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2013/09/30

嘔吐 藤森安和

   嘔吐

岩波写真文庫の
ページを
私はめくった。
初めに
原爆被害市
広島
長崎が私の
眼の前にあらわれた

鉄骨の壁は
腐敗した
人間の肉のように
爛れ
木材の建物は
黒い灰のまま
くずれ
形が残り。
爛れずにいる
鉄筋の壁には
人間のとけた
黒い
死にあとがある。
人間。
女の頭は
男のように
丸坊主。
坊主頭の上には
ケロイドの山があり
男の胸には
ケロイドの
乳山がある。
男女とも
背中と言わず

手に
ケロイドの
溶岩が流れている。

彼らは
おのれの苦しみを
敵にふきかけようと
隣を見る。
だが
隣りにも
おれと同じ
苦しみになやむ
同伴を見る。
同伴からそらした
気違いの眼を
空に向ける。

  *

次のページには
ボディビルの肉体と
ストリッパーの肉体
がある。

  *

私は
二ページ目の
人間だ。
あの原爆被害者より
百倍も幸福なのに
不幸だと言って
悲感し
姦婦の堕落した
肉体を
もてあそんでいる。

私は
幸福な人間なのだ。
マッチのケロイドに
死んでしまうと
叫ぶ
人間なのだ。



(藤森安和「十五才の異常者」昭和三五(一九六〇)年荒地出版社刊より)

綾鼓

ふと能の「綾鼓」を思い出し、綴りたくなった。――



 
   綾鼓(あやのつづみ)

女御(ツレ)に恋慕した庭掃きの老人(シテ)は、廷臣(ワキ)を通して伝えられた女御の池の畔りの桂木に吊るした鼓を打ってその音(ね)が聴こえたら姿を見せてやると伝える。老人は懸命に鼓を打つ。

シテ「げにや承り及ぶ月宮(げつきう)の月の桂こそ、名にたてる桂木(けいぼく)なれ、これは正しき池邊(ちへん)の枝に、掛かる鼓の聲(こゑ)出でば、それこそ戀の束(つか)ねなれと、〽夕(いふべ)の鐘の聲そへて、また打ち添ふる日並(ひなみ)の數。
地謠〽後(のち)の暮(くれ)ぞと賴め置く、後の暮ぞと賴め置く、時の鼓を打たうよ。
シテ〽さなきだに闇の夜鶴の老の身に、
地謠〽思ひを添ふるはかなさよ〔シオリ〕。
シテ〽時の移るも白波の、
地謠〽鼓は何(なに)とて、鳴らざらん。
シテ〽後の世の近くなるをば驚かで、老に添へたる戀慕の秋。
地謠〽露も涙もそぼちつゝ、心からなる花の雫の、草の袂に色添へて、何を忍(しのぶ)の亂れ戀(ごひ)。
シテ〽忘れんと思ふ心こそ。
地謠〽忘れぬよりは思ひなれ。
地謠〽しかるに世の中は、人間萬事、塞翁が馬なれや、隙(ひま)行く日數移るなる、年去り時は來れども、つひにゆくべき道芝(みちしば)の、露の命の限りをば、誰(たれ)に問はましあぢきなや、などさればこれほどに、知らばさのみに迷ふらん〔シオリ〕。
シテ〽驚けとてや東雲(しののめ)の、
地謠〽眠りを覺ます時守(ときもり)の、打つや鼓の數繁く、音に立たば待つ人の、面影もしや御衣(みけし)の、綾の鼓とは知らずして、老の衣手(ころもで)力添へて、打てども聞えぬは、もしも老耳(ろうに)の故やらんと、聞けども聞けども、池の波窓の雨、いづれも打つ音(おと)はすれども、音(おと)せぬ物はこの鼓の、あやしの太鼓や、何とて音(ね)は出でぬぞ〔シオリ〕。

――しかしその鼓は皮の代わりに綾を張ったもの――幾ら打っても音は出ぬ。……

地謠〽思ひやうちも忘るゝと、綾の鼓の音(ね)もわれも、出でぬを人や待つらん。
シテ〽出でもせぬ、雨夜(あまよ)の月を待ちかぬる、心の闇を晴らすべき、時の鼓も鳴らばこそ。
地謠〽時の鼓のうつる日の、昨日今日とは思へども。
シテ〽賴めし人は夢にだに、
地謠〽見えぬ思ひに明暮(あけくれ)の、
シテ〽鼓も鳴らず、
地謠〽人も見えず、こは何(なに)と鳴神(なるかみ)も、思ふ仲をば放(さ)けぬとこそ聞きしものをなどされば、か程の緣なかるらんと〔シオリ〕、身を恨み人を託(かこ)ち、かくては何(なに)のため、生(い)けらんものを池水(いけみづ)に、身を投げてうせにけり、憂き身を投げて失せにけり。

――悲嘆に暮れた老人は池水に入水し、果てる――
《中入》
――廷臣(ワキ)が女御に老人の死を告げる。池畔に立つ女御(ツレ)――その様子は何か妖しげである――

ツレ〽いかに人々聞くかさて、あの波の打つ音(おと)が、鼓の聲に似たるはいかに。
ツレ〽あら面白の鼓の聲や、あら面白や。
ワキ〽不思議やな女御の御姿(おんすがた)、さも現(うつつ)なく見え給ふは、いかなる事にてあるやらん。
ツレ〽現なきこそ理(ことわり)なれ、綾の鼓は鳴るものか。鳴らぬを打てと言ひし事は、我が現なき初めなれと、
ワキ〽夕波(いふなみ)騷ぐ池の面(おも)に、
ツレ〽なほ打ち添ふる、
ワキ〽聲ありて。

――老人の霊が出現し――

後シテ〽池水(いけみづ)の、藻屑となりし老の波、
地謠〽また立ち歸る執心の恨み、
後シテ〽恨みとも歎きとも、言えばなかなかおろかなる。
地謠〽一念嗔恚(しんに)の、邪婬の恨み、晴れまじや、晴れまじや、心の雲水(くもみづ)の、魔境(まきやう)の鬼(おに)と今ぞなる。
後シテ〽小山田(おやまだ)の苗代水(なはしろみづ)は絶えずとも、心の池の言ひは放なさじとこそ思ひしに、などしもされば情(なさけ)なく、鳴らぬ鼓の聲立てよとは〔ツレへ向く〕、心を盡し果てよとや〔ツレの方へ一歩出、杖を以って床を突き鳴らす〕。
後シテ〽心づくしの木(こ)の間の月の、
地謠〽桂(かつら)にかけたる綾の鼓〔両の手を合わせ、鼓を見つめる〕、
後シテ〽鳴るものか〔ツレへ向く〕、鳴るものか、打ちて見給へ〔ツレの方へ一歩出、杖を棄てる〕。
地謠〽打てや打てやと攻め鼓〔ツレへ寄る〕。寄せ拍子(びやうし)とうとう、打ち給へ打ち給へとて〔ツレの胸を執って引き立てる〕、笞(しもと)を振り上げ責め奉れば〔打ち杖を振り上げる〕、鼓は鳴らで悲しや悲しやと〔ツレ、シオリ〕、叫びまします女御の御聲(おんこゑ)、あららさて懲りやさて懲りや〔右手でツレを指して足拍子〕。
地謠〽冥途の刹鬼(ぜつき)阿防羅刹(あばうらせつ)〔足拍子〕、冥途の刹鬼阿防羅刹の、呵責(かしやく)もかくやらんと、身を責め骨を碎く、火車(くわしや)の責めといふとも〔足拍子、正面へ〕、これにはまさらじ恐ろしや、さて何(なに)となるべき因果ぞや〔ツレへ向いて一歩出る〕。
後シテ〽因果歷然は目(ま)のあたり、
地謠〽歷然は目のあたり〔足拍子〕、知られたり白波の、池のほとりの桂木(けいぼく)に〔作り物を指す〕、掛けし鼓の時も分かず〔打ち杖を振り上げて作り物に登る〕、打ち弱り心盡きて〔下る〕、池水(いけみづ)に身を投げて〔安座す〕、波の藻屑と沈みし身の、程もなく死靈(しりやう)となつて〔立つ〕、女御に憑き祟つて〔ツレを凝視す〕、笞(しもと)も波も打ち叩く〔立って打ち杖を揮う〕、池の氷(こほり)の東頭(とうとう)は〔見回し、足拍子〕、風渡り雨落ちて〔左袖で被(かず)く〕、紅蓮大紅蓮(ぐれんだいぐれん)となつて〔角へ〕、身の毛もよだつ波の上に〔足拍子〕、鯉魚(りぎよ)が踊る惡蛇となつて〔左から周って常座へ〕、まことに冥途の鬼といふとも〔左袖を返し、ツレへ向き直る〕、かくやと思ひ白波の、あら恨めしや恨めしや〔中央へ〕、あら恨めしや、恨めしの女御やとて〔周って常座へ〕、戀の淵にぞ入りにける〔両手を打ち杖に添えて膝をつく停まる〕。

[やぶちゃん注:引用本文の底本は小学館の「日本古典全集 謡曲集(2)」を元にしたが、総て恣意的に正字化し、また平仮名表記の一部を漢字に変えてある。一部の読みを省略したり、追加したりしている。一部に入れた所作(主にシテのそれ)は同書を参考にしたが、同じ言い方を用いずに私が分かり易いと判断する表現に変更してある。]

黄色い春 北原白秋

   黄色い春

黄色(きいろ)、黄色(きいろ)、意氣で、高尚(かうと)で、しとやかな
棕櫚の花いろ、卵いろ、
たんぽぽのいろ、
または仔猫の眼の黄いろ‥‥
みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、
夕日黄いろく、粉(こな)が黄いろくふる中に、
小鳥が一羽鳴いゐる、
人が三人泣いてゐる、
けふもけふとて紅(べに)つけてとんぼがへりをする男、
三味線彈きのちび男、
俄盲目(にはかめくら)のものもらひ。

街(まち)の四辻、古い煉瓦に日があたり、
窓の日覆(ひよけ)に日があたり、
粉屋(こなや)の前の腰掛に疲れ心の日があたる、
ちいちいほろりと鳥が鳴く、
空に黄色い雲が浮く、
黄色、黄色、いつかゆめ見た風も吹く。

道化男がいふことに
「もしもし淑女(レデイ)、とんぼがへりを致しませう、
美しいオフエリヤ樣、
サロメ樣、
フランチエスカのお姫樣。」
白い眼をしたちび男、
「一寸、先生、心意氣でもうたひやせう」
俄盲目(にはかめくら)も後(うしろ)から
「旦那樣や奧樣、あはれな片輪で御座います、どうぞ一文。」
春はうれしと鳥も鳴く。

夫人(おくさん)、
美しい、かはいい、しとやかな
よその夫人(おくさん)、
御覽なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも
黄色い木の芽の粉(こ)が煙り、
ふんわりと沁む地のにほひ、
ちいちいほろりと鳥も鳴く、
空に黄色い雲も浮く。

夫人(おくさん)、
美しい、かはいい、しとやかな
よその夫人(おくさん)、
それではね、そつとここらでわかれませう、
いくら行(い)つてもねえ。

黄色、黄色、意氣で高尚(かうと)で、しとやかな、
茴香(うゐきやう)のいろ、卵いろ、
「思ひ出」のいろ、
好きな仔猫の眼の黄いろ、
浮雲のいろ、
ほんにゆかしい三味線の、
夢の、夕日の、音(ね)の黄色。

「東京景物詩」より。底本は昭和25(1950)年刊新潮文庫「北原白秋詩集」。同詩集では昨日の「新生」の直後に配されてある。

「フランチエスカのお姫樣」はダンテの「神曲」の「地獄篇」の登場人物フランチェスカ・ダ・リミニのこと。ラヴェンナ領主グイド・ダ・ポレンタの娘で、父の政争の道具にされて容貌醜悪で足の不自由なリミニ領主ジョヴァンニ・マラテスタへ嫁がせようとするが、ジョヴァンニは足が不自由で容姿も醜くく、事前に彼女が激しい嫌悪感を抱いていることを知って、美少年のジョヴァンニの弟パオロ・マラテスタを替え玉にして結婚式を挙げる。お決まりのようにフランチェスカとパオロは恋に落ちるが、フランチェスカは結婚式翌日の朝まで自分が騙されていることに気づかなかった。後日、二人の抱き合う様を見たジョヴァンニによってパオロとともに殺された(ウィキの「フランチェスカ・ダ・リミニ」を参照した)。

「サンシユユ」は山茱萸でミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis。晩秋に紅色の楕円形の実をつける、通称ヤマグミのこと。高さ3~15メートルになる落葉小高木で樹皮は薄茶色、葉は互生で楕円形、両面に毛がある。三月から五月にかけて若葉に先立って花弁が四枚ある鮮黄色の小花を木一面に集めて咲かす。花弁は四個で反り返る(以上はウィキの「サンシュユ」に拠る)。

耳嚢 巻之七 郭公狂歌の事

 郭公狂歌の事

 

 元の木阿禰といへる、狂歌詠(よみ)に春夏のうつりかはる氣色詠(よみ)得たり迚見せける。

 

  春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狂歌連関。

・「元の木阿禰」狂歌師元木網(もとのもくあみ 享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。姓は金子氏、通称は喜三郎、初号は網破損針金(あぶりこのはそんはりがね)。晩年は遊行上人に従って珠阿弥と号した。壮年の頃に江戸に出、京橋北紺屋町で湯屋を営みながら国文・和歌を学び、同好の女性すめ(狂名、智恵内子(ちえのないし)。「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」に既出)と結婚後、明和七(一七七〇)年の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)宅での狂歌合わせに参加して以来、本格的に狂歌に親しむようになる。天明元(一七八一)年に剃髪隠居して芝西久保土器町に落栗庵(らくりつあん)を構え、無報酬で狂歌指導に専念した。数寄屋連をはじめ門人が多く、「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」(「狂歌師細見」)と称されて唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)と並ぶ狂歌壇の中心的存在となった。寛政六(一七九四)年には古人から当代の門人までの狂歌を収めた「新古今狂歌集」を刊行している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「春夏の氣違いなれやきのふまでわらひし山に啼時鳥」「氣違(きちがひ)」は「季違ひ」と狂人の意の「氣違ひ」の掛詞。岩波の注で長谷川氏は、『笑うは花の咲くことをいう。花は春でほととぎすは夏、それで季違い』となり、『春と夏と季節が変わったからか昨日まで花の咲いていた山にはほととぎすが鳴』いているように、さっきまで『泣いていた者が急に泣出すとは狂人のよう』という人事を詠じたものという風に読めるように評釈されておられる。しかしここは、「春夏のうつりかはる氣色詠得たり」という前書から考えるなら、素直に(といってもトンデモ歌語ではあるが)、自然を人事のそれに喩えたもののように思われるが、如何?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 郭公(ほととぎす)の狂歌の事

 

 元の木阿禰と申す、狂歌詠みが、「春夏の移り変わる景色を詠み得たり」とて見せたという、その狂歌。

 

  春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥

蒲公英の忘れ花あり路の霜 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   蒲公英(たんぽぽ)の忘れ花あり路の霜

 

 小景小情。スケツチ風のさらりとした句で、しかも可憐な詩情を帶びてる。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(10) 「危険がアブナい」歌

いつはりと吾は知れりけり吾が知るを知りていつはるをみなにくしも

[やぶちゃん注:別案として、

いつはりと吾は知れりけり吾が知るを知りていつはるをみな淋しも

が提示されている。これ以降もまた、すこぶる「危険がアブナい」歌群と思う。]

人の世のひたむき心哂ふとふをみなにくしもくちうすくして

[やぶちゃん注:「哂ふ」は「わらふ」。]

思ひ詰めし戀ならなくに秋の夜は何か寂しもいく日あはずて

[やぶちゃん注:別案として、

思ひ詰めし戀ならなくに秋の夜は何か寂しも別れ來ぬれば

が提示されている。]

あふもうしあはぬもうたてしかすがにあきの夕はあはむとぞ思ふ

[やぶちゃん注:以下、三箇所の別案が示されているが、「うし」→「よし」と「うたて」→「よかれ」は組と考えて復元しておく。

あふもうしあはぬもうたてしかすがにあきの夕は如何にとぞ思ふ

あふもよしあはぬもよかれしかすがにあきの夕はあはむとぞ思ふ

あふもよしあはぬもよかれしかすがにあきの夕は如何にとぞ思ふ

「しかすがに」然すがに。既注済み。そうはいうものの。]

朝曇心しらじら思ふこと別れむ時にはやもなりしか

[やぶちゃん注:「しらじら」の後半は底本では踊り字「〲」。別案として、

朝曇心さみしく思ふこと別れむ時にはやもなりしか

が提示されている。]

よりそへど心かたみに通はずよはや別れむとおもひなりぬる

わかれむと心さだめて踵高の鋪道ふむ音さみしらにきく

[やぶちゃん注:「踵高」ハイヒールの意であろうが読み不明。「しようたか(しょうたか)」か?]

天鷲絨の上衣の胸の膨らみをじつと見てをり何かひえびえ

[やぶちゃん注:「ひえびえ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

いにしへはこひに死なむといひけらし末世の戀のなどあさましき

[やぶちゃん注:別案として、

いにしへはこひて死なむといひけらし末世の戀のなどあさましき

が提示されている。]

いにしへは人をこほしく死にけらし末世の戀のなどあさましき

[やぶちゃん注:前の一首の別稿と思われる。]

公園をいでゝ鋪道のすゞかけの下に別れぬ知らぬ人のごと

[やぶちゃん注:別案として、

公園をいでゝ鋪道のすゞかけの下に別れし知らぬ人のごと

が提示されている。]

別れきてひたに大空仰ぎけり空はうれしも見れど飽かなく

朝ぐもり掘割のへにシュニッツラァのアナトオルなど想ひけるかな

[やぶちゃん注:「シュニッツラァのアナトオル」七つの一幕物からなる戯曲。新妻のいる色男の青年アナトールを狂言役にその場限りの享楽的刹那的な恋愛に身を任す若者たちが描かれる、妖婦や密会がアイテムの芝居。]

七段目のおかるならねどこの道のまことそらごとけじめ知らずも

[やぶちゃん注:「七段目のおかる」「仮名手本忠臣蔵」で塩冶家家臣早野勘平は主君刃傷の日に恋仲の腰元お軽と逢引していたために失態を演じ、おかるの実家に身を寄せていたものの、誤っておかるの父を殺し、結局、切腹する(六段目)。七段目はその後の景で、傷心のおかるは由良助に呼ばれて京都祇園一力茶屋の遊女となっており、芝居を演じている由良助に身受けされることになっている。そこで佞臣九太夫の間諜による仇討ちの露見未遂の一件が演じられ、仇討ちに加わりたい一心から実兄平右衛門の覚悟の切かけを受け、納得づくで自害しかけるが、由良助の計らいで九死に一生を得、亡父亡夫の追善に生きるという設定になっている。おかるの作品内の人格や設定というより、七段目の芝居自体の展開部の内容が「まことそらごと」の「けじめ知らず」の構成ではある。]

あによりもあをなつかしとたまもなすよりにしこゝろかなしとおもふ

[やぶちゃん注:この一首、何か、驚天動地の新しい事実を我々に伝えているのかも知れない。]

しろい火の姿 大手拓次

 しろい火の姿

わたしは 日(ひ)のはなのなかにゐる。
わたしは おもひもなく こともなく 時のながれにしたがつて、
とほい あなたのことに おぼれてゐる。
あるときは ややうすらぐやうに おもふけれど、
それは とほりゆく 昨日(きのふ)のけはひで、
まことは いつの世に消えるともない
たましひから たましひへ つながつてゆく
しろい しろい 火のすがたである。

鬼城句集 秋之部 案山子/鳴子

案山子   谷底へ案山子を飛ばす嵐かな

      山かげの田に弓勢の案山子かな


[やぶちゃん注:「弓ン勢の」弓勢(ゆんぜい)は「ゆみせい」の音変化で、元来は弓を引っ張る力量、弓を射る力の強さを指すあ、ここは弓を目いっぱい引いたなりの(案山子)の謂い。]


鳴子    里犬を追出してゐる鳴子かな

ラストに電車に押し潰される夢

僕は横浜駅近くの図書館でかつての同僚教員相手の研修会で発表をしている。
[やぶちゃん注:場所は平沼高校辺りの架空の施設である。]

内容は河合隼雄ばりの日本昔話の深層心理である。次のような質問を立て続けに参加者に指名で投げかけている。
――浦島太郎は何故玉手箱を開けて老人、古形では白鳥にならねばならなかったか? その白煙や白鳥の「白」は何をシンボルするのか?
――かぐや姫は何故前半と後半で人格が豹変せねばならないのか? 富士から永遠に立ち上り続ける燃え切ることのない不老長寿の焼却の煙と浦島の玉手箱の白煙はどこか似ていないか?
――花咲か爺さんがときじくの花を再生する「灰」と浦島の「白煙」と竹取の霊薬の「煙」とは皆軌を一にした象徴ではないか? ポチとは原型に於いて本当は「犬」ではなかったのではないか?
そう問う僕には、それらについて明瞭で驚天動地の意外な解答を持っているらしいこと、その答えにすこぶる自信を持っていることがその表情から汲み取れた。
[やぶちゃん注1:この中の前の二つ、「浦島太郎」と「竹取物語」についての疑問は私が教師時代に授業で投げかけた問題を含むが、私はそれを明らかにする明確な仮説を持っている訳ではない。三番目のものは何か性的な分析結果を夢の中の僕は持っているらしく感じられた。]
[やぶちゃん注2:この夢を私は第三者として、映画のマルチ・カメラの様に、多様な角度から眺めている。ないわけではないが、私の夢は一人称夢が多く、比較的珍しい。ただこれは、後のカタストロフ場面でリアルでショッキングな効果を発揮していたことは事実である。]

聴いている同僚たちは如何にも退屈そうで、疲れた顏をしている。
[やぶちゃん注:この手の研修は翠嵐時代の終わりによくやらされたし、聴きもした。但し、結構、面白おかしくやっていた。ただ、擦り切れるような多忙の中でやらされていたから、誰もが肉体的には限界的に疲れていたようには思われる。]

そこに突然、津波警報が発令される。
全員が退避するのだが、向いにある踏切の前に立って見ていると、電車は殆んど止まりかけている。
私は線路沿いに横浜駅に向かおうとする。
細い路地を通るとコンクリを打っていない土の地肌の出たところに踏み込んだとたん、端の方に巨大な陥没が出来て、一瞬内に水が吹き出し、地面が液状化、その泥が今度はその穴に激しく吸い込まれてゆく。僕はそれに足を採られてその穴の奈落に落ちそうになるが、辛うじて逃げ延びて走っている(この前後の映像はややスローモーションがかかって見易くなっている)。

続く風景は北海道の田舎の駅の荒寥寂寞とした雰囲気である。
とある小学校のプールに裏口から入り込んでしまって、そこで不審者とすてとがめられそうになる。「津波から退避しようとしてあそこの裏口から誤って迷い込んだのです。怪しい者ではありません。近くの翠嵐高校の教員です」と謝ると、その事務長らしい男性は扉を開けて出してくれながら、「誰もがそうした肩書で許してくれると思うものさ」と皮肉を言った。
[やぶちゃん注:このシーンの元はかなり分かり易い。北海道の田舎の駅の光景や小学校の事務長というのは、間違いなく昼間見たNHKの「こころ旅」のマンマ。肩書云々というのは例の経済産業省のキャリアへの怒り心頭に発している意識の表われと解釈出来よう。]

横浜駅に近づく[やぶちゃん注:言わずもがなであるが似ても似つかぬもの。]。高速の高架があってその下の僕が歩いている路上のすぐ脇を路面電車のように相模線の線路が走っていて、それに直角にクロスして(!)JRが走っている。避難民で満員の相模線が物凄いスピードで走って来る。――あのスピードは危ない!――と思った瞬間[やぶちゃん注:この辺りは福知山線事故の無罪判決の影響だろう。]、高速の橋脚に接触、脱線し、二つほど車輌は右半分が完全に切断される。反対側の左座席に座っていた乗客の無数の足が力なく中空にぶら下っている。それが皆、若い女性の真っ白な足である[やぶちゃん注:不気味ながらこれも分かりがいい。「こころ旅」で火野正平が盛んに若い女性の生足を目で追いかけるのを、カメラもなぞっていた、その意識残像と見て間違いないからである。]。僕は線路のクロスする近くに茫然と立ち竦んでいる[やぶちゃん注:カメラは二十メートル以上離れた橋脚下から広角で撮っている。]。そこにまた猛スピードで東海道線が突っ込む。――白煙が辺りに立ち込める。カメラは累々たる残骸と血まみれのまま動かない負傷者達を捕りながら、平行にトラックして、画面が乱れ流れる――(FO)
[やぶちゃん注:最後の立ち位置から見てラストで僕自身は電車に押し潰されてしまったものと思われる。]

アリス8歳の誕生日

二十六夜(旧暦八月二十六日)
月の出  0:47
月正中(今から凡そ3時間後の朝7:40に南中)
月の入 14:27

(今日までフェイスブックとミクシィでは約束通り、これらを示して月を毎日見てきた)

――5:00――南東の中空に――井戸のような丸あるい雲間があってそこに下弦の月が浮かんでた……
今日の日の出は5:35――もうじき……

――今日は三女アリスの8歳の誕生日――“Here's looking at you, Alice!”

2013/09/29

芥川龍之介 江南游記 教え子T.S.君の探勝になる白雲寺写真追加

芥川龍之介「江南游記」に教え子T.S.君の探勝になる白雲寺の写真を注に追加した。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 12 不思議な釣り人?

M44


図―44

 とある川の岸で、漁夫が十本の釣り竿を同時に取扱っているのを見た。彼は高みに立って扇の骨のように開いた釣竿の端を足で踏んでいる。このようにして彼は、まるで巣の真ん中にいる大きな蜘蛛(くも)みたいに、どの竿に魚がかかったかを見分けることが出来るのであった(図44)。
[やぶちゃん注:私の父は鮎の毛鉤釣りのプロで、川漁にも詳しいが、このような釣り方は聴いたことも見たこともないとのことであった。ネット検索でもそれらしいものは見当たらない。モース先生、何かを見間違えたのではなかろうか? しかしまた、見間違えそうなものが思い浮かばないのであるが。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 11 街路点描

 仕事をするにも休むにも、日本人は足と脚との内側の上に坐る――というのは、脚を身体の下で曲げ、踵を離し、足の上部が畳に接するのである。屢々足の上部外側に胼胝(たこ)、即ち皮膚が厚くなった人を見受けるが、その原因は坐る時の足の姿勢を見るに至って初めて理解出来る。鍛冶(かじ)屋は地面に坐って仕事をする(手伝いは立っているが)。大工は床の上で鋸を使ったり鉋(かんな)をかけたりする。仕事台も万力も無い大工の仕事場は妙なものである。

 時々我々は、不細工な形をした荷鞍の上に、素敵に大きな荷物を積んだ荷牛を見受けた。また馬といえば、何マイル行っても種馬にばかり行き会うのであった。東京市中及び近郊でも種馬ばかりである。所が宇都宮を過ぎると、馬は一つの例外もなく牝馬のみであった。この牡馬と牝馬とのいる場所を、こう遠く離すという奇妙な方法は、日本独特のものだとの話だが、疑もなくこれはシナその他の東方の国々でも行なわれているであろう。
[やぶちゃん注:「疑もなく」はママ。ここに描かれた雌雄の隔離飼育(別に地方に雌を隔離した訳ではなく、たまたまモースの管見したものが圧倒的に雌馬の放牧であったからと思われるが)は、馬が季節繁殖性の哺乳類で、妊娠していない大人の雌馬は日が長くなる春先にのみ発情し、その発情も二~三日しか持続せず、この間にのみ雄を受け入れて、それ以外の時期には雄を受け入れないという習性に基づくものと思われる。]

 村の人々が将棋――わが国の将棋(チェス)よりもこみ入っている――をさしている光景はおもしろかった。私はニューイングランドの山村の一つに、このような光景をそっくり移してみたいと想像した。

 あばら家や、人が出来かけの家に住んでいるというようなことは、決して見られなかった。建築中の家屋はいくつか見たが、どの家にしても人の住んでいる場所はすっかり出来上がっていて、足場がくっついていたり、屋根を葺かず、羽目を打たぬ儘にしてあったりはしないのである。屋根の多くは萱葺きで、地方によって屋背の種類が異なっている。杮葺(こけらぶき)の屋根もすこしはある。杮は我国のトランプ札と同じ位の厚さで、大きさも殆ど同じい。靴の釘位の大きさの竹釘が我国の屋根板釘の役をつとめる。一軒が火を発すると一町村全部が燃えて了うのに不思議はない。柿というのが厚い鉋屑みたいで、火粉が飛んでくればすぐさま燃え上るのだから……。

* 家屋の詳細は『日本の家庭』に就いて知られ度い。

日本人の清潔さは驚く程である。家は清潔で木の床は磨き込まれ、周囲は奇麗に掃き清められているが、それにも係らず、田舎の下層民の子供達はきたない顔をしている。畑に肥料を運ぶ木製のバケツは真白で、わが国の牛乳鑵みたいに清潔である。ミルクやバターやチーズは日本では知られていない。然しながら料理に就いては清潔ということがあまり明らかに現われていないので、食事を楽しもうとする人にとっては、それが如何にして調えられたかという知識は、食慾促進剤の役をしない。これは貧乏階級のみをさしていうのであるが、おそらく世界中どこへ行っても、貧民階級では同じことがいえるであろう。
[やぶちゃん注:これは庶民階級の食品の衛生観念の低さを言っている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 10 杉並木と電柱

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図―41

M42
図―42

 宇都宮の二十五マイル手前から日光に近い橋石に至る迄、道路に接して立派な杉(松柏科の一種)の並木がある。所々に高さ十二フィートを越える土手があり、その両側には水を通ずる為に深い溝が掘ってある。その溝のある箇所には、水の流れを制御する目的で広い堰(せき)が設けられている。二十七マイルにわたって、堂々たる樹木が、ある場所では五フィートずつの間隔を保って(十五フィート以上間をおくことは決してない)道路を密に辺取(へりど)っている有様は、まさに驚異に値する。両側の木の梢が頭上で相接している場所も多い。樹幹に深い穴があいている木も若干見えたが、これは一八六八年の革命当時の大砲の弾痕である。所々樹の列にすきがある。このような所には必ず若木が植えてあり、そして注意深く支柱が立ててある(図41)。時に我々は木の皮を大きく四角に剝ぎ取り、その平な露出面に小さな丸判を二、三捺(お)したのを見た。皮を剝いだ箇所の五、六尺上部には藁繩が捲きつけてある(図42)。このようなしるしをつけた木はやがて伐られるのであるが、いずれも密集した場所のが選ばれてあった。人家を数マイルも離れた所に於て、かかる念入りな注意が払われているのは最も完全な保護が行われていることを意味する。何世紀に亘ってこの帝国では、伐木の跡には必ず代りの木を植えるということが法律になっていた。そしてこれは人民によって実行されて来た。この国の主要な街道にはすべて一列の、時としては二列の、堂々たる並木(主に松柏科)がある。奥州街道で我々は、村を除いてはこのような並木に、数時間亘って唯一つの切れ目もないのを見ながら旅行をした。
[やぶちゃん注:「二十五マイル」約40キロメートル。宇都宮の手前というと小山を過ぎた辺りになる。現在は失われた往時の日光街道の杉並木の威容が髣髴とされる。
「橋石」原文は“Hashi-ishi”。このような地名はない。日光に着いてからの第三章の冒頭のも出るが、ここで石川氏は割注して『〔括弧してストーンブリッジとしてあるが現在の日光町字鉢石(はついし)のことらしい〕』と記しておられ、そこに付帯するモースの図から見ても鉢石であることが分かる。その発音の誤認と、恐らくは日光の入口に当る鉢石の大谷川に架かる神橋との混同による思い込みからかく言っているように思われる(この橋は石造ではないが、橋脚が石造でそれに切石を用いて補強されている特殊なものであることから、モースはこの石造橋脚の説明を通弁から聴いていたと推定される)。
「十二フィート」約3・7メートル。
「二十七マイル」約43・5キロメートル。
「五フィート」約1・5メートル。
「十五フィート」約4・6メートル。
「一八六八年の革命当時の大砲の弾痕である」慶応四(一八六八)年四月に大鳥圭介率いる旧幕府軍が野口十文字に陣を張り、それを新政府軍が砲撃した際の弾痕である。
「五、六尺」1・5~1・8メートル程。]

 密集した部落以外に人家を見ることは稀である。普通、小さな骨組建築(フレーム・ワァーク)か、門(ゲート)の無い門構(ゲート・ウェー)が村の入口を示し、そこを入るとすぐ家が立ち並ぶが、同様にして村の通路の他端を過ぎると共に、家は忽然として無くなって了う。

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図―43

 道路の両側に電信柱がある。堤の上には柱を立てる余地が無いので、例の深い溝の真中に立ててあり、柱の底部に当って溝は手際よく切られ、堤の中に入り込んでいる(図43)。古いニューイングランド式の撥釣瓶(はねつるべ)(桿と竿とは竹で出来ている)が、我国に於るのと全く同じ方法で掛けてあるのは、奇妙だった。正午人々が床に横わって昼寝しているのを見た。家は道路に面して開いているので、子供が眠ている母親の乳房を口にふくんでいるのでも何でもまる見えである。野良仕事をする人達は、つき物の茶道具を持って家に帰つて来る。山の景色は美しく、フウサトニック渓谷を連想させた。
[やぶちゃん注:「横わって」はママ。
「つき物の茶道具」原文は“the ever-present appliances for making tea”。お茶を淹れるための常の道具。
「フウサトニック渓谷」“the Housatonic Valley”底本では直下に『〔ニューイングランドを流れる川の一つ〕』という割注が入る。コネチカット州のフーサトニック川とタコニック山脈が作り出した風光明媚な渓谷。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 9 一路、人力車にて日光へ

 翌朝、我々は夙く、元気よく起き出でた。今日は人力車で二十六マイルいかねばならぬ。人力車夫が宿屋の前に並び、宇都宮の人口の半数が群れをなして押し寄せ、我々の衣類や動作を好奇心に富んだ興昧で観察する有様は、まことに奇妙であった。暑い日なので私は上衣とチョッキとを取っていたので、一方ならず派手なズボンつりが群衆の特別な注意を惹いた。このズボンつりは意匠も色もあまりに野蛮なので、田舎の人たちですら感心してくれなかった。
[やぶちゃん注:「二十六マイル」約41・8キロメートル。先に計測した通り、推定される宿泊地である現在の宇都宮市伝馬町から日光街道を辿ってみると、約40キロ弱であるが、高度があるから範囲内でぴったりと言ってよい。
「暑い日」六月三十日。]

 車夫は総計六人、大きな筋肉たくましい者共で、犢鼻褌だけの素っぱだか。皮膚は常に太陽に照らされて褐色をしている。彼等は速歩で進んでいったが、とある村に入ると気が違いでもしたかのように駆け出した。私は人間の性質がどこでも同じなのを感ぜざるを得なかった。我国の駅馬車も田舎道はブランブランと進むが、村にさしかかると疾駆して通過するではないか。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 8 按摩初体験

 四角い箱の形をした、恐ろしく大きな緑色の蚊帳(かや)が四隅からつられた。その大きさたるや我々がその内に立つことが出来る位で、殆ど部屋一杯にひろがった。枕というは黒板(こくばん)ふき位の大きさの、蕎麦殻(そばがら)をつめ込んだ小さな袋である。これが高さ三インチの長細い木箱の上にのっている。枕かけというのは柔かな紙片を例の袋に結びつけたものである。その日の旅で身体の節が硬くなったような気がした私は按摩(あんま)、即ちマッサージ師を呼びむかえた。彼は深い痘痕(あばた)を持つ、盲目の老人であった。先ず私の横に膝をつき、さて一方の脚を一種の戦慄的な運動でつまんだり撫でたりし始めた。彼は私の膝蓋骨を数回前後に動かし、この震動的な(こ)ねるような動作を背中、肩胛骨(けんこうこつ)、首筋と続けて行い、横腹まで捏ねようとしたが、これ丈は擽(くすぐ)ったくってこらえ切れなかつた。とにかく按摩術は大きに私の身体を楽にした。そして三十分間もかかったこの奉仕に対して、彼はたった四セント半をとるのであった。
[やぶちゃん注:「三インチ」7・6センチメートル。]

新生 北原白秋

   新生

新らしい眞黄色(まつきいろ)な光が、
濕つた灰色の空―雲―腐れかかつた
暗い土藏の二階の窻に、
出窻の白いフリジアに、髓の髓まで
くわつと照る、照りかへす。眞黄(まつき)な光。

眞黄色(まつきいろ)だ眞黄色(まつきいろ)だ、電線から
忍びがへしから、庭木から、倉の鉢まきから、
雨滴(あまだれ)が、憂鬱が、眞黄(まつき)に光る。
黑猫がゆく、
屋根の廂(ひさし)の日光のイルミネエシヨン。

ぽたぽたと塗りつける雨、
神經に塗りつける雨、
靈魂の底の底まで沁みこむ雨
雨あがりの日光の
鬱悶の火花。

眞黄(まつき)だ‥‥眞黄(まつき)な音樂が
狂犬のやうに空をゆく、と同時に
俺は思はず飛びあがつた、驚異と歡喜とに
野蠻人のやうに聲をあげて
匍ひまはつた‥‥眞黄色(まつきいろ)な灰色の室を。

女には兒がある。俺には俺の
苦しい矜(ほこり)がある、藝術がある、さうして欲があり、熱愛がある。
古い土藏の密室には
塗りつぶした裸像がある、妄想と罪惡と
すべてすべて眞黄色(まつきいろ)だ。――
心臟をつかんで投げ出したい。

雨が霽れた。
新らしい再生の火花が、
重い灰色から變つた。
女は無事に歸つた。
ぽたぽたと雨だれが俺の涙が、
眞黄色(まつきいろ)に眞黄色(まつきいろ)に、
髓の髓から渦まく、狂犬のやうに
燃えかがやく。

午後五時半。
夜に入る前一時間。
何處(どつ)かで投げつけるやうな
あかんぼの聲がする。


註。四十四年の春から秋にかけて、自分の間借りして居た旅館の一室は古い土藏の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春畫を描いてあつたさうな。それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土藏全體が古びて、雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。

「東京景物詩」より。底本(昭和25(1950)年新潮文庫「北原白秋詩集」)では「註」は五字下げ(二行目以降は七字下げ)の下インデントである。なお、第二連一行目の二度目の「眞黄色」には「いろ」しかルビがないが、補った。

耳嚢 巻之七  養生戒歌の事 / 中庸の歌の事

 養生戒歌の事

 

 予許へも來りし横田泰翁とて、和歌を詠じて人も取用(とりもちゐる)叟(おきな)なりしが、或時咄しけるは、去(さる)翁の戒にせよとて詠(よみ)て贈りしざれ歌なり迚、

   朝寢どく晝寢又毒酒少し食をひかへて獨寢をせよ

 

□やぶちゃん注

○前項連関:長寿養生譚で直連関。正直、類話・類歌でつまらぬ。

・「横田泰翁」底本の鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 養生戒の歌の事

 

 私の元へもよく参る、横田泰翁と申されて、和歌を詠じられてはよく人の歌会や行事に招き寄せらるるご老人があるが、ある時、話されたことには、さる老人が養生の戒とせよとて、詠んで贈られた戯れ歌で御座るとて、紹介して呉れた狂歌。

   朝寝どく昼寝又毒酒少し食をひかへて独寝をせよ

 

 

 中庸の歌の事

 

 右の泰翁中庸の歌とて、人の需(もとめ)しに、詠得(よみえ)ぬるとおもひ侍るとて語りぬ。

  すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし

 

□やぶちゃん注

○前項連関:横田泰翁直談咄直連関。

・「すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし」歌意は、

――真っ直ぐでなくては物を截ち割ることのが出来ぬ斧のような物もあれば――曲らねば立ちようがない屛風のような存在もある――と申すが、これ、世の中というもの――

岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 すぐなると用ゆるものもまがらねば足らぬ屛風も世の中ぞかし

とある。本書の方がよい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 中庸の歌の事

 

 右の泰翁殿、

「……中庸の歌と申して人から需められましたによって、詠みましたとろ、まあ、少しは上手く詠めたのではないか、と思いまして。……」とて、語り聴かせてくれた狂歌。

 

  すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし

愚に耐えよと窓を暗くす竹の雪 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   愚に耐えよと窓を暗くす竹の雪

 世に入れられなかつた蕪村。卑俗低調の下司趣味が流行して、詩魂のない末流俳句が歡迎された天明時代に、獨り芭蕉の精神を持して孤獨に世から超越した蕪村は、常に鬱勃たる不滿と寂寥に耐へないものがあつたらう。「愚に耐えよ」といふ言葉は、自嘲でなくして憤怒であり、悲痛なセンチメントの調しらべを帶びてる。蕪村は極めて温厚篤實の人であつた。しかもその人にしてこの句あり。時流に超越した人の不遇思ふべしである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(9) 街路逍遙女性(にょしょう)点描

