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2013/06/30

橘南谿「東遊記」より 「鎌倉」

橘南谿「東遊記」より「鎌倉」

 

[やぶちゃん注:「東遊記」(寛政七(一七九七)年に前編五巻を、同九年に続編五巻を板行)は医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。南谿は本名宮川春暉(はるあきら)で、伊勢久居(現在の三重県津市久居)西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二五〇石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任じられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。諸国遍歴を好み、また文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、本書「東遊記」や「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や随筆「北窓瑣談」等で知られている(以上はウィキの「橘南谿」に拠る)。なお、本記載内での時間は天明四(一七八四)年である(ここは「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に拠った)。

 底本は国立国会図書館蔵で同デジタルライブラリーにある学海指針社(明治四四(一九一一)年刊)版を視認して活字化した。詩歌は読み易くするために各詩歌の前後を一行空けにした。漢詩は底本では三段組であるが一段で示し、最初に白文で示し、その後に一字下げ( )で訓点に従って訓読したものを示した。

 なお、この「一、鎌倉」はまさに「東遊記」の巻頭を飾っている(デジタルライブラリー版の3コマ目から)。]

 

東遊記

          橘南谿子著

 

     一、鎌倉

鎌倉は、東武通行の人の見る所にして、珍らしからねど、又したしく其地に遊べば、昔の俤、山川別ては神社佛閣に殘りて、懷古の情にたへず。

先、鶴岡の八幡宮に詣づ。其の壯麗男山につぐべし。佛寺には建長寺など最大刹なり。鶴岡南面のきざはしを登れば、大なるいてふの木あり。昔此宮の別當公曉、將軍實朝公を強弑したる所なりと云。八幡宮の正面通り、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居あり。其の鳥居筋を眞直に下れば、由井が濱に出づ、一の鳥居より、由井が濱まで十八町なり。すべて鎌倉は、皆山にて、地面甚狹し。わづかに谷の間々に、屋敷を構へ、住居せし事と見ゆ。其故に比企が谷(やつ)、大藏がやつ、扇がやつなどゝ谷々の名甚多し。賴朝卿の屋敷跡は、八幡宮の東の方にあり。此地、少し平坦なれど、四三町四五町に過ぎず。其の外の谷々のせまきことおして知るべし。屋敷跡の少し上の方に、賴朝卿の塚あり。今の薩摩侯の寄附の大なる石の手水鉢あり。其岡の東の上の方に薩摩侯の先祖の墓所もあり。此あたり、薩州より寄附の物、品々あり。なほ近きうち、造營もあるべきよしなりとて、鎌倉の人々、悦び居れり。八幡宮の束の方に、滑川とて細き流れあり。靑砥左衞門、錢を落しゝ川なりといふ。其の時の事は、郊外のやうに聞えしが、其の頃は今の世の如く、町家などは無りしにや。義經の腰越も鎌倉を去る事、京と大津計も有べしと、兼ては思ひ居しが、僅に一里計にも足らず。今の江戸の如くならば、町の眞中なるべし。昔は何事も微々なる事にて、鎌倉といへども、今の四五萬石の大名の城下程にも無き事と思はる。およそ、鎌倉は、高山も無く、大河も無く、要害の地といふべからず。只、小き山、數里四方に連りて、波濤の如し。其の間の谷々も甚せまく、打晴たる平地は、絶てなし。但、源氏にはゆゑある地なれば、賴朝の都し給ひしにや。伊豫守賴義、鎭守府將軍に任じ、安倍の貞任征伐の爲に、東國下向の時、石淸水八幡宮を此地に勸請し給ふ。其の後に、又相摸守に任じ、鎌倉に下向ありて、此の所にて、義家、出生し給ふとかや。かく先祖由來のある地ゆゑなるべし。鎌倉と名づけし初は、昔、大織冠鎌足公、鹿嶋參詣の時、此の地の由井の濱に宿し給ひける夜、靈夢によりて祕藏し給ひし鎌を、當所大藏山の松岡に埋め給ふ。此ゆゑに鎌倉郡といふ。又大藏山を鎌倉山とも名づけしなり。其の外、神社佛閣、甚多く、古跡舊蹤、種々の名ある所ひしと並べり。あげしるすにいとまあらず。余も二三日も四五日も逗留して、所々見廻り、寺社の舊記などをも一見せば、面白きことも多かるべきに、余は、戸塚より入り來りて、其の日鎌倉を草々に一見し、直に江の嶋へ出でぬれば、何のいとまもなく、見殘して過ぎぬ。殘り多し。

