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2013/06/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 5 附江の島臨海実験所の同定

M117


図―117

 だが、日本の正餐のことに戻ろう。いくつかの盆の上にひろがったのを見た時、私は食物に対すると同様の興味を、それ等を盛る各種の皿類に対して持った。床に坐り、皿の多くを持ち上げては食うのは甚だ厄介であったし、また箸にはしよっ中注意を払っている必要があったが、すべてに関する興味と新奇さに加うるに激しい食慾があったので、誠に気持のよい経験をすることが出来た。油で揚げた魚と飯とは全く美味だった。各種の漬物はそれ程うまくなく、小さな黒い梅に至っては言語道断だった。大きな浅皿の上には、絹糸でかがった硝子の棒の敷物があった。棒は鉛筆位の太さがあり、敷物は長さ一フィートで、くるくると捲くことが出来る。これは煮魚のような食物の水気を切るには、この上なしの仕掛けである。図117はそれが皿に入っている所を示している。この装置は日本の有名な料理、即ち生きてピンピンしている魚を薄く切った、冷たい生の魚肉に使用される。生の魚を食うことは、我々の趣味には殊に向かないが(だが我々は、生の牡蠣(かき)を食う)、然し外国人もすぐそれに慣れる。大豆、大麦、その他の穀物を醱酵させてつくるソースは、この種の食物のために特別に製造されたように思われる。私はそれを大部食った。そして私の最初の経験は、かなり良好であったことを、白状せねばならぬ。だが、矢田部氏に至っては、一気呵成(かせい)、皿に残ったものをすべて平げて了った。坐って物を食うのは困難な仕事である。私の肘は間もなく疲れ、脚もくたびれて恐ろしく引きつった。私は、どうやらこうやら、先ず満腹という所まで漕ぎつけたが、若しパンの大きな一片とバタとがあったら(その一つでもよい)万事非常に好都合に行ったことと思う。図―118は、我々が食事を終えた時の、床の外見である。食事後我々は実験所に使用する場所をさがしに出かけ、家具の入っていない小さな建物を見つけた。我々はこれを一日三十セントで借りた。今晩、あるいは明日、我々は将来の大学博物館のために、材料の蒐集を始める。

M118

図―118

[やぶちゃん注:「図―118」には多くの手書きキャプションがあるが、私には判読出来ない。もう少し鮮明ならば判読が可能かもしれないと思われる方は、是非、“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback MachineにあるPDF画像で視認してみて戴きたい。よろしくお願い申し上げる。

「硝子の棒の敷物」竹製ではなく、しかも長さ30センチメートル(図から見るとガラス棒一本の長さの方が簀子としての幅よりも長いので恐らくはガラス棒の長さを言っているものと私は判断する)もある非常に太いガラス製の簀子である点、私は正直、この時代に、とちょっと吃驚した。

「我々は実験所に使用する場所をさがしに出かけ、家具の入っていない小さな建物を見つけた。我々はこれを一日三十セントで借りた。」以下、磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の第十章「江ノ島の臨海実験所」に非常に緻密な、この実験所の所在地についての考証があるので、詳細はそちらをお読み戴きたいが、それらの磯野先生のポイントを要約する。

 まず、モースに対して実験所の設置場所として、この江の島を推薦したのは本文に登場している植物学者矢田部良吉であったと推定されておられる。それは矢田部がこの明治一〇(一八七七)年『の一月に海藻の採取に来て実地を』よく知っていたことを挙げられ、また、江ノ島がモースの居留していた『横浜からも近く、外国人が自由に訪問できる「遊歩地域」内で、欧米人がよく避暑に訪れる場所だったことも考慮されたと思う』と記されておられる。この遊歩地域というのは、「外国人遊歩規定」のことを指す。これは江戸幕府が欧米列強と安政五(一八五八)年に結んだ安政五カ国条約の中の、外国人が外国人居留地から外出して自由に活動出来る範囲についての規定を指し、基本的には自由に行動出来る範囲の上限として開港場からの距離最大十里(約四十キロメートル)に定められていた。この条約の内、モースに適応されたアメリカ合衆国と結んだ日米修好通商条約(この条約の失効は日米通商航海条約の発効した明治三二(一八九九)年七月であった)の中では、その第七条の冒頭に(以下、引用は参照したウィキの「外国人遊歩規定」より)、

