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2013/06/17

科學と日本人 萩原朔太郎

 科學と日本人
         日本は科學國たり得るか

 東洋に科學がない。詳しくいへば、東洋人に科學的知性がない。といふやうな考は、言ふ迄もなく、歷史を知らない人の迷妄である。古代エヂプト人は、紀元前何世紀の昔に於て、驚嘆すべき大科学を所有して居た。希臘の最も偉大な哲學者、アリストテレスのやうな人でさへも、科學知識に関する限り、エヂプトから多くを學んで居たのであつた。古代アラビアの科學は、もつと輝かしいものであつた。彼等の發達した数學や、天文學や、物理學やは、さうした科學的知識の全然なかつた、十字軍の歐羅巴人を驚かせ、彼等をその宗教的迷信の闇から救つた。しかし就中、支那は世界の最も偉大な科學國であつた。すべて西洋人が、近世の終りになつて發明した多くの物、即ち紙、火藥、活字、印刷術、磁石等の物は早く数千年前の昔に於て、支那人の發明したものであつた。硝子のやうな物でさへも、太古の支那人が發明して、最初にその製法を知つて居たのであつた。「すべて西洋に今有るものは、昔の支那に全部有つた。」と、多くの支那人が豪語してることは、決して必しも誇張にすぎた自尊ではない。
 しかしかうした東洋文化は、或る不可思議な事情の爲に、支那に於ても、他國に於ても悉く廢滅してしまつたのである。過去に硝子の製法を發明した支那人が、今日西洋から舶來した硝子を見て、物珍らしげに驚異の眼を見張るといふことほど、文化の興亡の歷史に於ける、皮肉な進化論的宿命を語るものはないであらう。上古にあつて、それほどにも絢爛(けんらん)としてゐた大文明が、今日跡形もなく消滅し、その一つの痕跡すらも殘して居ないといふことは、不思議に何か有り得べからざる、奇異な幻覺的の感じをあたへる。事實とは、いつでもその同じ場所に、感覺が常存するといふ信念である、といつたロツク・ヒユームの哲學は、東洋の歷史について、しばしば或る虛妄な幻想を抱かせるのである。
 今日東方諸邦の中で、眞に科學を有してゐる唯二の國は、實に我が日本だけである。勿論今の日本の科學は、大部分が西洋の模倣であり、西洋人の傳へた技術と學理を、孜々として學習してゐる程度にすぎない。しかし過去の日本に於て、全然科學といふものがなく、支那、エヂプトに於ける如き、光輝あるその文化史が無かつたことを考へれば、全く新しい出發としての、日本の學習現狀は當然である。今や現代の日本は、軍事的、經濟的、工業的、醫學的、その他の樣々の必要な事情にかられて、他動的に否應なく、科學國にならざるを得ない狀態にある。大多數の日本人が、それを欲する欲しないとに關らず、將來の新日本が、益〻科學國になるべきことは明らかである。
[やぶちゃん注:「孜々と」「ししと」と読む。熱心に努め励むさま。]
 さて此所で提出される問題は、我々日本人が人種的に科學的才能の天分をもち、その方面の知性に於て、人種の遺傳的優越性を持つてるか否かといふこと、文明の將來の競爭に於て、世界の科學國たる獨逸や佛蘭西やを、よく凌駕することが出來るか否かといふ疑問である。思ふにかうした疑問は、今日多くの日本人――大衆も知識階級者も――が、意識的または無意識に、漠然と考へてることにちがひない。なぜなら過去の日本文化には殆んど全く、科學がオミツトされて居たからである。エヂプト、アラビア、印度、支那等の東方諸國の中で、古來眞の哲學的瞑想と科學的技術を知らなかつた國民は、不思議にもただ日本一國であつた。支那、印度の翻案以外、眞の獨創的な哲學を持たなかつた日本人は、同時にまた眞の科學をも知らなかつた。しかもその日本人が、今日東洋諸國に於ける、唯一の科學國民たらうとして、日夜に孜々として勉めて居るのだ。果してそれが成功するかは、何人も一考する疑問であらう。なぜなら無から有は生じないし、人種的遺傳の素因なしに、新しい文化的創造はできないから。
