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2013/06/07

文藝に於ける道德性の本質 萩原朔太郎 (朔太郎の龍之介の「侏儒の言葉」への批判)

 文藝に於ける道德性の本質

 

 自分がこの標題のことを考へたのは、かつて數年前、故芥川龍之介のアフオリズム「侏儒の言葉」を讀んだ時以來であつた。當時自分は、芥川君の作品を愛讀して居た。もつとも自分の讀んだのは、死前二三年前の作品(河童、齒車、西方の人など)であり、その以前の小説については、ごく初期のもの以外に、殆んど知らないといふ方が好い位であつた。

 ところで「侏儒の言葉」は、そのアフオリズムの形式からが、日本では珍らしく類のない文學なので、當時やはりその種の文學を書いてた自分は、特に注意して精讀し、毎號それを卷頭に連載した雜誌「文藝春秋」を、殆んど缺かさずに讀み通した。前にも言ふ通り、當時自分はその作者の小説が好きだつたので、このアフオリズムにも期待するところが多かつた。然るにその讀後感は、いつも自分の期待を裏切り、甚だ物足らないものが多かつた。單に物足らないといふだけではなく、何かしら自分の反感をそそり、或る漠然たる怒りを感じさせるものがあつた。何故にその斷片語錄(アフオリズム)が、自分の感情を刺激し、義憤に似た反感を感じさせたのだらうか。

[やぶちゃん注:「斷片語錄(アフオリズム)」の「アフオリズム」は底本ではルビ。]

 當時自分は、その不思議な原因を色々に考へてみた。勿論その原因は、自分と作者との間に於ける、思想上の異論や衝突にあるのではなかつた。實際またそのアフオリズムには、作者のドグマを強要的に主張するやうな箇所は少しもなかつた。のみならず作者の言ふところは、理性上に於てすべて皆肯定された。だがそれにもかかはらず、自分の中の或る「道德心」が、ひどくそれを良心的に反感した。或る漠然たる、言葉に言へない判斷性が、許しがたくそれを「反道德の文學」と命名した。そのくせその斷片語錄には、普通の意味で破倫的のことや、非道德的の箇所は少しもなかつた。

 その時以來、自分は文學に於ける道德性の本質を考へて來た。そもそも文藝上に於けるモラリチイとは何だらうか。長い間、この疑問が漠然と心の隅に殘つて居た。ところで最近、偶然また芥川全集を通讀して、古い疑問への解決を發見した。自分が改めて讀んだものは、乃木大將のことを書いた「將軍」、細川ガラシヤ夫人のことを書いた「絲女覺え書」、それから「或る日の大石内藏介」等々であつた。何れも皆、一氣に讀み終つたほど面白かつた。しかもその讀後に殘つた感想は、何かの或る漠然たる、物足らなさの不滿であつた。しかもその不滿の底には、前にアフオリズムを讀んで感じたやうな、同じ種類の道德的反感が實在して居た。

 そこで初めて、自分は一つの原理に到達し得た。つまりこの作者の場合では、對象への「同情(シムパシイ)」が缺けてるのである。乃木大將といふ一人物を、作者はモノマニア的○○思想に憑かれた一奇人として、意地惡くカリカチユルに描き出してる。その限りに於て、この小説は讀者に諷刺文學的の興味をあたへる。しかしそこには、乃木大將の戲畫だけが描かれて居て、その一將軍の生きてる人間が書かれて居ない。歴史上で貞婦の鑑と言はれる細川ガラシヤ夫人は、絲女なる侍女の覺え書によつて、作者から散々にやつつけられ、鼻もちのならない倨傲の女に書かれて居る。それは世の定説を裏返し、逆の一新説を立てたことに於て、たしかに讀者の興味をひく。しかしその興味は、定説を裏返すことの興味に盡きてる。將軍に對すると同じやうに、ガラシヤ夫人に對してもまた、作者は少しもその實の人間を書いて居ない。

[やぶちゃん注:「同情(シムパシイ)」の「シムパシイ」は底本ではルビ。]