第七條

 日本開港の場所に於て亞墨利加人遊歩の規程左の如し

 ・神奈川 六郷川筋を限とし其他ハ各方へ凡十里

とある。六郷川は現在の多摩川のことで、この東方向は首都江戸東京のセキュリティのためか、原則から外れて例外的に半分の約五里(二十キロメートル弱)であった。但し、『この規定によって、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域の外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も内地旅行免状が必要であった』とあり、モースの場合はまさに「学問研究目的」で、彼が相当に自由な行動をとっていることからも恐らくは特別な汎用可能の「内地旅行免状」を所持していたものと思われる。『この制限は、攘夷運動など幕末の秩序混乱の時期にあって外国人に危害を加えようとする者との接触を極力避ける目的で設けられた。明治維新によって新政府が成立したのち、列強は居留地外での行動の自由、さらには内地開放を望んだが、その一方で日本では、外国人に対し遊歩規定等を厳格に守らせることにより、不平等条約が列強側にとっても不便であることを痛感させることによって、条約改正に際して、より日本側に有利な条件を引き出そうとする現行条約励行運動(ないし現行条約励行論)を生んだ』。モースに関係する横浜開港場においては、『その西の限界は小田原の東、酒匂川東岸となっていた』とある。

 実験施設として借りた小屋の一日の賃貸料が「三十銭」とあるが、これは非常な高額である。当時は米一〇キログラムが五〇~三七銭、かけ蕎麦一杯が 八厘、大工の一日の手間賃が四五銭の時代で、磯野先生の叙述には、『当時は、東京でも月三~一〇円で建坪二〇坪ほどの二階屋が借りられた』とあり、『月九円はあきれるほど高い借り賃』と断じておられる。場所柄、ただの漁師の船小屋(だから後に見るように相応の大きさがあるのであろう)と考えられ、先生の評言は正しい。

 それではこの江ノ島臨海実験所の正確な位置はどこであったか。これについて、磯野先生は当該書の88頁から90頁にかけて、ピーボディ博物館蔵のモースの日記に記された江ノ島の略図(これは本書の「第六章 漁民の生活」の冒頭に配された「図―146」と酷似する。但し、図―146が絵のみであるのに対し、磯野先生が紹介されている図には“YENOSHIMA”、“Our Zoological Station”(「動物学研究所」の意)といったキャプションが記されてある。但し、当該書の当該図は小さく、筆記体の手書きで判読は極めて難しい。磯野先生が丁寧に日本語に訳されておられるので――例えば次の臨海実験所平面図の中の「点線は石垣を示す」等――私などは辛うじて理解出来るものである。なお、この「図―146」に私が臨海実験所の位置を書き入れたものを以下に示しておくので参照されたい)及び臨海実験所平面図、さらにそれに対応するような江ノ島の古地図2枚(何れも現在の旅館岩本楼が所蔵する文化三(一八〇六)年と明治七(一八七四)~十一(一八七八)年の五年間の間で作成された地図。因みにこの岩本楼はモースの江の島滞在中の宿でもあった。モースは前に『富士山の魅力に富んだ景色がしばしば見られた。かくもすべての上にそそり立つ富士は、確かに驚く可き山岳である』と富士山を絶賛しているが、磯野先生の叙述にはこの岩本楼が『海の彼方に富士を望む場所にあり、その景色の良さがモースの気に入ったの』であると附言しておられる)を掲げて、臨海実験所の同定をなさっておられる。少しく細部を引用させて戴くと、まず、『この小屋の広さは二間×三間の六坪と思われ』(約三・六×五・五メートルで、一坪を畳2畳と換算すると12畳間に相当する。ラボラトリーとしては決して大きいとは言えない)、『海に面した二箇所に窓があり、また海側に石垣が組まれていたこともわかる』とされ、本書の「第六章 漁民の生活」の図―151によって、『たしかに石垣があり、海側に突き出ているようすがはっきりする』とある。なお、この実験所の画像としてはもう一枚、やはり「第六章 漁民の生活」の冒頭に図―147があって、これによって、この実験所は海に突き出た人工の石垣上(この部分は全くの人工ではなく、古地図の地形から見る限りでは、ここら辺りから張り出した南に伸びる海食台があってそれを人工的に護岸したものではないかと思わせる。その北の端の、まさに角縁に実験所はあったのである。そのために東と北の二方向が海になることになるのである)に建っており、2間の東に面した海側に一箇所、3間の北に面した海側に一箇所、長方形の窓(描き方から見ると長方形に開いた窓の中に左右に2本の柱が立ち、例えば左右に雨戸を嵌めると中央に正方形の窓が出来るもののように私は推測する)が附いていることが分かる(以下に図―147及び151をも示しておく)。

