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2013/09/13

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 19 倉・竹箒・ミシン・人力車・箸

 東京の町々を通っていて私はいろいろな新しいことを観察した。殆どすべての家の屋梁(やね)の上に足場があり、そこには短い階段がかかっている。ここに登ると大火事の経過がよく判る。まったくこの都会に於る火事は、その速さも範囲も恐る可きものが屢々(しばしば)ある。人の住いはたいてい一階か二階建ての、軽い、見た所如何にも薄っぺらなものであるが、然し、かかる住宅の裏か横かには、厚さ二フィート、あるいはそれ以上の粘土か泥の壁を持つ防火建築がある。扉や僅かな窓の戸も、同じ材料で出来ていて非常に厚く、そして三つ四つの分離した鋸歯がついている点は、我国の金庫の扉と全く同じようである。家と家とは近接していはするが、一軒一軒離れている。大火事が近づいて危険になって来ると、この防火建築の重い窓の戸や扉を閉じ、隙き間や孔を粘土でふさぐ。その前に蠟燭数本を床の安全な場所に立てて点火するのは、かくて徐々に酸素を無くし引火の危険を減ずるためである。日本人は燃焼の化学を全然知らぬものとされているが、実際に於ては彼等その原理を理解し、且つ私の知る限り、他の国ではどこでやっていないのに、その原理を実地に応用しているではないか。このような建物は godown と呼ばれる。これはインド語である。日本では「クラ」という。商人や家婦が大急ぎで荷物をかかる倉庫に納め、近所の人達もこのような保護を利用する。大火事の跡に行って見ると、この黒い建物が、我国の焼跡に於る煙突のような格好で立っている。焼け落ちた蔵を見ると、我国で所謂耐火金庫のある物で経験することを思い出す。

[やぶちゃん注:「godown」原文は“godowns”。この単語は「ゴーダウン(ズ)」と読み、インド及び東南アジアなどに於いて倉庫や貯蔵所を意味する英語として古くから用いられてきた単語である(マレー語の“goding”に由来するという)。「日本人の住まい」(斎藤正二・藤本周一訳・八坂書房一九九一年刊)にも「第一章 家屋」の総説の台所について解説する中で、モースは『中流以上の阿井給が住む家屋の場合には、堅牢なつくりの、厚壁の、平屋(ひらや)もしくは二階建ての、倉 kura と呼ばれる耐火構造の建物が付随している。この倉は、火災が発生したとき、家具家財など動産一切をそのなかに格納するのである。外国人の目には〝倉庫(ゴーダウン)〟として知られているこの種の建物は、小窓が一つ二つあるほか、一つの入り口があり、たいへん重い厚手の開閉扉(シャッター)で鎖(とざ)されている』とある。]

 

 日本及び他の東洋の国々を訪れる者が非常に早く気づくことは、殆ど一般的といってもよい位、ありとあらゆる物品に竹を使用していることである。河に沿って大きな竹置場がいくつもあり、巨大な束にまとめられた竹が立っている。竹製品の一覧表を見ることが出来たらば、西洋人はたしかに一驚を喫するであろう。私は道路修繕の手車から、小さな石ころが粗末な竹の耨(ホー)でかき出されるのを見た。一本の竹の一端を八つに裂いてそれを帯のようにひろげると、便利な、箒に似た熊手(レーク)が出来る。これは一本で箒(ブルーム)、熊手(レーク)、叉把(ピッチ・フォーク)の役をする。

[やぶちゃん注:後半部の原文を総て示すと、“I have seen rude hoes of bamboo with which small stones were being hoed out of a cart for road repair; a serviceable, broom-like rake is made from a single piece of bamboo, one end being split into eight pieces spread apart broom-like. It was used as a broom, a rake, and a pitchfork.”で、“hoe”は土を起こしたり、除草する際に用いる長い柄のついた西洋鍬(ぐわ)・ホーのこと、“rake”は干し草や落葉などをかき集める際に用いる熊手や土を均(なら)すための馬鍬・レーキのこと、“broom”は箒・長柄のブラシであるが特にカーリングで用いているものをイメージされたい。“pitchfork”は干し草用の長柄の三叉(みつまた)や肥料を扱う際に用いる熊手で、しばしば戯画化した悪魔が持っているあれである。]