わざをぎの噂するらしをみな子のくちのうすきをたゞに目守りをり

[やぶちゃん注:「わざをぎ」俳優。]

脣のうすきをみなを憎みつゝ朝曇する街を行きにけり

[やぶちゃん注:如何にも元町風景らしい風景とは思われる。「街路逍遙女性(にょしょう)点描」という副題は僕が勝手に附したものなので悪しからず。以下、この手帳歌群には前書はないので、この注は略す。]

日はうつる 大手拓次

 日はうつる

手のなかに 日はうつり、
あゆみを うつす、
にほひのひらく とほぞらのかほへ。

鬼城句集 秋之部 迎火/魂棚

迎火    迎火や年々焚いて石割るゝ

 

      迎火や戀しき親の顏知らず

 

[やぶちゃん注:この句の映像の中の人物は恐らく明治二五(一八九二)年に母スミを亡くした鬼城の娘二人と思われる。婚姻はスミとの結婚はスミ二十四の時、逝去の時は未だ二十七であった。]

 

魂棚    魂棚の見えて淋しき寐覺かな

 

[やぶちゃん注:「魂棚」「たまだな」は精霊棚(しょうりょうだな)のこと。盂蘭盆に先祖の精霊を迎えるために用意する棚。位牌を安置し、季節の野菜・果物などを供える。]

2013/09/28

野人庵史元斎夜咄 第貮夜 巴別(ばべる)の塔

 秋の宵。野人庵は何か穏やかならぬ気配である。
藪八 「儂(あっし)は、福島第一原発はモウ、ヤバい、と思う!」
野治郎「いんや! お国の親分もちゃんとコントロオルしとる言うとるやないかい! いい加減、放射能やら汚染水やら神経病みたような謂いはやめんかい! 長屋の連中だって五輪で盛り上がっとるんや! てめえみてえな、辛気臭(くせ)え奴がいると虫唾が走るワッ!」 
直吉 「……俺(おら)には、よう分からん……八っさんの言うように危ないような気もするし……野次さんのようにいいかげん、脱原発反原発で深刻になるのもなんだかなあちゅう気もするんや……おいらが信心しとるお祖師(そそ)さまは全く以って大事な云うとうるし……こないだ見たら、何や、環境アナリストちゅう、よう分からんけど、その筋の専門家らしいお人が、数値を挙げて、安全や、危ない云うとる輩は頭がおかしい、いうとったから……それに福島じゃあ、必死で復興に精出す人たちもおる中で、これ外野で、危ない、深刻や、とばかり騒ぐんは、これ、どんなもんやろ、と思うこともあったりして……」
野治郎「直よ! いいか! てめえの生き神さまなんざあ、おら、信じねえんだヨ!だからそういう意味じゃなッ、お前の言ってることはマ、ル、デ、マルカラ、分、カ、ラ、ネ、んだってことよ!……だけんどよ、まあ、ヘヽ、いい子じゃねえか! お前さんの神さまは、その点では正しいからナ! ヘヽ!」
(直吉、如何にも不服げだが、黙って薄い酒を呷る。)
藪八 「いんや! 野次! コントロオルなんぞ出来てねってことは、あの親分がのたもうて五輪誘致が決まったとたん、待ってましたとばかり、東電自身がはっきり自白したやないカかい! 直の云う環境アナリストだかアナクロニストだか知らねえが、危ないと言い続けとる正真正銘の専門の、科学者先生も、そや! 京の都の小出裕章先生とか、しっかりおるんやぞゾ!」
野治郎「科学者がなんじゃい! 大事なのは豊かさや! 経済の活性化ちゅうもんよ! 経済界の大物先生なんぞ、事故の直後っから原爆の放射能で死んだ人間は一人もおらんと言うとるぞ! 何よりよ、てめえみてえに、折角の五輪のお祭り気分も、景気も何んもかも、盛り下げに下げに下げて、何が面白いんじゃ? てめえの云うことは一事が万事、毛唐の言葉そのものよッ! 訳わからんぜ!」
藪八 「福島で燕の奇形やら昆虫の異常が見つかって、況や、子どもの甲状腺癌が悪化の一途を辿ってるんを、野治郎、てめえはどう言い訳するつもりじゃッ?」
野治郎「オウよ! その原因が原発じゃて、うっかり八兵衛大先生、一つドウゾ、ここでご高説、ご拝聴と仕りましょうかい!?」
(藪八、遂に野次郎に摑みかかり、大乱闘となる。大徳利が倒れかける。それを、すかさず史元斎、押さえて一喝!)
史元斎「これッツ! いい加減にせんカッ!!」
(滅多に声を荒らげぬ史元斎の怒りに二人、ススッと居直り、互いにそっぽを向いてふて腐れて茶碗酒を呷る。)
(史元斎、眼をつぶってやおら誦し出す。)
史元斎「……全地(ぜんち)は一(ひとつ)の言語(ことば)一(ひとつ)の音(おん)のみなりき……茲(こゝ)に人衆(ひとびと)東に移りてシナルの地に平野を得(え)て其處(そこ)に居住(すめ)り……彼等互に言(いひ)けるは去來(いざ)甎石(かはら)を作り之(これ)を善(よ)く[やか]んと遂(つひ)に石の代(かはり)に甎石(かはら)を獲(え)灰沙(しつくひ)の代(かはり)に石漆(ちやん)を獲(え)たり……又(また)曰(いひ)けるは去來(いざ)邑(まち)と塔(たふ)とを建て其塔(そのたふ)の頂(いただき)を天にいたらしめん斯(かく)して我等(われら)名を揚(あげ)て全地の表面(おもて)に散ることを免(まぬか)れんと……ヱホバ降臨(くだ)りて彼(かの)人衆(ひとびと)の建(たつ)る邑(まち)と塔(たふ)とを觀(み)たまへり……ヱホバ言(いひ)たまひけるは視(み)よ民は一(ひとつ)にして皆一(みなひとつ)の言語(ことば)を用(もち)ふ今既(すで)に此(これ)を爲(な)し始めたり然(され)ば凡(すべ)て其(その)爲(なさ)んと圖維(はか)る事は禁止(とど)め得られざるべし……去來(いざ)我等(われら)降(くだ)り彼處(かしこ)にて彼等の言語(ことば)を淆(みだ)し互に言語(ことば)を通ずることを得ざらしめんと……ヱホバ遂(つひ)に彼等を彼處(かしこ)より全地の表面(おもて)に散(ちら)したまひければ彼等(かれら)邑(まち)を建(たつ)ることを罷(やめ)たり……是故(このゆゑ)に其名(そのな)はバベル(淆亂(みだれ))と呼ばる是(こ)はヱホバ彼處(かしこ)に全地(ぜんち)の言語(ことば)を淆(みだ)したまひしに由(より)てなり彼處(かしこ)よりヱホバ彼等(かれら)を全地の表(おもて)に散(ちら)したまへり……」
(藪八、野治郎、直吉、ぎょっとする。)
藪八 「……ご、ご隠居?……」
野治郎「……あ、あっしの拳骨(げんこ)が、あ当り、ま、ましたんで?……」
直吉 「……ご隠居! 傷は浅そう御座いますぞ! 気をしっかりとッ!……」
史元斎「――耶蘇教の旧約聖書は『創世記』と申すものの、第十一にある言葉じゃ……意味は難しくあるまい?」
藪八 「……もともとはこの世は一つの言葉しかなかった、と?……」
野治郎「……『シナル』……ってえのは土地の名前でござんすか?……そこの平らな土地を手に入れて住んだ、と……」
直吉 「……な、なんかみんなで建てたんで御座んすよね、建て物を……そこでみんなが楽しく暮せるよな……」
史元斎「……彼らはまた言うことには「さあ、町と塔とを建てて、その頂きを天に届かせようではないか。そうして、我ら人が人としての名を全世界に知らしめられれば、この地上で散り散りになってしまうことから永遠に免れることが出来る」と。――」
史元斎「……その時、主エホバは降臨されて、人の子たちの建てようとしている町と塔とをご覧になって宣われた、「民は一つであって、みな一つの言葉を用いている。今まさに彼奴(きゃつ)らは既にこのようなことをし始めてしもうた。彼奴らがしようとしていることは、このままでは最早、止め得ぬことは火を見るよりも明らかじゃ。……さればいざ、、我らはその彼奴らの元へと降って行き、そこで彼奴らの言葉を乱し、そうして彼奴らが総て互いに言葉が通じなくなるようにしてやる。」と。……かくしてエホバは……藪八?……」
藪八 「……その通りになっちまったんで御座んすね?……誰もが喋ってる理解し合っていたはずの言葉が……互いに……全く……分からなくなった……だから……みんな相手と意志を疎通することが出来ずなってしもうた……だからみんな散っていた……彼奴らをかの地より地上のあらゆる場所へとお散らしになられた、と。……」
野治郎「……だからそして……彼奴らは町を建てるのをやめた……」
直吉 「……このことから、その町の名はバベルと呼ばれる。これはエホバがそこでこの地上の総ての言葉をお乱し遊ばされたからであった。……エホバはこのバベルの地からあらゆる人を地球上の、ありとある地に散らばされたのである。……ご隠居、「バベル」というのは「混乱」てな、意味なんでしょうか?」
(唐人が喋るように。)
史元斎「ナオキチ! ヨク、デキマシタ!」
(史元斎、空になった徳利をぶら下げて、厨へ向かう。)
藪八 「……何となく……」
野治郎「……そ、やな……」
直吉 「……おいらたちの言い分……」
藪八 「……その言葉は……まんず……」
野治郎「……これ、確かに皆……互いに……」
藪八・野治郎・直吉「――通じとらん、わ……」
(史元斎、たぽたぽと音をさせて大徳利を持ちきたり、三人に注ぐ。)
史元斎「……福島の原発事故以降、儂(わし)らの使う言葉は全く……互いに通じんようになってしもうた。……
科学系の放射性物質危険言語や放射性物質安全言語――
宗教系言語――
経済系言語――
政治系言語――
風評言語に五輪誘致言語という新言語まで……
……バイリンガルの語学の達人もこれにはお手上げじゃろ……
……特に事故以前に偉そうに「プルトニウムは飲んでも平気」「事故が起こるなんて専門家は誰も考えてない」、考える奴は馬鹿だと言わんばかりに幅を利かせていた御用学者どもはすっかり鳴りを潜めてしもうたな……
……専門の科学者で汚染水や現在の第一原発の安全性や向後の希望的展望を語る者はどうしておらんのじゃ?……
……アカデミズムはこういうカタストロフにはまるで役に立たんのか?
……だったら何のための科学か!!
……かくして……今や、科学系言語はすこぶる地に堕ちてしもうた……かに見える……本当はこれだけが真理を語れるはず、なのじゃがな……
……そうして、そう、藪八の言う「環境アナリスト」「経済アナリスト」「科学ジャーナリスト」なんどという肩書を持った有象無象の輩が、安全だ、いや、危ない、と言い合うのを、科学を知らぬ我ら凡夫は、ただただ手を拱いて呆けた表情で、そしてどこかで、もういいかげんその話はやめようよ、とうっちゃらかしているのが、どうじゃ、現実ではないかのぅ……こういうのを判断停止と言っての、智そのものの死という致命的な病い以外の何ものでもないのじゃが、の……
……しかも哀しいことに同じ言語であっても、福島におらるる人々の言語と東京人の言語はその他者性を際立てて言語学上の方言以上に他言語のようになって通じ難くなっておろうが……
……危険という言語は同じでも、その危険区域に住まう人々とそうでない人々の使用する際の質量は特殊相対性理論並みに異なってしまっておるんじゃ……
……いや、同じ福島に現に住まう家族の老祖父母と孫の母のそれはまるで違ったものであったりしてくる……子のために危険と感じる母は、ともに居たいと思う祖父母と時に食い違い、家族は別れ別れに過ごさねばならなくなる……といったことも現に起っておる……
……さても……かく言う儂にも儂の「信ずる」ところの言語はあるから大きなことは言えんが……
……しかし……
……しかし、これは福島第一原発の事故に象徴さるるところの……
……原子力という神=自然を凌駕する人為的な技術(科学ではないぞ、技術じゃ)こそが――
――則ち――かの「バベルの塔」であり
――儂ら、言葉を通じあえたはずの隣人たちが、遂に散り散りにさせられるところの
――新しい
――そうして最期の
――おぞましき多言語生成を語るところの絶望的な神話なのではないか、の。……」
(藪八・野治郎・直吉、皆、膝を見つめたまままんじりともしない。もう誰も喋らない。徳利の酒をもそのままに、夜は更けゆくのみ。)
 庭で、蟋蟀が一声高く、鳴いた。

[やぶちゃん注:副題に使用した「巴別(ばべる)」は中国語の謂い。史元斎が語る旧約聖書の文語訳はサイト「tombocom」のこちらの訳を改変せずに引用させて戴いた。但し、節番号を省略し、間を6点リーダで繋いである。なお、昨日の晩の、「随分御機嫌よう」という、

さればこそ鬼とならむと思ふ汝(な)は戀路も斷ちて癡(ち)とはなるなれ

という短歌の謂いは、実はこの二編の「野人庵史元斎夜咄」を公開するためのスプリング・ボードであったことを告白しておく。]

野人庵史元斎夜咄 第壱夜 蜥蜴の尻尾

 秋の宵。於野人庵。長屋の藪八が薄い酒をちびりちびり。主人史元斎に話しかける。
藪八 「ご隠居、経済産業省出向のお偉いさんがとんでもねえ罵詈雑言をブログに書いてたってえ話、御存知ですかい?」
史元斎「一応はその日のうちに名前を調べ上げて、粗方の公開記事や投稿写真なんどはしっかり読ませてもらったがね。キャリアだか何だか知らねえがよ、『復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいいのに』だの、『ほぼ滅んでいた東北のリアス式の過疎地で定年どころか、年金支給年齢をとっくに超えたじじぃとばばぁが』だのと、綺羅星の如きその差別表現を目にすると、こりゃ、生理的に虫唾が走るってもんさね。鬱憤晴らしに飼い犬に可哀そうな悪戯をした写真を得意げに載せるのを見た日にゃ、異常性格と言ってもよかろうってもんだな。」
藪八 「昨日のニュースじゃ、マスキングされてやしたが、いけしゃあしゃあと出てきて、私も日本のよりよい未来を考えてるとかどうとか、訳の分からねえ謝罪こいてたやしたね。」
史元斎「あの波状的な確信犯の侮蔑的発言を一度御覧な、ええ? 反省して一日で真人間に戻れるような手合いじゃあネェよ。」
藪八 「でもご隠居、停職二ヶ月喰らってますし、自分で書いてた天下りも、これでオジャンでげしょ?」
史元斎「そう思うかい? だからお前さんはうっかり八兵衛なんて呼ばれるんさ。お前さん、どうやってその情報を確認するつもりだぇ? だいたいお前さん、名はおろか、この出来事自体直きに、忘れっちまうだろ? ほとぼりが冷めた頃には、前に本人も望んでたよに、相応の天下り先へと目出度くちんまりお座りになられるんだろうよ。そのうち、どっかの講演会で、『栄養バランスが整った日本食文化の魅力』なんてえ、有り難ご高説を拝するようになるのがオチだぜ。」
藪八 「……なんだか……ザマ見ろぃと思ってすっきりしてたんが……東北の人が停職二ヶ月で憤ってガツンと一発やりたいねって言ってたけんど、ご隠居の話を聴いてたら、またぞろ、ムカっ腹が立ってきやしたゼ!」
史元斎「まあ、落ち着きなさい。――しかしね、考えようによれば、あの男は、ある真実を儂らに伝えて呉れたじゃないか。」
藪八 「そりゃ、またどういうことでげす?」
史元斎「あの国家機関の中枢で働くキャリアが永きに亙って復興不要を言い放って一向に愧じなかったのは、何故だと思う? それは彼に代表される政治を実際に動かしているキャリアにとっての命題として「不要」が「真」であるからに他ならない。それが彼らの本音であり真理だからに他ならない。図らずもあ奴は、現在の、日本国家という化け物の思惑を、鮮やかに包み隠さずに語って呉れたということじゃ。最早、政府も官僚も東北を復興しようなんて気持ちは実は微塵もない、ということを彼が代表して表明したということじゃ。停職二ヶ月たあ、蜥蜴の尻尾切りとも言えぬ尻尾――尻尾は考えないよ。考えるのは頭だぁな。それが生物学でいう自切じゃ。危なくなると尻尾をちょいと切ってとんずらを決め込むはお上の常套手段よ ♪ふふふ♪」
藪八 「そりゃあ、余りとと言いゃあ余りの……」
(史元斎、台詞を食い、珍しく苛立って)
史元斎「五輪を『復興』と称して招致にまんまと成功したが、あの時、招致委員会の竹田恒和理事長が何と言ったか覚えてるんかい?!――東京と福島は「ほぼ二百五十キロ、非常に、そういった意味では離れたところにありまして、皆さんが想像するような危険性は、東京には全くないということをはっきり申し上げたい」とのたもうたんだよ?! これが『復興五輪』という御旗の後ろに見え隠れするおぞましい本音でなくって何だってえんだい、ええっ?!」
(藪八、しゅんとなる。史元斎、干鮭をカッシと噛み千切って、茶碗酒を煽って吐き捨てるように)
史元斎「……まあ、なんだな……実はもう祭りは……とっくに……終わっちまったのかも……知れないよ……おお、一句出来(でけ)たわ。」
(史元斎、色紙に川柳をものして藪八に渡す。曰く)
――ろ富士(ふじ)いやしかれご大(オリンピア)
(藪八、覗いて)
藪八 「……な、何でげす? こりゃ?」
(史元斎、意地悪く微笑んで黙っている。)
 秋の夜は更けゆく。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 7 行灯 附“Japanese Homes and Their Surroundings”より「畳」の原文・附図と私の注

 旅館に於る我々の部屋の清潔さは筆ではいい現わし得ない。これ等の部屋は二階にあって広い遊歩道に面していた。ドクタア・マレーのボーイ(日本人)が間もなく我々のために美事な西洋料理を調理した。我々はまだ日本料理に馴れていなかったからである。ここで私は宿屋の子供やその他の人々に就いての、面白い経験を語らねばならぬ。即ち私は日本の紙に日本の筆で蟾蜍(ひきがえる)、バッタ、蜻蛉(とんぼ)、蝸牛(かたつむり)等の絵を書いたのであるが、子供達は私が線を一本か二本引くか引かぬに、私がどんな動物を描こうとしているかを当てるのであった。

 

M40

図――40

 

 六十六マイルの馬車の旅で疲れた我々は、上述の芸当を済ませた上で床に就いた。すくなくとも床から三フィートの高さの二本の棒に乗った、四角い提灯(ちょうちん)の形をした夜のランプが持ち込まれた。この構造の概念は、挿絵(図40)によらねば得られない。提灯の一つの面は枠に入っていて、それを上にあげることが出来る。こうして浅い油皿に入っている木髄質の燈心若干に点火するのである。日本では床の上に寝るのであるが、やわらかい畳(マット)【*】がこの上もなくしっかりした平坦な表面を持っているので、休むのには都合がよい。

[やぶちゃん注:置行灯(おきあんどん)である。なお、ここから原典の傍注記号は【*】で本文に入れ込んで示すこととする(以下、この注は略す)。

「三フィート」91センチメートル。]

 

 

* この畳に関する詳細は私の『日本の家庭』(ハーパア会社一八八六年)に図面つきで説明してある。Japanese Homes (Harper & Bros)

[やぶちゃん注:注は底本では全体はややポイント落ちの一字下げで注の前後に有意な空行がある(以下、この注は略す)。

 これは、前出の“Japanese Homes and Their Surroundings”(の再版公刊本。この出版年については「緒言」の私の同書についての注(「私の著書『日本の家庭及びその周囲』」の注)の推理を必ず参照されたい)で、出版社名の“Harper & Bros”は“Harper & Brothers”の略。以下に本電子化の参考にもしている“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineにある同書の電子テクスト・データを、同所にある原書画像(PDF版)で視認校訂した当該箇所“CHAPTER III. INTERIORS.”の“MATS.”の原文を総て示す(原書p.121-125)。図版は斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)のものを用い、相応しいと思われる位置に配した。

 

 A more minute description of the mats may be given at this point. A brief allusion has already been made to them in the remarks on house-construction. These mats, or tatami, are made very carefully of straw, matted and bound together with stout string to the thickness of two inches or more, the upper surface being covered with a straw-matting precisely like the Canton matting we are familiar with, though in the better class of mats of a little finer quality. The edges are trimmed true and square, and the two longer sides are bordered on the upper surface and edge with a strip of black linen an inch or more in width (fig. 100).

 The making of mats is quite a separate trade from that of making the straw-matting with which they are covered. The mat-maker may often be seen at work in front of his door, crouching down to a low frame upon which the mat rests.

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FIG. 100MAT.

 

 As we have before remarked, the architect invariably plans his rooms to accommodate a certain number of mats ; and since these mats have a definite size, any indication on the plan of the number of mats a room is to contain gives at once its dimensions also. The mats are laid in the following numbers, two, three, four and one-half, six, eight, ten, twelve, fourteen, sixteen, and so on. In the two-mat room the mats are laid side by side. In the three-mat room the mats may be laid side by side, or two mats in one way and the third mat crosswise at the end. In the four and one-half mat room the mats are laid with the half-mat in one corner. The six and eight mat rooms are the most, common-sized rooms ; and this gives some indication of the small size of the ordinary Japanese room and house, the six-mat room being about nine feet by twelve ; the eight-mat room being twelve by twelve ; and the ten-mat room being twelve by fifteen. The accompanying sketch (fig. 101) shows the usual arrangements for these mats.

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FIG. 101. ARRANGEMENT or MATS IN DIFFERENT - SIZED ROOMS.

 

 In adjusting mats to the floor, the corners of four mats are never allowed to come together, but are arranged so that the corners of two mats abut against the side of a third. They are supposed to be arranged in the direction of a closely-wound spiral (see dotted line in fig. 101). The edges of the longer sides of the ordinary mats are bound with a narrow strip of black linen, as before remarked. In the houses of the nobles this border strip has figures worked into it in black and white, as may be seen by reference to Japanese illustrated books showing interiors. These mats fit tightly, and the floor upon which they rest, never being in sight, is generally made of rough boards with open joints. The mat, as you step upon it, yields slightly to the pressure of the foot ; and old mats get to be slightly uneven and somewhat hard from continual use. From the nature of this soft-matted floor shoes are never worn upon it, the Japanese invariably leaving their wooden clogs outside the house, either on the stepping-stones or on the earth-floor at the entrance. The wearing of one's shoes in the house is one of the many coarse and rude ways in which a foreigner is likely to offend these people. The hard heels of a boot or shoe not only leave deep indentations in the upper matting, but oftentimes break through. Happily, however, the act of removing one's shoes on entering the house is one of the very few customs that foreigners recognize, the necessity of compliance being too obvious to dispute. In spring-time, or during a rain of lung duration, the mats become damp and musty; and when a day of sunshine comes they are taken up and stacked, like cards, in front of the house to dry. They are also removed at times and well beaten. Their very nature affords abundant hiding-places for fleas, which are the unmitigated misery of foreigners who travel in Japan ; though even this annoyance is generally absent in private houses of the better classes, as is the case with similar pests in our country.
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FIG. 102.  ATTITUD OF WOMAN IN SITTING.

 

 Upon these mats the people eat, sleep, and die ; they represent the bed, chair, lounge, and sometimes table, combined. In resting upon them the Japanese assume a kneeling position, the legs turned beneath, and the haunches resting upon the calves of the legs and the inner sides of the heels ; the toes turned in so that the upper and outer part of the instep bears directly on the mats. Fig. 102 represents a woman in the attitude of sitting. In old people one often notices a callosity on that part of the foot which comes in contact with the mat. and but for a knowledge of the customs of the people in this matter might well wonder how such a hardening of the flesh could occur in such an odd place. This position is so painful to a foreigner that it is only with a great deal of practice he can become accustomed to it. Even the Japanese who have been abroad for several years find it excessively difficult and painful to resume this habit. In this attitude the Japanese receive their company. Hand-shaking is unknown, but bows of various degrees of profundity are made by placing the hands together upon the mats and bowing until the head oftentimes touches the hands. In this ceremony the back is kept parallel with the floor, or nearly so.

 At meal-times the food is served in lacquer and porcelain dishes on lacquer trays, placed upon the floor in front of the kneeling family; and in this position the repast is taken.

 At night a heavily wadded comforter is placed upon the floor ; another equally thick is provided for a blanket, a pillow of diminutive proportions for a head-support, and the bed is made. In the morning these articles are stowed away in a large closet. Further reference will be made to bedding in the proper place.

 A good quality of mats can be made for one dollar and a half a-piece ; though they sometimes cost three or four dollars, and even a higher price. The poorest mats cost from sixty to eighty cents a-piece. The matting for the entire house represented in plan fig. 97 cost fifty-two dollars and fifty cents.

 

末尾にある“fig. 97”(この図面の家屋に係った畳の総経費が52円50銭であったと述べている)もキャプションと一緒に参考までに以下に示す(キャプションの最後の上付きの「1」があるのは、後の“FIG. 98.”で同標題で別の家屋の平面図を出しているからである)。

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FIG. 97. PLAN OF DWELLING-HOUSE IN TOKIO.1

 

1 P, Parlor or Guest-room ; S, Sitting-room ; D, Dining-room ; L, Library ;

 St, Study ; SR, Servants’ Room ; B, Bed-room ; K, Kitchen ; H, Hall ;

 V, Vestibule ;  C,Closet ; T, Tokonoma ; Sh, Shrine ; U, and L, Privy.

 

このキャプションの“Parlor”は応接間、“Library”及び“Study”は斎藤・藤本訳「日本人の住まい」では前者を「書院」、後者を「書斎」と訳しているが、これは図面を見ると寧ろ後者の方が「書院」で(“ St ”の左手にあるのは“ C ”(押入れ)とするが、これは誤りで明らかに書院造りの違い棚と床の間である)、前者は寧ろ“Parlor or Guest-room”とすべき座敷である。“Hall”は「こゝろ」にも出てくる玄関の間で、“Vestibule”が玄関である。“Shrine”は神棚である。

 以下、語注を附す(斎藤・藤本訳「日本人の住まい」を一部参考にした)。

●“A brief allusion has already been made to them in the remarks on house-construction.”は以下の“The making of mats”の注の引用部を参照。

●“the Canton matting”広東茣蓙(カントンござ)。最近、しばしば見かける中国製のイグサを用いた四角い座布団(布団ではないので変な言い方だが)、敷き茣蓙のこと。現在も広東省はこの茣蓙の産地である。

●“The making of mats”これは畳床(たたみどこ)の製作の意。次にある“the straw-matting”が畳表(たたみおもて)の意。畳の大きさは前の“SELECTION OF STOCK.”(建築用材の選択方法)の部に“As the rooms are made in sizes corresponding to the number of mats they are to contain, the beams, uprights, rafters, flooringboards, boards for the ceiling, and all strips are got out in sizes to accommodate these various dimensions. The dimensions of the mats from one end of the Empire to the other are approximately three feet wide and six feet long;”(約90センチメートル×1・8メートル相当)とある。以下は、畳屋の前での畳表を張っている光景を簡潔に描写している。

●“As we have before remarked”前注に引用した直後に“and these are fitted compactly on the floor. The architect marks on his plan the number of mats each room is to contain.”とある。

●“yields”物理的にへこむ、の意。斎藤・藤本訳「日本人の住まい」では『弾性(イールド)を感じる』と訳す。この後も同訳は『長年のあいだ使ったものは弾性がなくなり』と訳すが、原文には学術的な(文字通り)お硬い「弾性」(例えば“elasticity”)という表現は見られない。

●“From the nature of this soft-matted floor shoes are never worn upon it, the Japanese invariably leaving their wooden clogs outside the house, either on the stepping-stones or on the earth-floor at the entrance.……”以下で、モースは初めて日本人が家屋に入る場合に履き物を脱ぐことを述べ、その習慣がフロアの美観を守っている点で称賛している(但し、長雨の時期には湿気を吸い黴臭くなること、畳干をしなくてはならないこと、蚤の格好の棲み家となること等を同時に述べている)。

●“Upon these mats the people eat, sleep, and die ;”当たり前のことを言っているのだが、私の様に寝室以外に畳がない家に永く暮していると、何か、しみじみとした懐かしさと古き良き日本の面影を感じてしまうのは何かもの狂ほしくなってくる。

●“lounge”この場合は、“lounge chair”で、寝椅子の意。

●“the haunches”通常このように複数形で、人の臀部(尻)・腰部をいう。

●“a callosity”は“callus”(カルス)と同義で、ここでは常時正座することによって生ずる足の甲や踝(くるぶし)の座り胼胝(だこ)のことを言っている。

●“lacquer and porcelain”漆器(lacquer ware)と瀬戸物(chinaware)。

●“a heavily wadded comforter”ぎっしりと詰め物を施された掛け布団。

●“Further reference will be made to bedding in the proper place.”後の“CHAPTER IV. INTERIORS (Continued). ”に“BEDDING AND PILLOWS.”として一項を設けている。]

 

耳嚢 巻之七 志賀隨翁奇言の事

 志賀隨翁奇言の事

 

 石川壹岐守組の御書院與力廣瀨大介といふ者、文化の比(ころ)八十餘なりしが、當時世の中にて長壽の人といへば、志賀隨翁事を口説(くぜつ)なす。彼(かの)大介幼年の節、京都建仁寺にて隨翁に逢(あひ)し事有(あり)。大介に向ひて、此小兒は長壽の相あり、然共(しかれども)不養生にては天命を不經(へず)と語りしと、大介咄(はなし)し由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:長寿譚で直連関し、前の注で鈴木氏によって実は前の「長壽の人狂歌の事」に出た歌(第一首目)を、この話の「隨翁」とする記述があるから、これは同一の情報源であることが強く疑われる。前の項の注も参照されたい。

・「志賀隨翁」底本で鈴木氏は特異的に詳細で重要な考察をなさった注を施しておられるので、例外的に全文を引用したい。

   《引用開始》

『梅翁随筆』八に「生島幽軒といふ御旗本の隠居、享保十年己巳八十の賀を祝ひて、老人七人集会す。その客は榊原越中守家士志賀随翁俗名金五郎百六十七歳、医師小林勘斎百三十六歳、松平肥後守家士佐治宗見百七歳、御旗本隠居石寺宗寿俗名権右衛門九十七歳、医師谷口一雲九十三歳、御旗本下条長兵衛八十三歳、浪人岡本半之丞八十三歳、宴会せしとて、其節の書面、今片桐長兵衛かたにのこれり。」うんぬんとある。この七人の長寿者会合のことは『月堂見聞集』『翁草』にも出ているから、話の種だったことがわかる。享保十年百六十七歳というのが随翁の生存年代を確かめるための一応のめどであるわけだが、伴蒿蹊の『閑田耕筆』には正徳五年幽軒の尚歯会の際、瑞翁百八十七歳とある。蒿蹊は、「右の内志賀瑞翁は人よく知れり。おのれ三十二三の時、此翁の三十三回にあたれりとて、手向の歌を勧進する人有しが、これは彼延寿の薬方を伝へて、売人其恩を報が為なりと聞えき。此年紀をもて算ふれば、正徳五年よりは十七八年、猶ながらへて凡二百七十余歳なり。長寿とは聞しかども、二百に余れるとはいふ人なし。もし正徳の会の時の齢たがへる歟、いぶかし」と疑っている。蒿蹊の三十二、三は明和初年であるから随翁は享保十六、七年に死んだことになる。いずれにしても無責任な数字というべきだが、この随翁(随応とも瑞翁とも酔翁とも書いた)と実際に逢ったことがあると言い出した者があり、その証拠ともいうべき災難除けの守りを貰ったという人物(江戸塵拾)まで出現した。本書の広瀬大介も逢ったという一人だが、『海録』では、方壺老人(三島景雄)という人が幼時(享保の末)随翁に逢ったが、木挽町に貧しげな様で下男と二人で住んでいた。翁は幼いとき信長公の児小性で、本能寺の変には運よく死を免れたと自ら語った。随翁が死んだ時は下男もいず、あまり起きて来ないので隣家の者が見たら死んでいたという。谷川士清は、「二百歳の寿を保ちしといへるも覚束なし、若くは世を欺く老棍のわざならんか」といっている。自ら長寿を吹聴し人を欺く意図はなくても、稀世の長寿者を待望する心理が民衆の中にあり、その像を具体的に作り上げて行く動きが、いったん走り出すと停らなかった。まず心から信じるには到らなくても、語りぐさとして受け容れる層が存在したことが、このような無責任な伝聞を事実誇らしい形で発展させたことは常陸坊海尊の場合も同様であった。

   《引用終了》

谷川士淸の言葉の中の「老棍」とは老いたる悪漢、無頼の徒の意。

・「御書院與力」御書院番配下の与力。御書院番は若年寄に属して江戸城警護・将軍外出時の護衛・駿府在番などの他、儀式時には将軍の給仕を御小性と交替で当たった。十組程度(当初は四組)の編成で各組に番頭六人・組頭一人(千石高)・組衆五十人・与力十騎・同心二十人を置いた。同与力は玄関前御門の警備に当った。

・「石川貞通」底本の鈴木氏は、『天明五年(二十七歳)家督。四千五百二十石。寛政十年御小性組頭』とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「石川」を『石河』とし、長谷川氏は『いしこ』とルビを振ってあり、注では『文化四年(一八〇七)書院番頭、五年御留守居』とある。「新訂寛政重修諸家譜」によると、「石河」が正しいようである。天明五年は西暦一七八五年、寛政十年は一七九八年でこれが同一人物であるとすると、文化四年には五十九歳となるが、備中伊東氏系図で生年を計算してみると、備中岡田藩の第六代藩主であった石河貞通の父伊東長丘(ながおか)の生年は元禄一〇(一六九七)年であるから、天明五(一七八五)年に二十七歳とすると、鈴木氏の言う「石川貞通」の方の生年は宝暦九(一七五九)年、父伊東長丘が六十二歳の時の子供ということになる。考えられないことではないが、長谷川氏の役職も一致するものがなく、これはどう考えても同一人物ではあるまい。訳ではあり得そうな「石河貞通」を採用した。

・「文化の比」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏である。この話が直近の都市伝説であることが分かる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 驚異の長寿で知られた志賀随翁の奇体な評言の事

 

 書院番番頭であらせらるる石河(いしこ)壱岐守貞通殿の組の、御書院番与力の廣瀨大介と申す者、この文化の初年頃には八十歳余りであったと存ずる。

 昨今、世の中にて長寿の人と申さば、志賀隨翁のことがしばしば人の噂に登るが、この大介、幼年の砌り、京都建仁寺にて、その随翁に実際に逢(お)うたことがあると申す。

 その折り、随翁は大介に向かい合って、凝っと彼の顔を見ておったが、そのうちやおら、

「――この小児は長寿の相、これあり。――然れども美食や女色と申す不養生を致いたならば――これ、天命を全うすることは――出来ぬ。――」

と語った、とは、これ、その大介自身の話の由。

玉霰漂母が鍋を亂れうつ 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   玉霰(あられ)漂母(ぼ)が鍋を亂れうつ

 漂母(へうぼ)は洗濯婆のことで、韓信が漂浪時代に食を乞うたといふ、支那の故事から引用してゐる。しかし蕪村一流の技法によつて、これを全く自己流の表現に用いて居る。即ち蕪村は、ここで裏長屋の女房を指してゐるのである。それを故意に漂母と言つたのは、一つはユーモラスのためであるが、一つは暗にその長屋住ひで、蕪村が平常世話になつてる、隣家の女房を意味するのだらう。
 侘しい路地裏の長屋住ひ。家々の軒先には、臺所のガラクタ道具が竝べてある。そこへ霰あられが降つて來たので、隣家の鍋にガラガラ鳴つて當るのである。前の「我を厭いとふ」の句と共に、蕪村の侘しい生活環境がよく現はれて居る。ユーモラスであつて、しかもどこか悲哀を内包した俳句である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。底本は「我を厭ふ」が「私を厭ふ」となっているが、訂した。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(8) 「ひげ・いてふの歌」草稿及び別稿

 朝日子に黄に燃えけぶる銀杏の葉そがひの海の靑は眼に沁む

 

[やぶちゃん注:別案を復元する。

 

 朝日子に黄に燃えけぶる銀杏の葉そがひの海は靑寒々し

 

「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」の「ひげ・いてふの歌」歌群の草稿。そこでは、

 

朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後(そがひ)の海の靑は眼に沁む

 

となっている。]

靑靑とよみがへる 大手拓次

 靑靑とよみがへる

わたしの過去は 木の葉からわかれてゆく影のやうに
よりどころなく ちりぢりに うすれてゆくけれど、
その笛のねのやうな はかない思ひでは消えることなく、
ゆふぐれごとに、
小雨する春の日ごとに、
月光のぬれてながれる夜夜(よるよる)に、
わたしの心のなかに
あをあをと よみがへる。

鬼城句集 花火/走馬燈

花火    水の上火龍走る花火かな

 

      飄々と西へ吹かるゝ花火かな

 

[やぶちゃん注:「花火」は古くは盆行事の一環として行われたため、秋の季語である。但し、私は自身の句は無季俳句と認識しているので関係ないが、現在の有季定形では夏の季語として使って差し支えあるまいと思う。]

 

走馬燈   走馬燈消えてしばらく廻りけり

 

[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]

オリンピック聖火夢 又は ゲッセマネの園夢

2020年である。――
私は3人の教え子とオリンピックの聖火を運んでいる。――
その夜は東北の廃校となった高校の体育館に泊まっていた。
私はまず、2人を放送ブースに入れ、マリン・ランプの聖火の番をして、決して眠ってはならないと命じた。
明日トーチを掲げて走ることになっている今1人には、ピアノ室に入って仮眠をとるように言い、用心のために角型の焼香に用いる火種に移したそれを傍に置かさせ、数時間おきに起きては、火種を繫げるように、と命じた。
私は戸外で、やはり聖火を移した苧殻(おがら)の束の焚き火の前で、凝っとその火を見つめているのだった。――

暫く経った――その時――一陣の強い風が吹いて、一瞬のうちに苧殻が吹き飛び、夜空を焦がして散り消えてしまった。

慌てた私がピアノ室へ駆け込んでみると、火種は白い灰の塊となってしまっていて、探ってみても最早火種はなく、脇に横臥した教え子は、すやすやと眠っており、突っついても全く起きる気配がないのだった。

放送ブースに入って見ると、何故か、マリン・ランプの聖火も消えており、2人の教え子もやはり居眠りをしていて、まるで何か妖怪(あやかし)に憑(と)りつかれたように、私がいくら揺す降っても目覚めぬのであった。――

私は、その時、茫然としながらも、何か悲愴な決意の中で、
「……このカタストロフは――どうしても映画にして残さなければならない!」
と叫んだまま、立ち尽くしているのであった……

これは私がイエス役を演じているという、トンデモ不遜夢なのであるが、事実見てしまったのだから仕方がないのでそのまま忠実に記録した(つもりである)。

何だかこの象徴群は妙に分かり易いのが、かえって変である。

東北を聖火が廻っているという設定が、実に如何にもな皮肉である(夢とは関係ないが、事実、聖火はまた日本中を廻ることになるのであろうが、その時は是非、まだ燃えている福島第一原発まで行ってもらって、その炉心の火も聖火の火種に加えてもらいたいもんだ、などと思う。カロの破片が東京じゅうを経巡るようにだ)。

またこの奇体な夢を何故、細かに記憶出来たかといえば、偏えにオリンピックの聖火という、私が最も興味がなく、寧ろ現在甚だ嫌悪の対象であるところの2020年オリンピック(以前に申し上げた通り、オリンピックなんぞより今やらなくてはならないことは絶望的に山積しているという立場を私はとる者である)に関わった話柄であったからに他ならない。

シチュエーション全体はマルコの福音書に出るゲッセマネの園のシークエンスをほぼそのまま借用している。

しかも私の印象では、マリン・ランプ(実際のかつての東京オリンピックの予備火種はこれを自動車で運んだはずである)がキリスト教を象徴しており(これは私が夢の中で、それを「ランプ」と呼ばずにわざわざ「西洋ランプ」と呼称していた事実からも認識出来る)、移した角型火種が仏教を、お盆の迎え火に用いる苧殻が日本土着の信仰を象徴しており、これまた如何にもな宗教総体の象徴であって、それらが現実のカタストロフを全く救い得ないという構図も、随分、分かり易い、分かり易過ぎ、である。

最後に、何故、映画なのか? 分からない。ただ、私にとって「映画」は「タルコフスキイ」であり、「タルコフスキイ」というと彼の著作の題名ともなっている「スカルプティング・イン・タイム」を連想するのを常としている。映画は唯一、時間を切り取ることが出来るもの、の謂いである……とりあえず醒めた時、私がそんなことを考えたことだけ記しておく。

ともかく――ブッ飛んだトンデモ夢で……それでいて醒めた際に酷く哀しい気持ちになった夢であったことも、これ、事実なんである。……

2013/09/27

隨分御機嫌やう

さればこそ鬼とならむと思ふ汝(な)は戀路も斷ちて癡(ち)とはなるなれ

耳嚢 巻之七 長壽の人狂歌の事

 長壽の人狂歌の事

 

