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2013/05/06

中島敦漢詩全集 八

  八

平生懶拙瞻星悦

半夜仰霄忘俗説

銀漢斜奔白渺茫

天狼欲沍稀明滅

 

○やぶちゃんの訓読

 

平生 懶拙(らんせつ) 星を瞻(み)ては悦ぶ

半夜 霄(おほぞら)を仰ぎて 俗説を忘る

銀漢 斜めに奔(はし)り 白(むな)しく 渺茫(べうばう)

天狼 沍(こほ)らんと欲して 明滅 稀(まれ)なり

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「平生」終生という意味と、平素という意味がある。ここでは素直に平素と取る。ただし、中島敦と星との関係には何か宿命的なものがあるため、「人生を通して、ずっと」という感覚を加味しても許されるだろう。

・「懶拙」怠惰でありかつ魯鈍なこと。往々にして、富や名誉に恬淡として大らかで悠々として迫らない態度を指す。

・「」前方もしくは上方を眺めること。

・「」愉快であること。

・「半夜」夜半、深夜零時頃。

・「」雲、若しくは天空。ここは天空を指すのであろう。

・「俗説」巷の俗説や俗諺。詩意から判断して「世間諸々の俗なこと全て」という語気である。

・「銀漢」銀河、天の川の書面語(中国語に於ける文章語。本邦でいえば文語、若しくは文語的表現というものに近い)。冬の夜空に天狼が南中するその時、銀河は南南東の地平から立ち上がり、仰角約四十五度に煌く天狼と天頂の間を抜け、北北西の地平に注ぎ込んでいる。

・「」走ること、若しくは一気に向かうこと。詩では「銀河が斜めに走る」、すなわち「銀河が天空を大胆にも斜めに横切っている」のを表現したものであろう。

・「白」白色のという意味と、明るい、清純な、夾雑物のない、相当する対価のない等、そこから派生した複数の意味を持つ。この詩では、少なくとも銀河が白くぼんやりとした光を放っている様子を指してはいる。但し、憧れだけで満たされたミルクのような白ではない。どこかで虚無に通じるイメージである。そこにこそ、「むなしく」と訓じた意味がある。

・「渺茫」曖昧模糊としていること。従って、ここでは銀河が白くぼんやりと伸び、広がっている様子を表現している。

・「天狼」シリウス。

・「」ここでは、もう少しでそのような状態になる、との意。

・「」塞がること、若しくは凍結すること。ここでは後者。

・「稀」文字通り、まれであること。なお中国語では、古今を通じて原則として空間的に離れていることを指す。もし中国語だけで理解するなら、この一字で時間的に離れていることや頻度が低いことをあらわすのは、やや無理がある。しかしここで詩人は明らかに明滅の頻度の低さをうたっている。そしてさらに言えば、天狼が凍り付いて瞬きが停止していることこそ、この詩の眼目なのである。

・「明滅」明るくなったり暗くなったりすること。

 

T.S.君による現代日本語訳

 

塵埃に塗れた俗世間から逃れ……深夜、

星に心を慰め独り現実を去る……銀河、

白く滲む帯が天空を斜断する……天狼!

 …

沈黙の宇宙に

汝の燦めきが

凝結していく

 …

ああ、何という輝度

また、何という硬度

 …

汝と私以外の

あらゆる物が

徐々に消え失せていく

 さあ!

ジリジリと燃えさかる

汝の、その蒼白い光よ

私を照射せよ!

私の胸を貫け!

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 初見、私はまず躓いてしまった。「俗説」……。何という無神経な言葉遣いだろう。俗世間から顔を背けることを述べるにしても、もっと典雅な用語を使えば良いものを……。つまり、私はまず詩世界の門にはじき返されたのだ。いや、正確には、自分から入るのを拒否してしまったのだ。そしてそのまま転結句の上っ面を撫でた私の中では、銀河と天狼が全く共鳴しなかった。というより、天狼に集中しようとすると銀河が邪魔になった。なぜこんなところに銀河を持ち出したのか。銀河に何の意味があるのか。そこから詩に一歩も近づいて行くことができなくなった。数日間の呻吟が始まった。

 この詩の眼目が結句にあることはすぐに分かった。まるで心臓が、左の心房と心室、右の心房と心室の四つの部分で機能を果たしているように、「欲」「」と「稀」「明滅」が連携して詩を生かしていることに気づくのも、時間は掛らなかった。しかし天狼は、銀河とはなかなか同居しなかった。ましてや起承句と転結句の間には、不協和音という逆説的なハーモニーすら聞き取ることができなかった。

 

 そして数日後のことである。ふと気づいたのだ。この詩を書いた彼と、私自身の一種の相似を!

 私は悩んでいた。そして粗暴で投げ遣りな自分の感情に、自分自身で傷ついていた。そんな状態に私を引き込むもの、それは心の中に蟠る様々な俗世間の悩みだった……。

――そうだ!

これこそ「俗説」ではないのか!?

『もっと典雅な用語を使えば良い』などと私もよく考えたものだ!

『無神経な言葉遣い』だって?