 

 不思議な有様の町を歩いていて、アメリカ製のミシンがカチカチいっているのを聞くと妙な気がする。日本人がいろいろな新しい考案を素速く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に、縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。

 

 大学を出て来た時、私は人力車夫が四人いる所に歩みよった。私は、米国の辻馬車屋がするように、彼等もまた揃って私の方に馳けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異った麦藁を四本ひろい、そして籤(くじ)を抽(ひ)くのであった。運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、他の三人は何等いやな感情を示さなかった。汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の轂(こしき)にぶつかった。車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合った丈で走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る罵詈雑言(ばりぞうごん)とを比較した。何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。また今迄の所、動物に対して疳癪を超したり、虐待したりするのは見たことが無い。口小言をいう大人もいない。これは私一人の非常に限られた経験を――もっとも私は常に注意深く観察していたが――基礎として記すのではなく、この国に数年来住んでいる人々の証言に拠っているのである。

[やぶちゃん注:「轂」原文“the hub”。ハブ。人力車の車輪の中央の太い部分で、放射状に差し込まれた輻(や)の集まっている部位。その中心を車軸が通る。]

 

 箸という物はナイフ、フォーク、及び匙の役をつとめる最も奇妙な代物である。どうしてもナイフを要するような食物は、すでに小さく切られて膳に出るし、ソップはお椀から直に呑む。で、箸は食物の小片を摘むフォーク、及び口につけた茶碗から飯を口中に押し込むショベルとして使用される。この箸の思いつきが、他のいろいろな場合に使われているのを見ては、驚かざるを得ない。即ち鉄箸では火になった炭をつかみ、料理番は魚や菓子をひっくり返すのに箸を用い、宝石商は懐中時計のこまかい部分を組み立てるために緻細な象牙の箸を使用し、往来では紙屑拾いや掃除人が長さ三尺の箸で、襤褸(ぼろ)や紙や其他を拾っては、背中に負った籠の中にそれを落し入れる。

[やぶちゃん注:「三尺」原文は“three feet”。孰れも約90センチメートルであるから問題はない(が石川氏は他では一貫してフィート表示をしているから、やや違和感があるといえば言える)。]

 

 往来を歩いていると、目立って乞食のいないことに気がつく。不具者のいないことも著しい。人力車の多いのには吃驚(びっくり)する! 東京に六万台あるそうである! これは借用出来ぬ程の数である。あるいは間違っているのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:ウィキの「人力車」によれば、人力車は和泉要助・高山幸助・鈴木徳次郎の三名が東京で見た馬車から着想を得て明治元(一八六八)年に人力車を完成させたとし、発明者として明治政府から正式に認定されているとあり(それへの疑義の論争も当時あったがそれはリンク先を参照されたい)、『当時の日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段にな』り、明治三(一八七〇)年に『東京府は発明者と見られる前記3名に人力車の製造と販売の許可を与えた。条件として人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨があった。この許可をもって「人力車総行司」と称した。人力車を新たに購入する場合にはこの3名の何れかから許可をもらうこととなったが、後述のとおり数年で有名無実となってしまう。同年、人力車の運転免許証の発行が開始されている』。その後、明治五(一八七二)年『までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消し、逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になった。これにより職を失った駕籠かき達は、多くが人力車の車夫に転職した』。明治九(一八七六)年には東京府内で2万5038台と記録されており(明治九年東京府管内統計表による)、十九世紀末の日本には20万台を越す人力車があったという(Powerhouse Museum, 2005; The Jinrikisha story, 1996、ほかいくつかのウェブサイトより)、とあるから、一年後の明治十年に「六万台」というのは誇張された数値としか思えない。「東京都鍍金工業組合」の公式サイトの「めっきの歴史」の開国から明治の展開には(コンマを読点に変え、一部のコンマを省略した)、『明治15年に、東京の人力車の台数は2万5000台、車夫が2~3万人。それが10年後にはさらにふえ、営業人力車の数は6万台,うち4万台はたえず動いていた。もちろん東京市の人口も88万~150万人にふえている』という記載があることから、「六万台」になるには十五年後の明治二五(一八九二)年を待たねばならなかったようである。]

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