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2013/08/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳)  緒言

 

     緒  言

 

 私が最初日本を訪れた目的は単に日本の近海に産する腕足類の各種を研究するだけであった。それで、江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された。殆ど四年日本にいた間、私は国へ送る手紙の重複を避ける為に、毎日日記をつけた。私の滞在の一期限は、後になって発表してもよいと思われた題目に関する記録が出来上らぬ内に、終って了った。が、これは特殊な性質を持っていたのである。即ち住宅及びそれに関係した諸事物の覚え書きや写生図だった。これ等の備忘録は私の著書『日本の家庭及びその周囲』――“Japanese Homes and Their Surroundigs”の材料となったのである。この理由で、本書には、この前著に出ている写生図の少数を再び使用した以外、家庭住宅等に関する記述は極めて僅かしか出て来ない。また私は私が特に興味を持っている問題以外に就ては、記録しようとも、資料を蒐集しようとも努めなかった。日本の宗教――(仏教、神道)――神話、民話等に大して興味を持たぬ私は、これ等を一向研究しなかった。また地理にも興味を持っていないので、横切った川の名前も通過した地域の名も碌(ろく)に覚えなかった。マレー、サトウ等が著した優秀な案内書や、近くは、ホートン・ミフリン会社が出版したテリーの面白い案内書のおかげで、私は私が施行した都邑(とゆう)に於(おけ)る無数の興味ある事物に言及さえもしないで済んだ。これ等の案内書には、このような事柄が実に詳しく書いてあるからである。

[やぶちゃん注:モース来日までの経緯やその動機については磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(有隣堂昭和六二(一九八七)年刊)の第一部で実に七章を費やされてお書きになっておられる。これは先生が一般向けに書かれた評論の中ではすこぶる附きで面白い(と私は感じる)本であり、本テクストの注でも多用させて戴いているが、私は先生の著作権を侵すつもりは毛頭ないし、当該パートの精緻な考証の美味しい部分だけをコンパクトに纏めること自体が憚られる。是非、当該書をお読み戴きたい。

「腕足類」冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属オオシャミセンガイ Lingula adamsi やミドリシャミセンガイ Lingula anatina などのシャミセンガイ類や、頂殻(イカリチョウチン)目イカリチョウチン Craniscus japonicas 、有関節亜綱穿殻目穿殻亜目テレブラツラ科シロチョウチンホウズキガイ Gryphus stearnsi や穿殻亜目カンセロチリス科タテスジチョウチンガイ Terebratulina japonica などが代表種である(何故か Terebratulina 属はカンセロチリス科であってテレブラツラ科ではない。分類タクソン類は保育社平成四(一九九二)年刊の西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑Ⅰ」に拠った)。一見、二枚貝に似ている海産生物であるが、体制は大きく異なっており、貝類を含む軟体動物門とは全く近縁性のない生物である。化石ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループであるが、その後多様性は減少し、現生種数は比較的少ない。門の学名“Brachiopoda”(ブランキオポダ)はギリシャ語の“brachium”(腕)+“poda”(足)で、属名“Lingulida”(リングラ)は「小さな舌」の、“Craniscus”(クラニスクス)は「小さな頭蓋」の、“Gryphus”(グリフス)は「鉤鼻の」、“Terebratulina”(テレブラトゥリナ)は「孔を穿つ小さなもの」の意である(学名語源は主に荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の「シャミセンガイ」の項に拠った)。以下、ウィキの「腕足動物」から引用する。『腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物』で、斧足類(二枚貝)のように二枚の殻を持つが、斧足類の殻が体の左右にあるのに対し、『腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる。2枚の殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる』。殻長は5センチメートル前後のものが多く、『腹殻の後端から肉茎が伸びる。肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる』が、種によってはこの『肉茎を欠く種もいる』。『殻は外套膜から分泌されてできる。外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。外套腔は水で満たされていて、触手冠(英語版)がある。触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では1対の腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる』。『消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌(後述)は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる』。『循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされ』、ガス交換は体表で行われる。『1対か2対の腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす』。『神経系はあまり発達していない。背側と腹側に神経節があり、2つの神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる』。生態は『全種が海洋の底生動物である。多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。体を底質に付着させない種もいる』。『餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる』。以下、「繁殖と発生」の項。『有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。わずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体』で、『雌雄異体のものでも、性的二型はあまりない』。『体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。その場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される』。
「江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された」はモースの記憶違いである。考証は磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の七二頁以下詳しいので参照されたい。

