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2013/09/10

耳嚢 巻之七 備前家へ出入挑燈屋の事

 備前家へ出入挑燈屋の事

 

 備前家より五人扶持給(たまは)る挑燈や藤右衞門といふ町人有(あり)。右は彼(かの)新太郎少將の節よりの事にて、由井正雪彼新太郎少將うるさく思ひて、是を除く心向(こころむき)に有し哉(や)、又は新太郎名前を借りて惡徒を集(あつむ)るの手段や、右挑燈やへ備前家印の挑燈數多(あまた)あつらへけるを、疑敷(うたがはしく)思ひ彼家へ申立(まうしたて)ければ、一向覺無之(おぼえこれなき)事故、其趣を以斗(もつてはかり)ける由。彼家の申傳へには、其比(ころ)少將夜咄しに外へ被參(まゐられ)、いつも夜に入て歸り給ふを、正雪備前家の供(とも)に似せて迎(むかへ)を拵へ候□りにて右の通り工(たく)みしを、挑燈やの訴(うつたへ)にて其用心あり、供侍等迎申付有(まうしつけあり)て危をのがれ給ふゆへ、今に五口(ごくち)の扶持を與へ、備前家の挑燈を一式に引請(ひきうけ)、當時も不貧(まづしからず)暮しけると、彼家士の内物語也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、夜道のロケーションが続いて不思議に違和感なく続いて読める。

・「備前家」岡山藩池田家。岡山藩は備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩。藩庁は岡山城。殆んどの期間、美濃池田氏池田恒利を祖とする池田氏が治めた。

・「新太郎少將」池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)いけだ みつまさ)。播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩初代藩主・岡山藩池田宗家三代。池田利隆長男。新太郎は通称で官位は従四位下左近衛権少将(贈正三位)。寛永九(一六三二)年、叔父の岡山藩主池田忠雄が死去、従弟で忠雄嫡男の光仲は未だ三歳で山陽道の要所たる岡山は治め難しとされて、幕命によって江戸に呼び出され、因幡鳥取藩主から岡山三一万五〇〇〇石へ移封された(以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなる)。熊沢蕃山を招いて仁政に努め、質素倹約の「備前風」を奨励、津田永忠を登用して新田開発を進め、藩校花畠教場(はなばたけきょうじょう)や日本最古の庶民の学校である閑谷(しずたに)学校を開設している。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学として徹底したかなり厳格な儒学的合理主義を藩政に於いて実践施行し、水戸藩主徳川光圀及び会津藩主保科正之と並んで江戸初期の三名君の一人と称せれている。一部参考にしたウィキの「池田光政」には、『光政は幕府・武士からは名君として高く評価されていた。慶安の変の首謀者である由井正雪などは謀反を起こす際には光政への手当を巧妙にしておかねば心もとないと語ってい』たと記し、『また由井の腹心である丸橋忠弥は光政は文武の名将で味方にすることは無理』と考え、『竹橋御門で』『射殺すべき策を立てたという』とあり、本話柄の信憑性を高める記事が見出せる。

・「由井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年〜慶安四(一六五一)年)は軍学者で討幕を計画した慶安の変(慶安四(一六五一)年四月~七月)にかけて起こった事件の首謀者。駿府出身と伝えられ(詳細は不明)、楠木正成の子孫を自称、神田に楠木流軍学塾張孔堂を開き、幕閣批判と旗本救済を掲げて浪人を集め、幕府転覆を画策したが、一味の丸橋忠也の逮捕によってクーデターが事前に露見、駿府茶町(ちゃまち)に宿泊していた正雪は幕府の捕手に囲まれて自刃した。後の黙阿弥作「花菖蒲慶安実記」など、歌舞伎や浄瑠璃の登場人物として広く知られるようになった。また、この事件は、直後、将に四代将軍となった家綱が武断政策を文治政策に転換する契機の一つになったとも言われている(以上は財団法人まちみらい千代田の「江戸東京人物辞典」の記載に拠った)。慶安事件直近と考えると、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、本話柄の主なシーンは一五五年も前の出来事である。

・「□」底本には右に『(積カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はズバリ、『拵へ候積りにて』である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 備前家へ出入りの挑燈(ちょうちん)屋の事

 

 備前家より、何と――五人扶持(ぶち)を給はって御座る――挑燈屋の藤右衛門――と申す町人が御座る。

 この提燈屋は、これ、かの新太郎少将光政殿の御時よりの、岡山藩御用達で御座る。

 かの凶悪の謀略家由井正雪、この新太郎少将がことを、これ、甚だ五月蠅(うるそ)う思い、幕府転覆がためには、何としても光政殿を除かずんば成らず、と思うたものであろうか――または新太郎殿の名を騙り、悪徒を集めんとする手段(てだて)にでも用いんとしたものか、この挑燈屋へ――いや、未だその頃は、池田家の御用達にては御座らなんだ――備前家の家紋の入(い)った挑燈を、これ、数多(あまた)誂えるようにと、注文に参ったと申す。

 提燈屋は、普段、市中(いちなか)にてお見かけするところの礼儀正しい池田家御家中の者とは何か違(ちご)うた、その注文に参った男の風体(ふうてい)や言葉遣いを、これ何となく疑わしく感じたによって、御当家へと参り、

「……かくかくの御用を承りましたれど……その……今一度、数なんど確かめとう存じまして……」

とさりげなく申し立てたところが、家士一同に質(ただ)いても、一向にそんな注文を致いた覚えのある者は、これ、御座ない。されば、

「――いや……当家にては提灯を注文致いたと申す儀は、これ、ないが。」

と答えたところ、

「……やはり!……実はこれこれの風体を致いたる、怪しき男が……」

と訳を話したによって、

「……!……相い分かった!……よくぞ、知らせて呉れた! 礼を申すぞ!」

と役方の者は即座に奥へと参り、この何やらん、不穏なる事態を申し上げたところが、光政殿は、

「――されば――その騙(かた)らんとする意を推し量り、その背後の真意を測って対処致さん。――」

とお答えになられた。

 その提燈屋に代々申し伝えられておる話によれば……

 

……何でもその頃、少将光政殿はしばしば知音(ちいん)の元を、夜、お訪ねになられ、清談なさるることが殊の外多く、いつも夜(よ)も遅うなってお帰りになられた。……かの兇悪なる正雪は、備前家の御供(おとも)の者に似せて、これ、大層な似非(えせ)の迎えを拵え上げ……光政殿が油断なされたところを……一気に弑(しい)せんとする積りにて……先のようなる提燈の注文を企んだところが……御先祖主人の訴えがあったによって……その夜半の御用心、これ、十全に施され、しっかりとした供侍(ともざむらい)などの迎えを、必ず予め申し付けられて御座ったによって、かくなり危難をばお逃れ遊ばされた……によって……今に至るまで、五口(ごくち)の扶持(ふち)をお下しになられ、また、備前家の挑燈一式を我ら、一手に引き請けておる由……

 

「……今も相応に貧しからざる暮しを、この提燈屋、致いて御座いまする。……」

とは、かの池田家御家中の内の、さる御仁の物語りで御座った。

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