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2013/05/06

杉田の梅花 田山花袋

 杉田の梅花   田山花袋

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像(コマ番号233)を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字に直した。]

 

 杉田の梅花

 

 東京の近郊に、梅の名所は澤山ある。近くでは、蒲田(かばた)、池上、久地(くぢ)、向島、遠くては、吉野、起生(おごせ)その他(た)にも澤山にあるであらう。しかし、多くは野か山だ。海に近い梅林では、今でも矢張(やはり)杉田に指を屈しなければならない。

 こゝは、德川時代にもかなり江戸から行つて遊んだ所である。佐藤一齋の紀行文などは殊に著名である。私も最初、漢學者の兄につれられて行つた。汽車にも乘らず、東海道をずつと歩いて行つて、歸つて來てから、漢文や漢詩を作らせられた。

 しかし、別にさう大(たい)してすぐれて好(よ)いところとも思はない。海も平凡だし、梅のある寺も平凡だ。

 そこに行くには、横濱まで行つて、それから電車で、西の橋まで行く。こゝから橋を渡つて右に川に添つて中村から屏風が浦に行く。このあたりは海の眺めがやゝ好い。

 これを過ぎて、大きなトンネルを越えると、杉田の梅のあるところは、もうすぐだ。漁村らしい感じと、藻の匂ひと、靜かに打寄(うちよ)ずる波と、日にかゞやく海と、何處となく氣が暢々(のびのび)する。

 梅は妙法寺といふ寺の境内から山畠(やまはた)にかけて一面に植ゑられてある。後(うしろ)は小高い丘になつてゐて、そこから見下(みおろ)すと、梅花を下(した)に、向うに海が一目(め)に見えて好い。佐藤一齋時代には、古木も多く、珠簾梅(しゆれんばい)などゝいふのは、中でも、有名であつたが、今は唯(ただ)その朽ちた株のあとを留めてゐるばかりである。料理屋、茶店などもあるから、靜かに一酌を催して來(く)ることも出來る。

 こゝからは、上總(かずさ)の山がかなりにはつきりと見渡される。正面に向つたのは、鹿野山(かのうさん)あたりである。海は何方(どちら)かと言へば極めて明るい鮮やかな海である。

 金澤の方(はう)に行つても好い。また引返して、本牧(ほんもく)の十二天社あたりに遊んで見るのも好い。この本牧の徙崖(しがい)は、東京灣を航行して來ると、赤ちやけたかなりに長い絶壁で、外國人は、これをミズシツピーベイと呼んでゐる。

 横濱では、棧橋附近、公園、野毛山(のげやま)などに登つて見ても興味が多い。

 

[やぶちゃん注:杉田梅林は現在、横浜市磯子区杉田の梅林小学校近くの高台に広さ二七〇〇平方メートルの「杉田梅林ふれあい公園」として名を残すが、そこには僅かに八本の梅が植えられているに過ぎない(以上は磯子区公式サイトの記載を参考にした)。私はかつての同僚女性の御尊父がこのかつての杉田梅林の梅を自ら復元され、その実で梅酒を造られたのを少し分けて戴いたことがあった。私は、そのえも言われぬ芳醇な香りと味を、十年近く経った今も忘れることが出来ない。

「久地」は現在の神奈川県川崎市高津区久地。ウィキの「久地」によれば、同地を流れる『新平瀬川が流れる先は、かつては久地梅林(くじばいりん)と呼ばれる花の名所であり、往時は稲田堤の桜とともに花見の名所として親しまれていたという』。『徳川吉宗が治世した享保年間に、久地村の庄屋の川辺森右衛門は幕府に梅樹種の改良を命じられ、屋敷の内外に梅の木数百本を植えたのが、久地梅林の始まりである。』この梅林は私有地であるが、昭和二(一九二七)年『に開通した南武鉄道が「久地梅林駅」(現在の久地駅)と称し、玉川電車も沿線観光絵はがきなどで宣伝したことで、一層有名になった』。『しかし戦争中の食糧増産、戦後の近代化に伴う工場進出や宅地化に伴い、梅林は次第に削られ、現在は限られた私有地敷地内に極わずかに残るのみになっている。付近のバス停や交差点名に「梅林」の名が現在も残る。近年になって新平瀬川沿いに川崎市が「久地梅林公園」を設置し、その中に新たに梅の木を植え』、『往時の面影を今後に伝えるための準備をしている』とある。

「吉野」現在の東京都青梅市にある梅園吉野梅郷。関東地方でも有数の観梅の名所。現在、凡そ二万五千本の梅が植えられており、同地区一帯には青梅市梅の公園の他にも個人の梅園が多く点在する(ウィキの「吉野梅郷」に拠る)。

「越生」現在の埼玉県入間郡越生町にある梅林。

「佐藤一齋」(安永元(一七七二)年~安政六(一八五九)年)は美濃国岩村藩出身の著名な儒学者で昌平黌の儒官(総長)となり、広く崇められた。門下生三千人と言われ、佐久間象山や渡辺崋山らは彼の弟子である。本文から見ると彼はこの杉田梅林をことに好んで訪れたものと見受けられる。

「漢學者の兄」次男であった田山花袋の六歳年上の長兄は「大日本地震資料」「大日本古文書」等の編纂に関わった田山實(みのる)。本名は実彌登(みやと)。田山花袋(明治四(一八七二)年~昭和五(一九三〇)年)は栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)出身であるが、田山家は代々秋元藩士であった。花袋は十二歳の時に旧藩儒吉田陋軒の漢学塾休々塾(この兄が二十一歳で塾頭となった)に入って漢詩文を学び、十四歳の時には漢詩集を編み、桂園派の和歌や西洋文学にも親しんでいる。その後、兄に従って上京、明治二三(一八九〇)年に柳田國男を知り、翌年、尾崎紅葉に入門、その指示によって江見水蔭の指導を受け、同年に「瓜畑」(古桐軒主人名義)を初めて発表、その翌明治二五(一八九二)年から花袋と号している。この兄は花袋の「生」の鐐、「時は過ぎゆく」の實のモデルである(以上はウィキの「田山花袋」に拠る)。高校の付け焼刃授業で、花袋をただのロリコン中年小説家とばかり思っていると、痛い目に合うことは請け合いである。

