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2013/09/07

飛盡す鳥ひとつづつ秋の暮 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   飛盡す鳥ひとつづつ秋の暮

 

 芭蕉の名句「何にこの師走の町へ行く鴉」には遠く及ばず、同じ蕪村の句「麥秋や何に驚く屋根の鷄」にも劣つて居るが、やはりこれにも蕪村の蕪村らしいポエヂイが現れて居り、捨てがたい俳句である。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「秋の部」より。朔太郎の芭蕉「何にこの師走の町へ行く鴉」についての評釈は「芭蕉私見」のこの評釈を参照されたい。蕪村の「麥秋や何に驚く屋根の鷄」については先行する「夏の部」で以下のように評釈している。

 

   麥秋(むぎあき)や何におどろく屋根の鷄(とり)

 

 農家の屋根の上に飛びあがちて、けたたましく啼いてる鷄は、何に驚いたのであらう。その屋根の上から、刈入時の田舍の自然が、眺望を越えて遠くひろがつて居るのである。空には秋のやうな日が照り渡つて、地上には麥が實り、大鎌や小鎌を持つた農夫たちが、至るところの畑の中で、戰爭のやうに忙がしく働いて居る。そして畔道には、麥を積んだ車が通り、後から後からと、列を作つて行くのである。――かうした刈入時の田舍の自然と、收穫に忙しい勞働の人生とが、屋根の上に飛びあがつた一羽の鷄の主觀の影に、茫洋として意味深く展開されて居るのである。

 

ただ、私は寧ろ、芭蕉の「何にこの師走の町へ行く鴉」にはやや及ばぬものの、それを如何にも見え透いた形でインスパイアした蕪村の「麥秋や何に驚く屋根の鷄」よりも遙かにこの句の方がよいと思う。「何にこの師走の町へ行く鴉」がワンショットで広角のパンフォーカス、分るか分からないかというスローモーションの長回しであるのに対して、この「飛盡す鳥ひとつづつ秋の暮」はカット・バックで望遠も入り、時に早回しを感じさせるようなフラッシュ・バックもあって、「何にこの」を正しく換骨奪胎して余りある佳品と考えるからである。謂わば、芭蕉の「何にこの」はジョン・フォードか黒沢明の写真であり、蕪村の「麥秋や」はそれを模倣したに過ぎない凡百の現生映画監督のカメラ・ワークに過ぎぬのに対して、「飛盡す」の句は黒沢を尊敬した映像詩人アンドレイ・タルコフスキーのスカルプテイング・イン・タイムの映像に類似すると言えよう。]

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