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2013/07/12

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 22 了

M144

図―144

 江ノ島で必要とする品物数点を買い求めて正午出発、十八マイルの路を人力車で帰る。実にひどい暑さであった。汗は大きな水滴になって私の顔や手につき、車夫は湯気を立てんばかりであったが、蒸発が速いので耐え忍ぶことが出来る。恰も職人達が群をなして寺々を廻る時節なので(七月末)、街道には多勢巡礼がいた。これは実は田舎を歩き廻ることになるのだが、彼等はこの休暇に神社仏閣を廻って祈禱をいい、銅貨を奉納する信仰的精神をつけ加える。彼等は十数人位の団体をなして出かけ、二、三人ずつかたまってブラブラと道を歩く。彼等はたいてい同じような木綿の衣服――ゆるやかな寛衣(かんい)みたいなもの――を着ているので、制服を着ているようにさえ見える。中には腰のあたりに鈴をつけている者もある。これは一足ごとにチリンチリンいう。暑い時には裾をまくり上げて脚をむき出す。図144は巡礼二人である。彼等はいつでもいい機嫌で、こちらが微笑すると微笑し返す。

[やぶちゃん注:「正午出発」これは翌日の七月二十五日のこと(磯野前掲書に拠る)。

「恰も職人達が群をなして寺々を廻る時節なので(七月末)、街道には多勢巡礼がいた」これは旧暦七月十五日前後に行われていた盂蘭盆(及び盆休み)を指していよう。現在は概ねどこも新暦八月十五日に行っているが、新暦(グレゴリオ暦)の本邦での採用は、本記載に先立つ四年前の明治六(一八七三)年一月一日のことであり、未だこの頃は恐らくそうした切り替えの認識がまちまちで、実際の新暦七月十五日前後に盂蘭盆を行っていたものとも思われる。実際、つい最近まで東京・横浜・静岡旧市街地などにあっては新暦で行っていた地域も多い(ウィキの「お盆」に拠る)。また、七月二十五日の午後(前日の午後も同じルートを逆走している)で藤沢から横浜にかけてとなると、私はモースがこの時見た「巡礼」一行の中には、大山参りの盆山(七月十四日から十七日朝までに阿夫利神社(大山石尊)に参詣する行事)の帰るさに江の島・鎌倉などの寺社を巡っている連中が含まれていたのではないかとも推測する。

「彼等はたいてい同じような木綿の衣服――ゆるやかな寛衣みたいなもの――を着ている」これは図から見るに着流しのようである。]

M145

図―145

 我々は途中で、恐らく寺の燈籠と思われる、大きな青銅の鋳物を運搬して行く群衆に追いついた。その意匠は透し彫だった。それは長い棒からつるされ、棒の前方には横木があって、その両端を一人ずつでかつぎ、後方は多分素敵な力持ちと思われる男が、一人で支えていた(図145)。これ等の人々は白地の衣服を着ていたが、その背中には右の肩から腰にかけて漢字が書いてあり、鋳物にも文字を記した小旗が立ててあった。彼等は休むために荷を下すと、みんなそろって奇妙きわまる、詠歌みたいなものを唄った。路上ではこのような珍しいものにいろいろと、行き違ったり、追いついたりする。

[やぶちゃん注:銅製で透彫りの入った燈籠のようなもの。……図ではごちゃごちゃして事実燈籠であるかどうかは現認出来ない(が、燈籠の可能性は大きいように思われる)。搬出の情景もすこぶる印象的ではないか。……これが何で、何処で観察されたか、そうして何処へ運ばれたものかが分かると面白いのだが。……まだ何処かにこれが残っていることを、私は僅かに期待さえしているのである。……]

 私の部屋から海を越して富士山が実に立派に見える。入江が家から五十フィートの所まで来ているので、面白い形をした舟にのっている漁夫達が常に見える。そして夜、獲物を積んで帰って来る時、彼等は唱応的に歌を唄う。一人が「ヒアリ」というと他の一人が「フタリ」といい――すくなくともこんな風に聞える――そして漁夫達は、片舷片舷交代で漕ぎながら艪(ろ)の一と押しごとにこの叫びを上げる。日本の舟は橈(かい)で漕ぐのでなく舷から艫で漕いでやるのである。

[やぶちゃん注:「五十フィート」約15メートル強。

『一人が「ヒアリ」というと他の一人が「フタリ」といい』原文は“"Hiari!" and the other, "Ftari!"”。……この掛け声はどんなものだったのだろう?……「ヒアリ」は何となく「やれ!」「やあれ!」という感じではある。……ああ、夕暮れの江の島の漁師の帰り舟の艪の音とそれが幻しのように聴こえてくるではないか……]

 横浜からの帰途例の砂洲を横切りながら私は長い、大きなうねりが太平洋から押し寄せて来るのに気がついた。これは外洋で、大きな暴風雨が起りかけていることを示している。其後風は勢を増しつつあったが、今や最大の狂暴を以て吹きつけている。そして、今こうやって書いている私の耳を風と波が一緒になった凄じい怒号が襲う。今日の午前、天地瞑濛(めいもう)になる迄は、長いうねりが堂々と押し寄せ、陸から吹く風が波頭から泡沫のかたまりをちぎり取って、空中高く吹き廻す有様はまことに素晴しかった。入江はすくなくとも五マイルの幅を持っているが、うねりもその長さ全体に及びすくなくとも三百フィートの間隔を置いて、高さも非常に高く、そして寄せて来る半円形の波からちぎられた飛沫(しぶき)は、蒸気のように白くて、私が今迄に見た何物よりも荘厳であり、また海岸で立てる雷のような音は、陸地の数マイルはなれた場所ででも聞えたに違いない。この嵐は台風である。これがどれ程強くなるかは誰も知らないが、とにかく私が今迄経験したどの嵐よりも強く、そして益々狂暴の度を加えつつある。往来の最低部は汲をよけて引き上げた漁夫の舟で完全に閉塞され、家はいずれも雨戸をとざし、空気は暑くて息づまる程である。私の部畳は特に嵐に面していはしないので、雨戸もしめてはない。だから嵐に閉じ籠められながら、私はこの記録を続けて行こう。

[やぶちゃん注:この台風は事実、大型で翌二十六日に襲来(磯野前掲書)、その様子が次の「第六章 漁村の生活」の最初に活写されている。……それにしても! 何て素敵な叙述であることか! モース先生、颱風倶楽部だったんだなぁ!

「五マイル」約8キロ。モースの定宿であった岩本楼の位置から、この「入江」というのは湘南海岸の片瀬川河口から西浜を経て茅ヶ崎東海岸から姥島(烏帽子岩)まで辺りの相模湾を指しているものと考えられる。東海岸の現在ある人口のT字型の突堤までが約7キロメートルで、ここから烏帽子岩まで延ばすと丁度8・5キロメートルほどになる。

「三百フィート」約91メートル。]

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