 安永の比迄存在ありし增上寺方丈、壽筭(じゆさん)八九十歳なりし、海老の繪に贊をなし給ふ。

  此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ

 と有しを、小川喜内といへる是も八十餘なりしが、右の贊へ、

  此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。狂歌シリーズ。流石にこの歌に注釈は不要であろう。特になし。狂歌シリーズの一。流石にこの歌に注釈は不要であろう。なお、底本の注で鈴木氏は第一首目の歌に注して、『この歌の異伝と見られるものが、『三味庵随筆』中に、志賀酔翁の作として出ている。酔翁は後出の随翁(瑞翁)で、長生して昔のことを語ったという人であった。実は自分も幼い時その随翁に逢ったことかあるなどと言い出す暑が何人か出て、いよいよ噂ばかり高かった人物だが、信用できるような具体的伝記事実は伝わっていない。「志賀酔翁御逢候哉と尋候へば、自分など江戸へ詰候時分は未ㇾ出人にて候哉、名も不ㇾ聞よし、其已後段々聞及候、酔翁海老を書き、「髭長く腰まがるまで生度と大食をやめ独りねをせよ」と讃書候絵、義岡殿有ㇾ之よし、大坂陣の節共は壮年の積由候ば、何事も知らぬと申候由。」とある。海老の絵にこんな狂歌を書くのは増上寺方丈や随翁に限ったことでなく、一つの型になっていたことを思わせる』とあって、この歌が次項の主人公「志賀隨翁」のものであるという伝承があったことが記されてある。

・「安永」西暦一七七二年から一七八〇年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年。

・「增上寺方丈」底本の鈴木氏注に、『増上寺の十時で安永年間に示寂したのは、二年寂の典誉智瑛(四十八代)と六年の豊誉霊応であるが、いずれも世寿伝えていない』とある。

・「筭」算に同じ。

・「小川喜内」不動産会社ジェイ・クオリスの「東京賃貸事情」(ここの情報はあなどれない!)の「美土代町二丁目」に、同地域の歴史を綴る中に元禄一〇(一六九七)年『には全域を松平甲斐守(柳沢吉保。武蔵川越藩主)が一括して拝領。享保年間(一七一六―三六)になると再び細分化され、小笠原駿河守・林百助・能勢甚四郎・本間豊後守・金田半右衛門・窪田源右衛門・堀又兵衛が拝領している。寛政一一年(一七九九)には林家跡に大前孫兵衛、金田家跡に中野監物、窪田家跡に小川喜内が入っており、文政一二年(一八二九)になると小笠原家跡に駿河田中藩本多豊前守正寛が、その他の一帯に摂津尼崎藩松平筑後守忠栄が入っている』とある。この「小川喜内」なる人物、時代的にもぴったりである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 安永の頃まで存命であられた増上寺の方丈は、齡(よわい)八、九十歳まで矍鑠(かくしゃく)となさっておられたが、ある折り、海老の絵に賛をお書きになられた、その和歌。

  此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ

 かくあったものに、後年になって、小川喜内と申す御仁、これも八十余歳にて壮健であられたが、右の賛へ、

  此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(7)……やばいよ……驚愕の恋歌を発見しちまった!!!……

頸の邊のいとくづとりてやりにけり横向きしくちの気取にくしも

[やぶちゃん注:別案を復元する。

頸の邊のいとくづとりてやりにけり横向きしくちのそりのにくしも

……この歌……妻を詠んだものでは「ない」としたら……とんでもないスキャンダラスな歌ということになるであろう……そうして……私は「妻を詠んだものでない」と確信するのである……何故か? 次の一首と注を読まれるがよかろう……]

中空に戀はすまじと人のいふ中空だにも我はこはなし

[やぶちゃん注:本歌は世阿弥作の「恋重荷」を濫觴とするものであろう。シテである御苑の菊守の老人は山科荘司(やましなのしようじ)が女御(ツレ)に恋をし、廷臣(ワキ)が女御の言葉を伝え、美しい荷を見せ、その荷を持って庭を百度も千度も回ったら、顔を見せてもよいという。老人は荷を懸命に持とうとするが持ち上げられない。荷は岩を錦に包んだもので、絶望のあまり、老人は恨みを抱いて憤死するというストーリーで、そこに後半の女御の台詞、 「戀よ戀 我が中空になすな戀 戀には人の 死なぬものかは 無慙の者の心やな」 とある。「ものかは」は反語で、「恋によって人は死なぬか? いや、死ぬることもある!」という謂いである。
「中空に」は形容動詞「なかぞら」①中途半端だ。②心落ち着かぬさま。上の空。③いいかげんなさま、疎か。の意を持つ。
「こはなし」「こは」は「此は」(指示代名詞「こ」+取り立ての係助詞「は」)で、感動表現で、「これはまあ!」「なんとまあ!」の意であるから、この一首は、まさに(!)自分が「今している恋はいいかげんなものでなどでは、決してない!」と中空へ叫んでいるようなものではないか?!……そしてこの恋は……どう考えても、妻への「戀」なんどではありはしない!……この二首は、よろしいか?……昭和十二年の手帳にあるのだよ。――敦は昭和七年にたかと結婚し、昭和八年には長男桓(たけし)が生まれ、その年の十一月に実家から妻子が上京して同居が始まり、昭和十一年には横浜市中区本郷町に一家を構えて、この昭和十二年一月には長女正子も生まれているのだよ(但し、正子は出生三日後に死亡している)。……時に敦、満二十八歳、横浜高等女学校奉職四年目だったのだよ。――何? 喘息はどうだったのか、って?……よろしい、話しましょう。……確かに彼は昭和九年九月に大きな喘息発作に襲われ、命が危ぶまれるという経験をしている。しかしね、その後は登山(昭和十年七月白馬岳登頂)や既に歌でも見たように小笠原(昭和十一年三月二十三日~二十八日)や中国旅行(同じく昭和十一年八月八日~八月三十一日)に出ているのだ。おまけに全集の年譜を見るとだ、この昭和十二年の項には、『七月には教員同士で野球をするぐらゐ元氣で、週二十三時間の授業を受け持つてゐた。七月、同じ敷地内で間取り(八疊、六疊、四疊半)も同じである隣の借家に移る』(私は教師時代、年間通しての最大持ち時間は十九時間以上は持ったことはない)とあるのだよ。(ここまでの文末の「だよ」は「ガンダム」のシャーの強さで読んでほしいものだ)……これでも、この「戀」をスキャンダラスとは言わない、のかね?…………]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(6) 元町点描二首

さしなみのもろこし人の家に行きチビ遊べども事變起らず

[やぶちゃん注:これは次の歌を見るに、山下町や元町の外人の居住地を詠んだものと思しい。「チビ」、長男桓(たけし)を詠み込んでいるところからは歌稿「Miscellany」にある「チビの歌」歌群の草稿である可能性が極めて高い。但し、相似歌はない。]

 

わたつみの碧に浮立つ銀杏の黄朝日さしくと黄金に燃ゆる

 

[やぶちゃん注:語句別案が二様に示されているので復元する。

 

わたつみの碧に浮立つ銀杏の黄朝日さしくと黄金に盛上る

わたつみの碧に浮立つ銀杏の黄朝日さしくと黄金にけぶる

 

「盛上る」は「さかる」と読ませたつもりであろうか。

 この一首は歌稿「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」の「ひげ・いてふの歌」歌群の草稿と考えて間違いない。当該歌群には、

 

朝づく日今を射し來(く)と大銀杏黄金の砂を空に息吹くも


朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後(そがひ)の海の靑は眼に沁む

 

の相似性を持った二首があるからである。後者の草稿は後に出る。]

我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす

 霜に更ける冬の夜、遲く更けた燈火の下で書き物などしてゐるのだらう。壁一重の隣家で、夜通し鍋など洗つてゐる音がしてゐる。寒夜の凍つたやうな感じと、主觀の侘しい心境がよく現れて居る。「我れを厭ふ」といふので、平常隣家と仲の良くないことが解り、日常生活の背景がくつきりと浮き出して居る。裏町の長屋住ひをしてゐた蕪村。近所への人づきあひもせずに、夜遲くまで書物をしてゐた蕪村。冬の寒夜に火桶を抱へて、人生の寂寥と貧困とを悲しんで居た蕪村。さびしい孤獨の詩人夜半亭蕪村の全貌が、目に見えるやうに浮んで來る俳句である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

白い階段 大手拓次

 白い階段

かげは わたしの身をさらず、
くさむらに うつろふ足長蜂(あしながばち)の羽鳴(はなり)のやうに、
火をつくり、 ほのほをつくり、
また うたたねのとほいしとねをつくり、
やすみなくながれながれて、
わたしのこころのうへに、
しろいきざはしをつくる。

鬼城句集 秋之部 七夕/籾磨

七夕    七夕や笹の葉かげの隱れ里

[やぶちゃん注:山深い地の農家に七夕飾りを見出した景であろう。しみじみとしていい句だと思う。以下の句も同じくすこぶる映像的である。]

 

      雨降りて願の糸のあはれなり

 

籾磨    籾磨つて臼引き合へる妹背かな

 

[やぶちゃん注:「籾磨」は「もみすり」で籾を磨り臼にかけて玄米にすること。]

2013/09/26

平成25(2013)年9月文楽公演 竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言「伊賀越道中双六」劇評 或いは 「義死」の「死の舞踏」が絶対ルールとなる武士道スプラッター満載の究極の「人生ゲーム」の蠱惑 或いは 心朽窩主人謹製「伊賀越道中飛び双六」

●心朽窩主人謹製伊賀越道中飛び双六の遊び方(凡例)

・全十段。近松半二・近松加作共作。天明三(一七八三)年四月、大坂竹本座初演。安永五(一七七六)年十二月に大坂嵐座で上演された奈河亀輔作の歌舞伎を翌年三月に大坂豊竹此吉座で人形浄瑠璃化した当り作「伊賀越乗掛合羽(いがごえのりがけがつぱ)」の改作である。寛永十一(一六三四)年に起こった鍵屋の辻の決闘に取材する。原事件は曾我兄弟の仇討・赤穂浪士の討入と並ぶ日本三大仇討ちの一つとされるもので、岡山藩士渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬弟源太夫の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討ったもの。「伊賀越の仇討ち」とも言う。今回の公演は東京では十五年、大阪では二十一年振りの通しである。

・最初の「負け 殺し」の頭の目はその段の主な要人の死者数を示す。㊅は「大ぜい」。

・〔 〕は其処(そこ)で得られる隠しアイテム(伏線や見所)を示す。

 

第一部

――和田行家屋敷の段――鎌倉桐ヶ谷――

  負け 殺し  和田行家(ゆきえ)・和田家奴実内

㊀  勝ち 逃げ  沢井股五郎   桐が谷裏道へ進む

㊂  戻る 勘当  行家娘お谷   ☞ふりだし鶴ヶ岡へ戻る

㊃  追ふ     佐々木丹衛門  ☞北鎌倉へ進む

㊄  一回休み   和田志津馬・傾城瀬川・唐木政右衛門

㊅  未亡人となる 行家後妻柴垣

〔正宗名刀・贋手紙・高適五律「送劉評事充朔方判官賦得征馬嘶」〕

 この段の奥の襖に書かれた漢詩については、本評に先だって記した私のブログ記事『「伊賀越道中双六」第一部冒頭「和田行家屋敷の段」の襖に書かれた漢詩について(参考資料)』を是非、参照して戴きたい。これは謂わば、本作の迂遠な羈旅を象徴する大切な「大道具」なのであった。

 この段で殊勝に懺悔をする振りをしながら悪辣な騙し討ちを決行、たらし込んだ行家の奴実内も惨殺する沢井股五郎は、本外題で徹頭徹尾、生得の淫猥冷血の大悪党として描かれ(お谷を貰って名刀を入手し和田家を滅ぼすことを最終目的とする)、一切の同情を排するように構築されており、観客の憎悪を掉尾まで嫌が上にも昂めるようになっている点、美事としかいいようがない。

 準主役の志津馬の人物造形の厚みを出すためには、相思相愛の傾城瀬川と「大序 鶴が丘の段」が欲を言えば欲しいところである(無論、上演時間を度外視してということになってしまうのだが)。これがないために、志津馬は掉尾まで何だか「影が薄い」という嫌いが拭えないのである。

 なお、この舞台である鎌倉の桐ヶ谷は現在の材木座辺にあった谷戸で、現在の知られる「桐ヶ谷」という桜の品種はもとはこの地に産したからと伝えられている。

 

――円覚寺の段――北鎌倉――

㊁㊅ 負け 殺し  佐々木丹衛門・股五郎母鳴見・他小者多数

㊀  勝ち 逃げ  沢井股五郎   藤川新関へ進む

㊂  勝ち 騙し  沢井城五郎(股五郎従兄弟・和田家に積年の恨みを持つ将軍昵近衆)

㊃  応戦 負傷  和田志津馬   藤川新関へ進む

㊄  一回休み   唐木政右衛門

〔正宗名刀・駕籠・沢井家伝来の妙薬〕

 観客に既に知られている倒叙式の悪党側の謀略が見かけ上、憎らしいまでに進行するように描かれる。股五郎とその母親との交換という条件の中、母鳴見は駕籠の中で短刀を自らに突き立ててしまう。しかしその後の護送と闇討ちの後、股五郎母鳴見と敵方であるはずの丹衛門との隠された同盟の機略(悪党でもせめて息子に武士らしい果し合いの中で死んでほしいという母心)が明らかにされたかと思うや、意外にも正宗の太刀の無事とそのトリックが明かされ観客は合点する。ところがその瞬間、驚くべき凄絶な壮士と瀕死の老婆の太刀による刺し合いという、鬼気迫る「相対死(あいたいじに)」が演じられるのである!

 私はこの不思議な「相対死」に異様なまでの艶っぽささえ感じた。私はこの筋骨隆々の壮年剣士と端正な白髪の婆(ばば)の見つめ合いに、何とも言えぬ不思議な恍惚(エクスタシー)を感じ、図らずも昂奮してしまったことを告白しておく。今回の芝居の最初感動がここで襲ってきた。こういう前部に異常なクライマックスを配したのは誠に憎い仕掛けと思う。また前段に引き続き、股五郎は母の死に一切感情を動かさず、その死骸さえ受け取らぬ人非人として描かれるのには(実景では管領として実権を握っていた上杉家と足利家の対立の中で不満を託っていた城五郎を通しての間接表現となっているが)、精神異常若しくは異常性格者としての股五郎の造形が感じられて慄然とさせる。股五郎はまさに仇討という「系」の中で、その遂行が神の手によって行われるための「悪の機関」としてなくてはならぬ――ということが自然に理解された。よくもこういうピカレスクを造形をし得たものだ。ジャン・ジュネでさえも、ここまでテッテした悪漢を造形することは不可能であったに違いない。

 ここで初めて股五郎贔屓の呉服屋十兵衛が登場するが、しかしその頭(かしら)源太でその心情の善玉は言わずと知れるようになっている。

 

――唐木政右衛門屋敷の段――大和郡山――

×  負け 殺し  ナシ

㊄  離縁婚儀   覚悟  唐木政右衛門  郡山城へ登城

㊀  離縁妊娠   覚悟  お谷      ☞出産のため一回休み後で岡崎へ進む

㊃  推挽推察 自害覚悟  宇佐美五右衛門 郡山城へ登城

㊂  婚儀     饅頭  おのち     ☞乳母の懐で休み

㊁㊅ 一回休み       和田志津馬・沢井股五郎

〔駕籠・婚儀の饅頭〕

 お谷と駆け落ちしてしまって妻は勘当されたままの唐木政右衛門は、このままでは義父の仇討も義弟志津馬の敵討の助太刀も出来ない。そこで窮余の策として彼は愛する妊娠中のお谷を離縁し、柴垣の産んだ頑是ない満六歳の「おのち」を妻にすることで亡き行家を義理の父とするという、トンデモ機略を秘かにしかも敢然と冷酷を装って実行してしまう。本話は、執筆当時は弟などの目下の敵討は公的に認められなかったために、本来の鍵屋の辻の仇討の渡辺数馬が弟の仇討するという設定を父の仇討ちに変更設定している、とものの本にはあったのだが、それ以上に私はここで、遙かに年上の唐木が「おのち」を妻とすることによって年若の志津馬の義理の弟になって、義理の兄の仇討ちを晴れて助太刀するという構造にもなっているという気がしないでもなかった。異母妹おのちが、訳も分からず三三九度、それより饅頭を欲しがり、遂には乳母の懐の中で眠ってしまう――このシチュエーションは笑いを誘うのだが、私には、実の父への仇討のためという義理は理解しながらも、政右衛門から下女扱いされ、子を孕んでおりながら離縁され、失意の底に陥るお谷が何としても哀れであり(この哀れはついに岡崎の段で驚くべき頂点に達するのであるが)、加えてこの何の憂いもない「おのち」という少女のあどけなさが対位法的にお谷へのかきむしりたくなるような悲哀感を感じさせるのであった。但し、この場面、動きが少なく、やや、途中で睡魔が襲いかけたことは自白しておく。

 但し!

 この切の咲大夫の台詞の使い分けの神技にはカッと目が覚めた!

 何というか、その、ともかく凄い! の一言なのである!

 登場人物の台詞が実際に別な大夫によって語られているかのような、則ち、不思議なことに後の台詞が前の台詞を食っているように聴こえる不思議ささえ持っていた!

 私は初めて文楽で大夫の技というものに――咲大夫のそれによって――目覚めさせられたと言ってよい。

 

――誉田家大広間の段――郡山城――

×  勝ち☞負け 桜田林左衛門 ☞恨みを抱き一回休み後に藤川新関に進む

㊀  負け☞勝ち 唐木政右衛門 藤川新関へ進む

㊁  自害☞命拾 郡山藩家臣宇佐美五右衛門

㊅  行司☞芝居 藩主誉田大内記

㊃㊄㊂ 一回休み 和田志津馬・沢井股五郎

〔大槍〕

 ここで駆け落ちしてきたお谷と政右衛門二人を父代わりのように面倒を見てきた宇佐美五右衛門が、政右衛門を藩に推挽していた。藩剣術指南役で宿敵股五郎伯父である桜田林左衛門と試合をする。勝手しまうと敵討ちは不可能、そこで前段の末では親代わりの宇佐美に何と!「腹切つて下され!」と頼むのである。「ハヽヽ慶!」と哄笑して請けがう宇佐美、政右衛門も政右衛門だが、この義心を慮って快諾する宇佐美も宇佐美――しかし見ていて何とも爽やかなのである(但し、その間も私は、眦の端に凝っと顔を伏せたままのお谷が不憫であったことも変わりはないのである)。この不思議な爽快感こそが、動き出したら止まらない仇討機関説――神話としての仇討というメカニズムの証明とも言えると思う。

 勝っていながら藩主より追放を命ぜられて不満たらたらに退場する林左衛門(後半は寧ろ彼が悪方の顕在部分を支えることになる)。

 そこに藩主大内記が槍を持って現われ、「不忠者!」と政右衛門に突き掛かる!(この槍が本物じゃないかと思うくらい長くて異常なリアリティを醸し出す!)

 無論それは芝居なのであるが、藩主がそこまで何もかも分かっているならば(いや、分かっているのであるが)、そのまま指南役を猶予して仇討参加の許諾をしてもよいわけである。であるからしてこれはもう一途に、政右衛門が仇討へ向かうために動いている「仇討自動起動システム」のためなのであって、観客もこの階段で落ちれば必ず死ぬという「相棒」のお約束と同なじに、何らの違和感も覚えないんである。

 そこで藩主に神影流の極意を示すシーンは、もう、玉女の独擅場!

 大振りの政右衛門と玉女の大きな体がハイブリッドと化して、大内記の振う大槍をグッツ! と摑む!

 キリキリという音が幻聴するかのような迫力は言葉では言い表せぬ!

(但し、今回の公演の朝日新聞の玉女のインタビュー記事によれば、師匠で政右衛門の当たり役であった吉田玉男は『あまり大きい胴は嫌や』と『ちいさめに丁寧に人形をこしらえていた』と振り返り、『鬢(びん)の形も独特で立役なら憧れの役。かっこよくつとめたい』と答えておられる。いやもう、ほんと、かっこよかったです!!!)

 

――沼津里の段――沼津の街道――

×  負け ナシ

㊄  強がり☞怪我   平作     ☞沼津平作の家へ進む

㊃  隠密☞驚愕事実  呉服屋十兵衛 ☞沼津平作の家へ進む

㊂  妙薬☞窃盗覚悟  お米     沼津平作の家へ進む

㊀㊁㊅ 以下三回休み  唐木政右衛門・和田志津馬・沢井股五郎

〔沢井家伝来の妙薬《起動》〕

 登場から、その老いさらばえた平作の勘十郎の遣いが尋常でない。その神妙なる「軽さ」が、何か、『これは来るぞ!』という漠然とした直感を感じさせるのである。亡父で先代の勘十郎も得意とした平作であるが、今回の公演の朝日新聞のインタビュー記事で勘十郎は『父が平作を遣う時、軽い人形こそ老いた足取りがが難しいと話していた。僕も還暦。老人役も似合わねば』とおっしゃられているが、足や左遣いの方も含め、この平作はまさに生き人形と言っても過言ではない!

 平作の家でのエピソードは、これまた文楽お約束のトンデモない偶然の括弧三乗。股五郎贔屓の呉服屋十兵衛は言わば股五郎の索敵役、平作のお米は実は志津馬相愛の元傾城の瀬川、そうして平作は満二歳の時に養子に出した息子(瀬川の実兄)がいたと昔語り……何と! それが何を隠そう! この呉服屋十兵衛!……近松門左衛門も吃驚の、奇しき因果の天の網島と申そうか。

 ここのところ、ずっと1か2列のかぶりつきであったのが、今回は少し後ろの8列中央(第二部は7列中央)という優等生の席であったが、ここから見るとやはり人形の表情は見え難いものの、逆に人形の全体の動きが自然、手に取るように分かる良さがある。言わずもがな、蓑助の捌き(特に次の段のクドきのシーン)は段違(ダンチ)神韻と讃すべきもので、お米の生身の肉にそっと触れるような、えも言われぬ色香をこの距離にあっても(この距離だからこそ)十二分に味わうことが出来た。蓑助が女を遣うと、どんな外題にあっても私はその女に恋してしまう。まさに文楽的に命を棄ててもよいと感じてしまうということをここに私は自白する。無論、今回もお米に惚れたことは言うまでもない。

 鶴澤寛治の至宝のいぶし銀と、少年の面影を失わない私の贔屓鶴澤貫太郎のツレの若々しい三味線の音(ね)が道中の景を映して、これ絶品!

 

――平作内の段――沼津平作の家――

×  負け ナシ

㊀ 事実認識☞決意 平作          ☞沼津千本松原へ進む

㊄ 覚悟☞別離   呉服屋十兵衛      ☞沼津千本松原へ進む

㊂ 窃盗失敗☞告白 平作娘お米実は傾城瀬川 沼津千本松原へ進む

㊁㊃㊅    索敵 志津馬家来池添孫八   沼津千本松原へ進む

〔印籠・沢井家伝来の妙薬〕

 お米は愛人志津馬の深手の傷(円覚寺の段で受けたもの)を癒さんと十兵衛の妙薬を盗もうとして失敗、事実を語って詫びる。股五郎のために動いている十兵衛は、平作に実子平三郎であることも、同時に彼女の実兄でもあることをも言い出せず、表向きはあっさりと去ってゆく。しかし秘かに薬を入れた印籠を残してあった。その印籠を見たお米は、はっと気づく。その紋所は思い人志津馬の仇敵沢井のもの。平作もいまの十兵衛こそが実子と思い当る。

 そこで平作は覚悟する。この覚悟こそが凄絶なカタストロフへ繫がることを我々は知らない(無論、今回は床本まで全部読んで準備万端整えての観劇であったが、始まれば私は――愚鈍になることにしている。――「知らなかった」こと、思惟中止する――のである。これが文楽を真に楽しむための大切な心構えであると私は思う)。

 平作は娘の愛する志津馬がために、十兵衛を脱兎の如く追い掛け、股五郎の消息を摑まんものと、宙を飛ぶように走り出すのである。

 この、勘十郎の軽い捌きがまた、絶妙である。

 

――千本松原の段――沼津千本松原――

  事実認識自死 平作

㊁  覚悟別離   呉服屋十兵衛      京都伏見へ進む

㊂  看取り     平作娘お米実は傾城瀬川 京都伏見へ進む

㊃  看取り     志津馬家来池添孫八   京都伏見へ進む

㊄㊅ 一回休み

〔闇・脇差〕

 平作はここで追いつくが、年来の御贔屓の股五郎への義理を通す十兵衛は股五郎の居場所を語ろうとはしない。しかも平作はこの時に至っても十兵衛が実子であることをおくびにも出さない。そして十兵衛の意志堅固を認めるや、平作は十兵衛の脇差を抜き取り、自らの腹にそれを突き立ててしまうのである! 隠れていたお米は父の意想外の暴挙に駆け寄ろうとするが、総てを察した孫八に制止され、凝っと堪えるのである(本来なら、この蓑助の演技に私は注目するはずであったが、平作の捨て身の行為の衝撃に、流石に私は色を失って、平作だけを凝視していた)。瀕死の平作は命と引き換えに股五郎の行方を最期に乞う。十兵衛はこれがたった一度きりしか出来なかった孝行のし納めと、既に察していたところの蔭に潜む妹お米や孫八に聴こえるように股五郎の落延びる先は九州相良と秘密を漏らすのであった(以下の引用は劇場パンフレットの床本を参考にエンディングに近い部分から引用した。なお、私のポリシーから踊り字「〱」「〲」及び大方の漢字を正字化して示した。読みは必要と思われる箇所に独自に歴史的仮名遣で示した。分かり易くするために台詞話者を示した。床本では台詞は実際には全体が一字下げである。以下、この表記注は略す)。

   *

平作「エヽ忝い忝い忝い。アレ聞いたか、誰もない誰もない。聞いたは聞いたはこの親仁一人、それで成仏しますわいの。名僧知識の引導より、前生(さきしやう)の我が子が介抱受け、思ひ殘す事はない。早う苦痛を留めて下され」

親子一世の逢ひ初めの、逢ひ納め

十兵衞「親仁樣親仁様、平三郎でございます。幼い時別れた平三郎、段々の不孝の罪、お赦されて下さりませお赦されて下さりませ」

   *

と、一期一会の哀しい親子の対面(たいめ)と永訣――互いに念仏を唱えながら死にゆく平作――特に「名僧知識の引導より、前生の我が子が介抱受け、思ひ殘す事はない」という台詞で私は思わず大きく首を縦に振っていた。

――私は幕が引き終った後も、何か憑かれたように――茫然自失として、涙の出るのを抑え切れずにいた。……

 勘十郎の平作を越えられる者は、暫くは出るまい。この遣いは、まさに入魂と称すべきものである。

 私の文楽鑑賞は邪道で――人形一の大夫は二の次三味はその下――である。しかし流石にこの切の住大夫は感激した。老齢の平作と完全に重なって、まさに「鬼気迫る」ものを感じた。これはもう、必聴中の必聴、聴き逃すことあらず!

 

 かくして第一部は終わる。

 而して振り返ってみれば、この前半、そのクライマックスは孰れも

――極悪非道の子ヴァガボンド股五郎を、せめて武士らしい武士、男らしい男として最期を遂げて呉れるように願い、唯一人守らんとする――我々を最期に守ってくれる者は永遠に母だけである――老母鳴見と

――生前、結局、お米や平三郎(十兵衛)のダメ親父でしかなかったものが、その最後の「最期」に父親としての不惜身命の生き様=死に様の一挙手を哀しいまでに美事に選び取った――「父は永遠に悲壯である。」(萩原朔太郎「宿命」)――老父平作と

――老いたる父と母の自死によってこそ、敵討ちへの引導は鮮やかに渡されているのであった。

……かくして道中双六は……池添孫八が真っ暗闇の千本松原に散らす小石の閃光の中……凄絶な死の累積と血の収穫を得て……西へ西へと……向かうのであった……

(以上、第一部観劇 2013年9月16日(月) 於東京国立小劇場)

 

 

 

第二部

――藤川新関の段 引抜き 寿柱立万歳――三河藤関所(昼から夕)――

× 負け 殺し

㊅ 手形書状窃盗☞関所通過 和田志津馬  岡崎へ進む

㊀ 一目惚れ☞手形窃盗共犯 お袖     岡崎へ進む

㊂ 狂言回し        沢井家奴助平 ☞ふりだしへ戻る

㊁㊃㊄      一回休み 唐木政右衛門・沢井股五郎

〔遠眼鏡・沢井家書状・通行手形〕

 藤川関所門前、股五郎を追って西下する志津馬はしかし、通行手形を持っておらず、途方に暮れる。その彼に門前茶屋の看板娘お袖がホの字となったのを知って、志津馬は「色で仕掛ける我が身の大事」と間道への手引きを乞う。そこへ飛脚助平が登場、お袖にマイって、「白齒娘のお初穗を、一口呑ますコレ氣はないか」と鼻の下を伸ばし、各種の茶を洒落言葉に散りばめた「茶の字尽くし」(パンフレットによれば歌舞伎からの逆移入とされる)の滑稽台詞がこの本外題でも特異な軽快な長調の段の曲想をヒート・アップさせる。お袖が少し離れた店先にある遠眼鏡(お袖の父山田幸兵衛は百姓ながら関所の下役人を仰せつかっており、元来は関所破りを監視するためのもの)へと誘う。見慣れぬ望遠鏡にすっかりハマって我を忘れる助平。その隙に、彼を茶飲み話に沢井家家来と知った志津馬が書状(引抜きの前。こちらはお袖は知らない)と手形(引抜きの後。こちらはお袖と共同正犯)をまんまと盗むことに成功する。

 

《引抜き 寿柱立万歳》

 この「引抜き」は知られた衣裳の早変わりの「引き抜き」ではなく、本舞台の演技を一時遮断して、遠街の景を描いた幕(ちゃんと周囲が巨大な黒い丸枠になっていて遠眼鏡の中の景であることが示される)が落ちて、まさに遠眼鏡の中に見える遠くの街路で演じられている万歳を舞台前面で演じる、一種の劇中劇を指している。

 この新春を言祝ぐ万歳で、大好きな一輔が大黒頭巾の才蔵の滑稽な舞踏を美事に演じた。――言ってはいけないことなのかもしれないが、出遣いで見たい(というより出遣いでないと悲しいとさえ言える)、心地よい遣い手というのがやっぱりいるもんである。私は故玉男に蓑助・玉女・勘十郎そして一輔である。他の遣い手が生理的にいやだという訳ではないが、どんな人形を扱っても、遣い手の顔が一切邪魔にならない、齟齬を感じないというのはやはり、限定されるものである。それは顏がいいとか悪いとかではなく、その遣い手の顔が自分の知っている誰彼に似ていて、無意識にその連想が入って、人形を見るのを邪魔するからだと私は感じている。ある方などはとてもいい遣い手なのであるが、私にとって因縁のある知人の顔に似ていて、その方が出遣いで出ると何故か芝居に集中出来なくなるという事実があるからである。これは致し方あるまい。――

 この万歳はこれ自体を独立の文楽として十二分に楽しめた。私は三味や鼓に合わせて、思わず膝を叩いていて、藤川(現在の愛知県岡崎市)の町人になったような実に爽快な気分であった(これは年内新春という年の設定であろうか? 因みに実際の鍵屋の辻は寛永十一年十一月七日(グレゴリオ暦一六三四年十二月二十六日)のことであった)。

 

 さて助平、ふと気づけば既に「七つの時がはり」(不定時法であるから四時か四時半前後と思われる)、手形のないのに慌てて、あたふたと道を引き返して去ってゆく。お袖と志津馬は難なく関所を通過するのであった。

 助平は紋壽が病気休演でこれもまた死んだ平作の息が切れぬ間の勘十郎が代演している。平作の軽さとはまた違った、軽妙滑稽を的確に演じ分けている彼には脱帽である。フランス公演のマネージメントもやっているから寝る間もないだろうに、そうしたもろもろの疲れを一切感じさせない、正直、超人である。

 

――竹藪の段――三河藤関所(夕)から竹藪へ――

 負け 殺し   関所巡邏の役人

㊄ 勝ち☞関所破り 唐木政右衛門  岡崎へ進む

㊂ 逃走      沢井股五郎   ☞あがり伊賀上野鍵屋の辻までお休み

㊁ 警護      桜田林左衛門  ☞京都伏見へ進む

㊃ 田舎ヤクザ   蛇の目の眼八

㊅ 一回休み    和田志津馬・お袖

〔闇・雪・鳴子〕

 夕闇迫る関所に鎌倉の奥女中の体(てい)の駕籠が着くが、中に忍ぶは股五郎、それを警護するのは、かの政右衛門によって郡山藩を放逐されて恨み骨髄の股五郎伯父桜田林左衛門、林左衛門は土地のゴロツキ蛇の目の眼八を雇って、追跡して来る志津馬・政右衛門殺害を命じた後、関所を抜け、関所の門は閉じられてしまう。入相の鐘の鳴る中、林左衛門の後ろ姿を垣間見ていた政右衛門が関所前まで辿り着くが、今や遅し。逃してなるものかと、政右衛門は関所破りを決意する。

 見なしの闇の中、抜き放った太刀を便りに行きの積もった竹藪を抜けてゆく政右衛門、大夫の語りがなく、わずかにスローモーションに処理した映像を見るような絶妙の動きがいやがおうにも緊張感を高める印象的なシーンである。

 玉女の眼が血走った政右衛門の眼そのものとなり、警戒の関所役人を一刀のもとに切り殺す――緊迫のシークエンスである。ここで遂に政右衛門は仇討ち成就のために遺恨とは無縁の殺人を行った。最早、仇討システムの停止は出来なくなったと言える重要な鬼気迫る場面なのである。

 

――岡崎の段――岡崎外れ山田幸兵衛屋敷――

 義殺・悪徒成敗  政右衛門長男乳児巳之助・蛇の目の眼八

㊅ 師再会☞子殺   唐木政右衛門    京都伏見へ進む

㊄ 夫再会☞悲劇   お谷

㊃ 弟子再会☞洞察  山田幸兵衛

㊂ 新枕・憐憫    お袖・幸兵衛女房(お袖母)

㊀ 奇計・新枕    和田志津馬     ☞京都伏見へ進む

〔御守袋〕

 お袖は連れてきた志津馬を泊めようとするが、母曰く、お袖は「去年まで腰元奉公をしていた鎌倉でその主人が勧めた縁談を一方的に嫌って家に戻っている娘であるから、その先方の許婚(いいなずけ)のことを考えると、ふしだらにも若き男を連れて来て泊めるなんどということは出来ませぬ」と断られてしまう。せめても茶でもと呑んでいる間にお袖の濃厚なクドきがはじまる。「……お顏見るから思ひ初め、どうぞ女夫(めうと)になりたいと、胸ははしがらむ白川の關は越えても越え兼ぬる戀の峠の新枕、交はさぬ中(うち)胴欲な、つれないことを云うふ手間で、つい可愛いと一口に、云はれぬかいな」(こういう台詞を言われてみたかったなあ、生涯に一度ぐらいは)。ところがそこに、かのゴロツキ眼八(無論、お約束通り、眼八はお袖に気があり、かなり卑猥な言葉を吐く)が現われ、怪しい男と連れであったやに見えたと、命じられた志津馬らではないかと思っての詮議、お袖はうまく志津馬を奥の部屋に隠す。眼八は執拗に疑って奥の部屋へと押し入るが、すぐに幸兵衛に腕を捩じり上げられて出て来る(無法者眼八を蛇蝎のように嫌っていた幸兵衛が機転をきかして更に志津馬を隠したものらしい)。眼八が追い出されると志津馬が出てきて、ともかくも関所破りの冤罪から救ってくれた礼を申し、自らを先程、藤川新関で盗んだ書状の宛名である山田幸兵衛を捜す浪人者と答える。すると、お袖の父は自分が幸兵衛であると名乗る。不審な顔をしている彼に志津馬は自ら股五郎の従兄弟城五郎所縁の者と称して書状を渡す(ここまでで彼は宛名は見ているものの書状の中身は覗いていないことが分かる)。すると、幸兵衛はその内容を復唱、そこにあったのは腕の立つ山田幸兵衛への股五郎助力の懇請であった。それを聴いた瞬間、志津馬は『これ幸ひ』と、「何をか隱さん」「某こそ」「澤井股五郎」と一計を案じた大芝居をやらかすのである。すると(いやもう、何となく観客は分かっているのだが)お袖が名前だけ聞いて(というところがミソ)生理的嫌悪感(はしっかり観客にあるから何故か共感)を抱いて実家に戻った許婚というのが、これ、何を隠そう、沢井股五郎だったという白々しいまでの浄瑠璃お決まり茫然自失偶然呆然驚天動地の事実開陳。お袖の狂喜は無論のこと、老父母は揃って盃の容易の、婿入りの祝言のと言挙げた挙句、田舎のこととてロクな料理はないが、「……娘のお袖が一種でオホヽヽヽ」「アハヽヽヽ」「ホヽヽヽ」「ハヽヽ」……と何だちょっとエロくて少し不気味な高笑いを交わす始末。

 因みにこの十兵衛も、文字通り八面六臂の勘十郎で如何にも安心して見て居られた。文雀のお袖や豊松清十郎の志津馬もともに抑えを利かせてしとやかな感じで、老父母の猥雑な笑いと対極をなし、二人が閨に入る辺りも、不思議に何の妄想も掻き立てないのがいい(志津馬の嘘を知っている我々はお袖と何もないことを何処かで望んでいるからである。少なくとも私はそう感じた)。

 夜更け、疑いを払拭出来ない眼八が忍び込んで来て、中央の葛籠(つづら)の中に入って潜む。

 この間、入口を90度動かすだけで舞台前面が戸外になる文楽の場面転換にすっかり慣れた自分がちょいと不思議。

 外には関所破りをした政右衛門が捕り手に包囲されているが、巧みな柔術でばったばったと組みつく相手をなぎ倒す。その大働きを、音に気づいて起きて来た幸兵衛が凝っと見つめている。そうして表へ出ると、政右衛門を知り合いの飛脚と嘘をついて急場を救う(彼は関所下役人であるから信用度がすこぶる高いわけである)。

 礼を述べて立ち去ろうとする政右衛門に対して、引き留め、今の立ち回りでのそれを自分と同じ神影流柔術と見抜く。

 そう、またここにまたしてもシュールな偶然がまた仕組まれてあるのだ。

 何を隠そう、政右衛門はこの山田幸兵衛の昔の弟子だった!

