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2013/09/19

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 3 旅つれづれ

 道路に添って立木に小枝の束が縛りつけてあるのを見ることがある。これは人々が集め、蓄え、そして、このようにして乾燥させる焚きつけなのである。

 

 ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醱酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。おまけに身につけた襤褸(ぼろ)のひどさ! 私が銭若干を与えると彼等は数回続けて、ピョコピョコと頭をさげた。一セントの十分一にあたる小銭は、このような場合最も便利である。ある店で六セント半の買物をして十セントの仮紙幣を出した所が、そのおつりが片手に余る程の、いろいろな大きさの銅貨であった。私は後日ここに来るヤンキーを保護するつもりで、貰ったおつりを非常に注意深く勘定する真似をしたが、あとで、そんなおつりを勘定するような面倒は、全く不必要であると聞いた。

[やぶちゃん注:「仮紙幣」原文は“a ten-cent scrip”。確かに“scrip” 緊急時に発行される臨時紙幣及び占領軍等が発行する軍票のことも言うが、ではここでモースが用いた十銭紙幣がそうした性質の仮の紙幣であったかというと、以下に見るようにそうではない。従ってこれは誤訳であると私は思う。そこで更に“scrip”を調べると、実はこれは以前にアメリカで発行されていた一ドル未満の紙幣の名称であり、そこから集合的ニュアンスで一ドル未満のお金の意を示す語としてもあることが分かった。ここはまさにモースは一ドル(=一円)以下のセント(=銭)の紙幣という意味で用いているのであるから、「仮紙幣」ではなく「紙幣」でよいのである。さてこの紙幣であるが、これは明治通宝と呼ばれる明治初期に発行された政府紙幣(不換紙幣)で、本邦初の西洋式印刷術による紙幣として著名なもので、当初はドイツのフランクフルトにあった民間工場で製造されたことから「ゲルマン札」の別名も持つ、「仮」ではない正式な紙幣である。以下、参照したウィキの「明治通宝」によれば(数字の半角を全角にし、記号の一部を省略した)、『戊辰戦争のため新政府は軍事費の出費の必要があり大量の紙幣が発行されていた。しかし紙幣といっても江戸時代の藩札の様式を踏襲した多種多様の雑多な紙幣、すなわち太政官札、府県札、民部省札、為替会社札など官民発行のものが流通しており、偽造紙幣も大量にあった。そのため近代国家のためにも共通通貨「円」の導入とともに近代的紙幣の導入が必要であった』。『当初日本政府はイギリスに新紙幣を発注する予定であったが、ドイツからドンドルフ・ナウマン社による「エルヘート凸版」による印刷の方が偽造防止に効果があるとの売込みがあった。そのうえ技術移転を日本にしてもいいとの条件もあったことから、日本政府は近代的印刷技術も獲得できることもあり1870年(明治3年)10月に9券種、額面5000万円分(後に5353万円分を追加発注)の発注を行った』。『翌年の1871年(明治4年)12月に発注していた紙幣が届き始めたが、この紙幣は安全対策のため未完成であった。そのため紙幣寮で「明治通宝」の文言や「大蔵卿」の印官印などを補って印刷し完成させた。なお当初は「明治通宝」の文字を100人が手書きで記入していたが、約1億円分、2億枚近くもあることから記入に年数がかかりすぎるとして木版印刷に変更され記入していた52000枚は廃棄処分された。明治通宝は1872年(明治5年)4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められた』。『しかし、流通が進むにつれて明治通宝に不便な事があることが判明した。まずサイズが額面によっては同一であったため、それに付け込んで額面を変造する不正が横行したほか、偽造が多発した。また紙幣の洋紙が日本の高温多湿の気候に合わなかったためか損傷しやすく変色しやすいという欠陥があった』。『その後、当初の契約通り技術移転が行われ印刷原版が日本側に引き渡された。そのため明治通宝札は日本国産のものに切り替えられ、折りしも1877年(明治10年)に勃発した西南戦争の際には莫大な軍事費支出に役立つこととなった』。『デザインは縦型で、鳳凰と龍をあしらったものであった。10銭券は1887年(明治20年)6月30日、それ以外の券も1899年(明治32年)12月31日をもって法的通用が禁止され廃止された』とあり、券種額面は百円・五十円・十円・五円・二円・一円・半円・二〇銭・一〇銭の九種類、一〇銭紙幣の寸法は87ミリ×53ミリメートルで、ドイツでの製造枚数は七千二百二万六千百四十三枚、後の国産製造分は五千四百六十二万千百三十七枚とある。外国人旅行者にエクスチェンジされたものであるから恐らく新しい国産の分であろう。サイト「MEIJI TAISHO 1868-1926: Showcase」の新紙幣(明治通宝)十銭札」で実物の画像(裏表)が見られる(これは明治五年発行とあるからドイツ製造分であろう。89×54とウィキの記載とはサイズが異なるのがやや気になるが、国内生産分では少し小さくなったのかも知れない)。]

