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2013/05/02

鎌倉世界遺産落選記念 浅井了意「東海道名所記」より 藤沢遊行寺から江の島・腰越を経て鎌倉へ

浅井了意「東海道名所記」より 藤沢遊行寺から江の島・腰越を経て鎌倉へ

[やぶちゃん注:刊年は未詳ながら、「北条九代記」の作者とも目される戯作者浅井了意の万治元(一六五八)年頃の執筆と推定される仮名草子「東海道名所記」(六巻六冊)より。楽阿弥という道心者が主人公で、四国遍路から伊勢熊野、熊野浦から海路江戸へ向かい、鉄砲洲に上陸して江戸見物の後、何故かそこで京へ上って黒谷辺りに住もうと志し、芝口で会った二十四、五の若者(大阪商人の手代で初めて廻船に便乗して来府した)と道連れになって、東海道中の神社仏閣名所旧跡を訪ねてはその由来を述べ、狂歌俳諧をもものしつつ、京へ上るという、やや散漫な構成をとる仮構紀行小説である(以上は平凡社「世界大百科事典」の記載を参考にした)。但し、以下の鎌倉の下りは、実は実際の行程ではなく、戸塚と藤沢の間で若者の求めに応じて、かつて親しく訪ねたことがあるといった感じで楽阿弥が早回しで口上案内する体裁をとっている。なお、二人の会話の場所は、極めて高い確率で、今まさにこれをタイプしている私の書斎からせいぜい二キロ圏内の直近である(遊行寺は直線距離で一六〇〇メートルである)。
 底本は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の旧小寺玉晁(こでらぎょくちょう 寛政一二(一八〇〇)年~明治一一(一八七八)年:尾張名古屋藩陪臣であったが、百五十余冊に及ぶ著作を残した雑学者として知られる。)蔵本の画像を視認、濁音化不分明な個所については、吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に載る同部分(「温知叢書」第一巻底本)を対照資料として字を確定した。極めて明白な「沢」などの略字以外は基本的に正字を採用した。文意から適宜句読点や会話記号などを配し、濁点を追加して打った箇所もある。踊り字「〱」は正字化するか「々」に代えた。「阿部の貞任」「正長壽院」「寶國寺」「五臺堂」「光澤寺」「名月院」などの漢字表記の誤り、「男(おとこ)」「すへて」「五かいな」「治承(ぢせう)」「ゑがらの天神」「をよそ」などの歴史的仮名遣の誤りなどが散見されるが、すべてママである。読みがやや五月蠅く感じられる向きの方のために、直後に読みを排除したものを載せ、最後に注を附した。]

とつかより藤澤(ふぢさは)へ二里
右のかたに八幡(まん)の宮ゐあり。松山の中に時宗(じしう)の寺あり。はら宿の町はづれより鎌倉(かまくら)山たまなはの城(しろ)みゆ、道のほど一里(り)半ばかりなり。かの男(おとこ)いふやう、「鎌(かま)くら山は程ちかし、是よりゆきてみんも末(すゑ)いそがはし、御房(ごばう)はさこそ見玉ひつらん、鎌(かま)くらのあり樣かたりてきかさせ玉へ」といふ。樂阿彌(らくあみ)、聞(きゝ)て、「それがしも、そのかみ見侍べりしかども、久しく成ぬれば、しかとは、おぼえず。名ある所々あらあらかたり申すべし。鎌(かま)くらの谷(やつ)七郷(がう)すべて三里(り)四方あり。入口あまたあり。中にも、江嶋口より腰越(こしごへ)に出てゆけば、右の方は大海(だいかい)なり。海の中に島あり、江嶋(えのしま)といふ。嶋のあなた、岸(きし)の下に大なる岩(いは)あなあり。續松(ついまつ)をともして、おくふかく入てみれば、一町半ばかりにして、おくはとまりぬ。