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2013/06/10

海産生物古記録集■7 「守貞謾稿」に表われたるナマコの記載

■7 「守貞謾稿」に表われたるナマコの記載

[やぶちゃん注:「守貞謾稿」は風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?)が書いた風俗・事物を解説した類書(現在で言うなら一種の百科事典)。起稿は天保八(一八三七)年、その後約三十年間に亙って書き続けた。全三十五巻(前集三十巻・後集五巻)。一六〇〇点にも及ぶ付図と詳細な解説によって近世風俗史の基本文献とされる(ここまでは主にウィキの「守貞謾稿」に拠った)。これは明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された(これ以降、守貞の事蹟は「日本歴史人物事典」に拠る)。

 喜田川守貞は本姓石原、名は庄兵衛。喜田川は北川の代字かとも言われる。大坂生まれであるが、当初も商売で江戸と頻繁に往来したと推測されている。天保八(一八三七)年には江戸深川に仮寓したと思われ、同一一年九月以降は江戸に定住し、砂糖を商う北川家を嗣いで京・大坂・江戸三都の人情風俗を比較しながら本記録をものしたらしい(その詳細な事蹟は不明である)。

 底本は岩波文庫版宇佐美英機校訂「近世風俗志(守貞謾稿)」の第一巻(一九九六年刊)及び第四巻(二〇〇一年)を用いたが、私のポリシーに則り、国立国会図書館デジタルライブラリー版の昭和九(一九三四)年更生閣書店刊「類聚近世風俗志:原名守貞謾稿」を参照して正字化して示した(当初、国立国会図書館近代デジタルライブラリー版のこれを含む三種を底本候補に考えたが、電子化した場合、岩波文庫版と比してどれも読者には読み難い感じを覚えたのでとりやめた)。

 最初の「1」とした海鼠の販売についての叙述は「卷之六 生業 下」の中に、後の「2」とした土竜打ちの記載は「卷之二十七 夏冬」(夏季及び冬季の各地の祭事・行事・風習及びそれに纏わる物品を採り上げている)の「十二月二十八日 報恩講」という見出しのある記事の後半部に現われる。]

 また大坂にては、生海鼠(なまこ)を白晝に賣らず、申刻(さるのこく)以後にのみこれを賣る。また大坂にては金海鼠を賣こと、およびこれを食すこと嚴禁なり。これ唐蘭の來舶は長崎の官市なり。かの價物には昆布を第一とし、金海鼠をもこれを用ふ。昔年、かの土に遣るに金海鼠多からず。故にこれを食すを禁ず。一時の假令永制となりて、今に至りて嚴禁たり。白晝生海鼠を賣り巡らざるもこの故なり。京・江戸は白日もこれを賣る。また金海鼠の禁なし。

 節分の夜、大坂の市民、五、六夫あるひは同製の服を着し、あるひは不同の服もこれあり。その中一人、生海鼠(いきなまこ)に細繩をつけ、地上を曳(ひ)き巡る。その餘三、四夫は各銅鑼(どら)・鉦(かね)・太鼓等を鳴らして曰く、「うごろもちは内にか、とらごどんのおんまひじや」と呼び、自家および知音の家にも往きて祝すことあり。うごろもちは、土竜(もぐら)を云ふなり。江戸にては、むぐろもちと云ふ。坂人、今夜のみ生海鼠をとらごどの、虎子殿と云ふ。傳へ云ふ、これを行ふ年は、その家土竜地を動かさず、云々。最も古風を存せり。

□やぶちゃん注

・「生海鼠(なまこ)」の「なまこ」は「海鼠」の部分のルビである。

・「申刻」午後四時頃。

・「金海鼠」これは「きんこ」と読み、ナマコの一種であるナマコ綱 Dendrochirotacea 亜綱樹手目キンコ科キンコ Cucumaria frondosa var. japonica。但し、我々が一般に見知っているマナマコStichopus japonica Aspidochirotacea 亜綱の温帯・熱帯性の種を多く含む楯手目で、亜綱レベルで異なるので注意されたい。対する北方種であるこのキンコは本川達雄他「ナマコガイドブック」(阪急コミュニケーションズ二〇〇三年刊)の「樹手目 DENDOROCHIROTIDA」の項に以下のように載る。

   《引用開始》

キンコ[キンコ科 Cucumariinae

キンコ Cucumaria frondosa var. japonica  Semper, 1868

 体長1020cm。体は概して丸く茄子形で、腹面はやや膨らみ、背面はやや扁平である。体色は灰褐色のものが多いが、黄白色から濃紫色までと色彩変異の幅が大きい。体前部には同大の大きな10本の触手がある。腹面の歩帯には不規則な2~4列の管足、背面の歩帯には2列の管足がある。腹面の間歩帯には管足はなく、背面には少しある。茨城県以北、千島、サハリンに分布。浅海の礫の間に生息する。食用種;二杯酢で生食するほか、煮て乾かして「いりこ」とする。

   《引用終了》

なお、キンコについては、私の古い電子テクストに、蘭学者芝蘭堂大槻玄澤(磐水)の文化七(一八一〇)の版行になる詳細なキンコの古記録「仙臺 きんこの記」があるので、参照されたい。

・「官市」は「くわんし(かんし)」で本来は律令制時代における官設の市場(藤原京・平城京・平安京に東西の二市が置かれて市司の管理下にあった)指すが、これは出島に於ける幕府の長崎貿易のことを特異的に指している。

