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2013/06/26

HP「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動

HP「鬼火」開設8周年を記念して、カテゴリ「日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳」を創始する。

日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳

[やぶちゃん注:本作は三十年以上前の日記とスケッチをもとにエドワード・モースが一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版した“Japan Day by Day”を石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松。氏の著作権は既にパブリック・ドメインとなっている)が同年(大正六年)に翻訳したものである。
 底本は一九七〇年平凡社刊の東洋文庫版全三巻を用いた。但し、電子化は私の海産無脊椎動物と江の島地誌への個人的興味の関係から、江ノ島臨海実験所の開設と採集(主に来日した明治一〇(一八七七)年七月十七日から八月二十九日までの期間の事蹟)に関わる第五章を最初に行うので、ご容赦願いたい。促音と思われるルビは私の判断で促音化してある。傍点「ヽ」は太字に代えた。
 エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生、少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している。電子化本文一段落目を参照)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は“apanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年刊)や本作「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。
 なお、各形式段落の後に私のオリジナルな注を附し、その後は一行空きとした。注に際しては、磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(有隣堂昭和六二(一九八七)年刊)を一部参考にさせて戴いた。図は適宜相応しい場所に配した。磯野先生は昨年、鬼籍に入られた。この場を以って深く哀悼の意を表するものである。【ブログ始動:2013年6月26日――HP「鬼火」開設8周年の日に――藪野直史】]

日本その日その日   E.S.モース(石川欣一訳)

 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所

 私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。然し日本には三、四十の「種」が知られている。私は横浜の南十八マイルの江ノ島に実験所を設けた。ここは漁村で、同時に遊楽の地である。私がそこに行って僅か数日経った時、若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した。日本語がまるで喋舌(しゃべ)れぬことを述べると、彼は大学の学生は全部入学する前に英語を了解し、かつ話さねばならぬことになっていると答えた。私が彼を見覚えていないことに気がついて、彼は私に、かつて、ミシガン大学の公開講義で私が講演したことを語った。そしてその夜、私はドクタア・ハーマアの家で過したのであるが、その時同家に止宿していた日本人を覚えていないかという。そのことを思い出すと、なる程この日本人がいた。彼は今や政治経済学の教授なのである。彼は私が、ミシガン大学でやったのと同じ講義を、黒板で説明してやってくれと希望した。ズボンと婦人の下ばきとの合の子みたいなハカマを、スカートのようにはき(割ったスカートといった方が適している)、衣服のヒラヒラするのを身に着けた学生が、一杯いる大きな講堂は、私にとっては新奇な経験であった。私はまるで、女の子の一学級を前にして、講義しているような気がした。この講義の結果、私は帝国大学の動物学教授職を二年間受持つべく招聴された。だがその冬、米国で公開講演をする約束が出来ていたので、五ケ月間の賜暇をねがい、そして許された。これが結局日本のためになったと思うというのは、この五ケ月間に、私は大学図書館のために、二万五千巻に達する書籍や冊子を集め、また佳良な科学的蒐集の口火を切ったからである。また私は江ノ島に臨海実験所を開き、創立さるべき博物館のために材料を集めることになっていた。

[やぶちゃん注:「腕足類」冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属オオシャミセンガイ Lingula adamsi やミドリシャミセンガイ Lingula anatina などのシャミセンガイ類や、頂殻(イカリチョウチン)目イカリチョウチン Craniscus japonicas 、有関節亜綱穿殻目穿殻亜目テレブラツラ科シロチョウチンホウズキガイ Gryphus stearnsi や穿殻亜目カンセロチリス科タテスジチョウチンガイ Terebratulina japonicaなどが代表種である(何故か Terebratulina 属はカンセロチリス科であってテレブラツラ科ではない。分類タクソン類は保育社平成四(一九九二)年刊の西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑Ⅰ」に拠った)。一見、二枚貝に似ている海産生物であるが、体制は大きく異なっており、貝類を含む軟体動物門とは全く近縁性のない生物である。化石ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループであるが、その後多様性は減少し、現生種数は比較的少ない。学名“Brachiopoda”(ブランキオポダ)はギリシャ語の“brachium”(腕)+“poda”(足)で、属名“Lingulida”(リングラ)は「小さな舌」の、“Craniscus”(クラニスクス)は「小さな頭蓋」の、“Gryphus”(グリフス)は「鉤鼻の」、“Terebratulina”(テレブラトゥリナ)は「孔を穿つ小さなもの」の意である(学名語源は主に荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の「シャミセンガイ」の項に拠った)。以下、ウィキの「腕足動物」から引用する。『腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物』で、斧足類(二枚貝)のように二枚の殻を持つが、斧足類の殻が体の左右にあるのに対し、『腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる。2枚の殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる』。殻長は5センチメートル前後のものが多く、『腹殻の後端から肉茎が伸びる。肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる』が、種によってはこの『肉茎を欠く種もいる』。『殻は外套膜から分泌されてできる。外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。外套腔は水で満たされていて、触手冠(英語版)がある。触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では1対の腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる』。『消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌(後述)は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる』。『循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされ』、ガス交換は体表で行われる。『1対か2対の腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす』。『神経系はあまり発達していない。背側と腹側に神経節があり、2つの神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる』。生態は『全種が海洋の底生動物である。多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。体を底質に付着させない種もいる』。『餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる』。以下、「繁殖と発生」の項。『有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。わずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体』で、『雌雄異体のものでも、性的二型はあまりない』。『体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。その場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される』。