 孤児(みなしご)であった庄太郎(政右衛門の幼名)の武術の師という次第(もうここまでくると違和感を通り過ぎて痛快でさえある)。十五で家出と思っていた庄太郎は、実は幸兵衛の教えを汲んで諸国行脚へ出たのであったことを弁解、再会を喜ぶ二人。ところが幸兵衛は先の股五郎助勢の話をし、こともあろうに、(今自分の娘お袖と新枕の最中の)若造和田志馬などたかが知れておるが、唐木政右衛門という音に聞こえた武術の達人が厄介、立ち向かえる相手は庄三郎お前以外にはない、と本人に本人打倒の話を頼んでくる。しかしこれを索敵のための絶好のチャンスとして、政右衛門は自らの名や身分を隠して口先で加勢を許諾するのである(この時、幸兵衛は葛籠の中の眼八に気づく一瞬がある)。

 関所から幸兵衛に呼び出し(まさに政右衛門の実際の関所破りの竹藪の一件であろう)があって、政右衛門は師匠の煙草を刻み、老女房は糸を紡ぐ。

 そこに下手より、雪の中を巡礼が乳飲み子を抱えてやってくる。それは何と、お谷である。せめても二人の子を元夫に見せんと政右衛門を追って旅していたのであった。持病の癪(しゃく)を起こして門口に倒れるお谷。覗いた政右衛門は驚愕するが、ここで彼女に出られては演じた嘘がばれる危険があると察し、涙を呑んで、ただの非人乞食と幸兵衛女房へ伝え、先にある御堂へ退去させようとする。しかし、強い癪の発作から動けぬお谷。老女房は政右衛門の関わりになられては不用心というのを抑えて、子供だけでも、と赤ん坊だけは奥の炬燵へ運ぶ。

 そこに幸兵衛が帰宅、と同時に、奥から老女房が稚児を抱いて走り出、この子の御守りの中に「和州郡山唐木政右衞門子、巳之助」と書いてあるわいの、と二人に告げる。

 幸兵衛はそれを聴くと、人質にとって養育すれば、こっちの六分の強み、敵方にとっては八分の弱み、快哉を叫ぶ。

――その瞬間である

   *

政右衞門ずつと寄つて稚兒(をさなご)引き寄せ、喉笛(のどぶえ)貫く小柄の切つ先

幸兵衞驚き

幸兵衞「コリヤ庄太郎。大事の人質ナヽヽヽヽヽなぜ殺した」

政右衞門「ムハヽヽヽヽヽ。この倅を留(と)め置き敵の鉾先(ほこさき)を挫(くぢ)かうと 思し召す先生の御思案、お年の加減かこりやちと撚(より)が戻りましたなあ。武士と武士との晴れ業に人質取つて勝負する卑怯者と後々まで人の嘲(あざけ)り笑ひ草。少分ながら股五郎殿のお力になるこの庄太郎、人質を便りには仕らぬ。目指す相手政右衞門とやらいふ奴。その片割れのこの小倅、血祭に刺し殺したが賴まれた拙者が金打」

と死骸を庭へ、投げ捨てたり

   *

[やぶちゃん語注:「金打」は「きんちやう」(きんちょう)」で誓い・約束の意。ここは股五郎への助勢を誓った証し、といった意味である。]

 この赤子の喉元を突き刺すシーンは本当に一瞬であって――凄惨凄絶なんどと言ふばかりなし――と感じる暇さえない。まさに「息を呑む」行為としか言いようがない。

 ゴミ同然に舞台前面中央に投げ捨てられる赤子……

 これは解説から床本まで総てを下調べして見たとしても(実際に今回の私はそうである)、その「実際の行為」を見るまでは信じられない(事実そうだった)、だからこそ、想像出来ない(現実にそれは惨酷鮮烈にして奇妙な謂いだが新鮮であったのだ)、だからこそ「息を呑む」場面なのである。但し、刺す前後、政右衛門の頭の眼の動きには注視せねばならぬ。

 とりあえずもう少し、先まで見る。

 この直後、幸兵衛は、

   *

幸兵衞手を打ち

幸兵衞「ハヽア尤も。その丈夫な魂を見屆けたれば、何をか隱さう、股五郎は奧へ來てゐるわいの。婆、聟殿を起こしておぢや。『アヽコレコレ股五郎殿の片腕になる賴もしい人が來た』と言ふて、こゝへ呼んでおぢや」

政右衞門「スリヤ、澤井股五郎殿はこの内にゐさつしやるか。シテ、外に連れの衆でもござるかな」

幸兵衞「アヽイヤイヤ供もなし、たつた一人。奧底なう話してたも」

と打ち明け語るは

思ふ壺、『何條知れたる股五郎、手取りにするは易かりなん』と、手ぐすね引いて待つ大膽

志津馬は女房が案内に『股五郎が片腕とは、何奴なりとも只一討ち』と鯉口(こひぐち)くつろげ居合腰

氣配り、目配り、互ひにきつと

政右衞門「ヤアこなたは」

志津馬「こなたは」

と一度の仰天

幸兵衞むんずと居直り

幸兵衞「唐木政右衞門、和田志津馬、不思議の對面滿足であらうな」

   *

 政右衞門の「ヤアこなたは」と志津馬の「こなたは」の発声者は推測である。

 ここであきらかなように、既にしてこの時、幸兵衛は彼らの正体を見抜いていた。以下、幸兵衛が述懐する。

――今宵、自らが沢井股五郎と名乗った青年は、聞いている当人とは年恰好も全く異なり、てっきり仇方の志津馬かその余類の騙りと初めから覚えて、取り敢えず騙された振りをして、その内に化けの皮を剝して詮議してやろうと思っていた[やぶちゃん補注:これはお袖の処女をその騙しの犠牲にすることを幸兵衛が全く厭うていないことに注意したい。「志津馬命のお袖にしてみれば一夜ぎりの逢瀬といえども永遠の瞬間だ」などという気障な台詞は煩悩多き私には口が裂けても言えない。]。――しかし、政右衛門については、たった今、それと悟ったのだ。助勢を頼んだら早速に承知しておきながら、しきりに股五郎の所在を聞き出そうとする点では何か変だとは思ってはいたが。今、『子を一抉(いちえぐ)りに刺し殺し、立派に言ひ放した目の内に、一滴浮む涙の色は隱しても隱されぬ。肉親の恩愛(おんない)に初めてそれと悟りしぞよ』とその理由を明かす[やぶちゃん補注:私には政右衛門の眼に涙が確かに「見えた」。そのような効果を玉女は確かに目の動きで表現していたのである。]。

――沢井に対してはさしたる恩がある訳ではないが、お袖を城五郎方へ奉公にやった時、『筋目ある人の娘、末々はわが一家(いつけ)の股五郎と娶合(めあ)はせん』『オオいかにもお賴み申す』とつい言った一言が、『今さら引かれぬ因果の緣』である。その後娘は奉公から引いて帰りはした。が、『今落目になつた股五郎、見放されぬは侍の義理、匿(かくま)ふ幸兵衞ねらふは我が弟子。惡人に組みしてくれと賴むに引かれず、現在わが子をひと思ひに殺したは、劍術無雙の政右衞門。手ほどきのこの師匠への言ひ譯、イヤモさりとては過分なぞや。その志に感じ入り敵の肩持つ片意地も、もはやこれ限(ぎ)り、たゞの百姓。町人も侍も、變らぬものは子の可愛さ、こなたは男の諦めもあらう。最前ちらりと思ひ合す順禮の母親の心が察しやらるゝ』。

 こうして逆に幸兵衛は我が子を残忍に殺めてまで義理立てをして仇討ちの本懐を遂げんとする政右衛門に感じ入って、志津馬らに協力を決意するのではある。

 しかし、この幸兵衛の言説は男のクールな義理の主論理として語られ、附けたりで、お谷の心情が察せられる、と余韻を含ませているのであるが、多くの方は逆に論理的に納得がいかないのではなかろうか? そもそも事後検証から巳之助の死は有効であったと言えるかという点が問題となる。この幸兵衛の謂いからすれば、政右衛門が正直に胸襟を開いて語っていたらと仮定してみると、若しくは股五郎を語っている怪しい青年と政右衛門をこれより早く対面させていたらと考えてみると、この凄惨悲痛なカタストロフは起こり得なかったということが容易に理解出来るのである。幸兵衛が庄太郎が政右衛門であることを確信するためには、実子巳之助殺傷の場面は、十分条件ではあるが必要条件ではない。ここに事実は避け得ぬ「義理の論理」による正当化などは実は全く成り立たないのである。

 これはもう、作品の構造から見れば話柄を「悲惨に」「凄惨に」し、これ以上の「猟奇性はないとも言える」「己の赤子の咽喉を指す父」「乳児の首から吹き出ずる鮮血」という、「慄っとするほど」「スプラッターな」この上なく「面白い」「シュールな」場面を創る――『為にする』子殺しのシーン――に過ぎないと批判されても文句は言えないであろう。

 だが、そう批判する人々でさえも、この実の子の喉笛を搔き切る政右衛門に怒りよりも前に――何か限りない『無意識の悲愴の共振』を感じるのではないか(因みに私がそう思っているわけではないが、フロイト先生が本作を鑑賞し得たならば、父の子殺し、去勢恐怖の象徴を見て快哉を叫ぶことは想像に難くない)。それ自体が、起動して一定安定速度に達して順調なる当速度運動に入った「伊賀越道中双六」というゲーム・マジックの中の駒となった我々を象徴している現象なのだとも私は思うのである。

 いや、まだ、私の強いしこりとなっているお谷の扱いぶりを語っていなかった。

 以下、先の幸兵衛の台詞の直後からである。

   *

と悔めば

門に堪へ兼ねて、『わつ』と泣く聲内よりも、明くる戸すぐに轉(まろ)び入り、あへなき骸(から)を抱き上げ

「コレ巳之助、物言ふてたも、母ぢやわいの。夕べまでも今朝までも、憂い辛いその中にも、てうちしたり藝盡し、父御(ててご)によう似た顏見せて自慢せうと樂しんだもの。逢ふとそのまゝ刺殺す、慘たらしい父樣を恨むるにも恨まれぬ。前生(さきしやう)にどんな罪をして侍の子には生れしぞ。こんなことなら先刻(さつき)の時、母が死んだら憂目は見まい。佛のお慈悲のあるならば、今一度生き返り、乳房を吸うてくれよかし」

と庭に轉(まろ)びつはひ廻り、抱きしめたるわれが身も雪と消ゆべき風情なり

   *

 慰めの言葉もなき母の悲痛慟哭が聴こえる……涙に暮れる一同……

 ところがこの直後から、芝居はどんどん寸詰まってきてしまうのである。

――ここで志津馬が股五郎の消息を訊ねると、幸兵衛曰く、ついさっき、庄屋に呼ばれた際、そこで股五郎に逢った、今頃は山越えをして中山道と答える(この時の台詞はそこで落ち延びるための手引きを自分がした時、『城五郎へ一旦の情け、股五郎との緣もこれまで。思はぬ手段(てだて)が緣になり、志津馬殿と言ひ交した娘が身の果、不憫や』と言っているのだが、その時にそう思ったとなると、お袖不憫どころか、ますます巳之助の死は回避できたのじゃなかったんかい! と突っ込みたくなってしまう私が、納得づくのはずの私の中にもいるんである……)。

――とお袖が上手から出現。これがまあ、尼になってるんじゃあねえか、都合よく!……

――それでも志津馬への思いを残すお袖を不憫と思い(?)、幸兵衛は一行の中山道への道案内を命ずる、ってさ、もう、尼さんになってんだぜい?!……

――さて、この場のことをみんな知ってる奴が、この場にしゃしゃあとずっといるので片付けなくちゃあなんねえ。葛籠の中の眼八、ここで血祭り! スプラッター駄目押し!……

――「……と笑ふて祝ふ出立(しゆつたつ)は、侍なりける次第なり」……

という祝祭で幕、かい!!

……でも私はもう、大働きの最後の眼八の惨殺シーンもあまり覚えていないのだ。……

……なぜなら私はずっと……下手縁の脇に巳之助の亡骸を抱いて蹲る……哀れなお谷だけを……見ていたのだから……

(お谷を遣うはやはり私贔屓の和生。今回の公演の朝日新聞のインタビュー記事には、『型がほとんどない場面も。現代では理解されづらい女性像を心情一本で見せたい』と語っておられたが、この段、美事、その思いを顕現なさっておられる!!!)

 

――伏見屋北国屋の段――京都――

 身代り 義理 呉服屋十兵衛

㊅ 奇計     和田志津馬     あがり伊賀上野鍵屋の辻へ進む

㊄ 奇計☞看取り 瀬川(お米)

㊃ 謀略☞ 失敗 桜田林左衛門    あがり伊賀上野鍵屋の辻へ進む

㊂ 奇計・共謀  池添孫八・池添孫六 ☞孫八はあがり伊賀上野鍵屋の辻へ進む

㊁ 仇討言挙げ  唐木政右衛門    あがり伊賀上野鍵屋の辻へ進む

〔手紙読上・目薬〕

 まずは梗概を述べる。

 京都伏見船宿北国に眼病養生のために逗留する若い男女は志津馬と瀬川、その隣室に部屋をとっているのは桜田林左衛門である。志津馬・瀬川の元にやって来る按摩は家来池添孫八。林左衛門が志津馬の治療に訪れる医師竹中贅宅を買収、毒薬を点眼させると、志津馬は俄かに激痛に見舞われて倒れ伏す。そこに押し入った林左衛門は正体を明かして志津馬を足蹴にしつつ首でも縊ってくたばれ、と言い放って、股五郎もともに逗留している事実を明かす。するとまた俄かに志津馬は居直る。この志津馬の病いは機略の仮病で、買収した贅宅はこれ、実は孫八の兄孫六というどんでん返し。遁れる林左衛門を追おうとすると、股五郎への義理から呉服屋十兵衛が現われて前を遮ったため、志津馬は勢いで十兵衛を斬ってしまう。十兵衛は虫の息の中、股五郎が伊賀越えをして伊勢へ抜けようとしていることを告げ、漸く現れた政右衛門に父平作への思いと妹の瀬川と志津馬の契りを懇請しつつ、息絶える。一行は遂に直近に捉えた股五郎一味を追って夜道を急ぐのであった。

 本段に対しては、私は幾つかの大きな不満を持った。

 まず大きいのは劇作の構成上の問題点で、浄瑠璃特有の全部やらせであったというステロタイプのエピソード・オチは、一作の中でここまで何度も繰り返されてしまうと、少々飽きが来るのである。特に本段のように大団円の直前で、準主役級の志津馬が、見え見えの仮病に見え見えの毒殺未遂、しかも贅宅は宅悦で、お岩よろしく眼病で毒盛りくるし(但し、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」自体の初演はずっと後年の文政八(一八二五)年)、前半、上手の部屋で林左衛門が按摩痃癖(けんぺき)実は孫八に揉まれながら盗み聴きをするシチュエーションが並列して観客の笑いを確信犯で誘うのだが、私は何だか如何にもという気がして、寧ろ、そのシーン、流れ自体の陳腐さに少々失笑してしまったというのが本音である。

 期待したお米(瀬川)の贔屓の一輔なのであるが、記憶に残る第一部の蓑助のお米の神技とどうしても比較してしまうと、あの沼津の段の、衣服の下のしなやかな女体の感触が如何せん、まるで伝わってこない。但しこれは、場面が場面(舞台構造に無理があって左右にギュウ詰めで全体に観客に強いる「みなし」もし難い。しかも、どうも原作では隣りの部屋ではなく二つの旅宿という設定になっているらしいから、そうなっていたらと思うと、もうこれ、慄っとするほど狭くなるのである)、狭い部屋の中であるために極端に動きが少ないせいにもある。しかし、目の前であっという間に現われて、あっという間に去ってゆく(冥途に)瞼の兄の死をお米が悲しんでいない。お米の――「頭(かしら)」ではなく――その「体」が悲しんでいるようには残念ながら見えなかったのである。前の万歳の才蔵を一輔が如何にものびのびと爽快に遣っていただけに、この閉塞感と動きのなさ・硬直感・手狭には、正直、本日の日本三ガッかりの一、という気がした。

 十兵衛登場という設定も、あまりといえばあまりに唐突で、出たとたんに斬られて、そこにまた突如政右衛門がぬっと登場して……これ、吉本興業のお笑いパフォーマンスかと見まごう出方である。狭い部屋の中はもう人形と遣い手でごっちゃごちゃだ。この舞台では末期の十兵衛の思いを伝えるには無理がある。私はまさにそこを期待していたのだが、やはり何だか裏切られた感じであった。

 この段、まずは思い切った舞台構成の原作改変刷新が望まれるように思われる。そうすればもっとコーダを盛り上げるいい舞台になる気がする。このままでははっきり言って逆に感興を殺いでしまっていると言わざるを得ない。

 

――伊賀上野敵討の段――あがり伊賀上野鍵屋の辻――

 負け 討死 桜田林左衛門・沢井股五郎一党☞「貧乏農場」ならぬ無間地獄へ

㊀ 勝ち    和田志津馬         ☞「億万長者の土地」ならぬ鳥取へ

㊁ 勝ち    唐木政右衛門        鳥取へ

㊂ 勝ち    池添孫八          鳥取へ

㊃ 勝ち    石留武助          鳥取へ(以下の私の語注を参照)

㊄                     ☞降りだしに戻る

〔馬・名刀正宗(叙述はないが志津馬が遣うはこれでなくてはなるまい)〕

 ここはもう床本を引くに若くはなし――「伏見北国屋の段」の末尾から示す(前段最後の政右衞門「さらば」志津馬「さらば」の発声者は推定)。

   *

……唐木が勇める力足

手負ひを跡に三つ瀬川

三途の瀨踏みは敵の魁(さきがけ)

政右衞門「さらば」

志津馬「さらば」

を夜嵐に、聲吹き分くる海道筋、跡を慕ふて

 

伊賀上野敵討の段

 

 急ぎ往く

されば唐木政右衞門、股五郎を付け出だし、夜を日に繼いで伏見を出で、伊賀の上野と志し、心も急(せ)きに北谷(きただに)の四つ辻にこそ入り來たる

政右衞門聲をかけ

政右衞門「ヤアヤア志津馬、目指す敵は只一人(いちにん)。孫八、武助(ぶすけ)は我に構はず志津馬を圍み油斷すな。たとへ助太刀幾十人あるとも、我一人にて引き受けん。最早來るに間もあるまじ、一世の晴れ業(わざ)、心得たるか」

と言葉に

各々勇み立ち、目釘合して待ち懸けたり

程もあらせず股五郎、惡黨ばらに前後を圍はせ一番手は林左衞門、さゞめき渡り我(われ)一と、小田町筋へと打ち通る

かくと見るより和田志津馬、木陰より飛んで出で、向こうに立つて大音(だいをん)上げ

志津馬「ヤアヤア澤井股五郎、和田行家(ゆきえ)が一子同苗(どうみやう)志津馬、この處に待ち受けたり。イザ尋常に勝負せよ、勝負々々」

と聲掛くれば

續いて唐木政右衞門

政右衞門「ホヽウ久しや櫻田林左衞門、郡山にて眞劍の勝負を望みしその方、今日に至つたり。サア覺悟せよ」

と呼ばはつたり

林左衞門「心得たり」

と林左衞門、馬上よりひらりと飛び下りるを

政右衞門「どつこい、やらぬ」

と政右衞門、仁王立ちに突立てば

林左衞門「邪魔ひろぐな」

と打ちかくる

政右衞門「心得たり」

と受け流し、付込む所を

身を開き

飛ぶよと見えしが林左衞門

唐竹割に切伏せたり

後は助太刀銘々に拔き連れ拔き連れ切結ぶ

此方は必死一騎と

一騎、股五郎相手に和田志津馬

手利きと

手利きの晴れ勝負、いづれ拔け目はなき所へ

政右衞門は韋駄天走り

政右衞門「ヤアヤア志津馬、未だ討たぬか、助太刀の奴ばらたつた今一人殘らず討ち捨てしぞ。殘るはそやつ只一人、ソレ踏み込んで討ち止めい」

と聲の助太刀百人力

よろめく所を

付け入つて肩先ざつぷと切り付けたり

さしもの澤井たじたじたじしどろになるを

疊み掛け鋭き一刀大地へどつさり、起こしも立てず乘り掛かり

志津馬  「年來の父の仇」

政右衞門 「舅の敵」

孫八・武助「主人の仇」

一度に晴るゝ胸の内、空に知られし上野の仇討ち、武名は世々に鳴り響く、伊賀の水月(すいげつ)影淸き、今に譽れを殘しけり

   *

[やぶちゃん語注:「水月」は水面に映る鮮やかな月影の意以外に、兵法に於ける陣立ての一つ、水と月が相い対するように、両軍が接近して睨み合う意を掛けた(因みに余談ながら「水月」は人体の鳩尾の別称でもある)

「石留武助」モデルは渡辺数馬の助っ人の一人で荒木又衛門の門弟川合武右衛門(池添孫八のモデル岩本孫右衛門も実際には数馬の家来ではなく又衛門の門弟である)。彼は実際には孫右衛門とともに桜井半兵衛を相手をしていた。そこへ又右衛門が加わって討ち果たした際、不運にも斬られて命を落としている。]。

(以上、第二部観劇 2013年9月23日(日) 於東京国立小劇場)

   *   *   *

 天明三年四月。大坂竹本座前。

 折しも近松半二と近松加作の外題「伊賀越道中飛び双六」の人形芝居が跳ねた直後である。

藪八 「面白(おもろ)かったなあ!!」

野治郎「ほんまに。……せやけど何や、喉に引っかかるようなもんがある……」

直吉 「どこがじゃ!? 政右衛門格好えかったやないか! なぁ、御隠居?」

史元斎「ムヽ。野治郎や、何が魚の骨か、云うてみい。」

野治郎「ヘェ。……その……お谷はんやちっこい巳之助がなんや、こう、酷(ひど)う哀れで……」

直吉 「われは非力で女子どもが大の好みやからなあ! アハヽヽヽヽ! 大方、十何人も死んでもうた芝居にびびったんやろが!?」

藪八 「……マア……そうやなぁ、わても哀れに思わなんだわけでもないが……やっぱし、これは仇討ちに突き進むところの話を楽しむんが芝居の妙味じゃて。」

野治郎「せやけど……わてが政右衛門やったら……あないなこと……とてものことに出来まへん。……好いた女を棄て目(めえ)に入れても痛(いと)うない子(こお)を対面(たいめ)のその間に首掻っ切るなんど……。それに……人でなしの股五郎を思うて刀を喉(のんど)に突き立てた鳴見のおっ母さんや……腹に脇差ぶっ刺した平作の爺さんにも……それにあのやさ男の十兵衛もわざと志津馬はんに斬られるどっせ?!……とても、なれまへん……あんたら、なれまっかいなッ?!」

(藪八、野治郎、直吉、押し黙る。)

史元斎「ムヽヽヽ 野治郎の謂いは一理ある。……儂らは武士でのうて良かったの。……普通は仇討ちなんどと申すしがらみから遠く離れて生きておられるからの。……仇討に巻き込まれたお武家は……これ……股五郎と同じように、どこかで――人でなし――にならねば本懐を遂げることは出来んのやな。巳之助は武士の子(こお)に生まれたが因果……されど、仇討ちという宿命をかの者たちは生き生きと生きたとも言えようの。……さても、確かに平作や十兵衛は町人じゃの。……あの者たちまでもがなぜ死んでゆかねばなんらぬのか。……これもまた、義理のためじゃが、そこには実は、孰れもお米への愛憐のあればこそじゃった。……儂は鳴見殿の老母の死にまず心打たれ、また、平作の切腹の場に至っては……これ、図らずも涙致いた。……按ずるに……義理はこれらの人々のように、愛を伴(ともの)うてこそ美しいものじゃとは――これ、思わんか?……」

(藪八、野治郎、直吉、皆、ちんまりとなって、しおらしく合点する。)

史元斎「ハヽヽヽヽ さても今日は二十二夜、女どもは皆、月待であろ。一つ皆して、鍵屋の辻の頃を偲びながら、おのちと亡き巳之助のために一つ、塩饅頭を肴に一献と参ろうかの?」

(藪八、野治郎、直吉、皆、急に元気になって、激しく合点。)

   *   *   *

……「生きると言うことはそのプロセスを楽しむことである」

とは、昔、中一の私が作文に書いた言葉であった。中年の独身の女性国語教師が痛く褒めて評釈付きで文集に載せて呉れたのを思い出す。

 私にとっては今も人生はそうしたものとしてあるように思う。

 成果やら結末やらに価値はない。

 そこに至る過程に於いて生ずる精神と感情と肉体のエネルギの交換によって生ずる「現象」にこそ我々は「常に生きていると感じている」のである。

 それは「生きている」という「錯覚を実感する」――謂わば「幻想を実相として誤認する」――ことに過ぎぬのかも知れない。

 私はそれでよいと思う。

 あらゆる文芸のドラマとは、皆、そうした「幻覚のみなし」のエッセンスの、濃厚な抽出と圧縮に他ならない――に過ぎない。だからこそ

 たかが芝居――されど芝居

なのである。(完)

 

五月雨や御豆の小家の寢覺がち 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   五月雨(さみだれ)や御豆(みづ)の小家の寢覺がち

 

「五月雨や大河を前に家二軒」といふ句は、蕪村の名句として一般に定評されて居るけれども、この句はそれと類想して、もつとちがった情趣が深い。この句から感ずるものは、各自に小さな家に住んで、夫々の生活を惱んだり樂しんだりして居るところの、人間生活への或るいぢらしい愛と、何かの或る物床しい、淡い縹渺とした抒情味である。

 

なお、この「御豆」は蕪村の句では「美豆」で淀川水系の低湿地帯の地名。現在の京都郊外伏見区淀の水垂附近と思われる。清水哲男氏の「増殖する俳句歳時記」の与謝蕪村句」の評釈によれば、この『周辺には淀川、木津川、宇治川、桂川が巨大な白蛇のようにうねっている。長雨で川が氾濫したら、付近の「小家(こいえ)」などはひとたまりもない。たとえ家は流されなくても、秋の収穫がどうなるか。掲句は、いまに洪水になりはしないかと心配で「寝覚がち」である人たちのことを思いやっている。蕪村にしては珍しく絵画的ではない句であるが、それほどに五月雨はまた恐ろしい自然現象であったことがうかがわれる。風流なんてものじゃなかったわけだ。似たような句が、もう一句ある。「さみだれや田ごとの闇と成にけり」。「田ごとの」で思い出すのは「田毎の月」だ。山腹に小さく区切った水田の一つ一つに写る仲秋の月。それこそ絵画的で風流で美しい月だが、いま蕪村の眼前にあるのは、長雨のせいで何も写していない田圃のつらなりであり、月ならぬ「闇」が覆っているばかりなのである。こちらは少しく絵画的な句と言えようが、深読みするならば、これは蕪村の暗澹たる胸の内を詠んだ境涯句ととれなくもない。いずれにせよ、昔の梅雨は自然の脅威だった。だから梅雨の晴れ間である「五月晴」の空が広がったときの喜びには、格別のものがあったのである』とある。なお、朔太郎は知られた「五月雨や大河を前に家二軒」については、不思議なことに「郷愁の詩人與謝蕪村」では評釈していない。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(5) 夕されば孤島に寄する波の音巖の上にして一人ききゐる

夕されば孤島に寄する波の音巖の上にして一人ききゐる

 

[やぶちゃん注:歌稿「小笠原紀行」歌群の「夕の椰子の歌」の草稿。この手帳には句の別案として、

 

夕されば孤島に寄する波の音巖の上にして一人ききたり

 

が示されている。決定稿の歌形はこれを元にしており、

 

夕されば孤島に寄する波の音岩の上にしてひとり聞きたり

 

である。]

朝の波 大手拓次

 朝の波
   ― 伊豆山にて ―

なにかしら ぬれてゐるこころで
わたしは とほい波と波とのなかにさまよひ、
もりあがる ひかりのはてなさにおぼれてゐる。
まぶしいさざなみの草、
おもひの緣(ふち)に くづれてくる ひかりのどよもし、
おほうなばらは おほどかに
わたしのむねに ひかりのはねをたたいてゐる。

[やぶちゃん注:「伊豆山」〈いづさん(いずさん)〉は静岡県熱海市伊豆山(湯河原と熱海の間)にある海縁りの温泉地。これは当地の高みにある古社伊豆山神社からの眺めと読みたい。大手拓次の詩の中に固有地名が出現するのは極めて例外的で具体な眺望をもとにした叙景という点でもすこぶる特異な詩と言えよう。]

鬼城句集 秋之部 崩簗/放生会

崩簗    赤犬のひたひたと飮むや崩簗

 

[やぶちゃん注:「崩簗」晩秋の季語。簗は河川の両岸又は片岸から列状に杭や石などを敷設して水流を堰き止めて流水に導かれてきた魚類を最後の流路で塞いで捕獲する漁具や仕掛けで、この場合、秋も深まって使われなくなった、落ち鮎を捕らえるのに設けられてあった下(くだ)り簗が、風雨にさらされ、押し流されたりして崩れてしまった状態をいう語。ものさびた侘びしさを既にして顕現する優れた季語と言えよう。]

 

放生會   放生會二羽の雀にお經かな

 

[やぶちゃん注:「放生會」「はうじやうゑ(ほうじょうえ)」は供養のために事前に捕らえてある魚や鳥獣を池や野に放してやる法会。殺生戒に基づくもので奈良時代より行われ、神仏習合によって神道にも取り入れられている。収穫祭・感謝祭の意味も含め、春又は秋に全国の寺院や宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡社で催される。正確には八幡社では陰暦八月十五日の祭祀とされ、特に京都の石清水八幡宮や福岡の筥崎宮(ここでは「ほうじょうや」と呼ぶ)が有名。典拠としては「金光明最勝王経」の「長者子流水品」に釈迦仏の前世であった流水(るすい)長者が大きな池で水が涸渇して死にかけた無数の魚たちを助けて説法をして放生したところ、魚たちが三十三天に転生して流水長者に感謝報恩したという本生譚が載り、「梵網経」にも同種の趣意因縁が説かれている。かつては寺社の近隣の河川で橋番などが副業として日常的に行われていた商売で、亀屋から客が買って川に放した亀をその亀屋が再び捕獲してまた新たな客に売るという商売としても行われていた。現在でも台湾・タイ・インドでは放ち亀屋や放ち鳥屋といった商売が寺院の参道で盛んに店を開いている(ここまでは主にウィキの「放生会」を参考にした。昔、タイの寺院の参道で雀や鳩のそれを実見したが、当時のガイドによれば鳩はそのまま売り手の主人の鳩小屋に戻って呉れるので一番手間いらずとのことであったが、雀も飼い馴らしてあってやはり餌を播くと戻ってくるのだと言っていた)。これは放ち雀であるが、江戸の風物では放ち亀・放ち泥鰌・放ち鰻(屋台で糸で亀を吊るして売ったり、桶の中に亀や泥鰌やめそ鰻(鰻の幼魚)を桶に入れて売った)・放ち鳥(本邦では専ら句にある雀を複数の鳥籠に入れたものを天秤棒で前後に担いで売り歩いた)。]

2013/09/25

易水に根深流るる寒さ哉かな 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   易水に根深(ねぶか)流るる寒さ哉かな

 

「根深」は葱の異名。「易水」は支那の河の名前で、例の「風蕭々として易水寒し。壯士一度去つてまた歸らず。」の易水である。しかし作者の意味では、そうした故事や固有名詞と關係なく、單にこの易水といふ文字の白く寒々とした感じを取つて、冬の川の表象に利用したまでであらう。後にも例解する如く、蕪村は支那の故事や漢語を取つて、原意と全く無關係に、自己流の詩的技巧で驅使してゐる。

  この句の詩情してゐるものは、やはり前の「葱買て」と同じである。即ち冬の寒い日に、葱などの流れて居る裏町の小川を表象して、そこに人生の沁々とした侘びを感じて居るのである。一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(對象)を敍することによつて、作者の主觀する人生觀(侘び、詩情)を咏嘆することにある。單に對象を觀照して、客觀的に描寫するといふだけでは詩にならない。つまり言えば、その心にを所有してゐる眞の詩人が對象を客觀的に敍景する時にのみ初めて俳句や歌が出來るのである。それ故にまた、すべての純粹の詩は、本質的に皆「抒情詩」に屬するのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。太字部分は底本では傍点「●」。引用は「史記」の中でも最も知られた「列傳卷八十六」の「刺客列傳第二十六 荊軻」で、始皇帝暗殺のための死の覚悟を込めて彼が詠む詩、「風蕭蕭兮易水寒、壯士一去兮不復還」に基づく。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(4) 中島敦の謎めいた恋愛悲傷歌群

宵々の家になりはひ憎とふ君をし思へば心苦しも

 

[やぶちゃん注:私はこの歌から「かの宵」での恋歌十一首には、現在知られていない中島敦のある秘密が隠されていると確信する。その秘密とは、宵闇に浮ぶ団欒の燈火を見て連れの男に「憎し」と呟く女はどんな存在の女性かを考えて見れば、お分かり戴けるものと思う。]

 

心迫りスコップ捨てゝ立ちにけり花を植ゑゐる心にあらず

 

[やぶちゃん注:庭に本格的に根付かせる花を植えるというのは妻も子もある家庭人である。しかしこの一家の主人は茫然とし、その心はここならぬ彼方へあくがれ出でて呆けているではないか。その魂のあくがれ出でる先は明らかに恋する女の元であることは言を俟たぬ。そしてそれは無論、この庭のある家庭の幸せな妻とは異なる女性であるとしか考えられまい。]

 

今はたゞあはまほしさにねに泣きて伏してをるてふ言のかなしさ

 

[やぶちゃん注:これはこの女性が敦に逢うことが出来ない、逢いたいのに逢うことが許されていない、禁じられているということを容易に連想させる。そしてそれを「言のかなしさ」は同時に敦自身もこの女の元へ逢いに行くことは叶わない、逢いたいが逢うことは許されていないからこそ、愛(かな)しいのである。]

 

いたつきに伏すとふ君が手に持てる紙かよこれのふみぞ愛(かな)しき

 

[やぶちゃん注:逢えないのは「いたつき」(病い)だからなどと解釈してならない。寧ろ、逢うことが許されていない彼女が、逢いたい一心を以って「いたつき」を口実(無論、その真偽を考証する必要は逆にない)に思いの丈を語った恋文なのである。仮に病いが本当ならば、それを見舞いに行って当然である。しかし、敦は行かない、行けないのである。そのような女性は誰か、どのような女性か、どのような状況下で生じた関係とその結果かを類推することは、それほど難しいことだとは思われない。]

 

せむすべをしらに富士嶺をろがみつ心極まり涙あふれ來

 

丘行けば富士ケ嶺見えつする河野の朝を仰ぎて君と見し山

 

昏のまゆの市場の裏路のまゆの匂もなつかしきかな

 

[やぶちゃん注:この嗅覚的回想の叙景吟も、実はその匂いと黄昏の繭市場を歩む男女の景と結びつく抒情歌であることは最早、疑う余地がない。ここに無縁な叙景歌を一首だけを敦がここに投げ込む必然性は皆無である。この繭の匂いには何か性愛的な匂いさえ私は感じているくらいである。]

 

かの宵の松葉花火の火の如く我は沿えなむ今はたへねば

 

[やぶちゃん注:「かの宵の松葉花火」「松葉花火」は線香花火のことである。私が現在、電子化注釈を進めている中島敦の昭和十一年の手帳の中に、次のような詩の一節が現われる。

 

  はかなしや 空に消え行く

  花火見し 宵のいくとき

  花模樣 君がゆかたに

  うちは風 涼しかりしか

 かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や

 一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人

 

敦は自身を「しれ人」(痴れ人)としている。この恋は紛れもなく「痴人の愛」なのである(因みに中島敦は谷崎潤一郎の愛読者であった)。]

 

するが野の八月の朝はつゆしげみ君がす足はぬれにけるかも

[やぶちゃん注:この素足のクロース・アップの画面のただならぬ妖艶さを見よ。]

 

君が文人目を繁み公園の藤棚の下によめば悲しも

 

[やぶちゃん注:「繁み」は「しげみ」は上代の用法で、形容詞「しげし」の語幹に原因理由を示す副詞的用法を持つ接尾語「み」がついたもので、「多いので」「うるさいので」の意である。この恋文は誰にも見られてはならないものなのである。]

 

かの宵の君が浴衣の花模樣まなかひにしてもとな忘れず忘らへぬかも

 

[やぶちゃん注:「まなかひ」目の当たり。「もとな」副詞で、切に、の意。やはり、昭和十一年の手帳の中に次のような詩の一節が現われる。

 

  なにしかも 君がゆかた

  花模樣 忘れかねつる

  まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな

  歩みつる 野遽の草花

  そをつみし 君が白き手

  一夏の たゞかりそめを

  かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ

  得思はぬ われは痴人 吾よしれびと

 

この昭和十一年の手帳のこの詩を再度、全文を引いて示す。

 

  はかなしや 空に消え行く

  花火見し 宵のいくとき

  花模樣 君がゆかたに

  うちは風 涼しかりしか

 かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や

 一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人

 

  別るゝと かねて知りせば

  なかなかに 逢はざらましを

 

  なにしかも 君がゆかた

  花模樣 忘れかねつる

  まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな

  歩みつる 野遽の草花

  そをつみし 君が白き手

  一夏の たゞかりそめを

  かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ

  得思はぬ われは痴人 吾よしれびと

 

これらは手帳に書かれたもので、行空きは改頁を示す。中間部(二連目に見えるもの)の二行は、事実は、この女性と敦とが別れた、引き裂かれたことを意味している。

 この十一首の恋愛悲傷歌群とこの相聞歌風のそれはどう考えても仮想された恋愛詩歌などでは決してない。

 これは「ゆかた」すがたの「うちわ」を持った「君」とある「夏」に「花火を見た」「松葉花火」一緒にして眺めた、その「一夏のたゞかりそめ」の燃え上がった恋、時が経った今以って「忘れ得ぬ」その思い出を詠っているのである。

 そして――その「君」とは結局「別」れなければならない運命にあるということが「かねて知」っていたならば、「逢は」なかったものを――私は何という「しれ」者であったことか――と激しく悔やむ、現にその一人の乙女に今も恋い焦がれている――その「一夏の」「たゞ」「かりそめの」恋を決して「忘れ得ぬ」敦のやるせない熱情にふるえる恋歌なのである。

 しかも――それは――どう好意的に考えても――現実の妻たか――ではない――のである。]

ふりつづく思ひ 大手拓次

   みづのほとりの姿

 ふりつづく思ひ

みづのうへにふる雪のやうに
おもひはふりかかり ふりかかりするけれど
ながれるもののなかに きえてゆく。
たえまなく ふりつづくおもひは またしても
みづのおもてに おともなくうかんでは きえてゆく。

鬼城句集 秋之部 送火/踊

送火    送火や僧もまゐらず草の宿

 

      送火や迎火たきし石の上

 

踊     學問を憎んで踊る老子の徒

 

[やぶちゃん注:老子は「老子」の二十章で「絶學無憂」(学學を絶てば憂ひなし)と断じている。]

 

      草相撲の相撲に負けて踊かな

2013/09/24

平成25(2013)年9月文楽公演 竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言「伊賀越道中双六」劇評 或いは 「義死」の「死の舞踏」が絶対ルールとなる武士道スプラッター満載の究極の「人生ゲーム」の蠱惑 或いは 心朽窩主人謹製「伊賀越道中飛び双六」 その1(は以下に移動しました)

平成25(2013)年9月文楽公演 竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言「伊賀越道中双六」劇評 或いは 「義死」の「死の舞踏」が絶対ルールとなる武士道スプラッター満載の究極の「人生ゲーム」の蠱惑 或いは 心朽窩主人謹製「伊賀越道中飛び双六」(全)を2013年9月26日にブログに公開した。第一部はここに前置いたものに大幅な加筆を加えてある。総字数2万字を越えてしまったのでお読みになる際は、ご覚悟を。

耳嚢 巻之七 退氣の法尤の事

 退氣の法尤の事

 文化元年麻疹(はしか)流行なして、死する者も多かりしが、番町邊の御旗本の奧方麻疹にて身まかりしが、其隣御旗本の妹容色もよかりしと、無程(ほどなく)世話する者のありて後妻に呼(よび)迎へしに、度々先妻の亡靈出て當妻本心を失(うしなひ)し。色々の療治すれど快驗なく、山伏又は僧を賴み祈禱抔なせども聊(いささか)印なし。外の者の目には見へず、只當妻(たうさい)のみ見へけるとなり。此事を或人聞(きき)て、中々一通りの者祈禱してはきくまじ、牛込最勝寺の塔頭(たつちゆう)德林院の隱居を賴み可然(しかるべし)と言ける故、彼(かの)德林院へ至りしかじかの事語りければ、我が祈禱にて可利有(きくべくあり)とも思はれねど、此地藏の御影(みえい)を持行(もちゆき)古(ふる)位牌へ張付(はりつけ)、佛壇へなりと枕元へなりと置(おき)て、佛器に一盃の茶を入與(いれあた)へけるにぞ、則(すなはち)立歸り其通りなしけるに、其夜よりたへて怪異なかりしと也。繪に畫(かけ)る地藏の奇特(きどく)とも思はれず、彿器の茶は何爲(なんのため)に與へける、是の事にきくに、あらず、此老僧はさる者にて、退氣(たいき)の手段(てだて)をなしけるなり。彼(かの)後妻隣家なれば、先妻息才の節より通じけるや。たとへ通ぜずとも、不幸間もなく再緣せし事故、先妻は何とも思はぬとも、當妻恨みもせんと思ふ心より靈氣呼(よび)たるべし。

□やぶちゃん注
○前項連関:霊異譚で連関。但し、こちらは頗る現実的な解釈、後妻の前妻に対する罪障感に基づく強迫神経症的幻覚と断じている(と私は読む)。心理学者根岸鎭衞に快哉!
・「退氣」陰陽五行説及び九星学や気学に於いて、相生(吉)の中で自分が生み出す子星(勤勉や他人を助ける星)を意味するものらしい。
・「文化元年」西暦一八〇四年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。
・「麻疹」通常の麻疹(はしか/ましん)は一週間程度で治るが、大人の場合、現在でも風邪と勘違いして治療が遅れると、肺炎や約一〇〇〇人に一人の割合で脳炎が合併症として現われ、その場合は十五%が死に至る。
・「牛込最勝寺」底本の鈴木氏注に、『済松寺の誤。前出。』とある。これは「耳嚢 卷之五 濟松寺門前馬の首といふ地名の事」に出る。以下、私の注を転載しておく。「濟松寺」東京都新宿区榎町にある臨済宗妙心寺派の寺。開山の祖心尼は義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた人物である。
・「置て、」底本ではこの読点の右にママ注記がある。鈴木氏は前に「古位牌へ張付」とあるのと齟齬を覚えられたためであろう。私は護符は複数枚あったものと考える。その方がプラシーボ効果が高まるからである。
・「退氣(たいき)の手段」占いの方はよく分からんし、その深遠な哲学にも興味はないので――根岸もそうした陰陽道みたような厳密な意味でこれを用いているとも思われないので――現代語訳では半可通のまま、「退気」を使用させて貰った。謂わば、前に述べた如く、自身の側にある種の罪障感があって、それが昂じて重い強迫神経症を引き起こし、霊の幻覚を見た、そうした新妻の病的な心理状態を緩和させるための地蔵の護符というプラシーボ(偽薬)による心理療法を施したという意味で私は採る。
・「息才」底本には右に『(息災)』の訂正注がある。以下の部分、訳にホームズ根岸の推理を補強するような翻案部をワトソン藪野が追加しておいた。

