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2013/07/04

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 3 ……たかが雑誌……されど雑誌……なかなか手強いぞ!……

格闘すること半日にしてやっと「江の島」の総説部の電子化と注釈を完了した。
この雑誌……いや! これ、なかなか侮れない! 内容も表現も、頗る高度高尚にして……何より注が如何にもタイヘンなのだ!――なればこそ意欲も湧出致します!――



    ●江の島

江島は。相模国鎌倉郡川口村の海中。即ち相模灘の南端に在る一島にして。周廻二十町三十八間。面積十八町百八十三歩。最近陸地たる片瀨村洲鼻に至る十町。鎌倉雪之下に至る二里とす。

其の形狀たる數十丈の翠巖海上に突立(とつりつ)し綠樹其の巓を蔽ひ、碧潮(へきてう)其の地を洗へり。東は近くして七里濱(しちりがはま)。遠くして房總を望み。南に伊豆の大島。西に箱根の諸山を見。遠く富士山に相對せり。北は近く大山丹澤山等連なりて。風景絶佳と稱す澤元愷の靈龜負蓬莱而浮耶。望之維石瑰暐。琪樹錯綜。樓臺雜比。恍然爲不可至也と。漫游文草に記せしは宜なり。此島一名を金龜いふ。僧大休の游江島詩に。策杖徐行蹈鼈といひ堯惠の手向(たむけ)の歌に。龜の上なる山櫻と詠せしは此が爲めなり。江島の稱舊くは柄(え)、荏(え)、榎(え)或は繪(ゑ) 畫(え)等の文字を用ゐしが。近世に至りて今の文字に定めぬ。然れども詩人は專ら繪畫の字を適用せり。

島の起立(きりつ)幷に沿革は。新編相模国風土記に載(のせ)たれは左に抄出す。島の起立は正史に所見なし。江島譜には。開化帝の六年四月。一宵に海底より涌出せしと云ふ。緣起には。曩昔深澤長江なりし頃惡龍住みて人を殘害せしが。欽明帝の十三年四月十二日より二十三日に至る迄大地震動して。海上に孤島を湧出し。天女降居して遂に彼の惡龍を降伏(かうふく)せしと云へり。固より浮屠氏の妄説なれど。久しく傳聞して人口にも舊く膾炙せり。又湧出の説は伊豆の神津、大隅櫻島の類に據れば深く疑ふべきにもあらす。かくて人跡始めて島中に入りしは。文武帝の四年役小角が至りしを魁(さきがけ)とし。壽永元年賴朝初めて辨財天を窟中に勸請せしより。衆人群集するに至れり。光行か海道記に。固瀨川を渡りて江尻の海汀を過ぐれば江の中に一峰の小山ありと記せるは。即ち此地(このち)なり。曆應元年九月義良親王及び春日中將顯信等奥州に下向せんと。勢洲大湊(おほみなと)より纜(ともづな)を解き。海上にて難風(なんふう)に遭(あひ)衆船多く漂沒せし時。關八郎左衛門尉の軍船。此島に漂泊し。誅せらる。寶德二年四月。上杉右京亮憲忠の老臣大田備中守淸長尾左衛門尉景仲等相(あい)儀して鎌府を襲ふ。管領成氏窃に是を知り。夜中此島に逃る。永祿四年三月。北條善九郎康成より。此島公界所たる間不虞の計策をなし。敵の要害に備ふべき由。坊中に令し。且制札を出(いだ)せり。同六年蜷川帶刀左衛門か出せし制札に據れば。此頃當所に關門(くわんもん)を置き。其の征錢(せいせん)を收しと見ゆ。天正七年北條陸奥守氏照五箇條の掟書(じやうしよ)を出す。此頃にや同人又三箇条の制札を出せり。同十八年小田原陣(おだはらぢん)の時。玉繩の城主の北條左衛門大夫氏勝此島に敵取かゝらば早く中進すへき旨を令す。慶長五年六月東照宮景勝御退治として關東へ御下向の序。藤澤より當所へ渡らせられ。島中を御遊覧あり。明治中興の後は納涼の好適地として。毎年夏季には遊客(ゆうかく)群集す。近年砲台を設け。遊客を拒絶するとの風説を傳へしが。今日に至りては絶(たえ)て之を口にする者なし。依然として山水恙なく帽影釵光舊に仍て島上(とうじやう)に旁たり。

