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2013/10/31

孤獨の箱のなかから――おぼえがき―― 大手拓次

  孤獨の箱のなかから

        おぼえがき

 

               大 手 拓 次

 

 わたしは ながいあひだ蝸牛のやうにひとつの箱のなかにひそんでゐた。ひとりで泡をふいてゐた。さうして、わたしのべとべとな血みどろの手が、ただひとり人 北原白秋氏にむかつて快くさしのべられた。白秋氏のみえない手がつねにわたしの指にさはつた。「ザムボア」に、「地上巡禮」に「ARS」に、「詩と音樂」に、そしてまた「近代風景」に、ちやうど大正元年から今まで十五年といふ長い間、わたしは常に白秋氏のあたたかき手のうちにあつた。そのあたたかき手にわたしは育てられたのである。

 しかも、このながい十五年のとしつきのあひだ、わたしはただの一度も白秋氏をおとづれはしなかつた。未知の戀人をおもふやうにたえず氏を思ひつつ、一度もおとづれることができなかつた。なんといふ内氣な、はにかみやの、氣むづかしい、けつぺきな、ぴりぴりとあをじろい神經のふるへるわがまま者だつたのであらう。けれども、わたしの心のすべては私の詩を通じて氏にひらかれてゐたのである。

 わたしは涙のあふれるやうな敬愛の情をたたへながらも、さびしくものおとのしない孤獨の箱のなかにとぐろをまいてゐた。

 いんうつな心、くらい心、はげしい情熱のもどかしさ。まつたくその頃のわたしは、耳ののびる亡靈であつた。みどりの蛇であつた。めくらの蛙であつた。靑白い馬であつた。つんぼの犬であつた。笛をふく墓鬼であつた。しばられた鳥であつた。

 わたしの憂鬱は本質的でどうともすることが出來なかつた。自然にこのうすぐらい花が散つてゆくのを待つよりほかはなかつた。

 白秋氏のやはらかい手はどんなに私にとつてうれしかつたか。

 うれしくなればなるほど蝸牛は角をかくし、蛇はとぐろをまいた。

 まだごのあひだにあつて、萩原朔太郎氏は、ときどき火花のやうな熱情のこもつた友愛を私にしめしてくだすつた。

 さらに、大木惇夫氏にはなにやかやいろいろおほねをりにあづかつてゐる。こんど、白秋氏をおたづねするやうになつたのも、氏があつたればこそである。

 わたしボオドレエルといふ古風な黄色いランプをともして、ひとりとぼとぼとあるいてきたのであつた。その孤獨の道に、みどり色のあかるいみちびきの光をともして下すつたのが白秋氏である。十五年といふ長いあひだである。おもふさへ、うれしくなる。ありがたくなる。

 この詩集の刊行は、白秋氏のひとかたならぬ御配慮にあづかつたたまものである。ここに護しんで御禮申上げます。

 詩の選擇も、自分としてはすゐぶん思かきつてしたつもりである。私の初期に屬する吉川惣一郎の名で發表したものは大部分とり、「詩と音樂」時代のものは、駄作が多いので、四分の一ぐらゐにすててしまつた。また、をりがあつたら、惡いのをすててゆかうと思つてゐる。詩の排列は凡て年代順にしてある。

[やぶちゃん注:以下の詩群の後の解説は底本ではポイント落ちで全体が二字下げである。詠み易くするために各詩群の間に一行空きを入れた。]

 

 陶器の鴉

大正元年秋から大正二年末までの作品で、吉川惣一郎の名のもとに「ザムボア」及び「創作」に載つたものである。

 

 球形の鬼

私の最も窮迫した時代大正三年頃の作で、やはり吉川惣一郎の名で、「地上巡禮」に載つたものである。

 

 濕氣の小鳥

大正四、五、六年頃の作品で、そのうち「朱の搖椅子」から「むらがる手」までは「ARS」に載つたものである。

 

 黄色い帽子の蛇

大正七、八、九年頃の作品で、「無言の歌」及び「あをちどり」に載つたもの、「詩と音樂」に載つたものである。

 

 香料の顏寄せ

大正九、十年頃の作品で、「詩と音樂」に載つたほかは、未發表のものである。

 

 白い狼

大正十年の作品、即ち私の病氣中の作である。「詩と音樂」に載つたもののほかは、未發表のものである。

 

 木製の人魚

大正十年、十二年の作品で、すべて「詩と音樂」に載つたもののみである。

 

 みどりの薔薇

大正十二年の作品で、うち四、五篇をのぞいて、他は凡て「詩と音樂」に載つたものである。

 

 風のなかに巣をくふ小鳥

大正十二年の作品で、「詩情」及び「日光」に載つたものなどがある。

 

 莟から莟へあるいてゆく

大正十四、五年の作品で、「詩と音樂」「日光」「アルス・グラフ」「近代風景」に載つたものである。

 

 黄色い接吻

昭和二、三、四年の作品で、「近代風景」に載つたものである。

 

 みづのほとりの姿

昭和七年病氣療養のたの伊豆山温泉に行つた前後及び八年南湖院に入院して書いたもの、このうち「そよぐ幻影」が八年八月の「中央公論」に載つたほかは未發表のものである。

 

 薔薇の散策

作品として最後のものである。

 

 散文詩

綠の暗さから・琅玕の片足・帽子の谷 は大正元年の作で未發表のものである。

二ひきの幽靈・木造車の旅 は大正二年の作で未發表のものである。

狂人の音樂・あをい冠をつけて は大正三年の作で、未發表のものである。

暗のなかで は大正四年の作で、未發表のものである。

愛戀する惡の華 は大正六年作で、未發表のものである。

言藁の香氣・白い鳥の影を追うて・香水夜話 は以上大正三年の作で、未發表のものである。

噴水の上に眠るものの聲 は大正十五年の作、「近代風景」に載つたものである。

日食する燕は明暗へ急ぐ は昭和二年の作で、「近代風景」に載つたものである。

綠色の馬に乘つて は昭和三年の作で、「近代風景」に載つたものである。

無爲の世界の相に就いて は昭和五年の作で、未發表のものである。

 

[やぶちゃん注:「散文詩」の項の二行目は底本では「二ひきの幽靈・木造車の旅は 大正二年の作で未發表のものである。となっているが誤植として訂した。

「大木惇夫」(おおきあつお 明治二八(一八九五)年~昭和五二(一九七七)年)は翻訳家・詩人。昭和七(一九三二)年までは大木篤夫と名乗っていた。広島生。太平洋戦争中の各種戦争詩や軍歌・戦時歌謡で有名だが、児童文学作品の他、「国境の町」などの歌謡曲や「大地讃頌」を始めとした合唱曲及び社歌・校歌・自治体歌等の作詞も多く手掛けた。青年期に文学者を志し、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)の学生時代より与謝野晶子・吉井勇・若山牧水らの短歌に感化されて短歌を始めが、その後、三木露風や北原白秋の詩を知り、特に白秋に深い感銘を受けたという。学校卒業後は一時、銀行に勤めたが文学への志向止み難く、二十歳で上京、博文館で働きながら文学活動を行った。またこの頃、キリスト教の受洗も受けている。その後、同棲している女性の肺結核療養のため、博文館を辞めて小田原に引っ越し、文筆活動に専念したが、これが契機となって、当時、小田原に在住していた北原白秋の知遇を得、大正一一(一九二二)年に、大手拓次の詩の発表の舞台ともなった白秋・山田耕筰編の雑誌『詩と音楽』創刊号に初めて詩を発表した。大正一四(一九二四)年にはジョバンニ・パピーニ「基督の生涯」の翻訳をアルスから出版してベスト・セラーになるとともに、処女詩集「風・光・木の葉」を白秋序文附きで同じくアルスから出版、その後も一貫して詩人として白秋と行動をともにした。昭和一〇~一五(一九三〇年代後半)から歌謡曲の作詞も手掛けるようになり、一世を風靡した東海林太郎の「国境の町」の他、「夜明けの唄」「隣の八重ちゃん」「八丈舟唄」「雪のふるさと」などを作詞、また知られたスコットランド民謡「麦畑」(誰かさんと誰かさんが)(伊藤武雄共訳)他の訳詞から軍歌・社歌、山田とのコンビで多くの校歌も多数残す。太平洋戦争が始まると徴用を受け、海軍宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属された。バンダム湾敵前上陸の際には乗っていた船が沈没したため、同行の大宅壮一や横山隆一と共に海に飛び込み漂流するという経験もした。この際の経験を基に作られた詩を集めてジャカルタで現地出版された詩集「海原にありて歌へる」(昭和一七(一九四二)年アジアラヤ出版部刊)に日本の戦争文学の最高峰とも称され、前線の将兵に愛誦された「言ふなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを……」の詩句で知られた「戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。」が掲載されている。彼はこの詩集で日本文学報国会の大東亜文学賞を受賞、同時に作品の依頼が殺到した。この国家的要請に対して大木は誠実に応じ、詩集「豊旗雲」「神々のあけぼの」「雲と椰子」や従軍記・国策映画用音曲の作詞・各新聞社が国威発揚のためにこぞって作成した歌曲の作詞等をも行ったが(その一方で序文以外には殆ど戦時色の感じられぬ詩集「日本の花」も編集している)、戦争末期になると過労が祟って身体精神共に不調となり、福島に疎開して終戦を迎えた。戦後は一転、戦時中の愛国詩などによって非難を浴びて戦争協力者として文壇から疎外された。参照したウィキ大木惇夫によれば、『戦争中、大木をもてはやした文学者やマスコミは彼を徹底的に無視し、窮迫と沈黙の日が続いた。そのため、戦後は一部の心ある出版社から作品を出版しながら、校歌の作詞等をして生涯を過ごした』。『ただ、石垣りんの項目にあるように、新日本文学会の重鎮のひとりであった壺井繁治とともに、銀行員の詩集の選者をつとめているということもあるので、戦後の活動の全体像についてはなおも検証が必要である』とし、『大木惇夫は太平洋戦争(大東亜戦争)中、海軍の徴用を受けて従軍し、その経験を基に作詩をした。また、帰国後も国家やマスコミの要請に応じて、多数の作品を作った。このような戦争協力は大木だけでなく、当時の文学者や芸術家の多くが当然の行為として行ったことである。また、大木は戦争詩を作ったことで多数の栄誉を受けているが、これは純粋に作品が評価されたためのことであり、これは今日でもその戦争詩の一部が高い評価を受けていることでも証明される。また、大木自身が戦時中に特権を求めるような行為をした形跡は無く、むしろ、終戦前には過労からノイローゼに近い状態にすらなっている』。『終戦後の文壇やマスコミは大木を徹底して無視、疎外し、反論の機会すら与えずに詩壇から抹殺しようとした』。『大木自身も戦争中の活動を『はりきり過ぎた』と指摘されたことに対し『顔から火が出るほど恥ずかしかった。』としているが、これは自分の行為や詩そのものを否定するものではない。『(前略)堂々とわたしをやっつける人がなくて、すべて私を黙殺してゐるから、その向きに対しても、私は答へる術を知らないのである。』と述べている』。『戦後の一時期、著しく左傾化した文壇で行われた迫害行為から、大木は完全に復権したとはいえない。このことはソビエトでボリス・パステルナークが政府から迫害された際に、自由主義の各国で非難の声が上がったにもかかわらず、日本では文壇が全く反応をしなかったことなどと共に、戦後日本文学史の政治的な汚点の一つともされる』。しかし、昭和三六(一九六一)年には『依頼により作成した「鎮魂歌・御霊よ地下に哭くなかれ」の詩碑が故郷である広島市の平和記念公園に建てられるなど、日本国民の評価は文壇やマスコミとは明らかに異なっていた』とある。なかなか骨のあるウィキ記載であると私は思う。]

耳嚢 巻之七 加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事

 加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事

  わするなと人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも

□やぶちゃん注
○前項連関:和歌譚二連発。本話は珍しく、本文なしの和歌のみの提示であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、以下の前書がある(正字化し、ルビも歴史的仮名遣に直した)。
   *
 享和・文化の頃、地下(ぢげ)の歌よみと云はれ、宮方の家禮(かれい)なりし加川陸奥介娘を外へ嫁せし時詠(よ)めるよし。
   *
訳では特別にこれの部分を挿入して訳した。この文中の「地下」は清涼殿殿上の間に昇殿することを許されていない官人の総称、またはその家柄を指す。メッセンジャー・ボーイとして殿上人とされた六位の蔵人を除く、六位以下総ての下級官吏総てを指す。地下人。反対語は「堂上(とうしょう)」。
・「加川陸奧介」俗称香川陸奥介を名乗ったのは香川景樹の子で公卿徳大寺家に仕え、父の創始した桂園派を嗣いだ幕末の歌人香川景恒(かがわかげつね 文政六(一八二三)年~慶応元(一八六六)年)であるが、御覧の通り、時代が合わない。岩波の長谷川氏注(底本では鈴木氏は何故か注しておられない)ではこれは根岸と同時代人(但し、景樹の方が三十一も年下ではある)であった景樹本人のことと推定しておられる(但し、そこには『景樹は長門介後に肥後守』で「陸奥介」であったことはないことが示されてある)。それに従う。歌人香川景樹(明和五(一七六八)年天保一四(一八四三)年)は国鳥取藩士荒井小三次次男であったが七歳の時に父を亡くして一家離散し、母の姉の夫奥村新右衛門定賢に預けられた。幼くして和歌を清水貞固に学び、儒学にも志があった。寛政五(一七九三)年に出奔して京都に出た(この時には滝川某の娘包子を伴っており、出奔にはその恋愛が絡んでいるともされる)。苦学を続けるうち、寛政八年に二条派地下歌人で徳大寺家出仕の梅月堂香川景柄に夫婦養子入りをした。この時、名を景徳、更に景樹と改め、通称を式部と称して徳大寺家の家士となり、堂上の歌会に出席するようになる。やがて「調べ」を重んじて堂上派と相容れない新しい歌風を主張し始め、しかも景樹は「大天狗」とも称されるほどの高慢で自信過剰な振舞いをしたため、京の旧派や江戸歌壇は一斉に反発、文化元(一八〇四)年には梅月堂と離縁した(但し、香川姓を名乗り続けることが許される程度の円満な独立ではあった)。後、景樹の元には門人が次第に集まり、新しい一大勢力として桂園派を形成するに至った。文化八年には賀茂真淵の「新学」を論駁する「新学異見」を脱稿して復古主義派を攻撃、さらに文政元(一八一八)年には江戸進出も企てたが失敗に終わった。画期的といわれる歌論は小沢蘆庵の「ただこと歌」の影響を受けたもので、天地自然に根ざした本来的な誠・真情を素直に表出した時、歌は自ずから「しらべ」を持つというもので、実作もまた清新である(以上は「朝日日本歴史人物事典」の解説に拠った)。この直後に「享和・文化の頃」とあり、これは西暦一八〇一年~一八一八年になるが、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、そこを下限とすると、景樹満三十三~三十八歳の時のエピソードということになる。
・「家禮」家令。皇族や華族の家筋の家で事務・会計を管理し、使用人の監督に当たった者。
・「わするなと人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも」「わするなと」底本では「と」の右に『(よカ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「わするなよ」。訳でもそれを採用した。
  わするなよ人にしたがふみちの奧(く)のけふの細布(ほそぬの)むねあわずとも
「みちの奥(く)」に地名「陸奥」と「(夫婦人倫の)道」を掛ける。「けふ」は「今日」(の婚姻)と「狹布(けふ)」を掛ける。「狹布」は現代音「きょう」で、古代に於いて奥州から調・庸の代わりとして貢納された幅を狭く織った白色の麻布のことをいう。狭い布であるから「胸合はず」胸元へ届くことなく合わぬという意を、相手の夫との心(胸)がうまく「合は」ないという意を掛けてある。勝手な私の解釈を示しておく。
――忘れてはいかんぞ……妻として夫へつき従うところの道を――今日(きょう)を限りとして我が家を出でて嫁に行ったとならば――たとえ陸奥(みちのく)の狹布(きょう)のように幅狭き故に胸元で合わせることが出来ぬほどに――夫の心に対して胸内に齟齬を覚えたとしても……決してそれを面に出だいてはならぬ……凝っと耐えて堪(こら)えて夫の心に従う――それが妻の道じゃ……

■やぶちゃん現代語訳

 歌人加川陸奧介(かがわむつのすけ)殿が娘を嫁した折りの歌の事

 享和・文化の頃、地下(じげ)の歌詠みと言われ、宮方徳大寺家の家令となった加川陸奥介殿が、娘を外へ嫁すとなった時に、詠んだと申す和歌。

  わするなよ人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも

中島敦 南洋日記 十月四日(土)

        十月四日(土) ボナペ

 朝六時半より公學校。長校長と一時間語る。二時間目、三時間目と授業參觀、後、國民學校へ行く。二時乘込、四時出帆。ボナペの土民富豪ナンペーの長男、姪二人を連れて乘船。色は多少黑けれど、西洋人に似たり。

[やぶちゃん注:「長校長」の「長」は姓か。

 この日附の桓宛の六通の書簡(内、四通は絵葉書で総て正規に投函されたもの)を以下に示す。

   *

〇十月四日附(ボナペで。)

 ヤルートから、こんどはぎやくに、西へ西へとかへつて來ます。

 そのとちゆうで、又ボナペによりました。この前來たときは、まだ小さかつたはたけなつぱが、もうずゐぶん大きくなつてゐました。

 南洋は、草木ののびるのが早いのです。

   *

〇十月四日附(消印トラック郵便局16・10・6。ボナペで。鳳梨果(パイナップルの漢名)の絵葉書。旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号四三)

 これは パイナップルばたけ。おいしさうだね。南洋では、パイナップル のかんづめなんか たべません。はたけから、とつて來たのを すぐ、たべるのです。

   *

〇十月四日附(消印トラック郵便局16・10・6。ボナペで。椰子蟹の生態の絵葉書。旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号四四)

 これは ヤシガニ。ヤシの木に上つて ヤシのをはさみで 切(き)つて 落(おと)して たべる カニ です。

 このは ヤシの 根(ね)の所(ところ)にゐるところ。

 ヤシガニ を たべると、とてもおいしいさうです。

   *

「ヤシガニ」十脚(エビ)目エビ亜目ヤドカリ下目ヤドカリ上科オカヤドカリ科ヤシガニ Birgus latro。陸生甲殻類中の最大種。分類でお分かりのようにヤドカリの一種である。日本ではヤシガニのその名前や言い伝えから「椰子の木に登って椰子の実を落として食べる蟹」としてのイメージが定着している(実際、少年期に貪るように読んだ複数の魚貝図鑑には、必ずといっていいほど、椰子の木を登るヤシガニの図が配されてあったものだった)が、実際にはヤシガニは口に入るものなら腐肉でも食べる雑食性で、必ずしもその主食を椰子の実としている訳ではない。また、椰子の実を食すことは確かだが(私も映像で、あの硬い繊維質の椰子の実を辛抱強く、あの巨大な鋏を器用に用いて切り裂くいてゆくのを見たことはある)、実を切り落とすために木に登る習性も確認されておらず、これらは口述伝承が独り歩きして生まれた全くの誤解である。英名では“Palm Thief”(椰子泥棒)の他、銀食器や鍋などの光沢のある金属製品を持ち去る習性があるところから“Robber Crab”(泥棒蟹)などと呼ばれることもある。若いヤシガニは貝殻の中にその身を隠すこともある。参照したウィキヤシガニ」によれば、『生息域がインド洋の最西端からミクロネシアまで広がっているため、様々な名前で知られており、グアムではアユユと呼ばれ、その他の地域ではウンガ、カヴュ等と呼ばれることがある。また、生息する地域により様々な色をしており、明るい紫色から茶色まである』とある。その生態は『』雄は雌より大きく体長は40センチメートルを超え、脚を広げると1メートル以上にもなり、4キログラム以上に成長する。タカアシガニには及ばないものの、最大級の大きさである。寿命は50年程度と考えられている。ヤシガニの体は、大きく分けると頭胸部と腹部に分けることができ、10の肢を持つ。2本の前肢は、巨大なハサミになっており、30キログラム近くのものを持ち上げることができる。次の3対の肢は小さなハサミになっており、陸上歩行に適した形になっている。また、垂直にヤシの木を登ることも出来る。沖縄においてよく目撃されるのは、アダンの木に登ることである。木に登るときも降りるときも、頭を上に向けている。また、これらの肢は食べ物を扱うことが出来る。最後の対は非常に小さく、歩行ではなくえらの掃除に使われる。この肢は折りたたまれて鰓室の中に入っているため、外部からは見えない』。『ヤシガニはヤドカリの仲間ではあるが、その大きさのため成体は体に見合う大きさの貝殻を見つけることは困難である。若いヤシガニは、カタツムリの殻などを用い、成長するにつれて、ヤシの実などを使うこともある。他のヤドカリとは違い、成体は腹部がキチン質や石灰質でおおわれ硬く、カニのように尾を体の下に隠すことで身を守る。腹部が硬い物質でおおわれていることで、地上でくらすことによる水分の蒸発を防ぐ。しかし、定期的に腹部を脱皮する必要があり、再び腹部が硬くなるまでは30日ほどかかる。この間、ヤシガニは身を隠す』。『ヤシガニは地下にハサミを使って掘った穴や岩の割れ目を住処とする。日中は天敵と直射日光を避けるために穴の中に隠れており、雨や霧の日でないかぎり外に出ることを避ける。ただし生息数が多い地域では、日中にも食べ物を探しに現れることもある。巣の中で休んでいる時は、入り口をハサミでふさぎ、巣の中の環境を一定に保つようにする。ヤシガニはほぼ陸上生活に適応しているため、海岸線から6キロメートル以上も離れたところで発見されたこともある』。『ヤシガニは成長すると産卵時を除いて水に入る事はない。また、まったく泳ぐことができないため、波打ち際までしか入ることができず、水の中ではおぼれる』。以下、生殖の項。『ヤシガニは5月から9月の間に陸上で頻繁に交尾を繰り返す。7月と8月に繁殖はピークを迎える。雄と雌は交尾のためにもみ合い、雄は雌を仰向けにして交尾を行う。全ての行為は15分ほどかかる。交尾後間もなく、雌は自分の腹部の裏側に卵を産み付ける。雌は数ヶ月間卵を抱えたまま生活し、10月か11月の満潮時、いっせいに孵化したゾエアと呼ばれる幼生を放出する』。『幼生は28日ほど海中をただようが、その間に大部分は他の動物に捕食される。その後海底に降りてヤドカリのように貝殻を背負ってさらに28日ほど成長を続けながら海岸を目指す。上陸後は水中で生活できる機能を失う。繁殖ができるようになるまでには4年から8年かかるとされ、甲殻類の中では例外的に長い期間である』。以下、分布域の項。『ヤシガニはインド洋と西太平洋に生息している。インド洋ではクリスマス島が最も保護されたヤシガニの生態系を維持しており、セーシェル共和国の島々、アルダブラ、グロリウス、アストーヴ、アサンプション、コスモレドに生息している。西太平洋のクック諸島のプカプカ、スワロウ、マンガイア、タクテア、マウケ、アティウ、それにパルマーストン等の島にも生息している。生息域には、ところどころに大きな空白部分があり、例えばボルネオ島やインドネシアの大部分、それにニューギニアなどには生息していない。また、セーシェル諸島でも本島のマヘ島には生息していない。これは、島の住人によってヤシガニが食べつくされた結果である』。『成体は泳いで海を渡ることが出来ないため、幼生体として海にただよう間に他の島々にたどり着いたとされている。しかし、28日間の幼生期の間に全ての島に到達することは不可能であると考える人もおり、漂流物に乗って他の島にたどり着いたのではないかと』考える学者もいる。『日本でも沖縄、宮古、八重山の各諸島にも生息する。近年では、沖縄本島で絶滅したとされていたが、実際は本島全域で姿が確認されている。小笠原諸島でも稀に見つかることがあるが、繁殖はしていないと考えられている。人間による捕殺や道路整備による轢殺により生息数が急激に減少しているため、レッドデータブック絶滅危惧II類に分類されている。しかし、近年の沖縄食ブームにより、食用目的の乱獲が続いている。国家レベルの絶滅危惧種でありながら、乱獲の統制がほぼ全く行なわれていないまれな種でもある』。『ただし地方自治体レベルでは、沖縄県多良間村でヤシガニの乱獲を防ぐことを目的とした「多良間村ヤシガニ(マクガン)保護条例」が制定されており、繁殖期の捕殺について罰則付きで禁じている』。『太平洋の島々では高級食材の一種で、回春薬であるとされている。雌の卵と腹部の脂肪分は特に重宝されている。ロブスターのように茹でたり蒸したりして食べる。島によって調理法は様々で、ココナッツミルクで茹でる地域もある。日本では、沖縄県の一部地域でヤシガニを食べる習慣がある』が、ここで問題なのは毒化する個体があることである。『ヤシガニそのものに毒性はないが、ヤシガニが食べたものによっては毒を蓄えることがあり、宮古島以南でヤシガニにより中毒した例が報告されている。中毒症状は嘔吐・吐き気・手足の痺れなど。死亡例もある。そのため、素人が野生種を捕まえて自ら調理することは大変危険である』。『この毒は沖縄にも自生する樹木・ハスノハギリ Hernandia nymphaefolia の果実に由来すると考えられており、これによりなぜ一部のヤシガニだけが毒を持つか説明がつく。ヤシガニは腐敗物、死肉、時には人間の出した生ゴミまで食べている食性から、体内に有害な病原菌やウイルスを取り込んでいる。そのため調理したヤシガニの生息環境によっては、病原性の食中毒を起こすとされている。まだ研究が進んでいないがヤシガニの食中毒はシガテラ毒が原因で有る可能性も指摘されている』(ハスノハギリ Hernandia nymphaefolia の果実に含まれる有毒成分はポドフィロトキシンといい、嘔吐・下痢・関節痛等を引き起こす。また「シガテラ」は、熱帯の海洋に生息するプランクトンが産生する毒素に汚染された魚介類を摂取することで発生する食中毒及びその毒成分の通称で、多くは Gambierdiscus toxicus などの有毒渦鞭毛藻(クロムアルベオラータ界アルベオラータ亜界渦鞭毛虫門渦鞭毛藻綱に属する細胞表面の縦横の溝と二本の鞭毛を持った単細胞藻類の内で毒素を産生する能力を持った一群)が原因であることが多い。なお「シガテラ」の呼称は、キューバに移住したスペイン人が、この地方で「シガ」(cigua)と呼ばれる巻貝(腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科チャウダーガイ Cittarium pica)による食中毒の事を “ciguatera”と呼んだことに由来する。ここはウィキシガテラ」を参考にした)『沖縄では、毒を持ったヤシガニは茹でても赤くならないという迷信がある。料理店では、赤くならないヤシガニを廃棄するため安全だと説明している。しかし赤く変色するヤシガニが安全であるという科学的根拠はない。甲殻類を加熱すると赤くなるのは甲羅に含まれるカロチノイド系色素のアスタキサンチンの反応』であって、『毒の有無とは関連性がなく毒を持っていても茹でれば赤くなる』。『ヤシガニは絶滅危惧種であるが、日本では捕殺に制限はなく自由に行える(グアムなど海外では密漁を防ぐため禁漁期間や狩猟可能な時間が定められている国・地域もあり、違反すれば処罰の対象となる)』。『ヤシガニは月の出ていない夜に懐中電灯を持って探すのがよい。逃げ足は速く後ろ向きに逃げ出すが、懐中電灯で照らすと驚いて動きを止める。その時、布切れをヤシガニに被せて、鋏を噛ませると安全に捕獲できる。一般的には新月の三日後が良いとされる。日中にヤシガニを捕らえることも出来るが、穴から掘り出すか煙でいぶりだす必要がある。ヤシの実に火をつけると、その匂いによってヤシガニが集まってくるとも報告されている』。『ヤシガニの鋏脚の力は非常に強力で、プラスチック製のボールペンや万年筆等を容易に切断する。当然、人が指などを挟まれれば切断されるおそれもあるので充分注意しなくてはならない。ヤシガニのハサミは長いが、背部には届かないので比較的小さな個体なら、カニのように背を持てば安全に持つ事も可能だが、大きな個体では持ちきれない。ハサミを抑えつけると、今度は脚の鋭い爪で引っ掻くので、裂傷の原因となるため注意』(以前に調べたところではヤシガニの鋏は想像以上に協力で鋭く、その切創も深く、指の切断及び雑菌の侵入による重篤化の例もあったやに記憶している)。

   *

〇十月四日附(消印トラック郵便局16・10・6。ボナペで。ボナペ島民の踊りの絵葉書。旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号四五)

 をどる人 が ずゐぶん たくさん ゐるだらう? 何人(なんにん)ゐるか、かぞへてごらん。

 をどりの一番上手(ばんじやうず)なのは、ボナペではなくて、ヤップといふ島の土人たちです。

   *

〇十月四日附(消印トラック郵便局16・10・6。ボナペで。『石燒の實況』の絵葉書。旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号四七)

「石やき」といふ 土人のおりやうり。石をやいておいてから、そのあつい石で、ぶたにはとりパンのみをやきます。パンのみなんか、すぐ、やけるけど、ぶたの大きいのなんか 八じかん もかかります。ぶた一ぴき そのまま 燒(や)くのですよ。

   *

〇十月四日附(ボナベで。)

 この間は、靑(あを)いバナナをたべました。靑(あを)くても、よく熟(じゆく)してゐる、めづらしいバナナです。南洋でもめづらしい種類(しゆるい)のバナナです。

 クサイでは、オレンヂをたくさんたべました。

   *

ミクロネシアには現在五〇〇近いバナナの品種があると聴くが、管見したところでは青い完熟バナナの記載はない。識者の御教授を乞うものである。]

古寺やほうろく捨つる芹の中 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   古寺やほうろく捨つる芹の中

 荒廢した寺の裏庭に、芥捨場のやうな空地がある。そこには笹竹や芹などの雜草が生え、塵芥にまみれて捨てられてる、我樂多の瀨戸物などの破片の上に、晩春の日だまりが力なく漂つて居るのである。前の句と同じく、或る荒寥とした、心の隅の寂しさを感じさせる句であるが、その「寂しさ」は、勿論厭世の寂しさではなく、また芭蕉の寂びしさともちがつて居る。前の句やこの句に現はれてゐる蕪村のポエジイには、やはり彼の句と同じく人間生活の家郷に對する無限の思慕と郷愁(侘しさ)が内在して居る。それが裏街の芥捨場や、雜草の生える埋立地で、詩人の心を低徊させ、人間生活の廢跡に對する或る種の物侘しい、人なつかしい、晩春の日和のやうな、アンニユイに似た孤獨の詩情を抱かせるのである。
 因に、この句の「捨つる」は、文法上からは現在の動作を示す言葉であるが、ここでは過去完了として、既に前から捨ててある意味として解すべきでせう。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。「ほうろく」の仮名遣は「はうろく」が正しいが、蕪村自身がかく記しているのでママとした。「芭蕉の寂びしさ」の「寂びしさ」はママ。「ほうろく」は「焙烙」で『一般的には』、低温で素焼きされた平たい土鍋指し、炒鍋(いりなべ)ともいう。朔太郎も諸注もこれをただ、『日常的に捨てられた日用品の鍋としての焙烙』と採っているようだが、そうだろうか? これは夏の土用の時期に日蓮宗の寺院で行われることの多い日蓮宗の修法行事である『ほうろく灸に用いられた焙烙』(素焼きの皿のような形状を成すものが多い)が捨てられているのではあるまいか? 私は一読、そのように読んだ。「ほうろく灸」は酉の市の寺として知られる浅草長国寺を始めとして江戸時代から現在まで続けられている呪(まじな)いで、頭に素焼きの「ほうろく」を笠のように被せて、その上に火の点いた艾(もぐさ)を乗せて祈禱を行うと、頭痛封じや夏負けなど、無病息災の『有り難い』ご利益を得ることが出来ると喧伝されている。私は無論、その去年のほうろく灸で用いられた『有り難く霊験あらたかな』はずの焙烙が、皮肉にも法華宗の古刹の裏の、それも新緑の芹が生き生きと鮮やかに茂った(……私は昔、亡き母と今はなき裏山の池によく芹を採りにいったものだった……)泥池の中に、累々と無造作に投げ捨てられている(それらはまた土へと還ってゆく)という諧謔的観想をも、印象派的な春の陽射しの光景の中に描き込んだもののように感じている、ということである。大方の御批判を俟つものではある。]

閣に座して遠き蛙をきく夜哉 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   閣に座して遠き蛙をきく夜哉

「閣」といふので、相應眺望の廣い、見晴しの座敷を思はせる。情感深く、詩味に溢れた名句である。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。]

白菊の目に立てゝ見る塵もなし 芭蕉

本日二〇一三年十月三十一日

陰暦二〇一三年九月二十七日

 

白菊の目に立てゝ見る塵もなし

 

しら菊や目に立(たて)て見る※(ちり)もなし


[やぶちゃん字注:「※」=「土」+「分」。]

 

[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十七日の作。


第一句目は「笈日記」、第二句目は「矢矧堤」に拠る(初案かと思われるが真蹟の切れが伝存する)。支考の「追善日記(芭蕉翁追善之日記)」には、第一句目に『廿七日、園女が方にまねきおもふよし聞へければ、此日とゝのへて其家に會す』と前書して載せる。


 女流門人斯波園女(しばそのめ 寛文四(一六六四)年~享保一一(一七二六)年)は伊勢山田(現在の三重県伊勢市)の神官の子として生まれた。同地の医師斯波一有(別号:渭川(いせん))に嫁し、元禄三(一六九〇)年に芭蕉に師事、同五年には夫と大坂へ移住した。芭蕉没後
元禄一六(一七〇三)年に満三十九で夫と死別して未亡人となった。宝永二(一七〇五)年になって宝井其角を頼って江戸へ出て眼科医を業としながら江戸座の俳人と交わった。大阪時代が俳人としての活躍期で雑俳点者としても名が高かった。享保三(一七一八)年、剃髪して智鏡尼と号した。正徳年間に深川富岡八幡に三十六本の桜の植樹を寄進、『歌仙桜』の名で江戸庶民に親しまれた。編著に「菊のちり」「鶴の杖」(以上はウィキ斯波園女に拠る)。


 その園女亭での九吟歌仙の発句。眼前に咲く白菊に託して女主人の清楚な印象を讃えた挨拶句であるが、これが本歌として西行の「山家集」に載る、


  くもりなう鏡の上にゐる塵を目にたててみる世と思はばや


を元としていることを考えると、そこには一捻りがある。この一首は古来、難解とされてきたものであるが私は、


――この世というものは――仏道に帰依した者の曇りなき真澄の心の鏡の上にある――僅かな煩悩の塵をさえも――殊更に取り立てて批難したがる――誠心をも踏みにじる世の中に過ぎぬのだ――と無視したいと思うておる――


という意味に採っている。それを踏まえるとすれば、そうした微細な「目に立てゝ見る塵」さえも白菊にはおかれていない――この聖園女の清廉にして潔白な凛々く毅然とした崇高の女の美を芭蕉は透徹する。その時、芭蕉の心には直近の四月ほど前の元禄六年六月初めに亡くなった、生涯ただ一人愛した女壽貞の面影が重なったに相違ない(単なる直感に過ぎないが、幸(さち)薄き壽貞(生年未詳)の年齢は恐らく園女とあまり変わらなかったのではなかろうか)。そしてそれは、その追悼句である、

  數ならぬ身とな思ひそ玉祭り


と響き合うように私には思われる。「目に立てゝ見る塵もな」き庭前の「白菊」の光景は園女の面影をオーバ・ラップさせながら、同時に壽貞の霊魂の形象としてもあるように私は感じられるのである。]

鬼城句集 秋之部 掛煙草

掛煙草   荒壁の西日に掛けて煙草かな

 

      煙草かけて猫歸り來る夕陽かな

 

[やぶちゃん注:「掛煙草」「懸煙草」とも表記する。秋、収穫したタバコ(ナス目ナス科タバコ Nicotiana tabacum)の葉を、繩に挟んで屋内や軒先に吊るして乾燥させる作業若しくはその葉をいう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 8 帰京/貸本屋

 再びドクタア・マレーの款待に接し、半焼けのロースト・ビーフ、本当のバタ、それから佳良なパンの正餐の卓に向った時は悦しかった。ミルクもバタもチーズもパンも珈琲(コーヒー)もない――今迄もかつて無かった――国ということを考えるのには骨が折れる。日本人にとって、バタは極めて不味いので、彼等は菓子にせよ何にせよ、バタを入れてつくった食品を食うことが出来ない。