「妙法寺」先に示した「杉田梅林ふれあい公園」の二五〇メートル程北にある。江戸時代から梅の名所として広く知られていた杉田梅林の中心として観梅客で賑わった寺で、この梅林の生みの親である間宮信繁の菩提寺。早春には境内にある名木照水梅(しだれ梅)をはじめとする五十本余りの梅の木が咲き、今も訪れる人々を楽しませている(以上は磯子区公サイトの記載に拠った)。

「鹿野山」「かのさん」とも。千葉県君津市にある房総丘陵の一角を成す千葉県で三番目に高い山で上総地方では最高峰。標高は最も高い白鳥峰(東峰)で三七九メートル(ウィキ鹿野山に拠った)。

「徙崖」「徙」は、移る、渡る、過ぎるなど意であるが、どうもここは後退する海食崖という意味で用いているように思われる。

「外國人は、これをミズシツピーベイと呼んでゐる」現在の杉田から磯子・根岸の湾岸線はかつては切り立った断崖の連続であった。嘉永六(一八五三)年にペリー艦隊が来航してこの沖を通過した際、ミシシッピー出身の船員たちが故郷を思い出し、「ミシシッピ・ベイ」と名附けた。現在の本牧にある三溪園の松風閣(海側の見晴台)の下の切岸や間門から根岸駅方向への海食崖にその面影が残る。懐かしい。八年前、糖尿病克服の運動療法のために毎日通勤の途次、私は、あの根岸の、あの崖を、嬉々として上り下りしていたものだった。


【二〇一三年五月六日 22:46 追記】:ブログで公開した直後に、これを読んだ私の古い教え子から以下の消息を頂戴した。
   《引用開始》
(前略)僕の記憶を強く喚起する文章です。ある種の、私の中にある追憶の持つ淋しさを埋め合わせて、まだ余りある懐かしい記述でした。特に千代本、九覧亭など、この四月に私自身の足で約四十年ぶりに歩き回っただけに、感慨もひとしおです。
 ところで「杉田の梅花」でひとつ分からないことがあります。

『こゝから橋を渡つて右に川に添つて中村から屏風が浦に行く。このあたりは海の眺めがやゝ好い。/これを過ぎて、大きなトンネルを越えると、杉田の梅のあるところは、もうすぐだ。』

大きなトンネルとはどこのことでしょうか。屏風ヶ浦から杉田の梅林までは、横浜市提供の昭和初期の地図上では、どこにもトンネルなどありませんし、現在の中原(僕が通った願行寺の中原幼稚園があります)から杉田駅あたりにかけて、大きなトンネルなど見当たりません。地形の上からも、トンネルを通さねば交通に支障をきたすようなところはないように思えます。
 それに因んで思い出すのは、浜中学校から京急杉田駅に下りてくる道にある、長さ二百メートルほどの直線の坂道の切通しのことです。この切通し、明治の頃は、栗木や峰や大岡の里と杉田を結ぶトンネルであり、それが関東大震災で崩れたために、以後は切通しとして改修され、今に至るとのことです。この旧トンネルが、記述にある大きなトンネルであるとは、位置関係から到底思えませんが、著しく僕の記憶を刺激してくれました。
 僕が幼稚園入学前から年少まで住んでいた家は、浜中の正門から斜向かいにある細い路地を十五メートルほど入った平屋建ての一軒家でした(今現在は整地されて駐車場になっています)。そこから路地を更に三十メートルほど上がると、僕の母の実家がありました(母の兄の奥さんとその長男、つまり伯母と従兄弟が今も住んでいます)。僕の最も古い記憶の中に、両親や祖父母に手を繋がれて、または両親におんぶされて、その切通しを上り下りした光景が残っています。夜ですと、自分を追い越す車のヘッドライトでできる自分の影が、切通しの崖の表面を、物凄い速度で近づいてきて、自分の真横で少しゆっくりになったかと思うと、思い切り加速して後方の夜の闇に消えていく……。それが何度見ても興味深く、幼い僕はそれを見て、いつでも飽きることなく面白がり、何度でも笑ったのです。京急杉田駅の踏み切りで祖父母の家の犬が轢かれて死んだこと。浜中正門の向かいに小さな雑貨店があり、僕を可愛がってくれたご夫妻が住んでいたけれど、或る晩の火災でふたりとも亡くなったこと(一旦逃げ出したおじさんは、妻が中にいるといって再び飛び込んだそうです)。今考えれば私の住んだ平屋建てには雨樋がついてなかったのでしょう。雨垂れが軒下の土を穿つのを何十分でも見つめていたこと。向かいの家に井戸があり、洗濯などに利用していたこと。家で母に叱られるとすぐに泣きながらとぼとぼ坂を上り祖父母の家に行ったこと。毎朝、幼稚園で母と別れるたびに、黙ってポロポロと涙を落とし、母や先生を困らせたこと……。
 母、祖母、祖父の笑顔と共に、全てが、もう、遠い遠い昔のことになってしまいました……。
   《引用終了》
私はこの消息に、トンネルの同定なんぞよりも、その詞の持つ限りない郷愁と聖痕(スティグマ)としての心傷(トラウマ)の痛みを劇しく感じた。当人の許可を得たので、ここに附記することとしたい。]

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