M146yab
図―146
[やぶちゃん注:江の島の図。三箇所の書き入れは磯野先生が示された日記を参考に私藪野直史がオリジナルに入れたものである。]

M147

図―147
[やぶちゃん注:モースの同部分での叙述及び磯野先生が再構成なされたモースの江の島での日録によれば、恐らくこれは実験所の改装完了当日の絵である。改装落成に快哉したモースであったが、まさにこの当日の7月26日には大型台風が襲来、『採集研究どころではなく、実験所に運び入れたばかりの品々をすべて宿』(岩本楼)『へ持ち帰る騒ぎとな』ったとあり、その風雨の中の臨海実験所の様子を心配して見に行き、その様子を描いたものが、実にこの絵なのである。]

M151

図―151

 磯野先生の考証の結果、当時の実験所のあった所番地は『神奈川県第十六区五小区八十六番地』で(因みに当時の江の島は藤沢宿の領域ではなく、鎌倉の域内であった。実はこの翌年の明治一一(一八七八)年に郡区町村編制法が実施されており、その時、藤沢は高座郡となって高座郡郡役所が置かれているが、この時も江の島は鎌倉郡江島村となっている。その後、遙か昭和八(一九三三)年になって町制施行しても鎌倉郡片瀬町で、昭和二二(一九四七)年になってやっと鎌倉市(鎌倉は昭和一四(一九三九)年十一月に鎌倉町と腰越町が合併して市制を施行、鎌倉市となっていた)から藤沢市へ編入合併されて現在の通りの藤沢市片瀬の一部となったのである)、これは『近年の地番改正によって現在の「江の島一丁目六ー―三二」になったことを明らかにできた』と遂に探り当てておられるのである。現在の当該神奈川県藤沢市江の島1目6―32の地図をリンクする(リンク先は「マピオン」。スケールを最小の1/1500に上げると、明確な位置が把握出来る)。なお、モースの記念碑(付属プレートには「日本近代動物学発祥の地」というキャプションが附されている。山本正道作の研究中のモースとそれを興味深げに見る三人の児童のレリーフ)はこの位置からほぼ北へ一〇〇メートルほど離れた江の島大橋の江の島に向かって直ぐ左手下方、オリンピック記念公園内の橋寄りの西北の隅に設置されている。現在の正しい同定地は民家が立て込んでいたためと磯野先生の解説にある(小さいが一昨年に私が携帯で撮った記念碑の写真を以下に示す)。

20120106130742

[エドワード・S・モース記念碑]

 これについて磯野先生は『この公園の場所はモースが訪れた頃は海のなかであり』、『まさにモースがシャミセンガイを採集したあたりなので、モースはかえって喜んでいるかもしれない』と述べておられ、私も同感である。

 この他にも藤沢市が設置したモース臨海実験所跡の記念プレートが江の島一丁目六―二一東南隅地にあるという記載が磯野先生の記述に現われるが(私も見た記憶はある)、これについてはやや不審な点があるので、いつか個人的に実地調査をしようと思っている。その時はここに注を追加したいと考えている。

 なお、モースはこの小屋を借りた際、同時に内部の改装も依頼している旨、磯野先生の記載にある。]

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