ひて、屎を食ひ得つれば樂(らく)の思ひをなして、自らの果報のあさましく、心拙(こゝろつたな)きをば苦しみと思はざるが如し。是は其の心拙くして苦聚の中に埋もれたるをば知らざるなり。諸佛如來の衆生を緣として、大悲を發し給ふ事は、必ずしも病などするを絲惜しがり給ふにもあらず。有爲有漏(うゐうろ)の業果(ごふくわ)の境界を出でずして、はかなく愚なるを深く哀み給ふ。されば定性二乘(ぢやうしやうにじやう)の聖者は無餘依(むよえ)の位に至りて、永く分段(ぶんだん)の果報を盡すといへども、深教大乘(じんけうだいじやう)の心によるに、反易生死(へんやくしやうし)の報(むくい)未だ免れず。されば如來の慈悲も救ひ給ふ事無くして、必ず八萬大劫の滿位(まんゐ)を待ちて、佛乘の法門を授けて究竟(くきやう)の位(くらゐ)に導き給ふ。何(いか)に况(いはん)んや生、死の苦海に輪轉(りんてん)し、出づる事を得ぬ衆生に於てをや。縱(たと)ひ病もせずいみじくて國王の位に登り、天上の果報を受くとも、佛の少しきも樂なりと思召して、たゆませ給ふ事はなきなり。只法性の因果改まらずして因緣を待つことばかりなり。されば佛の、我が名を念ぜば我れ行きて救はんと仰せらるゝは、流れの畔(くろ)の渡守(わたしもり)などの舟貸(ふなちん)を取りて人を渡すが如くにはあらず。只佛に不思議の功德います。其の名を念ずるに力を得て、増上緣と成りて、衆生を助け給ふなり。喩へば飯の、人に向ひて、我を食ふべし、汝が命を延べんと云ふが如し。是は飯が我が身を嫌ふことはなけれども、飯を身の中に食ひ入れつれば増上緣と成りて人の命を延ぶ。されば我を食へといはんが如し。諸佛の甚深の道理は、只佛のみ能く知り給へり。仰ぎて信をなすべきなり。なまこさかしく兎角我とあてかふことはわろきなり。如來は是れ我が父母なり。衆生は子なり。六道四生に輪轉するとも、如來と衆生とは親子の中かはることなし。世間の親子は生を替(か)ふるに隨つて替はりもてゆく。六道の衆生は皆三種の性德(しやうとく)の佛性(ぶつしやう)有るが故に、皆佛子なり。故に如來自ら、我れは父なり、汝は子なりと契り給へり。我等大聖慈父の御貌(おんかほ)をも見奉らずして、末代惡世(まつだいあくせ)に生るゝことは、先の世に佛の境界に於て、このもしく願はしき心も無かりし故なり。一向に渇仰(かつがう)をなさば、必ず諸佛に親近(しんごん)し奉りて、不退(ふたい)の益を得べきなり。生死の果報を得るも、生死の境界を願ふ心の深ければこそ、生死界にも輪轉するやうに、佛の境界を願ふ心の深ければ、亦佛の智惠を得るなり。只生死界をば惡(わろ)き大願を以て造り、涅槃界をばよき大願を以て造るなり。されば華嚴經に、淸淨(しやうじやう)の欲を起して、無上道(むじやうだう)を志求(しぐ)すべしと云へり。淸淨の慾といふは、佛道を願ふ心なり。佛道に於て欲心深き者、必ず佛道を得るなり。されば能々(よくよく)此の大欲を起して、是を便(たより)として生々世々(しやうじやうせゝ)値遇(ちぐう)し奉りて、佛の本意(ほんい)を覺り明らめて、一切衆生を導くべきなり。此の理を知り終りなば、何事かはわびしかるべき。欲に淸淨の名を付ることは、世間の欲の名利(みやうり)に耽りて何(いつ)までも心に持ちひつさぐる欲の如くにはなし。佛の境界を深くこのもしく思ふ大欲なければ、佛法に遇ふことなし。佛法に遇はざれば、生死を出づることなし。かゝる故に、暫く此の大欲にすがりて佛法を聞きあきらむれば、自ら祕藏しつる佛法も、大切なりつる大欲も、共に跡を拂ひてうするなり。かやうに跡もなき事をば淸淨と云ふなり。仍(よつ)て淸淨の欲と名づけたるなり。急がしければ、筆に隨ひ口に任せて申すなり。恐惶謹言。

