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2013/09/12

博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE の “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND” に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!

本ブログは、多様なフォントや記号・リンクを使用しているため、和文を明朝で作成した私の原稿をそのままで載せる。明朝の嫌いな向きには悪しからず。



■9 
“JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND” に現われたるエラコの記載

 

STRANGE FOODS

 

Our dredging has been very successful, and we have bought many interesting specimens from the fishermen who peddle their products through the village. The natives seem to eat anything and everything that comes from the sea. I am over one hundred miles from Hakodate and from bread-and-butter, and having no meat or other articles of food which I had at Hakodate I have finally resigned myself to the Japanese food of this region and to consider my stomach as a dietetic laboratory which will assimilate the necessary nutritive elements from the material offered. And of all places to start such an experiment is this village! It required some courage and a good stomach to eat for dinner the following : fish soup, very poor; bean paste, which was not so bad; eggs of sea urchin, which were served raw and were fairly good-tasting; and holothurian, or sea cucumber, tough as rubber, doubtless nutritious, but by no means agreeable. It was eaten with Japanese sauce, shoyu, which renders everything more or less palatable.

I had for supper marine worms, — actual worms, resembling our angleworms, only slightly larger, and judging from the tufts about one end they probably belonged to the genus Sabella. They were eaten raw and the taste was precisely as seaweed smells at low tide. I ate a large plateful and slept soundly. I have also had served and have eaten a gigantic ascidian belonging to the genus Cynthia. I often eat Haliotis, the abalone of California. The scallop is very good. I have mentioned in this enumeration articles of food the names of which I know. I am also eating things that I do not know and cannot even guess what they are. On the whole, I am keeping body and its animating principle together, but long for a cup of coffee and a slice of bread-and-butter. I am the only outside barbarian in town. The children crowd around me and stare, but the slightest attempt at making friends with them sends them screaming away in terror.

 

 

□やぶちゃん注(★は本テクスト及び注の眼目)

 筆者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生、少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は “apanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年刊)や本作「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。

 引用原本 “Japan Day by Day” は、三十年以上前の日記とスケッチをもとにエドワード・モースが一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版したものである(1917,BOSTON AND NEW YORK; HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)。

 原文はInternet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineにある電子データに拠り(の最後)、同書のPDFファイルの原本画像を視認して補正した。因みにこれは“CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND”の掉尾に当たる。

 日本語訳は石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松。氏の著作権は既にパブリック・ドメインとなっている)が同年(大正六年)に翻訳した、「日本その日その日」(一九七〇年平凡社刊)の「2」の「第十二章 北方の島 蝦夷」を用いたが、同訳は原本見開きの右ページ欄外にある小見出し(この場合は“STRANGE FOODS”)は省略されているので「奇妙な食べ物」と私が挿入しておいた)。因みに私は現在、この石川欣一氏訳の「日本その日その日」(東洋文庫版全三巻)の私のオリジナル注釈附電子テクスト化をこのブログで行っているが、今のところ電子化を完了したのは第五章から第八章及び第一章の途中までで、引用した当該章「第十二章 北方の島 蝦夷」に至るまでには未だ道程が遠い。前文をお読みになられたい向きには、悪しからず、石川氏の当該書を御購入なされたい。

 本記載は磯野直秀氏の偉大なる博物学者モースの生涯を綴った名著「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「19 北海道・東北旅行」にある、当時同行した「新体詩抄」で知られる植物学者矢田部良吉(嘉永四(一八五一)年~明治三二(一八九九)年:明治一〇(一八七七)年に東京大学初代植物学教授(日本初号)となり、東京植物学会の創立者。)の残した「北海道旅行日誌」の中の記載(一九〇頁)によって、明治一一(一八七八)年七月二十六日に上陸した小樽での記事(この食事風景はまさにその当日若しくは翌二十七日の夕食孰れかである。彼は二日後の小樽滞在は二十九日の朝には札幌に向かっている。引用箇所の最初にドレッジ成功の話がある辺りから考えると、その成功を祝っての二十七日の夜のことであったかも知れない)。なお、これを博物学古記録と謳うことに異論を持たれる向きもあるやに思われるが、明治といっても一八七八年は今から実に百三十五年前の記録であり、現在、ここで示されるようなゴカイ食の食文化が知られなくなりつつある中では、古記録と称して私は問題ないと考えている。