■やぶちゃん現代語訳

 退気(たいき)の法の尤もなる効果の事

 文化元年、麻疹(はしか)が流行(はや)り、死する者も多く御座った。
 番町辺りの御旗本の奧方、この麻疹にて身罷って御座った。
 さて、その隣りの、やはり御旗本の家に妹子(いもうとご)が御座って、容色もよいとのことにて、ほどのう世話する者のあって、隣りの御旗本の後妻に呼び迎えた。
 ところが、たびたび先妻の亡霊が出現致いて、新妻の後妻、これ、心神を喪失致すことがたび重なったと申す。
 いろいろと療治致いたものの一向にようならず、山伏やら僧やらを頼んでは、祈禱なんども致いたものの、これ、聊かも効果が、ない。
 この先妻の亡霊なるものは、しかし、他の者の目には見えず、ただ、その新妻ののみに見えるとのことで御座った。
 このことをある御仁が聴き、
「……それは……なかなか、一通りの者の祈禱にては効くまいぞ。……我の知る、牛込済松(さいしょう)寺の塔頭(たっちゅう)徳林院の御隠居を頼むが、よろしかろう。」
と申したによって、主人の命を受けた家人が、その徳林院へと至り、しかじかの由、語ったところが、その僧、使いの者にその妻を亡くした御旗本、その隣家の御旗本及びその妹子のことなど、詳しく質いた後、何か思い当ったところがあったように、徐ろに何枚かの御札を取り出だいて、
「――我が祈禱にて効験(こうげん)これあるとは、思われませぬが――ここはまあ、一つ、こちらの地蔵の御影(みえい)を持ち行かれ、亡き妻女の位牌へと一枚を張り付け、また仏壇へなりと枕元へなりと、これを置きて、また、仏さまにお供えする器(うつわ)に、一杯の茶(ちゃあ)を入れて、奉ずるが、よろしかろうぞ。――」
と申した。
 されば家人はすぐに立ち帰り、主人に申し上げて、その通りになしたところが――
――その夜より
――きっぱりと
――新妻は、かの霊の出来(しゅったい)に慄(おのの)くこと
――これ、一切なくなったと申す。
   *
 按ずるに、これ、絵に描いた地蔵の奇特(きどく)とも思われず――また、供養の仏器に淹れし茶は何のための供えかも、これ、分明でない。
 この御旗本の周辺の事情や、かの徳林院の僧につき、私が少しく聴き及んだところによれば――地蔵の奇特――にては、これ、ない。
 この老僧、まっことの智者にして、言わば
――退気(たいき)の手段(てだて)――
を成したものに、他ならぬ。
 そもそも、かの後妻はまさに隣家の者であったによって、先妻が息災であった頃より、実は姦通致いて御座ったのではなかろうか?
 憚りのあれば、具体には申さぬものの、私の調べたところによれば、そのような事実を強く疑わせるようなことがあった――
とのみ、ここに申し述べておくに留めよう。
 いや、百歩譲って、たとえ、そうした密通の事実がなかったとしても――だいたい先妻の不幸のあって、ほんの間もなく致いて、早々に再縁致すと申す、これ、世間一般の通念から致いても、すこぶる芳しからざることなれば――「先妻の霊」は、これ、何とも思はぬと致いても――当の新妻自身が、
『先妻の亡魂が恨みをもお持ちではなかろうか』
と按ずる心の生ずること、これもすこぶる道理なれば、まさに
――ありもせぬ「霊気」――
をも呼び出だいては、それを「見た」ものに相違あるまい。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 6 宿屋の子らとのお絵描き遊び

 旅館に於る我々の部屋の清潔さは筆ではいい現わし得ない。これ等の部屋は二階にあって広い遊歩道に面していた。ドクタア・マレーのボーイ(日本人)が間もなく我々のために美事な西洋料理を調理した。我々はまだ日本料理に馴れていなかったからである。ここで私は宿屋の子供やその他の人々に就いての、面白い経験を語らねばならぬ。即ち私は日本の紙に日本の筆で蟾蜍(ひきがえる)、バッタ、蜻蛉(とんぼ)、蝸牛(かたつむり)等の絵を書いたのであるが、子供達は私が線を一本か二本引くか引かぬに、私がどんな動物を描こうとしているかを当てるのであった。

葱買て枯木の中を歸りけり 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   葱買て枯木の中を歸りけり

 枯木の中を通りながら、郊外の家へ歸つて行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何といふ沁々とした人生だらう。古く、懷かしく、物の臭ひの染みこんだ家。赤い火の燃える爐邊。臺所に働く妻。父の歸りを待つ子供。そして葱の煮える生活!
 この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調して居る。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懷かしく愛して居るのである。芭蕉の俳句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接實感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(3)

緋にもゆる胸毛にくちをさし入れてあうむうつくねむりてゐるも

くびをまげ翼の脇に嘴(くち)を入れてあうむうつくねむりてゐるも【全抹消】

眼をとぢて目にぬくもれる緋あうむの頰の毛脱けていたいたしげりなり

[やぶちゃん注:「目」には底本にママ注記がある。「日」の字の敦の誤記と思われる。「いたいたしげなり」の後半の「いた」は底本では踊り字「〱」。]

いにしへのだるま大師もなが如く緋衣ひきて物思ひけむ

娼婦(たはれめ)の衣裳(きぬ)をまとへる哲學者あうむは眼をとぢ物を思ふ

緋衣の大嘴鸚鵡我を見て、又ものうげに眼をとぢにけり

[やぶちゃん注:「大嘴鸚鵡」は「おおはしあうむ」と訓じていよう。]

靑い吹雪が吹かうとも 大手拓次

 靑い吹雪が吹かうとも

おまへのそばに あをい吹雪が吹かうとも
おまへの足は ひかりのやうにきらめく。
わたしの眼(め)にしみいるかげは
二月の風のなかに實(み)をむすび、
生涯のをかのうへに いきながらのこゑをうつす。
そのこゑのさりゆくかたは
そのこゑのさりゆくかたは、
ただしろく 祈りのなかにしづむ。

曼珠沙華 北原白秋

   曼珠沙華   北原白秋

 

GONSHAN.(ゴンシヤン) GONSHAN. (ゴンシヤン) 何處(どこ)へゆく

赤い、御墓(おはか)の曼珠沙華(ひがんばな)、

曼珠沙華(ひがんばな)、

けふも手折りに來たわいな。

 

GONSHAN.(ゴンシヤン) GONSHAN. (ゴンシヤン) 何本か。

地には七本、血のやうに、

血のやうに、

ちやうど、あの兒の年の數(かず)。

 

GONSHAN.(ゴンシヤン) GONSHAN. (ゴンシヤン) 氣をつけな。

ひとつ摘(つ)んでも、日は眞晝、

日は眞晝、

ひとつあとからまたひらく。

 

GONSHAN.(ゴンシヤン) GONSHAN. (ゴンシヤン) 何故(なぜ)泣くろ。

何時(いつ)まで取っても、曼珠沙華(ひがんばな)、

曼珠沙華(ひがんばな)、

恐(こは)や赤しや、まだ七つ。

 

(「思ひ出」(明治四四(一九一一)年)より。「ゴンシヤン(ゴンシャン)」は柳川方言で「良家のお嬢さん」をいう語。……この歌はマザー・グースのような翳を持った詩で、古来、彼岸花はその毒を以って堕胎薬とされたのであった。……)

つきぬけて天上の紺曼珠沙華 誓子

つきぬけて天上の紺曼珠沙華 山口誓子

曼珠沙華抱くほどとれど母戀し / 父若く我いとけなく曼珠沙華   中村汀女

曼珠沙華抱くほどとれど母戀し

父若く我いとけなく曼珠沙華   中村汀女

鬼城句集 秋之部 相撲/糸瓜忌

相撲    相撲取のおとがひ長く老いにけり

[やぶちゃん注:「相撲」が秋(初秋)の季語とされるのは、奈良・平安時代、宮中で行われた相撲の起源である相撲節会(すまいのせちえ)が毎年陰暦七月に行われていたことに拠る。]

 

糸瓜忌   糸瓜忌や俳諧歸するところあり

 

      糸瓜忌や秋はいろいろの草の花

 

[やぶちゃん注:「いといろ」の後半は底本では踊り字「〱」。正岡子規の忌日糸瓜忌は九月十九日。]

曼珠沙華逍遙

昨日、アリスの散歩でいつも行く裏のお寺の赤い曼珠沙華の大きな群落が一斉に花を開いていた……
赤い曼珠沙華の花言葉は……
 
「情熱」
「独立」
「再会」
「あきらめ」
「悲しい思い出」
「また会う日を楽しみに」
「想うはあなた一人」…………

帰り道、ぽつんと一つ、大輪の白いそれが孤高に山門の脇に咲いているのを見つけた……
白い曼珠沙華の花言葉は……
赤のいいとこどりだった……

「また会う日を楽しみに」「想うはあなた一人」…………

アリスよ……
「想うはあなた一人」はおまえということにしておこうなぁ……



何となく調べて見たくなった――

〇曼珠沙華の葉を花期に見ないのは何故か?

ヒガンバナの葉は花が終わる頃に出るから。以下に詳しい。http://www2.tokai.or.jp/seed/seed/mijika13.htm
 
田畑の畔のや墓地に多いのは何故か?

実用的民俗によれば、二つの理由がある。


「彼岸花 雑感集」(愛知工科大学電子制御・ロボット工学科教授野中登氏著)
http://www.aut.ac.jp/・・・/nonaka/12.html


のページより引用する。

『彼岸花が墓地や田の畦、土手に多く見られるのにはそれなりの理由がある。土葬の頃、ネズミや獣が土葬の死体荒らしをしていたようで、その対策に毒のある彼岸花を墓地に植えたようである。また、田の畦や土手にはネズミやモグラが穴をあけて困るので、その防止に植えたようである』。
 
〇彼岸花(曼珠沙華)の地方名
 
イッポンカッポン・オオスガナ(和歌山)
カジバナ(群馬・福井)
カブレノカッポン(和歌山)
カブレバナ(山口)
カラスノマクラ(岐阜・岡山)
ジイジンバナ(新潟)
シタマガリ(三重)
シビトバナ(和歌山) 
ジュズカケバナ(新潟)
ジュズバナ(愛媛)
ソウシキバナ(福井)
チョウチンバナ(福井・山口・愛媛)
テグサレ・ドクホウジ(和歌山)
ハカゲ(墓蔭)・ノアサガオ(和歌山)
ハコボレ(静岡)
ハミズハナミズ(福井)
ハモゲ・ハモゲバナ(大分)
ヘソビ(三重)
ヒビノハナ・ヘビバナ(静岡・山口)
ホゼバナ(愛媛)
ホトケバナ(茨城)
ボンボラボン(静岡)
ミチワスレグサ(群馬)
ユウレイバナ(群馬、福井)
ドクバナ(神奈川・埼玉・群馬・静岡・岐阜・富山・奈良・大阪・鳥取・島根・岡山・山口・愛媛・高知・大分・熊本・宮崎・鹿児島)
セキリバナ(山口)
ドクユリ(群馬・茨城・山口・高知)etc.
(大塚敬節「漢方と民間薬百科」(主婦の友社昭和41(1966)年刊)に拠ったとある。こちら
http://homepage1.nifty.com/TUTIYA/colm17.htm
及び
熊本国府高等学校PC同好会の
ヒガンバナの「別名」とその分布「都道府県」(強烈!)
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/sizen/hign_namek.html
のページから。後者にはもっと恐るべきフリーク蒐集による総数1023(中国・韓国・英米・学名を入れて1054)の
ヒガンバナの別名(方言)
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/sizen/higan_name.html
がある!)
 
因みに、神奈川ではドクバナの他に以下のような異名がある。データは後者。漢字表記と名の考証はやぶちゃんの勝手であるから真偽はご自身でご判断あれ。
オシーレン(?)
オボンバナ(お盆花)
カジノハナ(火事の花か)
シイレ・シイレバナ(死入・死入花。納棺時に最初に記した理由から納めた。若しくは「死人花」の「死人」を忌んで「死入」とし、その音で呼んだものかも知れない)
シイレン(前者の転訛か)
シガンバナ(此岸花か。私は死龕花をもイメージした)
シビセン(痺せむ?↓)
シビレン(痺れん(む)か。根茎の強毒アルカロイドであるリコリン由来)
ジュズダマ・ズズダマ・スズダマ(数珠玉。但し、私(鎌倉生)は「ジュズダマ」と聴くと大型のイネ科のジュズダマ Coix lacryma-jobi である。因みにヒガンバナは単子葉植物綱クサスギカズラ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata である)
スベリグサ(滑り草?)
チョウチンバナ(提灯花)
チョコバンバー(? 何かお菓子の名前みたいで面白い)
チンチロリン・チンチンポンリン・チンリンボウリン・チンリンポーリン(最初のものは感覚的には分かる。後はその音変化であろう)
トウジンハナ(唐人花か)
トーローバナ(燈籠花であろう)
ハコボレ(葉零れであろう)
ハッカケバナ・ハッカケババア・ハッカケバンバ(葉欠け花の転訛が歯欠け婆になったものか)
ハモゲ(葉捥げであろう)
ヒッチャカメッチャカ(! これ最高だわ!)
ボンバナ・オボンバナ(盆花)
ヤンメシッツコ・ヤンメショッコ・ヤンメヒョッコノハナ(? 「やんめ」は幼児語で「止め」「辞す」の意であるから、葬送の忌詞かとも思ったが、後部が分からないのでダメ)

以下、ウィキの「ヒガンバナ」に載るもの。

キツネバナ(狐花)
ジゴクバナ(地獄花)
カミソリバナ(剃刀花。しかしこれは別種の同ヒガンバナ属のキツネノカミソリ Lycoris sanguinea に相応しい)
ステゴバナ(捨子花)

因みに、同ウィキには『日本では不吉であると忌み嫌われることもあるが、反対に「赤い花・天上の花」の意味で、めでたい兆しとされることもある。日本での別名・方言は千以上が知られている』とあり、『「花と葉が同時に出ることはない」という特徴から、日本では「葉見ず花見ず」とも言われる。韓国では、ナツズイセン(夏水仙)を、花と葉が同時に出ないことから「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味で「相思華」と呼ぶが、同じ特徴をもつ彼岸花も相思花と呼ぶことが多い』とあり(但し、最後の部分には要出典要請がかけられている)、『学名のLycoris(リコリス)は、ギリシャ神話の女神・海の精であるネレイドの一人 Lycorias からとられた』とある。

2013/09/23

耳嚢 巻之七 公開分一括公開

サイト版「耳嚢 巻之七」を作成、既にブログで公開した分を一括公開した。

冬ざれや北の家陰やかげの韮を刈る 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   冬ざれや北の家陰やかげの韮(にら)を刈る

 

 薄ら日和の冬の日に、家の北庭の陰に生えてる、侘しい韮を刈るのである。これと同想の類句に

 

     冬ざれや小鳥のあさる韮畠

 

  といふのがある。共に冬の日の薄ら日和を感じさせ、人生への肌寒い侘びを思わせる。「侘び」とは、前にも他の句解で述べた通り、人間生活の寂しさや悲しさを、主觀の心境の底で嚙みしめながら、これを對照の自然に映して、そこに或る沁々とした心の家郷を見出すことである。「侘び」の心境するものは、悲哀や寂寥を體感しながら、實はまたその生活を懷かしく、肌身に抱いて沁々と愛撫あいぶしてゐる心境である。「侘び」は決して厭世家(ペシミスト)のポエジイでなく、反對に生活を愛撫し、人生への懷かしい思慕を持つてる樂天家のポエジイである。この點で芭蕉も、蕪村も、西行、すべて皆樂天主義者の詩人に屬してゐる。日本にはかつて決して、ボードレエルの如き眞の絶望的な悲劇詩人は生れなかつたし、今後の近い未來にもまた、容易に生れさうに思はれない。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。「韮(にら)」は「菲(にら)」であるが、誤字として訂した。「對照」はママ。この最後の附言は日本文学の原理の抉出として鋭い。私も正しくそう思うからである。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(2) チンドン哀歌

上州は国定村の親分の口上くちびる靑くふるへたりけり

[やぶちゃん注:取消線は抹消を示す(以下、本注を略す)。これ以下、六首はチンドン屋の嘱目吟と思われる。後群ではそれが明白であるが、「くちびる靑く」で明らかに冬の戸外で、二句後の初句の「俠客」は明らかにチンドン屋の定番、この国定忠治(と私は勝手に思っているのだが)である。横浜には今も残る大衆演芸のメッカ三好演芸場があるが、画面は直近であり、舞台とは思われない。]

とりおひのバチもつ右手の手甲の雨にぬれつゝうごきゐるあはれ

俠客と、とりおひと竝ぶ口上のこゑ寒々と雨にぬれゐる街はしぐるゝ

まだらなる白粉の下ゆのぞきゐるけはしかる生活のかほをわが見つるかも

まだらなる白粉の下ゆのぞきゐるこゝだけはしき生活のかほ

[やぶちゃん注:「ここだ」副詞「幾許」で、程度の甚だしいさま。大層。]

歳末の大うり出のチンドンヤ氷雨ニヌレテハナヒリニケリ

シグレヒサメフル師走の町にチンドンヤの口上きけばうらさむしもよ



「チンドン哀歌」は僕のキャプションで原典にはない。チンドン屋の醸し出す不思議なペーソスを美事に映し得て素晴らしい。僕はチンドン屋という命題の真をかくも素朴に剔抉し得た短歌を、他に知らない。

おまへの息 大手拓次

   おまへの息

こひびとよ、
おまへの息(いき)のかよふところに
わたしはびつしよりとぬれてゐたい。
おまへの息(いき)は
はるの日の あさのすずかぜ、
また うつろひのかげをめぐる
うすむらさきのリラのはな。
こひびとよ、
あをい花のやうに とけるここちの おまへの息(いき)は
かぎりない絲をつないで めぐります、
また 鏡(かがみ)のやうに わたしのこころをうつします。

鬼城句集 秋之部 花野/ 人事 秋耕/燈籠

花野    鞍壺にきちかう挿して花野かな

[やぶちゃん注:「きちかう」は「桔梗」で「桔梗(きけう)」の別音、キキョウの別名。]

 

  人事

 

秋耕    秋耕や馬いばり立つ峰の雲


      秋耕や四山雲なく大平


燈籠    燈籠提げて木の間の道の七曲り


      草庵や繩引張つて高燈籠

[やぶちゃん注:「燈籠」は「とうろ」と訓じているか。]

2013/09/22

耳嚢 巻之七 恩愛奇怪の事 / 本日これにて閉店

本日 文楽 「伊賀越道中双六」第二部に参るによって これにて閉店   心朽窩主人敬白



 恩愛奇怪の事

 神田明神前よりお茶の水へ出る所は、船宿(ふなやど)ありしが、文化三年六歳に成りし娘有し。彼(かれ)貮三歳の時より筆取(とり)て物を書(かく)事成身(せいしん)の者の如く、父母の寵愛大かたならず。いつしか船宿をも仕廻(しまはし)て兩國邊へ引越しけるが、彌(いよいよ)彼娘の手跡(しゆせき)人も稱讚せし處、文化三年流行の疱瘡を愁ひ以の外重く、父母は晝夜心も心ならず介抱看病なしける、其甲斐なく身まかりしとかや。母は歎きの餘り色々の事にて狂氣の如く口説(くどき)歎きしに、彼娘こたへて神田へ參り候て又逢可申(あひまうすべし)、あんじ給ふなといへるを、母はうつゝの如く其言葉たがへずとかこちけるが、扨しもあらねばなきがらを野邊の送り抔して、唯ひれふし歎きくらしけるよし。神田の知人共に立かわりけるに有が中、彼娘と同年くらいの娘を持(もち)ける者ありて、彼娘兎角兩國へ參り度(たし)と申(まうす)故、召連(めしつれ)て右の船宿へ尋(たづね)しに、召連し娘何分宿へ歸るまじ、此所に差置(さしおき)給へと言(いふ)故、いかなる事にてと尋しに不思議成哉(なるかな)、今迄筆とりたる事もなき娘、物書(ものかく)事死に失せし娘と聊(いささか)違ひなければ、何れも不思議成(なり)と驚き、神田なる親も召連れ歸らんといへど彼娘、我は爰許(ここもと)の娘なり、歸る事はいたすまじきとて合點せず。無據(よんどころなく)兩國に差置(さしおき)實親は歸(かへり)しと、專ら巷ありと人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。直近の都市伝説霊異譚で五つ前の文化二年の「幽靈を煮て食し事」と直連関(但し先のものは擬似霊異譚)。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、アップ・トゥ・デイトな噂話である。
・「神田明神前よりお茶の水へ出る所」湯島聖堂があった現在の外神田二丁目の神田川の外堀通り沿いに当たろう。
・「神田の知人共に立かわりけるに有が中」底本では「有が中」の右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 神田の知る人共に立代(たちかは)り尋(たづね)けるに、あるが中
となっている(正字化し読みも歴史的仮名遣に変えた)。これで訳す。
・「巷あり」底本では右に『(説脱カ)』と注記を附す。カリフォルニア大学バークレー校版『巷説』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 恩愛が奇怪なる現象を引き起こした事

 神田明神前よりお茶の水へ出ずる所に、船宿(ふなやど)があった。
 文化三年、当年とって六歳になる娘が御座った。
 この子は二、三歳の時より、筆を執ってはいろいろと書写致すこと、これ、大人の者のそれの如き素晴らしき能筆にて、父母の寵愛は、それはもう、大かたならざるもので御座った。
 いつしか、船宿をも移転致いて、両国辺りへ引っ越したと申す。
 いよいよ、かの娘の手跡(しゅせき)は人も神童なりと称賛致いた御座ったが、ちょうど文化三年に流行致いた疱瘡を患(わずろ)うたが、これ、以ての外の重き病いにして、父母は昼夜を分かたず、心痛致し、親身に介抱看病を致いたものの、その甲斐ものぅ、これ、身罷ったとか申す。
 さても臨終の間際、母は歎きのあまり、いろいろと叫びたて、それはもう、狂気致いた者の如くにて、娘の生死につきて、訳の分からぬことを、あれやこれやと口走っては歎いて御座ったと申す。
 すると、かの娘は熱にうなされながら、
「……懐かしい神田へ参りまして御座います……さればこそ……また……お逢い申すことが叶いましょう……ご案じなさいますな……」
と答えたと申す。
 母は、それを聴くと、夢うつつのうちに、
「――その言葉、よもや、たがえること、ないな?!……」
と歎き叫んで御座ったとも申す。
 さても、最早、息を引き取って後、野辺の送りなんども済ましたが、両親はただただ、ひれ伏し、歎き暮すばかり。
 神田に住まう旧知の人どもも、入れ替わり立ち代わり、弔問に参ったが、その中に、かの娘と同い年ほどの娘を持ったる者が御座って、その娘がしきりに、
「……両国へ……参りとう御座います……」
と申すゆえ、ちょうど、弔問にもと思うて御座ったゆえ、かの亡き娘の両親のおる船宿へと訪ねて参ったところが、同道した娘は、
「……もう決して――神田へは帰りませぬ――ここに――どうか、おいて下さいませ!」
と言い出す。孰れの親も、吃驚致いて、
「……い、如何なる訳か?……」
と、質いたところが、
――不思議なことじゃ!
――今まで筆なんど執ったこともなきその娘が、
「筆を!――」
――ときっぱりと申したによって
――筆を執らしてみたところが
――そのさらさらと書き記す手跡
――死に失せし娘のそれと
――聊かの違いも
――これ
――御座いない!
 両家の親もこれまた、
「……な、なんとも不思議なることじゃ!……」
と吃驚仰天、神田の実の両親が、これを無理に連れ帰らんと致いたものの、かの娘は、
「――妾(わらわ)はもともと茲許(ここもと)の娘で御座いまする! 帰ることは――とてものこと、叶いませぬ!」
と、これまたきっぱりと申しは、いっかな、合点致さなんだ。
 よんどころなく、両国にその娘をさしおいたまま、実の親どもは取り敢えず引き上げざるを得なんだと申す。……
……とは、専らの巷説として今も噂致いて御座る。
……とは、知れる人の語ったことにて御座る。
……これ、後のこと知りや……

飛驒山の質屋とざしぬ夜半の冬 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   飛驒山の質屋とざしぬ夜半の冬

 冬の山中にある小さな村。交通もなく、枯木の林の中に埋つて居る。暖簾(のれん)をかけた質屋の店も、既に戸を閉めてしまつたので、萬象寂(せき)として聲なく、冬の寂寞とした闇の中で、孤獨の寒さにふるへながら、小さな家々が眠つてゐる。この句の詩情が歌ふものは、かうした闇黑、寂寥、孤獨の中に環境してゐる、洋燈のやうな人間生活の侘しさである。「質屋」といふ言葉が、特にまた生活の複雜した種々相を考へさせ、山中の一孤村と對照して、一層侘しさの影を深めて居る。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。「闇黑」は「闇墨」であるが、誤字として訂した。]

中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(1)

[やぶちゃん注:以下は、底本の「手帳」の部の「昭和十二年」に出現する多量の歌稿草稿。抹消された箇所は取消線で示したが、歌全体が抹消されているものについては読み易さを考え、末尾に【全抹消】という注記を附した。各歌間(私の注を含め)は一行空けとした。底本にある改頁記号は総て省略した。]
       
人間の叡智も愛情(なさけ)も亡びなむこの地球のさだめ悲しと思ふ【全抹消】

人類のほろびの前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり【全抹消】

我はなほ人生を愛す冬の夜の喘息の發作苦しかれども【全抹消】

おしなべて愚昧(くら)きが中に燦然と人間のチエの光るたふとし【全抹消】

あるがまま醜きがままに人生を愛せむと思ふ他にみちなし【全抹消】

[やぶちゃん注:……敦よ、その君が「たふと」いと言ったはずの知恵が、君がかく詠んで直ぐに原子力を作り出すのだ……それは君の最初の二首にフィード・バックして響き合う……人間の叡智も愛情も亡びなむこの地球のさだめ悲しと思ふ……人類のほろびの前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり……さ、歩こう、預言者――]



……歌の出来不出来とは違う何かが、私にはこの抹消には感じられてならない。……彼は公私ともにこういう歌を詠みたいと思いながら……しかし封印し続けた――し続けねばならなかった――のではあるまいか?……

落葉のやうに 大手拓次

 落葉のやうに

わすれることのできない
ひるのゆめのやうに むなしさのなかにかかる
なつかしい こひびとよ、
たとひ わたしのかなしみが
おまへの こころのすみにふれないとしても、
わたしは 池(いけ)のなかにしづむ落葉(おちば)のやうに
くちはてるまで おもひつづけよう。
ひとすぢの髮の毛のなかに
うかびでる はるかな日(ひ)のこひびとよ、
わたしは たふれてしまはう、
おまへの かすかなにほひのただよふほとりに。

鬼城句集 秋之部 刈田/初汐

刈田    藪寺の大門晴るゝ刈田かな

初汐    初汐や磯野すゝきの宵月夜

[やぶちゃん注:「初汐」「はつしほ(はつしお)」は陰暦八月十五日の大潮のこと。陰暦二月の春潮(しゅんちょう)とともに干満の差が最も激しい。葉月潮。今年は過ぎし三日前の九月十九日、来年(二〇一四)年はずっとずれ上って九月八日に当たる。既にニュース等で報じられているように、「十五夜」とグレゴリオ暦の激しいずれはこれからずっと続き、二〇一二年になるまで(同年九月二十一日が陰暦八月十五日となる)文字通りの仲秋の名月は八年の間、見られない。それまで、随分、御機嫌よう。]

2013/09/21

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 5 馬車で逢った婦人と(附 やぶちゃんが昔イタリアでおばさんたちにモテた話)

 このうえもなく涼しい日に、このうえもなく楽しい旅を終えて我々は宇都宮に着いた。目新しい風物と経験とはここに思い出せぬほど多かった。六十六マイルというものを、どちらかといえば、ガタピシャな馬車に乗って来たのだが、見たもの、聞いた音、一として平和で上品ならざるはなかった。田舎の人々の物優しさと礼譲、生活の経済と質素と単純! 忘れられぬ経験が一つある。品のいいお婆さんが、何マイルかの間、駅馬車内で私の隣に坐った。私は日本語は殆ど判らぬながら、身振りをしたり、粗末な絵を描いたりして、具合よく彼女と会話をした。お婆さんはそれ迄に外国人を見たこともなければ、話を交えたこともなかった。彼女が私に向って発した興味ある質問は、我国の知識的で上品な老婦人が外国人に向かってなすであろうものと、全く同じ性質を持っていた。

[やぶちゃん注:最後の部分、実は底本では「我国の知識的で上品な老婦人が外国人に向かってなすであろうと、全く同じ性質を持っていた」となっている。日本語としてこなれない。参考にさせて頂いている(実際には底本が異なっていて、省略変更箇所が多過ぎるために結果としてはあまり加工データとしては使用していないが)網迫氏の「網迫の電子テキスト乞校正@Wiki」の「第二章 日光への旅」には「なすであろうものと」と正しくなっている。これを採用させて貰った。

 ……モースが体験したのと同じ気分を私は二十二年前の妻と二人のイタリア旅行で何度も味わったことを思い出す。……シエナやアレッツオ、田舎へ行けば行くほど、宿の女将や夕涼みの婦人たち、コンパートメントで隣り合った老修道女までもが、私に親しく話しかけてきたものだった(無論、イタリア語は全く話せない)――ただその代り、一切の支払いを妻がしていたために男性からはテッテ的に嘲笑された。無論、所謂、古風なタイプの顔立ちの妻は私を嘲弄するイタリア野郎には逆にモテモテであった――未だ三十四歳で、少しはスマートだった……何人ものイタリアのおばさんたちは私のことを“giapponese Bambino! ”と呼んで抱きつき、キス攻撃を受けた……ああ、またイタリア、行きたいなあ……]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 4 旅つれづれ その二

 我々が休憩した宿屋の部屋部屋には、支那文字の格言がかけてある。日本人の通弁がその意味を訳そうとして一生懸命になる有様は中々面白い。我々として見ると、書かれた言葉が国民にとってそれ程意味が不明瞭であることは、大いに不思議である。読む時に、若し一字でも判らぬ字があると、通弁先生は五里霧中に入って了う。接続詞が非常にすくなく、また文脈は役に立たぬらしい。今 Penny wise pound foolish――〔一文惜みの百損〕――なる格言が四個の漢字で書いてあると仮定する。この格言が初めてである場合、若し四字の中の一字が判らないと、全体の意味が更に解釈出来なくなる。つまり…… penny wise……foolish とか、……wise pound foolish とか(外の字が判らぬにしても同様である)いう風になって、何のことやら訳が判らぬ。我々の通弁が読み得た文句は、いずれも非常に崇高な道徳的の性質のものであった。格言、古典からのよき教え、自然美の嘆美等がそれである。このような額は最も貧弱な宿屋や居酒屋にでもかけてある。それ等の文句が含む崇高な感情を知り、絵画の優雅な芸術味を認めた時、私は我国の同様な場所、即ち下等な酒場や旅籠(はたご)屋に於る絵画や情趣を思い浮べざるを得なかった。

[やぶちゃん注:「今 Penny wise pound foolish――〔一文惜みの百損〕――なる格言が四個の漢字で書いてあると仮定する。」原文は“Let us suppose the proverb, "Penny wise, pound foolish," written in four Chinese characters.”。ここのみ、石川氏の割注をそのままの形で示した。]

 

 田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前のきれいに掃かれた歩道、家内にある物がすべてこざっぱりとしていい趣味を現わしていること、かわいらしい茶呑み茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これらの美しい品物はすべて、あたりまえの百姓家にあるのである。

[やぶちゃん注:「鏡板」は「かがみいた」と読み、壁や天井などに張る、平らで滑らかな一枚板のこと。原文は“panels”。

「木質のきのこ」原文“woody fungus”。硬質の担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum の類の加工品か。しかし私は寧ろ、モースの質問答えた通弁の言葉を何か取り違えた(例えば茸が採れる木とか、茸を生やすために切り出した材木とか)のではなかろうかと疑っている。]

 

 この国の人々の芸術的性情は、いろいろな方法――きわめて些細なことにでも――で示されている。子どもが誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに、桜の花の形に切った紙をはる。この、奇麗な、障子のつくろい方を見た時、私は我国ではこわれた窓硝子を古い帽子や何かをつめこんだ袋でつくろうのであることを思い出した。

 

M38
図―38

 

 穀物を碾(ひ)く臼は手で回すのだが、余程の腕力を必要とする。一端を臼石の中心の真上の桷(たるき)に結びつけた棒が上から来ていて、その下端は臼の端に着いている。人はこの棒をつかんで、石を回転させる(図38)。稲の殻を取り去るには木造で石を重りにした一種の踏み槌が使用される。人は柄の末端を踏んで、それを上下させる。この方法は、漢時代の陶器に示されるのを見るとシナではすくなくとも二、○○○年前からあるのである。この米つきは東京の市中に於てでも見られる(図39)。搗(つ)いている人は裸で、藁繩で出来たカーテンによって隠されている。このカーテンは、すこしも時間を浪費しないで通りぬけ得るから、誠に便利である。帳として使用したらよかろうと思われる。

M39

図―39

 

[やぶちゃん注:図39は言わずもがなであるが、唐臼(からうす)である。

「藁繩で出来たカーテン」原文“a curtain consisting of strands of straw rope”。石川氏は直下に『〔縄のれん〕』と割注する。]

中島敦短歌拾遺(3)

  相模野の大根村ゆ我が友は南南豆を提げて來しかな

  送らうといへば手を振り「いや」といふかつては「ノン」といひてしものを

[やぶちゃん注:底本の「手帳」の部の「昭和十二年」の十一月七日の日録の中に出現する二首。「南南豆」はママ。無論、「南京豆」の誤記。年譜には、まさにこの年のこの『十一月から十二月にかけて「和歌五百首」成る』とあり(「和歌五百首」とは全集第二巻所収の「歌稿」群を指す)、この日よりも前の部分にその雰囲気が伝わってくる記載があるので、この日までを以下に示す。

十一月三日(水)何トナク和歌ガツクリタクナル/作リ出スト20首程タチドコロニデキル
十一月四日(木)又、歌三〇首ほど
十一月五日(金)約三十首
十一月六日(土)約二十首
十一月七日(日)朝天氣ヨシ/吉村氏來、avec 南京豆

として、二首が載る。但し、一首目には「提げて」を「持ちて」とする別案のメモが示されているので別案を復元しておく。

  相模野の大根村ゆ我が友は南南豆を持ちて來しかな

「吉村氏」吉村睦勝。横浜高等女学校の同僚で友人。後に金沢大学教授(物理学)。旧全集には例外的に(友人・知人書簡は極めて少ない中で)彼宛の書簡は十通も掲載されている。書簡番号五五同昭和一二年十一月九日附吉村宛(『横濱市中區本郷町三ノ二四七』発信で宛先は『神奈川縣秦野町乳牛二三九一井上方』)には、

 一昨日は南京豆を難有う、話の巧い羊毛宣傳家は高橋六郎氏、アドレスは京橋區槇町一ノ五城邊ビルディング、日本羊毛普及會内 紙芝居の方も判り次第知らせる
 只今、喘息につての切拔到着、御親切にありがたう
   九日

とある。]

日の光今朝や鰯の頭より 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   日の光今朝や鰯の頭より

 正月元旦の句である。古來難解の句と稱されて居るが、この句のイメーヂが表象してゐる出所は、明らかに大阪のいろは骨牌であると思ふ。東京のいろは骨牌では、イが「犬も歩けば棒にあたる」であるが、大阪の方では「鰯の頭も信心から」で、繪札には魚の骨から金色の後光がさし、人々のそれを拜んでゐる樣が描いてある。筆者の私も子供の時、大阪の親戚(舊家の商店)で見たのを記憶して居る。或る元日の朝、蕪村はその幼時の骨牌を追懷し、これを初日出のイメーヂに聯結させたのである。この句に主題されてゐる詩境もまた、前の藪入の句と同じく、遠い昔の幼い日への、侘しく懷かしい追憶であり、母のふところを戀ふる郷愁の子守唄である。蕪村への理解の道は、かうした子守唄のもつリリカルなポエジイを、讀者が自ら所有するか否かにのみかかつて居る。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

夜の光の日向の花 大手拓次

 夜の光の日向の花

よるのひかりのひなたの花、
おほくの窻窻(まどまど)に ひそかに脣(くちびる)をつける。
つねに わたしの思ひの裏(うら)にある
よるのひかりのひなたの花、
みづくろひする心を撫でて遠吠(とほぼ)えし、
はぢらひを かなたにかくして
銀のなげきの ささやきをこもらせる。

鬼城句集 秋之部 出水/秋の水

出水    出水や牛引き出づる眞暗闇

 

      出水して雲の流るゝ大河かな

 

      出水や鷄流したる小百姓

 

      泥水をかむりて枯れぬ芋畑

 

秋の水   秋水に孕みてすむや源五郎虫

 

[やぶちゃん注:「源五郎虫」は「げんごらう(げんごろう)」と訓じていよう。]

 

      秋水に根をひたしつも疊草

 

[やぶちゃん注:「疊草」(たたみぐさ)は単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ(藺草) Juncus effusus var. decipens のこと。]

 

      秋水や生えかはりたる眞菰草

 

[やぶちゃん注:「眞菰草」(まこもぐさ)は単子葉植物綱イネ目イネ科マコモ(真菰)Zizania latifolia。河川や湖沼の水辺に生育し、成長すると人の背丈ほどにもなる。葉脈は平行。花期は夏から秋で雌花は黄緑色、雄花は紫色を呈する。参照したウィキの「マコモ」によれば、肥厚した新芽の根元部分をマコモダケとして食用とする。また近年、スロー・フードとして見かけるようになった褐色を帯びたワイルド・ライス(カナディアン・ライス、インディアン・ライスとも呼称する)も本種の近縁種アメリカマコモ Zizania aquatica の種子である。その他『日本では、マコモダケから採取した黒穂菌の胞子をマコモズミと呼び、お歯黒、眉墨、漆器の顔料などに用い』てきた、とある。]

2013/09/20

藪入の夢や小豆の煮えるうち 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   藪入の夢や小豆の煮えるうち

 

 藪入で休暇をもらった小僧が、田舍の實家へ歸り、久しぶりで兩親に逢あつたのである。子供に御馳走しようと思つて、母は臺所で小豆を煮にてゐる。そのうち子供は、炬燵にもぐり込んで轉寢をして居る。今日だけの休暇を樂しむ、可憐な奉公人の子供は、何の夢を見て居ることやら、と言ふ意味である。蕪村特有の人情味の深い句であるが、單にそれのみでなく、作者が自ら幼時の夢を追憶して、亡き母への侘しい思慕を、遠い郷愁のやうに懷かしんでる情想の主題(テーマ)を見るべきである。かうした郷愁詩の主題(テーマ)として、蕪村は好んで藪入の句を作つた。例へば

 

    藪入やよそ目ながらの愛宕山

    藪入のまたいで過ぬ凧の糸

 

 等、すべて同じ情趣を歌つた佳句であるが、特にその新體風の長詩「春風馬堤曲」の如きは、藪入の季題に托して彼の侘しい子守唄であるところの、遠い時間への懷古的郷愁を咏嘆して居る。芭蕉の郷愁が、旅に病んで枯野を行く空間上の表現にあつたに反し、蕪村の郷愁が多く時間上の表象にあつたことを、讀者は特に注意して鑑賞すべきである。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。]

中島敦短歌拾遺 (2) 昭和八年手帳から 「尾瀬の歌」は実は昭和8年のものではなく、昭和9年のものではないか?