    建仁二年十月十八日   高辨〔時に紀州在田郡糸野の山中なり〕

[やぶちゃん注:「猶(なほ)變易微細(へんやくみさい)の苦を知らずして」の「猶(なほ)」の部分は、底本では一字分が空きになっており、明らかな植字ミスと判断される。「猶」の字は複数の諸本から、「なほ」の読みは私の判断で補った(諸本はこう訓じてはいない)。大方の御批判を俟つ。

「昔大王ありき。身に千の穴をゑりて」の句点は私が打ったもの。底本では「昔大王ありき身に千の穴をゑりて」と繋がっており、如何にも読みにくい。]

大磯ノ海 萩原朔太郎 (自筆自選歌集「ソライロノハナ」より)

愚ろかなる叛逆心と、耐え難い孤獨の寂寥と自殺的の腦鬱と、忌はしい情慾の刺激と失意と煩悶と總てさういふ混亂(こんが)らかつた心の壓迫が私を海の方へと導いた。

 

 大磯よ汽車にのりたくなりたれば

 海が戀しくなりたればきぬ

 

冬の磯邊には靜寂の境趣が漂ふて居た。

力のない午後の日光を浴びながら漁師の家族はそここゝに投網を編んで居た。病人らしい都の人が物憂げに遠い濱邊を步いて居るのも淋しく思はれた

 

 氷りたる二月の海の潮鳴を

 泣きて聽かんと來しにあらねど

 

 怖れつつ都をのがれ海に來て

 潮鳴る音に心悲しむ

 

疲れたる漂泊者のする樣に私は例の砂山に寢ころんで海を眺めた、

空はよく晴れ渡つて生ぬるい砂は擽るやうに私の掌の中から指の間をすべり落ちた、

 

 死ぬること思ふ哀しさ生くること

 思ふさびしさ海に來て泣く

 

 海の音きゝつゝ砂に寢ころびて

 空を見て居れば泣きたくなりぬ

 

海には帆を張つた漁船も二つ三つならずはしつて居た

あはれその蒼々たるわだつみの色よ

 

 砂山にまろびて我が思ふこと

 知れば鷗も哀しみて鳴く

 

砂丘をつたはつて小磯へ行つた

 

 砂原の枯れ艸の上をわが行けば

 虫力なく足もとに飛ぶ


[やぶちゃん注:この一首は、朔太郎満二十四歳の時、『スバル』第三年第四号(明治四四(一九〇三)年四月発行)の「歌」欄「その四」に「萩原咲二」名義で掲載された五首の内の一首、

 砂山の枯草の上を我が行けば蟲力なく足下に飛ぶ

相似歌である。]

 

音もなく影もない小磯の濱には干からびた筆草ばかりが昔ながらに生へて居た。私はその赫土の上に身を投げて稚子のやうに聲をあげて啜り泣いた

いつのまにかたそがれ時のうすら寒い潮風が淚にぬれた私の頰を吹いて居た

 

 小磯なるかの砂山に忘れしは

 草も棝るべきつめたき淚

 

 如何ならん小磯が濱の筆くさは

 根を絕えぐさと思はざりしを

 

五年まへの夏、希望に輝やく瞳を以て此處の松林の中から太洋の壯嚴を祝した紅顏の少年は頽唐の骸骨となつて長い漂泊の旅から歸つて來た。今見る海の色にもまして靑ざめたるその顏色よ。

 

 きのふまで少女の群とバルコンに

 歌をうたひし我ならなくに

 

 五(いつ)とせのむかし女を戀したりき

 その頃のことすべて美くし

 

