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2013/08/11

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 28 角兵衛獅子 / モース先生江の島洲鼻にてキレるの図 * 第7章 了

 藤沢へ着く前に、私は奇麗な着物を着た人達が、街路をゾロゾロ歩いて行くのを見た。娘達(大人のある者さえも)は美しい紅色の下着を着ていたが、これは一般に見受ける藍色の衣類にくらべて、気持のよい変化であった。藤沢へ入ると、大変な群衆である。あるお寺の段々から白衣を身につけ、頭に自由帽(自由の表章として着ける半卵形の緊身帽)に似た茶色の帽子をかぶった男が四、五十人、肩に祠の雛形みたいな物を担いで下りて来た。先頭には太鼓があり、これをドンドンドンと三度ずつ、ゆっくりした単調な調子で叩く。明かに何事かが行われつつあるのである。私は身振り手振りで車夫達に、それが何であるにせよ、とにかく止って見たいのだということを伝えた。そこで彼等は横町に車を引き入れ、私はノロノロと子供、大人、玩具店の間を縫って歩いた。全部の光景は市に似ていた。ある種の芝居みたいなものを、やっている真っ最中だった。一人の男が勢よく太鼓を叩きながら、大きな声で、背後に並べられた人像彫刻のようなものに、人々の注意を引いていた。この見世物の入場料が、一セントの十分の一だということを知らぬ私は、二セント出した所が、男は非常にうやうやしく礼をいったあげく、入場券を渡したが、それは長さ一フィートの木の札だった。この見世物は一種の奇妙な天幕の内で行われ、長さ七フィートばかりの舞台があって、少数の観客がそのすぐ前に立っていた。この国の人達は皆背が低いので、彼等から見たら私は巨人と思えるであろう。いずれにせよ、私はまるで竹馬にでも乗ってるような具合に、彼等全部の頭ごしに見ることが出来た。だが見物人が見世物を見ないで私をみつめ、低い声で「イジンサン」といいあうのを聞くのは、いささかいやだった。「イジンサン」は「異った人々」で、即ち「外国人さん」の意味である。

[やぶちゃん注:この祭りは何だろう。一つの候補であるが、現在の藤沢市大鋸の遊行寺向かいの、国道一号線遊行寺坂沿いにある諏訪神社例大祭で八月二十七日に行われる神幸祭で神輿が町内を巡行する描写ではなかろうか(明治十年代にこの日程で行っていたかどうかは分からないが、現在は同日に行っている)。郷土史研究家の御教授を乞うものである。

「自由帽に似た茶色の帽子」原文“curious brown paper hats, resembling liberty-caps”。底本では「自由帽」の直下に石川氏の注で『(自由の表章として着ける半卵形の緊身帽)』とある。“liberty-caps”は通常はハイフンなしで、自由帽、古代ローマに於いて解放された奴隷に解放の印として与えられた円錐形の帽子を指す。これは神官や神人(じんn)が被っている烏帽子とみて間違いない。後半は香具師による舞台興行らしい。]

 

 舞台へは子供が二人、一緒に出て来た。その一人はカンガルーみたいな装をしていて、カンガルーみたいに飛び廻り、他の一人は小さな太っちょに扮し、それ迄に見たこともない程奇怪極るお面をかぶっていたが、その姿はジョン・ギルバートが描いたフォルスタフの絵を思わせた。こんなに背を低く見せるために、女の子は脚を曲げていたに違いない。彼等は暫時踊って子供達をよろこばせた。

[やぶちゃん注:これは所謂、角兵衛獅子である。ウィキの「角兵衛獅子」によれば、越後獅子が江戸に来たのは宝暦五(一七五五)年のことで、諸侯へ召し出されて獅子冠(ししかむり)を演じた親方が角兵衛であったから角兵衛の獅子・角兵衛獅子となったともいわれる。信濃川中流部の中之口川沿岸の農民角兵衛が毎年の凶作や飢饉から村人を救うために獅子舞を創案して(後述)、それが児童が中心として演じる大道芸となったものであるとする。七歳以上、十四、五歳以下の児童が、縞模様のもんぺと錏(しころ:兜の鉢の左右から後方に垂れて頸を覆うもの。)の付いた小さい獅子頭を頭上に頂いた格好で演じる。獅子頭の毛には鶏の羽根が用いられ、錏には紅染の絹の中央に黒繻子があしらわれている。人員構成は本来は獅子舞四名・笛吹一人・太鼓一人の計六名(これより少ないと定められた曲が出来なかった)であったが、後に獅子舞に二名と笛吹兼太鼓一名が増え、九名構成となった。このうち、笛吹き又は太鼓打ちを「親方」と呼ぶ。親方は曲名を告げ、掛け声調子を取って、獅子舞はその指示に従って芸を演じた。なお、江戸後期の百科随筆「嬉遊笑覧」(喜多村節信(ときのぶ)著・文政一三(一八三〇)年成立)では『越後獅子を江戸にては角兵衞獅子といふ。越後にては蒲原郡より出づるに依りカンバラ獅子といふとぞ、角兵衞獅子は、恐らくは蒲原獅子の誤りならむ』と考証している。『娯楽業者の群』大正一二(一九二三)年実業之日本刊)では、洪水に悩まされた現在の新潟県西蒲原郡に月潟村の者が堤を造る費用を得るために、子供に越後の獅子踊りをさせて旅稼ぎをさせたのが始まりで、江戸時代には、越後から親方が連れて各地を訪れていたが、大正時代の東京では、東京に定住した新潟出身者が行なっていたとある。

