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2013/09/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 17 歌舞伎観劇


M21_2


図―21

 

[やぶちゃん図注:図中のキャプションを示して主に現在の歌舞伎舞台用語の当該日本語を示しておいた。比較のために現在の新歌舞伎座の設備との比較も行ってみた(言わずもがなであるがモースが見たのは後注もするように歌舞伎座ではない)。

(最上部)“ACTERS DRESSING ROOMS” 楽屋

(その下の円形部)“TURN TABLE AND STAGE” まわり舞台と舞台

(円形の右)“SCREEN” 定式幕[やぶちゃん注:引幕であるが、後に出るように現在知られた単純な三色縦縞の引幕ではないようである。また、現在の歌舞伎座などを考えると点線位置(引幕の引かれる位置)が稍後ろ過ぎる感じはする。]

(舞台下手客席側)“ORCHESTRA” 下座・黒御簾(くろみす)

(右端)“BOXES ON GALLERY” 二階桟敷席(個室。因みに現在の新歌舞伎座の棧敷席はかく仕切られた個室はない。)

(左中央)“→ ACTORS ENTER →” 花道

(中央下)“GALLERY” 客席・平土間・桝席

(最下部)“SWEET MEATS FOR SALE” 特別同伴予約席?(同じく現在の新歌舞伎座では一階後方に個室になったガラス張りの特別室が三人用と四人用の二室がある)]

 

 日本で出喰わす愉快な経験の数と新奇さとにはジャーナリストも汗をかく。劇場はかかる新奇の一つであった。友人数名と共に劇場に向けて出発するということが、すでに素晴らしく景気のいい感を与えた。人通りの多い町を一列縦隊で勢いよく人力車を走らせると、一秒ごとに新しい光景、新しい物音、新しい香い(この最後は必ずしも常に気持よいものであるとはいえぬ)に接する……これは忘れることの出来ぬ経験である。間もなく我々は劇場に来る。我々にとっては何が何やらまるで見当もつかぬような支那文字をべったり書いた細長い布や、派手な色の提灯や、怪奇な招牌(かんばん)の混合で装飾された、変てこりんな建物が劇場なのである。内に入ると、我々は両側に三階の棧敷を持った薄暗い、大きな、粗末な広間とでもいうような所に来る。劇場というよりも巨大な納屋といった感じである。床は枠によって六百フィート平方、深さ一フィート以上の場所に仕きられているが、この一場所がすなわち枡(ます)で、その一つに家族一同が入って了うという次第なのである(図21)。日本人は脚を身体の下に曲げて坐る。トルコ人みたいに足を組み合わせはしない。椅子も腰かけもベンチも無い。芝居を見るのも面白かったが、観客を見るのも同様に面白く――すくなくとも、物珍しかった。家中で来ている人がある。母親は赤ん坊に乳房をふくませ、子供達は芝居を見ずに眠り、つき物の火鉢の上ではお茶に使う湯が暖められ、老人は煙草を吸い、そしてすべての人が静かで上品で礼儀正しい。二つの通廊は箱の上の高さと同じ高さの床で、人々はここ、を歩き、つぎに幅五インチくらいの箱の縁を歩いて自分の席へ行く。

