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2013/05/21

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 〈第1パート〉 附やぶちゃん注

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈第1パート〉

同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる。明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮にして、御拜賀あるべしとて、大夫判官行村、奉行を承り、供奉の行列隨兵(ずゐびやう)以下の人數を定めらる、御装束(ごしやうぞく)御車以下の調度は、仙洞より下されける。右大將頼朝卿の御時に隨兵を定められしには、譜代の勇士(ようし)、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人を撰びて、拜賀の供奉を勤させらる。然るにこの度の拜賀は、關東未だ例なき睛(はれ)の儀なりとて、豫てその人を擇(えら)び定めらる。建保七年正月二十七日は、今日良辰(りやうしん)なりとて、將軍家右大臣御拜賀酉刻(とりのこく)と觸れられけり。路次(ろじ)行列の裝(よそほひ)、嚴重なり。先づ居飼(ゐかい)四人、舍人(とねり)四人、一員(ゐん)二行に列(つらな)り、將曹菅野景盛(しやうざうすがのかげもり)、府生狛盛光(ふしやうこまのもりみつ)、中原成能(なかはらのなりより)、束帶して續きたり。次に殿上人(でんじやうびと)北條〔の〕侍従(じじう)能氏、伊豫(いよの)少將實雅、中宮權亮(ごんのすけ)信義以下五人、随身(ずゐしん)各四人を倶す。藤勾當(とうのこいたう)賴隆以下前驅(ぜんく)十八人二行に歩む。次に官人秦兼峰(はたのかねみね)、番長下毛野敦秀(ばんちやうしもつけのあつひで)、次に將軍家檳榔毛(びりやうげ)の御車、車副(くるまそひ)四人、扈從(こしよう)は坊門(ぼうもんの)大納言、次に隨兵十人、皆、甲胄を帶(たい)す。雜色(ざつしき)二十人、檢非違使(けんびゐし)一人、調度懸(てうどかけ)、小舎人童(こどねりのわらは)、看督長(かどのをさ)二人、火長(かちやう)二人、放免(はうべん)五人、次に調度懸佐々木〔の〕五郎左衞門尉義淸、下﨟の隨身(ずいじん)六人、次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人、各々(おのおの)前驅隨身あり。次に受領の大名三十人、路次の隨兵一千騎、花を飾り、色を交へ、辻堅(つじがため)嚴しく、御所より鶴ヶ岡まで、ねり出て赴き給ふ裝(よそほひ)、心も言葉も及ばれず。前代にも例(ためし)なく後代も亦有べからずと、貴賤上下の見物は飽(いや)が上に集りて錐(きり)を立る地もなし。路次の両方込合うて推合(おしあ)ひける所には、若(もし)狼藉もや出來すべきと駈靜(かりしづ)むるに隙(ひま)ぞなき。

〈第一パート〉注
[やぶちゃん注:遂に実朝が暗殺され、源家の正統が遂に滅ぶ。そうしてこれを以って「卷第四」は終わっている。「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年十二月二十日・二十一日・二十六日、同七年一月二十七日・二十八日の条に基づく。

「同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる」という記事は「吾妻鏡」では二十日の政所始の儀式の冒頭にある。

「大夫判官行村」二階堂行村。

「仙洞」後鳥羽上皇。

「右大將頼朝卿の御時」建久元(一一九〇)年十月三日、上洛中の頼朝は右近衛大将を拝賀し、仙洞御所に参向して後白河法皇に拝謁したが、ここはその際の随兵を指す。「吾妻鏡」建久元(一一九〇)年十二月一日の条によれば、例えば前駈の中には異母弟源範頼がおり、頼朝の牛車のSPの一人は八田知家、布衣の侍の中には三浦義澄や工藤祐経らが、扈従に附くのは一条能保と藤原公経、最後の乗馬の儀杖兵七人に至っては北条義時・小山朝政・和田義盛・梶原景時・土肥実平・比企能員・畠山重忠という、鎌倉幕府創生の錚々たるオール・スター・キャストで固められていた。因みにこの時、頼朝は右大将と権大納言に任ぜられたが、二日後の十二月三日に両官を辞している。これは望んだ征夷大将軍でなかったことから両官への執着(幕府自体にとっては実質上何の得にもならない地位であった)が頼朝に全くなかったこと、また両官が朝廷に於ける実際的公事の実務運営上の重要なポストであるために形式上は公事への参加義務が生ずることを回避したためと考えられている。

