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2013/07/06

ブログ開設8周年記念 遍歴五十五首 中島敦連作 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:この恐るべき連作は以下に示す通り、中島敦の歌稿の巻頭を飾る「和歌(うた)でない歌(うた)」の巻首にある。最後に附した僕の注は、僕にとって読解に不安が生ずるものに対して、よりよく理解するために調べて附したものであり、読者の総てに親切な注ではない。悪しからず。]

 

  和歌(うた)でない歌(うた)

 

    遍歷

ある時はヘーゲルが如萬有をわが體系に統(す)べんともせし
ある時はアミエルが如つゝましく息をひそめて生きんと思ひし
ある時は若きジイドと諸共に生命に充ちて野をさまよひぬ
ある時はヘルデルリンと翼(はね)竝ベギリシャの空を天翔りけり
ある時はフィリップのごと小(ち)さき町に小(ちひ)さき人々(ひと)を愛せむと思ふ
ある時はラムボーと共にアラビヤの熱き砂漠に果てなむ心
ある時はゴッホならねど人の耳を喰ひてちぎりて狂はんとせし
ある時は淵明(えんめい)が如疑はずかの天命を信ぜんとせし
ある時は觀念(イデア)の中に永遠を見んと願ひぬプラトンのごと
ある時はノヷーリスのごと石に花に奇しき祕文を讀まむとぞせし
ある時は人を厭ふと石の上に默(もだ)もあらまし達磨の如く
ある時は李白の如く醉ひ醉ひて歌ひて世をは終らむと思ふ
ある時は王維をまねび寂(じやく)として幽篁の裡(うち)にひとりあらなむ
ある時はスウィフトと共にこの地球(ほし)の Yahoo(ヤフー)共をば憎みさげすむ
ある時はヴェルレエヌの如雨の夜の巷に飮みて涙せりけり
ある時は阮籍(げんせき)がごと白眼に人を睨みて琴を彈ぜむ
ある時はフロイドに行きもろ人の怪(あや)しき心理(こころ)さぐらむとする
ある時はゴーガンの如逞ましき野生(なま)のいのちに觸ればやと思ふ
ある時はバイロンが如人の世の掟(おきて)踏躪り呵々と笑はむ
ある時はワイルドが如深き淵に墮ちて嘆きて懺悔せむ心
ある時はヴィヨンの如く殺(あや)め盜み寂しく立ちて風に吹かれなむ
ある時はボードレエルがダンディズム昂然として道行く心
ある時はアナクレオンとピロンのみ語るに足ると思ひたりけり
ある時はパスカルの如心いため弱き蘆をば讚(ほ)め憐れみき
ある時はカザノヷのごとをみな子の肌をさびしく尋(と)め行く心
ある時は老子のごとくこれの世の玄のまた玄空しと見つる
ある時はゲエテ仰ぎて吐息しぬ亭々としてあまりに高し
ある時は夕べの鳥と飛び行きて雲のほたてに消えなむ心
ある時はストアの如くわが意志を鍛へんとこそ奮ひ立ちしか
ある時は其角の如く夜の街に小傾城などなぶらん心
ある時は人麿のごと玉藻なすよりにし妹をめぐしと思ふ
ある時はバッハの如く安らけくたゞ藝術に向はむ心
ある時はティチアンのごと百年(ももとせ)の豐けきいのち生きなむ心
ある時はクライストの如われとわが生命を燃して果てなむ心
ある時は眼(め)・耳・心みな閉ぢて冬蛇(ふゆへび)のごと眠らむ心
ある時はバルザックの如コーヒーを飮みて猛然と書きたき心
ある時は巣父の如く俗説を聞きてし耳を洗はむ心
ある時は西行がごと家をすて道を求めてさすらはむ心
ある時は年老い耳も聾(し)ひにけるべートーベンを聞きて泣きけり
ある時は心咎めつゝ我の中のイエスを逐ひぬピラトの如く
ある時はアウグスティンが灼熱の意慾にふれて燒かれむとしき
ある時はパオロに降(お)りし神の聲我にもがもとひたに祈りき
ある時は安逸の中ゆ仰ぎ見るカントの「善」の嚴(いつ)くしかりし
ある時は整然として澄みとほるスピノザに來て眼(め)をみはりしか
ある時はヷレリイ流に使ひたる悟性の鋭(と)き刃(は)身をきずつけし
ある時はモツァルトのごと苦しみゆ明るき藝術(もの)を生まばやと思ふ
ある時は聰明と愛と諦觀をアナトオル・フランスに學ばんとせし
ある時はスティヴンソンが美しき夢に分け入り醉ひしれしこと
ある時はドオデェと共にプロヷンスの丘の日向(ひなた)に微睡(まどろ)みにけり
ある時は大雅堂を見て陶然と身も世も忘れ立ちつくしけり
ある時は山賊多きコルシカの山をメリメとへめぐる心地
ある時は繩目解かむともがきゐるプロメシュウスと我をあはれむ
ある時はツァラツストラと山に行き眼(まなこ)鋭(す)るどの鷲と遊びき
ある時はファウスト博士が教へける「行爲(タート)によらで汝は救はれじ」
遍歴(へめぐ)りていづくにか行くわが魂(たま)ぞはやも三十(みそぢ)に近し