「私の著書『日本の家庭及びその周囲』――“Japanese Homes and Their Surroundigs”」1885年に出版された(出版年については英語版ウィキの“Edward S. Morseでは1885年初版の1888年(ハーパー社)の再版版を掲げ、日本版ウィキの「エドワード・S・モース」ではただ1885年とする。出版経歴を精査された磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の三〇九~三一〇頁の記載に拠ると、1886年(明治19年)であるが、その記載を見ると、『以前からの取り決めにしたがってピーボディ科学アカデミー紀要の一冊として刊行されるとともに、イギリスの出版社を含めた三社から出版され』たとある。磯野先生には失礼ながら、ここで『とともに』と述べておられるものの、実はメジャーに公刊される前の紀要版初版のそれは、実は1885年に刊行されたものなのではなかろうか?)。訳書としては図版の大きさから斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)をお薦めする。

「マレー」原文“Murray”。これは「サトウ」と並列されているので人の名と誤読してしまうが(少なくとも当初、私は誤読した)、人名ではなくイギリスの“John Murray”という老舗の出版社名及び同社の雑誌名である(もとは人名ではある)。以下、ウィキの「マレー(出版社)」によれば、十九世紀にバイロン卿らの文芸書やチャールズ・ダーウィンの「種の起源」など重要な書籍を多く出版、当時、影響力の大きい出版社の一つとして知られていた。またここに示された通り、同名の旅行ガイドブックシリーズを出版していたことも知られ、ドイツの『ベデカー』と共に近代的な旅行ガイドブックの始祖とされる。「日本案内」(原題“A Handbook for Travellers in Japan”)は一八九一年(明治二四年)に編著者としてイギリスの日本研究家で東京帝国大学文学部名誉教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)らを迎えて刊行されている。ラフカディオ・ハーンやウォルター・ウェストンの寄稿もなされており、現在では貴重な文献となっている、とある。

「サトウ」原文“Satow”。イギリスの外交官サー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)。英国公使館の通訳・駐日英国公使・駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤愛之助(または薩道愛之助)。日本滞在は文久二(一八六二)年から明治一六(一八八三)年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三三(一九〇〇)年までの間を合わせると、計二十五年間になる。息子は植物学者の武田久吉。明治一四(一八八一)年に彼はアルバート・ホーズ(Albert George Sidney Hawes)との共著で旅行ガイドブック“A handbook for travellers in central and northern Japan”(London:
John Murray, 1881
 邦訳題「中部・北部日本旅行案内)を刊行、これは日本を訪れる多くの外国人旅行者や居留外国人の人気を博し、版を重ねた。因みに、主に参照したウィキの「アーネスト・サトウ」によれば、『「サトウ」という姓はスラヴ系の希少姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、日本の姓とは関係はなかったが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名乗った。本人も自らの姓が日本人になじみやすく、親しみを得られやすい呼び方だったことが、日本人との交流に大きなメリットになったと言っていたという。』。また、『私生活は法的には生涯独身であったが、明治中期の日本滞在時に武田兼を内妻とし3人の子をもうけた。兼(カネ)とは入籍しなかったものの子供らは認知し経済的援助を与えており、特に次男の武田久吉をロンドンに呼び寄せ植物学者として育て上げる。また、最晩年は孤独に耐えかね「家族」の居る日本に移住しようとしたが、病に倒れ果たせなかった』とある。

「ホートン・ミフリン会社」「訳者の言葉」で既注。

「テリー」原文“Terry”。これは恐らく一九一四年(大正三年)にアメリカで刊行された“Terry’s Guide To The Japanese Empire”(Boston & New York:
Houghton Mifflin Co.
 邦訳「テリーの日本帝国案内」)で
、アメリカ人フィリップ・トーマス・テリー(Philip Thomas Terry)の著わした旅行ガイドと思われる。邦文サイトの記載がないので仔細は不明であるが、フル・テクストが本書の原文の参考にしている“Internet
Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machine
ここに発見した。英語に堪能な方は是非どうぞ(PDF版も有り)。]
 

 私が何等かの、時には実は些細なことの、覚え書きか写生かをしなかった日とては一日もない。私は観察と同時に興味ある事物を記録することの重大さを知っていた。そうでないとすぐ陳腐になって了って、目につかぬ。ブリス・ペリー教授は彼の尊敬すべき著述『パーク・ストリート・ペーパース』の中で、ホーソンがまさに大西洋を渡らんとしつつある友人ホレーシオ・ブリッジに与えた手紙を引用している。曰く「常に、君の心から新奇さの印象が消えぬ内に書き始めよ。そうでないと、最初に君の注意を引いた特異な事物も、記録するに足らぬ物であるかのように思われやすい。而もこのような小さな特異な事柄こそ、読者に最も生々とした印象を与える、大切なものなのである。最少限度に於てでも特質を持っている物ならば、何物をも、記録すべくあまりに軽少だと思う勿れ。君はあとから君自身の旅行記を読んで、このような小さな特異性が如何に重大な、そして描写的な力を持っているかに驚くであろう。」


[やぶちゃん注:「ブリス・ペリー教授」原文“Professor Bliss Perry”。アメリカの文芸評論家ブリス・ベリー(Bliss Perry 一八六〇年~一九五四年)。