 

     送人遊相中   服部南郭

  覇跡山川経略勞

  鎌倉客路自蓬蒿

  將門三世荒臺月

  戎馬千年大海濤

  劒氣偏隨星井沒

  笙聲空過鶴陵高

  壯遊知爾因懷古

  慷慨談兵攬佩刀

   (   人を送て相中に遊ぶ   服部南郭

   覇跡 山川 経略勞、

   鎌倉 客路 蓬蒿自す、

   將門 三世 荒臺の月、

   戎馬 千年 大海の濤、

   劒氣 偏に隨ひて 星井に沒す、

   笙聲 空しく過ぎて 鶴陵 高し、

   壯遊 知爾 因懷古、

   慷慨 兵を談し 佩刀を攬る)

 

    鶴岡   安積艮齋

  鴨脚霜凋古廟秋

  荒墳幾處葬公侯

  遺基今日蓬蒿合

  雄略當年魑魃愁

  寶鼎潜移歸細柳

  乾坤一革割鴻溝

  可憐猜忌相屠戮

  覇業銷沈付逝流

   (  鶴岡   安積艮齋

   鴨脚 霜は凋す 古廟の秋、

   荒墳 幾處にか公侯を葬る、

   遺基 今日 蓬蒿 合し、

   雄略 當年 魑魃 愁ふ、

   寶鼎 潜に移りて 細柳を歸す、

   乾坤 一革して 鴻溝を割す、

   憐むべし 猜忌 相 屠戮す、

   覇業 銷沈 逝流に付す、)

 

  昔にもたちこそまされ民の戸の        藤原基綱

      煙にきはふかまくらの里(夫木)

 

  宮柱ふちしきたてゝ萬代に          鎌倉右大臣

      今こそ榮えんかまくらの里(續古今)

 

  年經たる鶴が岡邊の柳原           平 泰時

      あをみにけりな春のしるしに(夫木)

 

  鶴が岡木高き松を吹く風の          源 基氏

      雲井にひゞく萬代の聲(新拾遺)

 

  ことゝはゞ花やしらくも代々の春       宗牧

  ほたる火は百がものありなめり川       梅翁

 

[やぶちゃん注:以下、底本にある頭注を示しておく。

 

男山

 山城男山の石淸水八幡宮

公曉

 實朝の兄の賴家の子

薩摩侯

 先祖島津忠久賴朝より日向大隅薩摩の守護を授けらる

鎌足公

 藤原氏の租中臣鎌足

鹿島神社

 常陸の鹿島町にあり祭神は武甕槌命にして天兒屋根命をも配祀す

 

この内、「鹿島神社」の「武甕槌命」は「たけみかづち」と読み、神産みにおいて伊邪那岐(イサナキ)が妻伊邪那(イサナミ)を死に至らしめた子の軻遇突智(カグツチ)の首を切り落とした際、用いた十束の剣の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の内の一柱。「天兒屋根命」は「あめのこやねのみこと」と読み、天照大御神の岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、岩戸が少し開いた際、天太玉命(あめのふとだまのみこと)とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際には瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根を持った建物」の意味で、託宣を齎す神の居所のことと考えられている。中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された。但し、鹿島神宮本社には祭神ではない。現在、境内外にある摂社坂戸神社が天児屋命を、同じく境内外の息栖(いきす)神社が武甕槌命の娘である「姫」とこの天児屋命の二人(夫婦)を祭神として祀っている。]

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