・“one hundred miles”約161キロメートル。函館―小樽間の直線距離とぴったり合致する。

・“consider my stomach as a dietetic laboratory which will assimilate the necessary nutritive elements from the material offered.”パンもバターもないここで最早、好き嫌いやゲテモノなどとは言っていられないモースが――ここで提供され得る限りの材料から、生きるために必要な栄養となるかもしれない要素を、何としても自分のものとして吸収すべく――、“consider my stomach as a dietetic laboratory”――私の異袋を何でも試みるための窮余の食物の実験室と見做す――こととした、というである。

・“such an experiment is this village!”これより前の叙述から、モース一行は海岸近くの元旅籠屋(兼恐らくは妖しげな茶屋)の、恐ろしく汚いしもた屋を実験所兼宿泊所としたことが分かる。

・“fish soup, very poor”魚のアラ汁、それも如何にもぞんざいなとあるから、透明な潮汁であろう。

・“bean paste”単なる直感に過ぎないが、モースの恐るべき食物適応から考えると、これは納豆を言っているのではあるまいか? 大方の御批判を俟つものである。

・“eggs of sea urchin”ホンウニ(エキヌス)目ホンウニ亜目オオバフンウニ科キタムラサキウニ Strongylocentrotus nudus か、オオバフンウニ科バフンウニ Hemicentrotus puicherrimus 或いはエゾバフンウニ Strongylocentrotus intermedius の生若しくは軽く塩をしたものと思われる。

・“holothurian”ナマコ類。

 

★“I had for supper marine worms, — actual worms, resembling our angleworms, only slightly larger, and judging from the tufts about one end they probably belonged to the genus Sabella. They were eaten raw and the taste was precisely as seaweed smells at low tide. I ate a large plateful and slept soundly.”この“our angleworms”という謂い方に着目すると、この場合のミミズは、我々が日常見慣れている、やや太いミミズ類(補注*)ではなく、もっと小型の普通の釣りに用いるようなツリミミズ科 Lumbricidae に属する体長6~10センチメートルのミミズを指しているものと思われる。そこから“slightly larger”(やや大きい)という風に読むべきである(これは本種の同定との関連で必要な注と考えている)。

(補注*)太いミミズ類:環形動物門貧毛綱フトミミズ科 Megascolecidae に属するミミズで、例えば最も知られるヒトツモンミミズ Pheretima hilgendorfi は体長8~20センチメートルになる。因みに、この種小名は最初に本種を函館で採集した第一大学区医学校(東大医学部の前身)のドイツ人御雇教師F.M.ヒルゲンドルフに因む(彼の来日はモースに先立つ四年前の明治六(一八七三)年から翌九年まで)。序でに申し上げておくと、彼は江の島で生きた化石オキナエビスガイ Mikadotrochus beyrichii Hilgendorff, 1877 の殻を入手した人物としても有名であり、さらに、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この時のモースの北海道旅行に同行した一人である教育博物館動物掛波江元吉はヒルゲンドルフの通訳をしながら動物学を修めた人物であった(後、帝国大学動物学教室助手。本邦脊椎動物学の草分け)。

 “the tufts about one”は当該個体の一方の端の総状の器官を指し、これが本種同定の大きなポイントになる。これは当該生物の頭端に鰓糸(さいし)が房状に並んだ鰓冠があることを示しているからである。そしてモースはこれをその特徴的な鰓冠から、恐らくは“genus Sabella”と判定するに至るのである。このサベラ類とは環形動物門多毛綱ケヤリムシ目 Sabellida のケヤリムシ科 Sabellidae の類を指していると思われる(フサゴカイ目 Terebellida にもカンムリゴカイ科 Sabellariidae と名づく類がいるが採らない。以下の石川氏の割注はそれで採っている)。

