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2013/05/08

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 1

[やぶちゃん注:作者大和田建樹(おおわだたけき 安政四(一八五七)年~明治四三(一九一〇)年)本名晴太郎は国文学者で詩人・作詞家としても知られる。その名を思い出せる方は少ないかも知れないが、彼の作詞になる曲は誰もが実は知っている。実は人口に膾炙した「鉄道唱歌」(多梅稚(おおのうめか)・上眞行(うえさねみち)作曲)や「青葉の笛」(田村虎蔵作曲)、そしてスコットランド民謡の「故郷の空」作詞は彼の手になるものである(海軍教育本部から嘱託されて各種の公式軍歌の作詞等も手掛けている)。

 大和田建樹は現在の愛媛県宇和島市に宇和島藩士大和田水雲の長男として生また。幼少の頃から神童と称えられ、十四歳で藩公に召され四書を請進したと伝えられる。広島外国語学校で英語を学び、明治一二(一八七九)年に上京、東京大学古典講習科講師、明治一九(一八八六)年には東京高等師範学校(後の東京教育大学・現筑波大学)教授に就任するが、明治二四(一八九一)年退職、多彩な作家活動を始め、数々の国文学に関する著作の他、作歌・作詞・紀行文・謡曲の註釈・辞典編集等々幅広く手がけた。この間、明治女学校・青山女学院・跡見女学校・早稲田中学校などの講師を歴任している(以上はウィキの「大和田建樹」及び、たむたむ氏のHP内の「大和田建樹」のページを参照した)。

 底本は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の明治三〇(一八九七)年博文館刊行の「散文韻文 雪月花」のPDF版を視認して用いた。但し、句読点は底本では総てが句点であるため、適宜、読点への変更を施した。踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママであるが、草書の崩し字(「江(え)「於(お)」等)は再現していない。一部の語句について当該段落の後に改行して注を附した。ブログでは分割公開する。]

 

   汐なれごろも 明治二十七年八月

 

鎌倉の山鎌倉の海、吾一たび汝を知りしより、殆んど來り遊ばざる年とてはあらず。然れども夏日三旬の浮生を汝に寄せて、明暮相かたり相したしまんとするは、今年こそ始なれ。

同行は妻子に書生下婢を合せて六人、八月一日の五番汽車に運ばれて八幡前の停車塲に着きたるは、午後二時なり。是より更に人力車に乘りかへて、燒砂の道をうねりうねりゆくに、由井が濱の松風、はや我ために來り迎へて先導す。

遠くながめし長谷寺の山も來りぬ。車は門前にて楫棒をおろしぬ。黑くふすぶりたる表札に前田喜八と讀まれたるは、わが兼て約しおきたる假の宿の家主の名なり。樓上は八疊と四疊半、束京の家に比べては狹けれど、六人の膝を容るゝには餘あり。況んや欄干に凭れば、右には稻村が崎まぢかく立ち、左には三浦三崎の山々まで呼べば應ふるの絶景あるをや。況んや前は漁村を隔てゝ烟波萬里の海天を望み、後は晩鐘霞を破るの幽趣ある山寺を背おひたるをや。斜陽波を射て吟情まづ孤帆の邊に在り。

木魚の聲枕に落ちて眠はさめたり。蚊屋をくゞりて起きいづれば、日ははや靈山崎の松を半ば黄に染めたり。海老賣る男、松魚賣る男など、出で入るさわぎも靜まりて、朝飯やうや熟しぬ。一つの廣蓋を中央にして、肩をあはせ膝を交へつゝ箸を取る。小兒はめづらしとて喜び、下婢は世話なしとて打ち笑む。

[やぶちゃん注:「廣蓋」「ひろぶた」と読む。縁のある漆塗りの大きな盆。]