「譜代の勇士、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人」通常、「三德」の基本は「中庸」で説かれている智・仁・勇であるが、ここは武家に於ける、代々嫡流の君子に仕える家柄の勇者であること、弓馬術の達人であること、容姿端麗であることの三つを指す。中でも「吾妻鏡」建保六(一二一八)年十二月二十六日の条には、わざわざ、

亦雖譜代。於疎其藝者。無警衞之恃。能可有用意云々。

亦、譜代と雖も、其の藝に疎きに於いては、警衞の恃(たの)み無し。能く用意有るべしと云々。

あって、本来の坂東武士にとっての「三德」の内、弓馬の名人であることは必要十分条件であったことが分かる。しかも注意せねばならぬのは、ここで作者は『然るに』という逆接の接続詞を用いている点にある。実は、「吾妻鏡」のこの前の部分には、

兼治定人數之中。小山左衞門尉朝政。結城左衞門尉朝光等。依有服暇。被召山城左衞門尉基行。荻野二郎景員等。爲彼兄弟之替也。

兼ねて治定(ぢじやう)する人數(にんず)の中(うち)、小山左衞門尉朝政・結城左衞門尉朝光等、服暇(ふくか)有るに依つて、山城左衞門尉基行・荻野二郎景員等を召さる。彼(か)の兄弟の替と爲すなり。

という事態が記されているのである。「服暇」とは近親の死による服喪を指す。問題はこの代替要員として指名された二人なのである。増淵氏はここの現代語訳に際し、ここに『しかるに(今回は三徳兼備でない者も入ったが)「このたびの大臣の拝賀は……』とわざわざ附加されておられるのに私は共感するのである。筆者は恐らくまずは「吾妻鏡」のこの二十六日の条の後に続く二件の記載が気になったのである。その冒頭は『而』で始まるが(以下の引用参照)、これは順接にも逆接にも読めるものの、私は逆接以外にはありえないと思うのである。何故なら、この後に書かれるこの二人の代替対象者についての解説には、実は微妙に「三德」を満たさない内容が含まれているからなのである。一人目の荻野影員というのは、実は父が梶原景時の次男梶原景高なのである。

而景員者去正治二年正月。父梶原平次左衞門尉景高於駿河國高橋邊自殺之後。頗雖爲失時之士。相兼件等德之故。被召出之。非面目乎。

而るに、景員は、去ぬる正治二年正月、父梶原平次左衞門尉景高、駿河國高橋邊に於いて自殺するの後、頗る時を失ふの士たりと雖も、件等(くだんら)の德を相ひ兼ぬるの故、之を召し出ださる。面目に非ずや。

ここで「件等の德を相ひ兼ぬる」とするが、そうだろうか? 弓馬と容姿は優れていたに違いない。梶原景時は確かにかつての「譜代の勇士」ではあった。しかし、その後にその狡猾さが祟って謀叛人として(というより彼を嫌った大多数の御家人の一種のプロパガンダによって)滅ぼされた。だからこそ景員はその梶原一族の血を引くという一点から全く日の目を見ることがなかった。とすれば彼には源家嫡流に対する遺恨さえもあって当然と言える。されば、この時点では彼は第一条件である嫡流君子の代々の忠臣という「譜代の勇士」足り得ない。

