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2013/09/03

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 6 なまこ壁 / 加賀屋敷

M12


図―12

 建物が先ず板張りにされる場合には、四角い瓦が、時としては筋違いに、時としては水平に置かれ、その後合せ目を白い壁土で塗りつぶすのであるが、これが中々手際よく、美しく見えるものである(図12)。商売人たちは毎年一定の金額を建築費として貯金する習慣を持っている。これは、どうかすると広い区域を全滅させる大火を予想してのことなのであるが、我々が通りつつあった区域は、長い間、このような災難にあわなかったので、こうして貯えた金がかなりな額に達した結果、他に比較して余程上等な建物を建てることが出来た。
[やぶちゃん注:図―12は、防火防水を目的としたなまこ壁の工法を注意深く観察したものである。壁面に平瓦を並べて貼り(左の図)、瓦の目地(継目)に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る(右の図)(名称はこの盛り上がった目地がナマコに似ていることに由来する)。 ]

 古風な、美しい橋を渡り、お城の堀に沿うて走るうちに、まもなく我々はドクター・デーヴィッド・マレーの事務所に着いた。優雅な傾斜をもつ高さ二〇フィート、あるいはそれ以上の石垣に接するこの堀は、小さな川のように見えた。石垣は広い区域を取り囲んでいる。堀の水は十五マイルも遠くからきているが、全工事の堅牢さと規模の大きさとは、たいしたものである。我々はテーブルと椅子若干とが置かれた低い健物にはいっていって、文部省の督学官、ドクター・デーヴィッド・マレーの来るのを待った。テーブルの上には、タバコを吸う人のための、火を入れた土器が箱にはいっているものが置いてあった。まもなく召使がお盆にお茶碗数個を載せて持ってきたが、部屋をはいる時頭が床にさわるくらい深くおじぎをした。
[やぶちゃん注:「督学官」教育行政官の一つ。正確には視学官であろう(特学官という呼称は大正二(一九一三)年にそれを改称したもの)。専門学務局又は普通学務局に所属してその事務をとるとともに学事の視察・監督を行った。
「ドクター・デーヴィッド・マレーの事務所」アメリカの教育行政家で数学者・天文学者でもあったお雇い外国人教師ダヴィッド・マレー(David Murray 一八三〇年~一九〇五年)の勤務していた文部省。マレー(モルレーとも表記)は明治初年に日本に招かれて教育行政制度の基礎作りに貢献した人物である。ニューヨーク州生。同州ユニオン大学に学び、卒業後、オルバニー・アカデミー校長・ラトガース大学数学及び天文学教授を務めた。明治五(一八七二)年に駐米小弁務使森有礼の質問状に回答を寄せたことが契機となって、翌六年に日本に招聘された。以後、文部省学監として五年半に亙って教育行政全般について田中不二麿文部大輔を補助、日本の教育改革に関する諸報告書の中で師範教育・女子教育振興の必要性などを説いて東京大学創設に協力した。この報告書の中でも特に重要な点は彼の学制改革案ともいえる「学監考案日本教育法」で、この中でマレーは学制の急進的教育改革の構想を原則的に支持し、文部省による諸教育機関及び教育内容の統括・公立学校教員資格の制定・教科書の検閲など極端な中央集権化を提唱している。この提言は後に改正教育令(明治一三(一八八〇)年)とその後の文部省諸法令に反映されている。明治一二年に帰国、翌年から十年に亙ってニューヨーク州大学校リージェント委員会幹事として州内の全中等・高等教育機関を監督、ここでも全州統一試験制度の拡充・師範教育の管理強化などの教育行政の中央集権化を推進した。晩年は“The Story of Japan”(一八九四)年を著したり、ジョンズ・ホプキンズ大学で“Education in Japan”と名打った講演を行うなど、日本の紹介に努めた(以上は「朝日日本歴史人物事典」の吉家定夫氏の記載を参照した)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この面会の主たる目的は『外国人が自由に出歩けるのは居留地から一〇里以内と』いう規定があったため、モースの当初の目的であった腕足類研究を主とした『動物採集のために便宜をはかってもらう』ことであったが、事態は想像だにしなかった方向へと向かってゆくことになる(後述)。やはり磯先生の記述によれば、『当時の文部省は竹橋、現在のパレスサイドビルの辺りにあった』とある(千代田区一ツ橋一丁目一番地一の内堀通りに面した場所)。
「二〇フィート、あるいはそれ以上の石垣」「二〇フィート」は6メートル。
「十五マイル」約24キロメートル。なお、江戸城の濠の水は玉川上水(承応三(一六五四)年六月通水開始)の余った水を使用していた(現在は流入源はなく、浄化施設を経て還流させている)。但し、大本の羽村取水堰からでは直線でも40キロメートルはあるから、この24という数字は西の多摩川方向への大まかな距離を示したものであろう。]

