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2013/07/03

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 2 桟橋

    ●棧橋

片瀨村の砂路(さろ)を經て洲鼻に下れは海波藍碧の上一道の棧橋を架し。蜒蜿(えんえん)として島口に達するを見る。島に遊ふものは。皆此の棧橋に由らざるはなし。六七年以前に設くる所にして。去年は尚ほ洲鼻に達せさりしが。本年は數百間(けん)の長を加へて。益々遊客の便利を謀れり、島口小屋あり。こゝにて橋錢(ばしせん)を徴し。切符を渡す掲示あり左の如し。

 一金一錢五厘

   本村片瀨より江の島へ達する海綿橋梁使用量片道一人分

 右町村制第百廿六條に依り。内務大藏兩大臣の許可を得て徴收す。

   明治廿九年      神奈川縣鎌倉郡川口村役場

歐文も記しあれど略す。

昔は退潮の時は。徒行して到りしこと。名所方角抄に見え滿潮の時には船を用ゐしこと。東國紀行に記せり。又脊負(せおひ)て渉りしことは諸儒の紀行文に散見す。故に此間を里俗に負越場(おひこしば)と呼へり。安藤東野の游湘紀事に云。退潮則可厲掲而渉。而土人倮而負遊人。余三人佇立縱觀。其人肚悉濡。故就其深以網利也。太宰春臺湘中紀行亦之を記して云。潮來則舟之。潮去則可渉。厲掲隨宜。又有駄壯夫肩以渉者。以故壯夫之求見雇者。赤體群聚渡口。務欺客以不易。以貪直。其言擾々聒耳〔中略〕既濟矣。壯夫亦慶以無恙。別求賞。當時渉夫に弊風ありしことも此の文にてよく知られたり。

鎌倉執政の時代は。必らす船にて渡りしと見え。建保四年正月潮退(しほひき)て始て陸地に續きけれは希代(きたい)の神威なりとて。參詣の僧俗群參せしよし東鑑に記せり。

[やぶちゃん字注:以下「吾妻鏡」引用は、底本では全体が一字下げ。]

正月小十五日。相摸國江島明神有託宣。大海忽變道路。仍參詣之人無舟船之煩。始自鎌倉。國中緇素上下成群。誠以末代希有神變也。三浦左衛門尉義村爲御使。向其靈地令參。嚴重之由申之。

此文以て證明すべし。

[やぶちゃん注:「大橋左狂「現在の鎌倉」 19 江の島」の注で示した通り、江の島に初めて桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年(但し、砂州の途中から)、本誌発刊の前年の明治三〇(一八九七)年に村営棧橋が完成している。従って本記載に関してはアップ・トゥ・デイトな記載であることが分かる(実は底本復刻版の澤壽郎氏の解説によれば、前年刊の「鎌倉江島名所圖會」の鎌倉地区の「区分」等は古いもので発行当時の現況には合わないといった記載が当代と齟齬している部分も認められるのである)。

「謀れり、」の読点はママ。

「名所方角抄」は「などころほうがくしょう」と読み、飯尾宗祇が書いたと伝えられる各地の歌枕を記載したもの。

「東國紀行」戦国時代の連歌師宗牧(そうぼく ?~天文一四(一五四五)年)の作。

「安藤東野」(あんどうとうや 天和三(一六八三)年~享保四(一七一九)年)は儒者。荻生徂徠の初期の弟子。詩文に優れた。

「遊湘紀事」安藤が享保二(一七一七) 年に書いた紀行。

「退潮則可厲掲而渉。而土人倮而負遊人。余三人佇立縱觀。其人肚悉濡。故就其深以網利也。」以下に我流で書き下す。

 退潮し、則ち厲掲(れいけい)して渉るに可なり。而るに土人、倮(はだか)にして遊人を負ふ。余三人、佇立(ちよりつ)して縱(ほしいまま)に觀る。其の人、肚(はら)、悉く濡れたり。故に其の深きに就きて以つて利を網(あみ)するなり。

「厲掲」は水域を徒歩渉(かちわた)りすること。徒渉。「厲」は衣を腰の上まで掲げて深い水を渉ることを指す。最後の部分、よく分からないが、大井川の渡人足よろしく、深みをわざと選んで、不当な利銭を取るのだということを言っているか。識者の御教授を乞う。

「太宰春臺湘中紀行」徂徠門下の太宰春台(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)がまさに先に記された安藤東野・山井昆侖と三人で金沢八景・鎌倉・江の島を遊覧した際の紀行。享保二(一七一七)年の秋のことであり、安藤の記載に「余三人」とあること、本文がわざわざ「亦之を記して云」と述べていることからも、全く同じシチェーションでの情景である。

「潮來則舟之。潮去則可渉。厲掲隨宜。又有駄壯夫肩以渉者。以故壯夫之求見雇者。赤體群聚渡口。務欺客以不易。以貪直。其言擾々聒耳〔中略〕既濟矣。壯夫亦慶以無恙。別求賞。」以下に我流で書き下す。

 潮、來たらば則ち、之に舟し、潮、去らば則ち渉るに可なり。厲掲して宜しきに隨ふ。又、壯夫の、肩に駄(の)せて、以つて渉す者有り。以故(ゆへをもつ)て壯夫の雇はれんを求むる者、赤き體、渡口に群聚(ぐんじゆ)す。務めて客を欺き、易からざるを以つてし、以て直(あたひ)を貪る。其の言、擾々耳に聒(かまびす)し。〔中略〕既に濟みたり。壯夫、亦、慶び恙なきを無きを以つて、別に賞を求む。

春台の記録から推すに、実は彼らは結局、この人足の慫慂に負けて背負ってもらって渡渉したらしい。その結果として案の定、御無事に渡御なされましたと、不当な御祝儀を要求されたというのであろう。私はこの二つの江の島での同一場面の二様の記録というのが、すこぶる附きで貴重な気がする。それを失礼ながら、一介のムックに載せた編集者の眼力も鋭いものがあるように思われるのである。

「正月小十五日……」この建保四(一二一六)年一月の「吾妻鏡」の引用は少し杜撰であるので、以下に正確なものを引用する(国史大系本に私の正字補正を加えてある)。

十五日己巳。晴。相摸國江嶋明神有託宣。大海忽變道路。仍參詣之人無舟船之煩。始自鎌倉。國中緇素上下成群。誠以末代希有神變也。三浦左衞門尉義村爲御使。向其靈地令歸參。嚴重之由申之。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日己巳(つちのとみ)。晴る。相摸國江嶋(えのしま)明神託宣有り。大海忽ちに道路に變ず。仍りて參詣の人、舟船(しふせん)の煩ひ無し。鎌倉自より始め、國中の緇素(しそ)上下、群れを成す。誠に以つて末代までの希有(けう)の神變(じんぺん)なり。三浦左衞門尉義村、御使と爲し、其の靈地へ向い歸參せしめ、嚴重の由、之を申す。

「嚴重」ここではその干上がったことが霊験であり、神託もそのことを示すものだったのであり、陸繋島となっておりましたのは如何にも霊験あらたかな驚くべき事実でありました、と義村は報告したのであろう。]

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