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2013/05/03

北條九代記 禪師公曉鶴ヶ岡の別當に補す 付 實朝卿の歌

      ○禪師公曉鶴ヶ岡の別當に補す 付 實朝卿の歌

前將軍賴家卿の御息(ごそく)阿闍梨公曉は、園城寺(をんじやうじ)明王院の僧正公胤(こういん)の門弟となり。學道の爲に暫く寺門に居住ありしが、鎌倉に歸り給ふを、尼御臺政子の計(はからひ)として、建保五年十月十一日、鶴ヶ岡の別當職にぞ補せられける。陸奥守廣元朝臣は病惱危急なるによつて、出家し法名覺阿とぞ號しける。尋(つい)で平愈せしかども、眼精(がんせい)暗くして黑白(こくびやく)を分つ事、能はず。引籠(ひきこも)りてぞおはしける。同十二月二十五日、將軍家、御方違(かたたがへ)として、夜に入りて永福寺の僧坊に渡御あり。結城朝光判官基行等(ら)御供にて、終夜(よもすがら)、歌の御會を興行し、未明に還御あり。御衣二領を僧坊に殘し置かれ、一首の御詠を副(そ)へられけり。

  春待ちて霞の袖に重ねよと霜の衣を置きてこそ行け

北條右京〔の〕大夫義時を陸奥守に任ぜられ、時房を相模守に遷任せらる。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十三の建保五(一二一七)年六月二十日、十月十一日、十一月八日、十二月十日・二十五日・二十六日の条に基づく。以下、「吾妻鏡」については公暁と実朝の関係性を中心に見る。

「園城寺」滋賀県大津市にある天台寺門宗総本山長等山(ながらさん)園城寺。通称、三井寺。現在一般に通称の三井寺で呼ばれることが多い。この通称は寺内に涌く泉が天智・天武・持統三代の天皇の産湯として使われたとする伝承から「御井の寺」が転じたものとされる。

 建保五年六月二十日の条から見る。

○原文

廿日丙刀。晴。阿闍梨公曉〔賴家卿息。〕自園城寺令下著給。依尼御臺所仰。可被補鶴岳別當闕云々。此一兩年。爲明王院僧正公胤門弟。爲學道所被住寺也。

○やぶちゃんの書き下し文

廿日丙寅。晴る。阿闍梨公曉〔賴家卿が息。〕園城寺より下著せしめ給ふ。尼御臺所の仰せに依つて、鶴岳別當の闕(けつ)に補せらるべしと云々。

此の一兩年、明王院僧正公胤が門弟と爲り、學道の爲に住寺せらるる所なり。

・「鶴岳別當の闕」鶴岡大別当定暁(平時忠一門の出身。公胤の弟子で公暁は彼の元で出家し、彼に連れられて上洛して園城寺に入った)はこの年の前月五月十一日に帰寂した。

 

続いて、四ヶ月後の同年十月十一日の条。さる宿願のための千日参籠……早くも如何にも不穏な気配がして来るではないか。……

○原文

十一日乙夘。晴。阿闍梨公曉補鶴岳別當職之後。始有神拜。又依宿願。今日以後一千日。可令參籠宮寺給云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日乙夘。晴る。阿闍梨公曉、鶴岳別當職に補さるるの後、始めて神拜有り。又、宿願に依つて、今日以後一千日、宮寺に參籠せしめ給ふべしと云々。

 

「陸奥守廣元朝臣は病惱危急なるによつて……」「吾妻鏡」の同年十一月八日に「目所勞。腫物等計會。」(目の所勞、腫物(しゆもつ)等、計會(けいくわい)す。)とあり、眼病と腫れ物の合併症とある(こう書くということは眼の腫れではない感じがする。眼病の方は白内障辺りか。「吾妻鏡」十二月十日の条にも確かに、『但眼精暗兮。不能分黑白云々。』(但し、眼精暗くして、黑白を分つに能はずと云々。)と極度の視力喪失に陥ったように描かれているのであるが、その後の「吾妻鏡」の記載や彼の行動を見ても、この時点で回復不能の失明に至ったという感じは少なくとも私にはしない。大江広元の逝去はこの八年後の嘉禄元(一二二五)年(享年七十八歳)である(この一ヶ月前に政子が死去している。これは私には興味深い事実なのである。それはまた書くこともあろう)。この場面後も実朝暗殺事件ではその計画を事前に知っているかのような意味深長な進言を拝賀の式の朝、実朝にしたりして、最後まで幕閣の重要人物として活躍してくれる(後に掲げる本巻掉尾の章を参照)。私は鎌倉初期の文官の中でも総合的見て好感を持てる人物である。その弱さを含めた人間性に於いて、である。

 

同年十二月二十六日は前夜の「續歌(つぎうた)の御會」(「吾妻鏡」二十五日の条。「續歌」は継歌・次歌とも書き、歌会で五十首・百首など一定数の詠題を籤(くじ)などで分けて列座の複数の者が次々に和歌を詠む歌合せの一種。鎌倉中期以降に流行した)で、永福寺に泊まり、その未明の帰還の部分である。

○原文

廿六日己巳。霽。未明還御。而被殘置御衣二領於彼僧坊。剩被副一首御詠歌。凡此御時。於事被盡御芳情云々。

  春待て霞の袖にかさねよと志もの衣を置てこそゆけ

○やぶちゃんの書き下し文

廿六日己巳。霽る。未明に還御。而して御衣(おんぞ)二領を彼(か)の僧坊に殘し置かる。剩(あまつさ)へ一首の御詠歌を副(そ)へらる。凡そ此の御時、事に於いて御芳情を盡さると云々。

  春待ちて霞の袖にかさねよとしもの衣を置てこそゆけ

この和歌は「金槐和歌集」の「巻之上 冬部」に、

    建保十二月方違のために永福寺の僧坊にまかりて、

    あしたかへし侍るとて小袖を殘しおきて

  春待(まち)て霞の袖に重ねよと霜の衣の置きてこそゆけ

の形で載る(引用は岩波古典大系に拠った)。引用本の小島吉雄氏の頭注に、「霜の衣」は『霞の袖に対応させて言った語。今は冬だから「霜の衣」といい、「おきて」の枕詞の如く用いた。吾妻鑑では「霜ノ衣ヲ」とある。意味はその方が明瞭であるが、修辞としては「霜の衣の」とある方が複雑化する』とあり、「おきて」については『「霜」の縁語。「置きて」と「起きて」の掛詞』とある。増淵勝一氏は「現代語訳 北条九代記」この歌を『春を待ちつつ、「重着(かさねぎ)の代わりに霞が袖に重なってほしい」と思うものだから、霜の下りている未明に、下(しも)の方の衣(きぬ)を置いて行くのである』と訳されておられる。
……この歌……しかし私は何か不吉な気がしてならない。……彼は名のみの春の雪降る正月二十七日の拝賀の式の夜に命を絶たれた……彼は春を待つことは出来なかった……いや……それが分かっていた……だから霜のように儚く消えゆく我が身にはもはや不要な衣を……置いてゆくのではなかったか……彼の魂が……まさに滅びの光に包まれた、春霞の中へと遠く消え去ってゆく……実朝にはその景色が見えていたような気が私にはするのである……]

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