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2013/09/06

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 9 お台場

 汽車に乗って東京を出るとすぐに江戸湾の水の上に、海岸と並行して同じような形の小さい低い島が五つ一列に並んでいるのが見える。これらの島が設堡されているのだと知っても、別に吃驚(びっくり)することはないが、只どんなに奇妙な岩層か、あるいは浸蝕かが、こんな風に不思議な程対称的な島をつくる原因になったのだろうということに、驚きを感じる。そこで説明を聞くと、これらの島は人間がつくったもので、而もそのすべてが五ケ月以内に出来上がったとのことである。ペリー提督が最初日本を去る時、五ケ月のうちにまた来るといい残した。そこでその期限内に日本の人達は、単にこれ等五つの島を海の底から築き上げたばかりでなく、それに設堡工事をし、さらにある島には大砲を備えつけた。かかる仕事に要した信じ難いほどの勤労と、労働者や船舶の数は、我々に古代のエジプト人が行なった手段と成し遂げた事業とを思わせる。只日本人は、古代の人々が何年か、かかってやっとやり上げたことを、何日間かでやって了ったのである。これらの島は四、五百フィート平方で約千フィート位ずつ離れているらしく見える。東京の公園で我々は氷河の作用を受けたにちがいないと思う転石を見たが、あとで聞くと、それは何百マイルもの北のほうから、和船で運ばれた石であるとのことであった。

[やぶちゃん注:所謂、品川台場、「お台場」である。以下、ウィキ台場」によれば、嘉永六(一八五三)年にペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫り、これに脅威を感じた幕府は江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じ、洋式の海上砲台を建設させた。品川沖に十一基の台場を一定の間隔で築造する計画で、工事は急ピッチで進められ(当時の落首に「つくかねの六つよりいでてお台場の土俵かさねて島となりぬる」が伝えられている。朝早くから突貫工事で台場を建設したことがうかがえる)、およそ八ヶ月の工期で翌年にペリーが二度目の来航をするまでに砲台の一部は完成、品川台場(品海砲台)と呼ばれた。埋め立てに用いた土は高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して調達したが、そのために東海道の高輪通りは昼間、通行止めとなったと言われる。再来したペリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台を見て横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになったという。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、まず海上に第一台場から第三台場が完成、その後に第五台場と第六台場が完成した(「五つ」としたモースの観察は確かだ。因みに後の第七台場は未完成、第八台場以降は未着手のままに終わり、第四台場は七割ほど完成していたものの中止となり、その後は造船所の敷地となった)。この第四台場の代わりに品川の御殿山の麓にも御殿山下台場が建設され、結局、最終的には計八つの台場が建設された。完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)・会津藩(第二台場。大河ドラマ「八重の桜」でもそのシークエンスが描かれていた)・忍藩(第三台場)の三藩が担った。この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることを狙ったものである。二度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国することとなった。モース来日の二年前の明治八(一八七五)年に海上の七つの台場が陸軍省所管となったが、明治中期には東京湾要塞(明治政府によって明治一七(一八八四)年より建造開始された帝都東京の海防を目的とした東京湾周辺の軍事施設集合体で、当初は清国北洋水師、次にロシア太平洋艦隊の侵攻を想定した施設であった。主要な設備は千葉県館山市の洲崎から富津市の富津岬にかけての沿岸及び浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市の城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、そして三つの海堡(かいほう)からなるものであった)の建設が始まったこともあって台場の重要性が減り、以後徐々に払い下げられていった、とある。]

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