いにしへ龍神(りうじん)のすみける蹟(あと)なりといひつたへたり。このしまの弁才天(べんざいてん)は、世にかくれなき御事なり。腰越(こしごへ)は、そのかみ、九郎判官(はうぐわん)よしつね、さぬきのやしま壇(だん)のうらにて平家をほろぼし、宗盛父子(むねもりふし)をいけどり、鎌くらに下り、賴朝(よりとも)に奉り、一かどの勸賞(かんじやう)にもあづからんと思ひし處に、梶原(かぢはら)の景時(かげとき)に讒(ざん)せられ、こしごへに關(せき)をすへて、義經(よしつね)をよせられざりけり。今に傳(つた)へて腰越(こしごへ)の狀(じやう)とて、世にうつしよむは、よしつねこゝにて書(かき)つゝ、賴朝(よりとも)につかはされし狀なり。道(みち)の左(ひだり)には、かたせ、うばがふところ、音なしの瀧(たき)あり。行合川(ゆきあひがは)を渡り、極樂寺(ごくらくじ)、新宮(しんぐう)が谷(やつ)、火(ひ)うちが峠(たうげ)を左にみて、西谷よりながるゝ川を渡り、西方寺(さいはうじ)が谷(やつ)、星(ほし)月の井、權五郎景政(かげまさ)がすみける蹟(あと)、はせの觀音(くわんをん)、日蓮(にちれん)上人の寵(ろう)やの蹟を左(ひだり)にみて、かな山が谷(やつ)、かねあらひ沢、ひでの浦(うら)を右(みぎ)の方にみなし、猶大谷の大佛(だいぶつ)より右のかた、盛久(もりひさ)が松とて磯(いそ)にあり。由井(ゆゐ)の濱(はま)を妻手(めて)にみて、長樂寺(らくじ)が谷、あまなはの明神(みやうじん)、みこしがたけ、いた佛の谷、正八幡(しやうはちまん)の谷、稻荷(いなり)の明神(みやうじん)、手(て)さきが谷、かくれ里(ざと)、梅(うめ)が谷、景淸(かげきよ)が篭(ろう)の蹟を左に見て、岩(いは)やの不動(どう)尊が谷を打過、雪のしたをうちながめ、鶴(つる)が岡(をか)に行いたれば、濱(はま)べよりそりはしまで、八幡(まん)の鳥井(とりゐ)、三重(ぢう)あり。橋(はし)を渡りて門に入、右のかたに大塔(とう)あり、左の方に護摩堂(ごまだう)あり。おくにいたりて石だんあり、右には若宮の社(やしろ)、藥師堂(やくしだう)あり、左のかたは輪藏(りんざう)なり。石だんのもとに、左に銀杏(いちやう)の木(き)、ふとさ五かいなばかり也。右のかたには、なぎの木あり。八まんの宮井(みやゐ)、物ふりたり。そもそもこの鶴(つる)が岡の八まんは、そのかみ、源(みなもと)の賴義(よりよし)、阿部(あべ)の貞任(さだたう)・宗任(むねたう)をせめられしとき、康(かうへい)平六年八月にいはしみづの八幡(まん)を勸請(くわんじやう)して、由比(ゆひ)の郷(がう)に宮をたてらる。永保(えいほう)元年に源義家(みなもとのよしいへ)、これをしゆりせらる。今の若宮(わかみや)と申すはこれなり。治承(ぢせう)四年十月に、源賴朝、これを小林(こばやし)の郷(がう)の北(きた)の山にうつし奉らる。今、此御やしろ、これなり。三の鳥井のまへを東にゆきて、景政(かげまさ)が墓所(はかどころ)に石塔(せきとう)あり。八幡(まん)を左にみて西の方に横(よこ)おるゝ道あり。田代(たしろ)の冠者(くわんじや)、北條(はうでう)の四郎がすみける蹟、葛西(かさい)が谷(やつ)を右に見なし、兵衞(ひやうゑ)の佐賴朝(よりとも)のすみ給へるあとゝて、八町四方の所あり。ゑがらの天神、茅(かや)の阿彌陀(あみだ)、龜(かめ)がふちの谷、杉本(すぎもと)の觀音(くわんをん)を左にみて、正長壽院(ちやうじゆゐん)は南(みなみ)のかたなり。こゝはよしとも、鎌だが首をうづまれし所なり。