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2013/09/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 8 モース先生「レスラーズ」(相撲)観戦記

M13


図―13

 昼過ぎにはウィルソン教授(我々は同教授と昼飯を共にした)が私を相撲見物に連れて行ってくれた。周囲の光景がすでに面白い。小さな茶屋、高さ十フィートばかりの青銅の神様若干、それから例の如き日本人の群集。我々は切符を買った。長さ七インチ、幅二インチ半、厚さ半インチの木片で漢字がいくつ印刷してある。興行場は棒を立て、たるきを横に渡した場所に、天井に蓆(むしろ)を使用し、壁もまた蓆で出来ていた。粗末な桟敷(さじき)、というよりも寧ろ桟敷二列がこの建物の周囲をめぐつているのだが、これもまた原始的なものであった。その中心に柱が四木立っていて、その間は高くなっており、直径二十フィートもあろうかと思われる円場(どひょう)が上に赤い布の天蓋を持って乗っている(図13)。柱の一本ずつに老人が一人ずつ坐っているのは、何か審判官みたいなものであるらしい。また厳格な顔をして、派手な着物を着た男がアムパイアの役をする。巨大な、肥えた相撲取りが円場にあらわれ、脚をふんばり、まるで試験をするように両脚を上下したり、力いっぱいひっぱたいたりした後、さて用意が出来ると顔つき合わせて数分間うずくまり、お互に相手の筋肉を検査する(彼等は犢鼻褌をしている丈である)有様は、まことに物珍しく且つ面白い観物であった。いよいよ準備が出来ると二人は両手を土につけ、そこで突然飛びかかる。円場から相手を押し出すか投げ出すかするというのが仕業なんである。この闘争が非常に短いこともあり、また活発で偉大なる力を見せたこともある。時としては単に円場から押し出され、時としては恐ろしい勢で投げつけられる。ある相撲取りは円場から投り出されて、頭と肩とで地面に落ちた。立ち上ったのを見るとそこをすりむいて血が流れていた。私がふり向いて見物人を見ることが出来るように、我々は円場にごく接近して坐った。場内は枘(ほぞ)穴を持つ横木で、六フィート四方位の場所にしきられている。これがボックスなので、そのしきりの内の場所は全部あなたのものである。見物人のある者は筆を用意して来て、相撲の有様を書きとめていた。また炭火の入った道具と小さな急須とを持っていて、時々小さな茶碗に茶を注いで飲む見物人もあった。日本人たちが不思議そうに、ウィルソン教授の八つになる男の子を眺めるのを見ることは、私にとっては、他のいずれの事物とも同じ位興味があった。この可愛らしい子供は、相撲がよく見えるように、例のかこいの一方に腰をかけていた。見物人が全部膝を折って坐っているのにハリイだけが高い所にいるのだから、彼等は一人のこらず彼を眺めることが出来た。彼の色の濃い捲毛と青い目とは、まだ外国人が珍しい東京にあっては、まっかな目玉と青い頭髪が我々に珍しいであろう程度に、不思議なものなのである。所で、この色の白い、かよわそうに見える子供は、日本語を英語と同じようによく話す。彼がお父さんのために後をむいて、演技のある箇所を質問し、そしてそれを英語で我々に語った時の日本人たちの驚きは非常なものであった。彼が自分たちの言葉を話すと知った日本人たちのうれしそうな顔は、まことに魅力に充ちたものであった。私は相撲を見ている間に、何度も何度も、彼等の感嘆した顔が見たいはかりに、ハリイをして日本人にいろいろな質問を発せしめた。相撲取りたちは非常に大きくて、力が強かった。ある者は実に巨大であった。彼等は実際よく肥っている。だが彼等は敏捷さよりも獣的の力をより多く示すように思われた。幾度か彼等は取組み合うと、アムパイアが何か正しからぬことを見つけて彼等を止める。すると彼等は四本棟の一つに当る一隅に行く、そこで助手が飲水を手渡すと、彼等はそれを身体や両腕に吹きかけ、さて砂を一つかみ取って腋の下にこすりつけてから、円場の真中に来てうずくまる。正しく開始する迄に、同じことを六遍も八遍もやる。時に彼等はこのような具合(図14)になり、一人が「オーッ」というと一人が「オーショ」といい、これを何度もくりかえす。だが、その間にも相撲取りたちは各々自分の地位を保持するために、力いっぱいの努力を続けているのである。最後にアムパイアが何かいうと、二人は争いをやめて円場の外に出る。この勝負は明かに引き分けとなったらしい。巡査がいないのにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出て来たのを見ると、押し合いへし合いするものもなければ、高声で喋舌(しゃべ)る者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。


M14
図―14

[やぶちゃん注:この段落の異例の長さによっても、モースが如何に相撲(及びその礼儀正しい人々)に魅了されたかがよく分かる。なお、この頃はまだ本所回向院境内が定場所であった(両国国技館(旧)の開館は明治四二(一九〇九)年六月)。
「昼過ぎにはウィルソン教授(我々は同教授と昼飯を共にした)が私を相撲見物に連れて行ってくれた。周囲の光景がすでに面白い。」原文の冒頭は“In the afternoon Professor Wilson, with whom we dined, took me to the "Wrestlers," where numbers of wrestlers have their bouts. The surroundings were odd enough;”とあり、“where numbers of wrestlers have their bouts”に相当する部分が訳にはない。石川氏は恐らく日本人には言わずもがなであると判断して、「相撲見物」でそれを圧縮したものらしい)。ここは――沢山の力士たちがそれぞれの真剣勝負(一番)を戦わすところの『レスラーズ』(相撲)という見世物に私を連れて行ってくれた」という謂いであろう。
「高さ十フィートばかりの青銅の神様若干」「十フィート」は約三メートル。青銅製の鳥居と思われる。私は実は相撲を見に行ったことはなく、国技館にも入ったことがないのでよく分からないが、相撲の始祖とされる野見宿禰(のみのすくね)など(若干とあるから鳥居は複数あった模様である)を祀った神社が設置されていたものか。
「長さ七インチ、幅二インチ半、厚さ半インチの木片で漢字がいくつ印刷してある」これは叙述からは長さ17・8センチメートル、幅6・5センチメートル、厚さ1センチメートル強の入場整理用の木札のようである。
「興行場」原文は“The "circus"”。円形広場・円形競技場。
「直径二十フィートもあろうかと思われる円場(どひょう)」直径約6・09メートル。現在の公式土俵では直径4・55 メートル。「円場」の原文は“a ring”。
「枘穴を持つ横木」所謂、相撲興行用の組み立て式の枡席の構造材を指している。
「六フィート四方位」約1・8メートル四方。因みに現在の升席は金属パイプで仕切られ、ずっと小さくなって幅1・3メートル/奥行1・25メートルだそうである。]

 ここを立ち去る時、私の友人は人力事を呼んで、日本語で車夫に私の行先きを話した。彼は先約があるので、私を停車場につれて行く訳に行かなかったのである。かくて私は三十分間、この大きな都会の狭い町並を旅していた。その間に欧米人には一人も行き会わず、また、勿論、私が正しい所へ行きつつあるのか、間違った方向へ行きつつあるのか、まるで見当がつかなかった。

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