「パーク・ストリート・ペーパース」原文“Park-Street papers”は、一九〇八年刊行(BostonHoughton Mifflin company)のベリーの文芸評論。目次の中に“The centenary of Hawthorne”(「ホーソーンの百年祭」)とある(やはり“Internet Archive:Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineここにフル・テクスト有)。] 


 本書にして若し価値ありとすれば、それはこれ等の記録がなされた時の日本は、数世紀亘る奇妙な文明から目ざめてから、数ケ年を経たばかりだという事実に立脚する。その時(一八七七年)にあってすら、既に、軍隊の現代的調練、公立学校の広汎な制度、陸軍、財政、農業、電信、郵便、統計等の政府の各省、及び他の現代的行政の各官署といったような変化は起っていて、東京、大阪等の大都会には、これ等新制の影響が僅かに見られた。それは僅かではあったが、而もたった数年前、武士がすべて両刀を帯び、男子がすべて丁髷(ちょんまげ)に結い、既婿婦人がすべて歯を黒くしている頃の、この国民を見た人を羨ましく思わせる程、はっきりしていた。だがこれ等外国からの新輸入物は田舎の都会や村落を、よしんば影響したにせよ極く僅かしか影響しなかった。私の備忘録や写生図の大部分は田舎に於てなされた。私が旅行した地域の範囲は、北緯四十一度に近い蝦夷(えぞ)の西岸オタルナイから三三度の薩摩の南端に至るといえば大略の見当はつくであろう。これを私は主として陸路、人力車並(ならび)に馬によった。私の記録や写生図の大部分は一千年前につくられた記録と同じであろう。事実、この国は『土佐日記』(エーストン訳)の抄本が、私が毎日書いていた所のものによく似た光景や状態を描いている程、変化していなかったのである。

[やぶちゃん注:「一八七七年」モース来日の明治一〇年。

「オタルナイ」原文“Otaru nai”。小樽の古名。「おたる」という呼称はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)に由来する。参照したウィキの「小樽市」によれば、『しかしこの言葉は現在の小樽市中心部を指したものではなく、現在の小樽市と札幌市の境界を流れる星置川の下流、小樽内川(現在の札幌市南区にある小樽内川とは別)を示していた。河口に松前藩によってオタルナイ場所(場所請負制を参照)が開かれたが、冬季に季節風をまともに受ける地勢ゆえに不便な点が多かったため、風を避けられ、船の係留に適当な西方のクッタルウシ(イタドリが生えるところ)に移転した。しかしオタルナイ場所の呼称は引き続き用いられ、クッタルウシと呼ばれていた現在の小樽市中心部が、オタルナイ(小樽内、尾樽内、穂足内)と地名を変えることになる。現在の小樽市域にはこの他、於古発(オコバチ)川以西のタカシマ場所、塩谷以西のヲショロ場所も開かれていた』とある。

「エーストン」“Aston”。アーネスト・サトウやバジル・ホール・チェンバレンと並んで初期の著名な日本研究者である英国の外交官ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。一八七五年の“An Ancient Japanese Classic: (the "Tosa Nikki", Or Tosa Diary)”の英訳を指すか。] 

 日記帳三千五百頁を占めるこの材料を、どういう方法で世に表わそうかということは、長年考えはしたが、はっきりした考えがつかなかった。まったく、友人ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ(私は同氏と一緒に三度目の日本訪問をなした)からの手紙がなかったら、この日記は出版のために準備されなかったことであろう。私は大得意でビゲロウ氏に手紙を出し、軟体動物並に腕足類に関するいくたの研究を片づけるために、セーラムのピーボディ博物館及びボストンの美術館から長い休暇を貰ったことを知らせた。それに対するドクタア・ビゲロウの返事は次の通りである――「君の手紙で気に入らぬことがたった一つある。外でもない、より高尚な、君ほどそれに就て語る資格を持っている人は他にない事の態度や習慣に就て時を費さず、誰でも出来るような下等動物の研究に、君がいまだに大切な時を徒費しているという白状だ。どうだ、君は正直な所、日本人の方が虫よりも高等な有機体だと思わないか。腕足類なんぞは溝へでも棄てて了え。腕足類は棄てて置いても大丈夫だ、いずれ誰かが世話をするにきまっている。君と僕とが四十年前親しく知っていた日本の有機体は、消滅しつつあるタイプで、その多くは既に完全に地球の表面から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを、忘れないで呉れ。この後十年間に我々がかつて知った日本人はみんなべレムナイツ〔今は化石としてのみ残っている頸足析の一種〕のように、いなくなって了うぞ。」

