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2013/08/25

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一巻 色刷口絵 訳者の言葉



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石川欣一氏の「訳者の言葉」及びモースの「緒言」を含め、改めて第一章から電子化注釈を行うので、冒頭注を再度、附す。なお、底本第一巻冒頭にある石川千代松氏(万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年。進化論の普及と生物学の啓蒙に努めた日本動物学界の第一人者の一人で、モースの薫陶を受け、モース帰国後には彼の講義を纏めた「動物進化論」を出版している。訳者石川欣一氏の実父でもあり、石川氏が二十三歳の時にアメリカのプリンストン大学に留学(大正七(一九一八)年)した際、父の恩師であるモースの知遇を得、その縁が本書の翻訳出版に繋がった)の「序――モース先生」は本文の完成を待って電子化する予定である)。

日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳

[やぶちゃん注:本作は三十年以上前の日記とスケッチをもとにエドワード・モースが一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版した“Japan Day by Day”を石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松。氏の著作権は既にパブリック・ドメインとなっている)が同年(大正六年)に翻訳されたものである。

 底本は一九七〇年平凡社刊の東洋文庫版全三巻を用いた。但し、電子化は私の海産無脊椎動物と江の島地誌への個人的興味の関係から、江ノ島臨海実験所の開設と採集(主に来日した明治一〇(一八七七)年七月十七日から八月二十九日までの期間の事蹟)に関わる第五章を最初に行った【2013年8月25日を以ってブログにて当該「第五章 大学の居受嘱と江ノ島の実験所」から「第八章 東京に於る生活」(底本の「1」の本文末尾)に至る四章分を完遂した】。今回はそれを受けて正規に冒頭から電子化と注釈を始める。

 なお、「第一章 一八七七年の日本――横浜と東京」及び「第二章 日光への旅」の網迫氏の「網迫の電子テキスト乞校正@Wikiの未校訂のベタ・テクスト電子データ(上記リンク先はそれぞれのその網迫氏のデータ)を加工データのベースとして一部で活用させて戴いた。但し、リンク先のテクスト・データは私の所持する底本とは漢字及び平仮名・送り仮名表記に非常に多くの異同があり、また有意な量の省略箇所があって、スキャンニングのミスだけではなく、明らかに異なる版――私の底本としたものから抄録して一部表記を手直ししたもの――を元にしたものと思われ、実際にはあまり多くは利用させて戴いてはいないし、総ては私の底本と視認をして校合してあるので、無批判な流用ではないことをお断わりしておく。

 図版は私が底本からスキャンニングしてブラッシュ・アップし、適宜相応しい場所に配した。石川氏が文中に施した割注については原本を尊重する目的と、一部の内容(特に生物学的記載)の一部に誤りが認められる関係上、原則、私の注に移行した。  半角アラビア数字は将来の縦書化を考え、全角に代えた。実際には促音と推定し得るルビ(本書のルビには促音はない)は私の判断で促音化してある。  ブログ版では傍点「ヽ」を太字に代えた。  各段落の前後は私の注も含めて前後一行空きとした。原注(『*』の附されたもの)は底本が前後一行空きとしているので、前後二行空きとした。底本原注はポイント落ちであるが無視した。

 エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生、少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している。電子化本文一段落目を参照)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は“apanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年刊)や本作「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。

 注に際しては、原文を“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineにある電子データに拠り()、また、磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(有隣堂昭和六二(一九八七)年刊)も一部参考にさせて戴いた。磯野先生は昨年、鬼籍に入られた。この場を以って深く哀悼の意を表するものである。藪野直史【ブログ始動:2013年6月26日/第一章始動:2013年8月25日】]

訳者の言葉

一 先ず第言現在の私がこの著述の訳者として適当なものであるかどうかを、私自身が疑っていることを申し上げます。時間が不規則になりやすい仕事に従事しているので、この訳も朝夕僅かな暇を見ては、ちょいちょいやったのであり、殊に校正は多忙を極めている最中にやりました。もっと英語が出来、もっと翻訳が上手で、そして何よりも、もっと翻訳のみに費やす時間を持つ人がいるに違いないと思うと、私は原著者と読者とに相済まぬような気がします。誤訳、誤植等、自分では気がつかなくても、定めし存在することでしょう。御叱正を乞います。

二 原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシエントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう。

三 Morse に最も近い仮名はモースであります。私自身はこの文中に於るが如く、モースといい、且つ書きますが、来朝当時はモールスとして知られており、今でもそう呼ぶ人がありますから、場合に応じて両方を使用しました。