 しかしこの疑問については、近い頃の歷史に照して、可成に樂觀的の見方ができる。すくなくとも究理的知性の點に於て、日本人の天稟的な優秀性は疑はれない。近世の日本歷史は、さうした多くの事實を實證してゐる。德川三百年の鎖國時代にさへ、いかに多くの科學的發明や新機械が、日本人の手によつて創作されたことであらう。すべての科學的研究や新發明が、切支丹の邪教と同一現され、嚴重に監視されて居たその頃でさへも、平賀源内等を始めとして、多くの隱れた科學者が民間に居た。それらの人々の中には、飛行機や、電氣機械や、蒸汽ポンプや精巧な時計を製作した人が居た。特に醫學と植物學等の自然科學は、江戸末期に於て著るしく發達した。勿論その多くは、長崎の狹い門戸を通じて傳はつて來た、西歐知識の仄かな微光を賴りとして、半ば手探りで創見した物であつたが、そのことの反證は、日本人の科學的探求の熱心さと、さうした智能の優秀性を語るのである。
 ペルリが浦賀に上陸した時、その頃西洋で發明された、多くの珍らしい科學機械を公開して、日本の役人たちに見物させた。その中には一種の原始的な蓄音機もあり、模型のレールを走る汽車もあつた。日本の役人たちが、それを見て如何に驚き、如何に不思議がつたかといふことは、ペルリの航海記に詳記してある。彼等の日本人たちは、蓄音機の内箱を開け、原理の詳しい物理的解説を聞くまでは、機械を調べることを止めなかつた。そして模型の汽車の屋根の上に、多くのチヨンマゲに結つた武士たちが、馬乘りになつて試乘することを強要した。ペルリはそれを見て大に驚き、すべての有色人種の中で、これほど好奇心が強く、究理に熱心な國民を見たことがないといひ、ひそかに大統領に書を送つて、日本人の將來恐るべしと警告した。十七世紀の始め、日本に漂泊して家康の知遇を得た三浦安針のウイリアム・アダムスは、その故郷の妻に手紙を送つて、家康との對話を詳しく書いてる。家康が彼に質問したことは、世界の政治的情勢の外、主として天文、物理、幾何學に關する知識であつたが、特にその幾何學に關する家康の質問は、知識の深く正確なことに於て、阿蘭陀船の水先案内を驚嘆させた。要らく極東の有色人種が、ユークリツドの敷學に興味と造詣とを持つてることは、彼の豫想しないことであらう。そしてその頃日本に來た若干の外國人は、多くの日本の知識階級者から、種々なる科學上の原理について、執念深く熱心に質問された。
 すべてかうした事實は、日本人が天稟的な科學人種であり、素質的にその研究を好むところの、學問的知性人であることを實證して居る。しかもかうした日本人の才能と好學心とは、或る政治的の事情によつて、長い間爲政者から禁壓されてた。もしくはまた、それを發育するチヤンスに志まれなかつた。然るに明治の開國以來、すべての禁壓から解放され、自由の研究を許された日本人が、滔々としてその研究に向つた時、どんな驚くべき結果を生ずるかは明らかである。開國以來半世紀にして、我等は忽ちに西洋科學と物質文明の全部を學んだ。醫學も、戰術も、電氣學も、建築學も、工業化學も、すべて我等の技術と學問とは、今日決して西洋に劣つて居ない。しかもそれは奇蹟――無から生じた有――ではなく、始から素因的にあつた種が、環境の適所を得て自然に發育した開花であつた。