[やぶちゃん注:「ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ」“Dr. William Sturgis Bigelow”ビゲロー(一八五〇年~一九二六年)はアメリカの日本美術研究家。ボストンの大富豪の家に生まれ、一八七四年にハーバード医学校を卒業したが、続く五年のヨーロッパ留学中に日本美術の虜となる。一八八一年に日本から帰国していたモースと知遇を得、生涯の知己となった。モースとともに明治一五(一八八二)年に来日、フェノロサとともに岡倉天心らを援助、膨大な日本美術の逸品を収集し、アメリカに持ち帰った。それらは死後にボストン美術館に寄贈されたが、このコレクションには、最早、国内では失われた北斎の版画の版木など日本美術の至宝と言うべきものである。滞在中に仏教に帰依し、天台宗などの研究も行っている(主に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載に拠った)。

「セーラムのピーボディ博物館」モースは一八六七年、二十九歳の時に三人の研究仲間とともにマサチューセッツ州エセックス郡セイラムに「ピーボディー科学アカデミー」(一九九二年以降はピーボディ・エセックス博物館。名は寄附と援助をしてくれた銀行家で慈善家でもあった George Foster Peabody に因む)を開き、そこで一八七〇年まで軟体動物担当の学芸員を務めた。その後、一時帰国中の一八八〇年(明治一三年)に同科学アカデミー館長に就任していた(本書刊行の前年一九一六年には同アカデミーから前年に改称したセーラム・ピーボディー博物館名誉館長となっている(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載及び略年表に拠った)。ここで一言言い添えておくと、モースは全く述べていないし、自律的に休暇を得たように書いているが、実は一九一一年にモースは愛妻エレンを失っており、磯野先生によれば、その痛手を思いやった科学アカデミー理事会が一九一二年の会議でモースに対する一年間の有給休暇を決議したというのが事実であった。

「ボストンの美術館」磯野先生の前掲書には特にボストン美術館の役職に就いたとする記載はないが、一八九〇年に同美術館に日本陶器コレクションを寄贈しており、一九一四年にはボストン博物学会会長に就任していることからみても、同美術館の相応な肩書と職務を持っていたと考えておかしくない。

「ドクタア・ビゲロウの返事」一九一三年七月一日附(磯野前掲書による)。

「べレムナイツ」原文“Belemnites”。石川氏は直下に『〔今は化石としてのみ残っている頭足類の一種〕』と割注しておられる。軟体動物門頭足綱鞘形亜綱ベレムナイト目 BelemnoideaBelemnoid)の化石動物。白亜紀末に絶滅した一群で、形態的には現生イカに類似し、特に十腕形上目コウイカ目 Sepiida のコウイカ類の近縁とされている。以下、参照したウィキの「ベレムナイトより引用する。『ベレムナイトは体の背部から先端にかけて鏃(やじり)型の殻を持っていた。この殻の形状に由来し、ベレムナイトの化石を矢石(やいし)と呼ぶ事もある』。『ベレムナイトはデボン紀のバクトリテス類(Bactritoids、真っすぐな殻を持つオウムガイの仲間)を起源とし、化石は下部石炭系から白亜系にかけて産出する。特にベレムナイトはジュラ紀から白亜紀にかけて繁栄しており、中生代の海成層からアンモナイトと共に大量に産出する。絶滅の時期も、アンモナイトと同様に白亜紀の末期である』『ベレムナイト類のいくつかの種、特にヨーロッパのチョーク層から産出するものは示準化石として重要であり、地質学者が地層の年代を決定するのによく用いる。日本国内では北上山地のジュラ紀―白亜紀の地層から産出するが、欧米に比べて産出は極めてまれである』。『ベレムナイトの殻は生存時には外套膜に覆われ、実際には内骨格として機能していた。殻は鞘(rostram)、房錘(phragmocone)、前甲(pro-ostracum)の3部分よりなる。鞘は体の末端部にあり、緻密な石灰質の塊であるため化石として残りやすい。房錘は内臓が入った外套腔のすぐ外側にあり、中空の円錐形をした構造である。現生のオウムガイと同様に、ベレムナイトは房錘の空洞内のガスと体液の比を調整することで浮力を得ていたらしい。前甲は背中側にうすく延びた構造で、現生のコウイカの殻と同様に軟体部を支えていた』。『生時のベレムナイトが軟体部の後端にある房錘で浮力を生じると、軟体部は水より比重が大きいので頭が下を向いてしまう。しかし、さらに後ろにある鞘は中まで緻密に詰まった石灰質の硬い塊であるために比重が大きく、ここで浮力を相殺してバランスをとることができる。つまり遊泳時のベレムナイトには、房錘で上向きの、軟体部と鞘で下向きの力が働き、一種の天秤のような機構が姿勢の水平を保っていたと考えられている』。「殻以外の特徴」の項。『イギリスやドイツなどからは、軟体部の輪郭まできれいに保存されたベレムナイトの化石が見つかっている。それによると、ベレムナイトは殻に比べてはるかに大きな流線型の体と大きな眼を持っていた。また、現生のイカ類と同様に墨汁嚢はあったが、離れたところから射出するように伸びだして獲物を捕らえる触腕はなかった』。『触手に吸盤を持っている現生のイカ類とは異なり、ベレムナイトは小さなフックを持っていた(現生のイカ類でも吸盤の縁には角質のぎざぎざしたリングが装着されているし、カギイカのようにフックをもつ種類も存在する)。ベレムナイトは獰猛な肉食動物で、小さなフックがついた触手で獲物を捕まえては、くちばし状の顎板で肉をむしって食べていた。当時の海棲爬虫類はベレムナイトを捕食しており、例えばイクチオサウルスの腹部からはベレムナイトのフックが大量に見つかっている』とある。] 