[やぶちゃん注:この芝居小屋はどこだろう。まず、場所が横浜なのか東京なのかが分からない。どうも前後の描写からは私には横浜のように思われてならないが、確定は出来ない(なお、何となく我々がイメージしてしまうところの歌舞伎座の開設は明治二二(一八八九)年で、この頃にはまだない)。ただ次の段落で、その舞台に設置された回り舞台の直径を「二五フィート」(7・62メートル)と記しているから、相当に間口の広い劇場でなければならない。当時の東京で最も規模が大きかったのは新富座(旧江戸三座の守田座)の舞台間口八間(約14・5メートル)であるが、京橋区新富町六丁目にあった新富座はこの前年の明治九(一八七六)年十一月に起こった日本橋区数寄屋町の火災で類焼しており、翌年四月に同町四丁目に仮劇場を設営していた状態にあったとウィキの「新富座」にあるので疑問である(図や記載を見る限りでは仮小屋とは思われない。なお新富座は翌明治一一(一八七八)年六月にはガス灯などを配備した近代劇場を新設、大々的な洋風開場式を行っており、実はモースはこの直後に今度は確かにこのの新富座の杮落としで二度目の歌舞伎観劇をしており、それが「第十一章 六ヶ月後の東京」に詳述されている)。他には浅草猿若町(現在の台東区浅草六丁目)にあった残りの江戸三座の市村座・中村座、及び日本橋久松町にあった喜昇座(現在の明治座の前身)が挙げられる。実は私は歌舞伎が好きではないのでよく分からない、というか、今一つ、積極的に調べようという気が起こらないでいる。識者の御教授を乞うものである。

「桝席」当時の芝居小屋の枡席は一般に七人詰であった。参照したウィキの「桝席」によれば、江戸時代(桝席の出現は明和の初め一七六〇年代後半であった)の料金は一桝あたり二十五匁で、『これを家族や友人などと買い上げて芝居を見物したが、一人が飛び込みで見物する場合には「割土間」といって、一桝の料金のおよそ七等分にあたる』一朱を払って「他所様(よそさま)と御相席(ごあいせき)」という便宜が利いた。『土間の両脇には一段高く中二階造りにした畳敷きの「桟敷」(さじき)があり、さらにその上に場内をコの字に囲むようにして三階造りにした畳敷きの「上桟敷」(かみさじき)があった』が『料金は現在とは逆で、上へいくほど高くなっ』ていた。『やがてそれぞれの枡席には座布団が敷かれ、煙草盆(中に水のはいった木箱の灰皿)が置かれるようになった。枡席にお茶屋から出方が弁当や飲物を運んでくるようになったのもこの頃からである。当時の芝居見物は早朝から日没までの一日がかりの娯楽だったので、枡席にもいくらかの「居住性の改善」が求められたのである』。『明治になると東京をはじめ各都市に新しい劇場が建てられたが、そのほぼすべてが枡席を採用していた。文明開化を謳ったこの時代にあっても、日本人は座布団の上に「坐る」方が居心地が良かったのである。全席を椅子席にして観客が「腰掛ける」ようにしたのは、演劇改良運動の一環として』明治二二(一八八九)年に落成した『歌舞伎座が最初だった。これを境に以後の劇場では専ら椅子席が採用されるようになり、昭和の戦前頃までには、地方の伝統的小劇場を除いて、枡席は日本の劇場からほとんどその姿を消してしまった』とある。

「六百フィート平方」原文は“six feet square”。六フィートの誤り。凡そ1・8平方メートルで前の相撲見物の際の桝席の「六フィート四方位」と一致する。既に述べた通り、因みに現在の相撲の場合の升席は金属パイプで仕切られ、ずっと小さくなって幅1・3メートル/奥行1・25メートルだそうである。

「深さ一フィート以上」30センチメートル以上。]

 

 舞台は低く、その一方にあるオーケストラは黒塗りの衝立によって、観客からかくしてある。舞台の中央には床と同高度の、直径二五フィートという巨大な回転盤がある。場面が変る時には幕を下さず、俳優その他一切合財を乗せたままで回転盤が徐々に回転し、道具方が忙しく仕立てつつあった新しい場面を見せると共に今迄使っていた場面を見えなくする。観客が劇を受け入れる有様は興味深かった。彼等は、たしかに、サンフランシスコの支那劇場で支那人の観客が示したより以上の感情と興奮をみせた。ここで私は挿句的につけ加えるが、上海に於る支那劇場はサンフランシスコのそれとすこしも異っていなかった。サンフランシスコの舞台で、大きな、丸いコネティカット出来の柱時計が、時を刻んでいただけが相違点であった。

