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2013/07/13

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 3 附注:江の島にモースを訪ねて来た外国人たちの同定

 七月二十九日 日曜日。若干の英国の店が閉められ、また政府の役所も閉められる(外国人に譲歩したのである)、大都会以外にあっては、日曜日を他の日と区別する方法は、絶対に無い。この役所も、私の短い経験によると、入って行けば用を達することが出来る。

[やぶちゃん注:「日曜日」本邦に於ける曜日の概念の導入は意外なことに、平安初期に遡る。以下、ウィキの「曜日」より引用しておく。『日本には入唐留学僧らが持ち帰った「宿曜経」等の密教教典によって、平安時代初頭に伝えられた。宿曜経が伝えられて間もなく、朝廷が発行する具註暦にも曜日が記載されるようになり、現在の六曜のような、吉凶判断の道具として使われてきた。藤原道長の日記『御堂関白記』には毎日の曜日が記載されている。『具註暦では、日曜日は「日曜」と書かれるほかに「密」とも書かれた。これは、中央アジアのソグド語で日曜日を意味する言葉ミール(Myr)を漢字で音写したものであり、当時、ゾロアスター教やマニ教において太陽神とされていたミスラ神の名に由来する』。ところが、『その後江戸時代になると、借金の返済や質草の質流れ等の日付の計算はその月の日にちが何日あるか』(旧暦では二十九か三十日)『がわかればいいという理由で、七曜は煩わしくて不必要とされ、日常生活で使われることはなかった』。『現在のように曜日を基準として日常生活が営まれるようになったのは、明治時代初頭のグレゴリオ暦導入以降である』とある。既に注で示した通り、新暦(グレゴリオ暦)の本邦での採用は本記載に先立つ四年前の明治六(一八七三)年一月一日のことであり、この明治十年頃でも日曜休業という感覚は全く以って普及していなかったことが分かる。]

 旅につかれ、よごれた巡礼達が、神社に参詣するために、島の頂上へ達する狭い路に一杯になっている。各旅籠(はたご)やでは亭主から下女の末に至る迄、一人のこらず家の前にならび、低くお辞儀をしながら妙な、泣くような声を出して客を引く。家々は島帝国のいたる所から来た、このような旅人達で充ち、三味線のチンチンと、芸者が奇怪なつくり声で歌う音とは、夜を安息の時にしない。この狭い混み合う路を通って、私は実験所へ往復する。私はこの村に於る唯一の外国人なので、自然彼等の多くの興味を引くことが大である。彼等は田舎から来ているので、その大多数は疑もなく、それ迄に一度も外国人を見ていないか、あるいは稀に見た丈である。然し私は誰からも、丁寧に、且つ親切に取扱われ、私に向って叫ぶ者もなければ、無遠慮に見つめる者もない。この行為と日本人なり支那人なりが、その国の服装をして我国の村の路――都会の道路でさえも――を行く時に受けるであろう所の経験とを比較すると、誠に穴にでも入り度い気持がする。これ等の群衆は面白いことをしに出て来たのだから、恐ろしく陽気な人達も多いが、酔っぱらいはたった一人見た丈である。彼は路傍に静かに眠ていた。人々は悲しげにへの状態を見て通り、嘲笑する子供などは只の一人もいなかった。このような場合が、私をして二つの文明を心中で比較させ続ける。

[やぶちゃん注:モースの、アメリカ人と日本人の比較に於ける意外な感懐がすこぶる興味を引く。

「島帝国」原文“the Empire”。]

 著述家のノックス氏、『東京タイムス』の主筆ハウス氏、横浜のドクタア・エルドリッジ及びウェルトハイムバア氏が私の宿屋で一日一夜を送った。今朝彼等が出立した時、私は路の終りまで見送りに行った。砂の地頸〔地峡〕が台風で洗われて了ったので、彼等は舟に乗って本土へ越さねばならなかったが、叫び声! 押し方! 引き方! ある者は舳(へさき)に繩をつけて満員の舟を引き出そうとするその騒ぎは大変なもので、私が今迄見たものとは非常に相違していた。宿の主人や召使いもそこに来て、客人達に向って丁寧にお辞儀をし、別れを告げり、御贔屓(ごひいき)を感謝していた。

[やぶちゃん注:「著述家のノックス氏、『東京タイムス』の主筆ハウス氏、横浜のドクタア・エルドリッジ及びウェルトハイムバア氏」原文を示すと、“Mr. Knox, the writer, Mr. House, editor of the "Tokyo Times," Dr. Eldridge, of Yokohama, and Mr.Wertheimber”である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、彼らの江の島来訪は七月二十八日である(この日モースは日帰りで横浜へ行っており、その帰りに彼らを江の島へ招待したものかとも思われる)。同書(九二~九三頁)の解説を参考にしつつ、各人についてデータを記す。