 

[やぶちゃん注:「周廻二十町三十八間。面積十八町百八十三歩。最近陸地たる片瀨村洲鼻に至る十町」換算を示すが、これは関東大震災前のデータである点に注意。

周囲 約2・25キロメートル

面積 約0・18平方キロメートル

洲鼻から江の島までの距離 約1キロ

となる。現行の諸データでは、江の島は

周囲 約4キロメートル

と記されてあるが、現在の弁天橋の島側端から江の島の西周囲を滑らかに辿り、東側に突出したヨットハーバー部分を除いた東側海食台に沿って計測してみると、人工物を配した現在の江の島は、

周囲 約2キロ強

である。東側は海食台直下で断ち切られていたのではなく、砂地で多くの漁師の村落が存在していたから、ここを東に少し張り出して計測すれば、恐らく2・5~3キロとなり、震災による隆起後の状況とも一致してくる。次に現在の江の島は、

面積 0・38平方キロメートル

とある。因みに現在の洲鼻広場から現在の砂嘴中央を通って江の島の弁天橋先の鳥居位置までの距離を試みに測ってみると、

洲鼻広場から江の島の弁天橋先の鳥居までの距離 870メートル

となる。後の隆起を考えればよく一致すると言えよう。

「澤元愷」「たくげんがい」と読み、儒者平沢旭山(享保一八(一七三三)年~寛政三(一七九一)年)のこと。昌平黌の林家に入門、入退塾を繰り返した後に片山北海に学ぶ。一時、蝦夷松前藩主松前道広に仕官し、荷田在満に律令を学んだ。仏教にも通じていたとされる。生涯に文章三千編を書いたといわれ、文章家としても知られている。「漫遊文草」は彼の代表作(以上は「e-短冊.com」のここに拠った)。

「靈龜負蓬莱而浮耶。望之維石瑰暐。琪樹錯綜。樓臺雜比。恍然爲不可至也」以下に我流で書き下す。

 靈龜、蓬莱を負ひて浮くか。之を望むに、維石(いせき)瑰暐(くわいい)として、琪樹(きじゆ)錯綜、樓臺は雜比(ざつぴ)たり。恍然(くわうぜん)として至るべからざらんと爲(する)なり。

「維石、瑰暐」「瑰暐」は「瑰偉」で、元来は心が広く大きく物事にこだわったり屈したりしないことを指すが、ここは連なる岩石の魁偉なることを言うか。「琪樹」元来は中国の西方にある西王母が住む仙山崑崙山の北に生える玉の成る木。蓬莱に掛けて樹木を美称したもの。「樓臺は雜比たり」建物はそれらに入り混じって区別がつかないという謂いか。仙山の景を擬えたものであろう。「恍然」心を奪われてうっとりするさま。

「僧大休」仏源禅師大休正念(嘉定八(一二一五)年~正応二(一二九〇)年)。初め東谷明光に師事し、その後径山の石渓心月に参禅してその法を継いだ。文永六(一二六九)年、幕府執権北条時宗の招聘により来日、後、先師蘭渓を継いで建長寺住職となった。

「游江島詩」返り点に従えば「江の島に游ぶの詩」。正しくは「蘭渓和尚同遊江島帰賦以呈」である。本詩は題から見て、蘭渓の生前の一二六九年から一二七八年の間の早春の作詩と思われる。全文は以下(私の電子テクスト「新編鎌倉志巻之六」の「江島」より)。全文訓読も示し、同テクストの私の注も附しておく。

   *

    蘭溪和尚同遊江島歸賦以呈

               宋 大 休〔仏源禪師〕

 江島追遊列俊髦。  馬蹄獵々擁春袍。

 穿雲分座烹香茗。  策杖徐行蹈巨鼇。

 洞口千尋石壁聳。  龍門三級浪花高。

 須知海角天涯外。  萍水迎懽能幾遭。

 

