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2013/05/31

大橋左狂「現在の鎌倉」 6 秋の鎌倉

     想思出(おもひで)多き秋の鎌倉

 「行く秋やさてさて人を泣かせたり」、「もの言へば唇寒し秋の風」などゝ、古人が詠んだ通りに、兎角秋は悲哀のものである。殊に疎雨蕭々として四隣寂(せき)たるの時、微かに椽下に切れ切れの蟲聲を耳にするの夜半に至りては、眞に愁(うれひ)を起し此秋獨り吾身に迫るなるかなと幾多の感想に打たるゝのである。然れども雲收まりて月明かの夕、波穩かなる海邊に逍遙せんか、微風波を起して金龍走るの絶景言わん方ないのである。秋は詩的である。高潔である。悲哀的である。又浩然の氣を養ふべき好期である。此時鎌倉に杖を曳く者は如何に多くの追想に驅らるゝのであらうか。秋の鎌倉は實に思出多き鎌倉である。

[やぶちゃん注:見出しの「想思出」はママ。冒頭二句の太字は底本では傍点「ヽ」。

「行く秋やさてさて人を泣かせたり」は、蕉門十哲の一人越智越人の句と思われるが、ネット検索で掛かるものでは「行く秋のさてさて人を泣かせたり」と初句のてにをはが異なる。]

 長空一碧秋天拭ふが如きの時一度び杖を鎌倉に曳き、往時の舊蹟古趾を探るものこそ眞の鎌倉を知る人である。

 鎌倉停車場に下車して鶴ケ岡八幡に歩を進め二の鳥居前を右折し、それより左折日蓮上人辻説法の趾を過ぎて二丁餘進めば玆處(ここ)は往時北條義時以後執權の屋敷跡である。今は寶戒寺境内となつて居る。寺内に入りて滑川を捗れば富士に似たる小山がある。其右に連れる山が屏風山と云ふのである。此富士に似たる山は小富士山と稱してある。此邊は往昔右府賴朝公の邸の庭前になつて居たので政子の請に依り此山にて富士の牧狩りの再演をしたと云ふ事である。又寶戒寺の南隣は土佐坊昌俊の屋敷趾であるのだ。又小富士山の南屏風山の稍々凹み居る谷合がある。之れ即ち葛西ケ谷にして俗に腹切坂と云ひ、元弘三年五月新田義貞が北條高時を攻めんとて稻村ケ崎に金裝の刀を投じて、潮を退け鎌倉に攻め入つた時、北條一族が此やぐらの内にて切腹した舊跡で、今や蟲の音淸く露荒れて幽魂を吊ふ客もなきこそ哀なれ。それより雪の下大倉に至れば師範學校の東方に畑地がある。治承四年十二月右府賴朝玆に居住せしより賴家、實朝、賴經等四代の將軍の邸趾である。

[やぶちゃん注:「日蓮上人辻説法の趾」これは当時としては極めて新しい史跡であったことを確認しておきたい。「花の鎌倉」で注した如く扇ヶ谷亀ヶ谷坂に別荘を構えていた田中智学は、日蓮腰掛石と称するものが小町大路(現在の「小町通り」ではなく、若宮大路を隔てた「小町通り」の対称位置にある大路の正式古名)の路傍に捨て置かれているのを見るに忍びず(この石は同大路にあった日蓮宗妙勝寺の門前にあったが同寺が福島県に移転して以後、放置されていた)、これを日蓮宗布教の布石ともせんと旧跡地の同定を行い、結果としては現在の蛭子神社から正覚寺夷堂附近と推測された。但し、その辺りには碑跡を建立する余地がなかったため、現在地に明治三四(一九〇一)年(本書の出る十一年前)に腰掛石を安置して顕彰したものである。無論、実際には日蓮の辻説法地は固定していたわけではないが、当時、町屋が多くあって賑わい、商業地域としても発展していた小町大路を布教活動の要衝としたことは事実と考えてよく、それもあってか、この大路周辺には日蓮宗寺院が現在も密集している。

「牧狩り」は厳密には「卷狩り」が正しい。

「腹切坂」これは現在ではあまり聞かれない呼称で興味深い。]