 彼の論点は圧倒的で私に弁解の余地を与えなかった。私は浜々出版を目的として材料の整理を始めた。最初私は備忘録を、私が一八八一年から翌年にかかる冬、ボストンのローウェル・インスティテュートでなした日本に関する十二講の表題によって分類することに腹をきめた。その表題というのは次の通りである。

  一――国土、国民、言語。

  二――国民性。

  三――家庭、食物、化粧。

  四――家庭及びその周囲。

  五――子供、玩具、遊戯。

  六――寺院、劇場、音楽。

  七――都会生活と保健事項。

  八――田舎生活と自然の景色。

  九――教育と学生。

 一〇――産業的職業。

 一一――陶器及び絵画芸術。

 一二――古物。


[やぶちゃん注:以上の「表題」は底本ではすべて一文で続いているが、見易くするために字下げの箇条書きで示した。「ローウェル・インスティテュート」原文“Lowell Institute”。ボストンにあったアメリカの実業家で慈善家ジョン・ローウェル(John Lowell, Jr. 一七九九年~一八三六年)記念研究所。当時、ここの公開講座は非常な人気を博し、モースの師ルイ·アガシや作家チャールズ·ディケンズやサッカレーなどが講義している(英語版ウィキの“John Lowell, Jr. (philanthropist)を参考にした)。


 かかる主題のあるものは、すでに他の人々の手で、専門的論文の性質を持つ程度に豊富な挿絵によって取扱われている。それに、私の資料をローウェル・インスティテュートの講義の順に分析することは大変な大仕事で、おまけに多くの新しい副表題を必要とする。やむを得ず、私は旅行の覚え書きを一篇の継続的記録として発表することにした。本の表題“Japan Day by Day,”――エッチ・エー・ガーフィールド夫人とロリン・エー・ディーランド氏とから個々に云って来られた――は、事実ありのままを示している。材料の多くは、この日記がちょいちょい描写する、街頭をぶらつく群衆のように、呑気でまとまっていない。然し今日稀に見る、又は全く跡を絶った多くの事柄を描いている。この日記中の重要な問題はすでに他で発表した。

[やぶちゃん注:「エッチ・エー・ガーフィールド夫人とロリン・エー・ディーランド氏」原文“Mrs. H. A. Garfield and Lorin F. Deland, Esq.,”。不詳。磯野前掲書にも載らない。先のローウェル研究所の公開講座の熱心な受講者か? “Esq.”は“ESQUIRE”の短縮形で、氏名の後につけて、殿・様の意を示す。

 以下の注記の一段は前後に行空けがあり、底本ではポイント落ちで全体が一字下げである。]

 

 

 かかる覚え書きは次の如く各種の記事や著述の形をとっている――『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』には「日本に於る健康状態」、「日本に於る古代人の形蹟」(挿画付)、「日本に於るドルメン」(挿画付)の三記事。『ユースス・コムパニオン』に「日本の紙鳶(たこ)あげ」(挿画付)。『ハーバース・マンスリー』には「古い薩摩」と題する記事に四十九の物品を十一枚の木版画で説明して出した。また『日本の家庭とその周囲』と称する本には説明図が三百七図入っている。東京帝国大学発行の『大森の貝塚』には石版図のたたんだもの十八枚に説明図二百六十七図が納めてある。日本の陶器に関する記録はフォトグラヴィア版六十八枚、及び記事中に一千五百四十五個の製造家の刻印を入れた、三百六十四頁の四折判の本となって、ボストン美術館から発行された。また私を最初日本に導いた腕足頼の研究の結果はボストン博物学会から出版された。これは八十六頁の四折判で石版図が二十三枚入っている。

[やぶちゃん注:雑誌名及び書名及び標題の原典表記を以下に列記しておく。

「ポピュラー・サイエンス・マンスリー」“Popular Science Monthly”。一八七二年にエドワード・L・ユーマンスによって創刊されたサイエンス・テクノロジー誌。後に著名な「サイエンス」(“Scientific American”)に吸収された。

「日本に於る健康状態」“Health Matters in Japan”。これは石川氏に失礼乍ら、誤訳であろう。“health”には国家や社会・文化などに於ける健全・活力・安定・繁栄の意があるから、ここは「日本の(近代国家としての)安定状態」といった意味ではなかろうか?