 以上の叙述と形状、そしてそれが食用に供されるという事実を綜合すると、私はここでモースが何と“a large plateful”(大皿山盛り)を平らげて、しかも(消化不良や吐気及び何の精神的不快感も一切残さずに)熟睡出来たとさえ言うところの、外見上は見るもおぞましく、食い物には見えなかった“STRANGE FOOD”とは――定在性ゴカイの一種である多毛綱ケヤリムシ科エラコ Pseudopotamilla occelata ――と断ずるものである。

 以下、ケヤリムシ科エラコ Pseudopotamilla occelata について詳述する。まず、平凡社「世界大百科事典の記載(アラビア数字を漢数字等に、一部記号を変更した)。

   《引用開始》

エラコ【Pseudopotamilla occelata

多毛綱ケヤリ科の環形動物。俗にカワカムリ、マテという。北海道から東北地方に分布し、干潮線付近の岩盤の隙間などに多くの管がひと塊になって群生している。虫体は長さ六~一〇センチメートルで、体節数一一〇~一四〇。頭端には四五~五〇本の鰓糸(さいし)が房状に並んだ鰓冠があり、管の入口より水中に広げて呼吸したり、微小な餌をとらえて食べる。体色は黄褐色で小さい斑点がある。管は薄い膜の表面に細かい砂粒をぎっしりつけていて硬いが、体を棲管(せいかん)の中に引き込むと先端部は内側に巻き込まれてしまう。

   《引用終了》

 次に、保育社平成七(一九九五)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」の記載(同様にアラビア数字を漢数字等に、一部記号を変更した)。

   《引用開始》

エラコ

Pseudopotamilla  occelata  Moore

 鰓冠を除いた体長六~一〇センチメートル。開いた鰓冠の直径約二センチメートル。鰓冠の左右の基部の内背部に一つずつ切れ込みがあり、各鰓糸には五~六個の眼点がある。胸部は八剛毛節よりなる。本州中部以北の岩礁性海岸の潮間帯付近に棲息し、しばしば群棲し、虫体は釣餌に利用される。北米西岸にも分布する。

   《引用終了》

 さて、私は遠い昔、本書を読んだ際、ここでモースが食べた海産「蠕虫」はエラコに違いないと考えていた(だから後掲するように石川氏が挙げた学名がエラコのものでないことも大いなる不審の種であった)。それはエラコを食用とすることを私はかなり以前から知っており、一度は食べてみたいと思っているからである(文末が現在進行形なのは実現していないからである)。最初にその記載に出逢ったのは二十九の頃(二十三年前)で、翻訳物の南洋文化誌を綴ったものを読むうちに、サモアなどの西太平洋域に於いて多毛綱イソメ科の太平洋パロロ(Palola siciliensis 英名 Pacific palolo)を食用とするとあった(その本からの膨大な抜書きを恐らく今もどこかに所持しているはずなのだが見当たらない。発見したら追記したい)。その後、何かの機会に同じくエラコという定在性ゴカイの一種を本邦でも食用とすること何かの記載で知り(その最初の情報源は残念なことに失念した。本ではなく雑誌だったかも知れない。信じ難い方は個人ブログ「~最後の楽園 サモアの国へ~青年海外協力隊」の「サモアの珍味“パロロ”解禁!」をお読みあれ。そこには『バターで炒めるのが定番らしい。海水の塩味が効いていて意外とうまい』とある)、この「エラコ」というウルトラ怪獣みたような名がいたく気に入ってしまい、エラコのことを少しく調べたりした。

 その結果、エラコを食べたことや、もう食べないまでも釣りの餌として採取するのだが、漁民の間では釣り餌用に個虫を引き出す作業を続けていると「エラコに負ける」と言って、この「エラコが刺す」という記載(この最初の情報源も失念した。これは例えば、ここでもそのように――この筆者がエラコが本当に刺すと思っておられるかどうかは留保するとしてもそのように読めてしまうことは事実である――記載されている。ただこの記事は食用の記載もあって見逃せない記事ではある)に遭遇した。