犬かけ山、寶國寺(はうこくじ)、杉(すぎ)が谷(やつ)をうち過て、左のかたは五臺堂(だいだう)、泉(いづみ)が谷(やつ)、東のかたに、あかしが谷(やつ)、光澤寺(くわうたくじ)。この寺(てら)のうちには、むかしかまくらの、町(ちやう)のつぼねといふ女房(にようばう)、思ひの外のとがに落され、そのかほに錢(ぜに)をやきてあてたりしに、つぼね、ふかく彌陀如來(みだによらい)にいのりしかば、身がはりに立(たち)給ひて、佛(ほとけ)のおかほに錢の燒痕(やけあと)つかせ給ひ、膿血(うみち)のながれ給ひしと也。この阿彌陀をほうやけの彌陀(みだ)と名(な)づけて、此寺におはします。かうべ塚(つか)を過ぬれば、金ざは口に出る也。又金澤(かなざは)と申すは、武藏國(むさしのくに)名譽(めいよ)の景(けい)ある所なれば、屏風(びやうぶ)にうつして、これをもてあそぶ。嚴嶋(いつくしま)・あまの橋立(はしだて)のよき景(けい)も、こゝにはまさらじといひあへり。又八幡(まん)の二の鳥居(とりゐ)より東(ひがし)をさしてゆく道あり。どつかうが谷(やつ)、にしが谷、花の谷、日蓮(にちれん)の籠(ろう)のあと有。誠(まこと)にこの上人は、法花宗(ほつけしう)の開山(かいざん)、淨行(じやうぎやう)ぼさつの化身(けしん)として、此經(きやう)をひろめ給ひしに、人みな、これをしんげうせず、とらへて籠(ろう)に入たる事も度々にて、かまくらのうちにも籠(ろう)やのあ二ケ所(かしよ)あり。をよそ一代(だい)のうちに大難(なん)にあふ事、四十八度(ど)、小難(せうなん)はかずをしらず。かゝる苦勞(くろう)の中より、此宗(しう)、あまねくひろまりて、はんじやうするこそたうとけれ。桐(きり)が谷(やつ)をゆんでになし、祝嶋(いはひしま)を右にみて、光明寺(くわうみやうじ)に行道あり。今の世までも淨土宗(じやうどしう)の檀林(だんりん)として、所化(しよけ)あまたありといふ。それより東に行過(ゆきすぎ)て、小坪(こつぼ)口に出る也。又この戸塚(とつか)より、かまくらへ行には、いなりが谷、かな山が谷、松が岡(をか)の比丘尼御所(びくにごしよ)を右になし、比丘尼(びくに)山をゆん手に見やり、山の内の左に圓覺寺(ゑんがくじ)、名月院(めいげつゐん)、六國みの峯(みね)、建長寺(けんちやうじ)、地ごく谷(だに)をうち過、雪(ゆき)の下山、正でん山(さん)を右になし、左は又鶴が岡(をか)なり。八幡(まん)のうしろには、龜山院(かめやまのゐん)より廿五ケゐん院號(ゐんがう)を下され、廿五ケ院(かゐん)いまにあり。西みかど、報恩寺(ほうをんじ)、光福寺(くわうふくじ)、太平寺(たいへいじ)、樂音寺(がくをんじ)、石山(いしやま)が谷、師子舞(ししまひ)が谷、これらの谷々寺々は、そのかず、かぎりはなきぞかし」と、ねんごろにかたりければ、この男(おとこ)、うち聞て、目にみるやうにおぼえて、よろこびつゝうちつれて行。

■読み排除版
とつかより藤澤へ二里
右のかたに八幡の宮ゐあり。松山の中に時宗の寺あり。はら宿の町はづれより鎌倉山たまなはの城みゆ、道のほど一里半ばかりなり。かの男いふやう、「鎌くら山は程ちかし、是よりゆきてみんも末いそがはし、御房はさこそ見玉ひつらん、鎌くらのあり樣かたりてきかさせ玉へ」といふ。樂阿彌、聞て、「それがしも、そのかみ見侍べりしかども、久しく成ぬれば、しかとは、おぼえず。名ある所々あらあらかたり申すべし。鎌くらの谷七郷すべて三里四方あり。入口あまたあり。中にも、江嶋口より腰越に出てゆけば、右の方は大海なり。海の中に島あり、江嶋といふ。嶋のあなた、岸の下に大なる岩あなあり。