四 人名、地名は出来るだけ調べましたが、どうしても判らぬ人名二、三には〔?〕としておきました。また当時の官職名は、別にさしつかえ無いと思うものは、当時の呼び名によらず、直訳しておきました。

五 翻訳中、( )は原著にある括弧、又はあまり長いセンテンスを判りやすくするためのもの。〔 〕は註釈用の括弧です。

六 挿絵は大体に於て原図より小さくなっています。従って実物大とか、二分一とかしてあるのも、多少それより小さいことと御了解願い度いのです。

七 価格、ドル・セントは、日本に関する限り円・銭ですが、モース先生も断っておられますし、そのままドル・セントとしました。

八 下巻の巻尾に雪索引、各頁の上の余白にある内容表示、上下両巻の巻頭にある色刷の口絵は省略しました。

九 先輩、友人に色々と教示を受けました。芳名は掲げませんが、厚く感謝しています。

一〇 訳者は一九一七年十月、ホートン・ミフリンによって出版され、版権はモース先生自身のものになっています。先生御逝去後これは令嬢ラッセル・ロッブ夫人にうつりました。この翻訳はロッブ夫人の承諾を受けて行ったものです。私は先生自らが

  Kin-ichi Isikawa
  With the affectionate regards of
      Edw. S. Morse
  Salem
  June 3. 1921

と書いて贈って下さった本で、この翻訳をしました。自分自身が適当な訳者であるや否やを疑いつつ、敢てこの仕事を御引き受けしたのには、実にこのような、モース先生対する思慕の念が一つの理由になっているのであります。

  昭和四年  夏

            訳  者

[やぶちゃん注:凡例に相当するものであるので、まず、私の電子化での相違部分を以下に注する。

 「一」について。誤訳及び誤植は暴虎馮河ながら、不審な箇所は逐一原文と対比し、幾つかの注で誤訳若しくは誤植と思われる部分を理由を述べた上で指摘させて戴いた。

 「四」について。人名・地名は私独自に調べたものを可能な限り注するよう心掛けた。官職名は読者が誤読する可能性があるものについては原文と対比検討し、必要に応じて注を附した。

 「五」について。まずは本文を大切にするという観点から、石井氏の割注『註釈用の括弧』〔 〕部分は原則、本文から外して私の注で示し、必要な場合は更に私の解説を附しておいた。

 「六」挿絵はスキャンニングによって底本画像より遙かに大きくなっている。ブラッシュ・アップに際しては、“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback MachineにあるPDF版画像で比較視認し、汚損と思われるもののみを除去するように心掛けた(かなり原画にないシミや描画の線のズレなどが認められる)。

 「八」の内、ブログ版では電子化した部分に対して小見出しを附したが、これは石川氏の言う『各頁の上の余白にある内容表示』に基づくものではなく、全く私の、内容から閃いたオリジナルなものであるので注意されたい。正式な当該の小見出しの原文を読まれたい向きには上記サイトのPDF版をお薦めする。なお、この見出しは将来的にサイト一括版を作製する際には、内容把握や検索には非常に価値があり、魅力的でもあるので、独自に原文と訳を示したいと考えている。また、『上下両巻の巻頭にある色刷の口絵』は、やはり前記PDF版より画像としてトリミングしたものを掲げた。今回はその上巻の巻頭彩色口絵(水彩画)を、このブログの冒頭に掲げた。なお、そのキャプションには、
 
 

 JAPANESE WOMAN AND CHILD

 Watercolor by Bunzou Watanabe,1882

  
 
とある。同時代人では後に洋画家となる渡辺文三郎がいるが、一八八二年当時は満十九歳、別人か。識者の御教授を乞うものである。

 「十」言わずもがなながら、モース氏の著作権及び石川氏の翻訳著作権もともに消滅している。

 次に、幾つかの注を附す。

「時間が不規則になりやすい仕事に従事している」当時の石川氏は大阪毎日新聞社学芸部員であった。

「原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシエントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう」原典には以下の献辞がある。

  

  

     TO MARGARETTE W. BROOKS
WITHOUT WHOSE EFFICIENT HELP AND UNFLAGGING
  INTEREST THE MANUSCRIPT WOULD NEVER
    HAVE BEEN READY FOR THE PRESS
    THIS WORK IS AFFECTIONATELY
        DEDICATED

  

  

  
貧しい私の英語力で訳すなら、

  
  

――マーガレット・W・ブルックスへ
――あなたの優れた助力と、たゆまぬ関心なしに
――この原稿が、印刷に向けて準備を
――整え終えることは決してなかった
――愛を込めて
――捧げる
  


  