 すべての善き文學者は、一面に於ての非人情と殘酷さを持たねばならない。多くの偉大なる作家たちは、果敢に道德を蹴り飛ばして、惡魔と共に同棲して居る。意地惡さは文學の特色である。そこでゾラやモーパツサンやは、聖人を凡俗化し、英雄を小人化し、人間性のあらゆる卑劣さと醜惡とを、殘忍に意地惡くムザムザと暴露させてる。だがしかし彼等の場合は、その對象される物の中に、普遍的なる一般の人(人間性の本相)を描き出してるのである。彼等の作者は、決してその對象を憎んで居るのではない。反對に彼等は、そのモデルの中に自我の人間性を見てゐるのである。ドストイエフスキイの小説は、時に醜劣無慚の獸慾漢や、人間中での最下等の破廉恥漢やを、最もひどく暴露的に描き出してる。しかもその一人一人の人物が、何れも作者の分身であると思はれるほど、深い人間性の理解と同情をもつて書いてるのである。

 それ故に文學の本質は、結局シムパシイといふことに存するのである。文學のモラルチイには、初めから善惡の觀念は存在しない。ただ對象(人間、社會、自然)に對する同感(シムパシイ)があるばかりである。或る文學者は、對象の惡ばかりを好んで暴露し、或る文學者は、反對に善ばかりを摘出する。しかし何れの場合にせよ、作者はひとしく自己の魂を書いてるのである。對象と作者は一つである。故にまた文學の本質は、個性の狹い窓を通じて、萬有にひろがるところの共感であり、同情であり、そして要するに「愛」なのである。

[やぶちゃん注:「共感(シムパシイ)」の「シムパシイ」は底本ではルビ。]

 芥川龍之介の小説やアフオリズムに對して、自分の漠然と感じた不滿は、實にこの文學的モラリチイの缺乏から來る不滿であつた。乃木大將に對しても、ガラシヤ夫人に對しても、作者は何の共感を感じて居ないのである。單に對象の人物を、皮肉に意地惡く見ようとして、反定説的の興味で書いてるにすぎないのである。

 「侏儒の言葉」に至つては、それが最もひどく極端だつた。それは作者の人生觀や文明觀やを、斷章的な思想に書いたアフオリズムで、もとより小説とは別であつた。しかしその人生觀や文明觀やは、小説の人物に對する作者の見方と、全く同じやうな見方であり、共感性のモラリテイが全く缺けて居るのである。文學上に於ては、抽象上の概念思想といふものは存在しない。思想する文學者は、詩や小説を書く文學者と同じであり、主觀の個性的な窓を通して、普遍の人間相や文明相やを見て居るのである。故に或る對象を罵るものは、罵る所に作者のイデアと良心が發見される。然るに「侏儒の言葉」には、その良心が少しもなく、單に江戸ツ子風の氣の利いた皮肉によつて、文明や社會に厭やがらせを言つてるのである。それには多くの學識と機智があつた。しかも文學の本質すべき、魂のモラルが喪失してゐるのであつた。自分がそれに對して、漠然たる道德的反感(良心の怒り)を感じたのは、つまり自分の中のストイツクな藝術家が、許しがたい魂の冒瀆を、それの中に見たからであつた。

 そこで文學上に於ける道德性とは、つまり言つて萬有への共感性、同情性といふことになるのであらう。しかしその共感性は、結局自己の人間性に本質して居り、自我の「眞實の魂」を書くといふことになるのであるから、要するにまたレアリズムといふことにも同じになる。要するに藝術上では、美も、眞實も、現實も、イデアも、モラルも、個性も、すべて皆本質上では同じ一つの言葉に過ぎない。ただ文藝に對して、倫理上の見地から批判する場合にのみ、それがヒユーマニズムの解説をとるのである。

 

[やぶちゃん注:初出誌未詳。エッセイ集「歸郷者」(昭和一五年十月白水社刊)に所収。本テクストは底本の校異に従って「歸郷者」の表記そのままに戻してある。太字「良心的に反感」は底本では傍点「ヽ」。――朔太郎よ、君は何故、気づかない?――龍之介はちゃんと言ってるじゃあないか、そこで!――『良心とは嚴肅なる趣味である。』――『良心は道德を造るかも知れぬ。しかし道德は未だ甞て、良心の良の字も造つたことはない。』――『良心もあらゆる趣味のやうに、病的なる愛好者を持つてゐる。さう云ふ愛好者は十中八九、聰明なる貴族か富豪かである。』――『或一群の藝術家は幻滅の世界に住してゐる。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のやうに無何有の砂漠を家としてゐる。その點は成程氣の毒かも知れない。しかし美しい蜃氣樓は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵藝術には幻滅してゐない。いや、藝術と云ひさへすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も實は思ひの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない。』――『わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。』と――。]

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