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2013/09/07

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 14 水撒き・桶・ぼてぶり


M18

図―18

 

 街路や小さな横丁等は概して撒水がよく行われている。路の両側に住む人々が大きな竹の柄杓で打水をしているのを見る。東京では水を入れた深い桶を担い棒でかついだ男が町を歩きまわる。桶の底の穴をふさぐ栓をぬくと、水がひろがって迸(ほとばし)り出る。一方男はなるべく広い面積にわたって水を撒こうと、殆ど走らんばかりにして行く(図18)。水を運ぶバケツは、イーストレークがその趣味と実益とを大いに賞讃するであろうと思われる程、合理的で且つ簡単に出来ている。桶板の二枚が桶そのものの殆ど二倍の高さを持って辺の上まで続き、その一枚から他へ渡した横木がハンドルを形づくつている(図19)。

 


M19
図―19

 

[やぶちゃん注:「イーストレーク」フレデリック・ウォーリントン・イーストレイク(Frederick Warrington Eastlake 一八五六年~一九〇五年)。アメリカ出身の言語学博士で慶應義塾教員。二十三ヶ国語に精通、「博言博士」の名で知られた。日本人女性と結婚し、東湖と号した。ニュージャージー州に生まれ、万延元(一八六〇)年に父ウィリアム・クラーク・イーストレイク(日本の近代歯科医学の父と称せられる歯科医)に伴われて来日。五歳でラテン語・ギリシャ語・フランス語・ドイツ語を、八歳の時には父に従って清国へ行き、スペイン語を学んだ。その後に米国に戻った後、十二歳でドイツのギムナジウムに入学、後にパリに移って医学・法学を修めてベルリン大学で言語学の博士号を得る。さらにアッシリア・エジプトを遊歴して現地の言語を究めた後、香港に渡って三年滞在、その間にインドを訪れてサンスクリット語・アラビア語にも親しんだ。明治一四(一八八一)年二十五歳の時、再び来日、明治一八(一八八五)年には元旗本太田信四郎貞興の娘太田ナヲミと結婚した。当時は外国人が居留地以外に住むことは禁じられていたが、福澤諭吉の好意によって福澤名義で東京の一番町十二番地に家を借りて居を構えた。明治一九(一八八六)年から外国人教師の一員として慶應義塾で英文学講師となる一方、『ジャパンメール』(後に『ジャパンタイムズ』と合併)などの新聞記者や教育者として活躍。妻ナヲミとの間には三男四女を儲けた。明治二一(一八八八)年、英学者磯辺弥一郎とともに国民英学会を設立するが、後に磯辺と不和になり、明治二四(一八九一)年には国民英学会から分裂して日本英学院を設立するも経営に失敗した。そこで明治二九(一八九六)年、斎藤秀三郎と手を組んで正則英語学校を設立して教鞭をとった。日本語・ドイツ語・フランス語・イタリア語・スペイン語は言文ともに自国語並み、英語は古代・中世・近代英語を三様に語り分けた。「ウェブスター氏新刊大辞書和譯字彙」(三省堂刊)など英語辞書の和訳、「英和比較英文法十講」など英文法書の執筆に寄与した外にも著書「香港史」「日本教会史」「日本刀剣史」「勇敢な日本」などがある。明治三八(一九〇五)年二月一八日、流行性感冒をこじらせて急性肺炎で病没、遺体は青山外人墓地に葬られた。青山外人墓地に墓碑と記念碑がある(以上はウィキフレデリック・イーストレイクに拠った)。このモースの「日本その日その日」は一九一三年の執筆開始であるから、イーストレイクは既に亡くなっている。また、モースの初来日はイーストレイクが日本に定住することになる四年前であるから、この作品叙述内時制では、未だイーストレイクは日本にいない。この叙述は亡きイーストレイクを念頭に置きながらオマージュのように記した一節ということになろうか。原文は“The buckets for lugging water are made on such sound principles and so simply that Eastlake would have highly approved of the taste and utility displayed.”であるから私は「その趣味と実益とを大いに賞讃した程度に」とすべきではないかと思っている。但し、だとすればそう賞讃した記事や記録がなくてはならなくなるが、私はイーストレイクの著作を読んだことがないので確かなことは言われぬ。では、モースがイーストレイクから直接その賞讃を聴いたという可能性はどうであろう? モースは明治一五(一八八二)年にも来日しているから、イーストレイクと邂逅する機会は十分あったようには思われるのだが、残念ながら磯野先生の前掲書末尾の人名索引にはイーストレイクの名前は挙がってはいない。……何となく、逢っていて欲しい気はしているのだが。……]

 

 固い木でつくった担い棒は日本、支那、朝鮮を通じて、いたる所でこれを見る。棒の両端に大きな笊(ざる)を二つ下げている人が、一つには一匹の大魚を、他にはそれとバランスをとるために数個の重い石を入れていることがある! これは精力の浪費だと思う人もあろう。飲用水を入れた深い桶をこのような担い棒にぶら下げたのを見ることもある。桶の中にはその直径に近い位の丸い木片が浮んでいる。この簡単な装置は水がゆれてこぼれるのを防ぐ。また桶板三枚が僅かに下に出て桶を地面から離す脚の役をつとめる、低い、洗い桶もある。この容器には塩水を満し、生きた魚を売って廻る。構造の簡単と物品の丈夫さと耐久力――すくなくとも日本人がそれを取扱う場合――とは、注意に値する。

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