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2013/07/13

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 2

 昨夕私は机を部屋の真中へ持出し、外山教授、彼の友人生田氏及び私の助手の松村氏を招いて、石油洋燈(ランプ)を享楽させた。これは植物性の蠟燭の、覚束ない光で勉強した後の日本人が、特によろこぶ贅沢(ぜいたく)なのである。生田氏はやりかけの仕事、即ち『月刊通俗科学雑誌』に出ている「古代人の世界観」の翻訳を持ち込んだ。松村氏は私の著した小さな『動物学教科書』を勉強しつつある。外山教授は動物界の分析表を研究していたが、非常に熱心であった。

[やぶちゃん注:二箇所の「生田氏」の下には底本では訳者割注の『〔?〕』が二箇所とも入るが、原文は“Ikkoto”であって“Ikuta”ではない。これは無論、先の注で示した乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)のことである。“Otukotu”は如何にもアメリカ人には発音しにくいし、また本人や外山などが「おっこつ」とも発音・呼称などしていたと仮定すれば、“Okkotu”で、さらにこれをアメリカ人なら発音し易く“Okkoto”と語尾上がりで称したとして不自然ではない。また「乙」は「イツ」とも発音するから、仲間内で彼が例えば「乙(いっ)さん」と呼ばれたりしておれば(彼の名前にはこの字が二箇所も入っているし、名前としては比較的珍しし、日本語でも「乙骨」や「太郎乙」は発音しにくく、私なら「いっさん」と呼びたくなるのである)、それと記憶が混同して“Ikkoto”となったとしてもおかしくないように思われる。なお、乙骨太郎乙は通称で、本名は盈(えい)、別に華陽とも号した。ここで改めて「朝日日本歴史人物事典」の解説を参照して注しておくと、甲府徽典館学頭や江戸城天守番を務めた乙骨耐軒の長男として江戸に生まれ、漢・蘭・英語に通じ、万延1元(一八六〇)年に蕃書調所書物御用出役となり、同所が開成所と改称後は教授手伝から教授へと昇進、維新後は徳川家に従って静岡に移って沼津兵学校教授となっている。明治五(一八七二)年に新政府に徴され、大蔵省翻訳局に勤務し、同八年には退官後、同一一年(本記載の翌年)には海軍省御用掛となって明治二三(一八九〇)年まで各種の軍関係の翻訳に携わった。東大の雑誌『学芸志林』に海外科学記事の紹介を多数載せており、この「月刊通俗科学雑誌」(原文“Popular Science Monthly”。これは『ポピュラーサイエンス』(Popular Science)誌でアメリカの月刊誌として一八七二年に創刊された科学・技術雑誌で現在も続いている)の「古代人の世界観」(原文“What the Ancients Thought of the World”)翻訳というのも、その一連の仕事の一つと思われる。乙骨の業績の中には近代的地質学の濫觴とされるチャールズ・ライエル(Charles Lyell 一七九七年~一八七五年:チャールズ・ダーウィンの友人であり、彼の自然淘汰説の着想にも影響を与えたとされる。)の著わした「地質学原理」の漢訳本『地質浅釈』の訓点書などが挙げられている。晩年は旧幕臣達と漢詩結社『昔社』を結んで風流の日々を送ったという。妻の継は杉田玄白の曾孫であり、先に示した通り、三男の乙骨三郎は音楽家(東京音楽学校教授)である。]

 私が昨日横浜から来る途中で写生した図(図149)程、一般民衆の単純な、そして開放的な性質をよく示すものはあるまい。車夫は横浜市の市境線を離れると、とても暑かったので立止って仕事着を脱いで了った(市内では法律によって、何等かの上衣を着ていなくてはならぬのである)。彼等は外国人に対する遠慮から、裸で東京、横浜その他の大都会へ入ることを許されない。裸といったって、勿論必ず犢鼻褌(ふんどし)はしめている。

M149

図―149

 それを待つ間に、私は夜の燈明がついている神棚をスケッチするため、一軒の家へさまよい入って、その家の婦人が熟睡し、また乳をのませつつあった赤坊も熟睡しているのを見た。私は日本の家が入り込もうとする無遠慮者にとっては、文字通りあけっぱなしである事の例として、この場面を写生せざるを得なかった。若し彼女が起きていたら、私は謝辞なしには入らなかったことであろう。

[やぶちゃん注:図―149はちょっと分かり難いが、夏の暑い盛りであるから、婦人は半裸である(左にあるのは煙草盆であるから、これは上り框のすぐ近くであったのであろう)。失われた無原罪の古き日本の一齣であり、それを描いているモースの優しい青い眸が見えてくる。]

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