[やぶちゃん注:この最後の京劇かとも思われる舞台の演目は何だろう? 時計が小道具としてあるのかミソである。識者の御教授を乞うものである。

「直径二五フィート」7・62メートル。参考までに十一年後に完成する歌舞伎座の場合、舞台は間口十三間(約23・6メートル)・奥行十六間(約29メートル)・高さ十七尺(約5・2メートル)、回り舞台は蛇の目回し(同心円の大小二つの回り舞台が独立して稼働可能な構造をしたかつて存在した回り舞台。幕末期に考案された)で、外回り直径が九間(16・4メートル)・内回り七間(10メートル)もあった。因みに新歌舞伎座に至っては直径六十尺(18・18メートル)で構造物自体の深さは実に約16・5メートルに及ぶ文字通り日本一の廻り舞台である(「歌舞伎座」公式サイトに「建築の現場から」で、今は設置されて見れないその全体の威容を見ることが出来る)。]

M22_2

図―22

 

 劇は古代のある古典劇を演出したものとのことであった。言語は我々の為に通訳してくれた日本人にとってもむずかしく、彼は時々ある語句を捕え得るのみであった。数世紀前のスタイルの服装をした俳優――大小の刀をさしたサムライ――を見ては、興味津々たるものがあった。酔っぱらった場面は、おおいに酔った勢いを発揮して演出された。剝製の猫が、長い竿のさきにぶら下がって出て来て手紙を盗んだ。揚げ幕から出てきた数人の俳優が、舞台でおきまりの大股(ろっぽう)を踏んで大威張りで高めた通廊を歩く。その中で最も立派な役者は、子どもが持つ長い竿の先端についた蠟燭の光で顔を照らされる。この子供も役者と一緒に動き回り、役者がどっちを向こうが、必ず蠟燭を彼の顔の前にさし出すのである(図22)。子どもは黒い衣服を来て、あとびっしゃりをして歩いた。彼は見えないことになっている。まったく、観客の想像力では見えないのであるが、我々としては、彼は俳優たちとすこしも違わぬ程度に顕著なものであった。脚光が五個、ステッキのように突っ立った高さ三フィートのガス管で、目隠しもないが、これがごく最新の設備なので、こんなふうなむき出しのガス口が出来るまでは、俳優一人について子供一人が蠟燭をもって顔を照らしたものである。後見はわが国に於るそれと異り、隠れていないで、舞台の上を故(ことさら)に歩き回り、かわり番に各俳優の後ろにきて(私のテーブルはたった今地震で揺れた。一八七七年六月二十五日、――また震動があった。またあった)、隠れているかのように蹲(うずくま)り、そして明瞭に聞こえるほどの大声で助言する。図23は無体の大略をスケッチしたものである。舞台の上には下げ幕として、鮮やかな色の紙片をたくさんつけた硬い繩がかたまって下がっている。オーケストラは間断なく仕事をした――日本のバンジョウを怠けたような、ぼんやりしたような調子で掻き鳴らすのに持ってって、時々笛が疳高く鳴る。音楽は支那の劇場に於るが如く勢いよくもなく、また声高でもなかった。過去に於る婦人の僕婢的服従は、女を演出する俳優(我々は男、あるいは少年が女の役をやるのだ、と教わった)が、常に蹲るような態度をとることに依て知られた。幕間には大きな幕が舞台を横切って引かれる。その幕の上には、ある種の扇子の絵のような怪奇さを全部備えた、もっとも巨大な模様が目も覚めるような色彩であらわしてある。すべての細部にわたって劇場は新奇であった。こんな短い記述では、その極めて薄弱な感じしか出せない。

 


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図―23

 