海は二町内外の距離にあり。浴客男女の別なく麥藁笠を深くかぶり、白き肌着を身にまとひて入るを常とす。われらも朝夕に此制服を着して、農家の庭を縫ひあるきつゝ近道づたひに徃來す。鳥追めきたる姿よと女を笑へば、さては床屋を其まゝかなと嘲り返さるゝも隔てぬ中なり。波も日毎になれなれて、朝には迎へて歌ふが如く、夕には送りて語るが如し。

[やぶちゃん注:本作の二十年後の大正三(一九一四)年に発表された夏目漱石の「こゝろ」の冒頭では、主人公の学生(当時は旧制高校生)の「私」が泊まっていた『宿は鎌倉でも邊鄙(へんぴ)な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた』とある。以下に引用する部分からも、彼の宿は大和田が借りた長谷の別荘とは滑川を挟んで対称位置にある材木座海岸側の大町・材木座周辺と推定される。『私は毎日海へ這入りに出掛けた。古い燻(くす)ぶり返つた藁葺(わらふき)の間を通り拔けて磯へ下りると、此邊にそれ程の都會人種が住んでゐるかと思ふ程、避暑に來た男や女で砂の上が動いてゐた。ある時は海の中が錢湯の樣に黑い頭でごちやごちやしてゐる事もあつた。其中に知つた人を一人も有(も)たない私も、斯ういふ賑やかな景色の中に裹(つゝ)まれて、砂の上に寐そべつて見たり、膝頭を波に打たして其處いらを跳ね廻るのは愉快であつた』と述懐する中で、『私は實に先生を此雜沓の間(あひだ)に見付出したのである。其時海岸には掛茶屋(かけちやや)が二軒(のき)あつた。私は不圖(ふと)した機會(はづみ)から其一軒(けん)の方に行き慣れてゐた。長谷(はせ)邊(へん)に大きな別莊を構へてゐる人と違つて、各自(めいめい)に專有の着換塲(きがへば)を拵えてゐない此處いらの避暑客には、是非共斯うした共同着換所(きようどうきがへしよ)といつた風なものが必要なのであつた』と記し、大和田一家の借りた別荘の高級感がそれなりに知れよう。また続く第二回では、西洋人を連れた「先生」との、初めての邂逅シーンでは、『私は其二日前に由井(ゆゐ)が濱(はま)迄行つて、砂の上にしやがみながら、長い間西洋人の海へ入る樣子を眺めてゐた。私の尻を卸した所は少し小高い丘の上で、其すぐ傍(わき)がホテルの裏口になつてゐたので、私の凝としてゐる間(あひだ)に、大分多くの男が鹽(しほ)を浴びに出て來たが、いづれも胴と腕と股(もゝ)は出してゐなかつた。女は殊更肉を隱し勝であつた。大抵は頭に護謨製(ごむせい)の頭巾を被つて、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かしてゐた。さういふ有樣を目撃した許(ばか)りの私の眼には、猿股一つで濟まして皆(みん)なの前に立つてゐる此西洋人が如何にも珍らしく見えた』と記す。この部分の「私」が観察しているのは、まさにこの部分で大和田が描写する長谷の坂下(さかのした)海岸なのである(「こゝろ」の引用は私の初出形注釈電子テクストより一部を改変して示した)。この「私」と「先生」の邂逅エピソードは作品内時間では、明治四一(一九〇八)年の七月下旬か八月、第一高等学校第二学年終了後の暑中休暇と私は推定している(その根拠や詳細は私のマニアックス」を参照されたい)が、私の推定が正しいとすれば、この大和田の記録とはもっと縮まって十四年前となる。――私はこの大和田の眺めた由比ヶ浜のその視野の端に――「私」と「先生」の姿を、確かに見るのである――。]

身を躍らせて折りかへる波を避くるもあれば、足を空にして碎くる波を蹴ゆくもあり。板を前にしておよぐ人、身をかゞめて貝ほる人、さては砂を塗られ永をかけられて爭ふ人など、磯に海に麥藁笠の數を集めて由井が濱こそ賑はしけれ。父は蟹を捕へて持ち來れば、小兒は砂地に池を作りて脇目もふらず。時々潮來りて築きし山を洗ひ去れば、小兒はあれよあれよと叫ぶ。