「著述家のノックス氏」トーマス・ウォレス・ノックス(Thomas Wallace Knox 一八三五年~一八九六年)はアメリカ人、作家で旅行家。当時は世界一周旅行の途次であった。

「『東京タイムス』の主筆ハウス氏」エドワード・ハワード・ハウス(Edward Howard House 一八三六年~明治三四(一九〇一)年)は当時の“Tokyo Times”の社主兼編集者。磯野氏の記載は彼について殆んど一ページ分を割いて、その特異な日本愛を語っておられるが、ここでは有限会社オフィス・コシイシの「耳学目学」の「明治人物ファイル」の不動岳志氏の「日本を愛し日本に骨を埋めた一米人ジャーナリスト」という副題を持つE・H・ハウスの記載(一九九九年四月発行の『えんじゅ一号』掲載)という精緻を極めた解説を引用したい。『エドワード・ハワード・ハウスは一八三六年、日本年号の江戸天保七年、米国ボストンで紙幣の彫版職人をしていた父ティモシーとピアノにすぐれた母エレン・マリアの間に生まれた。性格は非常に勝ち気で、学校側と衝突、十三歳の時退学するというエピソードの持ち主である。しばらく父のあとを継ぐべく彫版職見習いをしていたが、飽きたりず、一八五四年にはボストン・クリエール紙の演劇批評を担当する。一八五八年にはニューヨーク・トリビューン紙に移り、演劇評論を担当したあと、奴隷廃止運動の通信員に任命される。やがて南北戦争(一八六一-一八六五)が勃発すると、北軍の通信員として健筆を揮う。戦後一時期劇場の管理人となっていたが、一八六八年(明治元)再びニューヨーク・トリビューン紙の記者とな』っている。折しも、『一八六○年(万延元)一月十三日軍艦奉行木村喜毅は軍艦操練所教授勝海舟らと咸臨丸に乗って米国に向か』い、『サンフランシスコ到着は二月二十六日。三月二十八日には大統領のブカナンと会見する。当時ハウスはニューヨーク・トリビューンの若い記者であり、この日本使節団の取材を行った。この時ハウスは日本人の礼儀正しい態度にいたく感動、これが、以降日本への強い関心を持つ動機となったという』。明治二(一八六九)年、特別通信員として日本へ派遣された『ハウスは日本の自然と人情がいたく気に入り、各地を見聞して歩く。のちこの時の驚きなどを中心に「Japanese Episode」(日本の事情)をボストンで出版する。通信員の傍ら一八七一年(明治四)には大学南校(のちの東京大学)の英語教師に招かれている。病気のために明治六年大学南校をやめアメリカに戻る。この四年にわたる日本滞在中、彼の名を一躍有名にしたのは、明治五年に起こったペルー船籍マリヤ・ルズ号事件であ』った。『同年六月暴風雨に遭い破損したマリヤ・ルズ号が修理のために横浜に入る。船より一人の中国人が逃亡、この船が中国より苦力を運ぶ奴隷船と発覚する。外交問題となるのを恐れ黙視しようとする大半の政府首脳人の中にあって、副島外務卿は敢然と中国人の解放を叫ぶ。結局事件は在外公使の抵抗を押し切り、副島外務卿の努力によって中国人を中国へ送り返すことで決着し、明治新政府初の外交勝利となるが、ハウスは正義ある副島の立場を擁護し、在外公使の非合理的な態度を鋭く批判した』(ウィキの「マリア・ルス号事件」によって補足しておくと、事件の発生は七月九日、ペルー船籍であった“Maria Luz”号は清国の澳門(マカオ)からペルーに向かっており、船内の清国人苦力は実に231名にも上った。なおこの事件は日本が国際裁判の当事者となった初めての事例でもあった)。その後、『一旦祖国へ戻ったハウスであったが、日本の魅力に取り憑かれ、』明治七(一八七四)年に再来日した。『当時日本は漂着した琉球民を虐殺した台湾現地民に対し懲罰を名目として台湾に軍を進めようとしていた』が、ハウスは『台湾蕃地事務局長官に任ぜられていた大隈重信の勧めで記者として派遣軍に参加することになる。日本初めての従軍記者である。のち彼はこの時見聞した記事をまとめて「The Japanese Expedition To Formosa」(征臺紀事)を出版。その後西南戦争の際も従軍し健筆を揮い、明治十年には英字週刊新聞「Tokio Times」(トーキョウ・タイムズ)を自ら刊行した』(まさにモース来日のこの年である)。『当時日本には宣教師、商人を始めとする多くの欧米人が滞在していたが、彼等は大半日本を軽視し傲慢な態度をとっていた。ハウスはこうした欧米人とりわけ偽善家的宣教師に痛烈な批判を浴びせ、日本を擁護し、日本のよさを掘り起こした。とりわけそうした欧米人の中心的人物であった英国公使のパークスを痛烈に批判する』。『ハウスのこうした姿勢は、奴隷解放で見せた不正を嫌うという正義感から来ているものであろうが、同時に西欧人から低く見られている東洋の文化に対する理解がある。日本に関しては理解の範囲を超え、魅力に取り憑かれた感さえする。また、前掲の「征臺紀事」の中にも当時蛮人とされていた台湾現地民に対してその文化を理解する態度が随所に示されている』。『「トーキョウ・タイムズ」は資金難などで三年で廃刊となり、明治十三年アメリカに戻る。再興の夢を捨てきれなかったハウスは十五年に再び日本へ。しかし新聞を再刊することはできず、日本政府への仕官話も断り、わずかに「ジャパン・メール」紙に記事を書く生活を送る。十七年帰国し小説や童謡集などを発表するが、明治二十六年再び日本へやってくる』。『終生独身であった彼は養女に日本女性琴女を迎え、彼女とともに欧米各国を回った。晩年琴女夫妻とともに東京四谷塩町で暮らし、明治三十四年十二月十八日六十五歳でこの世を去る。この琴女をモデルとして書いた小説が「Yone Santo.A Child of Japan」(ヨネ山東)であり、明治維新で没落した大名の娘を主人公に日本の文化を評価した作品である』(講談社「日本人名大辞典」によれば、この養女は青木琴(あおきこと 安政五(一八五八)年~?)は尾張出身で、後に陸軍大学校教授黒田太久馬と結婚、晩年のハウスを引き取って世話した。ハウスの小説“Yone Santo,a Child of Japan”の主人公ヨネ山東のモデル、とある)。『日本がこの正義感あふれるアメリカ人に骨を埋めさせるほど引き付けさせた魅力とは、一体何だったのか。明治以降西欧のまねばかりしてきた我々日本人に問いかけるものは重い』と不動氏は結んでおられる。磯野氏の記載によって補足すると、ハウスは『ディケンズ、ブラウニング、クレマンソー、マーク・トウェーンなどとも親しく、欧米では著名人だった』とし、『明治六年に病を得て帰国したが(このとき、のちに動物学教授となる少年箕作佳吉を伴っている)』とも記しておられる(箕作は海産生物愛好家なら知らぬ人のいない日本近代動物学の草創期の碩学である)。さらに『このハウスはモースと気が合ったらしい。二人とも行動の人で日本にほれこんでいたし、何よりもキリスト教嫌いという共通点があったことなどが理由だろう。『トーキョー・タイムズ』が、明治十年四月二十八日という時点、モースが来日を決意して間もない頃にいち早く彼の来日を報じているところをみると、それ以前からの知り合いとも考えられるが、詳細は不明である。ともかく、モース来日後の消息は『トーキョー・タイムズ』にもっとも詳しい。この翌年、明治十一年にモースの陣両で誕生した東京大学生物学会』『の連載記事も、ほぼ毎回同紙に載っている』とある。モースとハウス――この二人の関係はまだまだディグ出来そうではないか。

