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2013/07/09

中島敦漢詩全集 十三

   十三

夜寒烹藥草

風雪遶茅居

病骨空懷志

今冬復蠹魚

○やぶちゃんの訓読

夜寒(よざむ) 藥草を烹(に)

風雪 茅居(ばうきよ)を遶(めぐ)る

病骨 空懷(くうくわい)の志(こころざし)

今冬(こんとう) 復た蠹魚(とぎよ)たり

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「茅居」あばら家。茅舎。茅屋。

・「」「囲繞(いにょう)」の「繞」の異体字。巻き付くこと、回り道をすること。風雪が茅居を巻き込むように吹き過ぎていく様子を指す。

・「空」実現する見込みのない抱負。かなうことのない願い。

・「蠹魚」(とぎょ)。本ばかり読んでいる人。さらには本を読んでも真意を理解できない人を嘲って言う言葉。元来は昆虫綱無翅類のシミ目 Thysanura に属する昆虫を指す語である。体長約一センチメートル、体はやや細長く、魚を思わせ、腹端に三本の長毛をもつ。湿潤な場所を好み、人家内にも見られ、書物や衣類などの糊のついたものを食害すると考えられたために「衣魚」「紙魚」と書かれ、英名も“bookworm”であるが、確かに障子や本・和紙の表面を舐めるようにして食害するものの、それによって甚大な汚損や損壊が生じることは実はなく、古人は恐らく書物をトンネル状に食い荒らす鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae のシバンムシ類(死番虫:英名“death-watch beetle”に由る和名。この英名は本類に属するヨーロッパ産の木材食のマダラシバンムシ属 Xestobium の成虫は頭部を建材の食害孔の内壁に打ち付けて「カチカチ」「コツコツ」と音を発するが(雌雄の確認行動とされる)、これを “death-watch”(死神の持つ時計)の音とする迷信が欧米にあったことに由来する。)による食害などを、銀色に光って目立つこのシミ類によるものと誤認していた可能性が高い。なお、シミは七~八年は生き、昆虫としては長命と言える。

T.S.君による現代日本語訳

深夜ひとり薬を煎じていると…

小雪混じりの風の叫びが聞える――

虚しい志の火を病身の最奥に点しつつ…

書物を食らう紙魚(シミ)に似た冬の底の私――

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 一読――意味は取りやすい。しかしこの詩、なかなか自分の評釈を定着させることができなかった。中島敦の詩に取り組み始めて以来最大の苦戦である。一体何が原因なのか?

 それは――「蠹魚」――この一語のためである……。

 先日、生れて初めて洗面所で「蠹魚」という名の異形の虫を見た。銀色の光沢を持つ一センチほどの身体は、まるで太ったシラスのようだ。体躯は柔軟性に富んでおり、細い足を奇妙に動かして歩く。触角が神経質に顫動し、どんな暗がりの隙間でも見逃さずにもぐり込む。薄暗くて適度な湿度が維持される場所を好むという、捉えどころのない、なんとも不吉な虫。

 この「蠹魚」という語は、ここではいわば「本の虫」という意味で遣われている。別にこの虫そのものを歌いたいわけではない。単なる比喩である。しかし詩人は、この語を使用することによって生れる全ての効果を納得の上で、詩の要ともなる結句に挿入したのだ。詩人の持つ高い志、強烈な自信、ひとり病と闘う刻苦、寒い夜にも机に向かう文学への強靭な拘り。それらのいずれとも明らかに異質な、この陰湿なイメージを有する、下らない虫けらの名を――敢えて用いた――のだ……。

 私は戸惑ってしまった。起句から転句まで辿るうちに、詩人の姿がランプの光に浮かび上がり、イメージが結実しそうになる。それは、雪交じりの強風が吹く冬の闇の底で、ひとり病と向き合い、文学と対峙する詩人の姿だ。贅肉を削ぎ落とした、硬質な詩の輪郭だ。しかし――結句に到って、「蠹魚」に触れたその刹那、私の中に無視し難い不協和音が立ち上がってくるのだ。……何故、こんな言葉を用いたのだろう? この一語のために、折角のイメージが崩れてしまうではないか?!……。

[やぶちゃん注:以下の中段部の叙述は、T.S.君の心の深奥へと降りてゆく。それは私を含めた余人には語り得ぬ、また理解し得ぬものであることは彼も私も百も承知である。しかし真に価値ある評釈とは、対象の芸術作品と対峙する孤独な自己との、のっぴきならない関係性の中で/でしか生まれない。さればこそ、私はこの晦渋な意味深長な茫漠としたプライベートな述懐部を、敢えてそのままに載せることを彼に教唆したことを、敢えてここで告白しておきたいと思う。]

 私は悩んだ。二十個の漢字の前で毎日唸った。……

 ……そして、評釈が何も明らかな形を得ぬうちに……自分の関心は、少しずつ……漢詩以外の……私自身の生活上の、瑣末な物事の上に移ろっていった。……この詩に対する共鳴が未だ得られぬままであることに、どこか後ろめたいものを感じながら……。

