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2013/09/28

耳嚢 巻之七 志賀隨翁奇言の事

 志賀隨翁奇言の事

 

 石川壹岐守組の御書院與力廣瀨大介といふ者、文化の比(ころ)八十餘なりしが、當時世の中にて長壽の人といへば、志賀隨翁事を口説(くぜつ)なす。彼(かの)大介幼年の節、京都建仁寺にて隨翁に逢(あひ)し事有(あり)。大介に向ひて、此小兒は長壽の相あり、然共(しかれども)不養生にては天命を不經(へず)と語りしと、大介咄(はなし)し由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:長寿譚で直連関し、前の注で鈴木氏によって実は前の「長壽の人狂歌の事」に出た歌(第一首目)を、この話の「隨翁」とする記述があるから、これは同一の情報源であることが強く疑われる。前の項の注も参照されたい。

・「志賀隨翁」底本で鈴木氏は特異的に詳細で重要な考察をなさった注を施しておられるので、例外的に全文を引用したい。

   《引用開始》

『梅翁随筆』八に「生島幽軒といふ御旗本の隠居、享保十年己巳八十の賀を祝ひて、老人七人集会す。その客は榊原越中守家士志賀随翁俗名金五郎百六十七歳、医師小林勘斎百三十六歳、松平肥後守家士佐治宗見百七歳、御旗本隠居石寺宗寿俗名権右衛門九十七歳、医師谷口一雲九十三歳、御旗本下条長兵衛八十三歳、浪人岡本半之丞八十三歳、宴会せしとて、其節の書面、今片桐長兵衛かたにのこれり。」うんぬんとある。この七人の長寿者会合のことは『月堂見聞集』『翁草』にも出ているから、話の種だったことがわかる。享保十年百六十七歳というのが随翁の生存年代を確かめるための一応のめどであるわけだが、伴蒿蹊の『閑田耕筆』には正徳五年幽軒の尚歯会の際、瑞翁百八十七歳とある。蒿蹊は、「右の内志賀瑞翁は人よく知れり。おのれ三十二三の時、此翁の三十三回にあたれりとて、手向の歌を勧進する人有しが、これは彼延寿の薬方を伝へて、売人其恩を報が為なりと聞えき。此年紀をもて算ふれば、正徳五年よりは十七八年、猶ながらへて凡二百七十余歳なり。長寿とは聞しかども、二百に余れるとはいふ人なし。もし正徳の会の時の齢たがへる歟、いぶかし」と疑っている。蒿蹊の三十二、三は明和初年であるから随翁は享保十六、七年に死んだことになる。いずれにしても無責任な数字というべきだが、この随翁(随応とも瑞翁とも酔翁とも書いた)と実際に逢ったことがあると言い出した者があり、その証拠ともいうべき災難除けの守りを貰ったという人物(江戸塵拾)まで出現した。本書の広瀬大介も逢ったという一人だが、『海録』では、方壺老人(三島景雄)という人が幼時(享保の末)随翁に逢ったが、木挽町に貧しげな様で下男と二人で住んでいた。翁は幼いとき信長公の児小性で、本能寺の変には運よく死を免れたと自ら語った。随翁が死んだ時は下男もいず、あまり起きて来ないので隣家の者が見たら死んでいたという。谷川士清は、「二百歳の寿を保ちしといへるも覚束なし、若くは世を欺く老棍のわざならんか」といっている。自ら長寿を吹聴し人を欺く意図はなくても、稀世の長寿者を待望する心理が民衆の中にあり、その像を具体的に作り上げて行く動きが、いったん走り出すと停らなかった。まず心から信じるには到らなくても、語りぐさとして受け容れる層が存在したことが、このような無責任な伝聞を事実誇らしい形で発展させたことは常陸坊海尊の場合も同様であった。

   《引用終了》

谷川士淸の言葉の中の「老棍」とは老いたる悪漢、無頼の徒の意。

・「御書院與力」御書院番配下の与力。御書院番は若年寄に属して江戸城警護・将軍外出時の護衛・駿府在番などの他、儀式時には将軍の給仕を御小性と交替で当たった。十組程度(当初は四組)の編成で各組に番頭六人・組頭一人(千石高)・組衆五十人・与力十騎・同心二十人を置いた。同与力は玄関前御門の警備に当った。

・「石川貞通」底本の鈴木氏は、『天明五年(二十七歳)家督。四千五百二十石。寛政十年御小性組頭』とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「石川」を『石河』とし、長谷川氏は『いしこ』とルビを振ってあり、注では『文化四年(一八〇七)書院番頭、五年御留守居』とある。「新訂寛政重修諸家譜」によると、「石河」が正しいようである。天明五年は西暦一七八五年、寛政十年は一七九八年でこれが同一人物であるとすると、文化四年には五十九歳となるが、備中伊東氏系図で生年を計算してみると、備中岡田藩の第六代藩主であった石河貞通の父伊東長丘(ながおか)の生年は元禄一〇(一六九七)年であるから、天明五(一七八五)年に二十七歳とすると、鈴木氏の言う「石川貞通」の方の生年は宝暦九(一七五九)年、父伊東長丘が六十二歳の時の子供ということになる。考えられないことではないが、長谷川氏の役職も一致するものがなく、これはどう考えても同一人物ではあるまい。訳ではあり得そうな「石河貞通」を採用した。

・「文化の比」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏である。この話が直近の都市伝説であることが分かる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 驚異の長寿で知られた志賀随翁の奇体な評言の事

 

 書院番番頭であらせらるる石河(いしこ)壱岐守貞通殿の組の、御書院番与力の廣瀨大介と申す者、この文化の初年頃には八十歳余りであったと存ずる。

 昨今、世の中にて長寿の人と申さば、志賀隨翁のことがしばしば人の噂に登るが、この大介、幼年の砌り、京都建仁寺にて、その随翁に実際に逢(お)うたことがあると申す。

 その折り、随翁は大介に向かい合って、凝っと彼の顔を見ておったが、そのうちやおら、

「――この小児は長寿の相、これあり。――然れども美食や女色と申す不養生を致いたならば――これ、天命を全うすることは――出来ぬ。――」

と語った、とは、これ、その大介自身の話の由。

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