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2013/06/18

中島敦漢詩全集 十二

      十二

馥郁南廂下
薔薇赫奕奢
淺黄眞冷艶
深纏正豪華
蝶翅嬉珠蕾
蜂腰沒彩葩
可嗤貧寠士
能栽富貴花

○やぶちゃんの訓読

馥郁(ふくいく)たり 南廂(なんさう)の下(もと)
薔薇(さうび) 赫奕(かくやく)として奢たり
淺黄(あさぎ) 眞(まさ)に冷艶
深纏(しんてん) 正(まさ)に豪華
蝶翅(てふし) 珠蕾(しゆらい)に嬉(よろこ)び
蜂腰(ほうえう) 彩葩(さいは)に沒す
嗤(わら)ふべし 貧寠士(ひんろうし)
能く栽(う)う 富貴花(ふうきくわ)

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「赫奕」美しく光輝く様子。「赫」は輝くさま、「奕」は盛大なさまである。
・「奢」制限なく金銭を遣うこと、若しくは度が過ぎていること。ここでは惜しみなく豪華に花が咲いている様子を指す。
・「深纏」この語は前句の「淺黄」と対を成していると取るべきである。「廣漢和辭典」の「纏」の項には、ほとんど最後、六番目の字義ではあるが、「=繵」(音、タン・ダン)とある。この「繵」という字は「単衣(ひとえ)」「纏う」「縄」の意味のほかに、紫色の意を有する。日本古来の紫が赤味が強いものであったこと、英語の“purple”が赤味がかった色であること、濃紫や江戸紫色の薔薇を一般的にはイメージし難いことなどから、ここは「深紅」と解釈する。真紅の薔薇の花弁と、その間の吸いこまれるような深く暗い紫に紛う怪しい色を想起しても、強ち作者のイメージからかけ離れているとは思われない。
・「嬉」遊ぶこと、戯れること。
・「沒」沈むこと、隠れること。
・「彩葩」「葩」は花。従ってこれは色鮮やかな花。
・「嗤」嘲笑すること。
・「貧寠」貧乏であること。
・「富貴花」中国の古典文学では、「富貴花」といえば牡丹か、もしくは花海棠(ハナカイドウ)を指す場合が多い。しかし、ここは明らかに貧乏な詩人の姿と対照的な豪華なバラを指している。

〇T.S.君による現代日本語訳[やぶちゃん注:添えた二葉の薔薇の写真は孰れもT.S.君が中国に於いて、この詩に私と彼が取り組む前に、奇しくも撮影したものである。]

 

Cimg2275_2

 

南の軒下に香り高く
豪華に輝く私のバラ
薄黄―― なんという冷艶……
深紅―― なんという豪奢……
蝶の羽根は珠のような蕾と戯れ
蜂の身体は花弁に深く包まれる
オイどうだ、可笑しいか?
この貧乏文士が花の主さ!

 

Cimg3255_2

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 中島敦漢詩全集「二」における、四月の庭に咲き乱れる花々を歌った色盡くしの七律が想起される。庭の豪華さと詩人に対する周囲の目との落差を、若干の得意の念を添えつつ、半ば自嘲気味に指摘して詩を終える点も共通している。但し、そこに歌われていたのはバラでなく、ヒヤシンスとチューリップであった。また、そこで言及された色のイメージは、紅・紫・朱・黄・緑・蒼・金と、いわば躁状態における色彩の乱舞であった。
 かの詩に比べ、この詩における詩人の視線は対象への集注度が高い。花はバラ、色彩は薄い黄色と深紅の二種類のみである。視線は浅黄と深紅のバラに固定される。そしてその花弁を深く深く見つめる。すると……、情念を包み込むようなその妖しい色彩が詩人の心と同期し始める。

 さあ、ここからだ。詩人は色彩の奥へ奥へと入っていく。まるで無意識の深層へと降りていくように……。
 すると、どこからか蝶が舞い降りてくる。
 鱗粉にまぶされた蝶の羽根が黄色の花弁に戯れかかる。
 この羽根は紋白蝶の白なのだろうか? 紋黄蝶の黄なのだろうか? それともアゲハの白と黒の縞模様に赤や緑や紺を配した豪華な錦織なのだろうか? いや、ここに至っては……もう、何色でも構わない! 読者の想像されるがままに……
 いずれにしても造物主のつくり給うた霊妙なる深い色彩が、冷艶な浅黄や妖しい深紅と戯れるのだ。 読者は一種の酩酊状態に見舞われるに違いない。
 するとさらには、今度は蜂がやって来る。
 黄を基調に黒い陰影を帯びた蜂の身体が、取り澄ましたような優雅な黄色や、高級なビロードのような深紅の妖しい花弁に吸い込まれていく。
 ああ、なんという恍惚! クロース・アップの画面が、我々を蜂にさせ、花弁の襞の中へと吸い込まれるような強烈な眩暈に襲われるではないか!……