「ジョン・ギルバート」イギリスの画家 John Gilbert(一八一七年~一八九七年)のことか。

「フォルスタフ」サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)。シェイクスピアの作品に登場する架空の人物である大兵肥満の老騎士の名(ウィキの「フォルスタッフ」を参照されたい。]

 

 この見世物の目新しさをしばし楽しんだ後、私はまた人力車に乗って、晩の八時頃海岸へ着いた。波は依然として荒れ狂い、岸には男が十人ばかり、盛に手真似身振りで、全力を尽して私に何事かを了解させようとしていた。真暗だったので容易に解らなかったが、気がつくとその朝三時、橋の末端をなしていた所には、大きな残骸の破片があるばかりで、橋は無くなっていた。私は舟をやとおうとした。すると男達は極めて簡単に手をひっくり返して見せて、舟もひっくり返るということを示した。今から思うと全く恥しい位私は激怒したものである。すくなくとも十二人は集っていたが、それに加うるに裸の漁師が二、三十人、中にはサケの香をプンプンさせているのもあり、皆手真似をしながら、大きな声で私に何かいって聞かせようとする。私は私で「エノシマ」と吐鳴(どな)りながら、今や行くことの出来ぬ島を指さした。私は吐鳴ったが、これは自分の言葉が通じないと、無意識に彼等を聾(つんぼ)だと思うからである。彼等も同様な衝動に煽られていた。最後に私は横浜まで歩いて帰るといって威嚇し、すこし海岸から歩き去って、つかれ切っていたので、汐の引くのを、じりじりしながら待った。遂に私はある男の肩に乗って渡ったが、橋が完全に無くなっているのを見ては、驚かざるを得なかった。宿屋へ着いて聞くと、橋は我々が渡った直後に押し流されたそうで、事実、我我が渡っている最中に流されつつあったのである。危い所であった。

[やぶちゃん注:またしても幻の(ここでは本当に幻になっている)桟橋が登場する。このモースに駄々っ子が極点に達するシーン、情景が目に浮んできて、私は個人的にとっても、好きなんである。]

 

 私の宿屋の亭主は、前日ハミルトン氏の一行から、言語道断の暴利をむさぼった。それで私は宿屋へ着くや否や、荷物を全部ひっくるめて、往来をはるか下った所にある別の宿屋へ行った。私の外日本人二人も一緒に引越し、また大学から私にあいに来たドクタア・ヴューダーにも、移ることをすすめた。今迄いた家に次ぐいい旅館を持っている立花は、それ迄も私を親切に取扱ったが、よろこんで我々をむかえた。

[やぶちゃん注:「私の宿屋の亭主は、前日ハミルトン氏の一行から、言語道断の暴利をむさぼった」モースの定宿であった岩本楼と思われる。しかし、前日に来訪したハミルトン一行は別な宿屋(恐らく「恵比寿屋」)に泊まっているから、この「言語道断の暴利をむさぼった」というのは、岩本楼でモースはハミルトンらと夕食をともにしたが、その時のハミルトンらへの請求金額が暴利だったということか? ここまでの岩本楼とモースのと関係が特に悪くないだけに不審である。この前日からの尋常でない経験の中、前段の島へ渡る直前などもモースはメータ―振りきれ、相当にヒート・アップしていた感じで、ちょっとしたことが逆鱗に触れたか、もしくは何らかの誤解によって、この挙に出たという感じがしないでもない。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは翌明治一一(一八七八)年の九月十五日から十七日まで家族同伴で江の島を再訪しているが(研究や採集はしていない模様)、この時もやはり岩本楼ではなく、この立花屋に宿泊している。

「ドクタア・ヴューダー」ヴィーダー(Peter Vrooman Veeder 一八三五年~一八九六年)お雇いアメリカ人数理学教師。ニューヨーク州生まれ。同州のユニオン・カレッジを卒業後、教師を勤めた後に神学校に入って牧師となった。さらにサンフランシスコのシティ・カレッジの学長を務め、ユニオン・カレッジからは神学博士の学位を授与されている。大学南校(東京大学の前身)の教頭であったフルベッキの紹介によって明治四(一八七一)年三十六歳で来日して理学教師となり、同校が東大となってからも理学部で物理学・数学などを教授した。東大のある本郷から富士山が見通せる日の記録を十箇月間に亙って付け続けたことでも知られる。妻もまた文部省の設けた最初の官立女学校で英語を教えた。モース来日の翌明治十一年に帰国、アメリカで大学教授の職についた(「朝日日本歴史人物事典」による)。]



これを以って「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集」を終わる。

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