[やぶちゃん注:ここでモース一行は東京に帰着、加賀屋敷内十六番館のマレー東京大学文学学監の居宅に招かれてディナーの歓待(「款待」は同義同音)を受けたものと思われる。]

 

 帝国大学の動物学教授として招聘されて以来、私は夏期の実験所を計画し、学生九十名の級の為に課程を整え、博物館創立の計画に忙しく暮している。

 


M103
図―103

 

 大きな包を背負った人を、往来で屢々見ることがある。この包は青色の布で被われて、手風琴を思わせる。これは大きな書架……事実巡回図書館なのである。本はいたる処へ持って行かれる。そして日本には無教育ということがないので、本屋はあらゆる家へ行き、新しい本を残して古いのを持って帰る(図103)。

[やぶちゃん注:貸本屋である。山本笑月「明治世相百話」の「文化」の四「オツな商売貸本屋」にある「オツな商売貸本屋 草双紙から活版本の誕生時代」に(網迫電子テクストからコピー・ペースト、ルビは( )で示した)、

    《引用開始》

 双子の着物に盲縞の前かけ、己が背よりも高く細長い風呂敷包みを背負い込んで古風な貸本屋が、我々の家へも回って来たのは明治十五、六年まで。悠々と茶の間へ坐りこんで面白おかしくお家騒動や仇討物の荒筋を説明、お約束の封切と称する新刊物を始め、相手のお好みを狙って草双紙や読み本を、二、三種ずつ置いて行く。これが舟板べいの妾宅や花柳界、大店の奥向など当時の有閑マダムを上得意にしてちょっとオツな商売。

 稗史小説も追い追い明治物が新刊され、幼稚な石版画のボール表紙も目新しく、安物の兎屋本を始め、大川屋、辻岡、文永閣、共隆社、鶴声堂あたりの出版元から発兌(はつた)の新板小説がようやく流行、洋紙本の荷も重く、同時に草双紙や読み本のお好みも減って、背取りの貸本屋はボツボツ引退、代って居付きの貸本店が殖え、三十年前後まで市中諸所に貸本の看板、まだ大衆娯楽の少なかった時代、退屈凌ぎはこれに限ると一時は貸本大当り。

 明治になって合巻風の草双紙を初めて活版本にしたのは高畠藍泉の『巷説児手柏』、十二年に 京橋弥左衛門町の文永閣から出版、以来続々活版本の新刊、貸本屋向きは通俗の講談速記や探偵実話などで、五寸釘寅吉やピストル強盗の類に人気集中、薄汚れた厚紙の上表紙をつけたこれらの貸本は引っ張りだこで借りて行く。

 当時上野以外に図書館もない、随って学術参考書専門の貸本店も、神田本郷には数軒あった。学生相手に教科書や参考書、あらかじめ若干の保証金をいれておいて、返せば借覧料を差し引いてくれる便利な簡易図書館、名は忘れたが小川町五十稲荷の後ろにあった貸本屋は、この種の大店ですこぶる繁昌、二十二、三年頃には我々も足繁く通ったものだ。

   《引用終了》

とある。少し語注する。

・「双子」は「ふたこ」と読み、二本の単糸を撚り合わせた双子糸(諸糸(もろいと)・諸撚り糸とも)を用いて平織りにした綿織物。双糸(そうし)織りともいう。

・「兎屋」明治十年代から二十年代かけて新聞を利用した派手な出版広告と安売りで名を馳せた投機的な出版社で、明治二十年代になると地方出張販売も行っている(千代田図書館・大妻女子学国文会主催の大妻女子学文部日本科准教授木戸雄一氏による二〇一一年十月~十二月に千代田図書館の企画展示「書物と読者をつないだ明治期の販売目録―願クハ購求アランコトヲ―」のネット上データに拠った)

・「大川屋」浅草蔵前にあった赤本(明治時代の少年向きの講談本で口絵・表紙が赤を主とした極彩色のものが多かったことによる)屋の老舗である大川屋書店(店主大川錠吉)。参照した小川菊松「出版興亡五十年」(昭和二十八年刊。但し参照引用はよくお世話になっている甲南女子大学教授菊池真一氏の「講談資料」にあるものをコピー・ペースト)『「岩見重太郎」、「幡随院長兵衛」などの講談本や、黒岩涙香の「玉手箱」などを何百種も発行していた。私か大洋堂に丁稚奉公に入つた二、三日目から、この大川屋に毎日箱車を挽いて、この講談本を仕入に行かせられたものであるから、私にとつては一層感慨が深い。この大川屋は全国の貸本屋や絵草子屋等が華客で、地方からの注文も、一冊々々の書名を注文するのでなく、仇討物何種何冊とか、侠客もの何種何冊とかいう注文が多かったから、取揃えて刷つておくにも楽だつたそうである』。『さて、その当時の赤本即ち講談本等は、いくら位であつたかというと、菊判三色刷表紙三百頁近くのもので、一冊の卸値は僅に六、七銭であつた。これでは三銭の電車も何十冊分かの利益に当るわけだから、大川老人のテク主義も無理はないと思つたが、こんな零細な商いでも、全国を相手にこなすカズが大きかつたから、大川屋はウンと産を作つた。その頃の赤本屋仲間で聞えたのは春江屋、山口屋、日吉堂、今古堂、淡海堂、綱島等で、山口屋は「花井お梅」などの新講談に手を染め、今古堂は田山花袋の自然派小説「縁」などを発行したが、この面では成功しなかつた』。『赤本屋の大華客たる貸本屋も、明治時代には沢山あつて、横丁の奥にまで散在し、全国の都市でも、これを専業として成り立つていた。小説、講談、落語類が主で、新しい所では「不如帰」や浪六もの等の、紙表紙ものが多く、評判の高い小説は、布綴ものでも扱うようになつた。華客は近処の隠居、おかみ、理髪床、髪結さん、待合、芸者達、遊廓の花魁等で、いわば町の簡易図書館であつた』。『この貸本屋で一番大きくて名高かつたのは、神田駿河台下にあつた「いろは屋」で、ここには相当高級のものまで仕入れてあつたし、古い時代ものも沢山あつたから、小説作家はここへ材料探しに来たともいわれていた』。ここで山本笑月も小川菊松もともに全く同じ「簡易図書館」という語を用いている点、ここでのモースの謂い(原文“a circulating library”)と石川氏の「巡回図書館」という訳語が如何に的確であるかが分かる。

・「共隆社」明治十七(一八八四)年開業の東京橋区銀座二丁目六番地にあった出版元。

・「発兌」(通常は「はつだ」)書籍・新聞などを発行すること。この場合の「兌」は替えるの謂いではなく、通る、通ずるで「発行」の同義と思われる。

 また、三谷一馬「江戸商売図絵」(中央公論社一九九五年刊)の「貸本屋」には、江戸時代のそれは『「本屋さんは今日は休みか後ろ帯」の川柳があるように、荷物を背負うので、帯は後ろではむすばなかったらしい』とある。]

2013/10/30

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉

本日二〇一三年十月 三十日

陰暦二〇一三年九月二十六日

 

 

  旅懷

此秋は何で年よる雲に鳥

 

此秋は何にとしよる雲に鳥

 

[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十六日の作。

第一句目は「笈日記」、第二句目は「芭蕉句選」に拠る。竹人の「蕉翁全伝」には、『廿六日、新淸水彼方此方徘徊して』とあり、これだと前に掲げた句会の前に創られたものかとも読める。

 「笈日記」で支考は句に続けて、

 

此句はその朝より心に籠めて念じ申されしに、下の五文字、寸々の腸(はらわた)を裂かれけるなり。是れはやむ事なき世に、何をして身のいたづらに老いぬらんと、切におもひわびられけるが、されば此秋はいかなる事の心にかなはざるにかあらん、伊賀を出て後は、明暮になやみ申されしが、京・大津の間をへて、伊勢の方におもむくべきか、それも人々のふさがりてとゞめなば、わりなき心も出きぬべし、とかくしてちからつきなば、ひたぶるの長谷越えすべきよし、しのびたる時はふくめられしに、たゞ羽をのみかいつくろひて、立つ日もなくなり給へるくやしさ、いとゞいはむ方なし。

 

と綴っており、土芳の「三冊子」も『此句、難波にての句也。此日朝より心にこめて、下の五文字に寸々の腸をさかれし也』と記す。

 安藤次男は「芭蕉百五十句」の本句の評釈で、芭蕉はここで例の「病雁」の句を想起し、同時に杜甫の詩、「孤雁」をも想起したと断ずる(以下に示す訓読は安藤に従っていない)。

 

 孤雁

孤雁不飮啄

飛鳴聲念羣

誰憐一片影

相失万重雲

望盡似猶見

哀多如更聞

野鵶無意緒

鳴噪自粉粉

 

  孤雁

 孤雁 飲啄(いんたく)せず

 飛鳴して聲は群を念ふ

 誰(たれ)か憐れむ 一片の影

 相ひ失すのみ 万重(ばんちやう)の雲

 望み盡くるも 猶ほ見るに似(に)たり

 哀しみの多くして 更に聞くがごとし

 野鵶(やあ) 意緒(いちよ)無く

 鳴噪(めいさう) 自(おのづ)から粉粉たり

 

そうして安藤はこの「望み盡くるも猶ほ見るに似たり」の訓読箇所に傍点して、『「此秋は」「雲に鳥」はそのことをぬきにしては語れない』と述べる。

 安藤は最後に『「鳥雲に入る」という暮春の季語がある。北帰する冬鳥のことだが、暮秋、南へ帰る夏鳥なら「雲に鳥」だ、と云いたいらしい』という修辞解釈をも示しているのだが、鬼才安藤にしてこの謂いはやや不満である。「鳥雲に入る」という言辞を転倒諧謔して「雲に鳥」を導くという程度のこと(無論、芭蕉にとっての「という程度のこと」の謂いであって我々凡夫にはその逆転の発想自体が難しいことは言うまでもないことだ)を捻り出すのに、芭蕉ともあろうものが『その朝より心に籠めて念じ』乍ら、この『下の五文字』に対して『寸々の腸を裂』くであろうか、という素朴な疑義である。

 私は若き日にこの句を見て、鮮烈なイメージの衝撃を受けたことを忘れない。その時、私には雲の形をした大いなる鳥が見えた――いや、虚空に鵬のような大鳥の空隙を見たのであった。それは同じ時期に見た滝口修造の「扉に鳥影」詩とフォト・コラージュ(デュシャンの遺作「(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」 “Étant donnés: 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage”の前に立って穴を覗く瀧口自身の後ろ姿)が離れ難く結びついてもいるのである(そこでは私にとって詩人瀧口修造は芭蕉なのであった)。――いや、それ以上にこの句は、まさに私自身が幻影したそれは……かのマグリットの「大家族」“la grande famille (一九六三年作。リンク先はグーグル画像検索「la grande famille magritte」)のような鳥影ででも……あったのかも知れない。――――]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 四 芽生 ヒドラ

   四 芽生

 

 單爲生殖では、たゞ卵細胞だけから子が出來るのであるが、これは卵細胞と精蟲とが揃うてあるべき筈の所を一方が缺けて居るといふわけであるから、やはり雌雄兩性の區別のある範圍を出ない。それ故、雌雄による生殖でも單爲生殖でも、雌雄が同體であつても異體であつても、皆これを有性の生殖と名づける。これに反して雌雄兩性の別とは全く無關係の生殖法も生物界には隨分行はれて居る。例へば一個體から芽が生じ、その芽が生長して新しい獨立の一個體となることもある。また一個體が分かれて二片となり、各片が生長して終に二個の完全な個體となることもある。かやうな芽生または分裂などによる生殖を總稱して無性生殖と名づける。有性生殖と無性生殖とは、その模範的の例を比べて見ると、全く互に無關係の如くに思はれるが、種々の異なつた例を殘らず集めて見ると、いづれの組に屬するか判斷に苦しむやうなものもあるから、決してその間に明瞭な境界を定め得べきものでない。「自然は一足飛びをなさず」といふ古諺は、この場合にもよく當て嵌るやうである。

[やぶちゃん注:「芽生」(Budding)現在は「出芽」という表現が一般的。

「自然は一足飛びをなさず」これは恐らくライプニッツの「連続律」(lex continui)の考え方である“natura non facit sultum”「自然は飛躍しない」が最も古いものかと思われる。総ての現象は系列の中にあってその系は間断なく連続していて飛躍がなく、それらを構成する個別な対象にあってもその状態は恒常的連続的に変化して飛躍はないという主張である。リンネの「植物学原理」や、またしばしば誤解されるが、ダーウィンの進化論にあっても語られている内容である。ダーウィンはこの「自然は跳躍しない」を引き、進化は漸進的であると主張し、進化は小さな遺伝的変異の蓄積によって起きる。その結果として体節数の変化といった大きな形態的変化が起きる可能性はあるものの、目や脳といった高度な組織や器官が一世代で出来ることはないとした。但し、ダーウィンの強力な支援者であったトマス・ハクスリーはこの主張には疑問を呈し、跳躍的な進化を先験的に排除すべきではないとして跳躍説を支持、これが後の突然変異説発見の基盤ともなった(以上の進化論部分はウィキ進化論」の記載を一部参考にした)。]

 


Hidora2


[ヒドラ]

 

 淡水に産する「ヒドラ」といふ小さな蟲については已に前の章でも述べたが、夏この蟲を金魚鉢に飼うて「みぢんこ」などを食はせて置くと、圓筒形の身體の側面の處に小さな瘤の如き突起が現れ、つぎに瘤が延びて短い横枝となり、枝の末端には口が開き、口の周圍には細い絲のやうな觸手が何本か生じて、二三日の中に丸で親と同じ形の子が出來上がる。但し體の内部はまだ親と連絡して居るから、親の食つたものも子の食つたものも消化してしまへば互に相流通する。その中に親の身體からは更に別の方角に芽が生じ、子の身體からは小さな孫の芽が生じて、暫くは小さな樹枝狀の群體を造るが、子は稍々大きくなると親の身體から離れて獨立するから、永久的の大きな群體を造るには至らぬ。「ヒドラ」の芽生によつて蕃殖する有樣を明に説明するために、假にこれを人間に譬へていふと、まづ親の横腹に團子のやうな腫物が出來、これが次第に大きくなり横に延び出し、いつとはなしに頭・頸・胴などの區別が生じ、頭には眼・鼻・口・耳などが漸々現れ、肩の邊からは兩腕が生じて終に親と同じだけの體部を具へた一人前の子供となる。子供は最初の間は親の身體に繫がり、親から滋養分の分配を受けて居るが、小學校を卒業する位の大きさに達すると親から離れて隨意な場處に移り行き、親も子も共に芽生によつて更に繁殖する。かやうに想像して見たら「ヒドラ」の生殖法が如何なるものか明に知ることが出來よう。

[やぶちゃん注:「ヒドラ」「第四章 寄生と共棲」の「五 共棲」(直リンクはブログ生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(1))で詳細既注済み。]

此道や行人なしに秋の暮 芭蕉

本日二〇一三年十月 三十日

陰暦二〇一三年九月二十六日

 

  所思

此道(このみち)や行人(ゆくひと)なしに秋の暮

 

  秋暮

この道を行く人なしに秋の暮

 

人聲や此道かへる秋のくれ

 

  所思

此道を行人なしや秋のくれ

 

[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十六日の作

第一句目は「其便」、第二句目は元禄七年九月二十三日附の窪田意専・服部土芳宛及び同月二十五日附の曲水宛書簡(これは初案と推定されるもので曲水宛には第三句目の句案も文中に出ている)、第三句目は「笈日記」、第四句目は「淡路島」に載る句形。

 九月二十六日、大坂の景勝、新清水(しんきよみず)の料亭「浮瀬(うかむせ)」に於いて泥足(「其便」編者)主催になる、芭蕉・泥足・支考・游刀・之道・車庸・洒堂・畦止・素牛・其柳による十吟半歌仙の発句。

 「笈日記」には(ここでは連衆を「十二人」と記す)、第三句目と第一句目を併記して、

 

此二句いづれをかと申されしに、この道や行ひとなしにと獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候半(はん)とて、そこに所思といふをつけて半歌仙侍り。

 

とある。安藤次男は「芭蕉」(中央公論社)の中で、これは先に示した「去来抄」の「病鴈」「小海老」双方の句の入集(にっしゅう)を許したのと、この二句をあえて『示し「いづれをか」と一座の判に委かせた』のは『ほぼ似た心情に出るもの』とし、『まず連衆を重んじた俳諧師には、この種の自己保留はしばしばあったはずだ』と断じておられる(二五四~二五五頁)。私もその意見に賛同するものである。結果として一座は(恐らく満場一致で)「此道や」を支持したのであるが、しかし安藤は別な箇所(三〇六頁)で、連衆が「獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候はん」と『「此道や」の方を賞めちぎったとしても、それが直ちに作者の心に適ったというわけではない。芭蕉は「人声や」の方に未練があったかもしれぬ、そう考えるのが俳諧だ』と述べておられる。これにも私は頗るつきで共感を覚えるものである。そもそも「此道や」というこの凄絶な吐露は孤高の境涯の詠歎として文字通り、「誰かその後にしたがひ候はん」までの究極の孤立した『個』なのであり、これに付句することは事実上、不可能とも言える。因みにこの半歌仙での主人泥足の脇は、

   岨の畠の木にかゝる蔦

で、見たくもないほど如何にもな付である。この名句にしてそれを発句とした半歌仙が全くと言っていいほど知られていないのは、この「発句」がそもそも連衆の俳諧から限りなく遠く逸脱して、発句の体(てい)をなしていないからに他ならないと私は思うのである。]

北條九代記 承久の乱【三】 後鳥羽院、寵愛の白拍子亀菊に摂津長江・倉橋両荘を下賜するも、義時、これを認めず

又其比(そのころ)、攝津國長江倉橋(ながえくらはし)の兩莊(りやうしやう)は、院中に近く召使はる〻白拍子龜菊に下されしを、其地頭更に開渡(あけわた)さず。龜菊深く憤りて歎きけるを、一院より關東へ仰せ付けられ、改易すべき由御沙汰あり。義時申しけるは、「地頭職の事は、上古はなかりしを、故右大將家平氏追討の勸賞(けんじやう)に、日本國の惣追捕使(そうつゐふし)に補せられ、平家追討六ヶ年の間に、國々の地頭御家人等(ら)、或は親を討(うた)れ或は子を討(うた)せ、家子(いへのこ)郎從を損(そん)ぜられ、既に忠戰の勲功に隨ひて分(わかち)賜りたる領地を、させる罪科だになからんには、義時が計(はからひ)として、改易すべきやうなし」とて、是も用ひ奉らず。

[やぶちゃん注:〈承久の乱Ⅲ 後鳥羽院、寵愛の白拍子亀菊に摂津長江・倉橋両荘を下賜するも、義時、これを認めず〉底本頭書『承久亂源(三)龜菊の領地の事』
「承久記」(底本の編者番号12のパート)の記載。

 又、攝津國長江・倉橋ノ兩庄ハ、院中二近ク被二召仕一ケル白拍子龜菊ニタビタリケルヲ、其領ノ地頭、領家ヲ勿緒シケレバ、龜菊憤リ、可二改易一由被二仰下一ケレバ、權大夫申ケルハ、「地頭職ノ事ハ上古ハ無リシヲ、故右大將平家ヲ追討ノケンジヤウニ、日本國ノ惣地頭ニ被ㇾ補、平家追討六箇年ガ間、國々ノ地頭人等、或ハ子ヲウタセ、或ハ親ヲ被ㇾ打、或ハ郎從ヲ損ズ。加樣ノ勳功ニ隨ヒテ分チタビタラン者ヲ、サセル罪ダニナクシテハ、義時ガ計ヒトシテ可二改易一樣ナシ」トテ、是モ不ㇾ奉ㇾ用。

・「勿緒」は「こつちよ(こっちょ)」と読み、蔑(ないがし)ろにするの謂いで、(領有権を)あってもなきが如きもののとして軽んじること、即ち、全く無視してあけ渡さないことを言っている。
・「ケンジヤウ」本文の「勸賞」で、「くわんしやう(かんしょう)」「くわんじやう(かんじょう)」とも読み、褒美などを与えて励ますこと。褒めて引き立てることの謂い。]

耳嚢 巻之七 武者小路實蔭狂歌の事

 武者小路實蔭狂歌の事

 

 雲霞といふ題にて、

  足なくて雲の行さへおかしきに何をふまえて霞たつらん

 

□やぶちゃん注

○前項連関:三つ前の「加茂長明賴朝の廟歌の事」に続く和歌シリーズ。

・「武者小路實蔭」「耳嚢 巻之四 景淸塚の事」に既出。公卿・歌人であった武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ 寛文元(一六六一)年~元文三(一七三八)年)の誤記。和歌の師でもあった霊元上皇の歌壇にあって代表的歌人であった。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、百年も前の古い話柄(鎌倉とでは比較にならぬものの、やはり古歌という観点では前の「加茂長明賴朝の廟歌の事」と軽く繫がるか)。

・「足なくて雲の行さへおかしきに何をふまえて霞たつらん」――足がないのに「雲の行く」というのさえ面白うてならぬのに――一体全体――何を踏(ふん)まえて――霞は「立つ」というので――おじゃる?――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 武者小路実陰殿の狂歌の事

 

 「雲霞」という御題にて、武者小路実陰殿の詠まれた歌。

 

  足なくて雲の行さへおかしきに何をふまえて霞たつらん

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 7 陸に上がって一路東京へ2 尊王派の武士の眼付 / 外国人旅行者の煩瑣 / 木場 / 庭石のこと / 屋根の上の防火施設 / 虫売りの行商人

 稀(まれ)に我々は、聡明らしく見える老人が、前を通り去る我々を見詰めて、懐古的瞑想にふけりながら、厳格な態度で頭をふるのを見た。それは恰も彼等は旧式な派に属し、そして長い間近づけなかった、また軽蔑していた外国人に、好き勝手な所へ行かせることによって、日本人が無茶苦茶になって了うと信じているかの如くであった。私は彼等が我々に与えた表情的な顔付に、これを読むことが出来た。然し、このような自由は与えられていない。外国人は、四つの条約港に定められた境界線から二十マイル以上は、旅券無しでは出られない。出ればつかまって追いかえされる。この国の内地に入る為には、旅券は、単に実際旅行す可き道筋を細記するにとどまらず、旅行に費す日数までも書かねばならぬ。我々が泊った旅宿では、どこででも宿主か或いは何かの役人が、先ず旅券を取り上げ、注意深く書き写したあげく、我々に面倒をかけたというので、非常に丁寧なお辞儀で詫をする。

[やぶちゃん注:ここに記された当時の外国人の国内居住の制限規定や例外的な旅行許可に纏わる文部省届等については「第二章 日光への旅」の冒頭に附した私の注を参照されたい。]

 

 東京の近くで我々は大きな材木置場を通り過した。板は我国のように乱雑に積み上げず木を切った通りに纏(まと)めて縛ってあるから、建築に取りかかる時、大工は材木の色も木理(きめ)も同じ様なのを手に入れることが出来る。竹の大きな置場も見えた。竹はかたまって立ち、何等かの支柱によりかかっている。石置場もある。ここで五十ドルか百ドル出すと、佐渡か蝦夷(えぞ)からでも来たらしい、奇妙な形の、風雨に蝕磨された石を買うことが出来る。日本人は庭園に石を置くが、その石は遠い所から持って来られる。形の変ったものなら何でもいいのだが、小鳥の飲み水を湛えるようなくぼみが自然に出来たのは、大事にされる。石燈籠をつくるために積み上げる石、小さな庭園の橋をつくる板石、詩文を刻む石、その他の目的に使用する石を日本人は熱心に求める。

[やぶちゃん注:これは恐らく深川木場、現在の東京都江東区木場町の辺りであろう。ウィキの「木場」によれば、『この木場(貯木場)は隅田川の河口に設けられ、江戸時代初期から江戸への建設資材の集積場として発展した。特に江戸では明暦の大火などの大火災がしばしば起こり、その度に紀州など地方から大量の木材が木場を目指して運び込まれた』が、『明治維新以降になると、木場の沖合いのゴミ等による埋め立てが進み、木場の目の前から海が姿を消してしまった』とある。もしかするとこの頃には既にこうした景観が始まっていたのかも知れない(その証拠にモースの描写に親しいはずの海が出ない)。]

 

 大火事の経過を見張るために、家根の足場の上に足場をつくることに就いては、既に述べた。今や私は数軒の家の屋根に水を満した大きな樽と、屋根に振りかかる火の子を消す為の、刷毛のついた長い竿とが置いてあるのを見た。櫓を籠細工でつつんで、見た所がいいようにしたのもあった。

[やぶちゃん注:第一章に『東京の町々を通っていて私はいろいろな新しいことを観察した。殆どすべての家の屋梁(やね)の上に足場があり、そこには短い階段がかかっている。ここに登ると大火事の経過がよく判る。』とある。]

  

 行商人が商品を背中にしょって歩いているのに屢屢逢った。ある行商人は小さな籠の入った大きな箱をいくつか運んでいたが、この籠の中には緑色の螇蚚(ばった)が押し込められたまま、我国に於る同種のものよりも、遠かに大きな音をさせて鳴き続けていた。私は一匹買ってマッチ箱に仕舞っておいたが、八日後にもまだ生きていて元気がよかった。子供はこれ等の昆虫を行商人から買い求め砂糖を餌にやり、我々がカナリヤを飼うように飼うのである。小さな虫籠はまことに趣深く、いろいろ変った形で出来ていた。その一つは扇の形をしていて、仕切の一つ一つに虫が一匹ずつ入っていた。

[やぶちゃん注:三谷一馬「江戸商売図絵」(中央公論社一九九五年)の「虫売り」によれば、江戸の虫売りが商ったのは蛍・蟋蟀(こおろぎ)・松虫・轡虫(くつわむし)・玉虫・蜩などであったと書かれた後に、『江戸の虫売りとは別に、江戸近在の人がきりぎりすや轡虫などを捕えて粗末な籠に入れて売りに来たものもあり、江戸のものより安いのでよく売れたといいます』とある。三谷氏が鈴虫を挙げておられないのはちょっと意外であるが、この中で「緑色の螇蚚(ばった)」となると、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属キリギリス Gampsocleis spp. (本邦産は現在、生息域を、青森県から岡山県までとするニシキリギリス Gampsocleis buergeri と近畿地方から九州地方とするヒガシリキリギリス Gampsocleis Mikado に分ける)

キリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis

ということになる(後者の音(ね)を私はあまり好まないので、ここは前者キリギリスで採りたい欲求にかられる)。

 なお、緑色をしたマツムシ(キリギリス亜目コオロギ上科コオロギ科 Xenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus)の緑色をしたようなアオマツムシ(コオロギ科マツムシモドキ亜科マツムシモドキ族 Truljalia 属アオマツムシ Truljalia hibinonis)がいるが、これは外来種と考えられており、明治十年の段階では棲息していなかった可能性が高い(ウィキアオマツムシ」によれば最も古いとしても明治三一(一八九八)年である)ので含めない。

中島敦 南洋日記 十月三日

        十月三日(金) ボナペ

 雨、後、曇、午後、ボナペ入港、支廳。再び宮野氏方に落ちつく。鉢にトレニヤの小さきが三木あり。珍し。往航の時、又、芽生なりし菜の、すでに可成、成長せるを見る。

[やぶちゃん注:私は何故か、この日録を読みながら、タルコフスキイの「惑星ソラリス」のエンディングでクリスの部屋の窓辺にあった金属の箱から芽生えている芽を思い出していた……

「トレニア」双子葉植物綱キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科ツルウリクサ属ハナウリクサ Torenia fournieri。インドシナ半島原産の一年生植物。花期は六~九月頃(グーグル画像検索「Torenia fournieri)。]

鶯の聲遠き日も暮れにけり 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   鶯の聲遠き日も暮れにけり

 春の暮方の物音が、遠くの空から聽えて來るやうな感じがする。古來日本の詩歌には、鶯を歌つたものが非常に多いが、殆んど皆退屈な凡歌凡句であり、獨り蕪村だけが卓越して居る。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。]

無爲の世界の相について 大手拓次

 無爲の世界の相について

 

 ながいあひだ私は寢てゐる。

 何事もせず、何物も思はない、心の無爲の世界は、生き生きとして花のさかりの如く靜かであつた。

 わたくしは日頃から、眼に見えないものへ、また形のないものへのあこがれを抱いてゐたのであつた。この願ひはいつ果されるともなく、わたくしの前に白く燃え續けてゐた。

 偶然にとらへられてその白く燃えてゐる思念が、この無爲の世界のなかに此上もなくふさはしく現はれてきたのであつた。

 その時、心の「外へのよそほひ」は凡てとりさられ、心は心みづからの眞の姿にかへつて、ほがらかに動きはじめたのであつた。

 心は表面の影を失ひ、内面の自由な動きの流れへ移つたのである。

 わたくしは見知らぬ透明な路をあるいてゆくのである。

 心のおもては閉ざされて暗い。けれど形よりはなれようとする絶えざる内心の窓はらうらうとして白日よりもなほ明らかである。

 感情は靑色の僧衣をきてかたはらに佇んでをり、たえず眠りの横ぶえをふいてなぐさめてゐるではないか。

 

[やぶちゃん注:本詩を以って詩集「藍色の蟇」の詩本篇が終わる。因みに、本詩題は岩波版「大手拓次詩集」では、

 

 病間錄

  ――無爲の世界の相に就て――

 

となっており(正字化して示した)、二段落目の「この願ひはいつ果されるともなく」の部部は同岩波版では、

 

この願ひは、いつ果されるともなく

 

と読点が入っている。]

鬼城句集 秋之部 一葉

一葉    大空をあふちて桐の一葉かな

 

      桐の葉のうら返りして落ちにけり

 

[やぶちゃん注:「一葉」は「ひとは」で「桐一葉」とも言い、桐の葉に限定された初秋の季語。秋に桐の葉が落ちること。シソ目キリ科キリ Paulownia tomentosa アオギリ科の悟桐を指す。科はゴマノハグサ科或いはノウゼンカズラ科とする意見もあるが近年のDNA分析研究によってキリ科として独立させる方向に動いているようである。因みに、属名“Paulowniaパウローウニア)は、シーボルトがロシア皇帝パーヴェル一世の娘でオランダ王ウィレム二世の王妃となったアンナ・パヴロヴナ(Anna Paulowna Romanowa анна павловна романова 一七九五年~一八六五年)に捧げたものである(以上は主にウィキの「キリ」に拠った)。]

2013/10/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 6 陸に上がって一路東京へ 美しき花々 附 疱瘡神呪(まじな)いの手形

 東京から十マイルのところで向い風が起った。我我はそこで上陸して人力車をやとい、ボーイは荷物を持って来るために後に残した。人力車は我々をのせて新しい地域を横断した。ここは世界大都会の一つである東京の境界地なので、興味があった。家の形は多少異っていた。即ちある箇所、特に屋梁の取扱い方に、新しい所があって、百マイル北の家屋で見受けるのとは大いに違っていた。

[やぶちゃん注:「東京から十マイルのところ」この「東京」という起点をどこから採るかが問題であるが、距離の短さからみて、東京府の外縁を指すと考えられるから、試みに葛飾区の水元公園を起点とすると、約16キロメートルの利根川流域は茨城県と千葉県の県境の茨城県守谷市の東南、千葉県上利根附近(地図実測16・8キロメートル)になる。

「百マイル」161キロメートル。第二章冒頭で日光までを96マイル(宇都宮までを66マイル、そこから日光までを30マイルとしている)としているから、見てきた日光や宇都宮郊外の家屋を指していると考えてよい。]

 


M102


図―102

 

 塵芥を埋立その他の目的で運搬するのには、長い紐輪を持つ、粗末な筵を使用する。塵芥は耨(くわ)でこの筵の中に搔き込まれ、そこで天秤棒を使って図102のように二人の男がそれを運搬する。

 

 この広い世界を通じて、どこでも子供達が、泥のパイや菓子をつくるのを好むのは、面白いことである。日本の路傍ででも、小さな女の子が柔軟な泥をこねて小さな円形のものをつくっていたが、これは、日本にはパイもパンもないので、米でつくる菓子のモチを現わしているに違いない。

 

 この国の人々が――最下層の人でさえも――が、必ず外国人に対して示す礼譲に富んだ丁寧な態度には、絶えず驚かされる。私は続けさまに気がついたが、彼等は私に話しかけるのに先ず頭に巻いた布を解いて、それを横に置くのである。一台の人力車が道路で他の一台に追いつき、それを追い越す時――我々は早く東京に着き度くて急いでいたのでこれをやった――車夫は必ず詫び、そして、通訳の言によると「お許しが出ますれば……」というようなことをいう。

[やぶちゃん注:「お許しが出ますれば……」原文は“By your permission, if you please.”。「御免なすって!」辺りか。]

 

 我々は多くの美しい生垣を通過した。その一つ二つは、二重の生垣で、内側のは濃く繁った木を四角にかり込み、それに接するのは灌木の生垣で、やはり四角にかり込んであるが、高さは半分位である。これが町通りに沿うて、かなりな距離並んでいたので、実に効果的であった。日本の造園師は、植木の小枝に永久的の形がつく迄、それを竹の枠にしばりつけるという、一方法を持っている。私の見た一本の巨大な公孫樹(いちょう)は、一つの方向に、少なくとも四十フィート、扇のように拡がりながら、その反対側は、日光も通さぬ位葉が茂っていながらも、三フィートとは無かった。樹木をしつける点では日本人は世界の植木屋中第一である。この地方を旅行していて目についた花屋は美しかった。ことに蜀葵(たちあおい)、すべりひゆの眩(まばゆ)い程の群団、大きな花のかたまりを持つ青紫の紫陽花(あじさい)等は、見事であった。梅や桜は果実の目的でなく、花を見るために栽培される。有名な桜の花に就いては、今迄に旅行家が数知れず記述しているから、それ以上言及する必要はあるまい。変種いくつかが知られている。売物に出ている桃は小さく、緑色で、固く、緑色橄欖のように未熟であるが、人人はその未熟の状態にあるのを食う。私はいくつかの桃を割って見たが、五つに四つ位は虫がいた。

[やぶちゃん注:「四十フィート」12・2メートル。

「三フィートとは無かった」90センチメートル未満。

すべりひゆの眩い程の群団」原文は“the dazzling masses of portulacas”。“portulacas”は確かにナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属を指す語ではある(この和名の莧(すべりひゆ)の語源については「ひゆ」は「ひよこ」と同語源で「小さく可愛らしい」の意であるとも、茹でた際に出るヌメリに由来するともいう)。問題は訳通り、このモースが見たのが本当にスベリヒユ Portulaca oleracea なのかどうかという疑義なのである。あの――私の庭にもしばしば蔓延って困るところの――食用になるが私はまだ食べたことがない(来春には庭のそれを食ってみよう)あの――夏に地を這っている枝先に黄色いごく小さな花を咲かせるだけの――あのスベリヒユなんだろうか? あのスベリヒユの地味な黄色の群落(群落自体は実際大きくなるが)を果たして“dazzling”(目も眩まんばかりに眩しい、眩惑的な)と形容するだろうか? あのちんまい黄色の花は、外国人が「蜀葵」と「大きな花のかたまりを持つ青紫の紫陽花」の間に挟んで絶賛するほどの美しい花であろうか?……これはどう考えても同じスベリヒユ属のマツバボタン Portulaca grandiflora としか私には考えられない。問題は明治十年の日本に南アメリカ(ブラジル・アルゼンチン)原産のマツバボタンの有意な群落が東京近郊に存在したかどうかにかかっている。結論から言おう。存在したと思う。その有力な証左は私がよくお世話になる跡見学園女子大学公式サイトの嶋田英誠氏の編になる「跡見群芳譜」の「外来植物譜」の「マツバボタン」の記載にあった。そこにはマツバボタンの渡来は、モースの記載に先立つ十三年前、幕末の元治元・文久四(一八六四)年とあり、しかも『しばしば河川敷などに逸出』とあるからである。利根川から北へ下って江戸川・荒川・隅田川を人力車で横断していったモースの目に映ったのはまさに渡来したばかりの、しかし力強く河川敷に広がって美しい十三年目の白・黄・赤・オレンジ・ピンクの多彩絢爛な(“dazzling”)花を咲かせた日本のマツバボタンであったのだと私は思うのである。他にも似た名とイメージを持つ明治初年に渡来した同目別科のナデシコ目ハマミズナ科マツバギク Lampranthus spectabilis も同定候補にはなり得るが(リンク先は同じく「跡見群芳譜」の「外来植物譜」)姉さんのマツバボタンをさしおいて名乗りを挙げるものでもなく、モース先生はちゃんと“portulacas”と言っておられる。なお、マツバボタンの属名“Portulaca”(ポルチュラーカ)はラテン語の「門」を意味する“portula”(ポルチュラ)に由来し、ウィキの「マツバボタン」によれば、『花が昼に開き、夜に閉じる様が門を彷彿とさせることからこの名がついたと解釈されている。日本ではホロビンソウ(不亡草)とも呼ばれ、年々種が零れて新たな花が生えだしてくるのでこう呼ばれている』とある。最後に。もうお分かりかも知れないが、私は実はマツバボタンが好きなのである。