 鶴ケ岡八幡の左り建長寺に至る街道に漸次上り坂となる。巨福坂(こふくざか)及び其左りの假粧(けはい)坂はこれで、正平六年新田義興・脇谷義治鎌倉に攻め入らんとしたる新田・足利の攻守趾である。如何に多くの將士が白骨となつて埋もれ居るかと思へば凄然たらざるを得ない。また、扇ケ谷壽福寺境内に入りて彼の末松謙澄子別莊の附近は永承年間より源賴義・義家等の邸があつたのである。更に雪の下八幡前を由比ケ濱に進む。一の鳥居附近は由比ケ濱沿岸に渉り建曆年間和田氏と北條氏とが血戰した古戰場である。

[やぶちゃん注:「巨福坂(こふくざか)」表記ルビともにママ。

「正平六年新田義興・脇谷義治鎌倉に攻め入らんとした」これは正平七(一三五二)年の誤り。同年閏二月に足利幕府と南朝の講和が破れ、新田義貞の三男義宗とその次兄義興及び義貞の甥脇屋義治が後醍醐天皇皇子宗良親王を奉じ、さらに北条高時次男時行も加えて上野(こうずけ)で南朝軍として挙兵、同十八日に鎌倉を攻略し、足利尊氏を一時、武蔵国狩野川(現在の横浜市)へ敗走させた際のことを指している(但し、じきに巻き返した尊氏は一ヶ月後の同年三月十二日は鎌倉を奪還している)。

「末松謙澄子」末松謙澄(すえまつけんちょう 安政二(一八五五)年~大正九(一九二〇)年)子爵。衆議院議員・逓信大臣・内務大臣などを歴任。帝国学士院会員。]

 極樂寺坂に到れば玆處は新田義貞の家臣大館又次郎宗民主從が北條氏と血戰して討死した凄慘の舊趾である。今尚ほ此邊を發掘すれば五輪塔や多くの白骨古錢等が續々として掘り出されるのである。之れより南すれば元弘三年新田義貞北條氏を攻めんとし此地に入りたるも、陸は要塞峻嚴にして入るを得ず海神に祈り金裝の刀を投じて、干潮を見たるより大擧一陣府中に火を放ちて攻め入り遂に高時を逐ふて滅亡の偉勳を奏した古戰場の稻村ケ崎に出るのである。七里ケ濱は寶德三年四月の交足利成氏上杉憲定と大戰した古戰場である。幾多寶刀は折れて砂底に埋められ、白骨又黄土と化して乙女摘むすみれと化せしが、今尚海濱砂中より時々刀劍の折れを發見するのである。

[やぶちゃん注:どうも作者大橋氏は記年の誤りが多い。「寶德三年四月の交足利成氏上杉憲定と大戰した」の「交」は何と読んでいるのか分からないが(これ、もしかするとかつてあった地図記号の「古戦場」の類か?)、これは宝徳二(一四五〇)年四月の江の島合戦の誤りである。これは山内上杉家家宰長尾景仲及び景仲の婿扇谷上杉家家宰太田資清が成氏を襲撃、成氏は鎌倉から江の島に避難してことなきを得るという内紛であるが、その間、腰越から由比の浦(七里ヶ浜と由比ヶ浜)に於いて烈しい交戦が行われた。]

 七里ケ濱を過ぎて腰越に至れば滿福寺がある。源義經の鎌倉に入らんとするや右府賴朝の怒に觸れて入る事を許されなかつたのだ。即ち義經が此地に滯在して辨慶に草さした陳情書の腰越狀が此寺に保存してある。當時義經の心中や如何に多くの感慨に打たれたであらうか。兎に角鎌倉は到る處因緣の舊趾に充たされて居る。

  押立てゝ早や散る笹の色紙かな      鳴 雪

[やぶちゃん注:内藤鳴雪(弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)。当時、鳴雪はまだ存命していた点、筆者の「左狂」という筆名、越智越人の引用句がそれほど知られた句でない点、ここで特異的に発句・俳句を引用し、傍点まで施していることなどを考えると、この大橋左狂という人物、相当に俳句を好んだ人物と考えてよかろう。]

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