續松をともして、おくふかく入てみれば、一町半ばかりにして、おくはとまりぬ。いにしへ龍神のすみける蹟なりといひつたへたり。このしまの弁才天は、世にかくれなき御事なり。腰越は、そのかみ、九郎判官よしつね、さぬきのやしま壇のうらにて平家をほろぼし、宗盛父子をいけどり、鎌くらに下り、賴朝に奉り、一かどの勸賞にもあづからんと思ひし處に、梶原の景時に讒せられ、こしごへに關をすへて、義經をよせられざりけり。今に傳へて腰越の狀とて、世にうつしよむは、よしつねこゝにて書つゝ、賴朝につかはされし狀なり。道の左には、かたせ、うばがふところ、音なしの瀧あり。行合川を渡り、極樂寺、新宮が谷、火うちが峠を左にみて、西谷よりながるゝ川を渡り、西方寺が谷、星月の井、權五郎景政がすみける蹟、はせの觀音、日蓮上人の寵やの蹟を左にみて、かな山が谷、かねあらひ沢、ひでの浦を右の方にみなし、猶大谷の大佛より右のかた、盛久が松とて磯にあり。由井の濱を妻手にみて、長樂寺が谷、あまなはの明神、みこしがたけ、いた佛の谷、正八幡の谷、稻荷の明神、手さきが谷、かくれ里、梅が谷、景淸が篭の蹟を左に見て、岩やの不動尊が谷を打過、雪のしたをうちながめ、鶴が岡に行いたれば、濱べよりそりはしまで、八幡の鳥井、三重あり。橋を渡りて門に入、右のかたに大塔あり、左の方に護摩堂あり。おくにいたりて石だんあり、右には若宮の社、藥師堂あり、左のかたは輪藏なり。石だんのもとに、左に銀杏の木、ふとさ五かいなばかり也。右のかたには、なぎの木あり。八まんの宮井、物ふりたり。そもそもこの鶴が岡の八まんは、そのかみ、源の賴義、阿部の貞任・宗任をせめられしとき、康平六年八月にいはしみづの八幡を勸請して、由比の郷に宮をたてらる。永保元年に源義家、これをしゆりせらる。今の若宮と申すはこれなり。治承四年十月に、源賴朝、これを小林の郷の北の山にうつし奉らる。今、此御やしろ、これなり。三の鳥井のまへを東にゆきて、景政が墓所に石塔あり。八幡を左にみて西の方に横おるゝ道あり。田代の冠者、北條の四郎がすみける蹟、葛西が谷を右に見なし、兵衞の佐賴朝のすみ給へるあとゝて、八町四方の所あり。ゑがらの天神、茅の阿彌陀、龜がふちの谷、杉本の觀音を左にみて、正長壽院は南のかたなり。こゝはよしとも、鎌だが首をうづまれし所なり。犬かけ山、寶國寺、杉が谷をうち過て、左のかたは五臺堂、泉が谷、東のかたに、あかしが谷、光澤寺。この寺のうちには、むかしかまくらの、町のつぼねといふ女房、思ひの外のとがに落され、そのかほに錢をやきてあてたりしに、つぼね、ふかく彌陀如來にいのりしかば、身がはりに立給ひて、佛のおかほに錢の燒痕つかせ給ひ、膿血のながれ給ひしと也。この阿彌陀をほうやけの彌陀と名づけて、此寺におはします。かうべ塚を過ぬれば、金ざは口に出る也。又金澤と申すは、武藏國名譽の景ある所なれば、屏風にうつして、これをもてあそぶ。嚴嶋・あまの橋立のよき景も、こゝにはまさらじといひあへり。又八幡の二の鳥居より東をさしてゆく道あり。どつかうが谷、にしが谷、花の谷、日蓮の籠のあと有。誠にこの上人は、法花宗の開山、淨行ぼさつの化身として、此經をひろめ給ひしに、人みな、これをしんげうせず、とらへて籠に入たる事も度々にて、かまくらのうちにも籠やのあと二ケ所あり。をよそ一代のうちに大難にあふ事、四十八度、小難はかずをしらず。かゝる苦勞の中より、此宗、あまねくひろまりて、はんじやうするこそたうとけれ。桐が谷をゆんでになし、祝嶋を右にみて、光明寺に行道あり。今の世までも淨土宗の檀林として、所化あまたありといふ。それより東に行過て、小坪口に出る也。又この戸塚より、かまくらへ行には、いなりが谷、かな山が谷、松が岡の比丘尼御所を右になし、比丘尼山をゆん手に見やり、山の内の左に圓覺寺、名月院、六國みの峯、建長寺、地ごく谷をうち過、雪の下山、正でん山を右になし、左は又鶴が岡なり。八幡のうしろには、龜山院より廿五ケゐん院號を下され、廿五ケ院いまにあり。西みかど、報恩寺、光福寺、太平寺、樂音寺、石山が谷、師子舞が谷、これらの谷々寺々は、そのかず、かぎりはなきぞかし」と、ねんごろにかたりければ、この男、うち聞て、目にみるやうにおぼえて、よろこびつゝうちつれて行。