「緑色橄欖」原文“green olive”。流石に訳が古い。熟す前に収穫され、塩水に漬けられた青いオリーブの実のこと。]

 

 この国の人々が持つ奇妙な風習はいたる処に見え、そして注意を惹く。ある家の入口には、漢字を僅か書いた横に、指を広くひろげた手に墨を塗ったものが二つ、ペタンと押してあった【*】。

 

 

* 数年後、私はこの記号は、疱疽(ほうそう)を追い払うためにつくられたということを聞いた。

[やぶちゃん注:「疱疽」疱瘡に同じい。前では「疱瘡」という表記である。感染症としての疱瘡=天然痘(Smallpox)については詳細を「第一章」で既注済みであるが、ここでは挙げられた疱瘡除けに合わせて疱瘡を擬神化した疫病神について、ウィキの「疱瘡神」から引用しておく(注記記号は省略した)。『平安時代の『続日本紀』によれば、疱瘡は天平7年(735年)に朝鮮半島の新羅から伝わったとある。当時は外交を司る大宰府が九州の筑前国(現・福岡県)筑紫郡に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された菅原道真や藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられた。近世には疱瘡が新羅から来たということから、三韓征伐の神として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた。寛政時代の古典『叢柱偶記』にも「本邦患ㇾ痘家、必祭疱瘡神夫妻二位於堂、俗謂之裳神(『我が国で疱瘡を患う家は、必ず疱瘡神夫妻お2人を御堂に祭り、民間ではこれを裳神という』の意)」と記述がある』(漢文部分は正しく正字化して示すと「本邦、痘を患ふ家は、必ず疱瘡神夫妻二位を堂に祭り、俗に之れを裳神と謂ふ」と訓ずる。「裳神」は「もがみ」又は「もすそがみ」とでも読むか)。『笠神、芋明神(いもみょうじん)などの別名でも呼ばれるが、これは疱瘡が激しい瘡蓋を生じることに由来する』。『かつて医学の発達していなかった時代には、根拠のない流言飛語も多く、疱瘡を擬人化するのみならず、実際に疱瘡神を目撃したという話も出回った。明治8年(1875年)には、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えており、あたかも後述する疱瘡神除けのように赤い物を身に付けていたため、それが疱瘡神だったという話が、当時の錦絵新聞『日新真事誌』に掲載されている』(リンク先に実際の画像がある。これがモース来日の二年前の新聞である点でも必見である)。『疱瘡神は犬や赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった。赤い物として、鯛に車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた。疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている。江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝、鍾馗、金太郎、獅子舞、達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた。為朝が描かれたのは、かつて八丈島に配流された為朝が疱瘡神を抑えたことで島に疱瘡が流行しなかったという伝説にも由来する。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌もが赤絵に書かれることもあったが、これは前述のように疱瘡神が犬を苦手とするという伝承に由来する』。『江戸時代の読本『椿説弓張月』においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。浮世絵師・月岡芳年による『新形三十六怪撰』に「為朝の武威痘鬼神を退く図」と題し、為朝が疱瘡神を追い払っている画があるが、これは疱瘡を患った子を持つ親たちの、強い為朝に疱瘡神を倒してほしいという願望を表現したものと見られている』(リンク先に月岡芳年画「新形三十六怪撰」より「為朝の武威痘鬼神を退く図」が掲げられている。下線はやぶちゃん。これがモースが記した手形型疱瘡除けの謂われである)。『貼り紙の事例としては「子供不在」と書かれた紙の例もあるが、これは子供が疱瘡を患いやすかったことから「ここには子供はいないので他の家へ行ってくれ」と疱瘡神へアピールしていたものとされる』。『疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった』。『また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り、発病の1週間後にそれを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった』。『医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった』。『幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた。種痘による疱瘡の予防が一般化した後も、地方によっては民間伝承における疱瘡神除けの習俗が継承されていた。例として兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)では、予防接種から1週間ほど後、御幣を立てた桟俵に笹の葉、赤飯、水引などを備え、道端に送る風習があった。大阪府豊能郡能勢町でも「湯がけ」といって、同様に種痘から12日目に紐を通した桟俵に赤い紙と赤飯を備えて疱瘡神を送った。千葉県印旛郡では疱瘡流行時、子女が万灯を肩に鼓を打ちながら村を囃して歩くことが明治10年頃まで続けられていた。接種の際に赤い御幣、赤飯、食紅の印を付けた饅頭などが供えられることも多かった』とある。この後の天然痘史を別資料(日本医史学会会員富田英壽氏の、寛政二 (一七九〇)年にジェンナーの牛痘種痘法成功よりも六年も早く人痘種痘法を本邦で初めて成功させた緒方春朔の顕彰サイトにある天然痘関係歴史略年表に拠った)で略述すると、種痘法の制定は明治一八(1885)年、であったがなかなか徹底せず、この年から翌々年の明治二〇(一八八七)にかけて第一回の大流行があって死者三万二千人、明治二五(一八九二)年から二七年にかけて第二回大流行(死者二万四千人)、明治二九(一八九六)年から翌年にかけて第三回大流行(死者一万六千人)を見た大正八(一九一九)年に大正期最高の天然痘死者数九三八人を出した後、昭和元(一九二六)年に死者数一五八人を最高に第二次世界大戦終了まで死者百人を超える年はなかった。昭和二一(一九四六)年復員・引揚者の影響で天然痘が大流行して患者一万八千人、死者三千人を出したの最後に急速に制圧され、本邦では昭和三〇(一九五五)年の患者一名を最後に天然痘患者はゼロとなった。昭和五一(一九七六)年、日本は定期種痘を停止、ご存知のように、一九七九(昭和五四)年にケニアの首都ナイロビでWHO世界天然痘根絶確認評議会が世界から天然痘患者が根絶されたことを確認、翌年、WHO総会で「世界天然痘根絶」が宣言された。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 5 利根川下りでの嘱目3 幾つかの所感とともに

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図―101

 子供が赤坊を背負うことに就いては、既に述べる所があった。図101は大きな男の子が釣をしている処であるが、彼の背中には彼の小さな弟だか妹だかがぶら下っている。私は今迄に揺藍(ゆりかご)を見たことがない。また一人放り出されて、眼玉の出る程泣き叫んでいる赤坊も見たことがない。事実、赤坊の叫び声は、日本では極めて稀な物音である。

 外国人の立場からいうと、この国民は所謂「音楽に対する耳」を持っていないらしい。彼等の音楽は最も粗雑なもののように思われる。和声(ハーモニー)の無いことは確かである。彼等はすべて同音で歌う。彼等は音楽上の声音を持っていず、我国のバンジョーやギタアに僅か似た所のあるサミセンや、ビワにあわせて歌う時、奇怪きわまる乱り声や、うなり声を立てる【*】。

* その後ある学生が話した所によると、我々の音楽は日本人にとってはまるで音楽とは思われぬそうである。彼は何故、我々が我々の音楽を、ギックリシャツクリ、不意に切断するのか、了解出来ぬといっていた。彼にとっては、我々の音楽は「ジッグ、ジッグ、ジッグ、ジッグ、ジッグ、ジッガア、ジッグ、ジッグ」と聞える丈であった。
[やぶちゃん注:「我々が我々の音楽を、ギックリシャツクリ、不意に切断するのか」原文は“why we cut it off by jerks”。“jerk”は、急にぐいと引くこと、ぐいと押す・ひねる・突く・投げる・持ち上げる・止まることを言い、そこから筋肉や関節の反射運動や痙攣をも意味する。続く擬音部の原文は“Jig, jig, jig, jig, jig, jigger, jig, jig”で、この最終文末尾には“!”が附されてある。石川氏の訳はしばしばエクスクラメンション・マークを無視する傾向があって、モースの率直な驚愕を正確に伝えていない恨みがあることはどうしも述べておかねばならない。]

 然し、男達が仕事をしながら歌う声は、余程自然的で心から出るように思われる。そして、我々が過日橋石で知った所によると、彼等はこの種の唱歌を事実練習するのである。我々は酒盛りでもやっているような場所を通ったが、聞く所によるとこれは労働者が大勢、物を揚げたり、杭を打ったり、重い荷を動かしたりする時に、仕事に合わせて歌う彼等の歌や合唱を、練習しつつあるのであった。歌のある箇所に来ると、二十人、三十人の労働者達が一生懸命になって、一斉に引く準備をしている光景は、誠に興味がある。ちょっとでも動いたり努力したりする迄に、一分間、あるいはそれ以上の時間歌を歌うことは、我々には非常な時の浪費であるかの如く思われる。

 灌漑を目的とする水車装置は大規模であった。同じ心棒に大きな輪が三つついていて、六人の男がそれを踏んでいた。こうして広い区域の稲田が灌漑されつつあった。かかる人達は、雇われて働いているのか、それとも農夫達が交代でこの仕事をするのか、私はききもらした。

 この国民に奇形者や不具者が、著しくすくないことに気がつく。その原因の第一は、子供の身体に気をつけること、第二には殆ど一般的に家屋が一階建てで、階段が無いから、子供が墜落したりしないことと思考してよかろう。指をはさむドアも、あばれ馬も、嚙みつく犬も、角ではねる牛もいない。牝牛はいるが必ず紐でつながれている。鉄砲もピストルもなく、椅子が無いから転げ落ちることもなく、高い窓が無いから墜落もしない。従って背骨を挫折したりすることがない。換言すれば重大な性質の出来ごとの原因になるような状態が、子供の周囲には存在しないのである。投石は見たことがない。我国のように、都会で男の子供が党派戦をするということもない。我々からして見れば、日本人が彼等の熱い風呂の中で火傷して死なぬのが、不思議である。
[やぶちゃん注:最後が如何にもモースらしいユーモアである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 5 利根川下りでの嘱目2 四手網漁

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図―98

 我々は魚を網で取る巧みな方法を見た。網は二本の長い竹竿に張られ、竹竿の端は舟に取りつけられた簡単な枠構えに結びつけてある。この枠構えを前方に押すと竹竿が水中にひたり、網と一緒に水中に没する。しばらくして、枠構えを手前に引き寄せると、水から網が上って魚は舟に投り落される。図98は水中に入った網と引き入れられた網とである。河に添う家産の型式は、図99で示す。図100はもう一つ別の舟である。

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図―99

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図―100

[やぶちゃん注:四手網(よつであみ)の描写である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 4 利根川下りでの嘱目1


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図―95

 


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図―96

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図―97

 

 我々は六時に眼を覚ました。如何にも輝しい朝である。忠実なヤスが舟中で調理した朝飯を済ませて、我々は荷物の上に横になり、河、大小各種の船舶、面白い形の家等の珍しい景色を楽しんだ。河岸は低く、流れはゆるいので、我々は静かに進んだ。だが、静かといっても、いい写生図をつくるには早すぎた。河上の舟は、形は同じだが、大さが違う。ペンキを塗った舟は一艘もない。町の家にも、都会の家にも、ペンキが塗ってない結果、町通りが如何にも薄ぎたなく見え、家屋は我国の古い小屋や納屋を連想させる。使うとすれば、それは黒くて腐った糊みたいな不愉快な臭気を発するペンキである。写生図(図95)は我々が乗った舟を示している。図96は帆をあげた舟であるが、風が無いので舟夫は竿で押している。舟の帆は長い幅の狭い薄布を、三、四インチのすき問を置いて紐でかがったものである。帆は非常に大きく、かかるすき間は風が強い時に風圧を軽減する。長い竹竿は鉄で被覆してあって、巨大なペンに似ている(図97)。舟夫の耐久力は、人力事夫の力と耐久力とに全く等しい。一例として、我々の舟夫は夜十時に漕ぎ始め、途中で二二度休んだきりで、翌日の午後四時まで一睡もせず、また疲れたらしい様子も見せずに、漕ぎ続けた。時々、我々は、河岸を修繕している人足の一団の前を通った。この仕事で、彼等は竹の堡塁を築き、杭を打ち込み、ある場合には、長さ十フィートの小枝や灌木の大きな束の、切口の方を河に向けて置いて、壁をつくるのであった。最も効果のあるのは、長い管状の竹籠で、直径一フィート、長さ十五フィート或は二十フィートのものに、大きな石をつめたものである。これ等の管は、河岸の危険な場所に、十文字に積まれる。河は非常に速に河岸を洗い流すので、絶間なく看視していなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:図95の人物の大きさから見て猪牙舟か高瀬舟であるが、舳先が細長く尖っていない(猪牙の由来)点で高瀬舟と思われる。
「黒くて腐った糊みたいな不愉快な臭気を発するペンキ」歌舞伎「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」の「源氏店(げんじだな)」の「お富さん」――♪粋な黒塀 見越しの松に あだな姿の洗い髪 死んだはずだよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーッサエー 玄冶店(げんやだな)」♪――の黒板塀の濃茶黒色の渋墨(しぶずみ)塗りと呼ばれる塗り物。青い未熟の渋柿を潰して絞ったものを発酵・撹拌を繰り返しながら一~五年も寝かせて作った柿渋に、松材を燃やした煤(灰墨・油煙・松煙)とアルコール溶剤として酒を合わせ、さらに墨で色付けた塗料である。柿渋の主成分タンニンの防腐・防虫効果や、基材が柿渋を吸い込む力で墨粉を木材内部に引き込むことによって墨が定着、渋が目止めの役目も果たす日本古来の塗装伝統技術である(以上の渋墨塗りについては板塀外壁に使われた塗料(サイト元不明)を参照させて貰った)。

「三、四インチ」7・62~10・16センチメートル。

「十フィート」3メートル。

「長い管状の竹籠で、直径一フィート、長さ十五フィート或は二十フィート」蛇籠。直径30センチメートル、長さ4・6~6・1メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 3 利根川下り――暗闇でドッキリ!

 この地、野渡(のわた)で我々は舟に乗り、利根川を下ることになった。利根川の航行は野渡で始まる。Nowata の最後のAがRのように発音されるので、そこから舟運が始まる場所の名前として no water は適切であるように思われた。東京までの六十マイルを、我々をのせて漕いで行く舟夫が見つかった時は、もう夜の十時であった。一寸さきも見えぬような闇夜で、雨は降るし、殊に最後に河を下った時、河賊に襲われたというので、舟夫は容易に腰をあげなかった。ドクタア・マレーと私とは、我々二人が非常に物凄い人達で、よしんば河賊が何十人敢て現われようと、片っぱしから引きちぎつてやるということを示した。この危険は恐らく、大いに誇張されていたものであろうが、それでもその時には、我々の旅行に興奮的の興味を加えた。それで気持のよい宿主達に「サヨナラ」を告げた後、我々は親切な男の子達が手にさげた紙提灯(ちょうちん)の光に照らされて、濡れた原や藪を通って河岸に行った。舟は長い、不細工なもので、中央部に接ぎ合した葺屋根に似た小さな莚の屋根を持つ場所がある。舟には、舵を取る邪魔になるというので、燈火がない。我々は手さぐりで横になる場所をさがした。私は一時間ほどの間坐ったままで、周囲の新奇さを楽しんだ。舟夫は無言のまま、長い、間断ない振揺で櫓を押し、人々は熟睡し、あたりは完全に静寂である――事実、多くの不思議な昆虫類が立てる疳(かん)高い鳴声を除いて、物音は全く聞えぬのであった。この鳴声の多くは、私が米国で聞き馴れているものに比べて、余程調子が高く、また金属性であるか、又はその拍子が我国のと違うかしていた。煙草を吸いながら、半分は夢を見ながら、私は時々私自身が、河岸に近い黒い物体を疑深く見詰めているのに気がついた。ピストルを持っていたのは私一人であるが、そのピストルもゴタゴタに詰めた鞄の底に入っている。弾薬筒がどこに仕舞ってあるか私は知らなかったし、また晴間で荷物を乱雑に積み込んだのだから、空のピストルを見つけることさえも問題外である。いずれにせよ、眠ようと思って横になった時、はほ若し河賊がやって来たら、竹竿を武器にして戦おうと考えた。夜明けにはまだ大部間のある時、何かに驚いた舟夫がドクタア・マレーを呼んだ。ドクタア・マレーは起き上って、しばらく見張りをしたが、最後に何でもないという結論に達した。(これは私が日本でピストルを持って歩いた最後なので、特にこの事件を記録する。)舟夫は恐らく賃銀を沢山貰おうとして、河賊が出るとうそをついたのであろう。日本に数年住むと、日本の最も荒れ果てた場所にいる方が、二六時中、時間のいつを問わず、セーラムその他我国の如何なる都市の静かな町通りにいるよりも安全だということを知る。
[やぶちゃん注:「野渡」栃木県下都賀郡野木町野渡。茨城県古河市の北直近、利根川支流の渡良瀬川にその支流である思川が合流する辺りに当る。
「no water」底本では直下に石川氏の『〔水なし〕』という割注が入る。結構、モース先生、シャレ好き!
「河賊」原文“river pirates”。
「弾薬筒」原文“the cartridges”。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 2 日光街道点描2 お歯黒のこと

 磨き上げた黒い歯を持つ既婚の婦人連は、外国人にとってぞっとする程驚く可きものである。最初に黒磨料をつける時、彼等は色がよくしみ込むようにしばらく唇を離している。このように唇を引き離していることはやがて癖になる。とにかく、彼等はめったに唇を閉じていない。若い男が扇子を持ち出して、我々に名前を書いてくれといった。私が私の分に虫や見を沢山書いてやったら、彼は大いによろこんで、返礼に菓子を一袋呉れた。砂糖漬の杏(プラム)はうまかったが、他の砂糖菓子は何等の味もしないので、外国人にはうまいとは思われぬ。

[やぶちゃん注:「黒磨料」ここの原文は“When the blackening is first applied they keep their lips apart for a while that the color may set.”。「黒磨料」はこれで「おはぐろ」と訓ずる当て字であるが、習慣も遠くなった今は「お歯黒」(「鉄漿(おはぐろ)」もあるが)を用いた方が現代の読者にはすんなり読める。

「このように唇を引き離していることはやがて癖になる。とにかく、彼等はめったに唇を閉じていない」原文は“Thus holding the lips apart becomes a habit; at all events, they are rarely seen with the lips closed.”であるが、このモースの観察は恰もお歯黒を附ける習慣から、日本人女性は唇を閉じないようになってしまったという形態学的推論をしているとしか読めない。しかしこれは、日本人を含む東洋人に非常に多く見られる「受け口」(歯科学で言う不正咬合の一形態である下顎前突症。噛み合わせたときに下顎にある歯全体が上顎の対応位置の歯全体より前方に突出していること。しゃくれ・反対咬合とも言う。見た目上の特徴としては下唇が上唇よりも明らかに前にあって、常に口を意識的に半開きにしているように見える)を誤認したもののように私には読める。この反対咬合は欧米では非常に珍しい症状であるが、東洋系人種では極めて一般的に見られる不正咬合で、欧米の白人の場合は人種的に目(眼窩)が大きく鼻梁が高い特徴を持ち、顔面の中央部の発達が良好であるために反対咬合になりにくいが、東洋人では概してこの部分の発達が少し弱いタイプが多く、この症状が出易いと考えられている(ここはウィキ下顎前突症及び「洗足スクエア歯科医院」公式サイトの「症例紹介」の典型的な骨格性反対咬合の矯正治療例(幼児期からの治療)にある反対咬合の記載を参照した)。

「砂糖漬の杏(プラム)」原文“The sugar plums”。但し、本当にアンズ Prunus armeniaca なのかどうかはちょっと疑問な気がする。

「他の砂糖菓子は何等の味もしない」これは落雁を誤認したものではあるまいか?]

耳嚢 巻之七 蚊遣香奇法の事

 蚊遣香奇法の事

 

  檜挽粉(ひのきひきこ) 三升  樟腦(しやうなう) 壹匁

  雄黄  壹匁  黄綠 壹匁

 是は外(ほか)挽粉を用ゆるも有(あり)、或は蓬□を用(もちふ)。右合藥(あはせぐすり)して袋に入用(いれもちふ)るに、蚊を去(さる)事妙也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:三つ前の「齒の痛口中のくづれたる奇法の事」に続く民間薬方シリーズ。注意したいのは、これは燃やすのではなく、袋に詰めて持ち歩く(若しくは置く)タイプの蚊遣りである点である。揮発成分に効果がある訳で、ナウいじゃん!

・「檜挽粉」檜を製材した際に出る細かな粉のこと。

・「三升」五・四リットル。

・「壹匁」。一匁は一貫の千分の一で、約三・七五グラム。

・「雄黄」天然産砒素の硫化物。化学成分As2S3の鉱物で樹脂状の光沢がある黄色の半透明の結晶。染料・火薬などに用いる。有毒。但し、「世界大百科事典」によれば、化学でいう雄黄(orpiment)という和名は、本来は同物質を一緒に産することが多い鶏冠石の別称であって、化学物質としての“orpiment”に対しては「雌黄(しおう)」又は「石黄(せきおう)」の名称を使用するのが望ましいとされている、とあり、蠟燭で加熱すると容易に溶解し、『強いニンニク臭を発する』ともある。

・「黄綠」これは岩波のカリフォルニア大学バークレー校版によって「薰綠(くんろく)」の誤りであることが判明する。薫緑とは薫陸(くんろく)で、一般にはインド・イランなどに産する樹脂(やに)が固まって石のように固くなったものを指し、香料・薬剤とする。薫陸石。但し、本書の場合は江戸時代であるから、たかが蚊取り線香にこれを調剤するというのは考えにくいから、これは本邦産の松や杉の樹脂が地中に埋もれて化石様に化したものを指していよう。琥珀に似ており、前者同様に香料とする。岩手県久慈市から産出し、「和の薫陸」と呼称された。

・「蓬□」底本では右に『(苅)カ』とするが、蓬苅という名詞はない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここ(以下に示す部分のみ)は割注になっていて、

 是(これ)は外(ほか)挽粉を用るもあり、或は蓬(よもぎ)を用

とのみある。□は衍字かとも思われる。

・「合藥」一応、岩波版の長谷川氏のルビに従ったが、「かふやく(こうやく)/がふやく(ごうやく)」でもよいようには思われる。

中島敦 南洋日記 十月二日

        十月二日(木)

 四時クサイ入港、五時食事、六時前上陸、船長その他とレロ島一周。ゴバンの脚の白き花。途中スコールに遭ふ、島民家庭に避ける。七時半乘船、八時半出帆、午後より夜にかけて、やゝ荒氣味、

[やぶちゃん注:「ゴバンの脚の白き花」「ゴバンの脚」が植物名である。常緑高木である双子葉植物綱ツツジ目サガリバナ科サガリバナ属ゴバンノアシ Barringtonia asiatica。和名は、果実が四稜を有して碁盤の脚に似ていることに由来する。インド太平洋の熱帯域の海岸及びマングローブに生育する(日本では八重山諸島にわずかに自生)。花は総状花序で上向きに開花する(同属のサガリバナ Barringtonia racemosa の花はその名の通りに下向きとなる)。花弁は白く、雄蕊が赤く多数あって美しく、目立つ。果実は種子を一個含み、海水に浮いて遠くへ播種され、本邦海岸線にも漂着物として見られることがある。サポニンを主成分とする魚毒性を持ち、毒流し漁に用いられる(ここまでは主にウィキゴバンノアシに拠ったが、非常に分かり易い(何故「碁盤の脚」かという)説明や写真の載る「科学技術研究所」の図鑑のゴバンノアシ(碁盤の脚)も必見である)。]

鶯のあちこちとするや小家がち 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   鶯のあちこちとするや小家がち

「籬落」といふ題がつけてある。生垣で圍われた藁屋根の家が、閑雅に散在して居る郊外村落の晝景である。「あちこちとする」といふ言葉の中に、鶯のチヨコチヨコした動作が、巧みに音象されて居ることを見るべきである。同じ蕪村の句で「鶯の鳴くやあち向こちら向」といふ句も、同樣に言葉の音象で動作を描いてる。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。]

綠色の馬に乘つて 大手拓次

 綠色の馬に乘つて

 

 彼には空にとどく眼があつた。生成のまへのものに觸れる指と齅覺とを持つてゐた。フランソア・ギヨンの漾ふ姿は繫縛のうちに動き、羽ばたき、生きのびる帆のひらめきを教へる。

 卵はいろづいて凡てを魅了する。

 影のなかにある影の芽、未生の世界に泳ぐ大噴水塔の鴉は木の葉の黄昏に呼吸をしたたらしてゐる。門柱の鐘を鳴らす一人の訪客は、その歩道のかたはらに莟をもつてわらひかける微風の毛を意識してゐるけれど、その足は限りなくしばられてゐるのである。あの夜の虹の私語にしばられてゐるのである。

 ひそかに、しかも渾身の力の動きに押しすすめられてゆく路は、昏迷の落日の丘ではないか。大旋風の滿開の薔薇のごとく咲きみだれてゐる眞鍮製の圓錐體である。そこに盲目の手をいだして闇の砲彈をさぐりあて、全身のうつろに植ゑこみ、蓮華の花祭のやうに童貞を點火するのである。あらゆる無意識は機構の深淵に溺れて死に瀕しつつ綠色光を放つて世界をこえる。手負の魂は白い假面をかぶつて路の側にたたずみ、泥濘の皿に朝の髯をきつてゐる。幻想のなかに浮ぶ靑い耳はおそはれる火のもとである。それは廢滅の武器ではなく、盛りあがる愛の花束の散歩ではないか。

 MARIA UHDEN の奇怪なる繪を見よ。ひとつの心の心靈現象のやうなゆがめられた人間のあへぎが、べつとりと血をはいてゐる。十六本の指に電光をともして蛙の小徑をゆけ。悲しみの繁吹は軟風にたはむれる馬と馬とのひろがりをとつて、その生成の水のうへにそそりたつのである。

 掌を彌縫する雷鳴はしきりに曉の舌をだして、連翹の笑ひをしてゐる。この癡笑の糞は裸形の香炎をふみつぶして焦燥する一羽の白鳥である。逆行する空間に蠱惑の螢をとばし、念念として凝固し、雲散霧消する。この未發の風景に遠吠する消息は靑い牢獄である。表現からかくされた存在の胎動に味到し、屈伸自在の埒外にひるがへるもの、黑布をつけた群盲の永遠の音なき葬列である。

 いつさいは暗くとどろき、ひれふして、將に發せんとするものの危機を持續するのである。

 わたしは自らを俎上にのせ、昏昏として胚珠のごとく靜觀する。震動體の月光を織り紡いで吹く彼の佛蘭西象徴派のひとむれと、水に浮く百合の花をこもごもに取りあひ、華麗なる臥床にゆらめく影をくゆらせたのである。しかしながら、いま私は不思議なる門扉のまへにたつ。怖ろしい地鳴は悉く直立の白刄を私に擬してゐる。そしてわたしの背後に啼きつづける蒼白の「抒情の鳥」を刺し殺さうとしてゐる。この陰慘にして快適なる風景の脚は破れざる殼をつけたるまま、黑と金との宗教の庭園に漫歩する不行跡をあへてする。

 盲目こそ境を絶したる透徹の明である。

 やぶれざる前の破れこそ聲である。

 うごかざる前の動きこそ行ひである。

 波動の全圓に影はせまりきて、ひたりしづみ、觸れえざる生身の肌に恍惚としておよがせる魚の姿である。

 

[やぶちゃん注:「MARIA UHDEN」マリア・アーデン(一八九二年~一九一八年)。ドイツの女流版画家(グーグル画像検索「Maria Uhden)。

「繁吹」は「しぶき」と読む。飛沫。水滴。

「彌縫」は「びほう」と読む。(一般には失敗や欠点を一時的に)とりつくろうことをいう。

「味到」は「みたう(みとう)」と読み、内容を十分に味わい知ることをいう。

「盲目こそ境を絶したる透徹の明である。」の「明」は思潮社版「大手拓次詩集」では「卵」である。誤植とも思われるがママとした。「盲目」と「明」は寧ろ、詩句としてしっくりくるからである。]

鬼城句集 秋之部 零餘子

零餘子   草庵に二人法師やむかご飯

 

      零餘子こぼれて鷄肥えぬ草の宿

 

      まらうどにさめてわりなきむかご飯

 

[やぶちゃん注:「零餘子」は「むかご」と読む。植物の栄養繁殖器官の一つで、主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成される小さな根茎に似た塊。離脱後は新たな植物体を形成出来る。単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae では茎が肥大化した肉芽が小さな芋状になって形成され、栽培にも利用されている(他にユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium などでは葉が肉質化して小さな球根のような形になった鱗芽として形成される)。ここでの「零餘子」は食材としての「むかご」に限定された謂いで、その場合は通常、ヤマノイモ Dioscorea japonica・ナガイモ Dioscorea batatas などヤマイモ類のそれを指す。灰色で球形から楕円形を成し、表面に少数の突起があって、葉腋につく。塩茹で・煎りの他、炊き込みご飯などにする(以上はウィキの「むかご」及びそのリンク先を参考にした)。]

2013/10/28

今日「モースの富士描画実験」のフレーズで検索された方へ

見つかりましたか?
老婆心ながら、ここ(↓)ですよ!

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 9 日本人の描く富士山の心理学的認識実験」

とても気に入っているシークエンスなだけに――お訪ね頂き、嬉しく存じます。向後も御贔屓の程!

耳嚢 巻之七 仁にして禍ひを遁し事

 仁にして禍ひを遁し事

 文化三丑三月四日の大火に芝邊なりしとや、赤木藤助といへる者、火災甚間近鄽(はなはだまぢかくみせ)其外戸前(とまへ)をうちて目塗(めぬり)こまやかになしけるが、召仕(めしつか)ふ者、外(ほか)より手傳(てつだひ)に來りし者不殘(のこらず)集りしに召仕壹人見へず。内に殘りてや有(あら)んと、あるじ殊にあんじけるが、何卒最早殘り居るべき、先へ立退(たちのき)もなしけんと人々申(まうし)けるを、左にあらず、戸まへはづし可見(みるべし)と言(いひ)しを、最早火は近し、風は強し、今更開きなば類燒は目の前なり迚いづれもいなみけるを主人、燒たれば迚是非なし、明け候へ迚戸前壹枚はづしければ、察しの通退(とほりのき)おくれ内に居たり。何故殘りしと尋(たづね)ければ、最早片付仕廻(かたづけしまひ)たれば出んと思ひつれど出所(でどころ)なし。内より戸前をあく迄たゝきけれど、外の物さはがしきに聞(きき)つくる物なければ、まさに死なんと覺悟きわめしといいしが、無程(ほどなく)あたりも不殘(のこらず)類燒して、主人初(はじめ)怪我せぬ事にぞ、そこそこ目塗して立退しに、家竝に一軒も殘りし者なく、戸前丈夫の藏も火入(いり)たすからずなりしが、此並木やが鄽藏(みせぐら)は無難殘りし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「文化三丑三月四日の大火」文化三(一八〇六)年は丙寅(ひのえとら)であるから誤り(訳では訂した)。前年の乙丑(きのとうし)と誤ったか、若しくは「年」の誤字であろう。この「文化の大火」は既注済み。本巻で先行する「正路の德自然の事」の私の注を参照のこと。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、火事なればこそ間近の文字通り「ホットな」噂話である。
・「目塗」合わせ目を塗って塞ぐこと。特に火災の際に火が入らないよう、土蔵の戸前(土蔵の入口の戸のある所及びその戸を指す)を塗り塞ぐことをいう。
・「鄽藏」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『見世藏(みせぐら)』(正字化して示した)とあり、長谷川氏は『防火のため土蔵造りにした店』と注しておられる。

■やぶちゃん現代語訳

 仁徳あればこそ禍いを遁れた事

 文化三年丙寅(ひのえとら)の三月四日の大火の折りの話で御座る。
 芝辺りとか聴いておるが、さる大店(おおだな)の主人、赤木藤助と申す者、火災、これ、はなはだ間近となり、店その外は勿論、蔵の戸前(とまえ)をも厳重に閉じおいて、隙間にはびっちりと泥を目塗り致いて御座ったと申す。
 ところが、いざ、防火の仕儀を終えて、召し仕(つこ)うて御座った者どもや、外(ほか)より手伝いに参って御座った者どもも残らず集まったによって、よう調べてみたところが、親しく召し仕(つこ)うて御座った一人の姿が、これ、見当らぬ。
「……い、家内に残っておるのではあるまいか……」
と、主人(あるじ)は殊の外、心配致いたれど、
「――どうして最早残っておろうはず、これ、御座いましょうや! 大方、臆病風に吹かれて先に立ち退きなんど成したものに違い御座いませぬッ!」
と、火急の切迫の中なればこそ、誰もが口々に申したてた。
 ところが、
「――いや、さにあらず! 蔵の扉を外して中をよう、調べるがよいぞッ!」
と命じた。しかし、
「――いいえ! ご主人さまッ! 最早、これ、火は近し、風は強し――いまさら、折角、目張りを致しました土蔵の戸を開いてしまいましたら、これ、類焼は免れませぬぞッ!」
と、誰もが否んで尻ごみ致いた。
 それでも主人は、
「――焼け落ちるならば――これ、焼け落ちよッ! 是非に及ばず! ともかくも、開けなされッ!」
と厳として命じたによって、折角、びっちりと目塗りで固めおいた戸前を、総て掻き落といて、戸一枚を外した。
 すると――主人の察した通り――かの者、これ、逃げ遅れて土蔵の内におったと申す。
「――何故に居残っておったものかッ!?」
と糺いたところが、
「……へぇ……も、最早、片付けも終わりましたれば、さても逃げ出でんと思いましたところが……見れば……どこもかしこも外より目塗りの、これ、終わって御座いましたによって……もう、出づべき所も、これ、御座いませなんだ。……内より入口の戸(とお)を、あらん限りの力をもって……懸命に叩きに叩きましたけれども……戸外のもの騒がしさに……これ、聴きつけて呉るる者は……誰(たれ)一人として、おられませなんだ……されば……かくなる上は……最早、このまま死なんものと……覚悟を決めて……おりまして御座いましたッ……」
と述懐致いたと申す。
 ほどのう、芝一帯は、これ、殆んど、類焼に及んだによって、主人始め、
「――怪我せぬことぞ、何よりの大事ぞッ!」
と、再びその外した一枚に、そこそこの目塗りを施した上、即座に立ち退いて御座ったと申す。
 さても――芝一帯の家並は――これ――一軒の残りもなく――格式高き大店(おおだな)の戸前丈夫を誇った大きなる蔵も――これ――その殆んどに火の入って――無事なるところは――これ――全くないに等しい惨状と……相い成って御座った。……
……ところが
――何故か――この主人の「並木屋」の店蔵のみは――これ――全くの無傷にて――一面の焼野原となった中――忽然と立って御座った。
――内なる財貨も――これ――一つとして焼けることのう――全く以って無事、残って御座ったと申すことで御座った。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 1 日光街道点描1

 第四章 再び東京へ

 


M90


図―90

 

 二日間続けさまに雨が降って我々に手紙や旅行記を書く時間を充分与えて呉れた。朝の五時、我々は東京へ向けて出発した。人力車は旧式な二輪馬車みたいに幌をかけ、雨をふせぐ為に油紙を前方に結びつけた(図90)。我々は文字通り仕舞い込まれて了ったあげく、七台の人力車を一列につらねて景気よく出立した。車夫の半数は裸体で、半数はベラベラした上衣を背中にひっかけた丈である。確かに寒い日であったが、彼等は湯気を出して走った。時々雨がやむと幌を下させる。車夫たちは長休みもしないで、三十マイルを殆ど継続的に走った。急な傾斜のある場所では、溝に十フィート、あるいは十五フィート置きに堰(せき)が出来ていて、水流の勢を削ぎ、かくて水が勝手に流れ出るのを防ぐようになっているのに、気がついた。また立木は如何なる場合にでも斧で伐らず、鋸で引いて材木を節約する。時に大きな岩塊に、それを割ろうとした形跡のあるのを見たが、鑽孔は円形でなくて四角い。街道には変った人々がいた。我我がすれちがった一人の巡礼は、首にかけた小さな太鼓を時々たたき、口を開くことなしに、息を吹き出して了ったバッグパイプのような、一種間ののびた、つぶやくような曲節に似た、音を立てるのであった。この音は彼の祈禱で、巡礼中絶えず口にするものである。何百マイルも旅をして各所の神社仏閣に参詣するこれ等の人々の中には、大工や商人や百姓等などもいる。彼等はよく一銭も持たずに、たとえ家には充分金があっても、途中の食事と宿とは人人の施しを頼りにして、巡礼に出かけることがある。