「日本に於る古代人の形蹟」“Traces of Early Man in Japan”。


「日本に於るドルメン」“Dolmens in Japan”。老婆心ながら、ドルメン(dolmen)とは新石器時代から鉄器時代にかけての世界各地で作られた比較的大きな石造墳墓の総称。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べてその上に巨大な天井石を載せる形態をとることが多い。支石墓。ウィキの「支石墓」には、本邦では縄文時代最晩期の九州北西部に出現しており、屈葬や甕棺を伴うなどの独自性も認められるが、『日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている』とある。


「ユースス・コムパニオン」“
Youth's Companion”。一八二七年から一九二九年まで発行されたアメリカの少年雑誌。

「日本の紙鳶(たこ)あげ」“kite-flying in Japan”。


「ハーパース・マンスリー」“
Harper's Monthly”。ハーパーズ。一八五〇年六月に創刊されたアメリカで二番目に古い雑誌(最古は前掲の“Scientific American”)。もとは格調高い文芸総合評論誌であったが、一九八四年から一般誌となった。

「古い薩摩」“Old Satsuma”。


「日本の家庭とその周囲」既注済み。


「大森の貝塚」“Shell Mounds of Omori”。]

 

 ボストン美術館のジェー・イー・ロッジ氏は、私に本書に出て来る日本の物件のすべてに、その名を表す支那文字をつけることを勧告された。然しそれは、原稿を印刷のため準備するに当って、非常に労力を要するのみならず、漢字に興味を持つ少数の読者は、それ等に相当する漢字が見出さるであろう所のヘップバーンの日英辞典を、持っているなり、あるいは容易に手にすることが出来るであろうことを思って、私は遺憾ながらこの優れた申し出に従うことをやめた。序(ついで)にいうが、我国では漢字のよき一揃えを手に入れることは至難事であろう。かかる活字はライデン市のブリルにでも注文せねばあるまい。

 

 同様な理由でOを長く読ませるŌをも除外した。

[やぶちゃん注:「ジェー・イー・ロッジ氏」“Mr. J. E. Lodge”。不詳。

「ヘップバーンの日英辞典」原文の“Hepburn's Japanese and English Dictionary”の綴りを凝っとみればお分かりの通り、米国長老派教会系医療伝道宣教師でヘボン式ローマ字の創始者ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn 一八一五年~一九一一年)が慶応三(一八六七)年に完成した日本最初の和英辞典「和英語林集成」の改訂版のこと。

「ライデン市のブリル」原文“Brill, of Leyden”。オランダ南ホラント州の都市ライデンのブリル書店。十六世紀から十七世紀にかけて繁栄を極めたライデンでは印刷・出版業が著しい発展を遂げた。なお、同書店は現在も続いている。]

 この日記の叙述には大ざっぱなものが多い。一例として日本人が正直であることを述べてあるが、私はかかる一般的な記述によって、日本に盗棒(どろぼう)がまるでいないというのではない。巡査がいたり、牢屋や監獄があるという事実は、法律を破る者がいることを示している。諺(ことわざ)のようになっている古道具屋の不正直に関しては、三千世界のいずこに正直な古道屋ありやというばかりである。私が日本人はスウェア(神名を妄用)しないということを書いたその記述は、日本人がスウェア語を持っていないという事実に立脚している。日本にだって神様も聖人も沢山いる。だがそれ等の名前は、例えばスペインで聖ペドロ、聖ユアンその他の聖徒の名前が、忌まわしい語句と結びつけられるような具合に、祈りに使用されたり、又は罵られたりしないのである。

 必ず見出されるであろう所の多くの誤謬に就ては、私としては只当時最も権威ある典拠によったということをいい得る丈で、以下の記録をなした後の四十年間に、いろいろと新しい説明が加えられ得るものもあるらしい。一例として富田氏は、私に富士山のフジは、噴火山を意味するアイヌ語だとの手紙を呉れた。

[やぶちゃん注:「古道具屋の不正直」原文は“the proverbial dishonesty of bric-a-brac dealers”。なるほど、意味は解る。


「スウェア(神名を妄用)」原文はただ“swear”である。意味が通じないのでやや変則的な訳し方をなさっている(ここは正直、〔 〕で示すべきであると思う)。“swear”は呪いや怒りを以て~を罵る、~に毒づくの意で、まさに“Damn it!” “God damn it!” “Blast!”(“damn!”の婉曲表現)などの怒りや軽蔑を含む表現を口にする、という動詞である。後の「スウェア語」(原文は“swear words”も、罵り・呪い・毒舌の意(swearword とも綴る)。因みにこの英語は古語英語の“answer”の意の“swerian”に基づくそうである。