 詩人はこの詩で、妖しい豪華な豊饒を歌う。そんな目くるめく世界に自分で自分を駆り立てていく。そして、ひと時、この白けて色褪せた現世を去るのである。

 最後の二句。詩人は自らを貧しい文士と嘲り、その文士がこの豊饒世界を所有していることの意外性を、詩句に定着する。但し、この皮肉めいた物言いに、ひねくれた翳はどうも感じられない。それは詩人がこの瞬間に限って、豊饒な世界への耽溺、それだけで充足しているからだ……。

 この色彩の豊饒を、私は何に例えればいいのだろうか? 梅原龍三郎の「薔薇図」?[やぶちゃん注:リンク先はグーグル画像検索「梅原龍三郎 薔薇図」。それぞれに御自身の好きな一枚を選ばれよ。]――この視覚芸術は、たしかに豪華さでは決して詩に引けを取らない。この世ならぬ豊饒の世界に違いない。しかし、しかしである。果たして絵画は、豊饒を超えた向こう側にある虚無の彼岸まで表現しているかどうか?……私には感じられてならないのだ。詩こそ/だけは、豊饒の極点を超え、人をして虚無に誘い込む力まで備えているのだ、と。……私の幻覚だろうか?……そうかもしれない……そうだとしても……いや、そうであるならば尚更、私の感性を妖しく刺激して現実の崖っぷちまで誘い出し、虚無の奈落を覗き込んだと信じ込ませる力を持つ“文芸”というものの恐ろしい可能性を、私はここに見る思いがする。……

 「二」における漢詩と同様、私はこの詩によって強烈な眩暈に襲われ、この世ならぬ豊饒世界を垣間見ることができた。しかし……長居は無用かもしれない。私は苦しいのだ。酸素の濃度が高すぎるのだ。目も眩むほどなのだ。色彩が鮮烈すぎるのだ。果たして読者も、この息詰る世界に窒息しそうにならないであろうか。これほどの豊饒世界に住むことは、人間には許されていないのかもしれない。

 ふと我に返った私は、この詩の強烈な原色の世界を胸に、人情の淋しさと、人生の果敢なさという現実を改めて直視せざるを得ないのでいる。……もしかしたら、中島敦は、そこまで読者に感得させることを、想定していたのかもしれない……そんな気さえ、してくる……

 そうして――薔薇――といえば、私にはどうしても『或は病める薔薇』という副題を有する、佐藤春夫の『田園の憂鬱』が思い出されてしまうのだ。

 「おお、薔薇、汝病めり!」……

 あの薔薇は病んでいた……。
 そう、現実は常に病んでいるものだ。
 病んでいてこそ現実なのだ。
 この詩世界にあるような完璧な豊饒世界はどこにあるのか……。
 もしかしたら、人それぞれの心の中にしか創り出し得ない架空のものなのかもしれない。

 この漢詩に接した後で私が改めて感じた、人情というものの淋しさ、現実世界の虚ろな佇まい。これを表現してくれる文芸作品として、同じ佐藤春夫の詩を掲げよう。
 併せてこの漢詩と、この佐藤春夫の詩との対比によって、漢詩の息詰る豊饒を再度浮き彫りにしたいと思う……。
 私の日常は、いつもこの佐藤春夫の「うつろなる五月」のような微温的なものなのだ。
 だからこそ、中島敦の、この漢詩に、私は強く憧れてしまうのであると告白しておく。

   *

 うつろなる五月

  世に美しき姉妹ありき。わがよき友なりしが、程なく
  故ありてまた相見るべくもなしと告げ來たりしかば。

君を見ずして 何(なん)の五月(ぐわつ)
きらめける空いたづらに
いぶせき窗をひらくとも
翻(ひるがへ)るかの水色の裳(もすそ)見えず。

君なくして 何(なん)の薔薇(さうび)
みどりの木(こ)かげいたづらに
求めたづねて行き行くとも
涼かぜのかの笑ひをきかず。

うつろなる心に ひねもす
おん身たちの影を描(ゑが)き、思へ
わが薰りなき安煙草(やすたばこ)の
むなしく空に消ゆるさまを。

[やぶちゃん注:底本は岩波文庫昭和一一(一九三六)年刊の昭和三八(一九六三)年改版になる佐藤春夫著「春夫詩抄」に拠った。詩前に配された詞書風の部分は表記通り、本文よりポイント落ちで全体が二字下げで、その改行も底本に従った。]

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