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2013/05/26

大橋左狂「現在の鎌倉」 1

大橋左狂「現在の鎌倉」

 

[やぶちゃん注:本作は明治の末年明治四五(一九一二)年七月十五日に鎌倉町小町の通友社から発行されたもので、作者は『鎌倉二の鳥居のほとりに』(自序末より)住んでいたと思われる左狂大橋良平なる人物によって書かれた、統計数値を各所に示した本格的な近代鎌倉の案内書である。但し、作者及び発行所についての詳細は不明である。

 底本(上記の書誌も含む)は、吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」(児玉幸多氏編)に載る同部分(同書は但し、以下に示す目次の内、残念ながら別荘・学校・営業の部分は省略されているので、正確には標題は『大橋左狂「現在の鎌倉」より』とすべきであるが、ブログ公開では煩瑣なので、かくした)を用いたが、私のポリシーに則り、恣意的に正字化した。但し、字配の空きなどは原則、無視した。踊り字「〱」は正字化し、傍点「ヽ」は太字で示した。また、ブログ公開版ではブラウザ表示の関係上、文字の段組の一部を変更した(それはその都度、当該箇所で断ってある)。一部に私の注を附した。なお、解説によれば、原本の振り仮名は一部を残すにとどめ、句読点を若干加えたともあり、親本は澤壽郎氏所蔵本、村田書店一九七七年刊行の『珍籍鎌倉文庫』の一冊として収められているとあるので(私は所持しない)、完本を読まれたい方はそちらを捜されたい。

 私が本作を電子化したい欲求は一に、耽溺する夏目漱石の「こゝろ」の冒頭に於いて「私」と「先生」が出会う鎌倉の実景を細部までくっきりとさせたいからに他ならない(リンク先は私の初出テクスト「心」)。私は二人の鎌倉海岸(材木座海岸)での出逢いを、本書が刊行される四年前の明治四一(一九〇八)年の七月下旬か八月に同定しているからである(私の「こゝろ」の論考「こゝろマニアックス」の最後の年表を参照されたい)。目次を例にとってみても『最近三ヶ年の戸數人口』『避暑の三ヶ年統計、水浴場案内』とあり、本作の叙述はまさに限りなく明治四一年に近いのである。私たちはこの大橋氏の行間に(目次だけしか読めない「營業一覽」の中にさえ)、二人が運命的に出逢った当時の鎌倉の活況をリアル・タイムの映像で見出すことが出来るのだと考えているのである。【作業開始:2013年5月26日】]

 

現在の鎌倉   大橋左狂

 

    目次

[やぶちゃん注:小項目の一部を改行して示した。]

 

鎌倉の地理

  位置、地勢、面積、風俗、産物、名物、

戸數人口

  気候、最近三ヶ年の戸數人口、現在の各字別戸數人口、

花の鎌倉

  鎌倉の花は隱君子的である、東都の花と鎌倉の花、

  各所の櫻、各所の桃

夏の鎌倉

  避暑地としての鎌倉、鎌倉は日本の代表的公園、

  鎌倉唯一の財源は夏期にあり、鎌倉商家の覚醒、

  避暑の三ヶ年統計、水浴場案内

想出多き秋の鎌倉

  鎌倉の長所は秋にあり、古戰場案内

國寶に充たされた錬倉

  鶴ケ岡八幡の國寶、建長寺の國寶、圓賞寺の國寶、

  淨智寺の國寶、子育闇魔堂、明月院、束慶寺、杉本寺、

  光觸寺、光明寺、廣德寺、極樂寺、淸淨光寺等

[やぶちゃん注:「廣德寺」は鎌倉大仏高徳院(正式には大異山高徳院清浄泉寺)の誤表記(本文も誤っている)である。「淸淨光寺」は鎌倉外の藤沢にある時宗総本山遊行寺のこと(正式には藤沢山無量光院清浄光寺)。以下の「名所古跡」に示されたように、記載範囲は鎌倉周縁域まで延びている。]

鎌倉の交通機關

  江の島電車は何時頃より出來たか、

  同社の沿革、同社の營業振り、

  鎌倉人力車は如何に活動しつつあるか

現在の貸家貸間料

  鎌倉の貸家數、貸間の戸數は何程あるか、

  貸家貸間料の標準調

名所古跡

  鎌倉、腰越、片瀨、江の島、鵠沼、藤澤、逗子、葉山

別莊一覽

   皇族、華族、文武官、銀行會社員、其他

[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、本文のこれより以下は底本では省略されているため、私もテクスト化出来ないが、黒部五郎氏のサイト「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の「明治末の別荘」に、本書のこの「別莊一覽」を参考にしつつ、更に他の資料をも駆使なさって製作された「明治末の鵠沼海岸別荘地の土地取得者・関係者」一覧表がある。本書の記載内容を想像するよすがとなろう。]