「スペインで聖ペドロ、聖ユアンその他の聖徒の名前が、忌まわしい語句と結びつけられる」意味不明。スペイン語の識者の方、御教授、お願い申し上げる。


「富田氏」最後の段落に出る「美術館の富田幸二郎氏」のことであろう。後注参照。

「富士山のフジは、噴火山を意味するアイヌ語だ」富士山の語源については、例えばウィキの「富士山」に、最も古い記録は「常陸国風土記」における「福慈岳」という語であると言われている。また、他にも多くの呼称が存在し、「不二山」若しくは「不尽山」と表記する古文献もある。また、「竹取物語」の伝説もあると掲げる(これは最も天に近い(姫に近い)場所で不老不死の薬を燃やすために現在の富士火口まで警護の武士が沢山登った、だから「富士」というコーダだが。私は「竹取物語」の全体の完膚なきまでの徹底したパロディ構造から、絶対にあり得ないと思っている)更に、「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説を挙げた後、『近代後の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある』とする。これについては、佐藤和美氏のサイト「言葉の世界」の「北海道のアイヌ語地名」の中の、「富士山アイヌ語語源説について」にこれをしっかりと否定する記載がある(リンク通知を要求しておられるのでHPのアドレスを表記するだけに留める(http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/index_menu.htm))。


 以下には、有意な行空けがある。]

 

 

 私が日本で交をむすび、そして世話になった初期の友人に女子師範学校長のドクタア高嶺秀夫及び彼の友人宮岡恒次郎、竹中成憲両氏がある。富岡氏はその後有名な弁護士になった。彼はそれ迄外交官をしていて、ベルリン及びワシントン大使館の参事官であった。九歳の彼は同年の私の男の子の遊び友達だった。彼はよく私の家へ遊びに来たもので、彼と彼の兄を通して私は諺、迷信、遊戯、習慣等に関する無数の知識を得た。なお実験室で親しく交際した私の特別な学生護君にも感謝の意を表する。帝国大学の綜理ドクタア加藤、副綜理ドクタア浜尾、ドクタア服部、学習院長立花伯爵その他『日本の家庭』の序文に芳名を録した多くの日本人の学生、友人、茶ノ湯、音曲の先生等にも私は負うところが多い。屢々(しばしば)、質問のあるものがあまりに愚なので、笑いに窒息しかけながらも、彼等が私に与えてくれた、辛棒強くも礼義に富んだ返事は、私をして従来かつて記されなかった習慣の多くを記録することを得させた。私の対話者のある者は、英語を僅かしか知らなかった。加ㇾ之(しかのみならず)私の日本語が同様に貧弱だったので、その結果最初は随分間違ったことを書いた。意見を異にするのは礼義でないということになっているので、質問者自身があることがらを了解したと考えると、話し相手も従順に同意するのである!

[やぶちゃん注:「高嶺秀夫」(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保の近習役となったが、この九月に会津戦役を迎えた。謹慎のため上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた。同八年七月、文部省は師範学科取り調べのために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定し、高嶺秀夫は愛知師範学校長伊沢修二や同人社学生神津専三郎とともに選ばれて渡米、一八七五年(明治八年)九月、ニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学して一八七七年七月に卒業した。この間、校長シェルドンや教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、コーネル大学のアガシ(モースの師でもあった)の弟子ワイルダー教授に生物学を学んだ。明治一一(一八七八)年四月の帰国(この時、偶然、二度目の訪日のために同船していたモースと知り逢った)後は東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任して師範教育のモデルを創出した。その後,女子高等師範(現在のお茶の水女子大学)教授・校長などを歴任した(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。


「宮岡恒次郎」(慶応元・元治二(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)は明治一一年当時の高嶺秀夫の書生であった(「九歳の彼は同年

の私の男の子の遊び友達」とあるのは誤り。宮岡は東京大学予備門の生徒で十二歳であったのに対し、モースの息子ジョンは当時未だ七歳であった)。宮岡は後にフェノロサとも親しくなって、彼の美術品収集旅行の際の通訳を勤めて右腕のような存在となった。明治二〇(一八八七)年に東京帝国大学法科大学を卒業して外交官となり、後に弁護士となった。以上は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によるが、同書には宮岡のモースに関わる回想録が引用されている(一六〇~一六一頁)。「彼の兄」とあるのは次に示す通り、「竹中成憲」と同一人物。


「竹中成憲」竹中八太郎(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)。宮岡恒次郎の兄。明治八(一八七五)年に慶応義塾入学、次いで東京外語学校を経て、明治一三(一八八〇)年には東京大学医学部に入学、同二〇年に卒業後軍医を経て、開業医となった。実弟とともにモースやフェノロサの通訳や助手を務めた。以上も磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によるが、同書には竹中八太郎成憲の肖像写真が載る(二五八頁)。


「帝国大学の綜理ドクタア加藤」加藤弘之(天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)は政治学者・官僚。この明治一〇(一八七七)年に東京大学法文理三学部綜理となった。啓蒙思想家であったが晩年は国家主義に転向した。明治三九(一九〇六)年には枢密顧問官となった。モースが直接に契約を結んだの東京大学の代表者は彼である。


