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2013/08/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受く

 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京

 

 サンフランシスコからの航海中のこまかいことや、十七日の航海を済ませて上陸した時のよろこびやは全部省略して、この日記は日本人を最初に見た時から書き始めよう。

M1

図―1

M2

図―2

 

 我々が横浜に投錨した時は、もう暗かった。ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ、これに乗客中の数名が乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工なしろもので、犢鼻褌(ふんどし)だけを身につけた三人の日本人――小さな、背の低い人たちだが、恐ろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟に下した――が、その側面から櫓をあやつるのであった。我々を海岸まで運ぶ二マイルを彼等は物凄い程の元気で漕(こ)いだ。そして、彼らは実に不思議な呻り声をたてた。お互いに調子を揃えて、ヘイ ヘイチャ、ヘイ ヘイ チャというような音をさせ、ときにこの船唄(若(も)しこれが船唄であるのならば)を変化させる。彼等は、船を漕ぐのと同じ程度の力を籠めて呻る。彼等が発する雑音は、こみ入った、ぜいぜいいう、汽機の排出に似ていた。私は彼等が櫓の一と押しごとに費す激しい気力に心から同情した。而(しか)彼等は二マイルを一度も休まず漕ぎ続けたのである。この小舟には側面から漕ぐ為の、面白い設備がしてあった。図は船ばたにしっかりと置かれ、かつ数インチつき出した横木を示している(図1)。櫓にある瘤(こぶ)が、この横木の端の穴にぴったりはまる。櫓(図2)は固く縛りつけられた二つの部分から成り、重く、そして見た所如何にも取扱いにくそうである。舟の方で一人が漕ぎ、反対の側で二人が漕ぐ。その二人の中の一人は同時に舵をとるのであった。我々が岸に近づくと、舟子の一人が「人力車」「人力車」と呼んだ。すぐに誰かが海岸からこれに応じた。これは人の力によって引かれる二輪車を呼んだのである。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によると、モースを乗せてサンフランシスコを五月二十九日に出発した最新鋭の蒸気船“City of Tokio”号(五〇七二トン)は、出帆から二十一日後の明治一〇(一八七七)年六月十八日(月曜日)の午前零時を少し回った頃に東京湾に入港した(十七日と記載するものもあるが磯野先生の考証によってかく断定出来る)が、また同船は推定では『霧のため陸にあまり近寄るのが危険だった』ためか、『かなり沖に停泊したらしい』とあり、ここでの描写の意味が腑に落ちる。それにしても深夜の暗い海上にあって、美事に和船の構造を微細に観察しているモースには、もう、既に脱帽である!

「犢鼻褌」ここは残念ながら原文は“a loin-cloth”で“hunndosi”ではない。“loin-cloth”の“loin”は腰(複数形なら陰部)で下帯・腰巻(breechcloth)の意。

「二マイル」約3・22キロメートル。以下、度量衡換算は煩瑣を厭わず、なるべく換算して示すつもりである。

「ヘイ ヘイチャ、ヘイ ヘイ チャ」原文は“hei hei cha, hei hei cha”とあるから、「ヘイ ヘイ チャ、ヘイ ヘイ チャ」が正しい。

ぜいぜいいう」冒頭注で示したように太字部分は底本では傍点「ヽ」であるが、ここは原文の全体を示すと“The noise they made sounded like the exhaust of some compound and wheezy engine.”である。“wheezy”は形容詞で、ぜいぜいいう音の・呼吸困難な、という意味であるが、原本のPDF画像を視認しても、特に傍点に相当するような記号や字体変化はないから、石川氏による独自の注意表記記号であることが分かる。以下、傍点部(本テクストでは太字)は特に問題がある場合以外は、この注を略す。

「数インチ」原文“several inches”。1インチは2・54センチメートルで、英語の“several”も、漠然とした3以上で5乃至6を指す語であるから、凡そ8センチメートル弱から15センチメートル強というところ。]

 

 小舟はやっと岸に着いた。私は叫び度い位うれしくなって――まったく私は小声で叫んだが――日本の海岸に飛び上った。税関の役人たちが我々の荷物を調べるために、落着き払ってやって来た。純白の制帽の下に黒い頭髪が奇妙に見える、小さな日本の人達である。我々は海岸に沿うた道を、暗黒の中へ元気よく進んだ。我々の着きようが遅かったので、ホテルはいささか混雑し、日本人の雇人達が我々の部屋を準備するために右往左往した。やがて床についた我々は、境遇の新奇さと、早く朝の光を見度いという熱心さとの為に、恰度(ちょうど)独立記念日の朝の愉快さを期待する男の子たちみたいに、殆ど眠ることが出来なかった。

