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2013/07/19

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 9 江島建寺碑

    ●江島建寺碑

此の碑は邊津神社の側に在り。本島中最も高名のものにして。苟も文學に志あるの徒。必ず尋ぬ。高さ五尺許(ばかり)廣さ二尺七寸。厚四寸。篆額に大日本霊迹建寺之記とありて。之を三行に鐫し。四傍に雲龍を彫り。極めて奇古。碑文か楷體なりしより。昔時は十界性人成の五字を存せしこと諸書に載せたれども、今は篆額を幷せ共に剝落して一字も讀へからす。實に惜むべし。又碑文の所中より折れたりを續合せ。此に雨覆(あまおほひ)を施せり。内陰の左右に刻して云ふ。

 當碑文之雨覆幷臺盤石造立寄進

             施主  島田檢校代一

  元祿十四年辛巳歳十二月 別當 法印泰順租世

傳に云く昔時良眞宋朝に至り。慶仁禪師に謁し。此の碑石を傳へ。歸朝の時將來せし者なりといふ。里俗に江島屏風石と呼へり。

案内者は無學のもの多けれは。其の指示此ゝに及はす。むかしも猶ほしかりしと見えて。安藤東野甞て此事を游湘紀事に記して云ふ。處々問建寺之碑。皆曰無有矣。島之勝當盡焉。乃揖視 僧問諸。亦曰無有矣。余乃曰得亡有如墓表而隳者耶。僧乃啞然大笑曰、有矣。公等爲蠻夷之語。使人不可解耳。乃指示其處。余一讀覺えす噴飯せり。
 

[やぶちゃん注:本碑については「新編鎌倉志巻之六」の「江島」の「碑石」で私の注も含め、画像・絵図など詳しい。是非、ご覧あれ。

 
「高さ五尺許廣さ二尺七寸。厚四寸」碑自体の高さ約1・5メートル。幅約81・8センチメートル。厚さ約12センチメートル。

「鐫」は音「セン」。彫に同じい。

「處々問建寺之碑。皆曰無有矣。島之勝當盡焉。乃揖視 僧問諸。亦曰無有矣。余乃曰得亡有如墓表而隳者耶。僧乃啞然大笑曰、有矣。公等爲蠻夷之語。使人不可解耳。乃指示其處。」の「乃揖視 僧問諸」の空欄はママ。明らかな脱字と思われるが、原資料が手元になく、補填不能である。識者の御教授を乞う。我流力技で書き下すために脱字を一応、【寺】と仮定してみた。「揖視」は「正式な礼をして面と向かう」の意か。【2015年10月1日追記】先行する『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」の「江島」の条の電子化中、この脱字は「篆」であることが判明したが、なおのこと分からなくなった。識者の御教授を乞う。

處々にて建寺の碑を問ふも、皆、曰く、「有ること無し。」と。島の勝は當に盡くべければ、乃ち【篆】僧に揖視(ゆふし)して諸々を問ふに、亦、曰く、「有ること無し。」と。余、乃ち曰く、「墓表のごとき隳(くず)るる者の有る亡(な)きを得んか。」と。僧、乃ち啞然としつつも、大笑して曰く、「有り。」と。公(おほやけ)等は蠻夷(ばんい)の語と爲せり。人をして解くべからざらしむのみ。」と。乃ち其の處を指し示めせり。

これなら確かに私でも噴飯ものである。「遊湘紀事」は享保二(一七一七) 年の紀行であるから、実に三百年前に既にこのていたらくであった。]

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