 海ちかき濤龍館のおばしまに

 立つは月の出待つに似たれど

 

 不孝なる繼子(まゝこ)の如く世を怖れ

 かつは怨みて仇をたくらむ

 

さびれきつた冬の海水浴町にも流石に夜の灯(ともしび)は紅くにほつた

ところの流行唄を彈くとき何故(なぜ)か悲しい眼附をして私にあることを訴へたのである

 

 かの少女唄をうたへば悲しめる

 我も冷えたる盃をあぐ

 

 うれひつゝある少年と知るよしも

 なければ彼はいそしみて彈く

 

 少年の心をそゝる仇言も

 たゞに悲しみ空耳にきく

 

 美しき言葉すくなの少年よ

 かく言ひかれは嫋(なま)めきてきぬ

 

 海に來て泣きてかへらん我ぞとは

 いかで知るらん昨夜の少女は

 

 美しき海の少女と寢し故に

 潮の香あびしにほひこそすれ

 

されど飽和したやうな重い心の沈滯を海へ來て釋かうとしたのは愚かであつた

翌る朝、私は漂然として其處を立つた。どこまでも靜をいとふて動を愛する私は生れながらに漂泊の運命をもつて居るのではあるまいか、

それは兎も角、此の氷れる冬の海に來て悲しむよりは、熱鬧の巷の中に耽溺の痛ましい快樂を貪(むさぼ)つて居る方が、まだしも幸福といふものであろう、

一夜にして私は大磯の海に告別した

 

 そのかみの虎が淚も悲しめる

 この少年を濡すよしなし

               (大磯ノ海、完)

 

[やぶちゃん注:昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」の一九一一年二月のクレジットを持つ「二月の海」より(同章は、この後に、先に示したエレナ追悼の「平塚ノ海」という作品と二つで構成されている)。以上の通り、末尾に「(大磯ノ海、完)」として前に標題を置かない。取消線は抹消を示す(くどいがこの歌集は自筆肉筆本である)。太字「あること」は底本では傍点「ヽ」。概ね自筆本そのままに電子化することを目指し、「耐え」「腦鬱」「そういふ」「生へて」「輝やく」「太洋」「漂然」「といふものであろう」といった文脈からあまり違和感なく読めてしまう誤字や句読点及びその有無も多くはママとした(底本の校訂本文では仮名遣や送り仮名・漢字の誤りは勿論のこと、句読点もすべて『完璧に』整序されてしまっている)が、この詩にはかなり鑑賞に際して著しい違和感を生ずる誤字誤用が認められるため、私の判断で次の十一箇所十二点について以下のように変更した(なお、この変更は総て底本の校訂本文でも採用されているものであるから、殊更に独断的な変造とは思っていない)。上が底本で(→)以下が訂正したものである。

 

●禺ろかなる→愚ろかなる(萩原朔太郎の自筆稿にしばしば見られる誤字である。以下にももう一箇所ある)

●矢意→失意

●※車(「※」=(へん)「米」+(つくり)「気」)→汽車(次の「平塚ノ海」でも用いられている奇体な字体)

●そここゝに投網を編んで居た→そここゝに投網を編んで居た。(句点なしでは極めて読みにくい)

●干からびた筆草ばかりが昔ながらに生へて居た→干からびた筆草ばかりが昔ながらに生へて居た。(句点なしでは極めて読みにくい)

●棝るべき→枯るべき(「棝」は音「コ・ク」訓「ねずみおとし」で鼠を捕る仕掛けの謂いで枯れる・涸れる(朔太郎はしばしば枯れるの意に「涸れる」を用いる)の謂いはない)

●寄望→希望

●嫋(なま)めてきぬ→嫋(なま)めきてきぬ(音数律からも脱字と判断される)

●海へ來て釋かうとしたのは禺かであつた→海へ來て釋かうとしたのは愚かであつた

●翠る朝→翌る朝

●貧(むさ)つて居る→貪(むさぼ)つて居る(漢字の誤りとルビの脱字の二箇所)