[やぶちゃん注:「ヘルデルリン」詩人ヘルダーリン。
「フィリップ」フランスの小説家シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe 一八七四年~一九〇九年)。死後の一九一〇年に刊行された短編集 “Dans la petite ville” (「小さな町で」)はとみに知られる。
「ある時はゴーガンの如逞ましき野生のいのちに觸ればやと思ふ」の太字「いのち」は底本では傍点「ヽ」。
「アナクレオン」(Anacreon, Anakreon, 紀元前五七〇年頃の生れ)は大酒飲みと賛美歌や抒情歌曲の作詞者として知られるギリシャの詩人。
「ピロン」ピュロン(Pyrrho 紀元前三六〇年頃~紀元前二七〇年頃)は古代ギリシャの哲学者。懐疑論や不可知論の濫觴とされる。
「ある時はティチアンのごと百年の豐けきいのち生きなむ心」の太字「いのち」は底本では傍点「ヽ」。「ティチアン」は「田園の合奏」や「ウルビーノのヴィーナス」で知られた、長命であったイタリア・ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio 一四八八年から一四九〇年頃~一五七六年)のことであろう。
「巣父」「さうほ(そうほ)」と読む。中国古代の伝説上の隠者で樹上に巣を作って住んだことから、かく名指す。「荘子」の「逍遥遊」や「史記」の「燕世家」などにみえる、栄耀を忌み嫌う故事「許由巣父」やそれを画題とした絵で知られるが、中島敦はやや取り違えをしている。許由も同じく伝説的な高士であったが、この許由が聖帝堯から国を譲るとの申し出を受けた際に、「おぞましい話を聴いて耳が汚れた」と言い、自分の耳を水で洗った。それを見た巣父は「そのために川の水が汚れた」と言って牛に水を飲ませずに帰ったという。(……正確を期するなら、
 ある時は許由の如く俗説を聞きてし耳を洗はむ心
 ある時は巣父の如く穢れてし耳洗ふを見牛返す心
とでもするか?……いや、失礼、中島先生……)
「聾(し)ひ」「聾(し)ふ」は「癈ふ」の当て字。動詞「しふ」(ハ行上二段活用)は身体器官の感覚や機能を失う、の意。
「アウグスティン」アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 三五四年~四三〇年)は古代キリスト教の神学者で、古代キリスト教史に於ける最強の理論家として知られる聖人。日本ハリストス正教会では「福アウグスティン」と呼称する。この「燒かれむとしき」というのは恐らく彼の著作「神の国」の第二章から第十章で語られるところの、肉体は燃える火の中で永遠に存在出来るかという問題の考察を指しているように思われる。
「ある時はヷレリイ流に使ひたる悟性の鋭き刃身をきずつけし」の「刃」は底本では「刅」の右の点を除去した字体である。
「大雅堂」は「たいがだう(たいがどう)」で池大雅の雅号の一つ。
「行爲(タート)によらで汝は救はれじ」「行爲(タート)」はドイツ語“Tat”。行為・行い・実行・行動の意。ゲーテの「ファウスト」の最も知られたこの“Tat”の出現する箇所は、メフィストーフェレス出現の直前のファウストの独白で、聖書の「初めに言葉ありき」を捩った第一部1240節に現われる、
“Im Anfang war die Tat!”
であろう。以下に諸家の訳を示す。
「初(はじめ)に業(わざ)ありき。」(森林太郎訳)
「太初に業(わざ)ありき。」(相良守峯訳)
「太初(はじめ)に行(おこない)ありき。」(高橋義孝訳)
「初めに行為ありき」(池内紀訳)
私はドイツ語が出来ないので、この下句に完全一致する台詞が「ファウスト」にあるかどうかは分からない。識者の御教授を得られれば幸いである。]

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