私の心こそ無神経にささくれ立っていたではないか!――

 私は、足元の、生々しく活きた自分自身の憤懣によって、その時初めて、詩人の息が聞える距離にまで一気に近づくことができたのだ。

 

 恐らく彼が抱えていたのは、高尚な形而上の美しい悩みなどではなかった。もっと卑近な、くだらない、日常生活の断片から生起するところの、汚濁に塗れた、腐臭を発する、低次元の苦悶から発する呻きだったに違いない。だからこその、「俗説」なのだ。

 

 そして「平生懶拙」という言葉。この、何の力も入らず、拘りない言葉に対して抱えていた違和感も、そのときふっと消えた。質(たち)の悪い現実の矛先をかわすには、鋭い刃も柔らかく受け止めることができ、決して切り込まれないような、この太平然とした呑気な物言いこそが相応しいのだ。

 

 天狼との共鳴を感ずることができずに悩んでいた転句の銀河の描写。

 これについても、天狼に視線を集中した際の効果を強めるものとして、決して欠かせないということに気づいた。結句で天狼の輝きに最大の輝度と硬度を持たせるためには、まず、全天を斜めに横断するような銀河をさえ収容してしまえる、広大で底無しの宇宙と、虚無の影を宿した、闇に柔らかく白く滲む天の川が必要であったのだ。

 誰もが幼い頃に試したことがあろう、虫眼鏡で太陽光線を一点に集めて何かに火を附けた、あの時のことを想像してもらいたい。まず、対象物と太陽の間に虫眼鏡を差し出す。始めは焦点がまるで合っていない。しかし虫眼鏡と対象物との距離を調整する。すると、虫眼鏡を通過する太陽光の丸い円が、対象物を中心としてその半径を縮めてくる。

 面積の縮小に反比例して劇的に強まる円内の輝度と熱量!

 この詩における天と銀河は、そんな働きをしている。そうであればこその、贅沢に全天をキャンバスにした天の川なのである。

 

 しかも、この詩の眼目は、そこにある天狼が凍りつき、瞬きを殆ど停止することにある。

 ジリジリと焼ける天狼は、このとき詩人の心の中で、輝度が最大になる。蒼白い光に目が眩むほどに。

 では、なぜ瞬きは止まらなければならなかったのか?

 それは、詩人が全力で、全存在をかけて、星と対峙したからである。瞬くなどという悠長な姿では、詩人の集中力、そして激情と均衡することは、決してできないからである。

 詩人は、かの凝結した、凄絶といっても良いような輝きに、彼の全存在を照射させたのだ。生きていることを、強力に、かつ劇的に燃焼させたのだ。

 このとき、当然ながら詩人の視界には、最早、俗世間はもとより――天空も、銀河も――ない。

 あるのは――天狼からの強烈な光の放射と――それに真正面から対峙する、自分の生命ばかり――であったはずだ。

 

 私は、まだ悩んでいた。私の筆力では結句の灼(や)け付くような詩人と天狼の一騎打ちを表現しきれない……。

 そこで、結句に詩の心臓があることに気づいたときから私の中に始終鳴り響いている、ある音楽をここで提示し、その詩境を私なりに再現してみることにした。

 

 武満徹の、ピアノとオーケストラのための音楽「Riverrun(*)である。この曲に初めて接した十八年前の私は、タイトルを知らなかった。そして恥ずかしいことに、川の流れをイメージしなかった。ただ、底無しの宇宙、そして生きていることの不思議を感じた。そして、全曲十二三分のこの曲の、冒頭から四、五分程度のところに現れる全楽器の強奏部分に、宇宙を司る力の集中と解放を感じた。

(*)[やぶちゃん補注:一九八四年作。「リヴァラン」と読む。意味は「リバー・ラン」で「川の流れ」の意であろう。因みに関係があるかどうかは不学にして不明であるが、ジェイムズ・ジョイス最後の小説「フィネガンズ・ウェイク」(Finnegans Wake)の冒頭はまさにこの綴りの単語で始まる。これについてウィキの「フィネガンズ・ウェイク」には、『小説の冒頭は riverrun, と小文字ではじめられるが、これは第4巻最終章「アナ・リヴィア・プルーラベル」と対応している。「アナ・リヴィア・プルーラベル」は、意識の流れの手法によりアナの独白によって構成される章である。夫や家族についてのアナ・リヴィアの呟きは、そのままにダブリンを貫流して大西洋へ滔々と流れ行くリフィー川の呟きとなり、やがて短い切れ切れの緊張した語の断片の配列となって、人類の覚醒を予感させる昂揚した ALP の意識の高まりのうちに『フィネガンズ・ウェイク』は終わるが、その最後にはピリオドを伴わずに定冠詞 the がおかれ、この定冠詞が第1巻冒頭の語 riverrun にそのまま続いており、作品全体が人類の意識の流れの終わりなき円環をなすことが示される』とある(「ALP」は登場人物の女性アナ・リヴィア・プルーラベル。小説ではこの略号で示される)。参考までに引いておく。なお、リンク先は YouTube MrBWV1080 氏提供になる小川典子ピアノ J.Mena 指揮BBCフィルによるものを私が附した。]

 そもそも宇宙の不可思議な深さを感じさせる曲想自体が、中島敦が見た星空そのもののようだ。そして、まさに四、五分程度のところの強奏部分こそ、天狼が『沍(こほ)らんと欲して 明滅 稀(まれ)』となった姿そのものに聞えないだろうか?!

 私にこの詩を紹介する映像を撮影する機会が与えられたなら、バックに必ずやこの音楽を用いるであろう。

 戦前に生き、漢学に培われたある詩人の抱えた星空と、現代日本を代表する作曲家の持っていた宇宙は、実はその性質において極めて近いものであったと、私は今思うのである。

 

 蛇足となるが、私は二十七年前の夏、旅行で訪れた山西省大同郊外で、夜汽車の窓から、生れて初めて星粒ひとつひとつに遠近感を感じるような満天の星空を目にして衝撃を覚えた。それ以来、ただの一度も、本物の星空に接していない。私たちは、本物の夜空を、実は自分たちの手で、抹殺してしまったのである……

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