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2013/06/05

大橋左狂「現在の鎌倉」 11 名所古蹟 序

     名所古蹟

 

 新橋驛を發した下り列車と、神戸・大坂・名古屋方面よりの上り列車が靜岡・國府津の各驛を通過して、大船驛に着きぬ。此處は横須賀支線の分岐點である。驛長・車掌・驛夫等が熱心に乘換方面の案内をして居る。各列車から吐出された數百の旅客は右往左往思ひくの方面に乘換した。やがて驛鈴の合圖と共に横須賀行きと記された汽車は、黑烟を吐ひて軌り出した。逆風に黑姻を吹き込む車窓から呑氣に頸を出して四方の風景を大聲擧げて賞して居る赤毛布達(あかげつれれん)もある。此次驛は鎌倉驛だと騷がしく甲から乙へ乙から丙へと傳言する遊覽團員もある。フロックコート山高帽子の紳士、白髮銀髯(ぎんせん)の元老も、正裝を擬した新婚旅行の若夫婦もある。赧顏(しやがん)嚴めしき海陸の軍人もある。客車内は百人千種の話しに囂しい。間もなく列車は轟々と隨道(とんねる)内に入つた。此隊道を扇ケ谷の隨道又は尾藤ケ谷の隨道とも言ふ。此邊は上杉管領時代に於て、扇ケ谷上杉の舊館趾で其れに續いて尾藤景綱の邸跡もある。列車は絹を劈ひた樣な汽笛を幾囘となく鳴して隨道を出ると漸次に徐行して鎌倉驛構内に停車した。數百の遊覽團體、一日の日曜を利用した箇々の遊覽客、一家族を引連れた避暑客等數へ切れぬ多くの下車客が潮の如く押しつ押されつ改札口から出た。

[やぶちゃん注:「大船驛」明治二一(一八八八)年十一月一日、官設鉄道駅として開業。旧東海道沿いに駅を置くべきとの意見が明治新政府内部にあったため、最後まで大船駅の設置については紛糾した。当初は旅客取り扱いのみの旅客駅であった。駅正面は当時は西側(観音側)のみであった。明治二二(一八八九)年六月十六日に横須賀線が横須賀駅まで開通して分岐駅となった。貨物取り扱い開始は明治二七(一八九四)年から(ウィキの「大船駅」に拠る)。

「赤毛布」赤ゲット。「ゲット」は「ブランケット」の略で、田舎から都会見物に来た人、お上りさんをいう語。語源は明治初期の東京見物の地方旅行者の多くが赤い毛布を羽織っていたことに由来する。

「赧顏(しやがん)」の読みは底本のママ。これは「たんがん」と読むのが正しい。本来は顔を赤くすること、恥じること、赤面の謂いであるが、恐らくはこれ、「赭顏(しやがん)」の親本の誤植であろう。軍人の日に焼けた赤銅色の赤味がかった顔、赤ら顔の謂いと思われる。

「扇ケ谷の隨道又は尾藤ケ谷の隨道」「尾藤ケ谷」とは「尾頭谷」ともいい、伝山ノ内管領屋敷の向かい側、浄智寺の東の谷、本文通り、現在の横須賀線が北鎌倉から鎌倉へ抜けるトンネル(正式名は「扇ガ谷トンネル」か)に進入する谷を指す。「新編鎌倉志卷之三」に、

○尾藤谷 尾藤谷(びとうがやつ)は、管領屋敷の向ひ、淨智寺の東鄰の谷(やつ)也。里人の云く、昔し尾藤(びとう)左近將監景綱(かげつな)此に居す。又圓覺寺額(がく)の添狀に、延慶元年十一月七日、進上、尾藤左衞門尉殿、越後の守貞顯とあり。此尾藤歟。又佛日菴に、小田原よりの文書あり。鼻頭谷(びとうがやつ)と書けり。

とある。但し「吾妻鏡」によれば、その時既に泰時の邸内に彼が住居を構えていた旨の記載があり、泰時邸は当時の幕府正面、現在の宝戒寺のある位置であることが判明しているので、ここをもし尾藤の居宅とするならば、彼が身内の事件に端を発して出家した嘉禄三(一二二七)年以降のことかとも思われる。しかし彼は病没する前日まで家令として幕政実務を取り仕切っていたことも分かっており、彼をこの谷名の同定候補(少なくとも屋敷跡の谷とすること)とするのには私には疑問が残る。なお、この忘れられた谷(皆、電車で通過するばかりで訪れる人は殆んどない)には多くのやぐら遺構が現在も見られる。「鎌倉旅行 クチコミガイド」内にあるドクターキムル氏執筆の「鎌倉山ノ内尾藤谷のやぐら」に尾藤景綱の事蹟も含め、詳細な解説と写真がある。

「尾藤景綱」(びとうかげつな ?~文暦元(一二三四)年)は北条泰時の被官。藤原秀郷の子孫知景の子で通称を尾藤次郎といった。左近将監。承久の乱に際して、泰時が十八騎を従えて出立した際の一人。元仁元(一二二四)年に泰時が執権に就任すると初代の家令となって公文所を統括した。北条氏御内人(みうちにん)として平盛綱・諏訪盛重らとともに、朝廷との折衝・御家人統制に貢献し、条例制定や義時追福の伽藍建立などの様々な行事の奉行人を務めるなど、泰時の懐刀であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「尾藤景綱」を参照した)。]

 驛前の構内には百餘の人力車が並べられてある。而して此人力車は殆んど新式のゴム輪(わ)である。車輪の體裁が良いので一見乘車賃迄が高價の樣に考へる田舍赤毛布達もあるが、決して京濱其他の地方より高價の事はないのである。人力車の取締役・世話役は絶えず構内に出張して、多くの輓子が乘客に不都合のない樣監督をして居る。停車場を出でゝ眞直に往けば玆には江の島電車が置いてある。小町停留場と云ふてこれより長谷、七里ケ濱、江の島、藤澤に往くのである。

[やぶちゃん注:先の「人力車」の力の入った記載といい、ここでのダメ押しの褒め言葉といい、どうもタイアップ広告の臭いがぷんぷんする。]

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