 だがしかし、すべて此等の事實と成功にもかかはらず、科學國としての日本の未來に、私は尚大きな疑問をもつものである。なぜなら日本人の科學する心意や態度(目的意識そのもの)が、本來極めて非科學的であるからである。小泉八雲のラフカヂオ・ヘルンは、日本の將來に多大の希望をかけながらも日本人の科畢的精神にづいては、不可知論的な疑問をかかげて、その學習の困難さを指摘して居る。歐洲にある日本の留學生について、彼は次のやうな觀察を述べてる。多くの日本の留學生等は、科學の純粹な學理については、殆んど全く興味を持たないやうに思はれる。彼等が眞に興味をもつて熱心に研究するのは、醫學と戰術だけであり、他には航海術等の應用科學のみであると。幕末の日本に來て、日本人に物理學の初歩を教へたシーボルトは、彼の生徒であつた靑年武士等が、最初に先づ質問するところのことが、極つて「それが何の役に立つか」「どんな實益になるか」といふ類の件であり、科學の眞の目的であるところの、純正な知的探求に關しては、殆んど興味を示さないやうに見えたと書いてる。
 かうした外國人の觀察は、今日科學を學んでる一般の日本學生に對しても、昔と同じく眞實であると思はれる。工科の生徒も、理科の生徒も、何の爲に學問するかといふ問に對して、おそらくその技術の習得から、社会的地位や職業を得る爲と答へるだらう。そしてさらに彼等の中、もつと浪漫的の抱負を持つたものは、その研究や知識によつて、國家社會の爲に貢獻し、日本に奉公する爲と答へるだらう。だがその何れの答も、眞に科學を學ぶものの態度ではない。
 元來「學問」といふ日本語は、西洋のそれと大に意味を異にして、特殊の内容を持つた言葉であつた。日本の封建時代に於て、一般に「學問」といはれたものは、四書五經を讀むことであり、修身齊家の德ををさめ、倂せて經世治民の要綱を知ることだつた。即ち日本語の「學問」とは、實踐倫理學と實踐政治學とを意味して居た。そして要するに、現實社會の實利に役立ち、直ちに以て利用厚生に益することの知識であつた。そしてそれ以外に、日本に「學問」と呼ばれるものは無かつた。それ故にこそ、シーボルトに學んだ武士たちが、その知識の實利的な「用」を問ふまで、決してそれを「學」と思はなかつたのも當然だつた。
 かうした儒教的功利主義が、長い間の遺傳的薰育によつて、日本人の知的意向を觀念づけ、一種の民族的道德觀と結びついた。それからして日本人は、本能的に非實用的な知識や、洩沒倫理的な思想を毛嫌ひする。何等かの意味に於て、それが國利民福に稗益を與へ、直接の實生活に役立たなければ、決して彼等はその學を承認しない。さうした非實利的の發明や研究やは、むしろ有閑無益の「惡」とさへ考へられてゐる。それ故昔の日本で、留學の新しい治療法を研究した孝者は、幕府や庶人から感謝されたが、飛行機を發明した獵奇人は、何等の報いを得ないばかりか、危ふく獄罰されたかも知れないのである。然るに科學的發明の再出發は、すべて實生活の利害と何の關係もないところの、純粹の知的探求、純粹の獵奇心、そして要するに純粹の浪漫的精神にもとづいてゐる。寫眞機も、幻燈も、蓄音機も、はたまた進化論や地動説も、すべて實生活の功利とは關係なく、純粹の知的獵奇心によつて發明された。おそらくそれらの發明者等は、過去の日本政府から叱責され過去の一般民衆からは、有閑無用事に耽る愚人として、侮辱的に嘲笑されたであらう。そして「過去」ばかりではない。現代二十世紀の日本に於ても、この遺傳的な儒學思想は、尚深く政府當局者の頭腦に沁みこんでゐる。その一つの事實は、最近政府が宣言して、科學者をその研究室たる「象牙の塔」から迫ひ出し、街に活躍させようとしたことでも明らかである。