 

 以下、老婆心ながら語注しておく。

○「擽る」は「くすぐる」と読む。

○「筆草」単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi の和名異名。

○「濤龍館」底本には『これは「濤瀧館」の誤記かも知れない』という注があるが、その根拠(平塚に濤瀧館という旅館があったというような事実)は示されていない。

○「釋かうとした」は「とかうとした」と読み、「解こう」(散らす・消す)の意である。

○「熱鬧」は「ねつたう(ねっとう)」と読み、人が込みあって騒がしい、の意である。

 

 本作と次に掲げる「平塚ノ海」との関係に関心のある向きには、この部分に就いて久保忠夫氏が「萩原朔太郎歌集『空いろの花』贅注――「大磯ノ海」の少女」(『短歌』昭和五六(一九八一)年三月)で行った論考を批判する形で書かれた渡辺和靖氏萩原朔太郎――「詩篇」ら「浄罪詩篇へ」(一九九〇年刊愛知教育大学研究報告三十九所収)の『(4)「二月の海」の少女』を参照されるとよい。]

母韻の秋 大手拓次

 母韻の秋

ながれるものはさり、
ひびくものはうつり、
ささやきとねむりとの大きな花たばのほとりに
しろ毛のうさぎのやうにおどおどとうづくまり、
寶石のやうにきらめく眼をみはつて
わたしはかぎりなく大空のとびらをたたく。

鬼城句集 夏の之部 土用

土用   でゝ虫の草に籠りて土用かな

2013/05/18

海産生物古記録集■5 広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載

 

[やぶちゃん注:広瀬旭荘(ぎょくそう 文化四(一八〇七)年~文久三(一八六三)年)は儒学者で漢詩人。豊後国日田郡豆田町(現在の大分県日田市)の博多屋広瀬三郎右衛門桃秋の八男として生まれた(兄の淡窓も知られた儒学者で漢詩人である)。生来、記憶力が抜群に良く、師亀井昭陽に「活字典」と称えられ、交遊を好んで各地に旅をした。勤王の志士との交わりも知られ、蘭学者も多くその門を訪れている。詩作にすぐれ、詩文の指導には規範を強いず、個性を尊重した。清代末期の儒者兪曲園は旭荘のことを「東国詩人の冠」と評している。著述も多く、とくに二十七歳から始めて死の五日前まで書き続けた日記「日間瑣事備忘(にっかんさじびぼう)」は江戸後期の貴重な資料とされる(以上はウィキの「広瀬旭荘」に拠った)。

 「九桂草堂随筆」(安政二(一八五五)年~同四(一八五七)年成立)は大阪で書かれた。底本は国立国会図書館デジタル化資料の国書刊行会大正七(一九一八)年刊「百家随筆」冒頭にある「九桂草堂随筆」の当該画像(コマ番号80と81)を視認した。私の訓読と合わせながら、一見、人工物のような印象さえ与える特異なホヤ(厳密には乾燥した皮革質部分の一部)の附図も合わせて見て頂きたい〔*注〕。【二〇一四年十月十四日追記】国立国会図書館の二〇一四年五月一日からのサイトポリシー改訂により保護期間満了であることが明示された画像については国立国会図書館への申込が不要となったので、ここに上記当該画像(80・81コマ全部)を掲げるものとする。

Kokkaitosyokan_maboya

〔*注:しかし後に成田亨がウルトラマンで超変り種の四次元怪獣ブルトンを「ホヤ(マボヤ)」から造形設定(製作は高山良策)したように――多くの記載がブルトンの造形をイソギンチャクから発想したとするが、仮に成田の言がそうであっても(事実、彼がそう述べているのを読んだような記憶はある。なお、鼓動のようなブルトンの音は今一つの着想モデルとされる「心臓」に由来するものであろう)これはイソギンチャクではなくホヤ、それもマボヤを着想元とすることは最早、疑いない。円谷関連のブルトンの各種記載はそうした方向で訂正されるべきであると私は強く思っている――のブルトンには四次元繊毛という明らかに人工的な金属機械部分が複数個内部に配されてあったのを懐かしく思い出すのだ。心情的にはこの附図も、私の中では何かそうした怪獣少年へのフィード・バックが自動作用としてかかってしまい、何故か、ひどく懐かしい錯覚がしてくる図なのである。〕]

