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2013/06/06

大橋左狂「現在の鎌倉」 12 鶴岡八幡宮 円応寺

 鶴ケ岡八幡宮 鎌倉驛に下車して小町停留場に出て、江の島電車の鐵路を反對に左折すれば苦しを偲ばるゝ老松の並樹が兩側に並列して何處迄も見透しが屆かぬ樣に見受けられる、一丁餘にして石鳥居と稱す。それより一段高く土が築かれて八幡社前に至る五丁餘の芝草敷かれた中央路を俗に段葛と稱してある兩側の通路には商家軒を並べて居る。殊に左側には旅館及名物の貝細工店等が數多くある。社前の鳥居を入れば大鼓の胴の如くに反りたる石橋がある。由緣の神橋で赤橋と稱して居る。境内の兩側には一帶の蓮池がある。庭の中央に靜御前の舞ひし拜殿あり、正面石段を登れば左側に三代將軍實朝公を弑した別當公曉の隱銀杏樹(かくれいてう)の神木がある。登り詰むれば樓門あり左右に廻廊あり殿宇の莊嚴肅然たる本社あり、玆には源氏に緣故深き數百種の寶物陳列しありて一般公衆の縱覽に供しあり、拜觀料一人十錢なりと云ふ。本社には應神天皇、神功皇后、大仲媛神(おおなかひめがみ)の三神を祀り、石段下の若宮には仁德天皇を祀り、白旗の宮には右大將賴朝を祀つてある。本社は康平六年源賴義が束征の砌り山城なる石淸水の八幡を勸請したるに起因し、後ち治承四年に到り右府賴朝の鎌倉に入るや更に今の大臣山麓下に遷したのである。而して賴朝幕下の諸將が武運長久の祈願所となり漸次其名が束國に轟いたのである。今は國幣中社の社格で毎年祈年祭には奉幣使の參向がある。

[やぶちゃん注:「一丁」一町で約一〇九メートル。

「石鳥居と稱す」の「稱す」の右に底本では『(ママ)』注記がある。]

 鶴ケ岡八幡の境内を出でゝ三の鳥居に戻れば、赤橋の東に三橋旅館の支店たる薄水色に塗り上げた和洋折衷の三層樓と軒を竝べて角正(かどせう)旅館がある。角正旅館を東に折れて約一丁に鐵(かね)の井がある。鎌倉十井の一名井である。此處より南北に道路が岐れてある。北すれば有名なる鎌倉七切通の一なる巨福呂坂を登り詰めて左に石段高き處に、日本最初新居子育閻魔王と刻まれた大きな右横が建てられてある。之れぞ鎌倉五山の第一位なる臨濟宗建長寺派の大本山巨福山建長寺の末寺新居閻魔堂である。圓應寺と云ひ建長二年の建立であるそうだ。堂内には本尊の大閻魔王を初めとし七箇の閻魔王が倂列されてある。何れも運慶の作と稱してある。其内四體は國寶となつてある。寺院の住職は語つて言ふ、此寺の本尊大間魔王は其苦し近郷の惡埀兒(あくだれご)が餘りに母親の言ふ事をきかないので、母親が此閻魔王に食べて呉れと祈つたそうだ、或日の事母親は惡埀兒が見へなくなつたので、もしやと閻魔堂に來て見れば、愛兒の着物の付紐が閻魔王の口から埀れてあるので一驚其場で氣絶したそうだ。其彼此閻魔王の口からは絶えず赤き付紐が埀れてあつたそうだ、明治に至つて此埀紐を除いたとの事である。參詣者は此大本尊が眼を瞋らし口を開きて大喝せる樣は見るものをして如何に驚愕せしむる事ぞ。名も子育閻魔王と云ふ丈けに、近郷近在の善男善女は産前産後に此閻魔王に參詣して安産を祈願し又は赤兒の命名を受くるそうだ。此寺より命名を受けた赤兒は非常に健康で生長するとの事である。此寺を出でゝだらだらと坂を降れば、右に見ゆるはこれぞ臨濟宗五山の座位を定めし時第一位に置かれた、禪宗建長寺派の大本山巨福山建長寺である。

[やぶちゃん注:「三橋旅館」明治から大正にかけて海浜院ホテル(後の海浜ホテル)とともに鎌倉で最大規模を誇った長谷にあった旅館。参照したサイト「e-ざ鎌倉・ITタウン」内の浪川幹夫氏の『「三橋旅館」について』(この論文は雑誌『鎌倉』七十八号の氏の「所謂『三橋旅館』について」をもとに書き改められたものであるが、(1)(2)(3)(4)まである詳細を極めた図版・写真も豊富な素晴らしいもので、是非、一見せられたい)によれば、『文化六年(一八〇九)扇雀亭陶枝の「鎌倉日記」に、「長谷なる三ッ橋といへるにて、ひるのしたゝめする。生々しき鰺を火とらす爰は泊宿有所なり」と見えており、文化年間には既に宿屋を営んでいた』らしい老舗旅館で、福沢諭吉・原敬・伊藤博文・南方熊楠・巖谷小波・饗庭篁村・市川左団次ら、錚々たる面々が宿泊した。

「角正旅館」三橋旅館の「三橋出張」(支店)であった対鶴館角正。前に示した浪川幹夫氏の『「三橋旅館」について の2に明治二九(一八九六)年発行の『「相摸国鎌倉名所及江之嶋全図」には長谷の本館のほかに、若宮大路に「三橋出張」が描かれています。この旅館は明治三十八年横浜郵便局から発行された『横浜横須賀電話番号簿 附特設電話番号簿』によりますと、雪ノ下265(現雪ノ下1―8―35、36)に所在し、経営者は伊東右朔といいました。三十三年の同支店の広告には三階建てとあり、鶴岡八幡宮前角正旅館の並びの、薄水色に塗り上げた和洋折衷の豪壮な建物であったようです』とある。前注と同じサイトで同じく浪川氏の筆になる「古き鎌倉再見」シリーズの「その7」「その8」(ページ標題の「6」は誤り)などにも、その記載や写真がある。また、Carte watcher 氏の「鵜の目・鷹の目・絵葉書の目」の「鎌倉 鶴岡八幡宮入口 三の鳥居付近 角正旅館」には明治三〇(一八九七)年頃と推定される同旅館がはっきりと写った彩色絵葉書が見られる。これによって現在の八幡宮の三の鳥居前の、向かって左側にある駐車場に対鶴館角正はあったことがよく分かる。この写真も必見!]

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