 この種のゴカイの仲間がクラゲのように刺す(炎症を起こす)としか読めない記述であったが、ここで大事なのは咬傷ではないという点で、大型のイワムシ類は咬傷の危険性をちゃんと示唆する図鑑もあるが(私も実際にその昔、釣り餌に使用していたイワムシになら「咬まれた」ことがあるし、不衛生な状況でのイワムシによる咬傷後に適切な処置を施さずにいれば炎症や化膿を引き起こす可能性があることは言うまでもない)、エラコにそのような有意に危険な顎棘や毒針・刺胞があるとはとても思われず、これは如何にも解せない、何かの間違いだろう、と調べるうち、実は刺すのは個虫のエラコではなく、エラコの棲管開口部に選択的に附着共生する刺胞動物門ヒドロ虫綱淡水クラゲ目エダクダクラゲ科ニンギョウヒドラ(エダクダクラゲ)Proboscidactyla flavicirrata の群体の刺胞に刺されるのであるという事実を知ったりして溜飲が下がったりした(私はクラゲ・フリークでもある。なお今回、それを研究している学生の方を紹介したブログ「生態研究室日記」の「卒論奮闘記8~林くんの場合~」を見つけたのでリンクしておこう)。

 以上の既知総てを目から鱗で確認出来たのが、一九九三年刊の小学館ライブラリー「白戸三平 野外手帳」の中の「エラコの汐だき」の一章であった(この私の偏愛する本はかの「カムイ伝」の漫画家白土氏のエッセイなのだが、毒キノコとして知られるベニテングダケは美味で、生は一日一本を限度とする、などという驚天動地の記載が現われる凄い本である。但し、試すのは自己責任で。白土氏も個人差があると注されている)。本書は白土氏の住む千葉県房総地方の消えゆく伝統文化を美事に活写しているのであるが、それによれば、まず本文で『昔、東北の三陸沿岸では、五月の端午の節句に陸の方かの人々が海岸でエラコを求め、神棚に供えてから酒の肴や飯の菜にしたという』と記される。『エラコは、イガイなどや海藻のついている潮間帯の磯に固まって付着しているので、大潮の干潮時に簡単にとれる。大シケの時に海藻と一緒に浜へぶちあげられたのを拾うのもよい』と具体的な採集法が示さる(こういうマニュアルはまず活字化されない)。「エラコの汐だき」の調理法は、『とったエラコをサヤからはずして海水でゆでる。浮いてきたアクをすくい、ゆっくりと1時間ほど海水がなくなるまでゆでる。そのまま食べてもよいし、さらに手を加えれば種々の料理が生まれるだろう。ムスビの菜や酒の肴にピッタリである』とある(このマニュアルも極めて貴重)。そして私が先ほど書いた「エラコに負ける」に関わる記載が出現するのである。棲管を剝いて中身を出す際、『時々、かせて手が赤くはれあがり時がある。「エラコに負けたら、シドケ(モミジガサ)塗れ」と漁師たちはいう』『漁師たちは「シドケ」(山菜のモミジガサ)とエラコをあえると、「エラコが太くなって食べるとあたるから」とか、「エラコを餌にして魚を釣るから、シドケを食べるときには魚はくわね」という。釜石の保健所の話ではそんな心配は全くないといっているがどうだろうか?』と記されている(採集マニュアルからここまでの記載は本文ではなく調理や実際のエラコ料理を写したカラー写真のキャプションである。同書一六六~一六七頁)。因みに、「モミジガサ」はキク目キク科キク亜科コウモリソウ属モミジガサ Parasenecio delphiniifolius で、春、茎先の葉がまだ開いていないものを山菜として食用とし、「しどけ」「しどき」とも言う。和名は葉の形が「もみじの葉」に似ているから「モミジガサ」ことに由来し沢筋の斜面や杉林の近くに植生する。ほろ苦さがあるが、独特の強い香りと歯触りを有し、タラの芽と並んで山菜の王様と称される(なお、モミジガサはアコニチンなどのアルカロイドを含有する世界最強の有毒種として名高いキンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属ヤマトリカブト Aconitum japonicum と、特に若芽の頃、よく似た形態を示すので山菜取りには注意が必要である。識別法は「東京都薬用植物園」の「モミジガサとヤマトリカブト(有毒)」を参照のこと)。無論、白土氏はちゃんと調べていて、本文でこの炎症(『赤くはれあがる』)は先に述べたようにニンギョウヒドラの刺胞毒によるものであることを明かしておられ、しかも『このヒドラはエラコという宿主なしでは生活ができないらしく、エラコを管から取り出すとヒドラは衰えて死んでしまうというから、あるいは、エラコとヒドラはある種の共生関係にあるのかもしれない』とも附言しえおられる(私もこれは共生と考える)。肝心のエラコ料理については、漁師の中には沖に魚釣りに行って釣果がない時には、餌の『エラコさ剥(は)いで菜(おかず)にするだよ、ああ生(なま)でだ。うめえもんだよ』という直談を載せた後、一般には汐だきか塩辛、佃煮にするとあり、写真には味噌仕立てのエラコ汁(キャプションには『エラコには味噌が合う』とある)や胡瓜和えが載り、白土氏自身はその胡瓜和えを一番とされている(ホヤと胡瓜の相性がいいのを考えると、ホヤとやや似た味かとも連想出来る叙述ではある)。そうして『エラコは料理をしても色や姿が変わらないので、人によっては尻込みする人もあるかもしれないが、決して食道楽好みのゲテモノ料理ではない』と断言され、続けてかつての日本を襲った幾多の飢饉の際には、『磯でとれるエラコやイガイは貴重な蛋白源になった』はずと推測され、内陸との往復には有意な時間がかかったはずであるから、『腐りやすい魚貝よりも日持ちの良いエラコは得がたい海産物であったはずで』、『端午の節句にエラコを食べると中風にかからないといういい伝えは、エラコが一時の単なる救荒食物ということではなく、行事食として定着していたということで興味深い』と、鋭い民俗学的見解を示しておられ、全く同感である。