以下、「新編鎌倉志巻之六」の影印の訓点に従って訓読したものを示す。

    蘭溪和尚と同じく江の島に遊びて歸り賦して以て呈す

               宋の大休〔仏源禪師〕

 江の島追遊して 俊髦 列なる

 馬蹄 獵々として 春袍を擁す

 雲を穿ち 座を分ちて 香茗を烹ニ

 杖を策き 徐ろに行きて 巨鼇を蹈む

 洞口千尋 石壁 聳へ

 龍門 三級 浪花高し

 須らく知るべし 海角天涯の外

 萍水 迎懽 能く幾遭ぞ

 

「蘭溪和尚」は蘭溪道隆(建保元(一二一三)年~弘安元(一二七八)年)。

「同じく」は共に、一緒にの謂いであろう。

「獵々」は風の吹く音。

「袍」は綿入れ。

「俊髦」は「しゆんばう(しゅんぼう)」と読み、「髦」は髪の中の太く長い毛の意。衆に抜きん出て優れた人物。俊英。

「香茗」は「かうみやう(こうみょう)」と読み、香りの高い茶か。「巨鼇」は「きよがう(きょごう)」で大海亀。

「三級」は急崖が三段になっていることを言う。

「海角」とは陸が海に細く突き出した先端の岬を言う。

「萍水」は「へいすい」と読み、ここでは海藻と水を指すが、渡宋僧としての蘭渓道隆と大休正念との出逢いの歓喜をも含意するか。とすれば、これは仏源禪師の訪日からさほど遠くない頃、例えば文永七(一二七〇)年春のことではあるまいか。

「迎懽」は「げいくわん(げいかん)」と読み、喜び迎えるの意。

「幾遭」の「遭」は度数を数える助数詞。

   *

「堯惠の手向の歌に。龜の上なる山櫻と詠せしは此が爲めなり」「堯惠」(大永七(一五二七)年~天正二(一六〇九)年)は戦国は江戸初期の真宗僧。権大納言飛鳥井雅綱三男で室町幕府将軍足利義晴猶子であったが出家、現在の三重県津にある専修せんじゅ寺第十二世として真宗高田派を興隆させた。大僧正。彼は文明十八(一四八六)年五月末に身を寄せていた美濃郡上の東頼数のもとを出て、越中から北陸道を北上、越後から信濃・上野を経て、同年十二月中旬に三国峠を越えて武蔵に入り、翌年二月に鎌倉・三崎等に遊ぶなどして美濃へと戻る旅をしている。この一年半余の紀行「北国紀行」は鎌倉の紀行文として頗る知られたもので、この和歌、

 散らさじと江の島もりやかざすらん龜の上なる山櫻かな

も、それに所収のする一首である。

「江島譜」書誌不詳。識者の御教授を乞う。

「開化帝の六年」紀元前一五二年とする。

「江嶋緣起」十一世紀に延暦寺皇慶(貞元二(九七七)年~永承四(一〇四九)年)が書いたと伝えられる。

「欽明帝の十三年」五五二年。百済から仏像と経文が伝来したとされる年である。

「神津」神津島。伝承によれば、ここは事代主命が伊豆の島々を作る際に神々を集めて相談した島とされ(古くは神集島と書いたとされる)、同島にある天上山では出来上がった伊豆七島の神々が集まって水の分配の会議が行われたという「水配り伝説」もあるという(「神津島村役場オフィシャルサイト」の「神津島について(概要)」によるが、そこでは湧き出すのではなく、神によって「焼き出された」とある。但し、この部分での「湧出」とは、次の桜島と合わせて海底火山の噴火による湧出というすこぶる科学的な謂いかとも思われる。

「文武帝の四年」西暦七〇〇年であるが、現在の伝承ではもっと早く、白鳳元(六七二)年に小角(えんのおづの/おづぬ/おつの 舒明天皇六(六三四)年?~大宝元(七〇一)年?)伝)が開基したとする。なお、ウィキの「江の島」の「沿革」によれば、