[やぶちゃん注:以下、多くの固有名詞が表記が不確かであったり、誤りであったり、実在する地名であっても叙述行程から外れる位置にあったりしている。乏しい知識による私の同定の漏れや誤りにお気づきになられた方は、是非とも御一報戴きたい(特に全く不明なものの頭には「★」を附した)。よろしくお願い申し上げる。
★「八幡の宮」不詳。識者の御教授を乞う。現在の横浜市内にある/あった八幡社である。
「松山の中に時宗の寺あり」藤沢市西富にある時宗総本山藤沢山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)。代々の遊行上人が法主(ほっす)であるために遊行寺の通称の方が知られている。
「はら宿」神奈川県横浜市戸塚区原宿。古くは相模国鎌倉郡原宿村で、東海道(現在の国道一号線)の戸塚宿と藤沢宿の中間の高台に設けられた間(あい)の宿(宿場としては非公認なもので宿泊は原則禁じられていた)。
「たまなはの城」玉縄城。ウィキの「玉縄城」などによれば、江戸期には家康側近の本多正信の居城となり、その後はその一門の長沢松平氏の居城となったが元禄一六(一七〇三)年に長沢松平正久が上総国大多喜藩へ転封となったのを機に廃城となったが、本記載の頃にはまだ玉縄藩の居城であった。
「かの男」冒頭注で記した楽阿彌の同行者である大阪商人の手代の若者。
「續松」「つぎまつ」(継ぎ松)の音変化。松明(たいまつ)。
「一町半」一町は約一〇九メートルであるから、凡そ一六五メートル弱。
「うばがふところ」は「姥が懐」。現在の江ノ電稲村ヶ崎駅の西の奥の姥ヶ谷(うばがやつ)のこと。元弘三(一三三三)年の鎌倉攻めの際には新田義貞は伏兵を置いたと伝え(「相模風土記」)、古くは姥ヶ懐と呼ばれた。周辺には末期横穴古墳が多数ことと、この不思議な名は何か関係がありそうに私には思われる。
★「新宮が谷」不詳。識者の御教授を乞う。
「西方寺が谷」「西方寺」は廃寺で、もと極楽寺寺内域にあった。「武蔵国風土記」の都築郡新羽村(現在の横浜市港北区新羽町)の条に見える西方寺は、この寺が移転したものともいう。極楽寺切通沿いには現在、西方寺跡として伝関東管領上杉憲方及び同妻の墓などの石塔群が並ぶ。
★「かな山が谷」不詳。識者の御教授を乞う。次に出る金洗沢の奥の谷か。
「かねあらひ沢」金洗沢。行合川の西の海岸を指すが、叙述の順序が後先してしまい、おかしい。
★「ひでの浦」行程からは位置的に由比ヶ浜の西の入り江を指すように読めるが、前注で記したように叙述に齟齬があるから、七里ヶ浜一帯の浦をこう呼称した可能性も否定出来ない。識者の御教授を乞う。
「妻手」馬手。右手のこと。弓道では現在もこう呼んでいるようである。
「長樂寺が谷」現在、乱橋材木座から長谷及び坂ノ下のかなり広い地域の字名として長楽寺が残るが、特に廃寺となった長楽寺という寺があったとする笹目谷辺りがこの谷戸であったと考えると、叙述とは頗るマッチする。
★「いた佛の谷」不詳。識者の御教授を乞う。