・「價物」長崎では第四代将軍徳川家綱の時代、明暦元(一六五五)年から寛文一一(一六七一)年にかけて、一時的に自由貿易が許されたが、その際、主な輸入品であった生糸の代価として多量の国内の金銀が国外へ流出した。その後の一貫した管理貿易下では銅・俵物との物々交換、代物替(しろものがえ)による決済がなされたが、この代物替用の俵物の中に昆布や煎海鼠(いりこ)が含まれていた(ご想像がつくと思われるが特に対唐人貿易ではこの煎海鼠の需要が非常に高かった)。ウィキの「代物替」によれば、『これらの品は貿易用の代価とするため、全て長崎会所に納めねばならないことになっており、市民相互間の売買は一切禁止されていた。これらを僅かでも買ったり貯えたりしておくと、抜荷を企んででいるのではないかと疑われた』とあり、この制度は元禄期に固まって整備されたことから、ここで筆者が「故にこれを食すを禁ず」としたのはその頃のことと考えられる。

・「京・江戸は白日もこれを賣る。また金海鼠の禁なし」というのは、何故だろう? 特に大阪に限ってそのような禁忌(タブー)が残るのには、特殊な理由があるはずである。今のところ、思いつかぬ。識者の御教授を乞うものである。

・本条については、前の「海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載」及び注を参照されたい。

・「うごろもちは内にか、とらごどんのおんまひじや」は「土竜(うごろもち)は内にか、虎子殿(どん)の御舞ひぢや」の意であろう。「海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載」注を参照。

・「その家土竜地を動かさず」私はこの言葉にあるニュアンスを感じている。そもそもこれが地方の田畠を所有し、実際に土竜に地面を掘り返されることを忌み嫌う(前に述べたようにその実損被害はそれほど甚大なものとは思われないが)農家ではなく、圧倒的に商家の多かった大坂での行事の中で、こう言い伝える場合、これはどう考えても、庭や邸内に土竜が来なくなるなんどという話ではあるまい。私は「その家土竜地を動かさず」とは地震除けの呪(まじな)い、地震による屋敷内の損害予防の呪いとして、これが意識されていたのではなかったかと考えるのである。大方の御批判を俟つものである。

・なお、この大坂の土竜打(うごろもちう)ちについて、荒俣宏氏は「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」の「ナマコ」の「土龍打(うごろもちうち)」の項で、前に私の引いた「和漢三才図会」、次にこの「守貞満稿」から主旨の現代語訳引用をされた後に、大田(おおた)才次郎編「日本児童遊戯集」(明治三四(一九〇一)年刊)から、主旨引用して、この守貞の記した大阪の節分の奇習は『明治になっても続けられ、節分の夜になると、小学生の男子が石油の空缶を打ちならしながら、「ナマコ殿の御見舞じや、おごろもちゃ逃げさんせ」という唄をうたい、あちこちを練りまわった』と近代の様子を記しておられる。流石に最早、現在ではこの風習(少なくとも実物のナマコを用いてのそれ)は残存していないようである。]

■やぶちゃん現代語訳

 また、大阪に於いては、活海鼠(いきなまこ)を昼間に売らず、やっと申のを過ぎる頃になってから、やおら棒振(ぼてぶ)りが海鼠を担ぎ出して売り始める。
 また、大阪に於いては、金海鼠(きんこ)を売ること、及びこれを食用とすることを厳しい禁忌としている。 これは何故かというに、少々説明が必要である。
 まず、中国やオランダの舶来品の売買は、これ、現下、長崎でのお上のお取引に限られている。
 かの輸入品の代価には代物替のお取決めによって、俵物が使われるが、そこでは昆布を一番の代物として汎用し、さらに、この金海鼠という特別な海鼠を乾したものをも用いる。
 ところが、かつて出島での貿易がお上の差配によって行われた当初の頃は、かの大陸や南蛮に代物として遣わすに、この金海鼠、必ずしも多くは採れなかった。
 そのため、この金海鼠を食用として食すことを厳しく禁じていた。
 今では、代物替の内容も豊富となり、そんなことはなくなったのであるが、一時の仮の厳禁のお触れが永く庶民を制する慣習となって、今に至っても売り買いするも食することも相変わらず厳禁とされているのである。
 昼間に如何にも似たような形の海鼠を売り歩かぬというのも、こういう訳なのである。
 但し、京都・江戸にては、昼間も普通にこれを打っている。また、金海鼠の売買摂食の禁というものも全くない。

 節分の夜、大坂の市井の民草は、四~六人で一隊となり、時には同じ印半纏の如きものを着(ちゃく)し――場合によっては別に不揃いの服のこともある――、その中の一人が、活海鼠(いきなまこ)に細い繩の先に縛り付け、地面の上を曳きずって町内を巡る。
 残りの三~五人の者は各々、銅鑼(どら)・鉦(かね)・太鼓なんどを鳴らしながら、
「♪うごろもちは内におるか♪ ♪虎子殿(とらごどん)の御舞(おんま)いじゃ♪」
と唄を歌い、自分の家から昔馴染みの知人の家にまで練り歩いて行っては言祝ぎをするという風習がある。
 この「うごろもち」とは土竜(もぐら)のことを言うのである。江戸に於いては「むぐろもち」と言うておる。
 大阪人は、今夜に限って、活海鼠(いきなまこ)のことを「とらごどの」「虎子殿」と言うのである。
 伝承によれば、
『これをちゃんと行なった年には、その言祝ぎを受けた家の屋敷内にては、土竜は地を動(ゆるが)すことはない。』
と言い伝えておるとのこと。
 実に最も古風の風習を保存している好例である。

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