 


M33
図―33

 

 午前八時十五分過ぎには十五マイルもきていた。我々の荷物全部――それには罐詰のスープ、食料品、英国製エール一ダース等も入っている――を積んだ人力車は、我々のはるか前方を走っていた。而も車夫は我々と略(ほぼ)同時に出立したのである。多くの人々の頭はむき出しで、中には藍色の布をまきつけた人もいたが、同時にいろいろな種類のムギわら帽子も見受けられた。水田に働く人達は、極めて広くて浅いムギわら帽子をかぶっていたが、遠くから見ると生きた菌(きのこ)みたいだった(図33)。

[やぶちゃん注:「十五マイル」約24キロメートル。浅草起点で現在の埼玉県越谷を過ぎた辺りである。

「英国製エール」原文“English ale”。上面発酵で醸造されるビールの一種。大麦麦芽を使用し、酵母を常温で短期間に発酵させたもの。殆んどのエールはホップを使用して苦味と香りを与え、麦芽の甘味とバランスを取る(上面醗酵は発酵中に酵母が浮き上がって層ができることに由来し、イギリス産や日本でも地ビールに多く、フルーティーな香りがある。我々の飲みなれたラガーは低温性酵母を使って六度~十五度の低温で発酵させて長期間熟成させた下面発酵である)。]

 

 目の見えぬ娘が.バンジョーの一種を弾きながら歌を唄ってゆっくりと町を歩くのをよく見たし、またある場所では一人の男がパンチ・エンド・ジュディ式の見世物をやっていた。片手に人形を持ち、その頭をポコンポコン動かしながら、彼は歌を唄うのであった。

[やぶちゃん注:瞽女(ごぜ)と傀儡師(くぐつ)である。

・「パンチ・エンド・ジュディ」原文“Punch and Judy”。石川氏は直下に『〔操り人形〕』と割注されている。ウィキの「パンチとジュディ」によれば、イギリスの人形芝居とそのキャラクターを指し(童謡「マザー・グース」の同題の一編をも指す)、起源は十四世紀のイタリアの伝統的な風刺劇「コメディア・デラルテ」(「パンチ」は、この劇がイギリスに伝わった際、劇に登場する道化師“Pulcinella”(プルチネッラ)が“Punchinello”と綴られ、それが後に“Punch”に縮められたもの)。人形劇「パンチとジュディ」のイギリス初演は一六六二年五月のロンドンのコヴェント・ガーデンで、十七世紀に活躍したイギリスの官僚サミュエル・ピープスの日記に記されているという。演者により多少ストーリーの変更はあるものの、基本はパンチが赤ん坊を放り投げ、ジュディを棍棒で殴り倒し、その後も犬や医者・警官や鰐などを殴り倒して、死刑執行人を逆に縛り首にし、最後に悪魔を殴り倒す、というプロットである。マザーグース好みの、残酷さを持ちながら、その荒唐無稽なドタバタ喜劇は現在でもイギリス国民の人気を集めており、夏の海岸やキャンプ場など人の多く集まる場所でよく演じられる他、毎年十月最初の日曜日には「パンチとジュディ・フェスティバル」がコヴェント・ガーデンで開かれている、とある。]

 

 艶々(つやつや)した鮮紅色の石榴(ざくろ)の花が、家を取りかこむ濃い緑の木立の間に咲いている所は、まことに美しい。

 

 街道を進んで行くと各種の家内経済がよく見える。織(おりもの)が大部盛に行われる。織機はその主要点に於て我国のと大差ないが、紡車(いとぐるま)を我々と逆に廻すところに反対に事をする一例がある。

 


M34
図―34

 

 路に接した農家は、裏からさし込む光線に、よく磨き込まれた板の間が光って見える程あけっぱなしである。靴のままグランド・ピアノに乗っかる人が無いと同様、このような板の間に泥靴を踏みこむ人間はいまい。家屋の開放的であるのを見ると、常に新鮮な空気が出入していることを了解せざるを得ない。燕は、恰度我国で納屋に巣をかけるように、家のなかに巣を営む(図34)。家によっては紙や土器の皿を何枚か巣の下に置いて床を保護し、また巣の真下の梁に小さな棚を打ちつけたのもある。蠅はすこししかいない。これは馬がすくないからであろう。家蠅は馬肥で繁殖するものである。