★「正八幡の谷」不詳。識者の御教授を乞う。現在の地形から見るととても谷であったとは考えられないが、由比の若宮の元八幡周辺のことを指すものか。
「稻荷の明神」次に「かくれ里」(銭洗弁天)が出るから佐助稲荷のことと思われる。
★「手さきが谷」不詳。識者の御教授を乞う。
「梅が谷」現在は亀ヶ谷切通の下方、薬王寺周辺をこう呼称しているが、古記録では化粧坂下の北の谷とも言い、今以って同定不能である。
「五かいな」「かいな」は「かひな」で腕、肱。腕の肩から肱(ひじ)までの二の腕部分又は肩から手首までの部分を指す。私の腕で図ると凡そ五〇センチメートルであるから、二メートル半程度に相当するか。
「なぎの木」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科ナギ Nageia nagi。針葉樹でありながら広葉樹のような卵形の楕円状を成す葉が特徴。雌雄異株。今も鶴岡八幡宮内に現存する。鶴岡八幡宮公式サイトの「樹木物語 《梛》なぎ」に『梛(なぎ)は海の凪(なぎ)に音が通じるところから航海の安全を願う信仰を集めてきた木』であるとし、『大石段の最上段から若宮を結ぶ線の丁度中間あたりにあり』、幹の周囲は約一・一メートル、樹高約二〇メートルとあり、『この木は雄株ですがその隣に一回り小さい雌株もあります。自生地は近畿地方以西ですから野生ではありません』。『この平行脈の走った葉は縦にはなかなか引きちぎれず力がいりベンケイナカセ、センニンリキの別名を持っています。熊野速玉大社のご神木として古来より有名です』。『当宮ではこのナギの木は大切な木だと伝えられてきました。新編相模国風土記の「石階」の段に「階下西方ニ。銀杏ノ老樹アリ。……階下ノ東方ニ。梛樹アリ。」と見えます。現存の位置と同じで大銀杏と同様に扱われていることが分かります。また源実朝公の歌に「み熊野のなぎの葉しだり雪降れば神のかけたる四手にぞ有らし」とあり、ナギの木がご神木であることがはっきり歌われています。この木より、往古の鎌倉人が、航海の安全を祈る姿が鮮やかに想像されます』とある。
「阿部の貞任」「安倍の貞任」の誤り。
「しゆり」修理。
「景政が墓所に石塔あり」これは古地図にも出るが、現存しない。
「茅の阿彌陀」覚園寺の薬師堂にある、旧理智光寺(廃寺)の本尊であった鞘阿弥陀(胎内物があったことに由来する)と称する木像阿弥陀如来坐像のことを指していると考えてよい。
「正長壽院」「勝長壽院」の誤り。
「よしとも、鎌だ」源義朝と命運をともにした乳兄弟の家臣鎌田政清(現在の一般呼称では「かまた」と濁らない)。
「寶國寺」「報國寺」の誤り。
★「杉が谷」現在、先に出た永福寺の奥の谷戸の手前一帯である「龜がふち」(亀ヶ淵)のその更に北のどん詰まりを杉ヶ谷と呼称するが、この叙述とは齟齬する。識者の御教授を乞う。
「五臺堂」「五大堂」明王院の誤り。
「泉が谷」現在の明王院の胡桃川(滑川上流域名)を隔てた南西の谷である泉水ヶ谷のことであろう。
「あかしが谷」明石ヶ谷は光触の手前の金沢街道が大きく北に折れる部分から胡桃川を渡った南の谷戸。
「光澤寺」「光觸寺」の誤り。
「町のつぼねといふ女房、思ひの外のとがに落され、そのかほに錢をやきてあてたりしに、つぼね、ふかく彌陀如來にいのりしかば、身がはりに立給ひて、佛のおかほに錢の燒痕つかせ給ひ、膿血のながれ給ひしと也」伝承の「頬焼阿弥陀縁起」の内容が致命的に誤っている。正しくは町の局が施主の女主人で、彼女が家内盗難の嫌疑をかけられた万歳法師に懲らしめのために焼印を据えるも、跡が附かず、彼女の持仏の阿弥陀像の頬にその焼け跡が顕われ、残虐非道を悔いて法師とともに出家、仏像は何度補修しても頬の焼跡が消えず、奇蹟を永く伝えるためにそのままに残され、頬焼け阿弥陀(本文の「ほうやけの彌陀」)として信仰されるに至ったという設定である。