[やぶちゃん注:「三十マイル」約48・3キロメートル。

「十フィート、あるいは十五フィート置き」3~4・6メートルおき。

「口を開くことなしに、息を吹き出して了ったバッグパイプのような、一種間ののびた、つぶやくような曲節に似た、音を立てるのであった」六根清浄か。]

 

 我々が昼飯をとるために休んだある場所では、一人の男が詩だか何だかを朗誦していたが、彼の声には非常に緊張した不自然な調子があった。彼は二つの長い木片を持っていて、適当な時間を置いては彼の話に勢をつける為に、それを叩き合せた。家の近所にいた人は誰も彼に注意を払わないので、我々は一銭ずつ出し合って、彼になおしばらく朗誦を続けさせた。我々が旅した街道には、前にも述べたような立派な松や杉が、塀のように立ち並んでいた。他所に於ると同様、ここでも燕が家の中に巣をつくり、最も善い部屋にまで入り込む。床がよごれるのを防ぐ為に棚が打ちつけてある。

[やぶちゃん注:「一人の男が詩だか何だかを朗誦していた」拍子木を持っている点では増上寺の七ツ坊主などとよく似ている(唱えるのは無論、念仏。但し、「七ツ坊主」は通常は複数による托鉢である)。托鉢僧と考えてよかろう。]

 

 街道には短い間隔をおいて標があり、次の場所までの距離が示してある。三十五マイル来た時、路が非常に悪くなり、また風も著しく勢を増したので、我々の車夫は疲れて了い、引き返し度いといい出した。そこで賃銀を貰った彼等は、四銭出して食事をした後、帰って行った。我々が通過した村のある物は貧しげに見え、村民たちも明らかに貧乏やつれしていた。外国人がめったにやって来ないので、我々が通ると家族全体が出て見送り、我々が止ると人の黒山があたりを取巻いた。人々は最下層に属し、粗野な顔をして、子供は恐ろしく不潔で、家産は貧弱であったが、然し彼等の顔には、我国の大都市の貧民窟で見受けるような、野獣性も悪性も、また憔悴(しょうすい)した絶望の表情も見えなかった。我々が昼食をしたある村では、お主婦(かみ)さんが我々の傍に膝をついて坐り込み、我々が何か口に入れるごとに、歯をむき出してニタワニタリと笑ったり、大声を立てて笑ったりした。そして最後にうるさくてたまらぬ程になったので、ドクタア・マレーが日本語で、何がほしいのだと叱るように質(たず)ねたら、彼女はその意味を悟って向うへ行った。この憐れむ可き女は何も知らず、そして極めて好奇心に富んでいるので、我々の顔色、服装、食物、動作、ナイフとフォーク、その他すべてのこまかいこと迄が全然新しく、見馴れぬものなのだった。彼女の態度は、たしかによくなかった。

[やぶちゃん注:「三十五マイル」約56キロメートル。地図上で計測してみると、現在の下野市の小金井辺りになる。]

 


M91


図―91

 


M92


図―92

 

 このきたならしい町に於てですら、我我が立寄った旅籠屋を、ニューイングランドその他の我国の各所で私が見た宿屋と比較すると、面白いことが見出された。図91は我々の部屋の一面をざっと写生したものである。棚はざらざらした虫喰いの板、柱は自然のままの木の幹、それから簡単なかけもの。細部はしっかり建てられてあった。この部屋は美しい庭に面していて、庭には水をたたえた小さな木槽があった。その材木は海岸から持って来たのである。事実それは船材の一部分で、色は黒く、ふなくい虫が穴をあけたものである。その中には岩と水草と真鍮の蟹その他が入っていた(図92)。それは誠に美しく、我国にでもあったら、最も上等な部屋の装飾として、熱心に探し求められるであろうと思われた。この部最の壁にかけられた書き物は、翻訳を聞くと、古典の一部であることが判った。私は米国の同じような場所の壁を飾る物――拳闘、道化た競馬、又は裸の女を思い浮べ、我々はいずれも、日本人の方が風流の点では遠かに優れていることに同意した。この繊細な趣味のすべてが、最も貧しい寒村の一つにあったのである。そしてこの異教人の国で、芸術的の事物を鑑識することが、如何に一般的に行われているかを示している。

 

 此所で我々は、我々の人力車夫と喧嘩をした。彼等は我々が手も足も出ないような地位にあるのを見て、所謂文明国でよく行われるように、足もとにつけ込もうとしたのである。我々はステッキで彼等を威嚇した。すると彼等は大人しくなったが、事実彼等は悪人ではないので、事態は再び円滑になった。雨が絶間なくビショビショ降り、おまけに寒かったが、これ等の裸体の男共は、気にかける様子さえも示さなかった。日本人が雨に無関心なのは、不思議な位である。小さな赤坊を背中に負った子供達が、びしょ濡れになった儘、薄明の中に立っていたりする。段々暗くなるにつれて、人力車に乗って走ることが、退屈になって来た。低い葺き屋根の家々が暗く、煙っぽく見え、殆どすべての藁葺屋根から、まるで家が火事ででもあるかのように、煙が立ち登る。茶をのむ為に休んだ場所には、どこにも(最も貧し気に見える家にさえ)何かしら一寸した興味を引くものがあった。例えば縄、竹、又は南京玉のように糸を通した介殻さえも材料にした、簾(のれん)の器用なつくりようがそれである、これは戸の前に流蘇(ふさ)のように下っていて、風通しがよく、室内をかくし、そして人は邪魔物なしに通りぬけることが出来るという、誠にいい思いつきである。村の一軒の小さな家の屋根が、鮑(あわび)の大きな完全な介殻や、烏賊(いか)の甲で被われていたことを覚えている。これ等は食料として海から持って来もので、殻を屋根の上にのせたのである。

 


M93


図―93

 

 最後に人力車の旅の終点に着いた我々は、すべての旅館に共通である如く、下が全部開いた大きな家の前に下り立った。非常に暗く、雨は降り続いている。そして車夫たちが、長い間走ったので身体から湯気を立てながら、絵画的な集団をなして、お茶を――ラム酒でないことに御注意!――飲み、着色した提灯のあたたかい光が、彼等の後に陰影を投げて、彼等の褐色な身体を殆ど赤い色に見せている所は、気味が悪い程であった。彼等は野蛮人みたいに見えた。この家には一体何家族いるのか見当がつかなかったが、すくなくとも半ダースはいたし、女も多かった。図93は戸外から我々を見つめていた子供達の群である。一室に通された我々は、草疲(くたび)れ果てて床の上にねころがった。

 


M94


図―94

 

 天井には長い棒から蚕(かいこ)の卵をつけた紙片が何百枚となくぶら下っていた(図91)。これ等はフランスに輸出するばかりになっている。紙片は厚紙で長さ十四インチ、幅九インチ、一枚五ドルするということであった。いい紙片には卵が二万四千個から二万六千個までついている。紙片は背中合せにつるしてあって、いずれも背に持主の名前が書いてある。横浜の一会社が卵の値段を管制する。この会社は日本にある蚕卵をすべて買占め、ある年の如きは卵の値段をつり上げる為に、一定の数以上を全部破棄した。この家の持主らしい男は中々物わかりがよく、我々は通弁を通じていろいろと養蚕に関する知識を得た。彼には奇麗な小さな男の子がある。私は日本に来てから一月になり、子供は何百人も見たが、私が抱いて肩にのせさえした子供はこれが最初である。家の人達はニコニコして、うれしがっていることを示した。

北條九代記 承久の乱【二】  後鳥羽院、仁科盛遠子息太郎を勝手に西面の武士とするも、義時の勘気に触れて盛遠は領地を没収される

信濃國の住人仁科(にしなの)二郎平盛遠とて、弓馬を嗜むものあり。子息太郎をば、十五になる迄元服せさせず、宿願の事ありて、子息を召連(めしつれ)熊野へ參籠致しけり。其折節一院も熊野に詣でさせ給ひしが、道にて參り合ひ奉る。「誰(たれ)ぞ」と御尋あり、しかしかと申す。最淸(いときよ)げなる童なれば召使はれんとて、西面にぞなされける、子共(こども)の召されて京都に伺候申す事は面目なりと思ひて、父盛遠も同じく參りて、仙洞に伺候致す。右京〔の〕權〔の〕大夫義時、この事を傳承(つたへうけたまは)り、關東御恩の侍(さぶらひ)、其免(ゆるされ)もなくて院中の奉行頗る心得ずとて、關東御恩の二ヶ所を沒收(もつしゆ)せらる。仁科盛遠深く歎き申す間、返遣(かへしつかは)すべき由院宣を下さる〻といへども、義時更に用ひ奉らず。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱Ⅱ 後鳥羽院、仁科盛遠子息太郎を勝手に西面の武士とするも、義時の勘気に触れて盛遠は領地を没収される〉底本頭書『承久亂源(二)仁科の領地沒收の事』

「承久記」(底本の編者番号11のパート)の記載。

 

其比、鎌倉ニ右京權大夫兼陸奧守平義時ト云フ人アリ。上野介直方二五代ノ孫、北條遠江守時政ガ二男ナリ。ケン威重クシテ國中ニアフガレ、政道タヾシウシテ王位ヲカルシメ奉ラズ。雖ㇾ然、ハカラザルニ勅命ニ背キ朝敵トナル。其ヲコリヲ尋レバ、信濃國ノ住人仁科二郎平盛遠ト云フヲノコアリ。十四・十五ノ子ドモ未元服モセサセズ、シユク願アルニヨリテ熊野へ參リケル。折節、一院御熊野マウデアリケルニ、道ニテ參アヒヌルニ、「誰ソ」ト御尋アリ。「シカシカ」ト申。「キヨゲナルワラハベナレバ、召仕レン」トテ西面ニゾナサレケル。子共ガ召ルヽ間、面目ノ思ヲナシテ、盛遠モ同ジウ參リケリ。權大夫此事傳承リテ、「關東御恩ノ者ノ、ユルサレモナクテ院中ノ奉公不心得」トテ、關東御恩二箇所〔沒〕シュセラレヌ。盛遠嘆キ申間、返シアタフベキ由、院宣ヲ被ㇾ下トイへ共、不ㇾ奉ㇾ用。

 

「仁科盛遠」(?~承久三(一二二一)年)は信濃仁科氏の祖。以下、ウィキ仁科盛遠によれば、桓武平氏平繁盛の末裔という(近年では、奈良時代に古代豪族阿倍氏または安曇氏が信濃国安曇郡に定住し、その支族が伊勢神宮の御領「仁科御厨」を本拠としたことを起源とする説や、奥州安倍貞任の末裔とする説もある)。仁科盛義(この西面の武士となった「太郎」か)の父。信濃国安曇郡仁科荘に住して仁科氏を称するようになった。後に後鳥羽上皇に仕えて北面武士となったが、後鳥羽院への臣従が鎌倉幕府に無断でなされたために所領を没収された(「承久記」本文の叙述とは微妙に齟齬するが、息子が西面の武士になった以上は彼が北面の武士に抜擢されるのは頗る自然ではある)。承久の乱が起こると後鳥羽上皇を中心とする朝廷方に付き、北陸道に派遣されて越中国礪波山で北条朝時の幕府軍と戦い、敗死した。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 27 モース先生は「裸の大将」だった!!! ~ 第二章 了

M89


図―89

 宿屋に着くと我々は急いで荷造りをし、ドクタアは駄馬をやとい、十七マイルの距離を橋石まで歩いて帰ることにした。その日一日の経験の後なので、丘を上下し、平原や渓流を横切り始めた時には、いささか疲れていた。我々はかくの如くにして、七月四日の独立祭を祝ったのである。私は昆虫採集に時を費した為に取り残されて了い、私の日本語たるや「如何ですか?」「さようなら」「一寸待って」、その他僅かな.バラバラの単語に限られているのに、数時間にわたって、英語の全く話されぬ日本の奥地に、たった一人でいるという、素晴しい新奇さを楽しんだ。この日は暑熱きびしく、私の衣服はすべて人夫が背負って先に持って行って了ったので、私は下シャツとズボン下とを身につけている丈であった。それも出がけにボタンが取れて了ったので、安全ピン一本でどうやら体裁をととのえ、かくて私はその日を祝うために「大砲ドンドン」「星の輝く旗」等を歌いながら、或は蝶々を網で捕え、或は甲虫を拾い、とにかく局面の奇異を大いに愉快に思いながら歩いて行った。私は熱い太陽を除けるために、てっぺんの丸い日本の帽子をかぶっていた。これで私の親友と雖(いえど)も、私が誰だか判らなかったことであろう(図89)。日本人がこの焦げつくような太陽の下を、無帽で歩いて平気なのには実に驚く。もっとも折々、非常に縁の広い縮んだ笠をかぶっている人もいるが……。平原地を通りぬけて再びあの深林中の小径に来た時、突如私の前に現われたのは一匹の面構え野蛮にして狼のような犬で、嚙みつかんばかりの勢で吠え立てたが、路が狭くて通りこすことが出来ないものだから、後ずさりをした。我々はその状態を続けた。犬は逃げては吠えた。白状するが、私の僅かな衣類は極めて薄く思われ、私はピストルを持っていなかった。間もなく三人の日本人が現われた。犬は彼等の横を走りぬけ、我々は身体をすり合わせて通った。すると犬奴は彼等を見失うことを恐れ、思切って森の中に飛び込んで私と反対の方向に走った。何故犬が森を怖れたのか、私には訳が分らぬ。いずれにしても、犬が行って了ったことは悦しかった。もっとも、それ迄に見た犬から判断すると、この国の犬は害のない獣であるから、私も特別に恐れていはしなかったが……。
[やぶちゃん注:いいですねぇ、モース先生!……あなたは真正の「裸の大将」の濫觴だったのですね!……高原を独り高歌放声しながら如何にも楽しそうにそぞろゆく、巨体の天使のお姿が見えまする!!!……
「大砲ドンドン」原文“"Boom goes the cannon”。不詳。独立記念日に歌うのだから、何だか、かなり有名な歌の様には思わるのだが、この文字列では検索に引っ掛からない。どうか識者の御教授を乞うものである。
「星の輝く旗」原文“Star-Spangled Banner”。謂わずと知れたアメリカ合衆国国歌。]

 私は中禅町で、休憩しながら私の来るのを待っていた一行に追いつき、食事をした後でまた歩き出した。橋石に向う途中の景色は、来た時よりも余程雄大である。下り坂なので、荒々しい切り立った渓谷を見下すことが出来るばかりでなく、上る時には暑くて疲労が激しい為に何も考えることが出来なかったが、今は深い谷の人に迫るような形状をつくづくと心に感じることが出来た。我々の食料はなくなりかけていた。赤葡萄酒や麦酒(ビール)は残っていたが――我我が極端な節酒家であることの証拠である――ビスケットは完全になくなって了った。(外国人は日本の食物や酒に馴れなくてはならぬ。私は一、二年後にすっかり馴れた。これは同時に運搬や調理の面倒と費用とを節約することになる。)我々は米、罐詰のスープ、鶏肉で、どうにかこうにか独立祭の晩餐をつくり上げ、ミカド陛下、米国大統領、並に故国にいる親しき者達の健康を祝して乾杯し、愛国的の歌を歌い、テーブルをたたいて、障子からのぞく宿屋の人々を驚かしたりよろこばしたりした。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 26 湯ノ湖に於ける船上採集


M88


図―88

 

 湯元で水温調査を終えた我々は、この土地唯一の大きなゴンドラみたいな舟を借り、漕ぎ手として男二人をやとって、湖水の動物研究にとりかかった。舟子が舟に乗りうつる時、若い娘が例の火鉢と薬鑵(やかん)とを持ってついて来た。我々は何故招きもしない彼女が舟に乗って来たのか不思議に思ったが、とにかく舟を立去らぬので、私は戽斗(あかとり)から貝を取り出す時硝子(ガラス)瓶を持たせたり何かして、彼女に渡船賃をかせがせた。彼女は我々が標本をさがして舷(ふなばた)から水中を見る時、我々の帽子を持ったりした。やがて岸に帰りついて、彼女が実は舟の持主で、我我が彼女に舟賃を払わねばならぬと知った時の我々の驚きは推察出来るであろう。この国の人々は冗談を面白がる気持を多分に持っているから、定めし彼女も我々が彼女を取扱ったやり口を楽しんだことであろう。私はメイン州の「種」を思わせる Lymnaea の標本一つと、小さな Pisidiium とを見つけた。我々が岸を離れ、見をさがすにはもって来いの新しい水蓮の茂った場所に来た時、烈しい風が吹き始め、舟子たちが一生懸命、漕いだり押したりしたにも拘らず、舟は自由にならなかった。彼等を助けようと思って私は竿を取ったが、間もなく竹竿が私にとっては全く珍奇なものであることを理解し、また舟その他すべてが我国にあるのと丸で違って奇妙な動きようをするので、うっかりすると水の中に墜ちる恐れがあるから、私は運を天にまかせた。我々は湖水を横断して、対岸の入江へ吹きつけられた。ここで風の止むのを待ってしばらく採集した後、舟子たちは舟を竿で押し戻そうとした。私は再び竿を取って見たが、あまり短気に、どこへでも構わぬから動かそうとした結果、暗礁にのし上げて了った。ここで我々はかなりな時間を徒費した。舟子はとうとう水中の岩に飛び降りて、そして恐ろしい努力の後に、ボートを持ち上げるようにして、岩から引き離した。と同時に、また風が舟をもとの入江に吹きつけたので、我々は皆岸に飛び上って湯元まで歩いて蘇った。図88は舟から見た村を大急ぎで写生したものである。

[やぶちゃん注:「大きなゴンドラみたいな舟」絵から見ると観光用のやや小振りの屋形船のように見える。

Lymnaea」腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科モノアラガイ属イグチモノアラガイ亜種モノアラガイ Radix auricularia japonica か、その近縁種で全国的に広く分布するヒメモノアラガイ Austropeplea ollulaであろう。これらの種は水面を逆さになって這うことでも知られる。モースの示した種は現在、本邦に侵入した外来種であるコシダカヒメモノアラガイ Lymnaea truncatula の属する属である(因みにこのコシダカヒメモノアラガイ Lymnaea truncatula はヨーロッパ原産で昭和一五(一九四〇)年前後に水草などに伴って移入したとされる。以上はウィキの「モノアラガイ」に拠った)。なお、モノアラガイ類は扁形動物門吸虫綱二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科棘口吸虫科棘口吸虫亜科棘口吸虫属浅田棘口吸虫 Echinostoma hortense などのヒト寄生虫感染症を引き起こす吸虫類の中間宿主として知られる。

Pisidiium」斧足(二枚貝)綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ上科マルスダレガイ科マルスダレガイ目マメシジミ科マメシジミ属 Pisidium の一種。殻長は二~五ミリメートルのシジミに似た淡水産二枚貝。北方系種で寒冷地や高地・湧水の流れ込む比較的水温の低い沢や湖・湿原の池塘などに生息する、半透明の極めて地味な微小貝。本邦では二十種程度棲息するとされているが研究は進んでいないマイナーな淡水貝である(個人サイト「Freshwater-Life~身近な水辺の仲間たち~」の「マメシジミって、なあに?」などに拠った)]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 25 湯元温泉にてⅡ


M87


図―87

 

 道路に沿って浴場が数軒ある。屋根の無いのもあれば、図87のように小屋に似た覆いがあるのもある。地面から多量の湯――文字通り煑(に)えくり返る泉で一秒間も手を入れていることが出来ぬ――がわき出ているのは実に不思議な光景だった。一つの温泉に十分間鶏卵を入れて置いたら、完全に茹って了った。これ等の温泉は、すべて同じ様な硫黄性の臭気を持っているらしく思われたが、而も村の高官の一人が我々の通訳に教えた所によると、それぞれ異った治療的特質を持っている。ある温泉は胸や脚の疼痛(いたみ)に利くことになっている、もう一つ別なのは胃病によろしく、更に別なのは視力の快復に効能があり、また別なのは脳病に、この温泉は何々に……という訳で、それぞれ異る治病効果を持っていることにされている。

 

 ドクタア・マレーが手帳を持ち、私がかかる浴場に一つ一つ入っては、桶の隅に立って出口から流れ出る湯の方に寒暖計をさし出し、後には我々が何をするかと不思議に思ってついて来る老幼男女を随えて道路を歩いたのは、実に並外れな経験であった。ついて来る人達は入浴者を気にかけず、入浴者はついて来る人達を気にかけなかったが、これは全くしかあるべきである。それほ実に礼節と単純さとの絶頂であって、この群衆の間には好色な猫っかぶりなどはいない。浴場にはそれぞれ二人乃至八人(あるいはそれ以上)の入浴者がいて、中には浴槽の縁に坐っているのもあったが、若い娘、中年の婦人、しなびた老人等が、皆一緒の桶で沐浴する。私は率直に且つ明確に、日本の生活のこの一面を説明した。それはこの国民が持つ特に著しい異常の一つだからである。我々に比して優雅な丁重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人でありながら、裸体が無作法であるとは全然考えない。全く考えないのだから、我々外国人でさえも、日本人が裸体を恥じぬと同じく、恥しく思わず、そして我々に取っては乱暴だと思われることでも、日本人にはそうでない、との結論に達する。たった一つ無作法なのは、外国人が彼等の裸体を見ようとする行為で、彼等はこれを憤り、そして面をそむける。その一例として、我々が帰路についた時、人力車七台(六台には一行が乗り、一台には荷物を積んだ)を連ねて、村の往来をガラガラと走って通った。すると一軒の家の前の、殆ど往来の上ともいう可き所で、一人の婦人が例の深い風呂桶で入浴していた。かかる場合誰しも、身に一糸もまとわぬ彼女としては、家の後にかくれるか、すくなくとも桶の中に身体をかくすかすることと思うであろうが、彼女は身体を洗うことを中止せずに平気で我々一行を眺めやった。人力車夫たちは顔を向けもしなかった。事実この国三千万の人々の中、一人だってそんなことをする者はないであろう。私は急いでドクタア・マレーの注意を呼び起さざるを得なかった。するとその婦人は私の動作に気がついて、多少背中を向けたが、多分我々を田舎者か野蛮人だと思ったことであろう。また央際我々はそうなのであった。

[やぶちゃん注:この段もすこぶる好きなシークエンスである。そして翻って今の日本を思う時、何とも言えない不思議な淋しさを感ずるのである。

「この国三千万の人々」ウィキの「国勢調査以前の日本の人口統計」によれば、この明治一〇(一八七七)年11日現在でその当時の人口(推定)は、既に

男性 18,187,000人

女性 17,683,000人

合計 35,870,000人

であった。]

中島敦 南洋日記 十月一日(水) 又は 「この手紙……変ですねぇ」(杉下右京風に)

        十月一日(水)

 船内朝食時間の遲きに懲りて、ジャボールにてパンを購め船に持込む。今朝ボーイをしてに燒かしめて食ふ。

 朝來、小雨。涼し、晝食後、將棋。

 夜、麻雀、

[やぶちゃん注:「朝來」「てうらい(ちょうらい)」と読み、朝からずっと続くこと、朝以来。

 以下、同日附たか書簡(旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三一)を示す。長いので途中に私の語注を配した。先に出た竹内虎三の詳しい話が載っていて興味深い。この人物、確かに魅力的だ。消息が知りたくなる。何方かその後の彼のことを知りませんか?

   *

〇十月一日附(消印ボナペ郵便局16・10・4。パラオ丸にて。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書)

 九月二十八日。ヤルートは面白い島だよ。ここ迄來て、やつと、南洋へ來たといふ束がするね。島中で一番高い土地でも海面より五尺と高くないんだ。幅が二丁とはないから、大きな波が來ると、心配な位だ。椰子の木が、パラオのなんかに比べて、ずつと.セイが高い。パラオに白い砂はないが、ここは島中、砂ばかり。(土が無いんだ)だから、海水が又、ズツト澄んでゐる。今迄も隨分、海水のキレイなことを書いたけれど、このヤルートの海ほど、澄んでゐるのは、見たことがない。それに見える魚の種類の多いこと! 今朝は一時間ほど、あきずに海を覗(のぞ)いてゐた。こんなキレイな見物(ミモノ)が世の中にあるとは知らなかつたよ。底の珊瑚礁が美しい上に、その上を泳ぐ魚どもの色の、あざやかなこと。一番キレイなのはね、長さ一寸五分位の魚で、丁度、螢草(つゆくさ)の色を、もう少し濃くアザヤカにした樣な色のヤツがね。一杯に群れてあそんでる有樣だよ。ほんとに、なんと言つていいか、判らない。水の上から朝日が射してくるとね、その靑い魚のヒラくしてるのがね、紫色になつたり、紺色になつたり、玉蟲色になつたり、色々に光りながら變るんだ。この靑い魚のほかに、二十種類ぐらゐの魚どもがあそんでるんだ。數にしたら千匹どころぢやないだらう。かなり大きい黑鯛ぐらゐのもゐるんだ。キレイだよ。見せてやりたかつたねえ。桓にも、ノチャにも、お前にも。

[やぶちゃん注:「五尺」一・五二メートル。「二丁」二一八・二メートル。「一寸五分」約四センチ六ミリメートル。]

○今日は日曜で、學校觀察もできないので、二日休息。

○夜は月が明るい。七日か八日の月なんだが、内地の滿月ぐらゐの明るさ。海岸へ涼みに行つたら、土人の靑年達が頻(シキ)りに、ギターを鳴らして歌(うた)を唱つてゐる。この島の歌もあるが、「支那の夜」なんぞも歌つてゐる。

 九月二十九日。今日は、朝六時から公學校觀察。朝六時から、といふと、大變早いやうだが、役所も學校も六時始まりなんだから、大したことはない。一年生の授業を見に行つたら、先生が、先づ言ふんだ。「今日は南洋廳のお役人が皆さんの授業を見に來(こ)られました。皆さんが行儀よくしてゐると、南洋廳(チヤウ)のお役人は大層喜ばれます」すると、土人の靑年の通譯がゐて、(一年坊主はまだ日本語が良く判らないから)それをマーシャル語で、言直す。すると六十人ばかりのチビの黑助共が、僕の方をふり返つて見て、「ヘー」といふやうな、恐入つたやうな顏をするんだ。南洋廳のお役人樣、くすぐつたくつて、しやうがない。

 午前十時ヒルメシ。午後は、支廳の人と一緒に島内を歩き、カブアといふ大酋長の家をたづねた。一寸ハイカラな洋風の家だ。この酋長は年收(椰子のコプラによる)七萬圓ぐらゐあるさうだから、大したもんだね。酋長は三十位の大人しい靑年で、日本語も英語も出來る。サイダーや椰子水や、タコの實を御馳走して呉れた。彼の細君が、は、非常な美人だ。色も内地人位。内地人としたつて、立派に美人で通ると思ふ。その細君の妹も出て來たが、之もキレイだ。二人とも日本人との混血なんだ。(元町の女學校あたりには、この程直のは、中々ゐやしない)この酋長の家の入口に、標札(へうさつ)がかけてあつて、「嘉坊(カブア)」と書いてある。をかしいだらう?

○夜は僕の歡迎會。支廳長以下國民學校、公學校の先生達、が出席。何とかいふ料理屋だつたが、日本の地の海の果まで來て、怪しげな藝者をあげようとは思はなかつた。苦笑ものだね。

[やぶちゃん注:「何とかいふ料理屋」当日の日記に「竹の家」とある。]

○土人の赤ん坊はトテモ可愛い。目が大きく、マツゲが長いからだね。大人になると、ミットモナクなるが。

 九月三十日。今日の午後で、ヤルートとお別れだ。ヤルート滯在中、一人の役人と仲良くなつた。竹内といふ、實に氣持の良い男。僕より三つ四つ年上だが、上役と衝突ばかりしてそのため出世できないでゐる男だ。男前もいいし(?)、頭もハツキリしてると思ふが、頭のハツキリしてることは、役人(小役人)として一番、出世の邪魔になることらしい。餘り昇(シヨウ)給させないので腹を立てゝ、内務部長に「マタ、ゲツキフ、アゲヌ。バカヤラウ」と電報を打つたので有名な男だ。此の男とすつかり仲良くなつちまつて、今日は、この人の家で朝食をたべた。一緒に、役人といふもの(殊に南洋廳の役人)を痛快な程、罵倒(バタウ)した。さて、それから、色々話してゐる中に、「自分は一昨年、「風と共に散りぬ」の譯者、大久保康雄を案内して、マーシャルの離島へ行つた」と言出した。お前、おぼえてるかい? 田中西二郎が送つてくれた小説の本に、大久保康雄の南洋の小説が二つあつたことを。あれは皆、この竹内氏が話した材料なんだとさ。尤(モツト)も、當(タウ)の竹内氏は大久保康雄の小説を讀んではゐないんだがね。それでね、あの小説を竹内氏に讀ませてやりたいと思ふんだがね、決して急ぎは、しないから、何時でもいい、ヒマな時に、あの本二册(三册の中、なかを調べて見るんだぜ、大久保康雄のがあるかどうか)(マチガヘテ、風と共に散りぬを送つちや駄目だよ。「妙齡」つていふ、田中の送つて來たヤツだよ)送つてやつて呉れないか。宛名は、南洋群島ヤルート島。ジャボール。ヤルート支廳。竹内虎三樣」書留になんか、する必要はないよ。急ぐ必要もないぜ。賴むよ。僕は、この竹内つていふ男が好きなんだよ。どうして、こんな竹を割つたやうな氣性の男が、人から憎まれるのかなあ。

[やぶちゃん注:「大久保康雄」(明治三八(一九〇五)年~昭和六二(一九八七)年)は英米文学翻訳家で専門翻訳家の草分け的存在である。茨城県生。慶應義塾大学英文科中退。大宅壮一のジャーナリスト集団に属して翻訳を修業、昭和六(一九三一)年に最初の訳本ポール・トレント「共産結婚」を刊行、昭和一三(一九三八)年には中島も述べているマーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」の完訳を刊行した。昭和一六(一九四一)年頃には立ち上げた同人誌に小説を執筆したりもしている。戦後、絶版となっていた「風と共に去りぬ」を復刊してベストセラーとなり、ヘンリー・ミラーの主たる作品やナボコフ「ロリータ」の純文学の他、クロフツ「樽」やコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズ、ハガード「洞窟の女王」などの推理・SF小説なども含む、現代米文学を中心に多くの訳書がある。参照したウィキの「大久保康雄」によれば、『大学で教鞭をとる傍ら翻訳にあたる多くの翻訳者とは一線を画し、生涯教職とは無縁で、職業翻訳家として次々に翻訳を発表。日本の英米文学紹介者の中で独特の活躍を続け、彼以後様々な職業翻訳家が活動するようになった』。『下訳者たちを駆使し約55年にわたり膨大な「大久保訳」を生み出しており、「大久保工房」と呼ばれた下訳者の中には、戦前からの付き合いの中村能三、田中西二郎の他、白木茂、高橋豊、加島祥造など、後に独立し名を成した翻訳家たちが多くいる』。『面倒見の良い人物で、下訳者や編集者は大した用事はなくてもよく大久保のもとを訪れていたと伝えられる』とある。「妙齡」という作品は不詳だが、ネット検索を掛けると雑誌『日本文学』(二〇一二年十二月日本文学教会刊)に杉岡歩美という方の『中島敦〈南洋行〉と大久保康雄「妙齢」』という論文が載るので関心のある向きはそちらを参照されたい。なお、大久保のヤルート到着は昭和一四(一九三九)年六月のことであったことがこちらの方のブログ記載で分かった。]

 竹内氏は、役人としても相當な手腕をもつてると思はれる。島民管理に直接、當つてゐるんだが、大變島民に慕はれてゐるらしい。最近ヤルート島の土人に五日音樂隊を作らせ(土人は音樂が好きだからね)、それを率ゐて、東の方の離れた島々を廻つて歩くんださうだ。僕も、それについて行きたくて、し方がなかついんだが、もう豫定が決つてゐるので駄目だ。彼の話によると、東の島々ののどかさは何ともいへないらしい。竹内氏が一人、朝、島へ着くね、さうすると、島中の土人が、一日がかりで、彼一人のため歡迎の準備をするんだとさ。そして夕方になると、酋長の家の庭に、村中の靑年や娘が、歌を唱ひながら集まつてくる。そして女達はそれぞれ今日作つた花輪を持ち、一人一人、竹内君の所まで來ては、プレゼント(この邊は英國人が來てゐたので、英語をつかふんだ)といつて頭や肩や膝(ヒザ)に花輪をかけてくれるので、しまひに、花で埋まつちまふんだといふ。それから篝火を炊いて、豚や雞や魚や、タロ芋の料理が山程出るんだといふから、堪らないねえ。竹内氏も日本人よりは島民が好きだといふし、島民も竹内氏が好きらしい。竹内氏はかう言つてゐた。「たとひ、世界がどうなつても、私は、太平洋の眞中のマーシャルの小島へ行けば、絶對に自分を支持し、世話してくれる土人達がある。それを考へると何だか心強い」とさ。どうも少し、この男一人の話をしすぎたやうだ。

○今日(三十日)の晝飯は、飯田といふ國民學校長の家で雞のスキヤキの御馳走になる。(朝、一寸、淀川のウチに寄つたら、雞ノスープ、と雞のカツレツとを御馳走してくれた。一番物資の無いといふ噂のヤルートで一番、澤山肉を喰ふわけだ。

 飯田氏は横濱の人で、内海さんの弟子さ。ここでの今日の晝飯は、實に雞肉をドツサリたべたぜ。スキヤキの外に、公學校の先生が、島民料理「雞の石燒(イシヤキ)」を一羽もつて來てくれた。之が、減法(メツパウ)うまい。石燒つてのはね。椰子がらなどで火をおこして、それに石を數十入れて、石が眞赤になる迄熱する。それから、土地に穴をほり、下に植物の葉を敷き、燒石をその上に竝べ、又、葉を敷いて、その上に毛をむしった雞を置き、又葉つぱ、それから又、燒石、それから葉、その上に砂を掛けて、二時間程埋めて、蒸し燒にするんだ。ウマイゼ。腿(モモ)の所なんか、足をもつて、おしたじを一寸つけて食ふんだが、本常にオイシイ。公學校の生徒に燒かせたんださうだ。完全に滿腹して(飯はくはずに、肉ばかり、たべちやつた)船に乘込んだ。船に乘る時、淀川のお父さんから、ウチハと革帶(バンド)(革ぢやない。島民細工のタコの纖維(センヰ)で編んだもの)、竹内氏からもバンド、公學校の先生から、バナナとパパイヤの贈物を貰つた。

 三時出帆。貰ひものや、御馳走があつたから言ふんぢやないが、僕は今迄の島でヤルートが一番好きだ。一番開けてゐないで、ステイヴンスンの南洋に近いからだ。だが、竹内氏にいはせると、「南洋群島でヤルートが一番いい、といつたのは、あんたが始めてだ」さうだ。ヤルートは不便だ、とみんながコボスといふ。寂しいともいふさうだ。僕は、まるで反對だ。

◎南洋廳のお膝元のパラオで肉が喰へず、一番へンピなヤルートで、肉がフンダンに喰へるなんかは、をかしな話だ。

 ヤルート(ヤルートに限らず、マーシャル群島)の土人は、とてもオシヤレだ。どんなボロ家にも手ミシンとアイロンだけは、ある。(これは、早くから、西洋人が入込んで來てゐた關係だらう)日曜には、男も女も、とても着飾つて教會へ行く。そのくせ、家と來たら、砂地の上に小石を竝べ、床(ユカ)なしで、むしろを敷き、その上に屋根をおほつて 作つて作るだけの粗末なものだ。町などのチヤンとした床(ユカ)のある家では、必ず緣の下に、ムシロを敷いて、使用人等が住んでゐる。

◎さて、又、これからは、以前來た道(コース)を道に西へ向つて行く譯だ。ヤルート―クサイ―→ボナペ―→トラックの順に。ヤルートに、もつと滯在したい氣がする。

 十月一日。一日中、海の上。上陸して、忙しいと忘れてゐるが、ヒマだと、お前達のことばかり考へて仕方がない。今日も食卓での話に、「もう東京では秋刀魚(サンマ)ですなあ」と誰かが言つた。歸りたいと思ふなあ。桓や格の病氣してる樣子や、お前が何かクヨクヨ心配して涙ぐんでる樣子が、目の前に浮かんで來て困る。しかし、いくらヤキモキした所で、お前からの消息(タヨリ)を見ることの出來るのは、早くて十一月の末、大抵は十二月になるのぢやないかと思ふ。隨分たよりないことだね。