[やぶちゃん注:「馬肥」は「うまこえ」と読み、馬糞である。原文“the manure”は広く肥料・有機質肥料の謂いであるが、後者にあっては特に動物の排泄物を指す。]

 


M35
図―35

 

 床を洗うのに女は膝をついて、両手でこするようなことをしないで、立った儘手を床につけ、歩きながら雑巾を前後させる(図35)。こんな真似をすれば我々の多くは背骨を折って了うにきまっているが、日本人の背骨は子供の時から丈夫になるように育てられている。

 


M36

図―36

 

 窓硝子の破片を利用して、半音楽的なものが出来ているのは面白かった。このような破片のいくつかを、風が吹くと触れ合う程度に近くつるすと、チリンチリンと気持のいい音を立てるのである(図36)。

 

 我々が通過した村は、いずれも小さな店舗がならぶ、主要街を持っていた。どの店にしても、我々が立ち止ると、煙草に火をつける為の灰に埋めた炭火を入れた箱が差し出され、続いて小さな茶碗をいくつかのせたお盆が出る。時として菓子、又は碌に味のしないような煎餅若干が提供された。私は段々この茶に馴れて来るが、中々気持のよいものである。それはきまって非常に薄く、熱く、そして牛乳も砂糖も入れずに飲む。日本では身分の上下にかかわらず、一日中ちょいちょいお茶を飲む。

M37

図―37

 この地方では外国人が珍しいのか、それとも人々がおそろしく好奇心に富んでいるのか、とにかく、どこででも我々が立ち止ると同時に、老若男女が我々を取り巻いて、何をするのかとばかり目を見張る。そして、私が小さな子どもの方を向いて動きかけると、子どもは気が違ったように泣き叫びながら逃げて行く。馬車で走っている間に、私はいく度か笑いながら後を追ってくる子供達を早く追いついて踏段に乗れとさしまねいたが、彼等は即時(すぐ)真面目(まじめ)になり、近くにいる大人に相談するようなまななざしを向ける。遂に私は、これは彼等が私の身振りを了解しないのに違いないと思ったので、有田氏(一緒にきた日本人)に聞くと、このような場合には、手の甲を上に指を数回素早く下に曲げるのだということであった。そのつぎに一群の子供達の間を通った時、私は教わった通りの手つきをやって見た。すると彼等はすぐにニコニコして、馬車を追って馳け出した。そこで私は手真似足真似で何人かを踏み段に乗らせることが出来た。子どもたちが木の下駄をはいているにもかかわらず――おまけに多くは赤坊を背中にしょわされている――敏捷に動き廻るのは驚く可き程である。上の図(図37)は柔かい紐が赤妨の背中をめぐり、両腋と足の膝の所を通って、女の子の胸で結ばれて有様を示している。子供はどこにでもて、間断ない興味の源になる。だがみっともない子が多い。この国には加答児(カタル)にかかっている子供が多いからである。

[やぶちゃん注:「有田氏」不詳。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」は同行者はマレーの名しか載せない(同書の人名索引にも有田姓はない)。英語を解せる人間でなくてはならないから、冒頭にある「文部省のお役人が一人通弁として付いて行って呉れる」とある人物かとも思われる。

「加答児(カタル)」原文“catarrh”。病理学ではカタル(日本語のそれはオランダ語の“catarrhe”及びドイツ語の“Katarrh”由来)は滲出性の粘膜炎症疾患で、粘液分泌が盛ん起こり、上皮剥離や充血を病態として示すものを広く指すが、“catarrh”が俗語で「洟(はなみず)」のことをも指すように、ここは鼻炎のことである。懐かしい水っ洟の子供らの映像である(なお、カタルの語源はギリシャ語の、“kata-”(下へ)+“rhen”(流れる)+形容詞語尾“-ous”=“katrrous”(浸出性炎症)がラテン語化したもの)。]

 

 日本を旅行する、先ずどこにでも子供がいることに気がつくが、次に気がつくのは、いたる所に竹が使用してあることである。東屋(あずまや)の桷(たるき)、縁側の手摺、笊、花生け、雨樋から撥釣瓶(はねつるべ)にいたる迄、いずれも竹で出来ている。家内ではある種の工作物を形づくり、台所ではある種の器具となる。また竹は一般に我国に於る唾壺(だこ)の代用として使用されるが、それは短く切った竹の一節を火壺と一緒に箱に入れた物で、人は慎み深く頭を横に向けてこれを使用し、通常一日使う丈で棄てて了う。