[やぶちゃん前注:底本の「手帳」の現存する最古の「昭和八年」から。]

 

 秋近み高原の空は山欅の木の梢を洩れて眼に沁みきたる

 

[やぶちゃん注:本歌群の詠唱時期は八月と推定される(後注を必ず参照のこと)。

「山欅」は通常は「やまにれ」又は「あきにれ」と読むが、「歌稿」の「Miscellany」歌群に、この草稿の三首目の決定稿が載るが(後注参照)、そこで「山毛欅」と書いて「ぶな」とルビを振っており、明らかに敦はここでは「木欅」と書いて「ぶな」誤訓していることが分かる。ブナ目ブナ科ブナ Fagus crenata である。因みに正しい「山欅」はイラクサ目ニレ科ニレ属アキニレ Ulmus parvifolia の異名である。名前は同ニレ属の中で唯一、秋に開花することに由来する。アキニレは「ネバの木」とも呼ばれ、カブトムシやクワガタが好む、とウィキの「アキニレ」にある。従って、この一首は、

 あきふかみ/たかはら(又はかうげん)のそらは/ぶなのきの/こずゑ(又はこぬれ)をもれて/めにしみきたる

と訓ずるものと思われる。私は「たかはら」で読みたい。]

 

大淸水にて、

 たまきはるいのち愛しも山深き空の碧を眺めてあれば

 

[やぶちゃん注:「大淸水」群馬県利根郡片品村戸倉にある尾瀬の群馬側登山口。標高一一八〇メートル。尾瀬探勝では鳩待峠から入り、最後にこの大清水へ下るルートがよく利用される。]

 

 さらさらと山欅の大木は高原のあしたの風にうら葉かへすも

 

[やぶちゃん注:「さらさら」の後半は底本では踊り字「〱」。「山欅の大木は」は「ぶなのおほきは」と訓じていると思われる。

 この一首は「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「大淸水にて」の前書で一首載るものの草稿であるが、そこでは(踊り字はここと同じ)、

 さらさらと山毛欅(ぶな)の大木は高原の朝(あした)の風にうら葉かへすも

となっている。さらに「手帳」には二箇所について別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。

 さらさらと山欅の大木の高原のあしたの風にうら葉かへすも

 さらさらと山欅の大木は高原のあしたの風に木の葉かへすも

 さらさらと山欅の大木の高原のあしたの風に木の葉かへすも

本来の句形でよいように(短歌には暗愚であるが)私には思われる。]

 

 山欅わたる風の冷たさこのあさけ高原は秋となりにけらしも

 

[やぶちゃん注:「山欅」は前に注した通りで「ぶな」(以下、この読みで通すので注記は略す)。この一首、「冷たさ」を「寒さよ」とする別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。

 山欅わたる風の寒さよこのあさけ高原は秋となりにけらしも

また、「けらしも」には「けり/ける/けらしも」という別案(?)附記があるらしいが、これは音数から見ても「けらしも」を引き出すまでの推敲メモのように思われる。]

 

水山欅の梢もれくる空の靑草にいねつゝわが仰ぎけり

 

[やぶちゃん注:本歌は表記通り、抹消されている(以下、取消線は注に至るまで同様)。「水山欅」は「みづぶな」と訓じているのであろう。この「水」は「瑞」で、瑞々しい・麗しいの謂いである。言わずもがなであるが「空の靑(あを)/草(くさ)にいねつゝ」で切れる。]

 

尾瀨へ、

 いつしかに會津境もすぎにけり、山欅の木の間ゆ尾瀨沼靑し、

 

[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の一首目の草稿であるが、そこでは、

 いつしかに會津境も過ぎにけり山毛欅(ぶな)の木の間ゆ尾瀨沼靑く

となっている。確かに「靑く」の方が余情を加えてよい。]

 

 水芭蕉の茂れる蔭ゆ褐(かち)色の小兎一つ覗きゐしかも

 

[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の二首目の草稿であるが、そこでは、

 水芭蕉茂れる蔭ゆ褐色の小兎一つ覗きゐしかも

とある。この草稿の存在によってこれが「かちいろ」と訓じていることが分かる。

 なお「手帳」草稿では「覗きゐしかも」の「ゐる」を「たる」とした「覗きたるかも」とするかと思われる別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。

 水芭蕉の茂れる蔭ゆ褐(かち)色の小兎一つ覗きたるかも

決定稿が画像がしまっていてよい。]

 

 兎追ひ空しく疲れ草に伏しぬ山百合赤く咲けるが上に

 

[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の掉尾であるが、そこでは、

 兎追ひ空しく疲れ草に臥(ふ)しぬ山百合赤く咲けるが上に

とある。]

 

 白々と白根葵の咲く沼邊、岩魚下げつゝ我が歸りけり。

 

[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」の表題直後に掲げられている二首の二首目の草稿であるが、そこでは、

 しろじろと白根葵の咲く沼邊岩魚(いはな)下(さ)げつゝ我が歸りけり

となっている(「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」)。

 「白根葵」はそこでも注したが、キンポウゲ目キンポウゲ科シラネアオイ Glaucidium palmatum。日本固有種の高山植物で一属一種。草高は二〇~三〇センチメートルで花期は五~七月、花弁はなく、七センチメートルほどの大きな淡い紫色をした非常に美しい姿の萼片を四枚有する。和名は日光白根山に多いこと、花がタチアオイ(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea )に似ることに由来する(以上はウィキの「シラネオアイ」を参照した)。「しろじろと」が不審であったが、「尾瀬ガイドネット」の「花ナビ」の「シラネアオイ(白根葵)」によれば、『花のサイズが大きくて綺麗で』、『白花から赤花、青花まで色の変化が見られる』とあるので問題ないようである(但し、『尾瀬に多いのは青紫色のシラネアオイ』ともある)。但し、この頁をよく読むと、『シラネアオイは高山に生息し湿原には生息しない』とあり、『綺麗で目立つので採取され移植されていることも』結構あり、『尾瀬の山小屋の前に植えられているのをよく見る』とあるから、中島敦が見たものは実は人為的に植生されたものかとも思われる。『尾瀬の山小屋によく植えられてい』て『綺麗だが、シラネアオイがワサワサ咲いていると、違和感を覚える』と現地ガイドが記すぐらいだから、この花は、狭義の尾瀬沼の本来のイメージには、実は属さない花であると言えるようだ。済みません、野暮を言いました、敦さん。]

 

 じゆんさいの浮ぶ沼の面、月に光り、燧の影はゆるぎだにせず、

 

[やぶちゃん注:「燧」燧ヶ嶽。福島県南西端にある火山。海抜二三五六メートル、南西中腹に尾瀬沼・尾瀬ヶ原が広がっている。]

 

 熊の棲む會津よろしと、燧山、尾瀨沼の上に神さびせすも

 

[やぶちゃん注:「神さびせすも」「万葉集」から見られる上代表現で、「神さび」は「神(かみ)さび」→「かむさび」→「かんさび」で神のように振る舞うこと、そのように神々しいことをいう名詞(「さび」はもと名詞につく接尾語「さぶ」で、そのものらしい様子でいるの意)。「せす」(サ変動詞「す」未然形+上代の尊敬の助動詞(四段型)「す」)で、なさる、の意。「も」は詠嘆の終助詞であろう。

 「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」の表題直後に掲げられている二首の一首目の草稿であるが、そこでは、

 熊の棲む會津よろしと燧岳(ひうちだけ)尾瀨沼の上に神(かん)さびせすも

となっている。私は個人的に「ひうち」は「たけ」でないとしっくりこない山屋なので、決定稿がよい。]

[やぶちゃん後注:本歌群が尾瀬で詠まれたものであることは疑いようがないのであるが、現在の年譜上(底本全集版の)の知見では、敦は、横浜高等女学校の同僚と昭和九(一九三四)年の五月に乙女峠、八月に再び尾瀬・奥日光に遊んでいるとあって、この前年の「昭和八年」には年譜にはそうした記載はない。ところが試みに彼の現存する数少ない書簡を繰ってみると、昭和八年の八月十九日附橋本たか宛絵葉書(底本旧全集第三巻「書簡Ⅰ」内番号二七)が現在の群馬県利根郡みなかみ町にある法師温泉から発信されており、そこには(下線やぶちゃん)、

 

 天幕をかついで、四五日ぶらついて、此處まで來た。こゝは越後と上州の國境、山の中の電燈もない、淋しい温泉場だ、

もうすゝきが奇麗に穗を出してゐる。中々いゝ。

 一寸東京や横濱へは歸る氣がしない

 そちらへ行くとすれば九月近くになるだらう。

 世田谷(小石川)のが、今度職があつとめたため大連に行つたよ、皆さんによろしく

 

とあり、また続く八月二十九日附橋本たか宛書簡番号二八(封筒欠であるが恐らくは独居先であった横浜市中区山下町一六九同潤会アパートと思われる)では、

 

 山からは一週間程前に歸つて來た。まだ中々あついね。

 

 今月もやつと、これだけしか送れない。それに、これだけ送ると、もう、そちらへ行く汽車賃もないんだ。僕は、考へたんだがね。これだけにしろとにかく送るのと、そちらへ僕が行くだけで、何も金を置いてこられないのと、どつちが良いかつて。結局、金を送つた方が(實際的には)何といつても役に立つだらうと、きめたんだ。

 

 婿姻とゞけは(そちらに判をおしていたゞくために)二三日中に送る。あるひはもう、うちから送つたかもしれない。判を押していたゞいて、それから又、世田ケ谷の家へおくりかへして〔貰〕いたゞくのだ。

 

 それから、お前にだけ内證にきくのだが。

 新地において貰つて、氣づまりだつたり、辛かつたりすることが多くはないかい?

 それに何時頃まで置いていたゞけるのだい?

 それから、もし、東京へお前とチビとが來て間借でもするとすれば、大體、月いくら位で、あがるだらうね?

 右の返事をきかせてくれ。

                       敦 

 

 皆さんに殘暑御見舞を申上げておくれ、』

とあるのである(この二八書簡は中島敦の新妻への率直な思いや当時の状況をよく伝えて微笑ましい)。この「橋本たか」とは、文面からお分かりになった通り、敦の「妻」である。年譜では二人の結婚は昭和七(一九三二)年三月の大学在学中であり、しかもこの昭和八年の四月にたかは既に「チビ」、長男桓(たけし)を郷里(愛知県碧海(へきかい)郡依佐美(よさみ)村。現在の安城市の一部と刈谷市の一部)で産んでいるのであるが、二人は未だ同居をしておらず、いわば一種の妻問婚状態、単身赴任状態(同年四月の横浜高等女学校奉職以降)にあった。しかも年譜には書かれていないが、二八書簡に見る通り、何とこの時点でも正式な婚姻届は未だ出されていなかった事実も判明するのである(桓君の出生届けはどうなっていたのでしょう? 後からわざわざ中島姓に変えたんですかねえ。戸籍にべたべたと追加記載が張られる上に、しかも私ならとても面倒だと思うんですがねえ……つまらないことが気になる、僕の悪い癖!……)。前の書簡の「小石川」は同書簡番号十九・二十に出る(二十には「皐さん」とある)が、これは敦の親戚である中島皐(かう)という人物である(大叔父の息子で父田人の甥に当る)が、どうも文面から見るに、彼はたかの橋本家とも相当に親しい関係(婚姻届がここを経由しているように二八書簡で読めるのは何らかの姻族関係が強く疑われる)にあったものらしい。「新池」は依佐美村高棚新池で橋本家実家の地名である。

 補注が長くなった。

 この二つの書簡によって、昭和八年の八月十五日前後から八月二十二日前後までの間(最長八日から九日ほど)に、彼が尾瀬周辺を逍遙していた可能性が非常に高い確率であるということが分かった。寧ろ、翌九年の尾瀬行は、もしかするとこの時に踏破した思い出の場所を同僚たちに彼が勧め、実現した再山行ではなかったろうか? そうしてこの歌稿草稿や「歌稿」の「尾瀨の歌」を見渡すと、高原に佇んでいるのは彼独りであることが見えて来るのである。我々が(少なくともさっきまでの私が)この歌群の映像が年譜上の記載から(実は彼の書簡を読んだの今回が初めてである)昭和九年の同僚たちとのわいわいがやがやの尾瀬行だ、と無批判に思い込んでいたのは大いなる愚であったと思い始めているのである。]

中島敦短歌拾遺 (1) 「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」草稿

中島敦短歌拾遺

[やぶちゃん注:以下は既に電子化注釈を終了した筑摩書房昭和五七(一九八二)年増補版「中島敦全集」第二巻所収の「歌稿」以外に同全集第三巻の「ノート・斷片」「手帳・日記」に見出せる短歌及び歌稿草稿と思しいものを拾い集めたものである。]

見まく欲り來しくもしるく山手なる外人墓地の秋草の色

秋風もいたくな吹きそ若き日の聖クラヽが三人歩める

我も見つ人にも告げん元町の增德院の二本銀杏

あさもよし

元町の

あしびきの山の手の店に踊子は縞のショールを買ひにけるかな

踊子は縞のショールを買ひてけり秋の夕は秋の風吹く

夕されば   踊子の亜麻色の髪に秋の風吹く

眺めつゝ淋しきものか眉描きし霧の夜頃の踊子の顏

あるぜんちんのたんごなるらしキャバレエの窓より洩るゝこの小夜ふけに

うかれ男に我はあらねど小夜ふけてブルース聞けば心躍る

[やぶちゃん注:「ノート・斷片」の「斷片」の、底本編者が「十四」とする短歌草稿群。「夕されば」の後の三字空きはママ。これらは明らかに先に掲げた「歌稿」の「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」の草稿である。以下、煩を厭わず、決定稿と並列させてみる。最初に本稿の歌稿●、次に〔 〕で当該決定稿の所収歌群(前書のテーマ)を示して決定稿◎を示す(添書のあるものはそれも示した)。

●見まく欲り來しくもしるく山手なる外人墓地の秋草の色
〔「於外人墓地」の巻頭〕
◎見まく欲(ほ)り來(こ)しくもしるし山手なる外人墓地の秋草の色

●秋風もいたくな吹きそ若き日の聖クラヽが三人歩める
〔「街頭スケッチ」の十二首目〕
◎秋の風いたくな吹きそ若き日の聖クララがうけ歩みする (若き尼僧は天主教の黑衣を纏へり)
[やぶちゃん注:「うけ歩みする」の推敲は画面のエッジが切れるように鋭くなって美事なものである。]

●我も見つ人にも告げん元町の增德院の二本銀杏
〔「ひげ・いてふの歌」巻頭〕
◎我も見つ人にも告げむ元街の增德院の二本銀杏(ふたもといてふ)

●あさもよし
〔「街頭スケッチ」の十八首目〕
◎(?)あさもよし喜久屋のネオンともりけり山手は霧とけぶれるらしも

●元町の
◎(なし)
[やぶちゃん注:これを初句とする短歌は存在しない。没草稿の一つか。或いは、「歌稿」で「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」に先行する「Miscellany」歌群に含まれる、元町を詠み込んだ(以下の二箇所の「まち」は「街」と「元町」のルビで、ルビを振った状態で「(元町)」が丸括弧表記でルビの附いた「街」に続いている、かなり表記としては苦しいものである)、

拙なかるわが歌なれど我死なは友は街(まち)(元町(まち))行き憶ひいでむか

に類したものを詠じようとしたものか。因みに元町の詠歌多いが、「元町」を歌の中に詠み込んだものは「歌稿」ではこの一首のみである。]

●あしびきの山の手の店に踊子は縞のショールを買ひにけるかな
〔「踊り子の歌」巻頭〕
◎あしびきの山の手の店に踊子は縞のショールを買ひにけるかな

●夕されば   踊子の亜麻色の髪に秋の風吹く
〔同じく「踊り子の歌」三首目〕
◎夕さればルムバよくする踊り子の亞麻色の髮に秋の風吹く
[やぶちゃん注:二句目の推敲の素晴らしさがよく分かる。]

●眺めつゝ淋しきものか眉描きし霧の夜頃の踊子の顏
〔同じく「踊り子の歌」五首目〕
◎眺めつゝ寂しきものか眉描きし霧の夜頃の踊り子の顏

●あるぜんちんのたんごなるらしキャバレエの窓より洩るゝこの小夜ふけに
〔同じく「踊り子の歌」七首目〕
◎亞爾然丁(あるぜんちん)のタンゴなるらしキャヷレエの窓より洩るゝこの小夜更(さよふ)けに

●うかれ男に我はあらねど小夜ふけてブルース聞けば心躍るも
〔同じく「踊り子の歌」七首目〕
◎浮かれ男に我はあらねど小夜ふけてブルウス聞けば心躍るも

以上から分かるように、これに限って見れば、敦の短歌は殆んど天然の形がそのまま決定稿に生きていることが分かる。また、彫琢部分も実に鋭い。歌人としての中島敦を我々は積極的に見直すべきであると私は感じている。]

煙のなかに動く幻影 大手拓次

 煙のなかに動く幻影

ひかりは おとをたて
みえない きこえない しはぶきをうみおとし、
みだれををさめる叢林(さうりん)のうちに羽ばたき、
鳥はひといろのかぎろひをそばだて
はるかに 現(うつつ)のかなたに なみだつ死をかざる。

鬼城句集 秋之部 秋の雲/霧/秋霞

秋の雲   秋雲や見上げて晴るゝ棚畑

霧     霧晴れてはてなく見ゆる泥田かな

      川霧や鐘打ちならす下り舟

秋霞    秋霞芋に耕す山畑



これをもって「天文」の部を終わる。

2013/09/19

「伊賀越道中双六」第一部冒頭「和田行家屋敷の段」の襖に書かれた漢詩について(参考資料)

 「伊賀越道中双六」第一部について、どうしも先に一つだけ申し上げておきたいことがある。
 最初の「和田行家屋敷の段」で襖に大きな字で五言律詩が書かれている。教師時代の哀しい性(さが)で、どうしてもそれを訓読しないと僕自身が承知しない。ところが最後の一句の訓読と意味がどうも自信がなく、それが気になって、この段、冒頭なのに、やや芝居に集中出来なかった嫌いがあった。解説書にも何にも書かれていない(私が編者なら詩の作者と題名ぐらいは解説するけどなあ。そもそもあの漢詩は原作者が舞台道具に指示したものなのか。それともそうでないのか――後の大道具の才覚なのか――も実は分からぬのである)。
 ざっと管見したところでは、劇評でこの詩を採り上げておられる方も見当たらない(見当たらないのが不思議な気がする。皆、あの漢詩の意味が分かったのか? 気になる人はいなかったのか? 僕はどうしても気になったのだ)。
 これから第一部を見ようというお方が、僕の様にならぬとも限らぬので一つ、以下にあの漢詩と評注を示しておこうと思う。
 あれは知られた「唐詩選」や「全唐詩」に所載する盛唐の詩人

高適(こうせき)

の五律

「送劉評事充朔方判官賦得征馬嘶」
 劉評事(りゅうひょうじ)が朔方(さくほう)の判官(はんがん)に充(あ)てらるるを送る 征馬嘶(せいばし)を賦(ふ)し得たり

である。遠い大学二年の時に読んでいるはずなのだが(底本の文庫には「1976.11.10」の読了クレジットが記してある)、最後の句の意味は結局、ついさっき、本書を開いてやっと分かったという体たらくであった。
 なお、訓読中の読みに限っては若い読者のために現代仮名遣で示した。語釈には岩波文庫一九六二年刊の前野直彬注解「唐詩選」を一部参考にしたが、自分の読みを大事にし、現代語訳は私の全くのオリジナルである。

 送劉評事充朔方判官賦得征馬嘶   高適

征馬向邊州
蕭蕭嘶不休
思深應帶別
聲斷爲兼秋
岐路風將遠
關山月共愁
贈君從此去
何日大刀頭

 劉評事が朔方の判官に充てらるるを送る 征馬嘶を賦し得たり   高適

征馬 邊州に向ひ
蕭蕭として嘶(いなな)きて休(や)まず
思ひの深きは 應(まさ)に別れを帶びたればなるべし
聲の斷ゆるは 秋を兼(か)ぬるが爲(ため)なり
岐路(きろ) 風と將(とも)に遠く
關山(かんざん) 月と共に愁ふ
君に贈る 此れより去らば
何れの日か 大刀頭(だいとうとう)

●語釈
・劉評事:不詳。官名の評事は地方の司法行政(特に刑獄に関わる事務)を巡察する「司直」の下官。
・朔方判官:「朔方」は現在の中華人民共和国内モンゴル自治区南部のオルドス市。黄河が北に大きく屈曲した地点の内側(南部分)に当るオルドス高原に位置する。「判官」はその朔方節度使の属官。
・征馬嘶:ここでは送別会の席での詩題。「征馬嘶」(旅行く馬が嘶く)の意。
・賦し得たり:宴会などで大勢が詩を作り合う際、古い詩文の一句や一字若しくは詩題を配当したり、引き当てたりすることを指している。この時は送別の宴席で高適が「征馬嘶」という詠題を与えられて作った送別の贈答詩であることを言っている。
・辺州:国境近くの州。朔方を指す。ここは長安からは険しい山岳を挟んで直線でも五〇〇キロメートル以上離れている。
・蕭蕭:馬の物悲しい嘶きの形容。
・不休:これは「全唐詩」の表記。「唐詩選」では、

 未休

とし、その場合は、

 蕭蕭として嘶きて未だ休(や)まず

と訓ずることになる。
・帶別:別離の深い哀調を帯びている。
・兼秋:陰暦七~八月の秋三月(みつき)の異称。ここの訓読は対句性を伝える古来のものに従ったが、私は自分が中国音で読めない以上、妙に調子を合わせた意味の取りづらい訓読をするくらいなら、いっそ、

 聲の斷ゆるは 兼秋(けんしゅう)たればなり

と訓ずればよいのに、と私は思うものである。
・岐路:追分。分かれ道。
・関山:関所のある山。「伊賀道中双六」の「竹藪の段」と関わってくる。
・大刀頭:これは漢詩にしばしば見られる音通による隠語で「還る」の意。古楽府にある「何當大刀頭、破鏡飛上天大刀」(何(いつ)か當(まさ)に大刀頭して、破鏡飛びて天に上るべき)に基づくもの。この「大刀頭」は、文字通り、大きな刀の柄頭(つかがしら)のことで、中国の場合はそこに環(わ)が附いている。その「環」を同音の「還」に掛けて言ったのである。「伊賀道中双六」では「正宗の太刀」が重要なアイテムとなり、また、「何時、帰ってくるのだろう」という言葉は準主役の青年剣士和田志津馬が、最後に美事父の敵討を果たして帰参することを暗示することにもなっているのだと私は思うのである。

■やぶちゃん現代語訳

 劉評事が朔方の判官に充てられることになって見送る その際に「征馬嘶(せいばし)」という詩題を得て詠んだ詩(うた)   高適

旅人を載せて行く馬は――辺境の地へと向かい――
ものさびしく響くその嘶(いなな)きは――一向に已(や)む気配がない……

その嘶きの思いが深いのは――まさに別離の憂愁に満ちているからに外ならず――
その嘶きの声が虚空に消えてゆくのは――まさに士の哀しむ秋だからに他ならぬ――

君を送るこの岐路(わかれみち)――風とともに遠い彼方へと君は去ってゆくのだ……
辺境の砦の山の上――そこにさし昇る月の光とともに私はこの別離を哀傷する……

君に贈ろう――「……ここから……君が去ってしまったら……
一体何時(いつ)、僕のもとへと……帰って来てくれるんだ?」と。……


【追記】同外題公演の完全劇評はこちら

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 3 旅つれづれ

 道路に添って立木に小枝の束が縛りつけてあるのを見ることがある。これは人々が集め、蓄え、そして、このようにして乾燥させる焚きつけなのである。

 

 ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醱酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。おまけに身につけた襤褸(ぼろ)のひどさ! 私が銭若干を与えると彼等は数回続けて、ピョコピョコと頭をさげた。一セントの十分一にあたる小銭は、このような場合最も便利である。ある店で六セント半の買物をして十セントの仮紙幣を出した所が、そのおつりが片手に余る程の、いろいろな大きさの銅貨であった。私は後日ここに来るヤンキーを保護するつもりで、貰ったおつりを非常に注意深く勘定する真似をしたが、あとで、そんなおつりを勘定するような面倒は、全く不必要であると聞いた。

[やぶちゃん注:「仮紙幣」原文は“a ten-cent scrip”。確かに“scrip” 緊急時に発行される臨時紙幣及び占領軍等が発行する軍票のことも言うが、ではここでモースが用いた十銭紙幣がそうした性質の仮の紙幣であったかというと、以下に見るようにそうではない。従ってこれは誤訳であると私は思う。そこで更に“scrip”を調べると、実はこれは以前にアメリカで発行されていた一ドル未満の紙幣の名称であり、そこから集合的ニュアンスで一ドル未満のお金の意を示す語としてもあることが分かった。ここはまさにモースは一ドル(=一円)以下のセント(=銭)の紙幣という意味で用いているのであるから、「仮紙幣」ではなく「紙幣」でよいのである。さてこの紙幣であるが、これは明治通宝と呼ばれる明治初期に発行された政府紙幣(不換紙幣)で、本邦初の西洋式印刷術による紙幣として著名なもので、当初はドイツのフランクフルトにあった民間工場で製造されたことから「ゲルマン札」の別名も持つ、「仮」ではない正式な紙幣である。以下、参照したウィキの「明治通宝」によれば(数字の半角を全角にし、記号の一部を省略した)、『戊辰戦争のため新政府は軍事費の出費の必要があり大量の紙幣が発行されていた。しかし紙幣といっても江戸時代の藩札の様式を踏襲した多種多様の雑多な紙幣、すなわち太政官札、府県札、民部省札、為替会社札など官民発行のものが流通しており、偽造紙幣も大量にあった。そのため近代国家のためにも共通通貨「円」の導入とともに近代的紙幣の導入が必要であった』。『当初日本政府はイギリスに新紙幣を発注する予定であったが、ドイツからドンドルフ・ナウマン社による「エルヘート凸版」による印刷の方が偽造防止に効果があるとの売込みがあった。そのうえ技術移転を日本にしてもいいとの条件もあったことから、日本政府は近代的印刷技術も獲得できることもあり1870年(明治3年)10月に9券種、額面5000万円分(後に5353万円分を追加発注)の発注を行った』。『翌年の1871年(明治4年)12月に発注していた紙幣が届き始めたが、この紙幣は安全対策のため未完成であった。そのため紙幣寮で「明治通宝」の文言や「大蔵卿」の印官印などを補って印刷し完成させた。なお当初は「明治通宝」の文字を100人が手書きで記入していたが、約1億円分、2億枚近くもあることから記入に年数がかかりすぎるとして木版印刷に変更され記入していた52000枚は廃棄処分された。明治通宝は1872年(明治5年)4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められた』。『しかし、流通が進むにつれて明治通宝に不便な事があることが判明した。まずサイズが額面によっては同一であったため、それに付け込んで額面を変造する不正が横行したほか、偽造が多発した。また紙幣の洋紙が日本の高温多湿の気候に合わなかったためか損傷しやすく変色しやすいという欠陥があった』。『その後、当初の契約通り技術移転が行われ印刷原版が日本側に引き渡された。そのため明治通宝札は日本国産のものに切り替えられ、折りしも1877年(明治10年)に勃発した西南戦争の際には莫大な軍事費支出に役立つこととなった』。『デザインは縦型で、鳳凰と龍をあしらったものであった。10銭券は1887年(明治20年)6月30日、それ以外の券も1899年(明治32年)12月31日をもって法的通用が禁止され廃止された』とあり、券種額面は百円・五十円・十円・五円・二円・一円・半円・二〇銭・一〇銭の九種類、一〇銭紙幣の寸法は87ミリ×53ミリメートルで、ドイツでの製造枚数は七千二百二万六千百四十三枚、後の国産製造分は五千四百六十二万千百三十七枚とある。外国人旅行者にエクスチェンジされたものであるから恐らく新しい国産の分であろう。サイト「MEIJI TAISHO 1868-1926: Showcase」の新紙幣(明治通宝)十銭札」で実物の画像(裏表)が見られる(これは明治五年発行とあるからドイツ製造分であろう。89×54とウィキの記載とはサイズが異なるのがやや気になるが、国内生産分では少し小さくなったのかも知れない)。]

 


M33
図―33

 

 午前八時十五分過ぎには十五マイルもきていた。我々の荷物全部――それには罐詰のスープ、食料品、英国製エール一ダース等も入っている――を積んだ人力車は、我々のはるか前方を走っていた。而も車夫は我々と略(ほぼ)同時に出立したのである。多くの人々の頭はむき出しで、中には藍色の布をまきつけた人もいたが、同時にいろいろな種類のムギわら帽子も見受けられた。水田に働く人達は、極めて広くて浅いムギわら帽子をかぶっていたが、遠くから見ると生きた菌(きのこ)みたいだった(図33)。

[やぶちゃん注:「十五マイル」約24キロメートル。浅草起点で現在の埼玉県越谷を過ぎた辺りである。

「英国製エール」原文“English ale”。上面発酵で醸造されるビールの一種。大麦麦芽を使用し、酵母を常温で短期間に発酵させたもの。殆んどのエールはホップを使用して苦味と香りを与え、麦芽の甘味とバランスを取る(上面醗酵は発酵中に酵母が浮き上がって層ができることに由来し、イギリス産や日本でも地ビールに多く、フルーティーな香りがある。我々の飲みなれたラガーは低温性酵母を使って六度~十五度の低温で発酵させて長期間熟成させた下面発酵である)。]

 

 目の見えぬ娘が.バンジョーの一種を弾きながら歌を唄ってゆっくりと町を歩くのをよく見たし、またある場所では一人の男がパンチ・エンド・ジュディ式の見世物をやっていた。片手に人形を持ち、その頭をポコンポコン動かしながら、彼は歌を唄うのであった。

[やぶちゃん注:瞽女(ごぜ)と傀儡師(くぐつ)である。

・「パンチ・エンド・ジュディ」原文“Punch and Judy”。石川氏は直下に『〔操り人形〕』と割注されている。ウィキの「パンチとジュディ」によれば、イギリスの人形芝居とそのキャラクターを指し(童謡「マザー・グース」の同題の一編をも指す)、起源は十四世紀のイタリアの伝統的な風刺劇「コメディア・デラルテ」(「パンチ」は、この劇がイギリスに伝わった際、劇に登場する道化師“Pulcinella”(プルチネッラ)が“Punchinello”と綴られ、それが後に“Punch”に縮められたもの)。人形劇「パンチとジュディ」のイギリス初演は一六六二年五月のロンドンのコヴェント・ガーデンで、十七世紀に活躍したイギリスの官僚サミュエル・ピープスの日記に記されているという。演者により多少ストーリーの変更はあるものの、基本はパンチが赤ん坊を放り投げ、ジュディを棍棒で殴り倒し、その後も犬や医者・警官や鰐などを殴り倒して、死刑執行人を逆に縛り首にし、最後に悪魔を殴り倒す、というプロットである。マザーグース好みの、残酷さを持ちながら、その荒唐無稽なドタバタ喜劇は現在でもイギリス国民の人気を集めており、夏の海岸やキャンプ場など人の多く集まる場所でよく演じられる他、毎年十月最初の日曜日には「パンチとジュディ・フェスティバル」がコヴェント・ガーデンで開かれている、とある。]

 

 艶々(つやつや)した鮮紅色の石榴(ざくろ)の花が、家を取りかこむ濃い緑の木立の間に咲いている所は、まことに美しい。

 

 街道を進んで行くと各種の家内経済がよく見える。織(おりもの)が大部盛に行われる。織機はその主要点に於て我国のと大差ないが、紡車(いとぐるま)を我々と逆に廻すところに反対に事をする一例がある。

 


M34
図―34

 

 路に接した農家は、裏からさし込む光線に、よく磨き込まれた板の間が光って見える程あけっぱなしである。靴のままグランド・ピアノに乗っかる人が無いと同様、このような板の間に泥靴を踏みこむ人間はいまい。家屋の開放的であるのを見ると、常に新鮮な空気が出入していることを了解せざるを得ない。燕は、恰度我国で納屋に巣をかけるように、家のなかに巣を営む(図34)。家によっては紙や土器の皿を何枚か巣の下に置いて床を保護し、また巣の真下の梁に小さな棚を打ちつけたのもある。蠅はすこししかいない。これは馬がすくないからであろう。家蠅は馬肥で繁殖するものである。

[やぶちゃん注:「馬肥」は「うまこえ」と読み、馬糞である。原文“the manure”は広く肥料・有機質肥料の謂いであるが、後者にあっては特に動物の排泄物を指す。]

 


M35
図―35

 

 床を洗うのに女は膝をついて、両手でこするようなことをしないで、立った儘手を床につけ、歩きながら雑巾を前後させる(図35)。こんな真似をすれば我々の多くは背骨を折って了うにきまっているが、日本人の背骨は子供の時から丈夫になるように育てられている。

 


M36

図―36

 

 窓硝子の破片を利用して、半音楽的なものが出来ているのは面白かった。このような破片のいくつかを、風が吹くと触れ合う程度に近くつるすと、チリンチリンと気持のいい音を立てるのである(図36)。

 

 我々が通過した村は、いずれも小さな店舗がならぶ、主要街を持っていた。どの店にしても、我々が立ち止ると、煙草に火をつける為の灰に埋めた炭火を入れた箱が差し出され、続いて小さな茶碗をいくつかのせたお盆が出る。時として菓子、又は碌に味のしないような煎餅若干が提供された。私は段々この茶に馴れて来るが、中々気持のよいものである。それはきまって非常に薄く、熱く、そして牛乳も砂糖も入れずに飲む。日本では身分の上下にかかわらず、一日中ちょいちょいお茶を飲む。

M37

図―37

 この地方では外国人が珍しいのか、それとも人々がおそろしく好奇心に富んでいるのか、とにかく、どこででも我々が立ち止ると同時に、老若男女が我々を取り巻いて、何をするのかとばかり目を見張る。そして、私が小さな子どもの方を向いて動きかけると、子どもは気が違ったように泣き叫びながら逃げて行く。馬車で走っている間に、私はいく度か笑いながら後を追ってくる子供達を早く追いついて踏段に乗れとさしまねいたが、彼等は即時(すぐ)真面目(まじめ)になり、近くにいる大人に相談するようなまななざしを向ける。遂に私は、これは彼等が私の身振りを了解しないのに違いないと思ったので、有田氏(一緒にきた日本人)に聞くと、このような場合には、手の甲を上に指を数回素早く下に曲げるのだということであった。そのつぎに一群の子供達の間を通った時、私は教わった通りの手つきをやって見た。すると彼等はすぐにニコニコして、馬車を追って馳け出した。そこで私は手真似足真似で何人かを踏み段に乗らせることが出来た。子どもたちが木の下駄をはいているにもかかわらず――おまけに多くは赤坊を背中にしょわされている――敏捷に動き廻るのは驚く可き程である。上の図(図37)は柔かい紐が赤妨の背中をめぐり、両腋と足の膝の所を通って、女の子の胸で結ばれて有様を示している。子供はどこにでもて、間断ない興味の源になる。だがみっともない子が多い。この国には加答児(カタル)にかかっている子供が多いからである。

[やぶちゃん注:「有田氏」不詳。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」は同行者はマレーの名しか載せない(同書の人名索引にも有田姓はない)。英語を解せる人間でなくてはならないから、冒頭にある「文部省のお役人が一人通弁として付いて行って呉れる」とある人物かとも思われる。

「加答児(カタル)」原文“catarrh”。病理学ではカタル(日本語のそれはオランダ語の“catarrhe”及びドイツ語の“Katarrh”由来)は滲出性の粘膜炎症疾患で、粘液分泌が盛ん起こり、上皮剥離や充血を病態として示すものを広く指すが、“catarrh”が俗語で「洟(はなみず)」のことをも指すように、ここは鼻炎のことである。懐かしい水っ洟の子供らの映像である(なお、カタルの語源はギリシャ語の、“kata-”(下へ)+“rhen”(流れる)+形容詞語尾“-ous”=“katrrous”(浸出性炎症)がラテン語化したもの)。]

 

 日本を旅行する、先ずどこにでも子供がいることに気がつくが、次に気がつくのは、いたる所に竹が使用してあることである。東屋(あずまや)の桷(たるき)、縁側の手摺、笊、花生け、雨樋から撥釣瓶(はねつるべ)にいたる迄、いずれも竹で出来ている。家内ではある種の工作物を形づくり、台所ではある種の器具となる。また竹は一般に我国に於る唾壺(だこ)の代用として使用されるが、それは短く切った竹の一節を火壺と一緒に箱に入れた物で、人は慎み深く頭を横に向けてこれを使用し、通常一日使う丈で棄てて了う。

[やぶちゃん注:「唾壺(だこ)」原文“cuspidor”。米語で「痰壺」のこと。あちらでは灰皿にも用いると辞書にはある。駅に痰壺があるのを日常的に見知っている世代は私ぐらいまでか。]

 

 田舎を旅しているとすぐ気がつくが、雌鶏の群というものが見あたらぬ。雌鶏と雄鶏とがたった二羽でさまよい歩く――もっともたいていはひっくり返した笊の内に入っているが――だけである。鶏の種類は二つに限られているらしい。一つは立派な、脚の長い、距(けづめ)の大きな、そして長くて美事な尾を持つ闘鶏で、もう一つは莫迦げて大きな鶏冠(とさか)と、一寸見えない位短い脚とを持つ小さな倭鶏である。

[やぶちゃん注:「立派な、脚の長い、距の大きな、そして長くて美事な尾を持つ闘鶏」ニワトリの品種の一つであるオナガドリ(尾長鳥・尾長鶏)。♂の尾羽が極端に長くなるのが特徴。高知県原産で現在は日本の特別天然記念物に指定されている。明治時代に外国にも輸出されて世界的にも“yokohama”(輸出された横浜港に由来)として知られる(ウィキの「オナガドリ」に拠る)。

「莫迦げて大きな鶏冠と、一寸見えない位短い脚とを持つ小さな倭鶏」所謂、日本在来種である地鶏。現在の「地鶏」の規定は日本農林規格(JAS)によれば、在来種由来の血液百分率が五〇%以上の国産銘柄鶏の総称だそうである(ウィキの「地鶏」に拠る)。鶏が東南アジアで家畜化されたのは古墳時代の少し前と考えられているが、その後、明治維新までの千数百年間、西欧からの外来種の交配を受けずに成立したものを特に日本鶏と呼称し、実際にはモースの言う二種ではなく、現在は十七種が天然記念物に指定されている(こ詳細はこの部分で参照した中央畜産会公式サイト内「畜産ZOO鑑」の「日本鶏」へ)。]

 

 歩いて廻る床屋が、往来に、真鍮張りの珍しい箱を据えて仕事をしている。床星はたいていは大人だが(女もいる)どうかすると若い男の子みたいなのもいる。顔はどこからどこ迄剃って了う。婦人でさえ、鼻、顔、その他顔面の表面を全部剃らせる。田舎を旅行していると、このような旅廻りの床屋がある程度まで原因となっている眼病の流行に気がつく――白内障、焮衝(きんしょう)を起した眼瞼、めっかち、盲人等はその例である。

[やぶちゃん注:「珍しい箱」既に電子化した「第七章 江ノ島に於る採集」の理髪業の携帯道具入の図183を参照されたい。

「白内障、焮衝(きんしょう)を起した眼瞼(まぶた)、めっかち、盲人等はその例である。」原文は“cataract, inflamed eyelids, and loss of one eye are seen as well as many blind people.”である。「焮衝」は身体の一局部が赤く腫脹し、熱をもって痛むこと、炎症の謂いである。英語の“inflamed eyelids”というのは確かに「炎症起こした瞼」の謂いであるが、これは所謂、ものもらいのような症状を指すことになる。確かにそれでも納得出来るが、私はこの時期の日本人に蔓延していた眼病としては結膜炎(conjunctivitis)やトラコーマ(trachoma)が自然であり、それをモースはかく表現(但し、「充血した目」は一般的には英語で“inflamed eyes”である。しかし、これらの眼疾患は悪化すれば当然の如く瞼も腫れぼったくなる。特にトラコーマでは重症化すると上眼瞼が肥厚し、遂には角膜潰瘍を引き起こし、そこに重感染が生ずると失明に至ることもある)したものではなかったかと思う。大方の御批判を俟つ。なお、このモースの原因説は床屋への冤罪であるように思われる。確かに細菌性結膜炎やウイルス性結膜炎、クラミジア・トラコマチス(Chlamydia trachomatis)を病原体とするトラコーマのその感染源としてはあり得ないことはないが、それらに加えて不可逆的な病変や失明の主因の一つを、かくも糾弾するのは、私には科学者らしからぬ暴挙としか思えないのであるが、如何?]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) ティボオを聴く 三首 中島敦 / 中島敦歌稿 了

      ティボオを聽く

 

カデンツァの纖(ほそ)き美しさ聞きゐればジャック・ティボオは佛蘭西の人

 

心にくき典雅さなれやモツァルトもティボオが彈けばラテンめきたり

 

喝采に應(こた)へてはゐれどティボオの顏やゝに雲れり鬚押へつゝ

 

[やぶちゃん注:敦の昭和一一(一九三六)年の手帳に、

 

五月二十九日(金) Jacques ThibaudSymphonie Espagnole

 

と記されている。下線はママ。先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、『五月二十六、二十九、三十日、六月一、二日と五囘の公演のうちの第二夜で、演奏の曲目は Veracini;Sonate, Mozart;Sonate la majeur, Lalo;Symphonie Espagnle, Chausson;Poè,Saint-Saëns;Rondo Capricioso の五曲であつた。ラロの「スペイン交響曲」はピアノの伴奏によつたものらしい』とある。
 以上、見て来たように、この年は二月六日のシャリアピン、(この間、三月二十三~二十八日の小笠原旅行、四月二十五日に三度目の母の死去があった)四月十五日にケンプ、同二十一日にゴールドベルクとクラウスのデュオ、五月十二日には二回目のケンプ、そしてその十七日後にこのティボーの公演に足繁く出向いている。その後、八月八~三十一日には中国旅行を敢行、その旅行中に「朱塔」歌群を完成させ、しかも現存する原稿に記入されている日附によれば十一月十日には「狼疾記」を、年も押し迫った十二月二十六日には「かめれおん日記」を脱稿しているのである。中島敦満二十七歳、この年は彼にとってすこぶる濃密な年であったことがこれらの事実から窺われるのである。(……私は私の二十七当時を今思い出して、その哀しいまでの精神的な貧しさと飲んだくれの日々に、身の凍る思いがしたことを告白しておく……)