 ところがその後に読んだ「エラコの味」記載は意外なものであった。広島県宮島町立宮島水族館元副館長山下欣二氏(惜しくも故人となられた)のぶっ飛びの異食習慣股旅物「海の味 異色の食習慣探訪」(八坂書房一九九八年刊)である。ここで山下氏は「エラコの塩辛」を食すのだが、その先は青森県八戸市陸奥白浜であった。そのイントロによれば、『昭和四〇年代までは、この食習慣』(『生や煮炊きして食糧にし、さらに保存食として塩辛にした』と直前にある)『は北海道南部から東北地方にかけて広く残っていたが、浅虫(あさむし)水族館の神正人さんの調査によると、もうエラコを食べる人はほとんどおらず、ただ八戸市周辺の漁村の古老が昔をしのんで塩辛を作り、みずから食べているにすぎないということだった』とある(下線はやぶちゃん。小樽でモースが食した記載を裏付けるものである)。さて、そこ(さる保養所である。以下の氏の感想が強烈なので名称を出すのは何となく憚られる。同書を確認されたい)で出された「エラコの塩辛」は大根おろしを別皿で添えた、『濃緑色』の『毒々しい』ものであった。そこでその塩辛を製造しているご主人との会話となり、現地でも『昔はみんなエラコを食べていたけれど最近ではほとんど食べる人がいなくなってしまったこと、エラコの刺身を用意できなくて残念だったこと』などを聴き取る(ここでも我々はエラコの生食が行われていたことを確認出来、またこのご主人は高い確率でエラコの刺身が美味いことを意識されての発言であることを知る)。一人になった山下氏がやおら、「エラコの塩辛」を食す。――ところが――箸一つまみを口に入れると――『何とも形容しがたい強烈な味』で、『さらに大きくひとかたまりを食べて歯でかんでみると、これが人間の食うものかと叫びたくなるようなどう猛な味。あえて表現するならば、えぐくて、しぶくて、くせがあって、しつこくて、あくが強い、さらにこのすべての形容詞に濁点をつけたくなるような味である』とされ、遂には『私は辟易した』とまで記されるのである。氏は残すわけにはいかないので、大根おろしに醬油をかけ、それを「エラコの塩辛」にかけて、『目をつぶって一気に飲み込んだ』とあり、その『くせのある味がしつこく口中に残』って、膳に並んだ如何にも美味そうな料理も『エラコの味に支配されてうまくもなんともなくなってしまった。食後にご主人が塩辛の樽を持ってきて見せてくれた。ぞっとするほどびっしりとエラコが樽につまっている。味はどうだったかの質問に、私はただ力なくにが笑いするだけであった』とある。「エラコの塩辛」のコーダは翌朝のシーンとなり、朝食に出てきた殻付きの『ウニを一口食べて、あっこの味だと思った』、『エラコの塩辛の味は、ウニのくせを極端に強くしたものだったのだ』と締め括っておられる。『食いものには人一倍好奇心の強い』山下氏が、ゴカイには流石に懲りたことは言うまでもない。因みに、私はその後に読んだ「海の味」の更に上をゆくゲテモノ・レベルと言ってよい海産生物食の本――書斎のどこかにあるはずなのだが見当たらない。発見し次第追加する――で、最高ランクの味でアオイソメ(生食)を挙げているのを読んだ(因みに、ネット検索で見つかるイソメ食を高評価とする「ゲテモノ食大全」という本ではないことは確かである。また確か、その本で反対に最悪の味だったのはフナムシであったと記憶している)。だから私はエラコもアオイソメも「まだ食べるぞ!」という意欲を持っていることは宣言しておきたい。