[やぶちゃん注:「避くるもあれば」の末尾は底本「あれは」。誤植と見て訂した。]

夕陽影を地に引きて、汐馴衣は窓毎に風に飜る。寢ころびて新聞の帶を解く頃、むかひの家にて唱歌の聞ゆるは、是も親子づれの旅人なるべし。新聞よみあきて窓によれば、大山參りの一群集は八幡前にや急ぐらん、岩本ゑびすやなどいふ赤き團扇をかざしつれつゝ、今ぞ觀音の石段を下り來る。

[やぶちゃん注:「新聞の帶」当時の新聞は郵便で配達されていたため帯封があった。

「岩本ゑびすや」ともに江の島の旅館名。]

明日は江の島につれゆかんといへば、小兒は喜びて早く目のさめざらん事を心配す。夜は明けたり、願ひし空は快晴を見せて、黄なる雲こそ棚引きたれ。運動がてら徒歩にて行かんと、極樂寺切通より七里が濱にかゝるに、雪と碎け霧と散る波、おなじ相模の海とはいへど、興更に深し。小兒は花よ紅葉よと名をつけて、貝を集め、女どもは波に追はれて砂路を遠く逃げくるふ。

見よあれに浮びたるが江の島よといへば、一しほの勇氣を鼓して、いつしか腰越にも着きぬ。片瀨は一昨年わが潮あびし處なれば、小兒なほ覺えゐて、こゝよかしこよと指さしかたるほどに、小さく見えたる島の鳥居は、目の前にせまりぬ。

岩屋におりんとする處に茶屋あり。人々腰うちかけてラムネを拔かせ、榮螺を燒かせなどす。われらも床几の一方に座を占めたり。見おろす方は岩屋の道にて、もぐりどもの身を逆さまにして飛びこむも、唯目の前なり。遠くは烏帽子岩を中にして、右の方には大磯より箱根のあたり、左には三崎の鼻より大島まで、霞みながらに指ざゝるゝこそ心ゆく限なれ。

長き日を此島に送りて歸らんとすれば、三日月高く岩根の松にかゝれり。七里が濱も見えずなりぬ。片瀨の山も黑くなりぬ。いづかたの里ぞ、海士が燒火の闇を焦がして見えたるも、面白き夜のさまなり。海は廣し空は暗し。波の音すごく響きて、七里が濱また晝に似ず、たゞ江の島の火影の長く跡にかへりみらるゝあるのみ。

朝よりもよほしつる雨は、嵐となりて降りあかし又吹きくらす。舟はのこらず引きあげられたり。漁村はいづくもとざゝれたり。また一人の磯邊に出づる旅客を見ず。日も暮れんとする頃、ながめしさまこそ物凄けれ。一度にくづるゝ氷の山は、萬雷の聲と爲つて天に震ひ、白煙たてゝ山を呑み巖を奪ひ、勝鬨あぐるも勇ましきに、數千の白蛇は頭をそろへて磯を圍み、去り又來る。見る見る三崎の山影は海底に葬られぬ。知らず靈山が崎も陷れらるゝこと今夜の中にやあらん。かへりみれば礫の如き雨に顏を打たれて、此晦冥の中に立つもの唯吾と踏みしめたる松が根とのみ、歌にもよまれず畫にもかゝれず。

[やぶちゃん注:暴風雨と荒れ狂う海の活写が独特の比喩によって印象的に示されてある。

「畫にもかゝれず」の「畫」の字は底本では下部(あしの部分)が(「田」+「一」)ではなく「回」である。]