[やぶちゃん注:この記述によってモースの観劇が明治10(1877)年6月25日のことであったことは分かる。やはり、友人たちと人力を仕立てて行って帰ったとすれば横浜の劇場らしいが、今度はこの外題が想像つかない。やはり識者の御教授を乞うものである。「古代のある古典劇を演出したもの」で、「大小の刀をさしたサムライ」の「おおいに酔った勢いを発揮した」「演出」がなされるもの、「剝製の猫が、長い竿のさきにぶら下がって出て来て手紙を盗」む(?)、「揚げ幕から出てきた数人の俳優が、舞台でおきまりの大股(ろっぽう)を踏んで大威張りで」花道を歩く芝居……。そして中の一段の舞台の絵図……どうか、御教授のほどよろしゅうお願い申し上げまする……。

「その中で最も立派な役者は、子どもが持つ長い竿の先端についた蠟燭の光で顔を照らされる」子供はがたいが小さく見える黒子のことで(実際に年少の者がやることも多かったであろうが)。これは「面明(つらあか)り」「差し出し」と呼ばれるもので、芝居の舞台、特に花道に於いて役者の顔をよく見せるために柄のついた燭台を後見が前後からの差し出すもの(通常は従って二人)。

「あとびっしゃりをして歩いた」原文は“walked backward”。(器用に)後退りした。「日本国語大辞典」には「あとじさり」の変化した語として「あとびさり」「あとびっしょり」「あとびっさり」という語を掲げる(特に方言としていない)。なお、この甲州弁にズバリ「あとびっしゃり」というのがある。但し、石川も石川の父千代松も江戸・東京生まれではある。

「三フィート」約90センチメートル。

「後見」原文は“The prompter”で、「後見」という訳はやや問題がある。「プロンプター」は舞台の陰にいて俳優が台詞を間違えたり、つかえたりした際に小声で教える役であるが、歌舞伎に於いてはこの仕事は狂言方(歌舞伎狂言の四、五枚目の下級作者で、立作者の下で台詞の書き抜き〔台本から一人一人の俳優の台詞を別々に書き抜いたもの〕をしたり、幕の開閉などの仕事をした者)がこれを務めることになっており、「後見」と言った場合には演技者の後方に控えて、飽くまで装束の直し・小道具の受け渡し・その他演技の進行の介添えをする者をいうからである。モースが「明瞭に聞こえるほどの大声で助言する」といっているのは謠を誤認したものではなかろうか?

「舞台の上には下げ幕として、鮮やかな色の紙片をたくさんつけた硬い繩がかたまって下がっている」というのはどうも緞帳(その下部にある装飾)ではなく、花を模したありがちな舞台の上縁の飾りのように思われる。

「オーケストラは間断なく仕事をした――日本のバンジョウを怠けたような、ぼんやりしたような調子で掻き鳴らすのに持ってって、時々笛が疳高く鳴る。」原文は“The orchestra was in action all the time — a lazy, absentminded thrumming on the Japanese banjo with now and then a toot of a flute.”。意味は分かる。少しモースの呆れた感じを含んで訳すなら、

 

囃子方は見えない御簾の向こうの暗がりで絶え間なく己が仕事を、ただただし続けている――三味線の、何とも、かったるい感じの、如何にも弛んでしまった弦をぼろんぼろん爪弾いているといった、ダルな楽曲が、これ、延々聴かされるのに持ってきて、その上、時に吃驚するような厭に疳走った高い笛の音が鳴ったりするのである。――

 

といった感じではなかろうか。無論、モースは全体として歌舞伎の新奇を面白がってはいるが、恐らくはこの囃子方には勘弁だったのではないか、と私は秘かに思うのである。なお、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には弟子岩川友太郎の回想を引用し、『先生には観劇といふ趣味』はなかったとあり、またその直後で岩川が『音楽を聴くといふ娯楽もなく』と叙述部分に注されて、『これは岩川の思い違いであろう。モースは音楽が好きで、「セーラムの家には小型のグランド・ピアノがあり、興に乗ずると相当こみ入った曲をひいた」』と石川欣一氏の引用をなさっておられる。私が言いたいのは、少なくともこの時点での歌舞伎の囃子の三味線や横笛を、音楽好きのモースは決して気に入ったようには感じられない、ということなのである。]

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