 以上から、私はモースが大皿一杯に盛られたものをぺろりと食したのは多毛綱ケヤリムシ科エラコ Pseudopotamilla occelata に間違いなく、しかもモースが何の抵抗もなく、食後の不快も訴えていないことから考えると、通常は西洋人が抵抗感を持つ完全な生(刺身)ではなくて、白土氏の言う汐だきを施したもの(若しくは採取したての新鮮なエラコを軽く湯がいたもの)ではなかったかと推測するものである。

 最後にエラコの形状の美事なグロテスクさを確認して戴くために、グーグル画像検索の「エラコ」画像検索Pseudopotamilla occelataによる画像検索は何故か不思議なことにあまりいいものがない。これは世界的に見て本種の専門的研究があまり進んでいないことの証左なのかも知れない)で満喫出来る。但し、自己責任でご覧あれ。

 最後に、石川氏は訳本底本では「Sabella の属」と訳された直下に『〔環形動物毛足類多毛目サベラリア・アルべオラタ〕』と割注を入れておられるが、ここで氏がわざわざ学名まで示されているそれは、現在の多毛綱フサゴカイ目カンムリゴカイ科アリアケカンムリゴカイ属に属する Sabellaria alveolata  Linnaeus, 1767のこと(当該種に限っては和名はなく、本邦産のカンムリゴカイは Sabellaria cementarium で、また和名アリアケカンムリゴカイの学名は Sabellaria ishikawai である)で私の同定したエラコとは異なる。確かに個虫の形状に類似点があり、棲管が束になって群棲する点、北海道以北の棲息分布などで本種もモースの描写するものの同定候補とはなり得る。しかしこの石川氏の学術的割注は、原典でモースがgenus Sabella”と綴ったのを厳密に種名の綴りと一致させようとした結果生じた誤認であり、石川氏はそれが食用とされていたかどうか、食用とされるゴカイ類は本邦ではどの種に当たるか(カンムリゴカイの仲間を食用とするという記事には私はまだ巡り逢っていない)ということを確認してはいなかった結果として生じた誤りである、と私は考えている。ただ、前掲の山下欣二「海の味」には、『ゴカイ類の食習慣はこの消えつつあるエラコ以外にはあまり見られない』としながらも、『例えば鹿児島県桜島では全長一メートルにもなるオニイソメ』(多毛綱イソメ目イソメ科オニイソメ Eunice aphroditois)『を焼いて食べるそうだし、山口県宇部市にはイワムシ』(イソメ科 Marphysa sanguinea)『を生で食べる人がいるという』と記してあり(但し、これらは遊在性のゴカイである)、エラコに類似するカンムリゴカイの仲間を食用としなかったと断ずることは出来ない。取り敢えずは大方の御批判を俟つものである。