[やぶちゃん注:この時、モースが止宿したのは、居留地二〇番(現在の山下橋の西南の脇、「横浜人形の家」の辺り)にあった、当時の横浜で最大のホテル「グランドホテル」であった。明治六(一八七三)年に開設されたばかりであった(「横浜近代建築アーカイブクラブ」の「YOKOHAMA GRAND HOTELで画像と詳しい解説が読める)磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは六月二十八日朝まで同ホテルに滞在、ここを拠点に以下に見るように精力的に行動している。]

 


M3

図―3

 

 私の三十九回の誕生日である。ホテルの窓から港内に集まった各国の軍艦や、この国特有の奇妙な小舟や、戎克(ジャンク)や、その他海と舟とを除いては、すべてが新しく珍しい景色を眺めた時、何という歓喜の世界が突然私の前に展開されたことであろう。我々の一角には、田舎から流れてくる運河があり、この狭い水路を実に面白い形をした小舟が往来する。舟夫たちは一生懸命に働きながら、奇妙な船唄を歌う。道を行く人々は極めて僅か着物をきている。各種の品物を持っている者もある。たいていの人は、粗末な、木製のはき物をはいているが、これがまた固い道路の上で不思議な、よく響く音を立てる。このはき物には長方形の木片に細い二枚の木片横に取りつけた物と、木の境から彫った物との二種類があった。第3図は人品いやしからぬ老婦人の足を写生したものであるが、このように太い紐がついていて、その前方が拇指(おやゆび)とその次の指との間に入るように工夫されている。人の通る道路には――歩道というものはないので――木製のはき物と細い人力車の轍(わだち)とが、面白い跡をのこしている。下駄や草履には色々な種類がある。階段のあたりに置かれる麦藁でつくつた小奇麗なのもあれば、また非常に粗末な藁製の、一足一セントもしないようなのもある。これ等は最も貧乏な人達がはくので、時々使い古しが道路に棄ててあるのを見る。

[やぶちゃん注:「私の三十九回の誕生日である」モースはメイン州ポートランドに一八三八年六月十八日に生まれた(因みに本邦の旧暦では天保九年閏四月二十六日で、前年の天保八年八月には大塩平八郎の乱やモリソン号事件が、翌天保一〇年には蛮社の獄が起こっている)。

「戎克(ジャンク)」原文“junks”。“junk”は中国における船舶の様式の一つの外国人の呼称で、中国語の「船(チュアン)」が転訛したマライ語の“jōng”、更にそれが転訛したスペイン語・ポルトガル語の“junco”に由来するとされ、確かに漢字では「戎克」と表記するが、これは当て字であって、中国語では「大民船」又は単に「帆船」としか書かない(ウィキの「ジャンク(船)に拠った)。ここはモースが「小舟」と対比して示しているところから、和船の弁才船(べざいせん)か五大力船(ごだいりきせん)であろう。

「道を行く人々は極めて僅か着物をきている。」原文は“People were going by clothed in the scantiest garments,”。「僅かに」の「に」脱字が疑われる。「道行く人々は如何にも薄い、それも一枚ほどにしか見えない僅かな衣服を纏っているだけである(に見える)」という意味であろう。

「階段のあたりに置かれる麦藁でつくつた小奇麗なのもあれば、」原文は“neat ones made of straw lying about the stairways,”。英語の知識のない私が言うのも何であるが、この“stairways”というのは、ホテルの階上(屋上)若しくは段差をもって張り出したバルコニー等を指しているのではなかろうか? そこに主に日本人の来客向け若しくは従業員用に置かれたものを指しているのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

 


M4


図―4

 

 運河の入口に新しい海堤が築かれつつあった。不思議な人間の代打機械があり、何時間見ても興味がつきない。足場は藁繩でくくりつけてある。働いている人達は殆ど裸体に近く、殊に一人の男は、犢鼻褌以外に何も身につけていない。代打機械は面白く出来ていた。第4図はそれを示しているが、重い錘(おもり)が長い竿に取りつけてあって、足場の横板に坐る男がこの竿を塩梅(あんばい)し、他の人々は下の錘に結びつけられ、上方の滑車を通っている所の繩を引っ張るのである。この繩を引く人は八人で円陣をなしていたが、私の写生図は簡明にする為四人にしておいた。変な、単調な歌が唄われ、一節の終りに揃って繩を引き、そこで突然繩をゆるめるので、錘はドサンと音をさせて墜ちる。すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唄うのは、まこと莫迦(ばか)らしい時間の浪費のように思われた。時間の十分の九は唄歌に費されるのであった。

[やぶちゃん注:何と! モースは来日早々、「海堤」(原文“sea wall”:護岸壁・堤防・防潮壁。)の建築現場の地固めで、大勢で重い槌(つち)を滑車で上げ下ろしする際の、かの「よいとまけ」の歌の洗礼を受けていた!]

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