天平二一・天平感宝元・天平勝宝元(七四九)年 正倉院に残る庸布墨書によれば、方瀬(片瀬)郷の郷戸主大伴首麻呂、調庸布一端を朝廷に貢進とあり、この地域の公的記録の初出とされる。

とあり、また、

弘仁五(八一四)年 伝承によれば弘法大師空海が金窟(現在の岩屋)に参拝し、国土守護万民救済を祈願、社殿(岩屋本宮)を創建して神仏習合の金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になった。

とする。更に、

仁寿三(八五三)年 伝承によれば慈覚大師円仁が龍窟(現在の岩屋)に籠もって、弁才天よりお告げを受け、上之宮(現在の中津宮)の社殿を創建した。

とある。

「海道記」作者未詳。貞応二(一二二三)年頃の成立。貞応二(一二二三)年四月四日に白河の侘士なる者が京都から鎌倉に下向、同月十七日に鎌倉着、善光寺参りの予定をやめて帰京するまでを描く。「東関紀行」「十六夜日記」と合わせて中世三大紀行文の一つ。

「曆應元年」延元三/暦応元年は西暦一三三八年。なお、この頃、江の島は室町幕府鎌倉府の保護下に入って御料所となった。

「義良親王」「のりよし」又は「のりなが」と読む。後の南朝第二代天皇である後村上天皇(嘉暦三(一三二八)年~正平二三(一三六八)年)。鎌倉幕府滅亡後、父後醍醐天皇が建武の新政を始めると、幼い義良は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かった。建武元(一三三四)年五月に多賀城において親王となるが、翌二(一三三五)年に足利尊氏が新政から離反すると、北畠親子とともに尊氏討伐のために京へ引き返した。建武三(一三三六)年三月に行在所比叡山に於いて元服と同時に三品陸奥太守に叙任、尊氏が京で敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いたが、翌延元二/建武四(一三三七)年に多賀城が襲撃されて危険となり、現在の福島県伊達市と相馬市との境に聳える霊山(りょうぜん)難を逃れる。同年八月に再度上洛を始めて十二月には鎌倉を攻略、延元三/暦応元(一三三八)年に入ると、更に西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破って、伊勢・伊賀方面に転進した後、父後醍醐天皇のいる大和の吉野行宮に入った。父天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自らの皇子を派遣する中、同年九月には義良親王も宗良親王とともに北畠親房・顕信(親房の次男で春日少将と称した)に奉じられて、伊勢国大湊から三たび奥州を目指したが、途中、暴風に遭って離散、親王の船は伊勢に漂着、翌延元四/暦応二(一三三九)年の三月に無事吉野へ帰還、間もなく皇太子となった。同年八月十五日に後醍醐天皇の譲位を受けて践祚している(以上はウィキの「後村上天皇」に拠る)。

「春日中將顯信」の「春日中將」は「春日少將」の誤り。「春日中將」は北畠親房・顕家の家臣の名将春日顕国の別称。

「寶德二年四月……」以下は宝徳二(一四五〇)年四月の「江の島合戦」の発端のシーン。関東管領上杉氏重臣長尾景仲が鎌倉公方足利成氏の政権転覆を計画、辛くも窮地を脱した成氏は鎌倉を脱出して江の島に逃れ、二者の間で攻防戦が展開した。

「北條善九郎康成」後北条氏の家臣の北条氏繁(天文五(一五三六)年~天正六(一五七八)年)の初名。北条綱成嫡男で玉縄城主、後に岩槻城城代や鎌倉代官なども務めた。

「公界所」「くがいじよ」と読む。「公界」当初は鎌倉期に禅寺で公共のものを指す語として用いられたが、南北朝以降は「内」や「私」に対して「世間」「公」の意味で広く一般に使われ、戦国期に入ると人による支配を禁じた場所、俗界から隔離された聖なる場所(アジール)を示す語として用いられた(平凡社「マイペディア」を参照したが、まさにそこにはこの江の島が例として引かれている)。