 

一、房州三田尻に柏吉と云者あり、頗風雅の志を存して漁獵を業とせり、臘月余之を訪ひしに、魚骨瓦石の類室中に充滿せり。主人云、此皆我網にて引上げたる物なり、此内より一物を擇取り玉へと挨拶しける故、一物を取れり、此物形ち圖の如くにして、中は空洞水三升を入るべし、其質石に似て石に非ず、陶器に似て陶器にあらず、蓋し細沙聚りて凝冱し、鐡より剛なるもの、背に一口あり、長さ三寸、徑り一寸、尻に又一口あり、小にして三の一に當らず、而て塞りて通ぜず、外面は蠣殻粘結せり、博物の人是を知るものなし、浪華の田邊守瓶が説に、是はホヤなり、ホヤとは老海鼠の化するところ、海鼠海底に蟄すること數百年、土沙その體に粘して陶器の狀をなす、唯口と尻との二口を以て呼吸を通ず、既にして化して龍の如き物となる、一旦風雷に乘じて其殼を破りて出づ、松前の人是を海鐡砲と名づく、漁舟頗る是を恐る、今まで見しホヤは常に二三寸に過ぎず、此は數十倍、何れ海鼠中の王なるべし、誠に希代の珍物なりと、初め柏吉余に贈りしとき、是は六百尋ほどの海底に手繰網を下して挂りたる物なり、何れ蟲魚の窠殼ならんと云へり、守瓶が説疑ふべしと雖ども、外に説あるものなし、故に記す、

 

□附図について

 画像は底本とした国立国会図書館デジタル化資料国書刊行会大正七(一九一八)年刊「百家随筆」冒頭にある「九桂草堂随筆卷之七」の当該画像(コマ番号80)を参照されたい(転載には手続きが必要なため、今回は見合わせる)。

 底本附図は左右二図からなる。推測するにどうもこれはマボヤ若しくはハルトボヤ(注冒頭の同定を参照)の皮革質部分の乾燥した一部のように思われ、右側が上部の、左側がそれを逆様にしたもののように見える。左の図を見ると、大きな開口部があり、これが本文の「背に一口あり」であるとすれば、これは附着していた仮根を生ずる柄部が欠損して出来た、皮革質の最下部に開いた大きな破損穴であると推察出来る。すると右手の上部中央に突出したものは入水管か出水管ということになるが、これが一本しか記されていないというのはやや不審である。内臓の脱落の際にどちらか一方が皮革部に陥没して塞がってしまい、乾燥の過程で皮革部と判別がつかなくなったものと思われる。そういう推理でこの右の図をもう一度よくみると(当初、一見、何かの金具のようにさえ見えるこれらの雲形の模様を本文にある附着した牡蠣殻と見ていたが)、有意な突出部の右下方に何か独特の模様を持った箇所が見える。この模様は先の有意な突出部の尖端にもわざわざ描いてある。仔細に見るとこの右下方のそれは、上のそれよりも複雑な皺のような感じで描かれているところをみると、実は上部の有意な突起がマイナス形の出水口の塞がった跡であり、この右下方の皮革に埋没した部分に実はプラス形の口を持った入水管が存在したのではないかと思えてくる。この推理は生物学的な配置関係からみても問題がない。右図にはその外、左下方に数箇所、突起様の、また左図にも全体に有意な凹凸をしめす描画がなされているが、これらがホヤの皮革外皮の突起や凹凸を示すものなのか、はたまた附着した牡蠣殻なのかは判然としない(但し、右図の右下最下部の滑らかな複数の襞の膨らみはマボヤの皮革の外観を尤もうまく伝えているように思われる)。