「ティボオ」ジャック・ティボー(Jacques Thibaud 一八八〇年~一九五三年)はフランス出身のヴァイオリニストでクライスラーと並び称された。ボルドー市の音楽教師の息子として生まれ、八歳でリサイタル、十三歳からパリ音楽院に学び、一八九六年に首席で卒業、コロンヌ管弦楽団に招かれ、以後たびたび独奏者として活躍して名声を高める。一九〇五年アルフレッド・コルトー・パブロ・カザルスとともにカザルス三重奏団を結成した。大正一二(一九二三)年初来日、昭和一一(一九三六)年に二度目の来日を果たし、この折り、日本ビクター東京吹込所で録音を行ったほか、JOAK放送局からラジオ放送の生演奏を行った。敦の本歌群はこの時の公演である(前注参照)。第二次世界大戦中はフランスに留まって、ドイツでの演奏を拒否した。昭和二八(一九五三)年、三度目の来日途中、乗っていたエール・フランスのロッキード・コンステレーションがニースへのファイナル・アプローチの最中に、バルスロネット近郊のアルプス山脈に衝突、逝去した。彼が愛用していた一七二〇年製ストラディヴァリウスはこの事故で失われた(以上はウィキの「ジャック・ティボー」に拠った)。この最後の歌でティボーの表情に浮ぶ曇りは何だったのだろう。……この時、既にドイツではナチスが政権を掌握し、この年に日本は日独防共協定を締結している。……

「カデンツァ」“cadenza”(イタリア語)は楽曲の終結部で独唱者又は独奏者の演奏技巧を発揮させるために挿入される華美な装飾的楽句をいう音楽用語。]



以上を以って筑摩書房版全集第二巻所収の「歌稿」パートの全電子化と注釈を終えたが、同全集の第三巻に所収する「手帳」の中には多くの歌稿を見出すことが出来る。その拾い出しをここで続けて行おうと考えている。また、今回の注で示した昭和十一年の手帳も、後半に小笠原での興味深い有意な分量のメモが含まれており、この手帳の電子化も是非行いたいと考えている。

柳散り淸水かれ石ところところ 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   柳散り淸水かれ石ところところ

 秋の日の力なく散らばつてゐる、野外の侘しい風物である。蕪村はこうした郊外野望に、特殊のうら悲しい情緒を感じ、多くの好い句を作つて居る。風景の中に縹渺する、彼のノスタルヂアの愁思であらう。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」の掉尾。]

癡愚 大手拓次

 癡愚

さけびのなかにいろどられ
ほのほを銀のうぶげのやうにはやす
わびしれた くせものよ、
のろひは つきのひかりをよぢて
ぎざぎざに 幕をおとす。

鬼城句集 夏之部 天の川/稲光/稲妻

天の川   小舟して湖心に出でぬ天の川

 

稻光    稻光しつゝ晴れたる三十日かな

 

      草庵や隈なく見えて稻光

 

      稻光芋泥坊の二人ゐぬ

 

      稻光低くさがりてふけにけり

 

      稻光雲の中なる淸水寺

 

稻妻    稻妻の射こんで消えぬ草の中

本日 旧暦 十五夜 月の出 17:22

東京

月の出  17:22
南中時  23:36
月の入   4:53

国立天文台情報センターによる)

2013/09/18

Mes Virtuoses (My Virtuosi) ズィムバリストを聴きしこと 三首 中島敦

    ズィムバリストを聽きしこと

 

帝劇の三階にしてこの人のアヴェ・マリア聞きぬ十年(ととせ)前のこと

 

其の夜われ切符は買ひしが金(かな)なくて夕食(ゆふげ)たうべずひもじかりしよ

 

アンダンテ・カンタビレの音(ね)しみじみとすき腹にこたへ今も忘れず

 

[やぶちゃん注:「ズィムバリスト」はロシア人ヴァイオリニスト、エフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist ロシア語名エフレム・アレクサンドロヴィチ・アロノヴィチ・ツィンバリスト Ефре́м Алекса́ндрович Аро́нович Цимбали́ст 一八八九年~一九八五年)。指揮者や作編曲も手掛けた。ロシアのロストフ・ナ・ドヌにてユダヤ系音楽家の家庭に生まれ、指揮者であった父親の楽団で八歳になるまでにヴァイオリンを弾き始めた。十二歳でペテルブルク音楽院に入学、卒業後はベルリンでブラームスの協奏曲を弾いてデビュー、一九〇七年にはロンドンで、一九一一年にはボストン交響楽団と共演してアメリカ合衆国でもデビューし、その後はアメリカに定住した。大正一一(一九二二)年初来日して以降、四度に亙って来日している。参照したウィキエフレム・ジンバリストには、『古い時代の音楽の演奏によって、大いに人気を博した』とある。

 他のサイトの情報で彼の二度目以降の来日は大正一三(一九二四)年・昭和五(一九三〇)年秋・昭和七(一九三二)・昭和一〇(一九三五)年であることが分かった。一首目で「十年前のこと」とあり、本歌群の完成が昭和一二(一九三七)年であること(有意に八年前の昭和五年の方が自然である)、大正一三年(敦満十五歳)には朝鮮の京城にいたことから、昭和五年の来日公演の嘱目吟と推定する。貧窮の中で公演を聴きに行っている状況は、まさに敦のシュトルム・ウント・ドランクとも言うべきこの、東京帝国大学一年生満二十一歳であった昭和五年の秋の可能性がすこぶる高いように思うからである(昭和七年満二十四歳では六年前で「十年前」とドンブリで言うには無理があることと、この時期の敦が三月にたかと結婚、秋に朝日新聞社の入社試験を受験するも身体検査で不合格になったりと責任ある家庭人社会人の面影が強く、本歌の飢えた青年のイメージとはそぐわないと感じるからでもある)。

 なお、この昭和五年秋の来日の際、満十歳の一人の少女がジンバリストに面会し、メンデルスゾーンの協奏曲を演奏してジンバリストを驚嘆させ、メディアは挙ってこの天才ヴァイオリン少女を喧伝したが、この少女こそ昨年亡くなられたヴァーチュオーソ諏訪根自子さんである。

 三首目に詠まれたチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番ニ長調作品十一の第二楽章「アンダンテ・カンタービレ」(Andante cantabile)はジンバリストの得意としたものらしく、SP音源で本邦で録音されたものが残っている。この冒頭の旋律は私の物心ついた頃からの子守唄であった懐かしい曲である。

 最後に〆の注。往年の人気テレビドラマ「サンセット77」の主役の探偵スチュアート・ベイリー役や、同じく私もよく見たドラマ「FBI」の主役ルイス・アースキン捜査官役のエフレム・ジンバリスト・ジュニアという甘いマスクの男優は彼の息子である。]

謎のやうな 大手拓次

 謎のやうな

おほきな謎のやうなひかりをもつて、
おまへは このしづかなまよなかに
まへぶれもなしに わたしの身のなやみのなかへはひつてきた。
謎のやうなひかりをもつて
いんうつな鶺鴒(せきれい)のやうに
わたしのほとりへ あるいてきた。

鬼城句集 秋之部 立待月/待宵 ――今日から毎日月を見ようと思う……

立待月   立待月かはほり飛ばずなりにけり

[やぶちゃん注:この「かはほり」、蝙蝠は昔は「あぶらむし」と呼ばれた、本邦では最も一般的なコウモリである哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目小翼手(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属アブラコウモリ亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus であろう。彼等コウモリ類は無論、夜行性ではあるが、必ずしも一晩中活動し続ける訳ではなく、実際に観察してみると分るが、だいたい日没後の二時間ぐらいに最も活発に飛翔する。「立待月」は旧暦十七日の月、狭義には陰暦八月十七日の月及び月の出を指すので、試みに今年二〇一三年の陰暦八月十七日相当を調べると新暦二〇一三年ではブログでのこの項の公開である今朝九月十八日から四日後の九月二十一日で、月の出は神奈川県横浜で18:35である(私の御用達サイトページ」による)。]

 

待宵    待宵やすゝきかざして友來る

 

      待宵や土間に見えたる芋の莖

 

      待宵としもなく瓦燒くけむり

 

[やぶちゃん注:「待宵」は「まつよひ(まつよい)」で、翌日の十五夜の月を待つ宵の意から陰暦八月十四日の夜の月、月の出、小望月(こもちづき)のことで、前と同様にページ」で計算してみると、偶然であるがこの項の公開である今日九月十八日が陰暦八月十四日に相当し、月の出は16:45である。]

2013/09/17

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 2 田舎の寺子屋・鳥居


M31


図―31

 

 我々は水田の間を何マイルも何マイルも走ったが、ここで私は水車が潅漑用の踏み車として使用されているのを見た。図31は例の天秤棒で水車と箱とを運んで路を歩いて来る人を示している。同じスケッチで、一人の男が車を踏んで水を溝から水田にあげつつある。先ず箱を土手に入れ、車を適宜な凹に落し込むと、車の両側の泥に長い竿を立てる。人はこの竿につかまって身体の平衝を保ちながら、両足で車をまわすのである。

[やぶちゃん注:私はこの絵を見るまで、水揚げ水車は常時設置されていたものと勘違いしていた。考えて見れば納得の一齣である。]

 


M32


図―32

 

 我々が通った道路は平でもあり、まっすぐでもあって、ニューイングランドの田舎で見受けるものよりも、遙かによかった。農家は小ざっぱりと、趣深く建てられ、そして大きな葺(ふ)いた屋根があるので絵画的であった。時々お寺や社を見た。これ等にはほんの雨露を凌ぐといった程度のものから、巨大な萱(かや)葺屋根をもつ大きな堂々とした建築物に至るあらゆる階級があった。これらの建築物は、あたかもヨーロッパの寺院(カセードラル)がその周囲の住宅を圧して立つように、一般市民の住む低い家々に蔽いかぶさっている。面白いことに日本の神社仏閣は、例えば渓谷の奥とか、木立の間とか、山の頂上とかいうような、最も絵画的な場所に建っている。聞く処によると、政府が補助するのをやめたので空家になったお寺が沢山あるそうである。我々は学校として使用されている寺社をいくつか見うけた(図32)。かかる空家になったお寺の一つで学校の課業が行なわれている最中に、我々は段々の近くを歩いて稽古に耳を傾け、そして感心した。そのお寺は大きな木の柱によって支持され、まるで明け放したパヴィリオンといった形なのだから、前からでも後からでも素通しに見ることが出来る。片方の側の生徒達は我々に面していたので、中にはそこに立ってジロジロ眺める我々に、いたずららしく微笑(ほほえ)むものもあったが、ある級は背中を向けていた。見ると支柱に乗った大きな黒板に漢字若干、その横には我々が使用する算用数字が書いてある。先生が日本語の本から何か読み上げると、生徒達は最も奇態な、そして騒々しい、単調な唸り声で、彼の読んだ通り繰り返す。広い石の段々の下や、また段の上には下駄や草履が、生徒達が学校へ入る時脱いだままの形で、長い列をなして、並んでいた。私は、もしいたずらっ児がこれらの履き物をゴチャまぜにしたら、どんな騒ぎが起こるだろうかと考えざるをえなかったが、幸にして日本の子供たちは、嬉戯にみちていはするものの、もの優しく育てられている。我国の――男の子は男の子なんだから――という言葉――わが国にとって最大の脅威たるゴロツキ性乱暴の弁護――は日本では耳にすることが決してない。

[やぶちゃん注:「政府が補助するのをやめた」明治維新後に成立した新政府が慶応四年三月十三日(グレゴリオ暦一八六八年四月五日)に発した太政官布告(通称で神仏分離令・神仏判然令)及びその後の明治三年一月三日(同一八七〇年二月三日)に出された大教宣布の詔書などの政策を指し、それと同時に吹き荒れたおぞましき廃仏毀釈の影響である。

「パヴィリオン」直下に石川氏は『〔亭(ちん)〕』と割注なさっている。

「男の子は男の子なんだから」原文は“boys will be boys”。「若い男には若い男の特性がある」という諺。人間の生得特性を許容する謂い。男の子は乱暴なもの、若者は常に腹をすかせ、とかく羽目を外したがるといった意味で、同様の表現としては“God's lambs will play.

(神の子羊たちは戯れるもの。)、“Young colts will canter.”(子馬は駆けるもの。)、“A growing youth has a wolf in his belly.”(育ち盛りの若者の胃袋の中には狼がいる)、“Youth must have its fling.”(若者は羽目を外さないと承知しない)といったものがある(安藤邦男「英語ことわざ教訓事典」に拠った)。]

 

 所で、これ等各種のお社への入口は“tori-i”と称する不思議な門口、換言すれば枠形(フレーム)(門(ゲート)はないからこう云うのだが)で標示されている。この名は「鳥の休息所」を意味するのだそうである。これが路傍に立っているのを見たら、何等かのお社が、あるいは林のはるか奥深くであるにしても、立っているのだと知るべきである。この趣向はもと神道の信仰に属したものであって何等の粉飾をほどこさぬ、時としては非常に大きな、白木でつくられたのであった。支那から輸入された仏教はこの鳥居を採用した。外国人が措いた鳥居の形や絵には間違ったものが多い。日本の建築書には鳥居のある種の釣合が図表で示してある。一例をあげると上の横木の末端がなす角度は縦の柱の底部と一定の関係を持っておらねばならないので、この角度を示すために点線が引いてある。鳥居には石造のもよくある。これ等は垂直部もまた上方の水平部も一本石で出来ている。肥前の国には大きな磁器の鳥居もある。

[やぶちゃん注:「肥前の国には大きな磁器の鳥居もある」私は見たことがないが、佐賀県西松浦郡有田町大樽に鎮座する八幡宮、陶山(すえやま)神社に奉納された有田焼の鳥居を指すか(社名は俗に「とうざん」とも音読される)。但し、今ある国の登録有形文化財となっている当神社の巨大な磁器製鳥居は明治二一(一八八八)年竣工のものであり、この時にはない(その磁器製鳥居は、おにぎり太郎氏のブログ「九州大図鑑」の陶山神社の磁器製鳥居で見られる)。同神社が江戸時代に当時の有田の統治と有田焼及び陶工に関する管理を行っていた鍋島藩の皿山代官所(肥前有田皿山は地名)の指示により造営されたと伝わり、有田焼陶祖の神として陶工たちの崇敬を集めていたことから(ここまでウィキ神社(有田町)を参考にした)、恐らく現在のものよりももっと小振りながら、既に陶器で出来た鳥居が存在していたとは想像出来る。識者の御教授を乞いたい。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(9)

  游江島   松延年
妙音祠廟倚丹丘。
相海登臨萬里秋。
多少瑤臺連蜃氣。
參差琪樹挿鼈頭。
日升雲霧披三島。
天濶波濤織十洲。
御得長風從此去。
神仙何處不同遊。

[やぶちゃん注:松延年(まつのぶ とし)は水戸藩侍医。藤田東湖(文化三(一八〇六)年~安政二(一八五五)年)と親交があったらしい。弘道館入口にある「尊攘」の掛軸は彼の筆だそうである。以下の訓読、最後の二句は訓読も怪しく、意味もよく分からない。識者の御教授を乞う。

  江の島に游ぶ   松延 年
妙音の祠廟 丹丘に倚り
相ひ海して登臨す 萬里の秋
多少の瑤臺(やうだい) 蜃氣に連なり
參差(しんし)の琪樹(きじゆ) 鼈頭(べつたう)に挿す
日升(のぼ)りて 雲霧 三島を披き
天濶(ひろ)くして 波濤十洲を織る
得長風を御(ぎよ)し 此(ここ)より去って
神仙 何處(いづく)にかある 不同の遊

「丹丘」中国で仙人が住むとされる場所。ここは江の島を譬えた。
「登臨」高い所に登って下方を眺めること。
「瑤臺」玉で飾った美しい御殿。玉の台(うてな)。玉楼。
「参差」長短不揃いで入り交じるさま。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 1 イントロダクション

 第二章 日光への旅

 日光への旅行――宇都宮までの六十六マイルを駅馬車で、それから更に三十マイル近くを人力車で行くという旅――は、私に田舎に関する最初の経験を与えた。我々は朝の四時に東京を立って駅馬車の出る場所まで三マイル人力車を走らせた。こんなに早く、天の如く静かな大都会を横切ることは、まことに奇妙なものであった。駅馬車の乗場で、我々は行を同じくする友人達と顔を合わせた。文部省のお役人が一人通弁として付いて行って呉れる外に、日本人が二人、我々のために料理や、荷ごしらえや、荷を担ったり、その他の雑用をするために同行した。我々の乗った駅馬車というのは、運送会社が団体客を海岸へ運ぶ為に、臨時に仕立てる小さな荷馬車に酷似して、腰掛が両側にあり、膝と膝とがゴツンゴツンぶつかる――といったようなものであった。然し道路は平坦で、二頭の馬――八マイルか十マイル位で馬を代える――は、いい勢で走り続けた。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に(同書七九頁)、『モースは文部学監マレーに誘われ、六月二十九日に東京を出発して日光に向った。浅草から宇都宮までは数箇月前に開通したばかりの馬車、ついで日光までは人力車。東照宮を拝観したのち、中禅寺湖、男体山、湯ノ湖などを回って、貝や昆虫を採集したり、湖や温泉の温度を測定したりした。七月七日に日光鉢石を発ち、野渡(現栃木県野木町)まで人力車、それから利根川を小舟でくだり、翌七月八日に帰京した』とあり、更に、『当時外国人が遊歩地域(居留地より一〇里以内)外に旅行するときには旅行免状が不可欠で、御雇い教師などは旅行後に文部省から太政大臣』(当時は三条実美。彼は日本歴史最後の太政大臣でこの後、太政官制は廃止されて内閣制度が発足、明治一八(一八八五)年十二月二十二日を以って一二〇〇年以上に亙った太政大臣の官職は消滅、三条は内大臣に転じている)『への届け出も必要だった。このときの文部省届は明治十年七月十四日付で出されている』とあって、その届け出(「太政類典」二編八一巻より)が以下に記されてある。雰囲気を味わうために正字に直して以下に掲げておく。

文部省雇學監米人ドクトル、ダビット、モルレー氏儀理學研究ノ爲、奧州街道宇都宮ヲ經テ日光及ビ下野國足尾近邊ノ銅山ニ到リ、尚例幣使街道通リ壬生ニ到リ、夫(ソレ)ヨリ歸京致度旨申出候ニ付、外務省ヘ照會旅行免状付與候處、六月二十九日發程本月八日歸着到候。此段上申候也

なお、磯野先生はこの後に『足尾には行った気配がない』と記されておられ、本書にもそれらしい記載はない。ともかくも、この僅か十日間(移動に時間がかかっているから実質は八日程度)の旅がモースに強烈な印象を与えたことは、本書がこの旅を本章と次の「第三章 日光の諸寺院と山の村落」丸々の二章プラス「第四章 ふたたび東京へ」の前半分まで費やして書かれていることからも明白である。では、我々もモース先生とともに136年前の日光の旅に赴くこととしよう。
「六十六マイル」約106キロメートル。前注した出発地浅草(現在の東武伊勢崎線浅草駅とした)から宇都宮の日光街道が直角に西に曲る追分、宇都宮宿で最も栄えた町の一つである伝馬町までの直線距離は94・8キロメートルであるが、現在の国道4号に沿って計測してみるとズバリ、106キロメートル近くになる。これは地図上の単純な直線距離でなく、走行距離で算出されたものであることが分かる。
「三十マイル」約48・3キロメートル。現在の宇都宮市伝馬町から日光街道を辿ってみると、約40キロ弱であるが、高度があるから範囲内である。
「三マイル」約4・8キロメートル。新橋から浅草までの最短コースにぴったり一致する。
「八マイルか十マイル位」13~16キロメートル。ネット上の記載を見ると、実用馬の場合は無負荷の並足で20~40キロ程度の走行が可能、馬車の場合は時速10キロ程の速度で40キロ(4時間)の連続走行で馬を交換して、一日90キロ程走行していたようであるという記載を見つけた。ここでは相応に複数の乗客を乗せる二頭立ての大型の馬車(モースが比較で言っているのは横浜港で団体の船客を居留地と船着き場間を移動させるために仕立てられた特殊な馬車のように思われる)と思われ、しかも初夏であるから、馬の交換が早いのは納得出来るように私には思われる。なお、後に日光街道には千住から馬車鉄道が敷設されるが、それは明治二二(一八八九)年のことである。]

 朝の六時頃、ある町を通過したが、その町の一通りには籠や浅い箱に入れた売物の野菜、魚類、果実等を持った人々が何百人となく集っていた。野天の市場なのである。この群衆の中を行く時、御者は小さな喇叭(ラッパ)を調子高く吹き鳴らし、先に立って走る馬丁は奇怪きわまる叫び声をあげた。この時ばかりでなく、徒歩の人なり人力事に乗った人なりが道路の前方に現われると、御者と馬丁とはまるで馬車が急行列車の速度で走っていて、そしてすべての人が聾(つんぼ)で盲ででもあるかのように、叫んだり、怒鳴ったりするのである。我々にはこの景気のいい大騒ぎの原因が判らなかったが、ドクタア・マレーの説明によると、駅馬車がこの街道を通るようになったのはここ数ヶ月前のことで、従って大いに物珍しいのだとのことであった。

 この市場の町を過ぎてから、我々は重い荷を天秤棒にかけて、ヨチヨチ歩いている人を何人か見た。大した荷である。私は幾度かこれをやって見て失敗した。荷を地面から持ち上げることすら出来ない。しかるにこの人々は天秤棒をかついで何マイルという遠方にまで行くのである。また一〇マイルも離れている東京まで歩いて買物に行く若い娘を数名見た。六時半というのに、子供はもう学校へと路を急いでいる。時々あたり前の日本服を着ながら、アメリカ風の帽子をかぶっている日本人に出喰わした。薄い木綿の股引きだけしか身につけていない人も五、六人見た。然し足になにもはかない人も多いので、これは別に変には思われなかった。
[やぶちゃん注:「一〇マイル」約16キロメートル。浅草起点で16キロ地点は埼玉県草加市の北当りに相当する。]

「通し狂言 伊賀越道中双六」劇評について(予告)

今回の15年ぶりの通し狂言――従って次回見られるのも十数年後である可能性が高い。この後、大阪公演もあるので、可能なら今回見ておくことを強くお勧めする――「伊賀越道中双六」の劇評は来週、第二部を見た後に書こうと思うが一言――僕は多分、昨日、初めて文楽で泣いた。――

【2013年9月19日追記】一つだけ申し述べておきたいことを追記した。

「伊賀越道中双六」第一部冒頭「和田行家屋敷の段」の襖に書かれた漢詩について(参考資料)

検索で同外題の検索で来られた方は、是非、お読みくださると幸いである。

三徑の十歩に盡きて蓼の花 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   三徑の十歩に盡きて蓼の花

 十歩に足らぬ庭先の小園ながら、小徑には秋草が生え茂り、籬(まがき)に近く隅々には、白い蓼の花が侘しく咲いてる。貧しい生活の中に居て、靜かにぢつと凝視(みつ)めてゐる心の影。それが即ち「侘び」なのである。この同じ「侘び」は芭蕉にもあり、その蕉門の俳句にもある。しかしながら蕪村の場合は、侘びが生活の中から泌み出し、葱の煮える臭ひのように、人里戀しい情緒の中に浸み出して居る。尚この「侘び」について、卷尾に詳しく説くであらう。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。「三徑」は三逕とも書き、中国漢代の蒋詡(しょうく)が、幽居の庭に三筋の径(こみち)を作って松・菊・竹を植えた故事に基づく、庭に設けた三本の小道。転じて隠者の庭園や住居を指す。]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) ケムプを聴く 七首 中島敦

    ケムプを聽く

 

大いなる翼ひろげしピアノの前ケムプしづかに心澄ましゐる

 

      新響とのコンチェルトなりければ

 

管絃樂(オーケストラ)今か終らむ第一指を下(おろ)さんとするゆゝしき構へ

 

まなこ閉ぢべートーベンを彈(たん)じゐるケムプの額(ひたひ)白くして廣き

 

いく年(とせ)を專(もは)ら彈けばかその顏もべートーベンに似たりけらずや

 

フォルティスィモ ケムプ朱を灑(そそ)ぎ髮亂れ腕打ちふりて半ば立たむとす

 

      Mozart Klavier Konzert, D minor

 

若き日のモツァルトの夢華やかに珠玉(たま)相觸れてロマンツァに入る

 

オーボエとヴィオラの間(ひま)を隱れ縫ひピアノ琳々(りんりん)と鳴りの高しも

 

[やぶちゃん注:「ケムプ」ドイツのピアニスト・オルガニスト、ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff 一八九五年~一九九一年)。ベルリン音楽大学でピアノと作曲を学び(彼は作曲家を自身の本来の仕事と考えていた)、さらにベルリン大学で哲学と音楽史を修めた。一九一七年にはピアノ組曲の作曲によりメンデルスゾーン賞を受賞、一九一八年にニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニーとベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番で協演、シュトゥットガルト音楽大学学長を務めた後(一九二四年~一九二九年)、一九三二年、ベルリンのプロイセン芸術協会正会員となってドイツ楽壇の中心的役割を担うようになったが、第二次世界大戦中のナチス協力の経歴から戦後は一時期、活動を自粛したが、再活動後は特にベートーヴェンの演奏録音で知られる。同時代の音楽家アルフレート・ブレンデルやフルトヴェングラーはケンプを非常に高く評価しているが、ドイツ本国でよりも日本に於いての賞讃が格段に高い(かくいう私もファンである)。彼自身、親日家で昭和一一(一九三六)年のドイツ文化使節として初来日して以来、来日は十回に及んだ。バッハ「目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ」のケンプによるピアノ編曲版はよく知られている(私の偏愛する曲である。以上の事蹟は一部ウィキヴィルヘルム・ケンプを参考にした)。敦の昭和十一年の手帳を見ると、

 

四月十五日(水) W. Kempff,Beethoven’s Concerto 3. 5.

 

という記載と(この間、次の項の「四月二十一日(火)」には『Goldberg, KlausBeethoven’s Sonata 4,5,2,10』とあり、ベートーヴェンへの敦の傾倒ぶりが分かる。因みにこれはヴァイオリニストのシモン・ゴールドベルクとピアニストのリリー・クラウスのデュオである)、

 

五月十二日(火) W.KempffBeethoven Concerto 1 & 5Mozart Concerto in improvisation

 

という記載があって、二回に亙ってこの初来日のケンプの演奏会に行っていることが分かる(孰れも日比谷公会堂)。但し、先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、一回目の記載は四月十五日(水)の項に記載されているが、『その前日の十四日に演奏された方を聽きに行って』いるとあり、また四月二十一日(火)の分については、『Lili Kraus のピアノ伴奏による Simon Goldberg の「ベートーヴェン・・ヴァイオリン・ソナタ全十曲連續演奏會」おことで、四月十九日に第三・第六・第七、四月二十日に第一・第九・、四月二十一日に第四・第五・第二・第十番のソナタが演奏された。會場はいづれも日本靑年館であつた』とある。

「新響」は大正一五(一九二六)年に発足した日本最初の本格的な交響楽団である「新交響楽団」で、これは現在の同名の楽団とは別で、現NHK交響楽団の前身である。当時の指揮者はヴァイオリニストでもあった貴志康一(明治四二(一九〇九)年~昭和一二(一九三七)年)で、十四年下の貴志とは深い友情で結ばれた。後、昭和二九(一九五四)年に再来日したケンプは毎日新聞紙上で「私の思い出の中にある悲しみをともなって居ます。この前私が日本を訪問した時、ともにベートーヴェンの曲を演奏した才能ある日本の指揮者貴志康一氏が、余りにも若く死んでしまったからです。彼はたしか大阪の人でした」と語っている(以上は大阪市都島区役所公式サイトの「都島区ゆかりの人物」の貴志康一の日本活躍」ページの記載に拠った)。

Mozart Klavier Konzert, D minor」モーツァルトが最初に手掛けた短調のピアノ協奏曲第二十番ニ短調 K.466。「ロマンツァ」はその第二楽章「ロマンツェ」変ロ長調のこと。ミロス・フォアマン監督の映画「アマデウス」のエンディングに使われたあの曲である。ケンプとカラヤン指揮のベルリンフィル(一九五六年録音)が(陽之大瀬氏のアップ)で聴ける。]

うつくしい脣 大手拓次

 うつくしい脣

ふるへるぼたんのやうに
おまへのくちびるはひそひそと、
ひとめをはばかるおとをきき、
とほくのもののすがたをひきよせる。

鬼城句集 秋之部 露

露     土くれにはえて露おく小草かな

 

      露草弓弦はずれてむぐら罠

 

[やぶちゃん注:「むぐら罠」不詳であるが、中句から考えると熊などを捕獲することを目的としてアイヌの人々やマタギが山林に仕掛けた罠の一種である、仕掛け弓を言ったものか。アイヌの仕掛け弓クワリ(アイヌ語で「ク」は「弓」、「アリ」は「置く」)については、簡便に知るならば、北海道沙流(さる)郡平取町(びらとりちょう)二風谷(にぶたに)にある平取町立二風谷アイヌ文化博物館の公式サイト内のクワリページを、詳細を知りたい向きは宇田川学術論文「アイヌ自製――仕掛弓・罠」(PDFファイル)がよい。]

 

野分    せきれいの波かむりたる野分かな

 

      野分すや吹き出されて龜一つ

 

      山川の水裂けて飛ぶ野分かな

 

      野分して蜂吹き落す五六疋

 

      野分して早や枯色や草の原

 

      山川に高浪たつる野分かな

2013/09/16

本日これにて閉店

嵐の中、妻が文楽に行くと言ってきかない。これにて閉店と致す。

   心朽窩主人敬白

甲斐ヶ嶺や穗蓼の上を鹽車 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   甲斐ヶ嶺や穗蓼の上を鹽車

 高原の風物である。廣茫とした穗蓼の草原が、遠く海のやうに續いた向ふには、甲斐かいの山脈が日に輝き、うねうねと連なつて居る。その山脈の道を通つて、駿河から甲斐へ運ぶ鹽車の列が、遠く穗蓼の隙間から見えるのである。畫面の視野が廣く、パノラマ風であり、前に評釋した夏の句「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」などと同じく、蕪村特有の詩情である。旅愁に似たロマンチツクの感傷を遠望させてる。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。本文中の『前に評釋した夏の句「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」』の句は、評釈の前にも冒頭の総論「蕪村の俳句について」でも、他五句とともに掲げて以下のように述べている。

     陽炎(かげろふ)や名も知らぬ蟲の白き飛ぶ
     更衣野路の人はつかに白し
     絶頂の城たのもしき若葉かな
     鮒鮓や彦根が城に雲かかる
     愁ひつつ岡に登れば花いばら
     甲斐ケ嶺(ね)や穗蓼(ほたて)の上を鹽車

 俳句といふものを全く知らず、況んや枯淡とか、洒脱とか、風流とかいふ特殊な俳句心境を全く理解しない人。そして單に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、かうした蕪村の俳句だけは、思ふに容易に理解することができるだらう。何となれば、これらの句には、洋畫風の明るい光と印象があり、したがつてまた明治以後の詩壇に於ける、歐風の若い詩とも情趣に共通するものがあるからである。
 僕が俳句を毛嫌ひし、芭蕉も一茶も全く理解することの出來なかつた靑年時代に、ひとり例外として蕪村を好み、島崎藤村氏らの新體詩と竝立して、蕪村句集を愛讀した實の理由は、思ふに全くこの點に存して居る。即ち一言にして言へば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度萬葉集の和歌が、古來日本人の詩歌の中で、最も「若い」情操の表現であつたやうに、蕪村の俳句がまた、近世の日本に於ける最も若い、一の例外的なポエジイだつた。そしてこの場合に「若い」と言ふのは、人間の詩情に本質してゐる、一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的靑春性を指してゐるのである。

「穗蓼(ほたて)」のルビの「て」、「理解しない人。」の読点はママ。先行する「夏の部」に現われる評釈は、

   鮒鮓や彦根の城に雲かかる

 夏草の茂る野道の向うに、遠く彦根の城をながめ、鮒鮓のヴイジヨンを浮べたのである。鮒鮓を食つたのではなく、鮒鮓の聯想から、心の隅の侘しい旅愁を感じたのである。「鮒鮓」といふ言葉、その特殊なイメーヂが、夏の日の雲と対照して、不思議に寂しい旅愁を感じさせるところに、この句の秀れた技巧を見るべきである。島崎藤村氏の名詩「千曲川旅情の歌」と、どこか共通した詩情であつて、もっと感覺的の要素を多分に持つて居る。

を指す。]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) エルマンを聴く 五首 中島敦

    エルマンを聽く

 

冬の夜の心にしみて侘しきはエルマンが彈く詠嘆調(アリア)なりけり

 

エルマンか若(も)しはバッハかG線の上に顫へて咽び泣きゐる

 

潤ほへる音(ね)の艷けさよエルマンもわれとみづから聞き惚れてゐる

 

エルマンが光る頭をふり立つるスプリング・ソナタうらぐはしもよ

 

アダヂオに入るやエルマン眼を細め心しみじみ謠ひ出(いだ)しぬ

 

[やぶちゃん注:「しみじみ」の後半は底本では踊り字「〲」。

「エルマン」ウクライナ出身のヴァイオリニスト、ミハイル・「ミッシャ」・サウロヴィチ・・エルマン(Михаил (Ми́ша) Саулович Э́льман Mikhail 'Mischa' Saulovich Elman 一八九一年~一九六七年)。情熱的な演奏スタイルと美音で有名であった。参照したウィキの「ミッシャ・エルマン」によれば、『キエフ地方の寒村タリノエ(あるいはタルノイエ)に生まれる。祖父はクレツマーすなわちユダヤ教徒の音楽のフィドル奏者だった』。『オデッサの官立音楽学校に入学』『後、サラサーテの推薦状を得て、ペテルブルク音楽院』へ入る。1904年の『ベルリン・デビューではセンセーションを巻き起こした。1905年のロンドン・デビューは、グラズノフのヴァイオリン協奏曲の英国初演で飾った。1908年のカーネギー・ホールにおけるアメリカ・デビューにおいても、聴衆を圧倒している。1911年からは単身アメリカ合衆国に移住。ロシア革命後は、ロシアに残った一家をアメリカ合衆国に呼び寄せ、1923年に市民権を得た。1921年に初来日』、『1937年には2度目の来日』、戦後の『1955年には3度目の来日を果たしている』とあることから、昭和一二(一九三七)年の手帳を調べると、

 

一月二十七日(水)健脚會、岡村天神、/弘明寺、/Elman 7.30 日比谷/encore Ave Maria (S. )  Zigeunerweisen.

 

とある。「岡村天神」は現在の横浜市磯子区岡村二丁目の岡村天満宮で、これは位置から見ても「健脚會」(マラソン大会)の立ち番位置ではないかと思われる。推測であるが、健脚会は午前で終わり、午後、学校から下った弘明寺でその慰労会が開かれたのではなかろうか。エルマンの演奏会のアンコール曲が記されている。「(S. )」は Schubert の頭文字であろう。“Elman plays AVE MARIA (Schubert)で実際の、それも一九二九年のエルマンの演奏が聴ける。「Zigeunerweisen」はサラサーテの管弦楽伴奏附ヴァイオリン曲「ツィゴイネルワイゼン」(一八七八年作)である。なお、先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、この『獨奏會は、一月二十一、二十二、二十五、二十六、二十七日の五日間ひらかれ、その第五夜の演奏曲目は、Vivaldi;Concerto G-minor,Beethoven;Sonata F-major (Spring), Vieuxtemps;Concerto D-minor, Chopin-Sonate;Nocturne, De Falla;Spanish Dance, Wieniawaski;Souvenir de Moscou の六曲で』あるとあり、演目の中にバッハはない。アンコールのメモにもないものの、二首目に『「G線の上に」とあるのは、おそらく同日アンコール曲に「G線上のアリア」』が含まれていたものであろう、という推測が附されてある。

「スプリング・ソナタ」ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第五番ヘ長調 Op.24 の愛称。]

そらいろの吹雪 大手拓次

 そらいろの吹雪

この ふかまりゆく憂愁の犬のまへに
こころをふるはせ、
わたしは 季節のまばたきにやせてゆく。
おもふひとのすがたは、
うすい そらいろの吹雪のやうに
なきしづむ 心の背(せ)にたはむれる。

鬼城句集 秋之部 秋雨/秋風

秋雨    秋雨やよごれて歩く盲犬

 

      御佛のお顏のしみや秋の雨

 

      秋雨や柄杓沈んで草淸水

 

      秋雨や鷄舍に押合ふ鷄百羽

 

      秋雨や眞顏さみしき狐凴

 

[やぶちゃん注:「狐凴」は「きつねつき」である。「凴」は「凭」と同字で、狐の霊がよる・よりかかる・もたれるの意で、「憑」の誤字ではないと私は考える。大方の御批判を俟つ。]

 

      秋雨や賃機織りてことりことり

 

[やぶちゃん注:「ことりことり」の後半は底本では踊り字「〱」。「賃機」は「ちんばた」或いは「ちんはた」で機(はた)屋から糸などの原料を受け取って賃金を貰って機を織ること。]

 

      秋の雨一人で這入る風呂たてぬ

 

[やぶちゃん注:鬼城先生に不遜だが、私なら「たてね」とするであろう。]

 

      秋雨に聖賢障子灯りけり

 

[やぶちゃん注:「聖賢障子」は「せいけんしやうじ(せいけんしょうじ)」と読む。賢聖障子(げんじょうのしょうじ)。内裏の紫宸殿の母屋と北廂を隔てるために立てられていた障子(襖)。九枚あり、中央には獅子・狛犬と文書を負った亀を、左右各四枚には中国唐代までの聖賢名臣を一枚に四人ずつ計三十二人の肖像を描いたもの。ウィキ賢聖障子によれば、現存最古の賢聖障子は狩野派の絵師狩野孝信が慶長一九(一六一四)年『に描いたもので、現在仁和寺が所蔵し重要文化財に指定されている』とある。]

 

      秋雨や石にはえたる錨草

 

[やぶちゃん注:「錨草」モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科イカリソウ Epimedium grandiflorumウィキイカリソウ」によれば、花は赤紫色で春に咲き(従って本句の映像にはない)、四枚の花弁が距(きょ:植物の花びらや萼の付け根にある突起部分で内部に蜜腺をもつ。)を突出して錨のような特異な形状を成しているため、『この名がある。葉は複葉で、1本の茎に普通1つ出るが、3枚の小葉が2回、計9枚つく2回3出複葉であることが多い。東北地方南部以南の森林に自生し、園芸用や薬用に栽培されることもある』とある。]

 

秋風    秋風や子を持ちて住む牛殺し

 

      山畑や茄子笑み割るゝ秋の風

 

      秋風に忘勿草の枯れにけり

 

      街道やはてなく見えて秋の風

 

      秋風や犬ころ草の五六本

 

      秋風に大きな花の南瓜かな

未明……台風……蟬……生殖の眩暈……

4時に目醒めた。
嵐の雨風の中、がたがたと小刻みに顫える窓と隙間風の向こうに、ずっと聴こえているのは向いの山の林の必死の蟬の声ではないか。
生殖の眩暈の焦燥――
君は眠らない限り夢を見る――

2013/09/15

さんざめく生殖の豊饒の虫達の音よ――

さんざめく生殖の豊饒の虫達の音よ――もう――ああっ、僕の左耳には永遠にとどかない……

交換日記

「何故、君はそんなになってしまったのか」

返事
「どうして、あなたはそんなに変わってしまったの?」

そういえば……確かに……そうだったではないか…………

交換日記

僕はさっき……何故か……自分がかつての恋人と「交換日記」を「していた」ことを……ふと……思い出したのだった……
互いの思いを、夜、ノートに綴っては、翌日それを彼女に渡す、正真正銘の手書きの「交換日記」であった……
高校一年の終わりから高校三年まで、1973年から74年までのほぼ丸二年――
多分、分厚いノートを三冊以上書いたように記憶している――
北の外れの淋しい漁師町の誰もいない夕暮れの文房具屋の――
何種類もありはしないノートを――
彼女と一緒に――
……あれがいい……これはだめ……と……小一時間も選んでは楽しんだ……
……そんな40年も前のことを……思い出した……

破局が訪れた時――

彼女の涙のあとが――
その日記の文面に大きな雨粒のように染みてあったのを忘れない……

「交換日記」……

これはもう……

永遠の死語(詩語)である……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 27 ~第一章 了

 日本人が集っているのを見て第一に受ける一般的な印象は、彼等が皆同じような顔をしていることで、個々の区別はいく月か日本にいた後でないと出来ない。然し、日本人にとって、初めの間はフランス人、イギリス人、イタリー及び他のヨーロッパ人を含む我々が、皆同じに見えたというのを聞いて驚かざるを得ない。どの点で我々がお互に似ているかを尋ねると、彼等は必ず「あなた方は皆物凄い、睨みつけるような眼と、高い鼻と、白い皮膚とを持っている」と答える。彼等が我々の個々の区別をし始めるのも、やはりしばらくしてからである。同様にして彼等の一風変った眼や、平な鼻梁や、より暗色な皮膚が、我々に彼等を皆同じように見させる。だが、この国に数ヶ月いた外国人には、日本人にも我々に於ると同じ程度の個人的の相違があることが判って来る。同様に見えるばかりでなく、彼等は皆背が低く脚が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い歯を現わし、頰骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊美で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かで丁寧で、晴々しい。下層民が特に過度に機嫌がいいのは驚く程である。一例として、人力車夫が、支払われた賃銀を足りぬと信じる理由をもって、若干の銭を更に要求する時、彼はほがらかに微笑し哄笑する。荒々しく拒絶した所で何等の変りはない、彼は依然微笑しつつ、親切そうにニタリとして引きさがる。