「フンディの入江」原文“Bay of Fundy”。カナダの東端ノヴァスコシア半島の西側に深く入り込んだフンディ湾のこと。この湾内のミナス海盆(Minas Basin)周辺では世界最大の干満潮差が発生することで有名で、春の大潮時の世界記録は16メートルを超える。

「セント・ローレンス湾」(Gulf of Saint Lawrence)は、ノヴァスコシア半島の北方カナダ南東部に位置する大きな湾で、セントローレンス川を経由して五大湖から大西洋への湖水の出口に当たる。サケ・マス・カラフトシシャモをはじめ、セントローレンス水系が齎す有機物や微生物などの豊富な栄養素によって豊かな漁場となっている。

「ノース・カロライナのブォーフォート」恐らくはノースカロライナ州南部の東海岸の広大な砂嘴が形成されたところにあるビューフォート(Beaufort)。現在はウォーター・フロントのリゾートとして知られているようである。

『日本には三、四十の「種」が知られている』代表的なシャミセンガイ類だけを見ても、本邦には9種を産し、穿殻亜目TEREBRATULIDINA にはざっと見ても20種を越える種が日本産としてあり(前掲「原色検索日本海岸動物図鑑Ⅰ」に拠る)、磯野氏の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には腕足類の多産地一つが日本近海で、『馬渡静夫博士が一九六五年に『動物系統分類学』八巻(上)に記しているところでは六五種が日本近海に産する』とあるから、この数字は大袈裟ではない。なお、腕足類の現生種は現在約350種とされる(化石種は何と12000種を超す)。因みに、代表種の一つでモースの調査対象でもあったミドリシャミセンガイ Lingula anatine は有明海では食用として「メカジャ」とも呼ばれるが、これは「女冠者」で、腹背(貝類の左右と異なる大きな体制の違いである)の殼内にある発条樣の多数の繊毛を持った短い触手を持つ触手冠(これによって水中のデトリタスを漉し取って摂餌する)を女性性器に譬えた呼称と思われる。

「十八マイル」約29キロメートル。この時、モースは矢田部良吉と連れだって人力車で横浜のグランドホテルから江の島へ向かっている(磯野前掲書八七頁)。現在の地図上で国道一号線上を藤沢まで辿って江の島に向かうと約27・5キロになるから、非常に正確である(直線距離だと23キロ弱)。

「若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した」さて、読者諸君は、この「若い日本人」の名前を知っている。高校の文学史で近代詩のルーツとして「新体詩抄」(このモースとの出逢いから五年後の明治一五(一八八二)年の刊行)の名前を憶えさせられたであろう。この二十九歳の文学部教授(日本初教授号の一人)こそ、あの作者の一人後の東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て同総長・貴族院議員・第三次伊藤博文内閣文部大臣などを歴任した外山正一(とやままさかず (嘉永元(一八四八)年~(明治三三(一九〇〇)年)なのである。但し、磯野氏が「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で考証されている通り、この江の島で招聘というのはというのはモースの記憶違いで(そもそも外山の名前は本書の「第一章 1877年の東京――横浜と東京」に中に既に『我々は外山教授と一緒に帝国大学を訪れた』(底本「1」の十五ページ上段)に、既知の人物名として突如出てくるのである)、実際には六月十七日夜に汽船「シティ・オブ・トーキョー」で横浜入りして横浜のグランドホテルに入ったモースは、その翌十八日に外山の訪問を受けており、そこで既に講演依頼を受けていたというのが真相である(詳しくは当該書の「8 日本への第一歩」を参照されたい)。……個人的には江の島のシチュエーションの方が絵的には、無論、いいんだけどね♡

「だがその冬、米国で公開講演をする約束が出来ていたので、五ケ月間の賜暇をねがい、そして許された」来日から約五ヶ月後の明治一〇(一八七七)年十一月初めにモースは一時帰国している。ウィキエドワード・S・モースによれば、その際、東大と外務省の了解を得て、自分が発掘した、『大森貝塚の出土品の重複分を持ち帰ったが、この出土品をアメリカの博物館・大学へ寄贈し、その見返りにアメリカの資料を東大に寄贈して貰うという』、今でいう学術的な国際交流を実践しているとある。ここでモースが言っている「私は大学図書館のために、二万五千巻に達する書籍や冊子を集め、また佳良な科学的蒐集の口火を切った」というのがまさにそれを指している。翌年(ウィキの記載は年号が誤っている)の四『月下旬、家族をつれて東京大学に戻っ』ている。

「創立さるべき博物館」現在の国立科学博物館の前身である教育博物館及び現在の国立博物館の前身である明治一四(一八八一)年に上野公園寛永寺本坊跡に本館が建てられる博物館(後に帝室博物館)を指していよう。前者はこの年一月に上野山内の西四軒寺跡(現在の東京芸術大学のある場所)に新館の一部竣工しており、「東京博物館」(有名無実の貧弱なものであった)から「教育博物館」と改称しており(この年をもって現在の国立科学博物館は創立年としている)、また同年九月に学生らと掘り始めた大森貝塚の出土品も、この教育博物館で展示したりしている。]

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