[やぶちゃん注:この最後の一文は、本作発表の前月、昭和一六(一九四一)年十月に学徒動員のための繰上げ卒業(長引く戦局の為の兵員不足を補う為に全国の大学・専門学校などの修業期間を一六年度は三ヶ月短縮して十一月一日卒業とする。本作発表の十一月には次年度の繰上げが発表されておりそこでは六ヶ月短縮の九月卒業となる)などを指すものか。それとも理系研究者の軍部や民間への出向奨励のようなものがあって、それを指したものか。識者の御教授を乞う。]
 明治時代の靑年は、學校に入らうとする出發の日に、「男子志ヲ立テテ郷關ヲ出ヅ。學モシ成ラズンバ死ストモ歸フラジ。」と悲壯な聲をあげて詩吟した。おそらくその時、彼等は頭に鉢卷をし、腰に日本刀を帶び、敵陣に切り込むやうな氣概で劍舞をした。學問を學ぶといふことは、さうした靑年たちにとつて、戰場へ出陣する武士の氣持と同じであつた。第一議會の選擧の時、自由民權黨の壯士たちが、拔刀して敵の壯士と渡り合ひ、多くの死傷者を出したのを見て、小泉八雲がかう言つてる。日本の政事靑年たちは、自己の理性の判斷によつて、主義や政見のために戰ふのでなく、彼等の心服する黨統のために、忠義を盡さうとして戰ふのであると。實際日本の政鬪史は、明治以來最近に至る迄、八雲の觀察した通りであつた。多くの熱狂的な政事靑年等は、理性によづて行爲したのではなく、總裁の人格や温情に感激し、義によつて身命を捧げようとしたのであつた。丁度その心情は淸水次郎長一家のものが、向鉢卷に白襷をして、敵陣へ乘り込んで行くのと同じであつた。板垣退助に率ゐられた自由黨の壯士たちも、所詮は次郎長一味の「若い者」と同じであつた。そこで「日本人は黨に忠義を表すために政爭する。」と批評した小泉八雲は、悲壯な劍舞をする靑年を見て、同じくまた「日本人は忠義のために學問する。」と言つた。學問と戰爭とを同一親し、日本刀を抱へて大學へ入學する靑年は、世界におそらく日本人より外にないであらう。さうした靑年等の氣概は、爆彈を抱いて敵陣へ突進する決死隊の氣魄であり、主君のために仇を報じようとして、悲壯な決心をした四十七士の氣概であつた。八雲の言葉は、外國人の眼から見て、それが甚だ奇怪であり、ユーモラスでもあることを意味してゐる。
 小學校の生徒たちは彼自身の意見をもたない。彼等は先生や年長者の教訓を、無意識に反誦するにすぎない。しかし「何のために學問するか」といふ問に對して、西洋の生徒たちはかう答へる。獨立獨歩の精神を養ふために、或は紳士としての教養を學ぶために、或は公明正義の觀念を把持するためにと。然るに日本の小學生は、殆んど一人殘らずかう答へる。お國の役に立つ人物となるためにと。そしてこの小學生の答は、日本の民衆一般の思想を代表して居るのである。
 即ちその學に志す出發の日に、悲壯な聲をあげて劍舞をする靑年の心情には、何かしら涙ぐましい、日本人的な感傷性が感じられる。だがさうした種類の感傷性は、おそらく嚴正科學の研究心とは、全く緣もゆかりもないものである。彼等の學生たちが、その感傷性と日本刀を捨てない限り、到底西洋科學の眞髓は學び得ない。
 幕末歐洲に派遣された留學生が、常に日本刀を帶びて教室に入り、機械學や電氣學の講義を聽きながら、一一悲壯な慷慨をしてゐたといふことは、結局彼等が、科學を理解しなかつたことを意味して居る。