 大学の外人教授たちは西洋風の家に住んでいる。これらの家の多くは所々に出入口のある、高い塀にかこまれた広い構えの中に建っている。出入口のあるものは締めたっきりであり、他のものは夜になると必ず締められる。東京市中には、このような場所があちこちにあり、ヤシキと呼ばれている。封建時代には殿様たち、すなわち各地の大名たちが、一年のうちの数ケ月を、江戸に住むことを強請された。で、殿様たちは、時として数千に達するほどの家来や工匠や召使いを連れてやって来たものである。我々が行つつある屋敷は、封建時代に加賀の大名が持っていたもので、加賀屋敷と呼ばれていた。市内にある他の屋敷も、大名の領地の名で呼ばれる。かかる構えに関する詳細は、日本について書かれた信頼すべき書類によってこれを知られ度い。大名のあるものの大なる富、陸地を遙々と江戸へくる行列の壮麗、この儀式的隊伍が示した堂々たる威風……これらは封建時代に於る最も印象的な事柄の中に数えることが出来る。加賀の大名は家来を一万人連れて来た。薩摩の大名は江戸にくるため家来と共に五〇〇マイル以上の旅行をした。これらに要する費用は莫大なものであった。
[やぶちゃん注:「加賀屋敷」は原文でも“Kaga Yashiki”とある。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「11 加賀屋敷と一ツ橋」によれば、『当時一般の外国人は定められた居留地、たとえば横浜居留地とか東京の築地居留地のなかに住まなければならなかったが、御雇い外国人は勤め先の近くに住むことを許されており、官庁では専用の宿舎を与えることも多かった。東京大学の場合、御雇い外国人教師用の教師館(宿舎)は、本郷加賀屋敷の医学部キャンパス内にあった、江ノ島から戻ってきたモースは、以後二年間その教師館五番館に住』んだとある。同章は十二頁に亙って、地図を交えてこの当時の教師や校舎、さらには当時の教授陣や講義内容を詳述しておられる。是非、御一読をお薦めするものである。その地図と現在の地図を比較するとモースの五番館は安現在の安田講堂の西北西一〇〇メートルほどの、工学部の建物が建つ辺りにあったもので、同書(一〇二~一〇三頁)によれば、『美しい花園に囲まれた平屋建』で『棟ごとに構えが異なり、どれもしゃれた造りで、内部も相当広』く、モースが後に居住することになる五番館は『居間、食堂、書斎、二寝室、それに台所、浴室などと、使用人用の二部屋が付属し』、お抱え人力車を用いて、ここから神田一ツ橋にあった法理文三学部の校舎(現在の学士会館附近)まで往復していた、とある。
「五〇〇マイル以上」凡そ805キロメートル以上。因みに現在のJRの営業キロ数を鹿児島―東京間で算出すると1467キロメートルになり、これだと900マイル相当になるが、ここはモース先生、「以上」とはありますが、倍の「一〇〇〇〇マイル」としても誇張ではなかったと思いますよ、はい。]

 現在の加賀屋敷は、立木と藪(やぶ)と、こんがらかった灌木との野生地であり、数百羽の烏が鳴き騒ぎ、あちらこちらに古井戸がある。ふたのしてない井戸もあるので、すこぶる危い。烏はわが国の鳩のように馴れていて、ごみさらいの役をつとめる。彼等は鉄道線路に沿った木柵にとまって、列車がゴーッと通過するとカーと鳴き、朝は窓の外で鳴いて人の目をさまさせる。
[やぶちゃん注:「彼等は鉄道線路に沿った木柵にとまって、列車がゴーッと通過するとカーと鳴き、朝は窓の外で鳴いて人の目をさまさせる。」原文は“sit on the fences bordering the railway and caw as the train goes thundering by and they wake you in the morning by cawing outside the window.”で、特に前半、モースのウィットを石川氏はより面白くオノマトペイアで訳しておられる。]

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