「同六年蜷川帶刀左衛門か出せし制札」永禄六年は西暦一五六三年。ウィキの「江の島」の「沿革」に同年、蜷川某が岩本院に制札を掲げて関所を設け、江の島を参詣する諸人から関役(せきやく:通行税。本文の「征錢」。)を取らせた、とあることを指す。因みに、同ウィキにはこれに先立つ記事として、

永正 元(一五〇四)年 北条早雲が、江の島に軍勢の乱妨狼藉を禁止する制札を出す。

永正一〇(一五一三)年 八臂弁才天坐像、仏師により彩色等を補修。

享禄 四(一五三一)年 江の島上之坊を岩本院が兼帯。

天文一二(一五四三)年 蜷川康親、江の島岩本坊へ神馬を寄進(ここに出る蜷川はその縁者であろう)。

天文一八(一五四九)年 北条氏康、上之宮及び下之宮の修造に際して白糸二〇斤を寄進。

天文二〇(一五五一)年 北条綱成、江の島岩屋内における鳩の殺生を禁止。

といった記事が載る。

「天正七年北條陸奥守氏照五箇條の掟書を出す」天正七年は西暦一五七九年。北条氏照(天文九(一五四〇)年~天正一八(一五九〇)年)は北条氏康の三男で武蔵国滝山城城主、後に八王子城城主。ウィキの「江の島」の「沿革」によれば、彼はこの年に江の島の岩本坊に不入(ふにゅう:部外者の無断立入禁止。)・留浦(とめうら:戦国時代、他所と隔絶するため、他所者が入ったり、そこに居住する者が他所へ移ることなどを禁止したこと。)など五箇条の特権を認める。

とあるのを指す。

「同十八年」一五九〇年。

「北條左衛門大夫氏勝」(永禄二(一五五九)年~慶長一六(一六一一)年)は北条氏繁の次男。下総国岩富藩初代藩主。豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆国山中城に籠もって戦ったが、豊臣軍の猛攻の前に落城、自害を図るも弟の直重・繁広の諫言に従って城を脱出し、本拠である相模国玉縄城へ戻って籠城した。その後、玉縄城は徳川家康に包囲されるが戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣松下三郎左衛門と、その一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得によって同年四月二十一日に降伏した。以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて、北条方諸城の無血開城の説得に尽力、その後は家康に家臣として仕えるようになり、下総岩富一万石の領主となった。その後領内の基盤整備を進める一方、関ヶ原の戦いなどでも功績を重ねて徳川秀忠の信頼も厚かった(以上はウィキの「北条氏勝」に拠った。因みに私が今これを綴っている書斎は、まさにその玉縄城外郭の西の高みの要衝地に当るのである)。

「慶長五年」西暦一六〇〇年。

「景勝退治」関ヶ原の前哨となった上杉景勝を討つための会津征伐。六月二十八日に藤沢、同二十九日に鎌倉を経ている。新暦では八月七日から八日。夏の暑い盛りであった。

「近年砲台を設け。遊客を拒絶するとの風説を傳へし」実は江の島にはこのずっと後年、太平洋戦争末期に洞窟砲台が作られていたことは知らなかった。「東京湾要塞」のこちらのページでその跡を見ることが出来る。
「帽影釵光舊に仍て島上に旁午たり」「とうじやう」はママ。「釵」の部分は印刷のカスレで活字の中央部が白いために「劒」の字にも見える。そうして「劒」であるなら、「剣光帽影」(けんくわうぼうえい)という四字熟語、剣の光に帽子の影で、軍隊の整列したさまをいう語が思い浮かび、これは一見、直前の砲台建設という風聞と関わってきそうに見えるのだが、それでは実は続く「舊に仍て島上に旁午たり」と続かないのである。ここはやはり「ばうえいさくわうきうによりてたうじやうにばうごたり(ぼうえいさこうきゅうによりてとうじょうにぼうごたり)」は無数の観光客を、男性の帽子の影と女性の釵(かんざし)の輝きで換喩し、それが「旁午」する――縦横十文字に交わるように行きかうこと、往来の激しいさま――という、江の島の当時の繁昌を表現しているのであろう。……それにしてもこの雑誌、なかなか侮れない。途轍もなく内容も表現も高尚なんである――。]

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