 男子志を立てて郷關を出た靑年は、學もし成らずば死すとも故郷に歸らなかつた。しかしその「學が成る」といふことは、結局學校を卒業して、立身出世をするといふことを意味して居た。さうした靑年たちの理想は、政府の重要な地位につき、官吏となつて八字髭をはやし、馬車に乘つて街上を驅走するといふことだつた。即ち學問の目的は、結局「立身出世」といふのだつた。それ故、前の詩吟の對句は、「錦ヲ看テ故郷ニ歸ル」といふ言葉になつてゐる。明治時代の新派劇や書生芝居は、かうした時代の風潮をよく寫實して居た。主人公はたいてい貧乏な苦學生であり、人力車夫などになつて勉強してゐる。それを或る義俠の人士――多くの場合は藝者である――が、ひそかに保護して救援し、遂に學校を卒業させる。そこで昨日の苦學生は、一躍政府の官員となり、鼻下に髭を生やして洋服を看、山高帽子を被つて堂々たる紳士になる。そして劇の終幕には、昔の情人や保護者と廻合し、その零落を救つて報恩するといふ筋になつてる。
 かうしたストーリイの新派悲劇は、今日既に廢つてしまつた。だが學問の目的を「立身出世」におく學生の氣風と社會思潮は、今日でも尚依然として同じであり、明治以來少しも變化したところがない。ただ多くの學生の理想が、山高帽子の官員から、會社のサラリイマンになつたといふだけの變化にすぎない。そしてかかる社會思潮の根源には、「身を立て名をあぐ。これを孝の終とす。」といふ、儒教の倫理學が潛在してゐることを知らねばならない。即ち「忠義」のために學問する日本人は、同時にまた「孝行」のために學問して居るのである。そして要するに、日本人にとつての學問とは、「仁義忠孝の道」に外ならない。
 學問に對する、かうした日本人の觀念は、西洋人にとつて理解できない不思議であらう。小泉八雲は、それを神國日本の大和魂だといつて賞頌して居るが、同時にまた彼は、さうした精神の所有者が、西洋の知識や文化を學ぶために、いかに不都合で困難であるかを懸念し、科學日本の未來に對して、同情のある悲觀的の疑問を述べてゐる。たしかに、すくなくもかうした意味の「大和魂」は、西洋の科學精神と根本的に一致しない。なぜなら眞の科學精神(知的究理心)は、忠義の爲でも孝行の爲でもなく、むしろそんな人情や道德觀を、全然超越したものであるからである。
 日本人が學問好きの國民であり、好奇心が強く、技術に巧みに、科學的研究心の盛んな民族であることは、前既に述べた通り、歷史の事實に照して明らかである。だがかうした知的天性は、常にその道德情操の基調となつてる、儒教の功利主義によつて指導され、或る一定の方向にのみ磁力的に引きつけられてゐる。好學將軍の德川吉宗も、水戸學を興した徳川光圀も、その學問的精神の本質は、すべて皆儒教の功利主義にもとづいて居た。たとへ彼等が、いかに和蘭陀の醫書や兵書を讀んだところで、西洋の科學やその文化の本質する精神は、到底理解できなかつたことであらう。要するに日本人の學問する目的意識は、次の三階段の上に成立して居る。印ち、その直接な個人的の目的は、第一に先づ立身出せといふことであり、次にこれが社會的に展開して、國利民福を計るところの、經世利用の爲の學となり、さらにまた倫理學に高揚して忠義や親孝行の爲といふことになるのである。即ちその三階段は、「立身出世」と「經世利民」と「忠孝仁義」といふ順序になつてる。たしかにこれは、大和魂の學問精神にちがひない。爆彈三勇士や赤穗四十七士の忠義の氣概はかうした學問精神と本質的に一致して居り、それ故にこそ靑年たちは、入學の日に劍を拔いて悲壯な詩吟を歌ふのである。
 しかしかうした精神は、冷靜な知的探求を目的とするところの、嚴正科學の研究には不都合である。科學する精神には、道德も倫理も政治もなく、眞理の追求といふ良心しかない。日本人的な學問意識は、本質的に科學の良心と矛盾する。さうした儒教意識を捨てない限り、おそらく日本の科學は、將來に於ても眞の第一義的なものに成らないだらう。即ちそれは、第二義的な知識としての、應用科學の範圍にしか出ないであらう。詳しくいへば、外國人の發明を改良したり、一層巧みに模倣したり、もつと實用上に便利にしたり、機械を巧みに操縱したり、運轉の技術をおぼえたりすることの、第二義的な學術以上に出ないであらう。