「横浜のドクタア・エルドリッジ」ジェームズ・スチュアート・エルドリッジ(James Stuart Eldridge(一八四三年~明治三四(一九〇一)年)はアメリカ人医師。フィラデルフィア生。ジョージタウン大学で学び、明治四(一八七一)年に開拓使顧問ケプロンの書記兼医師として来日、翌年函館医学校の教官、外科医長となったが、明治八年に横浜に移って開業、翌年には横浜一般病院院長、同七年からは横浜十全病院の治療主任を兼ね、亡くなる前年の明治三三(一九〇〇)年には慈恵成医会副会長でもあった。『近世医説』の発刊(著者和名依児度列智(エルドリッチ)とする)や日本在留欧米人の疾病統計といった業績も残しており、故国に日本の解剖模型を送るなど、日米医学交流に尽くした。現在の横浜外国人墓地に眠っている。(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「ウェルトハイムバア氏」出版社「エディション・シナプス」のサイトの「新・近刊洋書案内」の中の“Japan in American Fictionアメリカ小説に描かれた日本の目録の第二巻に“Louis Wertheimber”という作家と作品“A Muramasa Blade”(Boston, 1887, 204pp)という記載を見出すことが出来、この詳細情報“Webcat Plus確認すると、“A Muramasa blade : a story of feudalism in old Japan”(“feudalism”は「封建制」)とあって、何と、同巻に併載されているのはハウスの注で掲げられた“Yone Santo : a child of Japan”である。これはこの人物である可能性が高いように思われる。識者の御教授を乞うものである。因みに彼の名であるが、ルイス・ウェルタンベルと表記するのが原音に近いようである。]

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