[やぶちゃん注:ここ、郷愁切々と絶望感の中、敦はわざと無理におどけて洒落を言っているという気がする。以下、突如として中断するコーダ部分なども何か痛ましいという気さえしてくる。]

 全く、今年の四月パンジイの花の世話をしてた頃は、樂しかつたが、あの頃、オレが今みたいに、みじめな身にならうとは思はなかつたなあ! 船の上で少しぐらゐゼイタクしてたつて、何の、たのしいことがあるものか。今は、まだ、身體(喘息)の調子が良いから、いいんだが、パラオに歸つたあとのことを、考へると、クラヤミさ。マツクラだよ。何か、人事不省(ジンジフセイ)になるやうな劇しい病氣にでもなつて、フト、目が覺(サ)めて見たら、お前達の傍にゐた、といふやうなことにでもなれば、どんなにいいだらう。子供等にうつる病氣でさへなければ、どんな大病にでもなり度いと思ふ。もし、それで、お前たちの傍にかへされるんだつたら。

   *

なお、この一三二書簡については、底本解題に珍しく詳細な注記があり、実はこの書簡は二枚のパラオ丸の「御晝食獻立」(先に出た通りの印刷されたものと思われる)二枚の裏に書かれていることが分かる。それぞれのメニューは、一枚が「昭和十六年十月三日金曜日」で、

 澄スープ

 犢肉カツレツ野菜添

 ボムベイカレーライス

 サラダ

 御菓子

 果實

 珈琲

 紅茶

で、もう一枚は「昭和十六年十月五日日曜日」のそれで、

 澄スープ

 ハリコットオクステイル

 ポークソセーヂキャベヂ添

 精肉カレーライス

 サラダ

 御菓子

 果實

 珈琲

 紅茶

とある、と記されてある。ちょっと不思議なのはこの書簡の消印が十月四日とあることである。十月五日日曜日昼の献立表を何故、ここで便箋替わりに使用出来たのだろう? 変なことが気になる――僕の悪い癖――]

うぐひすや家内揃ふて飯時分 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   うぐひすや家内揃ふて飯時分

 春の日の遲い朝飯。食卓には朝の光がさし込み、庭には鶯が鳴いてる。「揃ふて」といふ言葉によつて、一家團欒のむつまじい平和さを思はせる。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。]

日食する燕は明暗へ急ぐ 大手拓次

 日食する燕は明暗へ急ぐ

 

 このみちはほがらかにして無である。

 ゆるぎもなく、恍惚としてねむり、まさぐる指にものはなく、なお髣髴としてうかびいづるもののかたち。それは明暗のさかひに咲く無爲の世界である。はてしなく續きつづきゆく空(くう)である。

 それは、放たれる佛性の眼である。

 みづからのものをすてよ。

 みづからをすてよ。

 そこにかぎりない千年の眼はうつつとなく空靈の世界を通觀する。

 うごくもの

 ながれるもの、

 とどまるもの、

 そのいづれでもなく、いづれでもある繩繩たる大否定の世界にうつりすむのである。

 萬物は一如として光被され、すべては mortal immortal の境を撤しさるのである。

 あらゆる相對を離れた絶對無絶對空の世界にうつりすむのである。

 すべてをはなれて門に入るのである。

 なほ、この相對とまみえる絶對をもこえて、いやさらに不可測の、思惟のゆるされざる虛無のなかにうつりすむのである。

 みだれたる花のよびごゑである。客觀的統體として絶えざる轉位に向ふのである。

 それは靑面の破壞である。

 あらゆるものの否定である。

 あらゆるアプリオリとアポステリオリとの全的否定である。冥闇闇である。

 美そのものに對しての惡魔的挑戰である。わたしは私自身の有する律動を破壞して泥土に埋めてしまはうとするのである。

 破壞である。否定である。

 さらに破壞である。否定である。

 なほさらに、このふたつのものの果てしない持續は、靑色帶をなして未知へすすみゆくのである。

 無韻の雷鳴である。

 窻外の私語は、唯美主義の自縛を延長した風葬のさけびである。

 虛無の白い脚に飾られるガアタア勳章こそ階段をのぼる SOLLEN である。

 この néant の世界にあつて、私はみたされ、ひろげられ、微風のやうな香油に足を沒するのである。

 言葉の圓陣にわたしは空閒を虐殺して、遲遲とする。

 この表現の飛翔する危機をむすんで、逸し去らうとする魚は影の客である。

 かたちももとめず、

 かげももとめず、

 けはひももとめず、

 にほひももとめず、

 こゑももとめず、

 おもひももとめず、

 わたしは、みづからを寸斷にきりさいなみ、ふみにじり、やぶりすてて、うららかに消えうせ、

 ひとつの草となり、

 ひとつの花となり、

 ひとつの蟲となり、

 ひとつの光となり、

 ひとつの水となり、

 ひとつの土(つち)となり、

 ひとつの火となり、

 ひとつの風となり、

 ひとつの石となり、

 この必然の、しかも偶然の生長に對して、わたしは新しい生命をむさぼり得つつ流れゆくのである。

 螢のやうにひかる十二頭の蛇の眼がぢれぢれとする。

 わたしは、そこにはてしない森林をひろげる怪物料理をゆめみる。

 太陽のラムプが足をぶらさげてでてきたのである。

 靑狐は、はらわたをだしてべろべろとなめる。

 あたらしい DIABOLISME のこころよい花園である。

 ブレエクより、ビアヅレエより、モロオより、ロオトレエクより、ドオミエより、ベツクリンより、ゴヤより、クリンゲルより、ロツプスより、ホルバインより、ムンクより、カムペンドンクより、怪奇なる幻想のなまなまと血のしたたるクビンである。

 鬼火はうづまいて、鴉は連れ啼き、もろもろの首は、疾風のやうにおよいでゆき、水中に眼をむく角をもつ魚、死體の髮をねぶる異形なる軟體動物、熱帶林の怪相、蛇とたはむれる微笑の首は睡蓮の咲く池のうへに舞ひ、女體の頭部に鑿をうつ化物、寢室の女怪、のつぺりの淫戲、髑髏と接吻する夫人、昆蟲と狎れあそぶ巨人、空腹にみづからの腕をかむ乞食、酒のごとく香水を愛する襤褸の貴族、桃色大理石のやうな肌をもつ片眼の娘、あをい泡を鼻から吹きだす白馬の沈默、足におほきな梵鐘をひきずる男…………

 迷路に鳥はわたり、かすかな遠啼きのなかに心は蟬脱する。

 光はうちにやぶれ、闇はそとにひらき、ひたすらなる渾沌に沿うて風は木の實をうむのである。

 それら怪奇なる肉身の懊惱にぎらぎらと鱗(うろこ)を生やす心靈は、解體して、おぞおぞとし、わたしの足は地をつらぬき、わたしの手は天をつらぬき、わたしの身は空閒にみちあふれる。

 すべてはうしなはれるのである。

 すべてはきえさるのである。

 すべては虛無である。

 この虛無にうつりすむにあたり、はじめてわたしは生れるもののすがたにうつりゆくのである。ひろがりは、わたしにきたるのである。充たされも、わたしにきたるのである。まことの創造の世界にうつるのである。

 なにものかが、わたしの手をひくのである。なにものかが、わたしのなかにあふれるのである。それは不死の死である。不滅の滅である。永遠の瞬閒である。

 

 わたしは、白い蛙となつて水邊にうかぶ。

 雨はほそくけぶり、

 時はながれる。

 

 わたしの足は月かげのたむろである。

 わたしの足は靑蛇のぬけがらである。

 わたしの足は女の唾である。

 わたしの足は言葉のほとぼりである。

 わたしの足は思ひのたそがれである。

 わたしの足は接吻のほそいしのびねである。

 わたしの足は相對の河である。

 わたしの足はりんご色(いろ)の肌のいきれである。

 わたしの足はみほとけの群像である。

 わたしの足は飛ぶ鳥の糞(ふん)である。

 わたしの足はものおとのうへをすべる妖言である。

 わたしの足は嘴をもつ地獄の狂花である。

 わたしの足は陰性のもののすべてである。

 わたしの足をおまへの腕にうめて、もだえるくるしみは、つやめく疾患である。

 

 みしらぬ人人のために路をひらく。

 それは眞珠に飾られたみちである。

 夢を食む白い狼は風をきつてそばだち、すみれいろの卵をうみおとすのである。

 心はうしなはれ、からだはうしなはれ、思ひはうしなはれ、ひとりたたずむほとりに、動きはつたはりきたるのである。

 あだかも花のにほひのやうになかだちを越えて、いそいそとくるのである。

 たたずみはたふれる。

 すすみもたふれる。

 とどまりもたふれる。

 まつたき失ひのうちに、おほきなるもののみちあふれてくるのである。

 すがたは抽象をないがしろにして、いきいきとあらはれ、とぶがごとく楚楚として現じきたるのである。

 やすみなく光をむかへつつ、庭園のなかにほころびかける花である。

 たわわにみのる樹はゆれながら歩みをうつして、まどろむのである。

 その さやぐ葉のむらがりのなかにやどるすがたはもとほり、世にあらたなるさびしみを追ひたてるのである。

 花びらは顏を照らして、ひそみをあらはにし、たえざる薰風をそよがせるのである。

 あをいものは、さそはれることなく、みづからのうごきに生きて、さよさよとそだちゆくのである。

 かをりあるそよかぜは、とほくのみちに夢をひらかせ、ただよふ舟のなかに魂の土産をのこし、ひとびとのうしろかげに柑子色の言葉をはるばるとかざるのである。

 わたしは、ゆれゆれる風のなかに、風のとがりに、ふかぶかとゆめみるのである。

 

[やぶちゃん注:画家については、私が作品を思い浮かべることが出来なかった二人についてのみ注したので悪しからず。

「うごくもの」岩波版「大手拓次詩集」では最後に読点がある。脱字かとも思われるが、敢えてママとする。

「繩繩たる」久遠に続き絶えぬさま。

mortal immortal の境」特に特殊な意味合いを附加する気はしない。――「厳然たる死」と「永遠の不死」の境――の謂いと採る。

「撤しさる」その場から永久に除き去る。

「ガアタア勳章」(The Order of the Garter:正式には“The Most Noble Order of the Garter”という。)は一三四八年にエドワード三世によって創始されたイングランドの最高勲章の名称。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典において騎士団勲章(order)の最高位とされる。勲章にはそのモットー“Honi soit qui mal y pense”(イングランドの古語アングロ・ノルマン語で「思い邪なる者に災いあれ」の意)と刻印されてある。勲章の大綬の色がブルーであることから「ブルーリボン」とも呼ばれる(以上はウィキの「ガーター勲章」に拠る)。

SOLLEN」(ドイツ語)当為。ゾルレン。

「この néant の世界にあつて、私はみたされ、ひろげられ、微風のやうな香油に足を沒するのである。

 言葉の圓陣にわたしは空閒を虐殺して、遲遲とする。」以上の詩句は岩波版「大手拓次詩集」では、二つの行の間に一行空きが施されてある。底本では見開きの改頁であるが、組から考えて一行空きはない。また、私自身一行空きを求めない。従って、連続させた。

néant」(フランス語)無。虚無。空(くう)。

DIABOLISME」(英語)①魔術・妖術。②悪魔のような仕業。魔性。③悪魔主義。悪魔崇拝。私は③の「悪魔崇拝」の意で採る。

「クリンゲル」マックス・クリンガー(Max Klinger 一八五七年~一九二〇年)。ドイツの画家(グーグル画像検索「Max Klinger)。

「カムペンドンク」ハインリヒ・カンペンドンク(Heinrich Campendonk 一八八九年~一八五七年)。ドイツ(後にオランダに帰化)の画家(グーグル画像検索「Heinrich Campendonk)。

「なにものかが、わたしの手をひくのである。なにものかが、わたしのなかにあふれるのである。それは不死の死である。不滅の滅である。永遠の瞬閒である。

 

 わたしは、白い蛙となつて水邊にうかぶ。」この詩句は岩波版「大手拓次詩集」では、二つの行の間に一行空きはない。

「その さやぐ葉のむらがりのなかにやどるすがたはもとほり、……」の「その」の後の一字空けはママ。岩波版も同じ。]

鬼城句集 秋之部 南瓜

南瓜    南瓜大きく畑に塞る二つかな

 

      大南瓜これを敲いて遊ばんか

 

       畫賛

      これを敲けばホ句ホ句といふ南瓜かな

 

[やぶちゃん注:「ホ句ホ句」の後半は踊り字「〱」。]

 

       ホトヽギスの舊本を見けるに蛃魚先生の

       名あり知らぬ人なりしに今は明暮交じら

       ひて骨肉も啻ならずたまたま姓氏を同う

       するも宿緣淺からず

      似たものゝ二人相逢ふ南瓜かな

 

[やぶちゃん注:「蛃魚」は「へいぎよ(へいぎょ)」と読み、鬼城鬼城の俳友で、歌人で伊藤左千夫の弟子でもあった高崎中学校国語教師村上成之(しげゆき 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)の号。尾張生。国語伝習所卒。因みに左千夫の弟子である土屋文明は村上の教え子であり、そもそも文明に左千夫を紹介したのも村上であった。歌集「翠微」が没後に纏められている。]

 

      南瓜食うて駑馬の如くに老いにけり

 

[やぶちゃん注:「駑馬」脚の鈍(のろ)い馬。転じて才能の劣る人の譬えとしても使うのでその意も利かせている。]

 

      うら畑や南瓜にさせる藁枕

2013/10/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 24 美しい日本の裸体の娘たち

 私は中禅寺へ向う途で、我々に追いついた旅人達のことを述べた。嶮しい所を登る時、私は二人の可愛らしい娘に手をかして、足場の悪い場所を助け上げようとした。私には彼女等にふざけてかかろうというような意志は毛頭無かったのであるが、湯元温泉へ向いつつある彼女等はそう考えたらしく、私の申出を遠慮深く「ゴメンナサイ」と言って断った。さて温泉に来て、ドクタア・マレーは管から流れ出る時の湯の温度を知り度いと思ったが、いくらか足が悪いので、寒暖計をそこに支え持つことを私に依頼した。これをする為には私は片足をうんと内側に踏み入れて、風呂桶の縁に立ち、湯の流に届くように腕を思い切り伸す必要があった。私がいささか気恥しく思い、桶の中にいる人達を見る勇気がなかったことは、誰でも了解出来るであろう。この時桶の中から「オハヨー」というほがらかな二人の声がする。その方を見て、前日のあの遠慮深い娘二人が裸で湯に入っているのを発見した私の驚きは、如何ばかりであったろう。事実をいうと彼等は子供のようで、私は日本人が見る我々は、我々が見る日本人よりも無限に無作法で慎みがないのであることを断乎として主張する。我々外国人が深く襟を切り開いた衣服をつけて、彼等の国にないワルツのような踊をしたり、公の場所でキスをしたり(人前で夫が妻を接吻することさえも)その他いろいろなことをすることは、日本人に我々を野蛮だと思わせる。往来を歩きながら風呂桶をのぞき込む者があれば入浴者は、恐らく我々が食卓に向っている時、青二歳が食堂の窓から覗き込んで行くようなことがあった場合に、いうようなことを、いい合うであろう。日本人のやることで我々に極めて無作法だと思われるものもすこしはある。我々のやることで日本人に極めて無作法だと思われることは多い。
[やぶちゃん注:最後の部分の対句表現(原文“There are a few acts of theirs that seem very immodest to us; there are many of our acts which seem very immodest to them.”)は如何にも素敵!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 23 誰が破廉恥なのか?

 ここで、一寸横道に入るが、私は裸体の問題に就いてありの儘の事実をすこし述べねばならぬ。日本では何百年かにわたって、裸体を無作法とは思わないのであるが、我々はそれを破廉恥(はれんち)なこととみなすように育てられて来たのである。日本人が肉体を露出するのは入浴の時だけで、その時は他人がどうしていようと一向構わない。私は都会ででも田舎ででも、男が娘の踵や脚を眺めているのなんぞは見たことがない。また女が深く胸の出るような着物を着ているのを見たことがない。然るに私はナラガンセット・ビヤや、その他類似の場所で、若い娘が白昼公然と肉に喰い込むような海水着を着、両脚や身体の輪郭をさらけ出して、より僅かを身にまとった男達と砂の上をブラリブラリしているのを見た。私は日本で有名な海水浴場の傍に十週間住んでいたが、このような有様にいささかなりとも似通ったことは断じて見受けなかった。男は裸体でも必ず犢鼻褌(ふんどし)をしている。かつて英国のフリゲートがニュージーランドのある港に寄り、水兵たちがすっぱだかで海水浴をした所が、土人たちは必ず腰のあたりに前かけか犢鼻褌かをしているので、村の酋長が士官に向って、水兵たちが何も着ずにいる無作法さに就いて熱烈な抗議をしたことがあると聞いている。
[やぶちゃん注:……モース先生が今のアメリカナイズされた日本をご覧になられたら……と思うと、私は慄然とせざるを得ない……
「ナラガンセット・ビヤ」原文“narragansett pier”。“pier”は桟橋の意味であるが、英文記事などを参照すると、これ全体が地名として機能しているようである。はロードアイランド海峡の北側に面した広大なナラガンセット湾(Narragansett Bay)及び入り江とそのビーチを指す呼称と思われ、湾内にはアクィドネック島・コナニカット島・プルーデンス島などの大きな島と島嶼群を擁すリゾート地らしい。ロードアイランド州の州都で最大の都市プロビデンスが湾の北の入り江の奥西側にあり、アクィドネック島には保養地・別荘地として有名なニューポートもある。
「日本で有名な海水浴場の傍に十週間住んでいた」既に見た通り、この日光旅行直後の第五章以下に記される江の島臨海実験所での体験を指すが、同年七月十二日~八月二十八日までで(途中で短期に横浜や東京に出向いてもいる)、延べ四十八日間で実質は七週間弱、同年のカレンダー上の週単位で見ても八週間で、ややドンブリではある。
「英国のフリゲート」“an English frigate”。フリゲート艦は近現代では高速で機動性をもつ駆逐艦や大型護衛艦を指すが、これは「かつて」の、まだイギリス直轄植民地となる前後(一八四〇年二月)の先住民族のマオリが多数居住していた頃の「ニュージーランド」でも話柄という感じから見るなら、その前身である十八~十九世紀の帆船時代の名残を引いた偵察・警戒・護衛などを主任務とした小型で高速・軽武装の軍艦かと思われる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 22 湯元温泉にてⅠ

M86
図―86

 八時、我々は数軒の家がかたまり合って高い山の中心に巣喰っているような、湯元の小村に入った。茹(ゆで)玉子の奇妙な、気持の悪い臭気があたりに充ちていたが、これはこの地に多い硫黄(いおう)温泉から立ち上るものである。我々は素速く、外気に面して広く開いた一軒の旅籠を発見し、荷物はそのままに、畳の上に倒れて間もなく深い眠りに陥った。湯元に着いた時はもう暗かったので、何も見えなかったが、翌朝目を覚して素晴しい風景や、見馴れぬ建物や、珍しい衣類を身につけた(あるいは全然身につけぬ)国人を見やり、硫黄の臭に混った変な香を嗅ぎ、聞いたこともないような物音を耳にした時にほ、何だか地球以外の星に来たように思われた。早く見物をしたいという気に駆られて、我々は二つか三つ細い往来のあるこの寒村を歩き廻ったが、端から端までで一千フィートを越してはいなかった。だが出かける前に、我々はどこで顔を洗う可きかに就いて多少まごついた。日本の家には、いう迄もなく、手水(ちょうず)台、洗面器、水差というような便利な物は置いてないのである。この時まで我々は銅或は真鍮の皿とバケツ一杯の水と、柄の長い竹の柄杓とを持って来させて顔を洗った。橋石には図65で示したような洗面用の高い流しがあった。我々は最後に廊下の一端に木造の流しと、水の入った手桶と真鍮の盥(たらい)とが置いてあるのを見出し、この盥でどうやらこうやら顔を洗ったが、前にかがまねばならぬので、誠に具合が悪かった。別の場所で私は棚、あるいは台ともいう可き物の上に手桶がのっているのを見た。それには図86に示す如く、呑口のようにつき出した管があり、呑口の代りに鉄の栓を引きぬく仕掛があった。噴き出す水の量は極めて僅かで、両手と顔とを洗う丈出すのにさえ大分時間がかかった。
[やぶちゃん注:「一千フィート」305メートル。]

 浴場は道路の片側に並んでいる。前面の開いた粗末な木造の小屋で、内には長さ八フィート、幅五フィートの風呂桶があり、湯は桶の内側にある木管から流れ入ったり、単に桶の後方にある噴泉から桶の縁を起して流れ込んだりしている。一つの浴場には六、七人が入浴していたが、皆しゃがんで肩まで湯に浸り、時に水を汲んで頭からかけていた。然し最も驚かされたのは、老幼の両性が一緒に風呂に入っていて、而もそれが(低い衝立が幾分かくしてはいるが)通行人のある往来に向けて明け放しである事である。
[やぶちゃん注:「長さ八フィート、幅五フィートの風呂桶」長さ約2・4メートル、幅1・5メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 21 湯元温泉への道程と男体山


M85
図―85

 

 路は二マイルばかりの間湖水に沿うている。これが中禅寺と湯元とを結ぶ唯一の街道なので、叢(くさむら)が両側から迫り、歩く人に触ったりするが、而もよく踏み固められてある。時々我々は半裸体の土民や背に荷を負った妙な格好の駄馬に行きあった。歩きながら赤坊に乳房をふくませる女が来る。間もなくもう一人、両肌ぬぎで日にやけた上半身をあらわし、駄馬を牽きながら片手で赤坊を荷物のようにかかえ、その赤坊がこんな風なぎこちない位置にいながら、乳を吸っているというのが来る。路は湖畔を離れて徐々に高い平原へ登る。ここ迄は深林中の、我国で見るような下生えの間を通って来たのである。今や我々は、暑くて乾き切った夕日が、一種異様の光で、これから我々が横切ろうとする何マイルかの平坦地を照す所に出て来た。この地域は疑もなく死滅した火山の床、即ち火口底なのである。黒蠅に似た所のある蠅が、我々を悩し始めた。刺すごとに血が出る。蝶はひっきりなしに見られた。大群があちらこちらに群れている。路には鮮かな色の甲虫類が沢山いた。またいたる所に、青と紫のあやめが、広い場所にわたって群生して咲いていたが、最も我々を驚かせたのは躑躅の集団で、我々はその中を文字通り何マイルも徒渉した。我々は男体山の頂上で、すでにこれ等の花が赤い靄(もや)のように見えるのに気がついていた。この高原は高い山でかこまれていたが、そのすべてに擢(ぬき)んでる男体は、遠く行けば行く程、近くなるように見えた。図85はここから見た男体である。再び我々が森林に入った時、あたりは全く暗かった。我々は疲れてはいたが、二マイル行った所にある美しい滝に感嘆することが出来ぬ程度に疲労困憊(こんぱい)してもいなかった。

[やぶちゃん注:「二マイル」3・2キロメートル。推測した旅宿から湯元に向かって道が中禅寺湖から離れて行く菖蒲ケ浜までは、地図上で約3・7キロメートルほどなので一致する。

「黒蠅に似た所のある蠅が、我々を悩し始めた。刺すごとに血が出る」原文は“A fly, not unlike the black fly, began to annoy us, bringing the blood at every sting.”とあり、この“black fly”は「黒蠅」と訳すべきではなく、「ブユ」又は「ブヨ」(蚋)(双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae)とするべきところである。吸血性で刺咬後の出血が見られ、相当に悩まされている(刺咬時に痛感がある)とみられるとことからは、アシマダラブユ Simulium japonicum 又は、キアシオオブユ Prosimulium yezoense が疑われる。因みに私はかつて泊まった奥鬼怒川温泉の加仁湯のラウンジで、浴客を襲う後者を数分間で数十匹叩き落とし、それを見ていた宿の亭主から「勲章ものだ」と褒められてコップ酒一杯を奉じられたことがある。

「何マイルかの平坦地を照す所」戦場ヶ原である。戦場ヶ原は、標高約一三九〇から一四〇〇メートルの平坦地に広がる約四〇〇ヘクタールの湿原で、もともとは現在西部分を流れる湯川が男体山の噴火で堰き止められた堰止湖であったが、その上に土砂や火山の噴出物が積もり、さらにその上にヨシなどの水生植物の遺骸が腐らずに堆積して陸地化し湿原となったもので(以上はウィキの「戦場ヶ原」に拠る)、モースの「疑もなく死滅した火山の床、即ち火口底」という見立ては誤りである。

「二マイル行った所にある美しい滝」戦場ヶ原から三キロ程度の位置に湯ノ湖から流れ落ちる湯滝がある。落差五十メートル、幅二十五メートルで、華厳滝・竜頭の滝と並んで奥日光三名瀑の一つである。ここまで読んで気がついたのだが、モースの叙述にはかの華厳の滝の描写も、この日の湯元行で見たに違いない竜頭の滝のそれもない。当時は見学(特に前者は)が困難ででもあったものか? 識者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 20 男体山下山、湯元温泉へ

 下山は登山よりも骨が折れた。私はこんな際限もない段段をポッコリポッコリ下りるよりも、カリゲインを十二度下りた方がいい。頂上から麓までの距離は七マイルというが、麓に来る迄にもう二十マイルもあったように思われたので、我々はよろこんで一時間を休憩と睡眠とに費した。この時日本の木枕を使った。涼しいことは涼しかったが、どうも具合が悪かった。五時、八マイル向うの湯元に向けて出発。私は元気溌溂たるものであった。
[やぶちゃん注:「カリゲイン」既出。ニューハンプシャー州ホワイト・マウンテン国立森林公園の中央に位置するキャリガン山と思われる。
「七マイル」11・3キロメートル。因みに下山も往路と同じ二荒山神社の同一ルートをとったものと思われるが、現在の同一コースは公称4・5キロメートルとあるから、この「七マイル」はどう考えてもおかしい。針小棒大である。モースの錯誤のように思われる。
「二十マイル」32・2キロメートル。
「八マイル」12・9キロメートル。これは私が想定した旅宿から計測すると湯元温泉まで12・5キロメートルはあるので数値に問題はない。それだけに「七マイル」というのは如何にもおかしいのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 19 男体山山頂から遙か富士山を臨む

M84


図―84

 我々は頂上に一時間いたが、百五十マイル向うの富士山が、地平線高く聳える景色は驚く可きものであった。高く登れば登る程、地平線は高く見える。この高さから富士を見ると、その巨大さと、またがる地域の広汎さとが、非常にはっきり理解出来る。図84の写生図に於て富士山の傾斜はあまりに急すぎるが、写生した時にはこう見えたのである。捲き雲の塊が富士の裾をかくしていたが、ワシントン山位の高さの山ならば、この雲の層に頂がかくれて了うことであろう。
[やぶちゃん注:「百五十マイル」241・4キロメートル。地図上で男体山と富士山頂の直線距離を求めると170・5キロメートルしかない。試みに、日光―東京―富士山頂の道なりのコースを概算して見ると240キロメートル前後は有にあるので、この数値はそれを算出したものらしい(にしても、あまり意味のある数値とは思われないが)。
「ワシントン山」原文“Mount Washington”。ニューハンプシャー州中北部の、先に出たホワイト・マウンテンのあるプレジデンシャル山脈の中の山名。標高1917メートル。ニューイングランドの最高峰でもあるが、男体山はそれよりも569メートルも高い。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 18 男体山山頂にて


M82


図―82

M83

図―83

 

 今や我々は絶頂から百フィートの所に来た。その一方の側は、千フィートをも越える垂直な面で、古い噴火口の縁である。絶頂のすこし下に真鍮で蓋った黒塗の頑丈な社がある(図82)。それを最高点から見た所は図83で示した。扉には鍵がかかっていたが、内部には仏陀の像があるとのことであった。前面の壇、即ち廊下には錆びた銭若干があり、絶頂近くには槍の穂や折れた刀身が散っていたが、いずれも何世紀間かそこにあったことを思わせる程錆びて腐蝕していた。見受ける所これ等に手を触れた者は一人もないらしく、私は誘惑に堪え兼ねて小さな錆びた破片二つを拾った。これは神社へ奉納したものである。図83に見える最高所には岩に深く穴のあいた所があるが、昔ここで刀を折った。それよりもっと珍しいのは、犠牲、あるいは、立てた誓を力強めるためにささげた、何本かの丁髷(ちょんまげ)である。話によると日本の高山の、全部とまでは行かずとも、殆どすべてには、神社があるそうである。驚く可き意想であり、彼等の宗教に対する帰依である。八月にはかかる場所へ、日出と共に祈禱をささげんとする人々が何千人と集る。その中にほ難苦を堪え忍んで、何百マイルの旅をする者も多い。私は我々の宗教的修業で、メソディスト幕営(キャンプ)集合以外、これに比すべきものは何も思い出せなかった。

[やぶちゃん注:「百フィート」約30・5メートル。

「何百マイル」100マイルは約161キロメートル。

「メソディスト幕営(キャンプ)集合」原文は“Methodist camp meetings”。メソジスト・キャンプ・ミーティングはメソジスト野営天幕集会又は伝道集会と訳され、アメリカ合衆国の開拓期にキリスト教の長老派教会から始まった集会様式。参照したウィキの「キャンプ・ミーティング」によれば、18世紀のアメリカにおいて、未踏の荒野への何千人もの移住は、ある種の宗教的真空状態を引き起こしていた。礼拝のできる家がほとんどなかっただけではなく、正規に任職された聖職者の不足はより深刻であった。「キャンプ・ミーティング」は、こういった状況のなかから現れた革新的な対応策』として登場したもので、『宗教的集会の開催は口伝えに広められた。当時の原始的な交通手段のために、これらの会合が居住地より数マイル以上離れたところで開催されるなら、出席希望者は外泊を覚悟せざるを得ず、適切な宿泊施設もお金もないにもかかわらず、彼らは開催期間中はその場所や近くでキャンプするなどして、居残ることを切望した』。『大規模な野外礼拝には、真摯な信仰的情熱と関心から多くの人が広い地域から出席し、または好奇心と困難な辺境地のでの開拓生活における休息のつもりでやってきた者も、その多くが改心させられた』。『彼らの日常から解放されての集会期間の間、これらの集会は、伝統的な礼拝様式とは異なり、出席者に切れ目ない礼拝を提供した。しばしば数時間を超える一人の説教が終わると、別の者が立ち上がって前の者に代わった。これらの会合は、アメリカ合衆国の第二次大覚醒として知られる信仰復興に多大な貢献をした。特に大規模で成功したキャンプ・ミーティングには、1801年のケンタッキー州ケーンリッジで開かれたものがあり、宗教回復運動(Restoration Movement)の発足とみなされるものである』とある。モースが実見したと思われるものに年代的に最も近いものとして『ニュージャージー州オーシャングローヴに、1869年に創立されたコミュニティは「Queen of the Victorian Methodist Camp Meetings」と呼ばれた。19世紀の終わり、心霊主義の信者もまたアメリカ合衆国中でキャンプ・ミーティングを催した』という記載があり、また『1815年、現在のオハイオ州トロントで、シュガーグローヴメソジスト監督教会の牧師であるJM・ブレイ師は、年に一度のキャンプ・ミーティングを始め、それは1875年に、現在のホロウロック聖霊キャンプ・ミーティング協会によって購入されたことで超教派となった。今日もキャンプ・ミーティングを運営しているその協会は、アメリカ合衆国に現存する最古のキリスト教のキャンプ・ミーティングであると主張する』という同協会のそれもその候補になろう。『アメリカ合衆国のキャンプ・ミーティングは長い間広大な規模で開催され続け、現在も開催されているものもある。主にペンテコステ派』(プロテスタント教会の内のメソジストやホーリネス教会の中から1900年頃にアメリカで始まったペンテコステ運動(Pentecostalism:聖霊運動)から生れた教団・教派の総称乃至俗称)『の集団だが、いくつかの他のプロテスタントや心霊主義の宗派も行っている。リバイバル集会(revival meeting)は、しばしば、辺境地の野外礼拝の精神を現代に再現した試みと論じられる』とある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 17 男体山へⅡ

 上へ上へと登るに従って、中禅寺湖の青い水は木の間から輝き、山々の峰が後から見えて来る。果しないと迄思われた時をすごして唐檜の列まで来ると、今迄よりも見なれた花が多くなった。我々はバンチベリーの花を見た。これは我国のより小さい。またブルーベリーを思わせるベリーを見たが熟してはいなかった。その他、北方の植物系統に属する花があったが、それ等が亜熱帯の型式を備えたものと混合して咲いていたのは不思議である。頂上に近づくとあたりの山々の景色は誠に壮大であった。近い山は海抜八一七五フィートという我々の高度よりも遙かに低い。遠くの山の渓谷には雪が見られた。峰々の外貌は、ホワイト・マウンテンのそれに比較すると、著しく相違している。登る途中所々に毎年巡礼に来る日本人たちが休んで一杯の茶を飲む休憩所があったが、かかる場所に来ることは気持がよかった。外国人は影も形も見えず、また空瓶、箱、新聞紙等が目に入らないのはうれしかった。時々我々は小さな屋根板のような薄く細長い板片をひろった。これには漢字が書いてあるが、それはお祈りであるということであった。

[やぶちゃん注:「バンチベリーの花」原文“the bunchberry flower”。ミズキ目ミズキ科ミズキ属ゴゼンタチバナ亜属ゴゼンタチバナ(御前橘)Cornus canadense。多年草。高さ 五~一五センチメートル、葉は二枚の対生葉と液性の短枝に二個ずつ葉が付き、計六枚の輪生に見える。花の咲く株は葉が六枚にまで成長したものである。花期は六~八月で花は四枚の白い総苞に囲まれハナミズキやヤマボウシに似る。秋にハナミズキに似た核果が直径五~六ミリメートルの赤い果実をつける。北海道・本州・四国の亜高山帯から高山帯の針葉樹林下や林縁に植生し、国外では北東アジア・北米にも分布しており、基準標本はカナダのものであるから、モースにも親しかったに違いない(以上はウィキの「ゴゼンタチバナ」に拠った)。

「ブルーベリーを思わせるベリー」不詳であるが、例えばツツジ目ツツジ科スノキ属クロマメノキ Vaccinium uliginosum などはどうか? 別名浅間葡萄、秋にブルーに熟す。

「八一七五フィート」は2491メートル。既に示したが、現在の男体山の正確な標高は2486メートルで、換算すると8156フィートである。モースは何のデータを見たものか、約5・8メートルも高い。

「ホワイト・マウンテン」既注済み。ニューハンプシャー州の北部一帯からメーン州西部に跨る広大な山脈。ワシントンやジェファーソンなどのアメリカ歴代大統領の名が付された山々があるが、それらは殆んど一年中雪で被われていることに由来する。ニューイングランドでも人気の観光地である。

「小さな屋根板のような薄く細長い板片をひろった。これには漢字が書いてあるが、それはお祈りであるということであった」納め札の一種と思われる。寺社や霊山霊跡に参詣した際に経文や真言・祈請を記した記念や祈願のための納め札である。納札(のうさつ)とも言う。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 16 男体山へ


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図―78


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図―79

 

 その夜非常によく眠て翌朝はドクタア・マレーと私とが男体山に登る事になっていたので、五時に起きた。我々は先ず一ドル支払わねばならなかった。これは案内賃という事になっていたが、事実僧侶の懐に入るのである。男が一人、厚い衣類や飲料水等を担いで我々について来た。往来を一マイルの八分の一ばかり行った所で、我々は石段を登ってお寺に詣り、ここで長い杖を貰った。お寺の正門の両側に長い旗が立っていた。細長い旗を竿につける方法が如何にも巧みなので、私はそれを注意深くスケッチした(図78)。(その後私は店の前やその他の場所で、同じように出来た小さな旗を沢山見た。)旗は竹竿の上端にかぶさっている可動性の竹の一片についていて、次の片側にある環がそれをちゃんと抑え、風が吹くと全体が竿を中心に回転する。旗は漢字を上から下へ垂直的に書くのに都合がいいように長く出来ている。私は漢字を写す――というよりも寧ろそれ等がどんな物であるかを示すべく努力した。旗は長さ十五フィートで幅三フィート、依って私はその上半部だけを写した。漢字は寺院と山の名その他である。図79は石段の下部、両側の旗、及びそのすぐ後方にある鳥居の写生図である。古めかしい背の高い、大きな門の錠が外されて開いた。それを通り越すと、我々は直接に山の頂上まで行っている山径の下に出た。唐檜(とうひ)が生えているあたり迄は段々で、それから上になると径は木の板や岩の上に出来ている。それは四千フィートの高さを一直線に登るので、困難――例えばしゃがんだり、膝をついて匐(は)ったり、垂直面につまさきや指を押し込んだりするような――を感じるようなことは只の一度もなかったが、それにも拘らず、私が登った山の中で最も骨の折れる、そして疲労の度の甚しいものであった。径は恐ろしく急で、継続的で、休もうと思っても平坦な山脊も高原もない。図80は我々が測定した登攀(とうはん)の角度である。図81は段々の性質を示しているが、非常に粗雑で不規則で徹底的に人を疲労させ、一寸鉄道の枕木の上を歩いているようだが、続け様に登る点だけが違っている。またしても珍しい植物や、美しい虫や、聞きなれぬ鳥の優しい声音、そして岩はすべて火山性である。

M80

図―80

M81

図―81

 

[やぶちゃん注:男体山登山である。

「一マイルの八分の一」約200メートル。これから二荒山神社直近の、現在の中禅寺湖北岸の東寄りに旅宿があったものと考えられる。

「お寺の正門の両側に長い旗が立っていた」「お寺」とあるが、これは二荒山(ふたらさん)神社である。但し、元来が男体山は二荒修験のメッカで神仏習合の霊場であるから表現上は問題がない

「旗は長さ十五フィートで幅三フィート」長さ4・57メートル、幅約92センチメートル。

「唐檜(とうひ)」原文“the spruces”。裸子植物門マツ綱マツ目マツ科トウヒ変種トウヒ Picea jezoensis var. hondoensis。常緑針葉樹で北海道及び北東アジアに広く分布するエゾマツ Picea jezoensis の変種。紀伊半島大台ヶ原から中部山岳地帯を経て福島県吾妻山までの海抜1500から2500メートルにかけての亜高山帯に分布する。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 15 裸族?