學校一覽

   學校、幼稚園

營業一覽

[やぶちゃん注:以下は底本では八段組となっているが、三段組に変えた。]

銀行會社    醫師      齒科醫

藥劑師     産婆      料理店

旅館      藝者家     温泉

待合所     米穀商     荒物商

酒類商     家具一式    菓子商

靑物乾物商   獸鳥肉販賣   牛乳搾取

魚商      蕎麥屋     運送業

藥種業     石炭商     佛塗師

賣藥化粧品   表具師     雜誌書籍業

呉服太物店   蒲鉾製造業   ラムネ製造業

和服裁縫    洋服仕立    小間物雜貨商

鎌倉彫     印刻業     印刷業

履物商     傘製造     時計店

石材商     金物商     陶器商

材木商     提燈張商    竹材商

篩製造業    綿製造業    骨董商

建具指物職   ペンキ塗職   寫眞業

桶職      疊職      硝子商

代書業     錺職      土木請負

染物職     足袋商     金錢貸附業

質商      西洋洗濯    靴製造

 

     鎌倉の地理

 

 鎌倉は相模國鎌倉郡の南端に位して、東は淺間、名越、辨ケ谷、丸山等の諸山を負ふて武州の久良岐、及三浦の田越に隣り、北西は太平、鷲峯、天臺等の山嶽を略して本郡の本郷、小坂、深澤、腰越の諸村に接して居る。南の一面は蒼茫たる相模灘に臨んで遙かに豆州の大島と相對して居る。東西二里一丁南北一里四丁餘ある。周圍は六里二十五丁餘、面積一方里半あつて南に弓形の由比ケ濱を嚙んで居るので、恰も節句の菱餠の形をして居る。地勢東北西に高くして漸次南に低下して居る。往昔靑砥左衞門藤綱扮撈錢(らうせん)の舊跡として名高い滑川は、東北より流れて鎌倉町の中央部を貫通して由井ケ濱に灌いで居る。西部には稻瀨川と云ふ小流がある。此川も滑川と同樣由比ケ濱に注いで居る。地味とて別段豐饒の方でない。が東北即ち名越、淨明寺及山の内に近き土地は米麥木綿等に適して居る。西南に下りて海に近(ちかづ)くに從つて砂地となるので甘薯、西瓜、蔬菜等が漸く作られてある。

[やぶちゃん注:「淺間」これは現在の横須賀線が潜る名越切通のある名越山の北東、「かまくら幼稚園」の南西の二〇〇メートルの所のピークの古称である。

「撈錢」の「撈」は「掬(すく)う」の意で、滑川に落ちた銭十文を銭五十文で松明を買い求めて川底から掬った例の故事をいう。]

 由來鎌倉は農業者尤も多く次は漁業者、商工の順位であつたのである。然るに年一年と別莊の新築多く殊に避暑避寒客が年々歳々其數を増加するので、專門の農業者も資産ある商工家も悉く貸別莊貸間等を設けて、避暑避寒客を見込んで相當利益を計つて居る。一方避暑避寒客もこれが爲め非常に便利に感ずるのである。鎌倉の産物として南沿海に荒布、和布(わかめ)、海藻、蛸、黑鯛、甘鯛、鮪、鰺、海老、海豚、烏賊、飽等の漁りがある。農産物としての大麥、小麥、蕎麥、米、豆類等は多く隣村からの産出である。

 又鎌倉名物としては中々に數多いのであるが、其内にも「おみやげ」品に適する重なるものは、八幡前に鎌倉彫、武者煎餠、同二の鳥居前豐島屋菓舖には元祖古代煎餠鎌倉時代の瓦煎餠、大佛煎餠、勝栗羊羹、新案鳩袋鳩ポツポ等奇拔の名物がある。殊に此鳩ポツポ菓子は八幡の神鳩其儘の原形にて腹中より豐の福德を顯はす同舖獨特の趣味菓なるより鎌倉土産として坊ちやん孃さん方の愛玩は一通りでない。由井ケ濱下馬には常盤屋の磯羊羹、長谷に至りては大佛前通りの鎌倉燒女夫饅頭等がある。長谷電車停留場附近にも各茶屋に大佛胎内調べと云奇拔の菓子や武者煎餠がある。坂の下權五郎神社前には、權五郎力餠がある。片瀨には片瀬饅頭、江の島には飽粕漬、もづく、榮螺子(さゞえ)、蛤、黄金飴、埋木貝細工等がある。此貝細工、黄金飴は特に鎌倉名物と稱されて江の島のみではない、八幡前は勿論長谷通り、片瀬江の島通に至る迄各所に陳列販賣して居る。