「副綜理ドクタア浜尾」浜尾新(はまおあらた 嘉永二(一八四九)年~大正一四(一九二五)年)は教育行政官・官僚。明治一〇(一八七七)年に法理文三学部綜理補として加藤を補佐した。後に文部大臣・東京帝国大学総長・内大臣・貴族院議員・枢密院議長などを歴任。


「ドクタア服部」服部一三(はっとりいちぞう 嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)は文部官僚・政治家。明治一〇(一八七七)年に浜尾新とともに法理文三学部綜理補であった(予備門主幹を兼任)。後に貴族院議員。これら加藤・浜尾・服部の三名が東京大学法理文三学部の最終決定権を掌握していた。


「学習院長立花伯爵」立花種恭(天保七(一八三六)年~明治三八(一九〇五)年)は元奥州下手渡(しもてど)藩(現在の福島県)藩主で幕府官僚。嘉永二(一八四九)年に藩主となる。大番頭を経て文久三(一八六三)年には若年寄に上り、明治元(一八六八)年一月に老中格、会計総裁となったが、徳川家の組織縮小に伴って罷免され、同三月に帰藩。次いで同年閏四月に上洛。藩領の半分は現在の福岡県筑後三池にあって、下手渡の藩士は奥羽越列藩同盟に参加、三池の藩士は新政府傘下にあったため藩組織は分裂、同年八月、奥羽鎮撫の朝命を受けるもこれが同盟離脱とみなされて仙台藩兵の攻撃で下手渡陣屋が焼失、翌九月、三池に移った。明治二年、三池藩知事。廃藩置県に伴って東京に移住、モース来日の同一〇(一八七七)年に華族学校(現在の学習院大学)初代校長となっていた。以後宮内省用掛・貴族院議員などを歴任(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]


 いろいろな点で助力を与えられた美術館の富田幸二郎氏及び平野ちゑ嬢に私は感謝する。また一緒に日本に行った私の娘ラッセル・ロッブ夫人は、私が記録しておかなかった多くの事件や経験を注意してくれた点で、ラッセル・ロッブ氏はタイプライタアで打った原稿の全部を批評的に読み、余計なところを削除し、句章を短くし、各方面にわたって粗雑なところを平滑にしてくれた点で、私は負う所が多い。最後に、呪詛(じゅそ)の価充分なる私の手記を読んでタイプライタアで打ち、同時に粗糙(そぞう)なるを流陽に、曖昧(あいまい)なるを平易にし、且つ絶間なく私を鞭撻(べんたつ)してこの仕事を仕上げさせてくれたマアガレット・ダブリュー・ブルックス嬢に対して、私は限りなき感謝の念を感じる。

E・S・M  

[やぶちゃん注:「富田幸次郎」(嘉永三(一八五〇)年~昭和元・大正一五(一九二六)年)は岡倉天心の弟子。一九〇七年にボストン美術館で天心の助手となり、一九三一年~一九六二年の永きに亙ってアジア美術部長を努めた。


「平野ちゑ」不詳。識者の御教授を乞う。


「ラッセル・ロッブ」“Russell Robb”。「夫人」は「私の娘」ともあるのだが不詳。磯野先生の本にも登場しない。識者の御教授を乞う。

「粗糙」肌理が粗いこと。


「マアガレット・ダブリュー・ブルックス嬢」「訳者の言葉」で既注済み。]

 

 

[やぶちゃん注:以下の目次はリーダと頁数を省略した。底本は三巻分冊であるが、この目次は三つを合わせて示した。目次の内、「1」末の藤川玄人の解説(著作権存続)の部分は省略した。]

     目  次


 序――モース先生(石川千代松)


 訳者の言葉


 緒 言


第 一 章 一八七七年の日本――横浜と東京


第 二 章 日光への旅


第 三 章 日光の諾寺院と山の村落


第 四 章 再び東京へ


第 五 章 大学の教授職と江ノ島の実験所


第 六 章 漁村の生活


第 七 章 江ノ島に於る採集


第 八 章 東京に於る生活


第 九 章 大学の仕事

 

第 十 章 大森に於る古代の陶器と貝塚


第 十一 章 六ヶ月後の東京


第 十二 章 北方の島 蝦夷


第 十三 章 アイヌ


第 十四 章 函館及び東京への帰還


第 十五 章 日本の一と冬

 

第 十六 章 長崎と鹿児島とへ

第 十七 章 南方の旅


第 十八 章 講義と社交


第 十九 章 一八八二年の日本

第 二十 章 陸路京都へ


第二十一章 瀬戸内海


第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし


第二十三章 習慣と迷信

 

第二十四章 甲山の洞窟

 

第二十五章 東京に関する覚書

 

第二十六章 鷹狩その他

 

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