 中禅寺の村は冬には人がいなくなる。今は七月の第一週であるが、それでも僅かの家にしか人が入っていない。然しもうしばらくすると、何千人という旅人が男体登山にやって来て、どの家にも部屋を求める人達が一杯になる。田舎の家や旅籠(はたご)屋は炊事に薪を使用するので、板の間はピカピカに磨いてあるが、台所の桷は黒くすすけている。
[やぶちゃん注:「今は七月の第一週」モースの日光旅行は東京発六月二十九日(金曜)から東京着七月八日(日曜)までの十日間であった。
「桷」既にルビが振られているが、「たるき」である。]

 奥地へ入って見ると、衣服は何か重大なことがある時にのみ使われるらしく、子供は丸裸、男もそれに近く、女は部分的に裸でいる。
[やぶちゃん注:原始人の裸族のようで解せない。これは単に夏だからと思われる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 14 味噌汁と心太


Tokorotenn


図―77

 

 下層民が使用する食物の名を列記したら興味があるであろう。海にある物は殆ど全部一般国民の食膳にのぼる。魚類ばかりでなく、海胆(うに)、海鼠(なまこ)、烏賊(いか)及びある種の虫さえも食う。薄い緑色の葉の海藻も食うが、これは乾燥してブリキの箱に入れる。見受けるところ、これは普通の緑色海藻で、石蓴(あおさ)属の一つであるらしい。料理の或る物は見た目には食慾をそそるが、我々の味覚にはどうも味が足りない。私は大きに勇気をふるっていく皿かの料理を試みたが、実に腹がへっていたのにかかわらず、嚥(の)み込むことが出来たのはたった一つで、それはスープの一種であった。はじめブリキの鍋で、水とウスターシイヤ・ソースのような濃い色の、醗酵した豆から造るソースとを沸し、これに胡瓜みたいな物を薄く切って入れ、次には搾木を外したばかりの新しい白チーズによく似た物質の、大きなかたまりを加えるが、これは三角形に切ってあった。この最後の物質は豆を煮て、皮を取去るために漉し、それを糊状のかたまりに製造するのである。このスープは確かに養分に富んでいたし、すこし練習すれば好きになれそうである。もう一つの普通な食品は、海藻からつくつた、トコロテンと称するものである。これは長い四角形の白い物質で、必ず水につけてある。それを入れた洗い桶の横には、出口に二十四の間隙を持つ金網を張った四角い木製の水銃があり、この水銃の大きさに切ったトコロテンを喞子(ピストン)で押し出すと、針金がそれを長く細い片に切るという仕掛である。トコロテンはまるで味がなく、マカロニを思わせる。ソースをすこしつけて食う。図77は水銃と喞子とのスケッチで、出口の図は実物大である。

[やぶちゃん注:末尾の「実物大である」の「実物大」の下には石川氏によって『〔原著〕』という割注が入れられているが、これは冒頭の「訳者の言葉」にあるように底本の挿絵が原図より小さくなっているためである。

「薄い緑色の葉の海藻も食うが、これは乾燥してブリキの箱に入れる。見受けるところ、これは普通の緑色海藻で、石蓴(あおさ)属の一つであるらしい。」原文は“Seaweed, a thin green leaf, is also eaten ; it is dried and put up in tin boxes. It is apparently the common green seaweed, a species of ulva.”。板海苔のことを言っているが、それを同定するに緑藻植物門アオサ藻綱アオサ目アオサ科アオサ ulva 属としているのはいただけない。ulva 属は現在、添加用の青海苔(粉)やふりかけ海苔に加工されて汎用されてはいるが板海苔には今も昔も用いない。モース来日の頃は今や幻の高級品である焼海苔の浅草海苔(紅色植物門紅藻綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリ Porphyra tenera を原材料とする)が、まさに正真正銘の浅草海苔として普通に食されていた。

「ウスターシイヤ・ソースのような濃い色の、醗酵した豆から造るソース」原文“dark in color like Worcestershire sauce”。“Worcestershire sauce”は所謂、ソース、ウースター・ソース、ウスターソースのこと(野菜や果物の搾り汁や煮出し汁に砂糖・酢・食塩や香辛料を加えて調整、カラメルなどを加えて茶褐色にした液体調味料で名称は英国旧ウースターシャー州で創製されたことに因む)。言わずもがな、味噌である。

「胡瓜みたいな物」とあるが、葱とは思われない。地方によっては瓜を薄切りにして味噌汁の種とするから、それか。

「搾木を外したばかりの新しい白チーズによく似た物質の、大きなかたまりを加えるが、これは三角形に切ってあった」「三角形に切ってあった」というのがやや不審であるが、これも言わずもがな、豆腐である。

「水銃」原文は“syringe”。これは銃というよりは注射器・スポイト・浣腸器の謂いである。

「喞子(ピストン)」音は「ショクシ」。まさに英語(原文)“piston”の漢訳語。]

 北條九代記 北面西面の始 付 一院御謀叛の根元 竝 平九郎仙洞に參る 〈承久の乱【一】 後鳥羽院御謀叛 西面の武士事始め〉

      〇北面西面の始  一院御謀叛の根元  平九郎仙洞に參る
同年四月の比より、後鳥羽上皇、鎌倉を滅さんと思召(おぼしめ)し立ち給ふ。往初(そのかみ)上皇御在位の御時より武臣既に天下の權取りて、王威を蔑(ないがしろ)に思ひ奉り、禁中の政道の衰へ行く事を憤り、御位を第一の皇子土御門〔の〕院に讓りて隱居(おりゐ)させ給ひ、この君御在位十二年の後、何の子細もおはしまさざるに、御位を下(おろ)し奉りて、第二の皇子順德院を以て御位にぞ即(つ)け奉らせ給ふ。是は當腹(たうふく)御寵愛の故とぞ聞えし。後鳥羽〔の〕院をば一院とも申し、叉は本院とも申す。土御門院をば新院とぞ申しける。是に依(よつ)て、本院新院の御中快(こゝろよか)らず。天下国家の政道は當今(たうぎん)、新院には任せ給はずして、 一向(ひたすら)本院の御計(おんはからひ)なり、然るに、本院は仙洞に籠り給ひ、和歌管絃の御暇(おんいとま)には國家の政理(せいり)を聞召(きこしめ)れ、又其間には專(もつぱら)武藝を事とし給ひ、院中北面の者の外に、西面(さいめん)の侍を置きて、諸國の武士を召集(めしあつ)めらる。往昔(そのかみ)白河院の御時に、始(はじめ)て、北面の侍を召し遣はれ、又西面と云ふものを置(か)れたり。今又本院武藝を好ませ給ひて、武士多く參り仕ふ。是偏(ひとへ)に關東を亡さばやと思召さるゝ御企(くはだて)の御用意とぞ覺えたる。
[やぶちゃん注:〈承久の乱Ⅰ 後鳥羽院御謀叛 西面の武士事始め〉底本頭書『承久亂源(一)武臣の跋扈』
本段より本格的に承久の乱へと突入し、主たる典拠も「吾妻鏡」から「承久記」(鎌倉中期に成立したと推定される軍記物。二巻。作者未詳。承久の乱の経過を記して論評を加えたもので、「吾妻鏡」では知り得ない京都側動静を詳細に伝えて史料的価値が高い。「承久兵乱記」「承久軍物語」などの異本がある)へとスライドするが、実は私自身、「承久記」を精読したことがない。されば同書の引用その他、個々の注にも時間が掛かると思われ、私自身、承久の乱の顛末をゆっくりと検証してみたくもあることから、以下、パートごとに分割して示すこととする。従って実際の本文は改行なしで連続していることをここにお断りしておく。まず以下に本パートを書くに当たって筆者が参考にしたと考えられる「承久記」の記載を引用する。なお、この参考当該箇所の同定については、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)を参考にさせて戴いた。引用は岩波新古典文学大系の「保元物語 平治物語 承久記」に載る慶長古活字本を底本とした。以下の部分は同書の「承久記上」の冒頭に現われるので、その冒頭総てを示すこととした。但し、私のポリシーに則り、漢字及び踊り字「〱」は正字化した。本文中の〔 〕は底本編者による補訂を示す(この注記は以下、略す)。

 百王八十二代ノ御門ヲバ、後鳥〔羽〕院トゾ申ケル。隱岐國ニテカクレサセ給シカバ、隱岐院トモ申ス。後白河院ノ御孫、高倉院第四ノ御子。壽永二年八月廿日、四歳ニテ御即位。御在位十五箇年ノ間、藝能二ヲ學ビ給フルニ、歌仙ノ花モサキ文章ノ實モナリヌベシ。然リシ後、御位ヲ退カセマシマシテ、第一ノ御子ニ讓リ奉ラセ給ヌ。其後イヤシキ身ニ御肩ヲ双、御膝ヲクミマシマシテ、后妃・采女ノ止事ナキヲバサシヲカセ給ヒテ、アヤシノシヅニ近カセ給フ。賢王・聖主ノスナホナル御政ニ背キ、横シマニ武藝ヲ好マセ給フ。然ル間、「弓取テヨク打物モチテシタ、カナラン者ヲ、召ツカハヾヤ」ト御尋有シカバ、國々ヨリモ進ミテ參リ、又敕定ニ隨ヒテモ參ル。白河院ノ御時、北面卜云フ事ヲ始テ、侍ヲ近ク召使ハル、事アリケリ。此御時ニ又、西面ト云フモノヲ召ヲカレケリ。其比、關東へ仰テ、「弓取ノヨカラン者ヲ十人マイラセヨ」ト被ㇾ召シカバ、津田筑後六郎・賤間若狹兵衞次郎・原彌五郎・突井兵衞太郎・高井兵衞太郎、荻野三郎、且六人ヲゾ進セケル。
 呉王劍革ヲ好シカバ、宮中ニ疵ヲカウブラザル者ナク、楚王細腰ヲ好シカバ、天下ニ餓死多カリケリ。上ノ好ニ下シタガフ習ナレバ、國ノ危ラン事ヲノミゾ、アヤシミケル。

 以下、「北條九代記」本文に語注する。
「同年四月」承久三(一二二一)年四月。
「上皇御在位の御時」第八十二代後鳥羽天皇(治承四(一一八〇)年~延応元(一二三九)年)の在位は寿永二(一一八三)年八月から建久九(一一九八)年一月。その後を実子の土御門天皇(建久六(一一九六)年~寛喜三(一二三一)年)に譲位したが、彼は立太子もしておらず、践祚した時は満二歳であり、事実上の後鳥羽上皇による院政が敷かれた。
「この君御在位十二年の後、何の子細もおはしまさざるに、御位を下し奉りて」後鳥羽上皇は突如、土御門天皇に退位を迫って承元四(一二一〇)年十一月に異母弟である後鳥羽院第三皇子(本文にある「第二」は厳密には誤り。建永元(一二〇六)年に出家したが次男で異母兄の道助入道親王がいる)であった順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)に譲位させた。
「當腹御寵愛の故とぞ聞えし」順徳天皇の母女院藤原重子(寿永元(一一八二)年~文永元(一二六四)年)は後鳥羽天皇の寵妃であった。
「當今(とうぎん)」当代の天皇、今上天皇に同じい。順徳天皇のこと。
「西面の侍」「西面武士(さいめんのぶし)」。創設の時期は不明であるが、後鳥羽上皇がかなり早い時期(元久二(一二〇五)年以前)に置いたと推測されている院司の一つで、院の御所の西面の詰所に伺候して警固に当った武士集団の呼称。以後の諸記録中に新日吉社小五月会での流鏑馬勤仕・院中での蹴鞠奉仕・御幸の供奉等でその名が見える。当初から倒幕準備のための創設であったとする主張がある一方、「承久記」にもあるように武芸を好んだ上皇が、倒幕とは無関係に創ったものとする説もある。関東及び在京御家人を中心に構成され、西国の有力御家人や武勇に優れた武士が多く所属していた。承久の乱では上皇軍として参戦したものの一ヶ月あまりで鎮圧され、乱後は上皇の配流に伴って廃止された。]



長く無沙汰していた「北條九代記」であるが、遂に承久の乱に突入する。

中島敦 南洋日記 九月三十日

        九月三十日(火) ジャボール

 竹内氏宅にて朝食の馴走になる。公學校授業二時間見學。淀川の家に行き、雞スープ、ホット・ケーキその他を喰ふ。十時半、飯田氏の家にて、雞すきやきをよばれ、福德氏持參の雞の石燒を喰ふ。頗る美味。椰子竹、又、雅味あり。食料最も缺乏せりと聞きし此の島にて、斯かる珍味の數々にあはんとは思ひがけざりし。完全に滿腹。食後、細萱氏宅にて將棋。

 二時半支廳ランチにて乘船。三時出帆。乘客に海軍々人多し。夜、將棋。

 竹内氏よりバンド、淀川氏より、ウチハとバンドと。細萱氏よりバナナ、パパイヤを貰ふ。

[やぶちゃん注:「椰子竹」メキシコ東部原産のヤシ科タケヤシ Chamaedorea microspadix というのがあるが食用になるかどうかは不明。マダガスカルやアフリカ等熱帯雨林気候地区及びインド太平洋地域を原産とするヤシ科 Dypsis 属アレカヤシ Dypsis lutescens は和名コガネタケヤシ(黄金竹椰子)と言い、ウィキの「アレカヤシ」には、『ヤシの名称通り殻に包まれた種子が生る。果実は卵形から楕円形で』、長さ約二センチメートル、『橙黄色から黒紫色に熟す。原生地域では鳥類や蝙蝠等の小動物の食料元となるが、現在においてはヒト用の食用には利用されない』とあるから、かつてはこの種子が食用とされたことが分かる。これか?

 最後に同日附の桓宛書簡を示しておく。

   *

〇九月三十日附(ヤルートで。旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号四二)

 東京(とうきよう)は、もう秋(あき)だね。かきくりがたべられていいね。

 南洋には、秋(あき)も春(はる)もなくて、年中(ねんぢゆう)バナナとパパイヤばかり。

 桓や格に、あひたいな。

   *
この時、次男格(のぼる)は未だ満二歳七ヶ月であった。]

柴漬の沈みもやらで春の雨 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   柴漬の沈みもやらで春の雨

 春雨模糊とした海岸に、沈みもやらで柴漬が漂つて居る。次の句も類想であり、いずれ優劣のない佳句である。

    よもすがら音なき雨や種俵

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。「よもすがら」の句は底本ではポイント落ち。「種俵」は「たねだはら」と読み、稲の種籾(たねもみ)を入れておく俵で、春の蒔く前には種井(たない)・種池などに漬けて発芽を促しておくもの。]

鬼城句集 秋之部 紅葉

紅葉    紅葉すれば西日の家も好もしき

      紅葉してしばし日の照る谷間かな


[やぶちゃん注:「しばし」の最初の「し」は「志」の崩し字。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次

 噴水の上に眠るものの聲

 

 ひとつの言葉を抱くといふことは、ものの頂を走りながら、ものの底をあゆみゆくことである。

 

 ひとつの言葉におぼれて、そのなかに火をともすことは、とりもなほさず、窓わくのなかに朝と夕の鳥のさへづりを生きのままに縫箔することである。

 

 ひとつの言葉に、もえあがる全存在を髣髴させることは、はるかな神の呼吸にかよふ刹那である。

 

 ひとつの言葉を聽くことは、むらがる雨のおとを聽くことである。數限りない音と色と姿とけはひとを身にせまるのである。

 

 ひとつの言葉に舌をつけることは、おそろしい鐘のねの渦卷に心をひたすことである。空々寂々、ただひそかに逃れんとあせるばかりである。

 

 ひとつの言葉に身を投げかけることは、恰も草木の生長の貌である。そこに芽はひらき、葉はのびあがり、いそいそと地に乳をもとめるのである。この幸福は無限の芳香をもつ。

 

 ひとつの言葉を眺めれば、あまたの人の顏であり、姿であり、身振であり、そして消えてゆかうとするあらゆるものゝ別れである。含まれたる情熱の器は、細い葉のそよぎにゆらめいて、現を夢ににほはせるのである。

 

 ひとつの言葉に觸れることは、うぶ毛の光るももいろの少女の肌にふるへる指を濡れさせることである。指はにほひをきゝ、指はときめきを傳へ、指はあらしを感じ、指はまぼろしをつくり、指は焰をあふり、指はさまざまの姿態にあふれる思ひを背負ひ、指は小徑にすゝり泣き、なほさらに指は芬香の壺にふかぶかと沈みてあがき、壺のやうな執著のころもに自らを失ふのである。

 

 ひとつの言葉を嗅ぐことは、花園のさまよふ蜂となることである。觀念は指をきり、わきたつ噴水に雨をふらし、をののく曙は闇のなかに身をひるがへし、やはやはとし、すべてはほのかなあかるみの流れに身ぶるひをしてとびたつのである。

 

 ひとつの言葉は、影となり光となり、漾うてはとどまらず、うそぶきをうみ、裂かれては浮み、おそひかかる力の放散に花をおしひらかせる。

 

 ひとつの言葉は空中に輪をゑがいて星くづをふくみ、つぶさにそのひびきをつたへ、ゆふべのおとづれを紡ぐのである。

 

 ひとつの言葉は草の葉である。その上の螢である。その光である。光のなかの色である。色のまばたきである。まばたきの命である。消なば消ぬがのたはむれに似てゆらびく遠い意志である。

 

 ひとつの言葉はしたたりおちる木の實であり、その殼であり、その果肉であり、その核であり、その汁である。さうして、木の實の持つすべてのうるほひであり、重みであり、動きであり、ほのほであり、移り氣である。

 

 ひとつの言葉を釣らんとするには、まづ倦怠の餌を月光のなかに投じ、ひとすぢの絲のうへをわたつてゆかなければならぬ。そのあやふさは祈りである。永遠の窓はそこにひらかれる。

 

 ひとつの言葉は跫音である。くさむらのなかにこもる女の跫音である。とほのいては消えがてに、またちかづくみづ色の跫音である。そのよわよわしさは、ながれる蝶のはねである。おさへようとすればくづれてしまふ果敢なさである。

 

 ひとつの言葉はみえざるほのほである。闇である。明るみである。眠りである。ささやきである。圓である。球體である。處女である。絲につながれた魚である。咲かうとする白いつぼみである。常春の年齡である。流れであり、風であり、丘であり、吹きならす口笛の蜘蛛である。

 

 ひとつの言葉にひとつの言葉をつなぐことは花であり、笑ひであり、みとのまぐはひである。白い言葉と黑い言葉とをつなぎ、黄色い言葉と黑い言葉とをつなぎ、靑の言葉と赤の言葉とを、みどりの言葉と黑い言葉とを、空色の言葉と淡紅色の言葉とをつなぎ、或は朝の言葉と夜の言葉とをつなぎ、晝の言葉と夕の言葉とをむすび、春の言葉と夏の言葉とを、善と惡との言葉を、美と醜との言葉を、天と地との言葉を、南と北との言葉を、神と惡魔との言葉を、可見の言葉と不可見の言葉とを、近き言葉と遠き言葉とを、表と裏との言葉を、水と山との言葉を、指と胸との言葉を、手と足との言葉を、夢と空との言葉を、火と岩との言葉を、驚きと竦みとの言葉を、動と不動の言葉を、崩壞と建設の言葉を……つなぎ合せ、結びあはせて、その色彩と音調と感觸とあらゆる混迷のなかに手探りするいんいんたる微妙の世界の開花。

 

 まことに言葉はひとつの生き物である。それは小兒の肌ざはりである。やはらかく、あたたかく、なめらかに、ふしぎにうごめき、もりあがり、けむりたち、びよびよとしてとどまらず、こゑをしのび、ほほゑみをかくし、なまなまとして夢をはらみ、あをくはなやぎ、ほそくしなやかに、風のやうにかすかにみだれ、よびかはし、よりかかり、もたれかかり、夜毎にふくらみ、ほのかに赤らみ、すべすべとしてねばり、はねかへり、ぴたぴたと吸ひつき、絶えず生長し、ひかりかがやき、よろこびを吹き、感じやすく、響きやすく、ことごとくの音をきき色をうつし、時とともにとびさる感情の繪をゑがき、日とともに新しく、唄の森林をはびこらせる。

 

 ひとつの言葉をえらぶにあたり、私は自らの天眞にふるへつつ、六つの指を用ゐる。すなはち、視覺の指、聽覺の指、嗅覺の指、味覺の指、觸覺の指、温覺の指である。さらに、私はあまたの見えざる指を用ゐる。たとへば年齡の指、方角の指、性の指、季節の指、時間の指、祖先の指、思想の指、微風の指、透明な毛髮の指、情慾の指、飢渇の指、紫色の病氣の指、遠景の指、統覺の指、感情の生血の指、合掌の指、神格性の指、縹渺の指、とぎすまされてめんめんと燃える指、水をくぐる釣針の指、毒草の指、なりひびく瑪瑙の指、馬の指、蛇の指、蛙の指、犬の指、きりぎりすの指、螢の指、鴉の指、蘆の葉の指、おじぎさうの指、月光の指、太陽のかげの指、地面の指、空間の指、雲の指、木立の指、流れの指、黄金の指、銀の指……指。私の肉體をめぐる限りない物象の香氣の幕に魅せられて、これらの指といふ指はむらがりたち、ひとつの言葉の選びに向ふのである。その白熱帶は無心の勤行である。

 

[やぶちゃん注:第六連の「いそいそ」の後半は底本では踊り字「〱」。

第八連の「芬香」は「ふんかう(ふんこう)」と読む。よい匂い。芳香に同義。

第十二連の「ゆらびく」は「搖ら曳く」で、ゆれて棚引くの意。

第十三連と第十四連は底本では行空きなしで連結しているが、諸本を参照に分離した。

第十七連の「淡紅色」には、思潮社版及び岩波版では「ときいろ」とルビが振られている。また、同連の太字「いんいん」は底本では傍点「ヽ」である。

最終第十九連の「嗅覺の指、味覺の指、」は底本では「嗅覺の指味覺の指、」となっている。諸本と校合、脱字として訂した。]

2013/10/26

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第19連 最終連》

 ひとつの言葉をえらぶにあたり、私は自らの天眞にふるへつつ、六つの指を用ゐる。すなはち、視覺の指、聽覺の指、嗅覺の指、味覺の指、觸覺の指、温覺の指である。さらに、私はあまたの見えざる指を用ゐる。たとへば年齡の指、方角の指、性の指、季節の指、時間の指、祖先の指、思想の指、微風の指、透明な毛髮の指、情慾の指、飢渇の指、紫色の病氣の指、遠景の指、統覺の指、感情の生血の指、合掌の指、神格性の指、縹渺の指、とぎすまされてめんめんと燃える指、水をくぐる釣針の指、毒草の指、なりひびく瑪瑙の指、馬の指、蛇の指、蛙の指、犬の指、きりぎりすの指、螢の指、鴉の指、蘆の葉の指、おじぎさうの指、月光の指、太陽のかげの指、地面の指、空間の指、雲の指、木立の指、流れの指、黄金の指、銀の指……指。私の肉體をめぐる限りない物象の香氣の幕に魅せられて、これらの指といふ指はむらがりたち、ひとつの言葉の選びに向ふのである。その白熱帶は無心の勤行である。

[やぶちゃん注:これが本「噴水の上に眠るものの聲」の最終第十九連である。「嗅覺の指、味覺の指、」は底本では「嗅覺の指味覺の指、」となっている。諸本と校合、脱字として訂した。]

明朝――「噴水の上に眠るものの聲」全詩をアップする。

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第18連》

 まことに言葉はひとつの生き物である。それは小兒の肌ざはりである。やはらかく、あたたかく、なめらかに、ふしぎにうごめき、もりあがり、けむりたち、びよびよとしてとどまらず、こゑをしのび、ほほゑみをかくし、なまなまとして夢をはらみ、あをくはなやぎ、ほそくしなやかに、風のやうにかすかにみだれ、よびかはし、よりかかり、もたれかかり、夜毎にふくらみ、ほのかに赤らみ、すべすべとしてねばり、はねかへり、ぴたぴたと吸ひつき、絶えず生長し、ひかりかがやき、よろこびを吹き、感じやすく、響きやすく、ことごとくの音をきき色をうつし、時とともにとびさる感情の繪をゑがき、日とともに新しく、唄の森林をはびこらせる。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 13 蚤

 この国で最も有難からぬ厄介物の一つは蚤(のみ)である。山の頂上にでも野生している。彼等は人家に侵入しているので、夜間余程特別な注意を払わぬと人間喰い尽されて了う。その嚙みよう――刺しよう――は非常に鋭尖で、私の腕を刺した奴は、私をしてガバとばかり起き上らせた位であり、そしてうず痛さはしばらく残っていた。私の身体は所々蚤に喰われて赤く膨れ上っている。どこででも使用する藁の敷物が、彼等にこの上もない隠れ家を与える。我国の夜具の役をするフトンは木綿か絹の綿――最高級の家を除いてはめったに後者を使わぬ――を沢山入れた上掛である。その一枚を身体の下に敷き、上には何枚でも好きな丈かける。東京を出発する前に我々は大きな枕蓋か袋のような形の寝間着をつくらせた。夜になるとこの中に入りこんで、首のまわりで紐を締るのである。寝る時が来て我々が手も足も見せずに長々と床に寝そべる有様は誠に滑稽(こっけい)だった。我々はまるで死骸みたいだった。障子を明けるためには、ヨロヨロと歩いて行って、頭で障子を押す。これには腹をかかえた。だがこの袋のおかげで、蚤の大部分には襲われずに済んだ。
[やぶちゃん注:「枕蓋」「まくらおおい」と読ませるつもりか。原文は“pillow-cases”で今なら普通に「枕カバー」と訳すところである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 12 明治初年の中禅寺湖に於いてマシジミの移植実験が行われていた驚きの事実

 蜻蛉(とんぼ)が何百万という程群(むらが)って飛んでいた。私はこんなに沢山いるのを見たことがない。彼等は顔につき当り、帽子や衣服にとまり、実にうるさいことこの上なしであった。また蜉蝣(かげろう)その他の水中で発生する昆虫類も多数いた。この日の午後を私は湖畔で採集をして送った。生きた軟体動物の、証跡は見あたらなかったが、水蛭(みずびる)はあちらこちらの岩の上にいたし、少数の甲殻類も目についた。蛙は二つの「種」のが沢山いた。また東京付近の田の溝に非常に多い蜆(しじみ)が、ここには貝殻ばかりしかないのには驚いた。私は生きた標本をさがそうと思って、柄杓(ひしゃく)でかきまわしたが、無駄だった。後で旅館へ帰って聞いた所によると、政府はこの湖水に生きた蜆を一万個移植したのだが、それは全部死んで了ったとのことである。

[やぶちゃん注:「蜆」原文“Corbicula”。純淡水産の斧足綱異歯亜綱シジミ科上科シジミ科マシジミ Corbicula leana。これは恐らく現在では最早忘れ去られた明治初期になされた貴重な事実の記録である。「政府」(“the Government”)とあるから、一応これは明治新政府であるとしか思われない。とすると、まさにこのマシジミの中禅寺湖移植実験は明治一〇(一八七七)年の直近で行われたものと考えられるのである。何より、モース自身が生体がいないかと探ったということは、その殻が何年も経過した後の死殻とは思われない、新らしいものであったからに他ならないからである。明治の初年に早くも政府主導でこのような移植事業が行われていたというのは、私にはちょっと意外である。誰がどのように発案し、実行されたものなのだろう? ちょっと興味が湧いてくる。ご存知の方、是非とも御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 11 中禅寺湖到着

 長い、辛い、然し素晴しい徒歩旅行を終えて、我我は中禅寺湖のほとりに着いた。この湖水は径二マイル、一方をめぐるのは一千五百フィート、あるいはそれ以上の急な山々で、北には有名な海抜八千フィートの男体(なんたい)山が湖畔から突如急傾斜をなして聳えている。湖床は明瞭に噴火口であったらしい。砂浜は見えず、岸にはあらゆる大きさの火山岩石が散在し、所々に熔岩や軽石がある。男体山は日本の名山の一つで地図には Nantai とあるが、ミカドが代ると共に新しい名前をつけたことがあるので、別名も数個持っている。一八六八年の革命の後、ミカドがこれに新しい名を与え、そして古い名は、それが何であったかほとにかく、放棄されて了った。これ――即ち古い名を変えること――は我々には、不思議に思われる。例えば江戸はこの革命の後に東京――東の首都――と名づけられた。だが、我々とても、それはインディアンの名を英語の名に代えたのではあるが、同様な変更を行った。シャウムウトがボストンになり、ナウムケーグがセーラムになった如きはその例である。

[やぶちゃん注:「湖水は径二マイル」“a body of water, miles across,”。「二マイル」は約3・2キロメートル。中禅寺湖は面積11・62平方キロメートル、周囲の長さは約25キロメートルあるが、円形はしていないから「直径」というのは馴染まない。試みに、登って来て中禅寺湖が開けて見える現在の立木観音入口交差点から、湖を差し渡して真正面に見える対岸の大日崎の根の部分までを計測してみると、ズバリ3・2キロメートルである。このことから、これは「直径」ではなく、湖に臨んだ際の対岸との差し渡し(“across”)の距離であることが分かる。

「一方をめぐるのは一千五百フィート、あるいはそれ以上の急な山々」約457メートル。一見解せない数値であるが、中禅寺湖の標高自体が1269メートルで、湖畔立って南岸の峰を時計回りに見ると、半月山(1753メートル)・社山(1826メートル)・太平山(1960メートル)・シゲト山(1835メートル)・中山(1519メートル)と続いている。最も低い中山と中禅寺湖の高低差が250、最も高い太平山とのそれは691で、その平均は471メートルとなり、中禅寺湖畔に立ったモースの一番右手前によく見えたはずの半月山は、その位置との高低差が487メートルとなり、中禅寺湖から「一千五百フィート」の高さの山にほぼ一致すると言えるように思われる。

「海抜八千フィートの男体山」「八千フィート」は2438メートル。男体山の正確な標高は2486メートルで換算すると8156フィート。

「ミカドが代ると共に新しい名前をつけたことがあるので、別名も数個持っている」これは元号や社寺名(廃仏毀釈による神社仏閣名の変更)・モースも述べている維新後の地名変更のなどと混同しているように感じられる。男体山は確かに別名として二荒(ふたら)山・黒髪山・国神山という名を持つが、ここに書かれたような別名由来の事実はない。

「シャウムウトがボストンになり、ナウムケーグがセーラムになった」原文は“Shawmut became Boston and Naumkeag became Salem.”。“Shawmut”はマサチューセッツ州ボストン市のある半島の名ショーマット半島(Shawmut Peninsula)として残る。この名は先住インディアンのアルゴンキン族の言語の“Mashauwomuk”という言葉に由来するが、この言葉の意味はよくわかっていない。この半島をさす名称として「ショーマット」が現れた最初の記録は一六三〇年であったと参照したウィキショーマット半島にはある。一方、モース所縁のマサチューセッツ州エセックス郡にあるセーラムは、古くから貿易港として栄え、十七世紀末には忌わしき魔女狩り事件でも有名になった都市であるが、ここもネイティヴ・インディアンがかつては“Naumkeag”と呼んでいた地域であった。同地の川の名や歴史的建造物にその名を残している。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 10 珍しい陸棲巻貝の発見/石仏群/石の願掛け/漂石/小屋の悪戯ら書き


M76


図―76

 ある場所で腐った木の一片をひっくりかえして見たら、きせる貝に似て巻き方が反対な、実に美しい陸貝があった。(私はこの「種」の形をフランスの一雑誌で見た覚えがある。)それ等と一緒にあった小さな貝は、明かにニューイングランドで普通に見受ける種の物と同一であった。また極めて美しい蝶が飛んでいて、私はその若干を捕えた。我々は路傍に立ち並ぶ石の像に興味を感じた。それ等の大多数――全部とまでは行かぬとしても――は仏陀の姿で、こわれているものも多く、中にはひっくり返った儘のもあるが、いずれも苔むし、その他いろいろと時代の痕跡をとどめていた。石の台の上にのっているのもあったが、その一つの両脚、両手の上には小石が積み上げてあった。この小石一つが一回の祈禱を代表するのである(図76)。渓流をさかのぼる時、小さな橋の上に佇んで下をほとばしり流れる水から立ち昇る空気に冷されるのは誠に気持がよい。氷河作用の証拠が見えぬのは不思議に思われた。漂石の中には、氷河作用によるものらしく見えるものが大略千個について一個位あるが、それ等もニューイングランドの漂石のように丸くはなく、また蝕壊されてもいない。旅人達が休み場として用いる無住の小舎で、私は初めて羽目や桷(たるき)に筆で日本文字の署名をしたのを見た。この時まで私は公共の場所を、我国で普通に行われるように、名前や、粗雑な絵や、文句でけがすことを見なかった。この無住の小舎は、然し人里を離れることが非常に遠いので、それを筆蹟帳として悪用することも、大した曲事とは思われなかった。