[やぶちゃん注:「唾壺(だこ)」原文“cuspidor”。米語で「痰壺」のこと。あちらでは灰皿にも用いると辞書にはある。駅に痰壺があるのを日常的に見知っている世代は私ぐらいまでか。]

 

 田舎を旅しているとすぐ気がつくが、雌鶏の群というものが見あたらぬ。雌鶏と雄鶏とがたった二羽でさまよい歩く――もっともたいていはひっくり返した笊の内に入っているが――だけである。鶏の種類は二つに限られているらしい。一つは立派な、脚の長い、距(けづめ)の大きな、そして長くて美事な尾を持つ闘鶏で、もう一つは莫迦げて大きな鶏冠(とさか)と、一寸見えない位短い脚とを持つ小さな倭鶏である。

[やぶちゃん注:「立派な、脚の長い、距の大きな、そして長くて美事な尾を持つ闘鶏」ニワトリの品種の一つであるオナガドリ(尾長鳥・尾長鶏)。♂の尾羽が極端に長くなるのが特徴。高知県原産で現在は日本の特別天然記念物に指定されている。明治時代に外国にも輸出されて世界的にも“yokohama”(輸出された横浜港に由来)として知られる(ウィキの「オナガドリ」に拠る)。

「莫迦げて大きな鶏冠と、一寸見えない位短い脚とを持つ小さな倭鶏」所謂、日本在来種である地鶏。現在の「地鶏」の規定は日本農林規格(JAS)によれば、在来種由来の血液百分率が五〇%以上の国産銘柄鶏の総称だそうである(ウィキの「地鶏」に拠る)。鶏が東南アジアで家畜化されたのは古墳時代の少し前と考えられているが、その後、明治維新までの千数百年間、西欧からの外来種の交配を受けずに成立したものを特に日本鶏と呼称し、実際にはモースの言う二種ではなく、現在は十七種が天然記念物に指定されている(こ詳細はこの部分で参照した中央畜産会公式サイト内「畜産ZOO鑑」の「日本鶏」へ)。]

 

 歩いて廻る床屋が、往来に、真鍮張りの珍しい箱を据えて仕事をしている。床星はたいていは大人だが(女もいる)どうかすると若い男の子みたいなのもいる。顔はどこからどこ迄剃って了う。婦人でさえ、鼻、顔、その他顔面の表面を全部剃らせる。田舎を旅行していると、このような旅廻りの床屋がある程度まで原因となっている眼病の流行に気がつく――白内障、焮衝(きんしょう)を起した眼瞼、めっかち、盲人等はその例である。

[やぶちゃん注:「珍しい箱」既に電子化した「第七章 江ノ島に於る採集」の理髪業の携帯道具入の図183を参照されたい。

「白内障、焮衝(きんしょう)を起した眼瞼(まぶた)、めっかち、盲人等はその例である。」原文は“cataract, inflamed eyelids, and loss of one eye are seen as well as many blind people.”である。「焮衝」は身体の一局部が赤く腫脹し、熱をもって痛むこと、炎症の謂いである。英語の“inflamed eyelids”というのは確かに「炎症起こした瞼」の謂いであるが、これは所謂、ものもらいのような症状を指すことになる。確かにそれでも納得出来るが、私はこの時期の日本人に蔓延していた眼病としては結膜炎(conjunctivitis)やトラコーマ(trachoma)が自然であり、それをモースはかく表現(但し、「充血した目」は一般的には英語で“inflamed eyes”である。しかし、これらの眼疾患は悪化すれば当然の如く瞼も腫れぼったくなる。特にトラコーマでは重症化すると上眼瞼が肥厚し、遂には角膜潰瘍を引き起こし、そこに重感染が生ずると失明に至ることもある)したものではなかったかと思う。大方の御批判を俟つ。なお、このモースの原因説は床屋への冤罪であるように思われる。確かに細菌性結膜炎やウイルス性結膜炎、クラミジア・トラコマチス(Chlamydia trachomatis)を病原体とするトラコーマのその感染源としてはあり得ないことはないが、それらに加えて不可逆的な病変や失明の主因の一つを、かくも糾弾するのは、私には科学者らしからぬ暴挙としか思えないのであるが、如何?]

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