二人目は二階堂基行である。彼は、

次基行者。雖非武士。父行村已居廷尉職之上。容顏美麗兮達弓箭。又依爲當時近習。内々企所望云。乍列將軍家御家人。偏被定號於文士之間。並于武者之日。於時有可逢恥辱之事等。此御拜賀者。關東無雙晴儀。殆可謂千載一遇歟。今度被加隨兵者。子孫永相續武名之條。本懷至極也云々。仍恩許。不及異儀云々。

次に基行は、武士に非ずと雖も、父行村、已に廷尉の職に居るの上、容顏美麗にして弓箭にも達す。又、當時の近習たるに依つて、内々に所望を企てて云はく、

「將軍家の御家人に列し乍ら、偏へに號(な)を文士に定めらるるの間、武者に並ぶの日、時に於いて恥辱に逢ふべきの事等(など)有り。此の御拜賀は、關東無雙の晴の儀、殆んど千載一遇と謂ひつべきか。今度(このたび)の隨兵に加へらるれば、子孫永く武名のを相續せんの條、本懷至極なり」

と云々。仍て恩許、異儀に及ばずと云々。

とあるのである。彼二階堂基行(建久九(一一九八)年~仁治元(一二四〇)年)は代々が幕府実務官僚で評定衆あった二階堂行村の子である。父行村は右筆の家柄であったが京都で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍した人物であり、また祖父で二階堂氏の始祖行政は、藤原南家乙麿流で、父は藤原行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司藤原季範の妹である(その関係から源頼朝に登用されたと考えられている)。無論、基行も評定衆となり、実質的にも実朝側近の地位にあったことがこの叙述からも分かる。当時満二十歳。武家の出自でないが故に、今まで色々な場面で何かと屈辱を味わってきたのを、この式典を千載一遇のチャンスとして武家連中の若侍等と対等に轡を並べて、必ずや、子孫に二階堂家を武門の家柄として継承させん、という強い野心を持って実朝に直願して、まんまと許諾を得たというのは、これ、「三德」の純粋にして直(なお)き「譜代の勇士」とは到底言えぬと私は思うのである。……そうして民俗学的には、土壇場の服喪の物忌みによる二名もの変更(兄弟であるから仕方がないとしても二名の欠員はすこぶるよろしくない。これはまさに以前の「吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる」でも実朝自身が口をすっぱくして言った問題ではないか)や、「三德」の中に遺恨や実利的な野望を孕ませた「ケガレ」た者が参入する、これ自体がハレの場を穢して、実朝を死へと誘う邪悪な気を呼び込むことになったのだとも、私は読むのである。

実際、彼ら二人は目出度く、右大臣拝賀の式当日の実朝の牛車の直後の後方の随兵に以下のように名を連ねている(「吾妻鏡」建保七年一月二十七日の条より)。

  次隨兵〔二行。〕

 小笠原次郎長淸〔甲小櫻威〕   武田五郎信光〔甲黑糸威〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲萌黄威〕  隱岐左衞門尉基行〔甲紅〕

 大須賀太郎道信〔甲藤威〕    式部大夫泰時〔甲小櫻〕

 秋田城介景盛〔甲黒糸威〕    三浦小太郎時村〔甲萌黄〕

 河越次郎重時〔甲紅〕      荻野次郎景員〔甲藤威〕

   各冑持一人。張替持一人。傍路前行。但景盛不令持張替。

  次に隨兵〔二行。〕。

 小笠原次郎長淸〔甲(よろひ)、小櫻威(おどし)。〕   武田五郎信光〔甲、黑糸威。〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲、萌黄威。〕  隱岐左衞門尉基行〔甲、紅。〕