[やぶちゃん注:最後に示されているのは高い確率で千社札ではないかと思われる。「モース先生、それはね、悪戯書きではありませんよ!」

「ある場所で腐った木の一片をひっくりかえして見たら、きせる貝に似て巻き方が反対な、実に美しい陸貝があった。」原文は“At one place I turned over a bit of rotten wood and found exquisite little land shells like Pupilla, only reversed.”。“Pupilla”は腹足綱柄眼目直輸尿管亜目サナギガイ上科サナギガイ科サナギガイ属 Pupilla(但し、陸生貝類の分類体系は研究者によってかなりの相違がある)。訳の「きせる貝」は頂けない。同じ柄眼目ではあるが、「きせる貝」はキセルガイ科 Clausliidae で科レベルで異なる別種であるからである。サナギガイ科 Pupillidae はキバサナギガイ科とスナガイ科を含み、八属十九種。微小で殻高は一・五~三ミリメートルほどしかなく、通常は殻口に褶(しわ)を持つ(平凡社「日本動物大百科 第七巻 無脊椎動物」の「陸生巻貝類」の黒住耐二氏の記載に拠る)。私は陸棲貝類には疎いので何とも言えないが、ここでモースが見つけたのは本当にサナギガイ属 Pupilla の貝であったのだろうか? かく疑問を呈するのは、彼が「実に美しい」と表現している点で、本属の貝類は先に記した如く孰れも微小であるからである(無論、貝類を専門とするモースが如何なる微小なものであっても「実に美しい」(exquisite)と表現しても何ら可笑しくはないし、実際に貝類収集家の中には顕微鏡で見るような微小貝類を専門に蒐集される方もいる)。私は形状が“exquisite”(非常に美しい・実に巧緻な)と言うなら寧ろ、苦言を呈しておきながらも石川氏の誤ったキセルガイ科のどれそれの方が、これ、より相応しいようにも思えてくるからではある。一応、アメリカにあった時のモースにとって日常的であったと考えられる“Pupilla”、北半球の広い範囲に分布し、しかもサナギガイ属では最も広く分布して且つ最も普通に見られる種とされるチャイロサナギガイ Pupilla muscorum(但し、本種は日本では報告はない)について、ウィキチャイロサナギガイから引用しておく(注記記号は省略した)。『北欧や南欧を含むイングランドからロシア極東にわたるヨーロッパのほぼ全域、アフリカ(北部)、中東、アジア(北アジア、中央アジア、東アジア、スリランカ)、北米北部など。これは20-30種が知られるサナギガイ属 Pupilla 全体の分布域をほぼカバーしているとされる』。『殻色は赤褐色~角灰色。全体に両端の丸い円筒形もしくは長卵形で、殻頂は丸味を帯びつつ鈍く尖る。殻表は最初の』『層はほとんど平滑で、以後は細かい成長線があるが顕著な彫刻はない。殻質は薄くはなく、石灰分の多い環境ではより厚くなり、それが少ない環境ではより薄くなって透明感のあるものも出現する。原則として右巻きだが、北米では一定の割合で左巻きが出現する個体群があり、それには Pupilla muscorum sinistra Franzen, 1946という亜種名が付けられている。』『サナギガイ科は陸生有肺類であるため蓋はないが、しばしば殻口内に歯状突起をも』ち、『殻口縁は狭く反り返ってリップを形成し、その背後には弱い括れを挟んで殻口縁に平行したクレストと呼ばれる白っぽいリング状の肥厚部をもつ。ただし北米産では欧州産ほどリップもクレストも発達しない。臍孔は狭い裂け目状』で(「殻口縁は狭く反り返ってリップを形成」というのが先の「褶」であろう。こうした細部解説を読むと今度は“exquisite”も満更ではないという気もしてくる)、『軟体は殻に比べると小さく、匍匐する時の腹足の全長は殻高の半分程度。背面が黒っぽく、足の周辺はやや淡色、表面の溝やしわ状彫刻はあまり顕著ではない。1対の大触角はよく発達し先端に大きめの眼があり、下方にある小触角も小さいが明瞭に存在する』。低地から山地まで生息し、アルプス山脈では標高二四〇〇メートル、ブルガリアでは標高一二〇〇メートルまで見られるが、一般には『乾燥した牧草地や、砂地、開放的で陽光のあたる環境や石灰質の土地に多く、落ち葉層や』『コケの間、石の下などに棲息する。ブリテン島ではヒツジが食んだ石灰質の草地などに多い。雌雄同体、卵胎生で、体内に1―8個の胎貝をもっているものが周年観察される』。『足は殻に比べて小さいが、殻は引きずることなく後方に持ち上げて活動する』とある。なお同属に属する種が本邦にも棲息する。サナギガイ Pupilla cryptodonHeude)で、参照したの山口県公式サイトの「野生生物目録」のサナギガイ」によれば、中華人民共和国の江蘇省から記載された微小な陸産貝で、海岸の砂浜に続く草むらに生息することが知られているが、日本での分布は局限されている。また、中国大陸から朝鮮半島の比較的寒冷な地域に分布の中心があり、日本での生息は寒冷時代の遺存種と考えられる。山口県内においては日本海側のごく限られた場所に生息しているが、砂浜海岸の荒廃とともに海浜植物への薬剤の散布等により生息環境が悪化し、生息範囲、個体数ともに減少している、とある。殻高は約3ミリメートル、殻径は約2ミリメートルと小形で薄質で堅固な殻をもつ。螺塔の高さには変異があり、著しく引き伸ばされた俵形を示す個体から球形に近い個体などが観察される。殻口は丸く、体層から離れて反転する。成貝では内唇に接近した二歯・軸唇に一歯・外唇内側に離れた二歯をもつ。殻色は淡褐色であるが死殻は白色を呈する。兵庫県、広島県、香川県の瀬戸内海沿岸部、石川・山口両県の日本海沿岸部、福岡県、長崎県に分布する(山口県では日本海側の日置町・豊北町の二ヶ所のみの記録)。海岸の砂浜潮上帯からハマオモト―ハマゴウ群落の落葉の中で観察される。こうした場所は乾燥した砂の上に堆積した落葉や朽ち木などが集まり、適度な湿り気を帯びている、とある。なお本種は環境省カテゴリーの絶滅危惧II類に分類されている。因みにここでモースが「巻き方が反対な」と言ったのは、その貝が左巻きであったことを指していると考えてよい。後は陸棲貝類の蒐集家の方の同定を待とう。

「この小石一つが一回の祈禱を代表するのである」日本の古来、恐らく仏教伝来や神道よりも遙か以前の、聖石への原始信仰の時代からの願掛けの方法。一般には特定の場所の石を選び拾い、仏教では「般若心経」などを唱えながら満願の日を決めて、石仏や宗祖などの石像に願を掛けるもの(病気平癒などの場合はその小石を持ち帰って患部を摩ったりした)。祈願が成就した際には何倍かの小石を御礼として供えるといった風習である。

「漂石」「ひょうせき」と読む。モレーン(moraine:氷河が運搬・堆積した岩屑(がんせつ)から成る堆積物。堆石。)の岩塊などが氷河の流下で遠くまで運ばれた後、氷河の消失によってとり残されたもの。付近の地質とは異質で孤立して存在する。迷子石・捨て子石ともいう。]

耳嚢 巻之七 加茂長明賴朝の廟歌の事

 加茂長明賴朝の廟歌の事

 

 鎌倉賴朝の廟にて、加茂の長明詠(よめ)ると人の言(いふ)。

  草も木も靡きし秋の霜きへてむなしき苔を拂ふ山風

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。突如、故事の和歌譚の引用で、やや奇異な印象を受ける。後に三つ後に狂歌譚に始まる三話の和歌譚があるが、意地悪く解釈すると、巻末に至って百話にするためのやや見え透いた仕儀かとも疑われる。

・「加茂長明」鴨長明は京都の賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜鴨長継の次男として生まれたが、望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜への就任が叶わず、神職としての出世の道を閉ざされたために出家して蓮胤と名乗った。一般には俗名を音読みした鴨長明(かものちょうめい)として知られるが、本来の本名は「かものながあきら」と読む(以上はウィキ長明」に拠る)。加茂・賀茂・鴨の表記は平安期から混在して使用されており、また神社の名を「賀茂」とすることから忌んで「加茂」「鴨」と表記したとも考えられよう。

・「鎌倉賴朝の廟」底本で鈴木氏はここに注して、

   《引用開始》

 頼朝の墓は、鎌倉幕府当時の館址を見下ろす山腹の一劃に、タブの老樹の下に建っている五輪塔、細工も荒削りである。堂社はない。なお「草も木も」の歌は鴨長明集には見えない。

   《引用終了》

とされているが、この注は幾つかの問題点があるとわたしは思う。鈴木棠三氏は鎌倉史の碩学でもあったにも拘わらず、如何されたか、この記載、徹頭徹尾、不完全にして不正確、しかも不親切な注と言わざるを得ないからである。

 まず、この「廟」は正に堂社の謂いであって「墓」ではない。鈴木氏の言う「頼朝の墓」は現在、鎌倉市西御門の大倉山山裾にある供養塔としての多層塔を指しているが、これは後世、安永八(一七七九)年に頼朝子孫を称する(島津氏の祖で鎌倉幕府御家人であった島津忠久を頼朝の落胤とする説に拠るがこれは所謂、偽源氏説であって信ずるに足らない)薩摩藩第八代藩主島津重豪(しげひで)が建てたもので(室町後期には廃寺となっていたと推定される勝長寿院にあったものを移したともいうがこれも信じられない)、供物台には島津家の丸に十字の家紋が残り、墓の脇には重豪による石碑もある(島津の偏執的な源氏嫡統執着が見てとれる)。しかし乍ら、本当の頼朝の「廟」=墓はこの現在の「頼朝の墓」の下方の公園のある場所にかつて存在した法華堂であり、これは文治五(一一八九)年に頼朝自身によって建立されたものであった。こうした事蹟を鈴木氏が述べていないこと、しかも妙にリアルに現在の「鎌倉幕府当時の館址を見下ろす山腹の一劃に、タブの老樹の下に建っている」という郷土史家的叙述(この叙述自体は正しい)、「五輪塔、細工も荒削りである」という妙に緻密な観察の割には、如何にも不十分にして不完全な注と言わざるを得ない。

 次に本和歌の出典に疑義して「鴨長明集には見えない」として恰も偽歌の如く一蹴する(かに見える)末尾にも問題がある。この『長明の和歌』の出典は言わずもがな(と鈴木氏も思ったものとは思われるが)、「吾妻鏡」である。注としてはそれを示さないのは鎌倉史に不案内な後学の徒には頗る不親切と言わざるを得ない。以下に当該箇所「吾妻鏡」巻十九の建暦元(一二一一)年十月十三日の条を示す。

   *

○原文

十三日辛夘。鴨社氏人菊大夫長明入道。〔法名蓮胤。〕依雅經朝臣之擧。此間下向。奉謁將軍家。及度々云々。而今日當于幕下將軍御忌日。參彼法花堂。念誦讀經之間。懷舊之涙頻相催。註一首和歌於堂柱。

  草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ拂ウ山風

   *

○やぶちゃんの書き下し文(和歌は原文に拠らず正確に読み易く示した)

十三日辛夘。鴨社の氏人(うぢびと)、菊大夫長明(ながあきら)入道〔法名、蓮胤。〕、雅經朝臣の擧(きよ)に依つて、此の間、下向す。將軍家に謁し奉ること、度々(どど)に及ぶと云々。

而るに今日、幕下將軍御忌日(ごきにち)に當り、彼(か)の法花堂に參り、念誦讀經の間、懷舊の涙、頻りに相ひ催し、一首の和歌を堂の柱に註(しる)す。

  草も木も靡(なび)きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風

   *

文中の「雅經」は公家で歌人の飛鳥井雅経(嘉応二(一一七〇)年~承久三(一二二一)年)。義経の強力な支援者として知られ、流罪にも遇っている刑部卿難波頼経(ぎょうぶきょうなんばよりつね)の次男で飛鳥井家の祖。雅経も連座して鎌倉に護送されたが、頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価されて頼朝の猶子となった。建久八(一一九七)年に罪を許されて帰京する際には頼朝から様々な贈物を与えられている。その後、頼家・実朝とも深く親交を結び、政所別当大江広元の娘を妻とし、後鳥羽上皇からも近臣として重んじられた。幕府の招きによって鎌倉へ度々下向、実朝と藤原定家やここに示されるように鴨長明との仲を取り持ってもいる。「新古今和歌集」(元久二(一二〇五)年奏進)の撰者の一人として二十二首採歌、以下の勅撰和歌集に計一三二首が入集している人物である(以上の雅経の事蹟はウィキの「飛鳥井雅経」に拠った)。

 この一首は確かに長明の歌集には所収しないものの、永く彼のこのエピソードに於ける即興歌として鎌倉時代にすでに人口に膾炙されており、偽歌とするには当たらない(と私は思う)。

 本「卷之七」の執筆推定下限である文化三(一八〇六)年から遡ること百二十一年前の貞亨二(一六八五)年に公刊された水戸光圀の鎌倉地誌の濫觴である「新編鎌倉志」の巻之二の「法華堂」の項も引いておく(私の同注釈テキストから、ルビの一部を省略して示した)。

   *

○法華堂〔附賴朝並義時墓〕 法華堂は、西御門の東の岡なり。相傳ふ、賴朝の持佛堂の名也。【東鑑】に、文治四年四月廿三日、御持佛堂に於て、法華經講讀始行せらるとあり。此の所歟。同年七月十八日、賴朝、專光坊に仰て曰く、奧州征伐の爲に濳(ヒソカ)に立願あり。汝(ナンヂ)留守に候(コウ)じ、此の亭の後(ウシロ)の山に梵宇を草創すべし。年來の本尊の正觀音像を安置し奉(タテマツラ)ん爲なり。同年八月八日、御亭の後(ウシロ)の山に攀(ヨヂ)登り、梵宇營作を始む。先(マヅ)白地(アカラサマ)に假柱(カリハシラ)四本を立(タテ)、觀音堂の號を授くとあり。今雪の下の相承院領(リヤウ)するなり。賴朝の守(マモリ)本尊正觀音の銀像も、相承院にあり。今此には彌陀、幷如意輪觀音・地藏の像あり。地藏は、本(モト)報恩寺の本尊〔事在報恩寺條下(事、報恩寺の條下に在り。)〕なりしを、何れの時か此に移す。如意輪は、良辨僧正の父太郎大夫時忠と云し人、由比の長(チヤウ)にて在(アリ)し時に、息女の遺骨(ユイコツ)を、此の如意輪の腹中に納むと云ひ傳ふ。又石山寺より佛舍利五粒を納むる由の書き付も入てあり。今は分身して三合ばかりも有と云ふ。又異相(イサウ)なる僧の木像あり。何人の像と云事を知人(シルヒト)なかりしに、建長寺正統菴の住持顯應、此像を修復して自休が像也と定めたり。兒淵に云傳へたる自休は是(コレ)歟(カ)。【佐竹系圖】に、明德二年六月朔日、源の基氏故右大將家の法華堂に、常陸の國那珂郡(ナカゴヲリ)の莊の内太田郷(オヽタガウ)を寺領に付(ツケ)らるゝとあり。【東鑑】に、建暦元年十月十三月、鴨長明入道蓮胤(レンイン)、法華堂に參り、念誦讀經の間(アイダ)、懷舊の涙頻りに催す。一首の和歌を堂の柱に題して云く、「草(クサ)も木(キ)もなびきし秋の霜消(キ)ヘて、空(ムナシ)き苔(コケ)を拂(ハラ)ふ山風」今按ずるに、昔は法華堂と云者、是のみに非ず。【東鑑】に、右大將家・右大臣家・二位家・前の右京兆等の法華堂とあり。【佐竹系圖】にも、佐竹(サタケ)上總の入道、比企谷(ヒキガヤツ)の法華堂にて自害すとあり。然れば、此の法華堂には不限(限らざる)なり。其の比法華を信ずる人多き故、持佛堂を皆法華堂と名る歟。此法華堂を、右大將家の法華堂と云なり。

   *

 最後に、やはり私の電子注釈テクスト「北條九代記」巻第四の「賀茂長明詠歌」を引用して終わりとする(これの私の仕組みをした諸注もリンク先でお読み戴けると幸いである)。「北條九代記」は「耳嚢 巻之七」の執筆時から更に遡ること、百三十一年前の延宝三(一六七五)年に初版が刊行されている。著者は不詳とされるが、江戸前期の真宗僧で仮名草子作家として著名な浅井了意(慶長一七(一六一二)年~元禄四(一六九一)年)が有力な候補として挙げられている。

   *

      ○賀茂長明詠歌

加茂の社氏(やしろうぢの)菊大夫長明(ながあきら)入道蓮胤(れんいん)は、雅經(まさつねの)朝臣の舉(きよ)し申すに付けて、關東に下向し、將軍家に對面を遂げ奉り、鎌倉に居住し、折々は御前に召されて歌の道を問ひ給ふ御徒然(おんつれづれ)の友なりと、思(おぼし)召されければ、新恩に浴して、心を延べ、打慰む事多しとかや。正月十三日は故右大將家の御忌月(きげつ)なれば、法華堂に參詣す。往當(そのかみ)の御事共思ひ續くるに、武威の輝く事、一天に普(あまね)く、軍德の勢(いきほひ)、四海を治(をさめ)て、累祖源家の洪運(こううん)、此所(ここ)に開け、靡(なび)かぬ草木もあらざりしに、無常の殺鬼(さつき)を防ぐべき謀(はかりごと)なく、五十三歳の光陰忽(たちまち)に終盡(をはりつき)て、靑草(せいさう)一箇(こ)の土饅頭(どまんぢう)、黑字數尺(くろじすせき)の卒都婆(そとば)のみ、その名の記(しるし)に殘り給ふ御事よと、懐舊の涙、頻(しきり)に催し、一首の和歌を御堂の柱に書付けたり。

  草も木も磨きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風

將軍家御參詣の時、是を御覽じて、御感、淺からずとぞ聞えし。

   *

・「草も木も靡きし秋の霜きへてむなしき苔を拂ふ山風」――草も木もなびくほどに日本国中の民が服した佐殿(頼朝公)のその秋の霜のような厳しい権勢も――今はその秋の霜のように瞬く間に融け消えて――残った空しき苔蒸した墓辺を風だけが吹き抜けていく――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 加茂長明(かものちょうめい)の賴朝の廟に於ける歌の事

 

 鎌倉の頼朝公の廟所に於いて、加茂長明(かものちょうめい)が詠んだと人の言う和歌。

 

  草も木も靡きし秋の霜きへてむなしき苔を拂ふ山風

中島敦 南洋日記 九月二十九日

         九月二十九日(月) ジャボール

 四時過起床、

 六時より公學校視察。本科一學年未だに通譯つきなり。コロールとは大差あり。發音上ハ行とア行との混同甚し。教師の日本語又、面白からず。二十九日(ニジウキュウニチ)、二十日(ニジウニチ)八日(ハチニチ)九日(クニチ)等。八時半頃より支廳長と語る。中々教育に意見ある人なり。九時過より小運動會を見る。彼等の應援歌巧みなる三部(?)合唱なり。

「みどり」にて晝食。後、竹内氏の東道にて、島内、島民部落見物。大酋長カブアを訪ふ。バンガロー風の瀟洒たる家なり。別に廚房あり。Kabe
 四面、皆格子風の作りなり。この酋長の家はアイリンラブとヤルートとの兩地方に跨る豪家の由。今、彼の父親はアイリンラブにて瀕死の重病といふ。家の入口に表札あり、曰く「八島嘉坊」。ヤシマカブアとの附(フリ)假名あり。はじめカブア不在。役場にありといふ。呼びにやる。美婦二人あり。カブアの妻と、その妹なりと。色は内地人程度にして、内地人に伍するもとして見るも、頗る美貌といふべし。(二人とも前南貿支店長野田某と島女との混血なりと)。やがて主人歸る。三十前後の大人しき靑年なり。この酋長の家、年收七萬近くありと。英語を能くするといふ。タコノ實、サイダー、椰子水の馳走になり、一時半頃辭去。直ちに公學校に急ぐ、約束の時間を遲るゝこと一時間。直ちに小座談會に移り、現行國語讀本の檢討を行ふ。三時半終る。四時半より、料亭「竹の家」に於て、歡迎宴あり、支廳長、庶務課長、竹内、松井兩氏、公學校教員、小學校長等出席、八時歸宅。

 今日半日、竹内虎三氏と語り、頗る愉快なり。南洋廳には珍しき氣骨ある男なり。

 島民經營に「樂しき熱意」を抱けるものの如し、く、ヤルート島民樂圈を率ゐ、諸離島を巡遊の豫定といふ。渠が曾遊の東の島々に於ける經驗を聞くに、宛として夢の國の物語の如し。終日の饗宴の準備の後、夕暮、歌ひつれつゝ花輪を手にせる少女等が饗宴場に來り、一人一人、渠の頭に眉に花輪を掛けるといふ。さて焚火。石燒、料理のかぐはしき數々、など、スティヴンスンやロティの世界の如し。かゝる島々に、黑き樂團をつれて旅するは、如何に樂しきことぞ! 遊意をそゝらるゝこと頻りなり。

[やぶちゃん注:太字「キュウ」は底本では傍点「〇」。この能天気な日記……しかし私は何か到る箇所に不快で何やらん厭な感じを抱かざるを得ないのである。……既にして当時の南洋植民地行政や教育の実態を知ってしまうと、である。……敦よ、そのお膳立てされた運動会の三部合唱の応援歌も勿論、日本語だったんだよねぇ?!……

「東道」は「とうだう(とうどう)」で、「東道の主(しゅ)」のこと。ホストとなって来客の案内や世話をする者のこと。東道の主人。「春秋左氏伝」の「僖公三十年」の東方へ赴く旅人をもてなす主人に基づく。

「八島嘉坊」創始改名を思い出して慄然とした。

「南貿」南洋貿易株式会社。同社の濫觴は明治二三(一八九〇)年に田口卯吉を船長に旧薩摩船「天佑丸」が南洋に向かって品川港を出帆したのに遡り、三年後の明治二六(一八九三)年にこの関係者らが資本金八千円で組合事業として南洋との貿易を開始した。明治二七(一八九四)年資本金一万二千円で合資会社を設立、社名を南洋貿易日置合資会社とし、自社船を以って南洋群島との交易を行った。大正九(一九二〇)年に南洋群島が国際連盟によって公式に日本統治領となる遙か以前から南洋貿易が盛んに行われていたことがこれで分かる。明治四一(一九〇八)年に南洋貿易株式会社に改組し、南洋群島各所に支店を開設、大正四(一九一五)年にはラバウル及びギルバート(現在のキリバス共和国)に支店を設置、海運・椰子・コーヒー・麻栽培の拓殖事業・真珠養殖事業・搾油事業等、経営の多角化を進めた。昭和一七(一九四二)年、太平洋戦争による戦時統制経済指導によって栗林徳一率いる国策会社南洋興発株式会社と合併(資本金五千万円)、鉱業(燐鉱・マンガン鉱)・農林業・製糖事業(サイパン・テニアン・マニラ・スラバヤ)を併せ、南洋方面に於いて各種事業を定着させ、地域特色のある総合事業会社に発展した。敗戦直後の昭和二〇(一九四五)年九月に南洋興発は在日占領軍総司令部指令による閉鎖機関指定を受けて解散したが、昭和二五(一九五〇)年に栗林商会グループの貿易会社として南洋貿易株式会社(資本金三百万円)を復活。丸の内ビルに本社を置き、現在に至る。以上は、現存する「南洋貿易株式会社」公式サイトの沿革」に拠った。この敦の記述を信じるなら、南洋貿易株式会社は近現代日本の南洋方面に於ける経済基盤拡張に尽力ばかりでなく、大和民族の血を拡散浸透混血させることに於いても『大いに尽力した』と言わねばなるまい。これも何か厭な感じの一員なのである。

「七萬円」現在の二六〇〇万から三〇〇〇万円程に相当すると思われる。

「竹内虎三」敦が南洋で意気投合した数少ない人物の一人であるが、詳しい事蹟は分からない。後掲する十月一日附中島たか宛書簡(旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三一)に敦が逢った当初の様子が詳しいが、岡谷公二「南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦」(冨山房)によれば、この人物は『敦がやってきたとき、ヤルート支庁の庶務課員で判任官五級だった』が(「判任官」明治憲法下の最下級官吏の等級。高等官(勅任官・奏任官)の下。当時の軍隊の下士官・現在の事務官に相当)、『昭和十八年の『南洋庁職員録』によると、ポナペ出張所に転勤し、同じ判任官の五級ながら、総務課の課長に出世している』とある。

「かゝる島々に、黑き樂團をつれて旅するは、如何に樂しきことぞ! 遊意をそゝらるゝこと頻りなり」敦はこの十一年も前、東京帝大二年生満二十二歳の八月のこと、浅草の踊り子を組織して台湾興行を企てようとした、という記載が旧全集の公式な年譜に記されてある。若き日の敦の思いが、この竹内の夢想に強く共鳴したことは想像に難くない。最後の部分で、私は何かちょっと微笑むことが出来たのである。
 最後に同日附の桓宛書簡を示しておく。
   *
〇九月二十九日附(ヤルートで。旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号四一)
 けふは、島民の子どもたちのうんどうくわいを見ました。
 まつくろな女の子たちが、
 「トントン、トンカラリト、トナリグミ」
 と歌ひながら、いうぎをしました。
 三年生ださうです。
 
   *
当時の桓は満八歳であるから、この子たちと同じ国民学校初等科三年であった(この昭和一六(一九四一)年三月一日に国民学校令が公布され、同四月一日の施行によって従来の小学校が改組され国民学校となっていた)。]

畠うつや鳥さへ啼ぬ山蔭に 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   畠うつや鳥さへ啼ぬ山蔭に

 山村の白晝(まひる)。山の傾斜に沿うた蔭の畠で、農夫が一人、默々として畠を耕して居るのである。空には白い雲が浮び、自然の悠々たる時劫の外、物音一つしない閑寂さである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第17連》

 ひとつの言葉にひとつの言葉をつなぐことは花であり、笑ひであり、みとのまぐはひである。白い言葉と黑い言葉とをつなぎ、黄色い言葉と黑い言葉とをつなぎ、靑の言葉と赤の言葉とを、みどりの言葉と黑い言葉とを、空色の言葉と淡紅色の言葉とをつなぎ、或は朝の言葉と夜の言葉とをつなぎ、晝の言葉と夕の言葉とをむすび、春の言葉と夏の言葉とを、善と惡との言葉を、美と醜との言葉を、天と地との言葉を、南と北との言葉を、神と惡魔との言葉を、可見の言葉と不可見の言葉とを、近き言葉と遠き言葉とを、表と裏との言葉を、水と山との言葉を、指と胸との言葉を、手と足との言葉を、夢と空との言葉を、火と岩との言葉を、驚きと竦みとの言葉を、動と不動の言葉を、崩壞と建設の言葉を……つなぎ合せ、結びあはせて、その色彩と音調と感觸とあらゆる混迷のなかに手探りするいんいんたる微妙の世界の開花。

[やぶちゃん注:「淡紅色」には、思潮社版及び岩波版では「ときいろ」とルビが振られている。また、太字「いんいん」は底本では傍点「ヽ」である。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第16連》

 ひとつの言葉はみえざるほのほである。闇である。明るみである。眠りである。ささやきである。圓である。球體である。處女である。絲につながれた魚である。咲かうとする白いつぼみである。常春の年齡である。流れであり、風であり、丘であり、吹きならす口笛の蜘蛛である。

鬼城句集 秋之部 紅葉

紅葉    紅葉すれば西日の家も好もしき

 

      紅葉してしばし日の照る谷間かな

 

[やぶちゃん注:「しばし」の最初の「し」は「志」の崩し字。]

2013/10/25

中島敦 南洋日記 九月二十八日

        九月二十八日(日) ジャボール

 三時半起床、海岸を散歩す、ミレ村共同宿泊所エボン村共同宿泊所等と書ける家屋の傍に各島民の炊事せる樣面白し、一ケ所、かなり深く水を湛へたる巖陰あり、水殊に澄明にして群魚遊泳の狀、手にとるが如し。黑鯛程の大いさにて、太く鮮やかなる數本の黒きたて縞を有するもの最も多し、岩陰より出沒するを見れば、彼等の巣なるかに見ゆ。その他、淡水魚エンジェル・フィッシュそのまゝの小魚。透きとほらんばかりの、鮎に似たる細長き魚、濃綠色のリーフ魚。刷毛の一刷の如き尾を

有てる Bera_2 褐色の小怪魚。ひらめの如き幅廣き黑き魚。鯵の如きもの。殊に駕くべきは、想像し得る限りの最も明るき瑠璃色をなせる(リーフ魚の如き)小魚(長さ六七糎もあらんか)の群なり。朝日射し來る水中に、彼等の群れのヒラヒラと搖れ動くや、その鮮かなる琉璃色は、濃紺となり紫藍となり綠金となり玉蟲色となつて、目も眩むばかり。かゝる珍魚共、種類にして、二十、數にして千をも超えたるべし。奇觀、美その徴逐去來して嬉戲する美觀、奇觀、筆舌の能く盡す所に非ず。茫然として見惚るゝこと一時間餘、殆ど去る能はず。蓋し、この印象は、終生、忘るゝこと能はざるべし。 *黑き輪の紋を有する鼠色の海蛇の匐ふをも見たり。

 五時半、朝食、七時、飯田徹三氏を訪ふ。内海氏の弟子にして、ヤルート國民學校長なり。八時より島内を獨り歩き廻り、繪葉書を購めて歸る。松井氏來。旅館みどりの主人、頻りに我を招く由。北原氏の紹介ありしならむ。

 午後、桓あてに繪葉書を書きなどす。四時、夕食(ここのおかずは鰹ばかり)後、みどりへ行き、主人齋藤氏と語る。明、晝食より厄介になることとす。五時、月すでに明るし。七日、八日頃なれども、内地の滿月ほどの明るさなり。海岸のたまなの下のベンチに暫し憩うて涼む。微風あり。月明らかに星又、多く、靜かなる礁湖の面は、夜空の雲の影をも浮かべんとす。帆船共の檣、動かず、時に土民靑年のギターを彈じつゝ、道を過ぐるあり。微吟の聲又、所々に聞ゆ。概ね、南國艷詞の類なり。

 八時頃、海岸より歸つて、就寢。

[やぶちゃん注:意外に思われるかもしれないが、私は海産無脊椎動物は守備範囲乍ら、魚類は必ずしも詳しなく、その関心度や同定直感も無脊椎動物群へのそれに比すと頗る低下する。従ってここで敦が一期一会の絶景と称した映像の中に群泳する魚類に対しても自信はない。当初は投げ出して魚通の方から御教授戴けるのを待たせて頂こうとも思ったが、やはりここは暴虎馮河で行こうと決心した。同定の誤りへの御叱正を切に望むものである。

「黑鯛程の大いさにて、太く鮮やかなる數本の黒きたて縞を有するもの」魚類学では縦縞は体幹に並行して走る紋を言うが、察するところ、敦は漁体の上から下へ縦に走っている横縞をかく表現しているように思われてならない(一般人が縦縞と横縞を誤っているケースは頗る多い)。そこで取り敢えず複数の(三本以上と考えてよかろう)太い横縞を持つと仮定し、しかも「黒鯛程の大」きさ(恐らく一般的なクロダイの大きさである三〇センチメートル前後の謂いであろうが、陸からの目視なのでそれよりも小さい可能性が高いように思われる)で、しかも群れを作り、「岩陰より出沒」し、そこを巣としているように見える、則ち、珊瑚の隙間に逃げ込む性質が顕著な魚種(ということはやはり三〇センチメートルより小さいと考える根拠でもある)という限定で考えると、スズキ目ベラ亜目スズメダイ科スズメダイ亜科ミスジリュウキュウスズメダイ Dascyllus aruanus 辺りが同定候補となるか? 全長八~一〇センチメートル程度の小型魚類であるが、先に述べた通り大きさは必ずしも確定条件たり得ないし、側扁した白地の体にまさに名前の由来となっている三本の黒い「横縞」を持っている点、インド太平洋の珊瑚礁に最も一般的な魚種である点、水深一〇メートルほどの浅海のリーフ内を生息域とし、珊瑚(特に枝状・テーブル状の花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目ミドリイシ科ミドリイシ属 Acropora)の隙間を外敵からの回避や休息に利用する点で敦の描写条件を満たすように思われる。グーグル画像検索Dascyllus aruanusを見て頂いても、眼に鮮やかで敦の稀有の総天然色のシークエンスの中心に配するに恥じない魚体であると私には思われる。縞の数が三本では気に入らない御仁には、尾鰭にも太い黒色横帯があること、黒色横帯が背鰭でつながらず、独立している点でミスジリュウキュウスズメダイ Dascyllus aruanus と区別出来るヨスジリュウキュウスズメダイ Dascyllus melanurus もいる(グーグル画像検索「Dascyllus melanurus)。

「エンジェル・フィッシュそのまゝの小魚」「そのまゝの小魚」というところが気になるが、これは形状の相似形であるチョウチョウウオ科ハタタテダイ Heniochus acuminatus 又はムレハタタテダイ Heniochus diphreutes 、または高い確率でそれらの稚魚ではなかろうか? 成魚は孰れも全長二五センチメートルほどになる。孰れも長く伸びた背鰭の棘条を特徴(これが白い旗を立てているように見えることが和名「旗立鯛」の由来)し、白地の体に二本の太い黒色帯が走る。背鰭の後半部・胸鰭・尾鰭は黄色を呈する。前者はペア又は数匹規模であまり大きな群れを作らないのに対し、ムレハタタテダイは大きな群れを形成する点では、敦のパラダイスには後者が相応しいように見えるが、この群れの形成(ウィキの「ハタタテダイ」に拠る)は成魚の場合と考えられ、そもそもこの二種は一般人には識別が出来ない(同ウィキに『研究者でないとわからないが、背びれの棘の数が12本の場合ムレハタタテダイで1本少ないのが本種である』とある)。グーグル画像検索Heniochus acuminatusHeniochus diphreutesを引いておく(但し、必ずしもそれぞれの種に限定された画像とは限らないので注意されたい。でもこうして見ているだけでも敦の感動の片鱗は味わえるように私には思われる)。

「透きとほらんばかりの、鮎に似たる細長き魚」何らかの魚の幼魚と思われるが同定不能。トウゴロウイワシ目トウゴロウイワシ科 Atherinidae の仲間の稚魚か? トウゴロウイワシ科三亜科一二属六〇種からなり、体長一〇センチメートル未満、インド太平洋に広く分布する。二基の背鰭は広く離れ、胸鰭は高い位置にある。体はしばしば半透明で銀色の縦縞を持つ。稚鮎と例えば一般的に知られるギンイソイワシ属のトウゴロウイワシ Hypoatherina valenciennei は画像で見る限り、似ているようには思われる。

「濃綠色のリーフ魚」スズキ目ベラ科クギベラ Gomphosus varius の♂か? 珊瑚礁の浅海に棲息し、成魚では吻が著しく長く伸びているが、これは幼魚かも知れない(幼魚は吻は突出しない)。本種は雌雄で色彩が異なり、雄は鮮やかな緑色で胸鰭基部の上方に横帯を有する。雌の体色は前半部が灰色がかって後半部は黒色っぽいが、背部はやはり緑色を呈し、体側に二本の縦帯を持つ。成魚の体長は二〇センチメートルを超える。

「刷毛の一刷の如き尾を有てる褐色の小怪魚」これも同定困難であるが、「刷毛の一刷の如き尾を」もっているというのはスズキ目ベラ亜目ベラ科の魚種を想起させる。敦の選んだ語彙からはイトヒキベラ属ベニイトヒキベラ Cirrhilabrus rubrimarginatus などが浮かびはするが、「WEB魚図鑑」の「ベニイトヒキベラ」を見ると敦の描いた挿絵のようなずんぐりした魚体ではない。

「ひらめの如き幅廣き黑き魚」視認出来たということはリーフの底に見えたか、遊泳していたと考えられ、するとかなりの大型個体であったことが推定出来る。するともしこれが文字通りで底生型のヒラメにそっくりなものであったとすれば、一つの同定候補としてはカレイ目カレイ亜目ダルマガレイ科ホシダルマガレイ属モンダルマガレイ Bothus mancus を挙げてよいかと思われる。同種は眼と眼の間隔が極端に広く、体側中央部に大きな黒班が二つあること、成熟した雄の眼側の胸鰭は長く伸びるといった特徴を有し、ご多聞に洩れず、周囲の環境に合わせて体色を自在に変化させるので「黑」でも問題ない。

「鯵の如きもの」見た目の魚体が普通のスズキ亜目アジ科アジ亜科マアジ Trachurus japonicas に似ており、しかもリーフの内側にいる(リーフ・エッジや外縁にいるアジ類は結構多い)という点では内湾性で浅い所に多いアジ亜科ギンガメアジ Caranx sexfasciatus 辺りか。標準和名ギンガメアジは長崎での呼称に因み、銀色の体表が銀紙を張ったように見えることから銀紙鯵と表記する。

「想像し得る限りの最も明るき瑠璃色をなせる(リーフ魚の如き)小魚(長さ六七糎もあらんか)の群」魚類苦手の私の安直な発想で悪いが、スズキ目キンチャクダイ科アブラヤッコ属ルリヤッコ Centropyge bispinosus か? 体は楕円形に近く、体側には紫色の横帯を持つ。体色の基盤は明るいオレンジ色を基本とし、腹鰭は黄色っぽく、背鰭・臀鰭・尾鰭は青っぽく、魚体全体が青白く縁取られている。但し、地域や個体差が激しく、敦の言うような紫が強く、魚体全体が夕景の瑠璃色に見えるものもいる(後の画像を参照)。体長八~一〇センチメートルまでの小型魚である(グーグル画像検索「Centropyge bispinosus)。

「徴逐」は「ちょうちく」と読み、招いたり招かれたりすることの意。

「黑き輪の紋を有する鼠色の海蛇」この描写によく適合すると思われるのは有鱗目ヘビ亜目コブラ科ウミヘビ亜科エラブウミヘビ属アオマダラウミヘビ Laticauda colubrine であろう。グーグル画像検索「Laticauda colubrina」はこちら

「桓あてに繪葉書を書きなどす」以下に桓宛書簡三通及び同日附たか宛書簡一通を示す。

   *

〇九月二十八日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートで。ヤルート島海岸通りの絵葉書 旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号三八)

 きのふヤルートへつくと すぐ小さい船(ふね)(ボンボンボンといつて走るやつ)にのりかへて、べつの島に行きました。そのとちうで いるかが三十ぴきばかり、ぼくらの船をとりまいて、きようそうするやうに、およぎました。あたまを出したり、しつぽを出したりして およぎます。中には空中(くうちう)にとびあたがるのもあります。ぼくから十メートルくらゐ はなれた所で 三匹そろつて一どに、とびました。いるかは とても ふざけんぼ ですよ。
Iruka
   *

〇九月二十八日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートで。ヤルート島タコの樹と島民の絵葉書絵葉書 旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号三九)

 大きな タコの み が なつてゐるでせう。ほかの島のタコのみはまづいけれど、ここのは おいしさうです、南洋の中で ヤルートの土人が一番(ばん)おしやれ です。

 だから、ちやんと 服(ふく)を きて ゐるのです。

   *

〇九月二十八日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートで。ヤルート島珊瑚礁の絵葉書絵葉書 旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号四〇)

 こんな きれいな さんごせう が 水の上から 見えるのです。

 その間を いろんな おさかな が およいで行きます。

 かに が のそのそはつて行くのも見えます。なんとも いへないほど きれいです。

   *

〇九月二十八日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。パラオ丸にて。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書)

 たか助は、洗濯と掃除とで、働きすぎて、身體をこはさないやうに。

 桓は、もう少し、ふとれないものかな!