 

・“I have also had served and have eaten a gigantic ascidian belonging to the genus Cynthia.”広くホヤ類やマボヤを指す英語であるが、ここはわざわざ“gigantic”(巨大な)と述べていることからも尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科マボヤ Halocynthia roretzi と同定してよいと考える(同属のアカボヤ Halocynthia aurantium では私ならこうは表現しない)。“Cynthia”は属名の後部に現われる、ギリシア語の“als”(海)+“cynthia”(月の女神アルテミスの別名キュンティア(英語読み)シンシア)の合成語(但し、何に由来する命名かは不学にして不詳)。

・“I often eat Haliotis, the abalone of California. ”“Haliotis腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis(但し、図鑑などではアワビ属を Nordotis とするものも多い)。アヴァロウニィは英語でアワビ一般を指す語。

・“The scallop is very good.”スキャロップは一般的に斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis を指す英語。

 

■石川欣一氏訳

[やぶちゃん注:見出しは私の訳。前注を参照のこと。また文中の「holothurian 即ち海鼠」の意訳的部分(原文を見ればお分かりの通り、この「即ち海鼠」という原単語を表示しての付随訳は石川氏が日本人向けにした翻案部である)については、底本の訳では斜体であるものの、モースはこれを多分に学術用語としてではなく、一般名詞の「海鼠」として述べて斜体にしていないので、原典の字体に従った。本テクストの主眼たる割注「Sabella の属」の後に配された石川氏の割注は原典を大切にする意味で外して、前の注の「★」に入れてある。]

 

奇妙な食べ物

 

 我々の曳網は大成功であり、また我々は村を歩いて産物を行商する漁夫たちから、多くの興味ある標本を買い求めた。土地の人達は、海から出る物は何でもかでも、片端から食うらしい。私は今や函館と、パンとバタとから、百マイル以上も離れている。そして、函館で食っていた肉その他の食物が何も無いので、私はついにこの地方の日本食を採ることにし、私の胃袋を、提供される材料からして、必要な丈の栄養分を同化する栄養学研究所と考えるに至った。かかる実験を開始するに、所もあろうこの寒村とは! 以下に列記する物を正餐として口に入れるには、ある程度の勇気と、丈夫な胃袋とを必要とした――曰く、非常に貧弱な魚の羹(スープ)、それ程不味くもない豆の糊状物(ペースト)、生で膳にのせ、割合に美味な海胆(うに)の卵、護謨(ゴム)のように強靭で、疑もなく栄養分はあるのだろうが、断じて口には合わぬ Holothurian 即ち海鼠(なまこ)。これはショーユという日本のソースをつけて食う。ソースはあらゆる物を、多少美味にする。

 晩飯に私は海産の蠕(ぜん)虫――我国の蚯蚓(みみず)に似た本当の蠕虫で、只すこし大きく、一端にある総(ふさ)から判断すると、どうやら Sabella の属に属しているらしい。これは生で食うのだが、味たるや、干潮の時の海藻の香と寸分違わぬ。私はこれを大きな皿に一杯食い、而もよく睡った。又私の食膳には Cynthia 属に属する、巨大な海鞘(ほや)が供され、私はそれを食った。私はちょいちょい、カリフオルニヤ州でアバロンと呼ばれる、鮑(あわび)を食う。帆立貝は非常に美味い。私はこの列べ立てに於て、私が名前を知っている食料品だけをあげた。まだ私は、知らぬ物や、何であるのか更に見当もつかぬ物まで喰っている。全体として私は、肉体と、その活動原理とを、一致させていはするものの、珈琲(コーヒー)一杯と、バタを塗ったパンの一片とが、恋しくてならぬ。私はこの町唯一の、外国の野蛮人である。子供達は私の周囲に集って来て、ジロジロと私を見つめるが、ちょっとでも仲よしになろうとすると、皆、恐怖のあまり、悲鳴をあげて逃げて行って了う。

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