 外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。こう感じるのが私一人でない証拠として、我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。我々は数ケ日の間ある田舎の宿やに泊っていた。下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て、この米国人は「これ等の人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々にくらべて、よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」というのであった。
[やぶちゃん注:「我国社交界の最上級に属する人」領事クラスの人物であろうが、惜しいかな、モースは引用元を明らかにしていない。識者の御教授を乞うものである。
「下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て」日本語の意味がよく分からない。原文は“After a polite concession to some of our mistakes by one of the maids,”。ここは
――下女の一人が、私たちが原因で生じた幾つかのゆゆしい間違った行動に対して、後から、実に礼儀正しい形で、まことに気持ち良く容認してくれたのを見て――
という意味であろう。具体には分からないが、単なる一般的な和式の礼儀作法から外れた行為であったばかりでなく、もしかするとその女性たる下女個人に対して、はなはだ非礼無礼に当るような行為が含まれていたというニュアンスを感じないか? 私が「容認」と訳した真意はそこを想定して選んでみた。シチュエーションとしては――モースらが自分たちの犯した失態に対して下女に恐縮し、“sorry”を繰り返したのに対し、彼女は逆に笑顔で「どう致しまして。外人さんは不慣れで御座いますから私が至りませんで、お気の毒さまで御座いました。」といったように慇懃な挨拶をされた――ということであろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 26 ゴミなき美しき東京

 バー・ハーバア、ニューポート及びその階級に属する場所等を稀な例外として、我国に於る防海壁に沿う無数の地域には、村落改良協会や都市連合が撲滅を期しつつあるような状態に置かれた納屋や廃棄物やその他の鼻持ちならぬ物が目に入る。全くこのような見っともない状態が、都鄙(とひ)いたる所にあればこそ、このような協会も出来たのである。汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁のある入江を横切る。この防海壁に接して、簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、決して台所の屑物や灰やガラクタ等で見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである。我国の静かな田園村落の外縁で、屢々見受ける、灰や蛤(はまぐり)の殻やその他の大きな公共的な堆積は、どこにも見られない。優雅なケンブリッジに於て二人の学者の住宅間の近道は、深い窪地を通っていた。所がこの地面はある種の屑で美事にもぶざまにされていたので、数年間にわたってしゃれに「空罐峡谷」と呼ばれた。日本人はある神秘的な方法で、彼等の廃棄物や屑物を、目につかぬように埋めたり焼いたり利用したりする。いずれにしても卵の殻、お茶の澱滓(かす)、その他すべての家の屑は、奇麗にどこかへ持って行って了うので、どこにも見えぬ。日本人の簡単な生活様式に比して、我々は恐ろしく大まかな生活をしている為に、多くの廃物(ウェースト)を処分しなくてはならず、而もそれは本当の不経済(ウェースト)である。我国で有産階級は家のあたりを清潔にしているが、田舎でも都市でも、貧民階級が不潔な状態の大部分に対して責任を持つのである。

[やぶちゃん注:「バー・ハーバア、ニューポート及びその階級に属する場所」原文は“With rare exceptions, such as Bar Harbor, Newport, and places of that standing,”。“Bar Harbor”はモースの生まれたアメリカ東部のメイン州にある街。同州北東部のカナダとの国境にも近いマウントデザート島にあって、大西洋岸に面した漁師町。古くからリゾート地として知られ、二十世紀初頭にはロックフェラー2世等の大富豪の避暑地として著名になり、多くの別荘開発が行われた(英文ウィキ“Bar Harbor, Maineなどを参考にした)。“Newport”はアメリカ東部のロードアイランド州南東部、州都プロビデンスの南約48キロメートル、ボストンの南約100キロメートルの地点にある港湾都市で、ロードアイランド州に深く切り込んだナラガンセット湾(Narragansett)に浮かぶ大きな島アクイドネック島(Aquidneck、別名ロード・アイランド)の先端に位置し、湾の対岸とはニューポート・ブリッジという吊り橋を含む長大な海上道路で結ばれている。港湾のほかにも保養地や別荘地としても名高く、十九世紀末以降に建てられた豪邸が街の南の風光明媚な海岸に並んでいる。また、アメリカ海軍戦略大学(United States Naval War College)・海軍水中戦センター(Naval Undersea Warfare Center)その他アメリカ海軍の訓練施設などが立地あり、黒船を率いて日本や琉球などを訪れたペリー提督など、海軍所縁の出身者も多い土地柄である(ウィキニュポートロードアイランド州を参照した)。「及びその階級に属する場所」ここは――及びそのような(景勝のリゾートや海防上の要衝地といった)例外的な立地条件を持った場所――を稀な例外として、の意。「階級」というのはこなれない訳語である。

「ケンブリッジ」底本では直下に『〔ハーヴァード大学所在地〕』という石川氏の割注は入る。モースは一八五九年から二年余りの間、ハーバード大学のルイ・アガシー教授の学生助手を務めている。

「所がこの地面はある種の屑で美事にもぶざまにされていたので、数年間にわたってしゃれに「空罐峡谷」と呼ばれた。」“This land was so disfigured by a certain type of rubbish that for years it was facetiously called the "tin canyon"!”“tin”はブリキ缶、“canyon”はキャニオンで米南西部やメキシコに多いグランド・キャニオンで知られるようなああした峡谷のこと。ラテン語の「管」を意味する“canna”由来のスペイン語“cañon”、峡谷をパイプに擬えた語に由来。「ティン・キャニオン」「ブリキ渓谷」。石川氏は原文のモースの悪戯っ子テンションを抑え、エクスクラメンション・マークを、モースが讃えた節制深き日本人として穏やかに傍点に代えるという「洒落」た訳をなさっている。

「日本人の簡単な生活様式に比して、我々は恐ろしく大まかな生活をしている為に、多くの廃物(ウェースト)を処分しなくてはならず、而もそれは本当の不経済(ウェースト)である。」原文は“In our extravagant way of living in contrast to the simple life of the Japanese we have much waste to dispose of and it is truly waste.”。“waste”には名詞で浪費・空費・無駄使い、の意の外に廃棄物の意がある。その意を掛けてモースは“truly”(本当に)と洒落た。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 25 子供達の天国たる日本

 いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人人なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蠅(うるさ)く愚図愚図(ぐずぐず)いわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長して了いそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはない。爾(なんじ)の父と母とを尊敬せよ……これは日本人に深く浸み込んだ特性である。子供達は赤坊時代を過ごすと共に、見た所素直げに働き始める。小さな男の子が往来でハケツから手で水を撒いているのを見ることがある。あらゆる階級を通じて、人々は家の近くの小路に水を撒いたり、短い柄の箒で掃いたりする。日本人の奇麗好きなことは常に外国人が口にしている。日本人は家に入るのに足袋以外は履いていない。木製の履物なり藁の草履なりを、文字通り踏み外してから入る。最下層の子供達は家の前で遊ぶが、それにしても地面で直(じ)かに遊ぶことはせず、大人が筵を敷いてやる。町にも村にも浴場があり、そして必ず熱い湯に入浴する。
[やぶちゃん注:これらの至高の賛辞を読みながら……ここのところ、毎日のように繰り返し報道される親の子への虐待や殺害事件の報道を目にするにつけ……私は日本人としてモース先生に恥ずかしい気がして来るのである……。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 24 緡

M30


図―30

 我国の人々は、丸い其銀製で中央に四角な穴のあいている支那の銭をよく知っている。日本にも同様なものや、またより大きく、楕円形で中心に四角な穴のあいたものもある。我々は屢々この穴が何のためにあるのかと不思議に思った。これは人が銭を南京玉のように粗末な藁繩で貫いたり、木片の上に垂直に立つ小さな棒に通して横み上げたりする為らしい(図30)。
[やぶちゃん注:所謂、緡(さし)である。モース先生の天馬空を翔(ゆ)くが如き好奇心の変化自在――とっても楽しくて――とっても羨ましい――。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 23 出っ歯の多い日本人

 日本人の多くが美しい白い歯を見せる一方、悪い歯も見受ける。門歯が著しくつき出した人もいるが、この不格好は子供があまり遅くまで母乳を飲む習慣によるものとされる。即ち子供は六、七歳になるまでも乳を飲むので、その結果歯が前方に引き出されるのであると。日本人は既に外国の歯科医学を勉強しているが、彼等の特殊的な、そして繊細な機械的技能を以てしたら、間もなく巧みな歯科医が出来るであろう。日本は泰西科学のどの部門よりも医学に就いて最も堅実な進歩を遂げて来た。医学校や病院は既に立派に建てられている。外国から輸入されるすべての薬が純であるかどうか分析して調べるための化学試験所はすぐ建てられた。泰西医療術の採用が極めて迅速なので、皇漢法はもう亡びんとしている程である。宗教的信仰に次いで人々が最も頑固に固執するのは医術的信心であって、それが如何に荒唐無稽で莫迦げていても容易に心を変えぬ。支那の医術的祭礼を速に合理的且つ科学的な泰西の方法に変えた所は、この国民があらゆる文明から最善のものをさがし出して、それを即座に採用するという著しい特長を持っていることの圧倒的実例である。我々は他の国民の長所を学ぶことが比較的遅い。我々はドイツやイングランドには我国のよりも良い都市政制度があり、全ヨーロッパにはよりよき道路建設法があることを知っている。だが我々は果してこれ等の制度を迅速に採用しているであろうか。

[やぶちゃん注:「門歯が著しくつき出した人もいるが、この不格好は子供があまり遅くまで母乳を飲む習慣によるものとされる。即ち子供は六、七歳になるまでも乳を飲むので、その結果歯が前方に引き出されるのであると」「門歯」は哺乳類の歯列の内、中央(前方)に上下二~六枚ずつある物を嚙み切る働きをする切歯。前歯のこと。即ち、ここは日本人には禪師が激しく突出した出っ歯の人がしばしば見られ、それらは(やはりエルドリッジ辺りからの請け売りか)、幼児の離乳が欧米人に比して遙かに遅い、おっぱいをいつまでもちゅぱちゅぱ吸い続けていた結果、歯根がまだ安定していない前歯が前へ突き出てしまい、出っ歯になる日本人が多いからとされる、というのである。こんなとんでもないこと――と思ったら――ウィキ出っ歯」には、以下のようにあった。『日本人の人類学的形質が縄文時代から現代に至る間に大きく変化した事が、第2次世界大戦後に鈴木尚(東京大学名誉教授 医学博士 形質人類学)らによって、主として関東地方から出土した人骨資料を基に明らかにされた。先に述べたように縄文時代人は鉗子状咬合であり、出っ歯はなかったが、弥生時代から次第に鋏状咬合が現われ、古墳時代には多くが鋏状咬合となったうえ、歯槽側面角も減少し70度以下になったため、出っ歯が多くなった。鎌倉時代では歯槽側面角が60度近くにまで落ち、著しい出っ歯状態になっている。以後はあまり大きな変化はなかったが、江戸時代中期頃から少しずつ歯槽側面角の増大が始まり、明治時代以降は急速に増大している。現代日本人の歯槽側面角は』76・4度『で、まだ突顎の範疇であるが、明治時代以前から見ると大きくなっており、出っ歯は見られなくなりつつある』。『日本人の歴史で見られたこのような変化がなぜ起こったのかはわかっていない。乳幼児期のおしゃぶりの過使用や口呼吸、爪噛みなどが歯列の乱れを引き起こすという説はあるが、大きな時代的変化との関係は考えられない。日本人を含めた黄色人種は一般に白色人種や黒色人種に比べて相対的にも絶対的にも歯牙が大型で(藤田恒太郎『歯の話』岩波新書 1965年、その他)、従って歯列も大きくなる可能性が考えられ、出っ歯になりやすいと見られるが、時代によって変化が生ずる原因は不明である』とあって、このトンデモ学説はしっかり生きていた。フロイトなら口唇期固着を指摘して、日本人の喫煙習慣やアルコール依存症の高さ、爪嚙み行為などの頻出などと連関させた論をぶち上げそうだ。

「日本人は既に外国の歯科医学を勉強しているが、彼等の特殊的な、そして繊細な機械的技能を以てしたら、間もなく巧みな歯科医が出来るであろう」同じくウィキ出っ歯」には、歯列矯正の文化誌が記されている。以下、引用しておく。『日本においては、第2次世界大戦終結頃までは、日本人の形質として歯槽側面角が小さい事による出っ歯の発現頻度が大きく、出っ歯が普通に見られたため、特に問題視や矯正される風潮はなかった。日本人の国民性として歯並びに無関心であったことも影響していると考えられる。アメリカでは、出っ歯が対象ではないにしても矯正歯科が20世紀初頭には行なわれていたのに対し、日本では第2次世界大戦後になってからの事であった(日本臨床矯正歯科医会の歴史)。西洋人はキスなど口による愛情表現が多いが、日本人にはそうした習慣がないので、その影響も考えられる(藤田恒太郎『歯の話』岩波新書1965年)。戦後の日本人には歯槽側面角の増大が目立ち始め、全体として出っ歯の個体は減少し、それに伴い目立つようになり、またアメリカ文化の強い影響下に入った結果、白人の引き締まった口元が美的優位となったため、それらに伴う美的見地から恥ずべき特性とみなされ、歯列矯正が行なわれるようになった。それでも日本では、歯科医学において歯列の歪みである不正咬合の一つとされて治療(歯列矯正など)の対象とはなるものの、口蓋裂を伴うような重篤な場合を除いて疾患とは判断されず、国民健康保険は適用されない』。しかし『容貌が重要視される俳優・女優等の中にも、歯列矯正を受けた人が少なくないらしいと、インターネット上のサイトやブログで取り沙汰されているが、日本人の歯並びに対する関心が時代と共に変化している事が示されている』とある。百科事典ではまずお目にかかれない記述だ。嬉しいね、ウィキペデイア!

「皇漢法」「こうかんぽう」と読む。原文は“the empirical Chinese practice”。皇漢医学。中国伝来の漢方医学、漢方のことで、漢法とも書く。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 22 ドクター・エルドリッジによる明治初年の衛生白書

 有名なアメリカの医師で数年間日本で開業し、ここ二年間は東京医科大学に関係しているドクタア・エルドリッジは、彼自身が日本人を取扱ったことや、他の医師(中には十六年も、日本に滞在した人がある)の経験に就いて、私にいろいろなことを教えてくれた。日本の気候は著しくよいとされている。従来必ず流行した疱瘡は、政府が一般種痘のために力強い制度を布き、その目的のために痘苗製造所を持つに至って、今や制御し得るようになった。この事に於て、他の多くに於ると同様、日本人は西洋の国民よりも遙かに進歩している。猩紅熱は殆ど無く、流行することは断じてない。ジフテリヤも極めて稀で、これも流行性にはならぬ。赤痢か慢性の下痢とかいうような重い腸の病気は非常にすくなく、肺結核は我国の中部地方に於るよりも多くはない。マラリア性の病気は重いものは稀で、軽い性質のものも多くの地方には稀である。急性の関節リューマチスは稀だが、筋肉リューマチスは非常に一般的である。腸窒扶斯(チフス)及び神経熱はめったに流行しない。殊に後者はすくない。再帰熱は時々見られる。皮膚病、特に伝染性のものは多い。話によると骨の傷害や挫折の治癒は非常に遅く、而も屢々不完全だそうである。米の持つ灰分は小麦の半分しか無く、おまけに水が骨に必要な無機物を充分に供給しないからである。

[やぶちゃん注:「ドクタア・エルドリッジ」ジェームズ・スチュアート・エルドリッジ(James Stuart Eldridge(一八四三年~明治三四(一九〇一)年)はアメリカ人医師。フィラデルフィア生。ジョージタウン大学で学び、明治四(一八七一)年に開拓使顧問ケプロンの書記兼医師として来日、翌年函館医学校の教官、外科医長となったが、明治八年に横浜に移って開業、翌年には横浜一般病院院長、同七年からは横浜十全病院の治療主任を兼ね、亡くなる前年の明治三三(一九〇〇)年には慈恵成医会副会長でもあった。『近世医説』の発刊(著者和名依児度列智(エルドリッチ)とする)や日本在留欧米人の疾病統計といった業績も残しており、故国に日本の解剖模型を送るなど、日米医学交流に尽くした。現在の横浜外国人墓地に眠っている。(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「十六年も、日本に滞在した人がある」これは幕末から明治維新にかけて日本で医療活動に従事したイギリス人医学博士でお雇い外国人のウィリアム・ウィリス(William Willis 一八三七年~一八九四年)のことである。一八三七年アイルランド生。スコットランドのエディンバラ大学で医学を学んだ後、文久元・万延二(一八六一)年に箱館領事館第二補佐官兼医官に任用され、江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、第二次東禅寺事件に遭遇し、生麦事件の現場を目撃している。ハリー・パークスの下で医官として働き、文久三(一八六三)年の薩英戦争ではイギリス人負傷者の治療に当たっている。元治元・文久四(一八六四)年、元公使館医官グリフィス・R・ジェンキンズと横浜で最初の薬局を開業、慶応二(一八六六)年、医官を務める一方、首席補佐官兼会計官に昇進、駐日英国公使パークスの鹿児島・下関・宇和島訪問に同行、横浜では大火に遭遇している。翌慶応三年には兵庫開港準備に伴う人事で江戸副領事及び横浜副領事に昇進した。明治元・慶応四(一八六八)年、兵庫のイギリス領事フレデリック・G・マイバーグが急死したため、大坂副領事代理を兼任(鳥羽・伏見の戦いの勃発・幕府軍の敗北・慶喜の大坂城脱出を間近に見聞する)、幕府から各国外交団保護不可能の通達を受け、兵庫へ移ったが、戦病傷者治療という名目で当時、日本語書記官になっていたアーネスト・サトウとともに大坂・京都に赴く。江戸に戻った後は横浜で彰義隊討伐作戦の負傷兵などを治療、北越戦争での戦傷者の治療にあたるため、越後路への旅している(この時、江戸(東京)副領事に復帰)。明治二(一八六九)年、明治新政府の要請でイギリス外務省員の身分のまま、東京医学校(東京大学医学部の前身)教授に就任、大病院の指導に当ったが、翌三年に新政府がドイツ医学採用の方針を採用したため、自発的に東京医学校教授を退職、イギリス外務省員も辞職して、西郷隆盛や医師石神良策の招きによって鹿児島医学校長(鹿児島大学医学部の前身)及び附属病院長に就任した。翌明治四(一八七一)年前後に鹿児島県士族江夏(こうか)十郎の娘である八重と結婚した。モースが来日した明治一〇(一八七七)年に西南戦争避けて東京に戻るまで鹿児島への医学の普及に貢献した。ここまででエルドリッジの言う通り、来日からぴったり十六年である。イングランドへの帰国は明治一四(一八八一)年とあるから、足掛け二十年に及ぶ滞在であった(以上の事蹟は主に詳細を極めるウィキの「ウィリアム・ウィリス」の記載を参照した)。

「疱瘡」原文“Smallpox”。天然痘。ウィキの「天然痘」によれば、十八世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) が一七九八年に天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった(ジェンナーが我が子に接種して効果を実証したとする逸話があるが、実際には彼は使用人の子に接種している。因みに、本邦では医学界ではかなり有名な話として、ジェンナーに先だって日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔がジェンナーの牛痘法成功に遡ること六年前の寛政四(一七九二)年に秋月の大庄屋天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施して成功させている)。日本で初めて牛痘法が行われるのは文化七(一八一〇)年のことで、ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後に田中正右偉門の娘イクに施したのが最初である。しかし、中川五郎治は牛痘法を秘密にしたために広く普及することはなく、三年後の文化一〇(一八一三)年にロシアから帰還した久蔵が種痘苗を持ち帰って、広島藩主浅野斉賢にその効果を進言しているが、まったく信じて貰えなかったという普及阻害の事実がある。その後、日本で本格的に牛痘法が普及するのは嘉永二(一八四九)年に佐賀藩がワクチンを輸入してからで、足守藩士の蘭方医で適塾を開いた近代医学の祖緒方洪庵が治療費を取らずに牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行ったのを濫觴とする。同年には日野鼎哉が京都に、緒方洪庵が大坂に、「除痘館」という種痘所をそれぞれ開いた(洪庵の天然痘予防の活動は安政五(一八五八)年四月に幕府公認となり、牛痘種痘施術が免許制となっている)、江戸ではやや遅れて。安政五(一八五八)年に蘭方医八十三名(そこには杉田玄白の曾孫杉田玄端(げんたん)や漫画家手塚治虫の曾祖父手塚良仙の名も見える)の資金拠出により神田松枝町(現在の東京都千代田区神田岩本町)の川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」(エルドリッジが言う「痘苗製造所」。ここは東京大学の前身の一つでもある)が設立された。江戸末期には毎年のように流行したが、特に安政四(一八五七)年十二月のパンデミックが有名である。確かにモースの来日に先立つ三年前の明治七(一八七四)年には文部省から「種痘規則」及び「種痘心得」が出されてはいるが、国民に完全に定着する(エルドリッジの言う「制御し得る」と言い切るには)明治四二(一九〇九)年の種痘法まで今少し時間が必要であった。

「猩紅熱」“Scarlet fever”。小児に多い発疹性伝染病。「いちご舌」という舌の鮮紅腫脹の症状で知られ、永く法定伝染病として恐れられていたが、現在は抗生物質によって容易に治療が可能となったため、一九九八年の法改正によって法定伝染病から除外された。以下、同様に病名の原語を示しておく。

「ジフテリヤ」“diphtheria”。ジフテリア菌の感染によって起こる主として呼吸器粘膜が冒される感染症。小児に多く、心筋や末梢神経が冒されて重篤に陥ることもあるが、予防接種の普及で減少した。

「赤痢」“dysentery”。下痢・発熱・血便・腹痛などを伴う大腸感染症。従来、赤痢と呼ばれていたものは、現代では赤痢菌による細菌性赤痢とアメーバ性赤痢(寄生虫症に分類)に分けられる。前者の国内患者は激減しているが、海外渡航者の帰国後発症はしばしば見れる。かくいう私の妻もかつて一緒に行ったトルコで Shigella sonneiD群赤痢菌・ソンネ赤痢菌)1相に罹患し、しっかり鎌倉の額田病院に隔離された。

「慢性の下痢」“chronic diarrhoea”。「ダッリィア」はギリシャ語「流れ通ること・貫流」の原綴りで、現在は“diarrhea”の綴りの方が一般的。

「肺結核」“phthisis”。明治初期までは労咳と呼ばれた。ただ「我国の中部地方に於るよりも多くはない」というのはどうか? 明治期には国民病と呼ばれ、まさに結核が、あらゆる近代の文学・芸術・文化全般に影響を及ぼした。

「マラリア性の病気」“malarial diseases”。かつては本邦にも土着のマラリアが存在したが、現在では絶滅している。

「急性の関節リューマチス」“acute articular rheumatism”。体の各所の関節に炎症が起こり、関節が腫れて痛み、進行すると関節の変形や機能障害や廃用化が起こる。現在、人口の0・4~0・5%、30歳以上の人口の1%に当たる人がこの病気に罹患するとされる。特に30~50歳代での発病が多く、男性より女性に有意に多く見られ、約3倍に相当する(公益財団法人リウマチ財団公式サイト「リウマチ情報センター」の「関節リウマチ」に拠った)。

「筋肉リューマチス」“muscular rheumatism”。現在、相当する狭義の病名はリウマチ性多発筋痛症(polymyalgia rheumatic ; PMR)である。原因不明の肩や腰周囲が筋肉痛を起こす病気で、六十五歳以上の高齢者に多く、寝返りが痛くてうてないといった愁訴を特徴とする。但し、リウマチ性多発筋痛症は関節リウマチの十分の一以下と考えられており、アメリカでは、人口10万人当り18・7~68・3人、特に50歳以上の人口10万人当りでは年間50人もの発病があるとされるのに対し、少なくとも現在の日本人では欧米人よりもずっと発症は少ないとされていると公益財団法人リウマチ財団公式サイト「リウマチ情報センター」の「リウマチ性多発筋痛症」にはあり、エルドリッジのこの謂いはやや解せない。これは全くの想像であるが、エルドリッジは西洋人には殆んど見られない「肩こり」を実は「筋肉リューマチス」と表現しているのではなかろうか? 大勢に於いて体型の大きく、頭部の重さを比較的支え易い欧米人は「肩凝り」という概念を永く持っていなかったため(パソコンの使用頻度が急激に増えた昨今は“have a stiff neck”「首が凝る」という表現が欧米でも現われているらしい)、エルドリッジはその肩凝りや四十肩・五十肩という日本人に多くみられる愁訴を、総て「筋肉リューマチス」と断じたのではなかったかという推理である。大方の御批判を俟つものである。

「腸窒扶斯(チフス)」“typhoid”。発音すると「タィフォイド」。腸チフス・疑似チフス。本邦では「チフス」と呼ばれる疾患は腸チフス・パラチフス・発疹チフスの三種類を含む。このうち腸チフスはチフス菌(Salmonella enterica var enterica serovar Typhi) によって、パラチフスは同じサルモネラに属する菌株パラチフスA菌(Salmonella serovar Paratyphi A)によって引き起こされる感染症であるが、発疹チフスはリケッチアの一種である発疹チフス・リケッチア(Rickettsia prowazekii)による疾患である(次注参照)。但し、これらの疾患は以前、同一のものであると考えられ、いずれもチフスと呼ばれていた。腸チフスは菌に汚染された水や食物によって起こる消化器系感染症で、四〇度超える高熱が持続して全身が衰弱するほか、腹部や胸部にバラ疹と呼ばれるピンク色の特有の斑点が現われ、腸出血を併発する場合もある。日本では近年減少した(以上は主にウィキ腸チフス」に拠った)。

「神経熱」“typhus”こちらが実は発音すると「タィフェス」で、日本語の「チフス」の語源はこれである。これが前注に示した発疹チフス(typhus fever)でリケッチア・プロワツェキイ(Rickettsia prowazekii)がシラミの媒介によって感染することで起こる疾患である。一〇~十四日間の潜伏期を経て、高熱と全身性の細かな発疹及び意識混濁や譫妄などの重い脳症状を示すのを特徴とする。本邦では第二次世界大戦中から戦後にかけて流行したが、昭和三〇(一九五五)年以降、国内病原による患者の報告はない。

「再帰熱」“relapsing fever”。回帰熱。シラミやダニが媒介するスピロヘータの一種ボレリア(Borrelia)に感染症することで起こる疾患で、名前は発熱期と無熱期を数回繰り返すことに由来する。高熱・悪寒・皮膚黄変などの症状を呈するが五~七日で消失し,約一週間の無症状期の後、再び前の症状が再帰、これを繰り返す。本邦では昭和二五(一九五〇)年以降、国内病原による患者の報告はない。

「骨の傷害や挫折の治癒は非常に遅く、而も屢々不完全だそうである。米の持つ灰分は小麦の半分しか無く、おまけに水が骨に必要な無機物を充分に供給しないからである。」原文は“It is said that injuries and fractures of the bones heal very slowly and often imperfectly. Rice has but half the ash material of wheat, and the water does not supply sufficient inorganic matter necessary for the bones.”。「灰分」(the ash)は食品成分として含まれる鉱物質カルシウム・鉄・ナトリウムなどのミネラルを指す。後半部は本邦の水の殆んどがカルシウムイオンやマグネシウムイオンなどの金属イオンの含有量が少ない軟水であるから、骨形成や修復が遅い、と言っているのであるが、硬水を飲むと骨密度が高まるというのはどう考えてもおかしい。しかし、これはエルドリッジの御高説であったのだろうから、こういうトンデモ解釈が平然とまかり通っていたのであろう。その点では一三六年の科学的認識の落差を感じさせる部分である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 21 正直な日本人・酒と盃・物静かで礼節なる日本人

 人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入しても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また、今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚もって来た。この国の人々も所謂文明人としばらく交っていると盗みをすることがあるそうであるが、内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、条約港に於ても稀なことである。日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も閂(かんぬき)も戸鈕も――いや、錠をかける可き戸すらも無いことである。昼間は、辷る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、而もその構造たるや十歳の子供もこれを引き下し、あるいはそれに穴を明け得る程弱いのである。

[やぶちゃん注:「大外套」原文“ulster”。アルスターとは両前仕立てのベルト附き防寒用長コートのこと。

「条約港」不平等条約によって開港を規定された港湾。開港場ともいう。嘉永七(一八五四)年三月三日(グレゴリオ暦三月三十一日)に締結された日米和親条約で下田と函館が開港されて以降、安政五(一八五八)年の日米修好通商条約を初めとする安政五カ国条約及び同第三条をはじめとする明治二年(一八六九)までの十五ヶ国との条約に基づき、長崎・神奈川(横浜)・新潟・兵庫(神戸)の四港が新たに条約港に指定され、その一方で下田が指定を解除された。これ以降、約五年の運用期間に留まった下田を除く五つの港を以って「開港五港」という通称が用いられるようになった。条約港では治外法権をもつ租界や外国人居留地が設定され、欧米列強の半植民地的支配の拠点となったが、その反面、条約港を中心として近代文明が導入された一面もあった。なお、この「開港」という許可規定は現在も生きており、外国貿易のために開放された港として関税法(昭和二九(一九五四)年法律第六十一号。旧関税法(明治三二(一八九九)年法律第六十一号を改正したもの)の規定に則って指定された港を指す。現在、全国の港湾のうち一一九港が指定されており、それ以外の港を「不開港」という(以上は主にウィキの「条約港」の記載に基づいて記載した)。

「戸鈕」原文は“buttons”。ドアや窓などの戸締り用の蝶形をした締め具のこと。]

M29

図―29

 

 ある茶店で私は始めて日本の国民的飲料である処のサケを味った。酒は米から醸造した飲料で、私の考ではラーガー・ビヤより強くはなく、我々が麦酒(ビール)に使用する半リッタア入りの杯の代りに日本人は酒を小さな浅い磁器の盃から畷(すす)る(図29は酒の盃実物大)。酒は常に熱くして飲むのである。私は冷たい儘をよりよしとなして数杯飲んだが一向に反応を感じなかった。確かにクラーレットよりも強くない程である。全体として私は酒をうまいものだと思った。私が今迄に味ったワインやリキュールのどれとも全く異っていて、ゼラニウムの葉を思わせるような香を持っている。今日までの所では、千鳥足の酔漢は一人も見ていない。もっとも夜中、時々歌を唄って歩く者に逢うが、これは飲み過ぎた徴候である。日本人はあまり酒をのまぬ民族と看做(みな)してよかろう。日本人が物静かな落着いた人々である証拠に、彼等が指でコツコツやったり、口笛を吹いたり、手に持っている物をガタガタさせたり、その他我々がやるような神経的であることの表現をやらぬという事実がある。昨夜東京から帰りに私は狭い往来を口笛を吹きながら手で昆虫箱をコツコツ叩いて歩いた。すると人々はまるで完全な楽隊が進行でもしているかのように、明けはなした家から外を見るのであった。日本人は決して疳癪を起さないから、語勢を強める為に使用する間投詞を必要としない。「神かけて云々」というような超請(オース)はこの国には無い。非常に腹が立った時、彼等が使う最も酷い言葉は、莫迦と獣とを意味するに止る。而もジェントルマンはこのような言葉さえも口にしない。

[やぶちゃん注:「クラーレット」原文“claret”。主に英米に於いてフランスのボルドー産赤ワインを通称する語。クラレ。

「ゼラニウムの葉を思わせるような香」ゼラニウムはフウロソウ目フウロソウ科テンジクアオイ属 Pelargonium の園芸栽培されるものの総称と総称(但し、参照したウィキの「テンジクアオイ属」によれば、『紛らわしいことに、ゼラニウムとは同じ科のゲンノショウコなどが含まれるフウロソウ属(Geranium)のことでもある。この2つの属に属する植物は元は Geranium 属にまとめられていたが、1789年に多肉質の Pelargonium 属を分離した。園芸植物として栽培されていたテンジクアオイ類はこのときに Pelargonium 属に入ったのであるが、古くから Geranium(ゼラニウム、ゲラニウム)の名で親しまれてきたために、園芸名としてはゼラニウムの呼び名が残ったのである。園芸店などでも、本属植物の一部をラテン名で ペラルゴニウム(Pelargonium)で呼び、その一方で本属植物の一部を「ゼラニウム」と呼んでいることがあり、これらは全然別の植物のような印象を与えていることがある。ペラルゴニウムとゼラニウムを意識的に区別している場合は、ペラルゴニウム属のうち一季咲きのものをペラルゴニウム、四季咲きのものをゼラニウムとしているようである』とある。ただここでモースは今の我々のイメージする広義のゼラニウムを想起している、と一応とっておく。なお、属名“Pelargonium”はギリシャ語の「こうのとり(pelargo)」に由来し、果実の錐状の突起がコウノトリの嘴に似ることに由来する)。同記載にはゼラニウムの『葉は普通対生または螺旋状につき、単葉で、掌状もしくは羽状の切れ込みや鋸歯のあるものが多く、無毛のものと有毛のものがあり、強いにおいのあるものが多い。青臭いようなこのにおいは、西洋人には好む人が多いが、日本人では嫌う人のほうが多い』とあり、ネット検索をかけると、薔薇に似ているとか、カメムシのような濃縮された青臭さであるとか、銅のようなな金属臭であるとか、花も含めて毀誉褒貶甚だしい(その成分の快いものを改良品種したものが最近は多いらしく、アロマ系の記載にも多出する)。蚊除けに葉の汁を肌に塗るとよいという叙述も見受けられ、調べてみるとゼラニウムの持つ成分の約1/3はシトロネロールという昆虫が忌避する成分であるらしい。ネットでは流石に匂いは嗅げない。残念。

「神かけて云々というような超請(オース)はこの国には無い」原文は単に“an oath is unknown”で、石川氏は分かり易く語を添えている。“oath”とはこの場合、“God damn you!”のような呪いや罵詈雑言などで用いられる神名の濫用を指す。

「莫迦と獣」原文“fool and beast”。「馬鹿野郎!」と「畜生!」。]

うら枯や家をめぐりて醍醐道 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   うら枯や家をめぐりて醍醐道

 畠の中にある田舍の家。外には木枯しが吹き渡り、家の周圍には、荒寥とした畦道が續いて居る。寂しい、孤獨の中に震へる人生の姿である。私の故郷上州には、かうした荒寥たる田舍が多く、とりわけこの句の情感が、身に沁しみて強く感じられる。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。]

Mes Virtuoses (My Virtuosi) シュメーを聴く 六首 中島敦   

    シュメーを聽く

 

女めかぬ音の強さやシュメー今腕をあらはにひた彈きに彈く

 

美しき腕にはあれどアレグロを彈きゐる見れば逞しと思ふ

 

日本のヷイオリニストのだらしなさシュメー聞きつゝしみじみと思ふ

 

盲人(めしひびと)宮城道雄の手をひきて禮(ゐや)するシュメー女(をみな)なりけり

 

「春の海」の琴にあはせて彈くシュメーなほ宮城氏をいたはるが如し

 

いさゝかに益良雄めけど立派なる顏とは見ずやシュメーの顏を

 

[やぶちゃん注:「シュメー」フランスのヴァイオリニストのルネ・シュメー(Renée Chemet 一八八八年~?)。これは恐らく昭和七(一九三二)年に来日した際のもので、この時、シューメは宮城道雄の「春の海」(昭和五(一九三〇)年歌会始の勅題「海辺の巖」に因み前年に作曲)を聴いて非常に気に入り、一夜でヴァイオリン合奏に編曲、そのSP版を録音している(日本ビクター原盤で後に米・仏でも発売されて世界的な名声を得た)。当時のシュメーの演奏について、小説家野村胡堂(音楽評論家「あらえびす」名義)は『シュメーのヴァイオリンは、そのフランス人らしい豊満な美貌と同じほどに妖艶なものであった。媚態という言葉は不穏当だが、少くともシュメーの演奏に接するものは、なんかしら、むずむずするような、極めて官能的な感銘を受けたものである。(中略)宮城道雄の琴と合奏した『春の海』は宣伝ほどは面白いものでない。この曲はむしろ、宮城道雄の琴に、吉田晴風の尺八で合奏したレコードの方が遥かに面白い。』(あらえびす「名曲決定盤」中央公論社、昭和一四(一九三九)年)と記している(Loree 氏のブログ「酒・女・歌」の春の海(宮城道雄/シュメー編曲)より孫引き)。その演奏と録音についてはピアニスト吉田秀晃氏のブログの宮城道雄(シュメー編):春の海に詳細を極める。同リンク先でも聞けるが、同氏がアップした最も正統なる同SPの非常にクリアーな全曲を宮城道雄:春の海 シュメー Chemetで聴くことが出来る。なお、この来日時にシュメーは四十四歳(因みに宮城道雄(明治二七(一八九四)年~昭和三一(一九五六)年)は三十八歳)であったが、その帰国後の消息は不明とする記事が多く、フランス語でフランスのサイト検索しても纏まった記事が見当たらない(四十四歳で事故死したかのように書かれたものもある)が、吉田氏の記事の中に、戦後の昭和三一(一九五六)年十一月三日附『読売新聞』の作家村松梢風の書いた本記SP録音に纏わる記事の中に昭和二八(一九五三)年に『パリでシュメーと宮城は再会し、懐かしい昔話をした』という記載があると記されてあるという(宮城は同年夏にフランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表として渡欧している)、これが正しいとすればシュメーは少なくとも六十五歳までは健在であったことが分かる。彼女の写真はアメリカのヴァイオリニスト Emily E. Hogstad 嬢のサイト“Song of the Lark”の“women composersを。このエミリー嬢のキャプションを見るとシュメーは「フランスのクライスラー」とも称された事実が分かる(なお、私は妻が宮城流の琴を弾く関係上、苦手な邦楽の中でも宮城道雄は例外的な思い入れがあることを述べておきたい。このシュメーの注も、ただのネット検索のパッチ・ワークなんどではなく、そのような確かな興味関心の産物として書いたものと――私は普段の如何なる注でもそのような安易な思いでは注していないという点に於いても――お考え戴きたいということである)。]

あをい馬 大手拓次

 あをい馬

なにかしら とほくにあるもののすがたを
ひるもゆめみながら わたしはのぞんでゐる。
それは
ひとひらの芙蓉の花のやうでもあり、
ながれゆく空の 雲のやうでもあり、
わたしの身を うしろからつきうごかす
よわよわしい しのびがたいちからのやうでもある。
さうして 不安から不安へと、
砂原(すなはら)のなかをたどつてゆく
わたしは いつぴきのあをい馬ではないだらうか。

鬼城句集 秋之部 後の月/秋空

後の月   後の月唐箕の市に二三人

 

[やぶちゃん注:「唐箕」は「たうみ(とうみ)」と読み、穀粒を選別する農機具のこと。箱形の胴につけた羽根車で風を起こし、その力を利用して秕(しいな:殻ばかりで中身のない籾)や籾殻・ごみなどを吹き飛ばして穀粒を下に残す装置。]

 

      後の月に破れて芋の廣葉かな

 

      橋の上に猫がゐて淋し後の月

 

      後の月を寒がる馬に戸ざしけり

 

[やぶちゃん注:「後の月」十三夜・栗名月・豆名月とも言い、旧暦八月十五日の月見をした後に旧暦九月十三日にも望月から少し欠けたものを月見をする習慣をいう。十五夜では月見団子(十五夜は十五個で餡で、十三夜は十三個で黄粉で食す区別があったともいう)の他に里芋を神棚に供える(芋名月の由来)のに対し、十三夜では栗や枝豆を供える。一般に十五夜の月見と十三夜のそれは組となっており、十五夜だけで十三夜の月見をしないと「片月見」といって忌まれたという。月見自体は中国伝来であるが、十三夜は日本独自の風習で、一説に宇多法皇が九月十三夜の月を愛でて「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の延喜十九(九一九)年に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われているが、以上の記載の参考の一つにしたあい氏の「いろはにお江戸」の「江戸の四季」にある後の月によると、江戸吉原では八月十五日に登楼した客は片月見を言い立てられて九月十三日にも必ず登楼することを約束させられたとあり、しかも『片月見の習俗は、ほぼ江戸に限られており、地方にはあまり浸透していないことから、案外吉原の方が勝手に都合のいいことを言い出したのが、江戸に広まったのではないかという説もある』とも記されてある(雲上から亡八までというのが如何にも面白い)。因みに、今年二〇一三年の旧暦の十五夜は今日から四日後の九月十九日、十三夜は十月十七日である(大阪市立科学館のデータに拠る。で二〇二〇年までの両夜が確認出来るので来年以降も参照されたい)。]

 

秋空    秋空や日落ちて高き山二つ