恐らく、この原文、いや、寧ろ石川氏の文章を読んだ多くの方は、何かある種の感懐を抱かれるに違いない。この「デディケート」“dedicate”、献呈されている女性、それも「老嬢」とある Margarette Brooks という「エフィシエントな」“efficient”(有能な、敏腕の)「老嬢」とする女性である。わざわざ凡例の項目の中に掲げて示すその語り口(確かに献辞に用いられた文句ではあるが――わざわざ外来語を混入させて――である。石川氏は本書の本文では――極めて外来語の使用に禁欲的なのに――である)には、石川氏が何か言外にある感懐を含んで述べている感じがするのである。そうしてそれは、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記述(二九九~二三〇〇頁)で、目から鱗となるのである。少し長いが、私はどうしてもそこを引用したいのである。そこはモースが遂に愛する日本を後にして最後に帰国した一八八三年(明治一六年)の直後に関わる記載部分である。因みに、この引用の直前で磯野先生は、モースにはその後も来日の機会はあり、弟子達も頻りに再訪を勧めた。しかし遂に彼は日本の土を踏まなかったと述べる。その理由について磯野氏ははっきりと『近代文明にまだ毒されていなかった日本を愛していたモースは、日本の変貌した姿を見るに耐えなかったのだ』と記しておられる(注記記号が二箇所に入るが省略した)。

   《引用開始》

 三度目の日本訪問で収集した二九〇〇点の陶器は、みなセーラムの自宅に運びこまれた。モースは、それを収納するために自宅を増築しなければならず、また借金が増えた。しかし、その後も彼は、日本の知人や日本を訪れるアメリカの友人を通じて陶器や民具の収集を続けたので、資料は増す一方であった。

 膨大な資料を抱えこんだモースを助けたのは、隣に住むマーガレット・ブルックスだった。モースはエセックス研究所の学芸員をも兼務していたが、マーガレットはその同僚ヘンリー・メイソン・ブルックスの娘だった。彼女は、モースが日本を訪れる頃から彼の秘書役をつとめていたのである。

『その日』はモースの日本滞在中の日記を基礎にしているが、日本にいた頃のモースは、毎日日記をつけていたのではなく、何日かに一度まとめて記録を綴ったらしい。『その日』の記述に日付が少ないこと、話が前後したり、あちこちに飛んだりするのは、そのためのようである。それはさておき、その何日かに一度したためたスケッチ入りの「日記」を、モースはセーラムのマーガレットに送っていた。彼女はそれをまとめ、モースの身内に見せるなど、モース不在中その管理をしていたのである。

 マーガレットがいつ生まれたのか不明だが、少女の頃から博物学に興味をもち、ピーボディ科学アカデミーの夏期学校に一八七七年、八〇年、八一年と三度も参加している。そういうことからモースを手助けするようになったのだろうが、几帳面で勤勉で、モースにはうってつけの秘書だった。モースの悪筆は大したもので、ミミズがのたくったような筆跡は友人たちも持てあましたものだったが、それを判読するのも彼女の役目だった。陶器コレクションの五〇〇〇枚のカードもマーガレットのきちんとした筆跡で書かれているし、後年『その日』の執筆にあたって、日記を整理する役目も果たした。マーガレットは「真珠」を意味するので、モースは彼女を「お玉さん」と呼んでいたというが、このお玉さん抜きでは、その後のモースの仕事は考えられない。

 マーガレットはついに結婚せず、モースがこの世を去る日まで秘書役を果たした。『伝記』の著書ウェイマンは、「マーガレットは疑いなくモースを愛していた」と記している。おそらく、そうであろう。

   《引用終了》

この後、モースは一九一一年、七十四歳の時に四十八年連れ添った妻エレンを失う。そして一九二五年十二月二十日の未明に脳溢血で亡くなった。前夜、彼は隣に住んでいたマーガレット・ブルックス姉妹を訪ねていた。「お玉さん」はその夜、『庭を横切ってモースを戸口まで見送った』(ここは磯野先生の当該書掉尾の一読忘れ難いしみじみとした叙述部分である)……生前のモースの最後の姿を見送ったマーガレット……お珠さん……私はなにか目頭が熱くなってくるのである……。

「ホートン・ミフリン」原本画像を視認すると、“BOSTON AND NEW YORK” “HOUGHTON MIFFLIN COMPANY”とある。“Houghton Mifflin Harcourt”として現存する出版社である(リンク先は英語版の同社のウィキ)。

「一〇」の献辞は、

  石川欣一へ
  心を込め(た挨拶を以っ)て
     エドワード・S・モース
  セイラムにて
  1921年6月3日

である。]

 

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