 そしてダルヰンや、ニユートンや、エヂソンやガリレオやの大科學者は、容易に現はれる日がないであらう。今日、日本が、西洋の科學と物質文明の全部を學得したといふことも、表面上の事實を除けば、單に模倣し盡したといふことであり、應用の技術を覺えたといふだけである。
 要するに儒教のモラルと功利主義とが、日本を眞の科學的發達から妨げ、且つ多くの日本民衆を、非科學的國民にしてゐるのである。
 支那に於ても、上古にあれほど發達した大科學が、中途に全く廢滅してしまつたのは、おそらく儒教の災ひした結果であらう。儒教が未だ一般に行はれず、政府の規定する國教とならない昔に、支那人は紙や火藥を發明した。儒教のモラルと科學精神とは、本質的に兩立できない矛盾がある。そこで今の日本は、儒教を捨てるか科學を捨てるかといふ、一つの苦しいヂレンマに陷つてゐる。それを「苦しい」といふわけは、今日、日本人の觀念を爲してゐる主要の要素、即ち普通に「大和魂」と呼ばれてゐるものの要素は、資質的には殆んど皆封建時代に習得された、長い歷史の遺傳的教養の果實であり、しかもその教養の根本を爲してゐるものは、日本化した儒教そのものに外ならないから。
 我等の常識的に知らなければならないことは、およそ日本人的な感傷性に訴へられ、その倫理情感を刺激する一切のもの、即ちたとへば俠客無賴のやくざ仁義や、赤穗浪士の復讐美談やがすべてその倫理情操の本質に於て、同じ一つの儒教的教養に基づいて居るといふことである。(それ故に國定忠治と赤穗浪士とを、その米飯の種としてゐる浪花節は、いつでむ日本人の大衆に歡迎される。)もちろん今日の儒教は、封建時代のそれと外觀の樣式を異にして居る。だが本質上の精神に於て、それは今日の爲政者と大家の心の中に、拔きがたく嚴存して居るのである。もし現代の日本から、さうした儒教的エスプリを根絶すれば、おそらくあの忠勇義烈な日本兵も無くなるだらうし、我が子の戰死を激勵する大和魂の所有者も無くなるだらう。それは保存しなければならない。だがそれを保存する以上、日本は眞の科學國たり得ないかも知れぬ。識者はこのヂレンマを如何にして解決するか。自分が常に懷疑して答案を得ず識者の啓示を仰ぎたいと思つてゐるのは實にこの一疑問に外ならない。

[やぶちゃん注:『文学界』第八巻第十一号・昭和一六(一九四一)年六月号に掲載された。同年十二月八日未明、日本は真珠湾に奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争に突入した。翌、昭和一七年五月十一日、萩原朔太郎は急性肺炎のために満五十五歳で亡くなっている。しばしば後期の朔太郎が批判される「日本主義」が所謂、国粋主義とは一線を画していることがこの論調からは読み取れる。寧ろ、ここで語られる内容はすこぶるリベラルなものとして私には腑に落ちるものである。これを朔太郎がこの時に発表しているということは、もっと考察されてしかるべきであるように思われる。――何れにしても、私は朔太郎は戦後まで生き延びずによかったように感ぜられる。彼は、あの戦後の文壇の戦犯探しの嵐には、うんざりし、恐らくは耐え得なかったに違いない、と感ずるからである。――]

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