 大須賀太郎道信〔甲、藤威。〕    式部大夫泰時〔甲、小櫻。〕

 秋田城介景盛〔甲、黑糸威。〕    三浦小太郎時村〔甲、萌黄。〕

 河越次郎重時〔甲、紅。〕      荻野次郎景員〔甲、藤威。〕

   各々冑持(かぶともち)一人、張替持(はりかへもち)一人、傍路に前行(せんかう)す。但し、景盛は張替を持たしめず。

この「冑持」は兜を持つ者(これによってこの式典の行列では兜を外して参加することが分かる)、「張替」は弓弦が切れた際の予備の弓持ちであろう(景盛が張替持を附けていないのには何か意味があるものと思われるが分からぬ。識者の御教授を乞う)。

「良辰」吉日。「辰」は「時」の意。古くは「良辰好景」「良辰美景」とも言った。

「居飼」牛馬の世話を担当する雑人。

「舎人」牛車の牛飼いや乗馬の口取りを担当した雑人。四

「將曹菅野景盛」近衛府の主典(さかん)。普通は「しやうさう」と濁らない。

「府生」六衛府(りくえふ)・や検非違使庁などの下級職員。「ふせい」「ふそう」とも。

「狛盛光」建久四(一一九三)年頃に八幡宮の楽所の役人に任ぜられていることが鶴岡八幡宮公式サイトの宝物の記載に見える。

「勾當」「勾当内侍(こうとうのないし)」。掌侍(ないしのじょう)四人の内の第一位の者で天皇への奏請の取次及び勅旨の伝達を司る。

「前驅」古くは「せんぐ」「ぜんぐ」とも読んだ。行列などの前方を騎馬で進んで先導する役。先乗り。先払い。先

「秦兼峰」「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には、秦兼村の名でかの公氏と並んで載る。

「番長下毛野敦秀」「番長」は諸衛府の下級幹部職員のことを指す。上﨟の随身である。やはり「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には下毛野敦光及び同敦氏という名が載る。

「檳榔毛の御車」通常は「檳榔毛」は「びらうげ(びろうげ)」と読む。牛車の一種で白く晒した檳榔樹(びんろうじゅ)の葉を細かく裂いて車の屋形を覆ったものを指す。上皇・親王・大臣以下、四位以上の者及び女官・高僧などが乗用した。

「扈從」朝廷からの勅書に随行してきた公卿の筆頭の意で述べているようだが、以下の「殿上人」とダブるのでここに示すのはおかしい。

「坊門大納言」坊門忠信(承元元(一一八七)年~?)。建永二(一二〇七)年に参議、建保六(一二一八)年に権大納言。後鳥羽天皇及び順徳天皇の寵臣として仕えた。妹の信子が実朝の妻であるから実朝は義弟に当たる。因みに、この後にある「隨兵」が先の注で示した十人の武者となる。

「調度懸」武家で外出の際に弓矢を持って供をした役。調度持ち。

「小舎人童」本来は近衛中将・少将が召し使った少年を指すが、後、公家・武家に仕えて雑用をつとめた少年をいう。

「看督長」検非違使庁の下級職員。役所に付属する獄舎を守衛したり、犯人追捕の指揮に当たった。かどのおさし。

「火長」検非違使配下の属官。衛門府の衛士(えじ)から選抜され、囚人の護送・宮中の清掃・厩の守備などに従事した。彼等は課役を免除されており、身分としては低い役職ながら、宮中への出仕であることから一定の権威を有した。

「放免」「ほうめん」とも。検非違使庁に使われた下部(しもべ)。元は釈放された囚人で、罪人の探索・護送・拷問・獄守などの雑務に従事したが、先の火長よりも遙かに下級の官吏である。

「次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人」建保七年一月二十七日には、

  次公卿

 新大納言忠信〔前駈五人〕    左衞門督實氏〔子随身四人〕

 宰相中將國道〔子随身四人〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各乘車〕

  次に公卿。

 新大納言忠信〔前駈五人。〕    左衞門督實氏〔子、随身四人。〕

 宰相中將國道〔子、随身四人。〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各々乘車。〕

「子」というのは、殿上人に従う者、という意味であろうか。ここの先頭を行くのが先に出た坊門忠信である。]

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