[やぶちゃん注:「新案鳩袋鳩ポツポ」ウィキ鳩サブレ―」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『鳩サブレーは、豊島屋の初代店主が店に来た外国人からもらったビスケットが原点である。フレッシュバターをふんだんに使用した製品だが、開発を始めた当時はバターが使われていることが分からず、それを見つけるまで大変苦労をしたという。 ビスケットとの違いを出し、日本人に馴染みやすい味にするため、スパイスやフレーバーは使用していない。 鳩の形となったのは、初代店主が鶴岡八幡宮を崇敬しており、本宮の掲額の八が鳩の向き合わせであることと、宮鳩が多数いるところから着想を得たためと言われている。なお、開発当初は鳩の尻びれは二本であったが、尻尾が太く見えるという理由で三本になった。現在、本店二階にあるギャラリー「鳩巣」に尾びれが二本の型が展示されている』。『鳩サブレーは明治時代末期の発売当初には「鳩三郎」とも呼ばれていた。これは、この菓子を開発した初代店主が最初に「サブレー」と言う耳慣れない単語を聞いた時に「サブレー」=「三郎」と連想したためである。また、当時は一般的にも「サブレー」という外来語よりも「鳩三郎」の方が馴染みがあり、通りがよかったという。 現在でも鳩サブレーのマスコットグッズの中には「鳩三郎」の名称を付けられたものがある。 ただし、「鳩三郎」はあくまでも初代が付けた愛称であり、正式な商品名は当初より「鳩サブレー」である』とあるから、この大橋氏の「鳩袋鳩ポツポ」というのは勝手な呼称のようだが、誕生とその後のエピソードを詳しく綴った豊島屋公式サイトの鳩サブレー 鎌倉生鎌倉育によれば、『初代は意気揚々とこの新作を焼き続け店に並べたものの、明治末の頃のことでございます「バタ臭い!」と云われ、売れる筈もございませんでした』とある、更には『そこで、ご近所の皆様、知己にお配りしたようです。皆様から「ご馳定さま、美味しかったヨ」勿論お世辞でございましょうが、これが初代には励みとなり、一層に頑張ったようでした』が、『或る時初代のツレアイがご近所に伺った折、裏庭で鳩サブレーが犬の餌になっていたのを見たそうでございますが、初代の鳩サブレーに対する情熱を思うと、伝え難く、数年の間ないしょにしていたとのことでした。今日でこそ私達はチーズ、バターなどにはなじんでいますが、明治の頃のことです、全く異質の味であったのでしょう』とあって、やっと『十年程経てから、ようやく少しずつ知られるようになって参りました。大正に入り秋場隆一、竹内薫兵両小児医博より(離乳期の幼児食に最適である)とご推せんを頂いてより逐次、ご贔屓筋も増え、御用邸各宮家よりもご用命を受けるようになったのでございます』とあるのと、この大橋氏の叙述を比べると、この絶大なる褒め言葉は「鳩袋鳩ポツポ」、いやさ、鳩サブレーのヒットに、多大な貢献した解説であったと言えはしまいか? 推測であるが、事実は豊島屋公式サイトの記載でさえそれほど人気土産であったようには書かれていないところをみると、「殊に此鳩ポツポ菓子は八幡の神鳩其儘の原形にて腹中より豐の福德を顯はす同舖獨特の趣味菓なるより鎌倉土産として坊ちやん孃さん方の愛玩は一通りでない」という評言コピー――これは一種のタイアップ広告のようにさえ見えて来はしまいか? 実に面白いではないか。

「常盤屋の磯羊羹」店自体が既に現存しない模様である。

「大佛胎内調べ」この菓子の様態には非常に興味がある。識者の御教授を乞うものである。

「片瀨饅頭」片瀬龍口門前(藤沢市片瀬海岸)にある創業天保元(一八二八)年の和菓子屋「上州屋」の「片瀬まんじゅう」。田山花袋「一日行楽」の「島」に既注済。

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