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2013/08/06

夜に入り空曇る。船にかへり甲板にて釣を見る 六首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

   夜に入り空曇る。船にかへり甲板にて釣を見る


暗き夜を橘丸の舷側にアセチリン燃し釣る男あり


[やぶちゃん注:この詞書によって船中泊であったことが分かる。

「橘丸」は、この前年の昭和一〇(一九三五)年六月に商業航海を行ったばかりの東京湾汽船(現在の東海汽船)所属の、「東京湾の女王」と呼ばれた大型貨客船橘丸(一七七二トン/全長八〇・四〇メートル/型幅一二・二〇メートル)か。だとすると、ウィキ丸」にあるように大型船であったがために、当時の下田港(昭和一二(一九三七)年の岸壁の完成まで)や伊豆大島(昭和一五(一九四〇)年の岡田港完成まで)の港湾施設には「橘丸」は接岸が出来なかったとあるから、父島でもそれらの当時の港と同じく橘丸を沖合(恐らく二見湾内)に止めて交通船で往来していたものと考えられる。

 この二代目橘丸(一代目は同じ東京湾汽船が大正時代に建造し運航していた三九二トンの小型貨客船)については――見当違いであろうと脱線であろうと――どうしても語っておきたい(読めば何故かお分かり頂けるであろう。その戦時下の悲惨な運命以外にも、今一つ私好みの理由があるからである)。この橘丸は戦時中、陸軍病院船として徴用されるが、昭和二〇(一九四五)年八月三日、バンダ海を航行中に国際法に違反して部隊・武器輸送していたことが発覚、アメリカ海軍駆逐艦によって拿捕され(橘丸事件)、日本陸軍創設史上最も多い約一五〇〇名が捕虜となっている(この前後はウィキ橘丸事件に拠った)。五日後の八日に橘丸はモロタイ島に、敗戦前日の八月十四日にはマニラに入港、乗組員もモンテンルパ収容所に収容された(終戦後に安田喜四郎船長を除く乗組員は無罪として釈放されている)。その後、橘丸はパラオからウェーク島に回航され、ウェーク島からの復員船として復員兵の第一陣となった七〇〇名を乗せて十月二十日に浦賀に帰投した。その後の復員船としての活動は昭和二三(一九四八)年頃に終わり(ここから以下はウィキ丸」に拠る)、病院船としての設備を取り払った上で昭和二五(一九五〇)年二月二十三日付で東海汽船に戻った。大島航路に復帰後の「橘丸」は観光事情の回復とともに、漸く本来の実力を発揮するようになり、伊豆大島との往復の他に納涼船としても使用されたりした(あの昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」に登場する東京湾上の船がそれだ!)、その後も昭和三七(一九六二)年八月二十四日の三宅島噴火では海上自衛隊の護衛艦「わかば」などとともに避難民輸送に従事した。昭和四八(一九七三)年一月、初代「さるびあ丸」(三〇四九トン)の竣工に伴って引退した。就航から引退までの三十八年間に橘丸が運んだ乗客数は凡そ八百万人を数えたとある。その中の一人が中島敦だった(と無理矢理締めくくっておく)。]


アセチリンの光圈(くわうけん)の中に一本のつり絲垂れて下は夜の海


忽ちに水湧きさやぎ絲張りて手強(てごは)きが如し引きに引けども


跳(は)ね狂ひ濡れ光りつゝ船腹を尾もて叩き打ち上りくる魚


とび跳ねて喰ひつかむずる猛きもの虎鮫の仔と聞けば恐しき


[やぶちゃん注:「虎鮫」トラザメという標準和名は現在、軟骨魚綱板鰓亜綱メジロザメ目トラザメ科トラザメ Scyliorhinus torazame を指す(日本固有種で伊豆半島周辺海域にしか見られないイズハナトラザメ Scyliorhinus tokubee・英名“Izu cat shark”という種もいる。外見はトラザメに似るがトラザメよりも背部の小さな白色の斑点が有意に多い)。成体の体長は五〇 センチメートルで円筒形で鰭は小さい。二基の背鰭が体の後方にあり、体色は全体的に茶褐色を呈し、 “Cloudy catshark”という英名が示すように黒褐色の雲状斑紋が幾つかあり、それよりも小さな白斑が多数見られる(この模様は生活場所の岩や石の多い環境に溶け込むための擬態と考えられている)。底生性の夜行性で、日中は岩の間などに身を潜めて凝っとしており、夜になると餌を求めて遊泳する。卵生でトラザメ科ナヌカザメ(七日鮫)Cephaloscyllium umbratile (和名は生命力が強く水から揚げても七日間生きているとされることに由来)などと同様、大きさ五センチメートルほどの、半透明な竪琴状をした卵殻の中に胎仔が入っている『人魚の財布』と呼ばれる特徴的な卵を産む(リンク先画像を参照。外側の袋の端には蔓状の構造物があって、これで海藻などに絡みついて卵を固定しする。サメの胎仔は卵黄の栄養分を使いながら卵の中で約一年かけて成長、五 ~一〇 センチメートルの大きさで孵化する)。性格はおとなしく、人を襲うことはない。丈夫であまり泳ぎ回らず、小型種のため水族館は勿論、一般家庭での飼育にも適している、とウィキトラザメ」にある。しかし――この記載を読めば読むほど、私にはどうも違和感が増大してくるのである。――ここで中島敦が「虎鮫」と言い、「忽ちに水湧きさやぎ絲張りて手強」くて、「引きに引けども」なかなか揚がらず、「跳ね狂ひ濡れ光りつゝ船腹を尾もて叩き打ち上りくる魚」――「とび跳ねて喰ひつかむずる猛きもの」――それは「虎鮫の仔」であると船員が言う――それを見「聞けば恐し」く感じ、次歌のような血が飛び散った凄惨図となり果てるのは――本当に――トラザメ Scyliorhinus torazame なんだろうか?――という素朴な疑惑である。するとウィキの記載の最後が眼に入る。『トラザメ類は英語でCatshark (キャットシャーク)であり、Tigershark (タイガーシャーク)ではない。Tigershark と言うと本種とは反対の獰猛な大型種イタチザメになる。このように、サメの名前は日本語を英語に直訳しても通じないばかりか、別のサメを指してしまうことが多い。(例として同じメジロザメ科のツマジロは英語にすれば、Whitetip reef shark だが、海外ではSilvertip shark の事を指す。)』『因みにCatsharkを日本語に直訳すれば「ネコザメ」だが、日本でネコザメといえばまた別種のサメになる。ネコザメの海外名は bullhead shark で、”牛頭鮫”という意味になる』とある。私ははたと手を打った。これは船員がこれを英名で「タイガー・シャーク」と言ったのを、そのまま訳したのではあるまいか? 則ち、この「虎鮫」はトラザメ Scyliorhinus torazame ではなく、『人喰い鮫』の一種で、熱帯地方では最も危険なサメとされているメジロザメ科イタチザメ Galeocerdo cuvier のことを指しているのではあるまいか? 私はこれら一連の短歌はイタチザメであってこそ鮮烈でリアルになると思うのであるが、如何であろう?]

棍棒もて打ち殺されし鮫の仔の白き腹濡れて淡血(うすち)流れゐる

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