かねて此旅寢のひまに訪はんと約しつる浦賀の妹をさして、鎌倉の停車塲を出でたるは十二日の朝なり。山の綠、水の藍、すゞしげに送り迎へて、逗子の停車塲も過ぎぬ。小兒の舟よ舟よと喜び叫ぶは、はや横須賀の來れるなり。こゝよりは皆々衣の裾ひきからげて、暑さも厭はで興じゆくを、車に居眠りして團扇おとすには優れりと慰めあふも、負惜みとや人は聞くらん。玉なす汗のたらたらと落ちくるも物かは、帆影おだやかに浮びたる東京灣の朝なぎこそ面白けれ。浦賀にも着きぬ。入海につどふ蒸氣の煙、汽笛の聲、更にものめづらしき女どもを喜ばせたり。小兒は頻りに父母の手を引きたてゝ、叔母樣の家は何くぞと急ぐ。我もまだ知らぬものをとて尋ぬるほどに、町盡きて千代崎の砲臺にかゝらんとする、少し前に見出だしたり。小兒は門より走り入れども、さすがに耻かしきにや物もいはず。先づ何よりの饗應は風と月なりと、主人の誇るも憎からぬ住居なり。余は猶つかれてもあらねば、主人と共に海邊など遊びめぐる。木の葉の如き漁舟の夕日を乘せて歸りくるも心地よげなるに、かなたには鋸山のまがはぬ影を煙の外に見つけたるは、盡せぬながめなり。夜に入れば東の窓に月を入れながら、盃をさしかはす。叔父樣いつまでもおはせ

よといふ兒もあれば、叔母樣を東京につれかへらんといふ兒もあり。

[やぶちゃん注:この次の段落もそうだが、小津安二郎の映画のワン・シーンででもあるかのような錯覚さえ覚える、何かしみじみとした日本の失われた情景のように私には思われるのである。

「千代崎の砲臺」千代ヶ崎砲台は燈明ヶ崎の灯明堂から海岸沿いに少し南に行った海に突き出た所にあった江戸幕府の江戸湾防備用旧西浦賀千代崎砲台をルーツとし、後にこの周辺が旧陸軍千代ヶ崎砲台となった。現在、自衛隊通信基地が隣接、遺跡の一部が同敷地内に含まれる。とのたま氏の「Digital Artworks TeeART Blog.」の「[戦跡]千代ヶ崎砲台跡周辺探索」ではスリリングに、その現状が分かる。必見である。]

 翌日は公園に登り、又主客うちつれて磯邊に貝拾ひに行く。袋を提げておくれたるは、岩にすべるなと注意せられ、草履を捨てゝさきだてるは、牡蠣を踏むなと戒めらる。紅葉の如き貝、櫻の如き貝、あるは薄紫の藤に似たるもあれば、眞白に雪をあざむくもありて、彼も捨てじ是も殘さじとするほどに、袋もハンケチも滿腹ならぬものなし。されど風こゝちよく汗を拂ひては波をさへ吹き散らすに、猶しばしは歸らんともせず、岩に砂に腰うちかけて沖ゆく汽船を數ふれば、三艘は影を絶やさぬやうなり。あれは神戸通ひならん、いや北海道ならんなど、理窟もなき品定めする傍には、たゞ一心に砂山つくる小兒もあり。大島は見えねど、洲の崎の鼻はあれなりと指し示さるゝステツキの先に眼を移せば、げにも薄墨もて書き流したる一の字の山は現れたり。またの朝名殘をのこして歸さに向ふに、送る人々は遠く追ひ來りて影見えぬまで街に立てり。叔父樣さらばとやいふらん、彼の小兒は母の肩にか一りて頻りに打ち招く。あはれ浦賀の海とこしへに靑く、房總の山ながく綠なり。來ん秋も又來ん春も我は訪ひこん。

[やぶちゃん注:「公園」現在の京急浦賀駅の西北三〇〇メートルほどのところにある浦賀公園か(神奈川県横須賀市浦上台)。標高四七メートル。

「洲の崎の鼻」房総半島の最西南端である千葉県館山市洲崎。試みに浦賀湾の入口の先の砲台下にある燈明ヶ崎から計測すると、洲崎までは海上を直線で二八・五キロメートル程ある。]

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