 ……生活上の諸々の煩瑣な課題に、私は心から苦しんでいた。……そしてさらには、人と人との関係を、どうやって維持していくかということに……。

 ……私は疲れていた。……そして今日、私は……私は遂に、自分の理性を封じ込め、自分で自分を貶めてしまった。……私は心のうちで、不快な様々な出来事を耐えなければならない自分が当然受けるべき償いとして、そういう行為を正当化したのだ。……つまり、自分を誤魔化したのだ。……今、私は深夜ひとり机に向かい、自分を振り返っている。――自分で自分を辱めるとは――なんと無惨で卑しいことだったろう。まるで……まるで、暗がりに卑屈に息し、じめじめとした湿気がなければ生きられず、強烈な光を厭う――卑しい虫けらのようではないか!……

 まさか――?

 ああ、そうだ――!

 そうに違いない! これが、これこそが――「蠹魚」――ではないか!

 私はやっと自分を納得させることができたのだ!

 ただし、ひとつ注意しなければならないことは、ある。これは、あくまでも、読者である私個人にとっての「蠹魚」だということだ。詩人が一体どのような目論見を持ってこの語を用いたかということとは実は別問題であるかもしれない、という急所は押えておかねばならないということだ。

 人は、それぞれ自分自身の世界で詩を読み、自分なりの、かつ自分だけの解釈をし、理解をするものだ。その読みが高尚なものか下劣なものかは、その人が心に持つ宇宙の様相によって決まるだろう。……そう言う意味に於いて、私はこの時、明らかに下劣な時空に我が身を置いていた……しかし、同時にその瞬間に鮮やかに見えてきた『詩と真実』ででも……あったのである。

 中島敦よ。

 あなたは、自らを、書籍に巣食う陰湿にしておぞましい虫――蠹魚」――と呼んだ。

 一体どれだけ本気だったのだろう?

 あなたは、一体、どれほどの己の自信を持ち合わせていたのか?

 あなたは、一体、どこまで自分を律することのできる強い人だったのか?

 これは、

『毎日書物に没入していながら、俗人的な成果はまだ得られない』

という、斜に構えた自嘲のポーズだ。

 この語に表現させたいのはあくまでも自嘲の響きだ。

 間違いない。

 なぜなら、強烈な自信を持ち、古今の賢者に比肩するものの如く自らを意識していた彼だもの……。

 虫けらに喩えるという行為は、ほぼ間違いなく自嘲のポーズに違いないのだ。

 しかし私は信じたい(いや……何も証拠は、ないのだけれども……)。

 明確な自嘲の後ろ盾となっている強烈な自信の陰に、ほんの微かだが、人としての弱い部分があったに違いないと。

 そしてさらには、その弱い自分を卑しむ意識が、彼の心の深いところで、動いていたのだと……。

 なぜなら――人というのは本当に弱いもの――だから……。

 少なくとも私は――そういう弱い生き物――であるから……。

 もし、詩人が詩中でこの「蠹魚」という語を用いなかったら、どうであったろうと考えてみるがよい。

 その時この詩は――精励刻苦する、志高き、尊敬すべき『文学の僕(しもべ)』たる詩人の、清冽なる心象世界の絶対の表出のままに、まっこと、めでたく完結していた――ことであろう。

 しかし、詩人は敢えて、この奇体にして醜陋なる語を挿入した。

 それによって、この詩は、弱い人間の――否、弱いという属性を普遍的に持つ存在であるところの人間の――その心底に巣食う醜く惨めな実相をしっかり受けとめる力を与えられたのであった。

 弱き人間が、冬の雪交じりの烈風の底で、ぎちぎちと歯を食いしばって、しぶとくも生きようとせんとする姿を歌う『調べ』となった。……

 私にはそう思える……。

 私は決して弱い自分を正当化したくない。してはいけない。だから、だからこそ、この詩だけは、私の心の奥底にしまっておこう。そうしてこれからの私の生活の中で、常にこの詩を通奏低音として響かせて、いこう。……

 最後に、私の胸に想起した音楽をご紹介したい。ベートーヴェンの歌曲「蚤の歌」作品七十五第三曲。私は昔からこの歌曲を、単に風刺と滑稽を旨とする、取るに足りない作品とみなしてきたことを自白する。世の評価でも、おどけた楽しい歌曲だというのが一般的だ。しかし、今、初めて疑問に思ったのだ。――「蚤」を果たして単なる滑稽なくだらない虫と片付けてしまって良いものなのか?――と。これは、不用意に答えてはならない、すこぶる深刻な問い掛けなのではなかろうか?……。そして、この歌曲は、果たして、そんなに楽しいものなんだろうか?……。今の私には、もう、そんな無神経な通念に与することは、最早、できそうにもないのである……。

[やぶちゃん注:リンク先は、

Ludwig van Beethoven - Scherzlieder - Aus Goethes Faust Op. 75 Nr. 3

Peter Schreier, tenor. Walter Olbertz, piano. Gisela Franke, piano
になるもの。YouTube で最も再生回数の多いものを私が選んだ。]

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