「かうべ塚」やや谷戸奥で位置関係が難しいものの、所謂、北条一族の首を葬ったと伝わる場所の一つである、お塔が窪のことかと思われる。現在の天園ハイキングコース貝吹地蔵下から東の谷へ下りた十二所へと向かう小道の途中にある。「過ぬれば、金ざは口に出る也」というのは鼻欠地蔵辺りであるとぴったりくるのであるが、「かうべ」(首)と「塚」というのが、かなりはっきりと地蔵像が切岸に見えていたはずの当時の鼻欠地蔵には、そぐわない表現である。
「金澤と申すは、武藏國名譽の景ある所なれば、屏風にうつして、これをもてあそぶ」これより後、「新編鎌倉志」を板行した水戸光圀の保護を受けた、明の渡来僧東皐心越(とうこうしんえつ 崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)が金沢を訪れ、自身が暮らした西湖の美景「瀟湘八景」に倣って八景を選んで八首の漢詩を残した。これが金沢八景の由来である(八景やその漢詩及び歌川広重の錦絵は私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「金澤」の項の「八景」を是非、参照されたい)が、実はそれ以前から「瀟湘八景」に擬えたプロトタイプの名数はあった。詳しくは私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之八」の「能見堂」の項を参照されたい。
★「どつかうが谷」不詳。漢字も思い浮かばぬ。識者の御教授を乞う。
★「にしが谷」不詳。識者の御教授を乞う。現在の西ヶ谷は永福寺の西奥のどん詰まりの谷戸で、位置が全く合わないから違う。
「日蓮の籠のあと」現在の安国論寺境内。
「しんげう」信仰。
★「祝嶋」位置関係から見ると、現存する最古の人口の築港跡である和賀江の島しかない。但し、ここを「祝島」と呼称したという記録は知らぬ。識者の御教授を乞う。
「所化」広く寺に勤める役僧のことも言うが、ここは修行中の学僧の謂いであろう。
★「いなりが谷」不詳。識者の御教授を乞う。叙述順序から見ると現在の鎌倉市内ではなく横浜市内かと思われる。
★「かな山が谷」不詳。識者の御教授を乞う。同前の疑義あり。
「松が岡の比丘尼御所」東慶寺のこと。
★「比丘尼山」不詳。識者の御教授を乞う。「ゆん手に見やり」とあるから、東慶寺背後の松ヶ岡ではあり得ないことになる。
「雪の下山」鶴岡八幡宮後背の大臣山(だいじんやま)のことを指しているか。
★「正でん山」不詳。識者の御教授を乞う。旧巨福呂坂切通の南西の丘陵地(窟不動の北方のピーク)を指すか。
「報恩寺」廃寺。山内若しく名越(移転説あり)にあった。
★「光福寺」不詳。識者の御教授を乞う。廃寺に広福寺という寺があるが、廃寺時期が古くこれではあるまい。現存する光則寺などの誤りの可能性もある。
「太平寺」廃寺。西御門にあったが、同地に江戸時代には高松寺(こうしょうじ)があった。どちらも尼寺である。
「樂音寺(がくをんじ)」音からすると覚園寺の誤記が強く疑われるが、前に同寺蔵のはずの「茅の阿彌陀」が出てはいるから、別な寺の誤記かも知れぬ。
★「石山が谷」不詳。識者の御教授を乞う。
「師子舞が谷」獅子舞谷は別名を紅葉ケ谷(ももみじがやつ)と言い、現在、瑞泉寺の手前一帯から同寺周辺の谷戸をこう呼称している。]

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