 ノチャスケは早く「おかあちやん」ぐらゐ言へるやうになれよ。

 

 桓をね、かういふ船旅に連れて來てやりたくつて堪らないんだよ。どんなに喜ぶだらうな。今日だつて、飛魚が盛んに飛ぶしね。

 

 不思議だな。僕の喘息は、旅行してる間は、起らない。隨分ゼイタクな病氣さ。

 

 海はベットリ油を流したやう。氣味が惡い位波が無い。今頃の南洋は、何時も斯(か)うなんだとさ。十一月に近づくと貿易風(ボウエキフウ)といふやつが吹き出すんだが。

 

  精肉 カレー ライス →こいつは毎日出てきてにくらしいから、喰はぬ。

 

 三食とも洋食だといいんだが、晝だけなんだよ。

 

 前に、お父さんに、「學校の廻覽雜誌の古いのを買つて送つて下さい。(或ひは得田さんにでも賴んで送つて貰つて下さい)」とお賴みしたんだが、最近は、文藝春秋や改造や中央公論は、南洋廳の方へ來ることになつた樣だから、さういふのはいらない。たゞ、「文學界」と「文藝」と「新潮」と(この中でも特に文學界がほしい)が送つて頂きたいとお父樣にお願ひしてくれ

 

  九月廿五日 木曜日 →この紙に書くと日附がいらないだらう?

 

 この日の日記は裏を見よ。*[やぶちゃん注:ここは底本ではアスタリスク三つを三角形に配したもの。次の段落の冒頭の「*」も同じ。従って次は二枚目ではなく、この便箋の裏である。]

 

 *眼がさめたら船は、もうクサイの港に入つてゐた。景色のいい所だよ。かなり高い山がつらなつて、その頂に霧のかかつてる所など、まるで内地の山みたいだ。船の人の話によると、その山の形が裸(ハダカ)の女の寐姿に似てるといふんだ。成程、さういはれて見れば、似てゐる。顏もあり、二つの乳房もあるんだが、どうもオヘソが出すぎてゐてマヅイ。ちやんと足の方まである。南洋だから、裸なんだね。

 上陸して公學校へ行き。商賣(オレも、をかしな商賣をするやうになり果てたなあ、)の方を濟ませてから、レロの遺跡(ヰセキ)といふ所へ行つて見た。獨りで。何百年か前に誰かが築いた城の址(アト)なんだが、どういふ人間共が作つたのか、今は判らない。今の土人の先祖でないことは確かだが、どういふ人種のものか、まるで謎なんだ。隨分廣く、大きいものだよ。城壁や石の道がすつかり荒れ果ててゐる上に、熱帶樹が一杯生ひ茂つてゐて、うす暗いくらゐ。近頃は誰も來ないと見えて、路に蜘蛛(クモ)の巣が一杯掛かつてゐるんだ。歩いて行くとゴソゴソと大きなトカゲが逃げて行く。段々奧へ行くに從つて、うすキミ惡くなつてくる。あんまり靜かで、あんまり植物が生ひ茂つてゐるので、白晝でも、却(かへ)つて、怖(こは)いやうだ。突然、ゴソリと足もとで音がするので、ギヨツとして、見るとね、大きな(甲羅(コウラ)だけでうちのカレーライスの皿ぐらゐな)蟹(かに)が逃出して、古い石の穴に隱れるんだ。暫く立つてゐたが、少々氣味が惡くなつて、歸つて來た。

 

九月廿六日、金曜日夜、甲板で土人の踊を見る。島民人夫が七人ばかり船に乘つてゐるんだ。彼等に部屋は與へられない。甲板にテントを張つて、そこで寐てるんだが、その島民達に踊らせた譯だ。色んな踊をやつたが、坐つてやるのが多い。兩手でしきりに膝(ヒザ)や胸や肩をピシヤピシヤ叩きながら、掛聲をかけて「エイ」とか「ヤア」とか言ふので、なんのことはない、日本の「トウ八ケン」みたいだ、右手で強く左の腕と胸の間を叩くと、ボンボンと太鼓みたいな、いい音がする。僕等が眞似しても駄目だ、場所が場所だし、月も明るくないし(月は出たと思つたら直(ぢ)き沈んぢまつた、三日月が)酒(アルコオル)もはいつてないので、(島民に酒を與(アタ)へてはいけないことになつてゐる)彼等も、あまり乘氣になれないんだ。中には、てれ臭さうに笑つてばかりゐる奴もゐる。島にゐると、月のいい晩なんか、夜通し踊つてるんださうだがね。

○夕方、南拓(ナンタク)(南洋拓殖會社)の重役と甲板で芝居の話をしてゐる中に、このお爺さんが、古賀(山村聰)のフアン(?)であることがわかつた。フアンといふのは少しをかしいが、とにかく、非常に山村聰の演技をほめるんだよ。(水谷八重子の相手をして、決して押されないと迄、言ふんだ。)古賀が一高から帝大を出た話をしたら、大變面白がつて聞いてゐたよ。

 

 明日はヤルート。思へば遠く、お前達から離れたものだなあ、

 

 船の中で、文藝春秋の九月號(パラオではまだ見られなかつた)を見たら土屋(朝日新聞にゐる男さ。何時か話したらう?)が、座談會に出て、しやべつてゐる。

 前月(八月)競の座談會には吉田(精一)が出てゐる。皆さん、お賑(ニギ)やかなことだよ。もつとも、吉田の方は、久松先生なんかと同席の會だからザコのトトマジリで餘り口を出してはゐないが。

   *

以下、簡単な注を附す。

・「南洋拓殖會社」南洋拓殖株式会社。通称、南拓。昭和一〇(一九三五)年に拓務省によって立案された『南洋群島開発十ヵ年計画』に基づき翌年発令された南洋拓殖株式会社令(昭和一一(一九三六)年勅令第二二八号)に従って設立された大日本帝国の特殊国策会社。本社はパラオ諸島コロール島、東京事務所を東京都麹町区丸ノ内の日本興業銀行ビルに置いた。南洋群島開発十ヵ年計画ではそれまで南洋興発株式会社(南興)によって主導され製糖業に偏っていた産業構造を見直し、外南洋への経済発展・移民拓殖事業の推進・熱帯産業の実験地としての南洋群島の活用を掲げており、南拓はそれらの事業の担い手として期待され設立された。経営は拓務大臣(大東亜省への吸収以降は大東亜大臣)の管轄下に置かれ、社長は拓務大臣が任命したが、経営には海軍軍人・国会議員も加わっていた。業務としては「燐鉱探掘・事業海運・土地経営・拓殖移民・資金供給・定期預リ金」を掲げ、主たる事業として拓殖事業の促進・南洋進出企業への資金供与・拓殖や移民事業への支援を通じての外南洋への進出促進が挙げられる。移民事業においては南洋庁の指定する植民区画地及び自社事業への移民の導入・南方開拓地の農業指導者養成のための埼玉県北足立郡与野町(現在の埼玉県さいたま市中央区)の「農民講道館」及びヤップ島の「南拓挺身隊道場」での教育及び実地訓練が挙げられ、拓殖事業においては南洋庁が経営していた燐鉱石・ボーキサイトの採鉱事業を継承する形で採鉱を行っている。「資金供給・定期預リ金」に関する事業として金融事業を行い、南洋群島唯一の日本銀行代理店としての機能も果たした。また、現地において農業・鉱工業・水産業・運輸業・新聞社への投資及び子会社の設立も行っている。太平洋戦争開戦以後は軍の特殊事業(軍事施設建設等)への協力を要請され、またオランダ領東インド(セレベス島・メナド等)やニューブリテン島(ラバウル等)における軍からの受託業務が中心になっていった(以上はウィキ南洋拓殖に拠る)。

・「古賀(山村聰)」俳優山村聡(やまむらそう 明治四三(一九一〇)年二月二十四日~平成(二〇〇〇)年)。本名、古賀寛定(こがひろさだ)。彼は一高を経て同じく東京帝国大学文学部を卒業しており、敦(明治四二(一九〇九)年五月生)とは恐らくは敦と同期で、知った仲でもあったものと思われる(敦は一高二年生の昭和二(一九二七)年春に肋膜炎に罹患して一年間休学しているが山村の履歴が不明なのではっきりとは言えない)。

・「吉田(精一)」国文学者吉田精一(よしだ せいいち、明治四一(一九〇八)年~昭和五九(一九八四)年)は昭和元(一九二六)年第一高等学校入学(但し、丙類でフランス語)で敦(甲類)と同期で、前注に示した如く敦は一年休学したので、一年早い昭和七(一九三二)年にやはり同じ東京帝国大学国文科を卒業しており、旧知であった(底本の「來簡抄」には吉田精一からの昭和六(一九三一)年のもの二通、昭和八年と十年のものが一通づつ、計四通が載る)。昭和一五(一九四〇)年の処女論文「近代日本浪漫主義研究」で頭角を現わし、戦後の日本近代文学会をリードした(私の教師時代の恩師猪瀬先生の中央大学文学部卒業時の卒論梶井基次郎論の担当は吉田精一で達郎先生は彼から大学に残って研究を続けないかと水を向けられたそうである)。リンク先は私の校訂になる猪瀬先生の句集)中心となる当時は拓殖大学教授。但し、この「ザコのトトマジリ」という謂いには、敦が新々気鋭の近現代文学研究者(近現代文学の専攻自体が当時として極めて異色であった)としての彼をそれほど評価していなかったのではあるまいかという印象を受ける。因みに中島敦の卒業論文も、荷風や潤一郎を採り上げた当時としては珍しい「耽美派の研究」という近代文学論だったのである。

・「久松先生」契沖研究に始まり、国学や「万葉集」を始めとする和歌など古典文学一般の基礎的研究を行った国文学の碩学で歌人でもあった久松潜一(明治二七(一八九四)年~昭和五一(一九七六)年)。実は前の注に示した敦の卒業論文「耽美派の研究」の主任審査を担当したのは、何を隠そう、当時帝大国文学科助教授であった久松潜一であった。

   *

 最後に。このクレジットを有する書簡を二通紹介しておく。一通目は敦の横浜高等女学校時代の初期の教え子、諸節登志子宛書簡である。

   *

〇九月二十八日(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートにて。横浜市中区初音町三ノ六一 諸節登志子宛。絵葉書『南洋マーシャル群島ヤルート島「現代の少女」』。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一二九)

 元町の学校の生徒達より多少、上等のやうですな、もつとも、こんなのは、少し外人の血がまじつてゐるんだが。中濱君に小田原から手紙を貰つたが、宛名所書が判らないから、君から宜しく言つてくれ給へ、

   *

「中濱君」というのはやはり教え子で諸節氏の知り合いであろう。

 次に同じく初期の教え子の小宮山静書簡。

   *

〇九月二十八日(消印ヤルート郵便局16・9・30。ヤルートにて。東京市王子区豊島三ノ二一 小宮山静宛。絵葉書『南洋マーシャル群島ヤルート島「島民部落の家」』旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一二八)

 パラオで二ケ月程、色んな病氣に苦しんだ後、病後保養の意味で、少しゼイタクな旅に出ました。九月中頃に出たのですが、パラオへ歸るのは十二月近くになりませう、途中飛行機を使ふ所もあります。こゝは、日本の東南の果。夜明は午前三時、日没は午後四時。晝御飯は午前十時です。海水の澄んでゐることは、無類。魚のおよいでゐるのがすっかり見えてまるで水族館のやうです。

   *

小宮山静――彼女こそが――中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見したで私が同定した女生徒である。……]

おもしろき秋の朝寢や亭主ぶり 芭蕉

本日二〇一三年十月二十五日

陰暦二〇一三年九月二十二日

 

  あるじは夜あそぶことをこのみて、

  朝寢せらるゝ人なり。宵寢(よひね)はいや

  しく、朝起(おき)きはせはし

 

おもしろき秋の朝寢や亭主ぶり

 

[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十一日の作

前書は「まつのなみ」に拠る。「笈日記」「泊船」等には

  車庸亭

と前書する。前に示した「秋の夜を打崩したる咄かな」の夜会の後、芭蕉は潮江車庸の屋敷に泊まったものらしい。その翌九月二十一日の朝の遅い目覚めを、亭主車庸自身が私以上にさらにまだ朝寝をして呉れていて、如何にも洒落た亭主の心遣いであることよ、という主人への親愛と諧謔に富んだ挨拶句である。前書の終わりの部分は、「宵の内から早々寝ると申すは、これ、燈火の油を吝(けち)るようで賤しく、早起きすると申すは、これ、世の馬車馬のような働き振りで如何にも気忙(きぜわ)しい」という風狂振りで句に合わせた洒落た額縁を成している。また、前年の元禄六年七月に書かれた「徒然草」の「あだし野の露」(第七段)や「才能は煩惱の増長せるなり」(第三十八段)などを諧謔した「閉關の説」の中でも、

初めの老いの來れること、一夜の夢のごとし。五十年六十年のよはひ傾ぶくより、宵寢がちに朝起きしたる寢ざめの分別、何事をかむさぼる。おろかなる者は思ふこと多し。

と同じ語句を持ち出し、世俗の喧騒から遠く離れた、老荘的な無為自然の「思ふこと」なき朝寝の風狂の境地を貴んでいる。

 この日から芭蕉は、ほんの一週間ほどの間であったが、少し快方に向かったやに見え、九月二十三日附窪田意専・服部土芳宛書簡には、「隨分人知れずひそかに罷り在り候へども、とかくと事やかましく候て、もはや飽き果て」た大坂を「早々看板破り申すべく候」とあり(「看板破り」は店仕舞いをするの意)、「伊勢より便次第に、細翰を以て申し上ぐべく候」としていることからも、近々伊勢参宮を計画していたことが分かる。]

海手より日は照つけて山櫻 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   海手より日は照つけて山櫻

 海岸に近い南國の風景であり、光と色彩が強烈である。蕪村は關西の人であり、元來が南國人であるけれども、好んでまた南國の明るい風物を歌つたのは、彼自身が氣質的にも南國人であつたことを實證して居る。これに反して芭蕉は、好んで奧州や北國の暗い地方を旅行して居た。芭蕉自身が、氣質的に北國人であつたからだらう。したがつてまた、芭蕉は憂鬱で、蕪村は陽快。芭蕉は瞑想的で、蕪村は感覺的なのである。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。……知り合いの人類学者によれば私は典型的な南洋系の面貌なのだそうだ。……そうか、僕は実は――陽快で感覺的――なのか……]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第15連》

 ひとつの言葉は跫音である。くさむらのなかにこもる女の跫音である。とほのいては消えがてに、またちかづくみづ色の跫音である。そのよわよわしさは、ながれる蝶のはねである。おさへようとすればくづれてしまふ果敢なさである。

鬼城句集 秋之部 芋

芋     石芋としもなく芋の廣葉かな

 

[やぶちゃん注:「石芋」は後に続くジャガイモやサツマイモと読める「芋」とは異なるものとして私は詠んだ。それらでは「廣葉」が生きないと感じたからである。その限定される「石芋」について以下、三様の同定候補を考えた。迂遠な注に一つお付き合い願おう。

●第①候補:単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科サトイモ Colocasia esculenta の品種の中で半野生化し、先祖帰りして苦味やえぐ味(ある種のタンパク質が付着したシュウ酸カルシウムが針状結晶や細かい結晶砂として細胞内に集合した、大きく脆いその結晶体が原因とされている。但し、その味覚感はこのシュウ酸カルシウムの結晶が直接舌に刺さることによって生じるとも、その化学的刺激の結果であるともされ、またシュウ酸カルシウムとは異なる別個なタンパク質分解酵素による現象とする説があって明確ではない)が強くなって食用に適さなくなった個体群を指す。

 これは南北を問わず広く本邦の全域に伝えられている「弘法と石芋」という食べられない芋に纏わる伝承に登場する「石芋」とも考えられるものがあり、そのコンセプトは「遍歴行脚の弘法大師が、とある村でサトイモを見かけ、食を乞うも、村人はそれを惜しんで『これは食えない芋だ』と偽って断ってしまう(単に宿を乞われたのを断わるというタイプもある)。大師が去った後、村人が後にそれを食べようとすると石のように硬く変じてしまって、以後、その村には硬くて食えぬサトイモしか生えない。」という話柄である。南方熊楠の「紀州俗伝」の「六」にある「石芋」の冒頭に、

   *

寛延二年、青山某の『葛飾記』下に西海神村の内、阿取坊(あすわ)明神社の入り口に石芋あり。弘法大師ある家に宿を求めしに、媼(ばば)は貸さず、大師怒って、かたわらに植え設けたる芋を石に加持し、以後食うことあたわず、みなこの所へ捨てしより、今に四時ともに腐らず、年々葉を生ず。同社のかたわらの田中に、片葉の蘆あり。同じく大師の加持という、と載せておる。何故加持して片葉としたのか、書いてはないが、まずは怒らずに気慰めに遣る(や)ったものと見える。

   *

とある、ありがちで如何にもな弘法伝承である。また、一部参考にしたウィキの「サトイモ」には、『この伝説における「石芋」の多くは、半野生化したえぐ味の強いサトイモの品種と見るのが妥当であると考えられている』ともあり、地域限定性の低い最も汎用性の高い同定候補と言える。

●第②候補:根茎のシュウ酸カルシウム含有量が高く、食用に適さないサトイモ科のある種を指す。例えばサトイモ科ヒメカイウ Calla palustris など。ヒメカイウはミズザゼン・ミズイモとも呼称し、本邦では北海道や本州の中北部の低地から山地の湿地に自生する。小型のミズバショウといった形態を成しており、葉は卵心形・円心形で大きさ五~十五センチメートル、十~二十センチメートルの葉柄を持つ。白色の長さ四~六センチメートルの仏炎苞(ぶつえんほう)を持つ花を初夏に開く。果実は赤色のベリー状で、その中に数個の種子を産する(ウィキの「ヒメカイウ」に拠る)。植生からは鬼城の居住地であった高崎でも同定に無理がないが、例えばヒメカイウはサトイモの葉には似ておらず、「廣葉」という表現も私にはしっくりこない。

●第③候補:サトイモ科オランダカイウ(サンテデスキア)属 Zantedeschia のオランダカイウ類で、現在、園芸で英名から「カラー」(calla)又は「カラー・リリー」(calla lily)と名づける観葉植物。南アフリカ原産であるが、本邦には江戸時代に既に渡来してオランダ海芋(かいう)と呼称された。この属には仏炎苞や葉が美しい種や品種が多く含まれており、観賞用として盛んに栽培されている。高さ約一メートル。葉は倒心臓形で初夏に漏斗状の白い仏炎苞を持つ黄色い花をつける。花屋ではお馴染みであるが、グーグル画像検索「Zantedeschiaを見ても分かる通り、花に特化していて「石芋」とは程遠く、「廣葉」ではない。

●第④候補:サトイモ科クワズイモ Alocasia odora。大きな個体では傘にして人間も入れるほどの葉を持つ。素朴な味わいのある大きな葉を持つ観葉植物としても親しまれ、園芸ではアローカシアとも呼称する。以下、ウィキの「クワズイモ」によれば、『サトイモのような塊状ではなく、棒状に伸びる根茎があり、時に分枝しながら地表を少し這い、先端はやや立ち上がる。先端部から数枚の葉をつける。大きさにはかなりの個体差があって、草丈が人のひざほどのものから、背丈を越えるものまでいろいろ』で、葉はの長さは六十センチメートルにも達し、『全体に楕円形で、波状の鋸歯がある。基部は心形に深く切れ込むが、葉柄はわずかに盾状に着く』。葉柄も六十センチメートル~一メートルを越え、『緑色で、先端へ』ゆくほど細くなる。『花は葉の陰に初夏から夏にでる。仏炎苞は基部は筒状で緑、先端は楕円形でそれよりやや大きく、楕円形でやや内に抱える形で立ち、緑から白を帯びる。花穂は筒部からでて黄色味を帯びた白。果実が熟すと仏炎苞は脱落し、果実が目立つようになる』。『中国南部、台湾からインドシナ、インドなどの熱帯・亜熱帯地域に、日本では四国南部から九州南部を経て琉球列島に、分布する。長崎県五島市の八幡神社のクワズイモは指定天然記念物にもなっている。一方、沖縄県では道路の側、家の庭先、生垣など、あちこちで普通に自生しているのが見られる。低地の森林では林床を埋めることもある』。『日本では、やや小型のシマクワズイモ(A. cucullata (Lour.) G.Don)が琉球列島と小笠原諸島に、より大型のヤエヤマクワズイモ (A. atropurpurea Engler)が西表島に産する』が、『よく見かけるのはむしろ観葉植物として栽培される国外産の種であろう。それらは往々にしてアローカシアと呼ばれる。インドが原産地のインドクワズイモ(A. macrorrhiza)、緑の葉と白い葉脈のコントラストが美しいアロカシア・アマゾニカ、ビロードの光沢を持つアロカシア・グリーンベルベットなどがよく知られる』。『クワズイモの名は「食わず芋」で、見た目はサトイモに似ているが、食べられないのでそう呼ばれている。シュウ酸カルシウムは皮膚の粘膜に対して刺激があり、食べるのはもちろん、切り口から出る汁にも手で触れないようにした方がいい。日本では、外見が似ているサトイモやハスイモの茎(芋茎)と間違えてクワズイモの茎を誤食し中毒する事故がしばしば発生している』とある。南方熊楠の「紀州俗伝」では先に引いた部分に続いて、

   *

大師はよほど腹黒い、癇癪の強い芋好きだったと見えて、越後下総の外土佐の幡多郡(はたごおり)にも食わず芋というのがある。野生した根を村人が抜き来たり、横切にして、四国巡拝の輩に安値で売る。その影を茶碗の水に映し、大師の名号を唱えて用うれば、種々の病を治すと言う。植物書を見ると、食用の芋と別物で、本来食えぬ物だ。

   *

という私の大好きな下りがあるが(私は遍在する弘法呪言伝承が大嫌いで「大師はよほど腹黒い、癇癪の強い芋好きだった」には頗る共感するタイプの人間なのである)、ここで熊楠の「食用の芋と別物で、本来食えぬ物」とは、このクワズイモ Alocasia odora のことを指していると見て間違いない。本種は「廣葉」で食えないという点ではぴったりであるが、如何せん分布域が鬼城のテリトリーではない。

 

 但し、実はこの句、「石芋としもなく」で「としもなく」は直訳すれば「というわけでもなく」の謂いであるから、これは石芋というわけではない食べられる里芋なのであるが、如何にものびのびと葉を広げていることだ、と読むことも出来、いや、そもそもこれは里芋ではなく、じゃが芋か薩摩芋であると言われるのであれば私の注は全くのド阿呆ということになるである。ここまで私の注を読んで時間の無駄とお感じになったか、面白いとお感じになったか、それは私の関知するところではないが、少なくとも秋の冷え込む書斎で曉から曙にかけて延々と「石芋」を考え続けてきた今朝の私にとっては相応に結果して面白かった。悪しからず。]

 

      芋食うてよく孕むなり宿の妻

 

      泥芋を洗うて月に白さかな

 

      芋洗ふ池にあやめや忘咲

 

[やぶちゃん注:「忘咲」「わすれざき」は晩秋から初冬の小春日和の頃に時節外れに花が咲くこと、また、その花を指し、返り咲き・狂い咲きと同じ。ここは狂い咲き一本の点景であろうが、アヤメ類には秋咲き品種も実際にはある。]

 

      芋掘りの拾ひのこしゝ子芋かな

2013/10/24

栂尾明恵上人伝記 64 俗僧無益のこと

 或る人光臨の時、上人語りて宣はく、寺院知行の所領相違せしむる時、萬方祕計の條然るべからず、其の故は、古(いにしへ)さるべき緣に依(より)て得たり、今亦さるべき緣に依りて失(しつ)ず、會者定離(ゑしやぢやうり)の理、始めて驚き・始めて歎くべきに非ず。田園を貯ふる事は佛の遺誡(ゆゐかい)なり。然れば自然(じねん)に如來の金言に契(かな)へり。豈幸に非ずや。又、有る時は有るに隨ひて益を施し、無き時は無きに任せて樂しむべし。何の煩しき事かあらん。然るに剩へ僧形たりながら此の訴訟の爲に公務の門に望み、義衆(ぎしゆう)の場に走る。若干の猛惡・謀計・欲情・奸曲を先として、群集せる訴論人の中に交はりて、此の緣の角(すみ)、彼の廊の邊(ほとり)に、或は坐し・或るはたゝずみ徘徊せる、誠に見苦しく目をも洗ひぬべし。心ある俗人傍に有りて此の有樣を見て云ふやう、家を出で財を投げ、親を捨て親を離れて、一筋に無欲・淸淨(しやうじやう)の菩提の道に入るは僧なり。而るを又立ち歸り囂塵(げうじん)に交(まじ)りて、利を貪り欲に耽りて乞ひ諂(へつら)へる有樣、頗る師子身中(しゝしんちゆう)の蟲なるべし。見るに堪へず悲しむに餘りありとて、爪彈(つまはじ)きをせずと云ふ事なし。人をして比丘を疎(うと)ましめ、法を謗(ばう)する便(たよ)り、何事か是にしかん。爰に或る人の云はく、是れ身の爲にするに非ず、伽藍の興隆・僧法(そうはふ)繁昌の爲と云々。若し此の儀ならば、倒(さかさま)に心得たり。佛法の盛なると云ふは、面々樹下石上(せきじやう)に坐すと雖も、各如法(によはふ)に行(ぎやう)じ、如法に悟り、如法に證するを云ふなり。塔を立て、堂を造り、佛像を安置し奉ると雖も、破戒無慙なる僧つゞき居て道行をすると雖も、名聞利養の爲、又はいしき定、地獄に落ちじ、餓鬼にならじなんど思ふ、我が身を度(ど)し心に住して、かゝはりがましく、商ひがましき心にて欲深き訴訟打ち交りて、心に浮かぶ事とては、自身の依怙(えこ)あらん事を廻らし、口に云ふ事とては、貴賤の上を誹謗して、明けぬ暮れぬと過ぎ行くこそ、佛法破滅の處なれ。されば、心ある人は持ちたるをだにも、態(わざ)と捨つる類(たぐひ)も有るぞかし。まして自ら傍(そば)より人の取らんをば、さる時刻到來しにけりと知つて、功德ながらに其の人に廻向して、是三寶の御憐れみにこそと思ひて、何(いづ)くの山の片陰(かたかげ)にも閉ぢ籠り、或は正知識の爲に頭目身命をも惜しまず、隨逐(ずゐちく)給仕して、一筋に諸の有所得(うしよどく)の心を離れて、淸淨の道行を勵ますべし。或る物の中に云はく、摩竭陀國(まかだこく)の城の中に僧あり、毎朝、東に向ひては常に悦びの勢(せい)を成して禮(らい)し、北に向ひては嗟歎(さたん)の聲を出して涙を拭(ぬぐ)ひけり。人恠(あや)しみて此の謂れを問ふに、答へて云はく、東に當て城外に山あり、乘戒倶急(じやうかいぐきう)の僧樹下に坐して、既に證する事を得て年久し、是れ佛法の隆(さかん)なる故に、我れ毎朝是を禮す。北に當て城内に練若(れんにや)あり、數十の塔婆甍を並べ、佛像經卷金銀を鏤(ちりばめ)たり、爰に百千の僧侶住して、飮食(をんじき)・衣服(えぶく)・臥具(ぐわぐ)・醫藥として乏しき事なし。然りと雖も如來の正法眼(しやうはふげん)を究めたる比丘なし。此の所すでに佛法破滅せり。故に毎朝嗟歎すと云々。是れ其の證に非ずや。大方(おほかた)智ある人は、檀方(だんがた)の施す處をだにも更に受けざらん事を欲す。豈強ひて訴訟する事あらんや。其の故は戒行も缺け、内證も明らかならずして受くる處の信施(しんせ)は、物々頭々(もつもつづゝ)罪業の因に非ずと云ふ事なし。三途に沈まんこと疑ひ有るべからず。かく振舞たまひては、經を誦し陀羅尼を滿(み)てゝ消さん事を用ゐれども、其の驗(しるし)ありがたし。喩へば病者の諸の氣味ある毒藥を與ふるを、一旦快き儘に取り食ひて後、一々に崇りをなして苦痛轉倒し、臟腑破れて、良藥を服すと云へども、驗なくして死するが如し。有德の人は金銀珠玉を取ること瓦礫土石(どしやく)の如く、萬物を見ること夢幻(むげん)の如くして、受くれども受くる想(おもひ)もなく、用ふれども用ふる想もなし。凡慮を以て計る所にあらず。此の如くの人は尤も檀那の福を増長(ぞうぢやう)せんが爲、三寶興行の方便の爲に、施する所の庄園・財寶に隨ひて德を施すべし。凡そ國王大臣となり、或は高位高官に登り、或るは國城・田園に飽き、微妙(みめう)の珍寶に滿ちて、百千の壽命を保ち、藝能人に超え、才覺優良に、面貌(めんめう)美麗に、何事も思ふ樣なること、皆佛法の恩德より出でずといふことなし。されば富めるは富めるにつき、貧しきは貧しきに付て、佛法を崇敬(そうきやう)し財寶を施し、心を致して供養して、敢て輕慢(きやうまん)すべからず。此の世にかく豐かに榮ゆるは、先世に戒を持ち、寺院を造り、僧に布施し、貧しきに寶を與へ、佛像經卷を莊(かざ)り、此の如くの善を修せし報なり。若し此の法の種子(しゆうじ)なくは、先づ人界(にんかい)に生を受くべからず。況んや又いふ所の如くの樂しみあらんや。若し此の度またさきの如く善を修せずんば、何を以てか當來の福因とせん。喩へば、去年よく作りし田畠の作毛を以て、今年豐なりと雖も、今年豐なるに耽りて、明年の爲めに田畠を耕作せずは、次の年は餓死せんこと疑ひあるべからず。
[やぶちゃん注:「義衆の場」裁判官のいるところ。
「囂塵」現代仮名遣「ごうじん」で、騒がしい俗世の穢れの意。「囂」は「喧々囂々」の如く、やかましいこと、五月蠅いこと。
「爪彈(つまはじ)き」排斥すること。
「いしき定」「いしき」は形容詞「美(い)し」で、立派な、素晴らしい、美事なの意で、「美しい立派な禅定」(を得たい)の謂い。
「かゝはりがましく」物に執着し、拘泥するさまをいう。
「依怙」自分だけの利益。私利。
「頭目身命」「頭目」は「づもく(ずもく)」で頭と目で大事な身命と同義。
「随逐」あとを追い、従うこと。随従。それに専心することをいう。
「有所得」こだわりの心をもつこと。対語は「無所得」。
「摩竭陀國」古代インドにあった国の一つで仏陀が悟りの境地に至ったブッダガヤがある仏教誕生の地。現在のインドの東北部の端ビハール州。
「練若」蘭若に同じい。寺院。
「物々頭々」それぞれ各々が、の意。
「陀羅尼を滿てゝ消さん事を用ゐれども」「滿つ」は~をし遂げる、し終えるで、陀羅尼(経文の内で梵文(ぼんぶん)を翻訳しない短い文句で、それを暗誦していれば正法を離れず、心身を清浄に正しく保つことが出来るとされる真言)を誦して罪過を消そうとしても、の意。]

明恵上人夢記 27

27

 同十九日の夜、夢に云はく、新宰相殿の御前に歩行(ぶぎやう)して來らる。懌の面、近く住して、一宿を經て還り去る氣色無し。成辨、怪しみて問ひて曰はく、「是、只事と思はず、是、明神の御前か。」答へ曰はく、「尓(しか)也。申すべき事ありて來る也。」問ひて曰はく、「何事か。」答へて曰はく、「京都の邊には住せずと思ひ候也」と云々。

[やぶちゃん注:「同十九日」元久二(一二〇五)年十二月十九日。

「新宰相殿」底本注は明恵と親交のあった藤原道家か、とする。九条道家(建久四(一一九三)年~建長四(一二五二)年)のこと。摂政九条良経長男で鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経の父。京都九条通に東福寺を建立した。夢のクレジットが正しいものとすれば、彼はこの翌元久三年春の父良経の急死によって九条家を継いでおり、その後も栄進を続け、まさに飛ぶ鳥を落とす栄華の頂点にあった人物である。なお、承久の乱後は朝廷で親幕府派の岳父西園寺公経が最大実力者として君臨していたため、政子の死や頼経の将軍就任も手伝って彼は安貞二(一二二八)年には関白に任命され、貞永元(一二三二)年に後堀河天皇が践祚すると道家は外祖父として実権を掌握、摂政となった長男教実が早世したために再び摂政次いで関白となったが、次第に幕府得宗家に反意を持つようになり、寛元四(一二四六)年に執権北条時頼によって頼経が将軍職を廃されるに至って政治生命を断たれてしまった(以上はウィキ九条道家を参照した)。

「御前」この直近で明恵の天竺行を神託で止めたところの春日大社(奈良県奈良市)と採る。

「懌の面」「よろこびのおもて」と訓じておく。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

27

 同元久二年十二月十九日の夜の夢。

「新宰相殿が、私が祈り籠っておる春日大社にお徒(かち)にていらっしゃった。

 満面の笑みを浮かべておられ、大社のお近くにそのまま御逗留なされ、一夜をお過ごし遊ばされた後も、これ、一向に京へお還りになられる気配もない。

 されば、怪しんでお訊ね申し上げるに、

「……この度のこのご逗留はただごととは思はれませぬ。……これはもしや……春日大明神の御託宣にても御座候うか?」

とお訊ね致いたところ、新宰相殿は笑みのままに、お答えになられて、

「その通りでおじゃる。そなたに申すべきこと、これ、ありて来たれるものなり。」

と仰せられたによって、私は追って問うた。

「何事にて御座いまするか。」

新宰相殿は徐ろにお応えになられるに、

「――京都の辺りには、これもう――住みとうない――と思うておじゃる。」

と仰せられた。……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(12)

  游江島   伊藤一元
勿言洲似畫。
誰寫鬼神工。
雲鎖蟠龍窟。
霞明天女宮。
山從坤軸湧。
氣從富峰通。
靈艸含甘露。
奇花開惠風。
珠樓光掩映。
玉樹影玲瓏。
福聚巖迎客。
蟾蜍石吐虹。
檻前鱗潑々。
堦下雨濛々。
音妙靈妃瑟。
眼高望月熊。
舊題留絶壁。
新墨托彫蟲。
白菊淵長古。
金龜名不空。
驚潮千里外。
遙嶺一杯中。
變幻情何限。
壯哉造化功。

[やぶちゃん注:江戸後期の美濃地方の漢詩人のアンソロジーである「三野風雅」に、『字は吉甫、冠峯と號す。笠松の人』とある。不破為信杏斎という皇女和宮に随伴した医師の「皇女和宮下行記  中仙道 随伴医師記録」(文久元(一八六一)年十月)に、医師として『伊藤一元』の名が見え、笠松(現在の岐阜県羽島郡笠松町)の地名も散見するが、同一人物と考えてよいであろうか。

  江島に游ぶ   伊藤一元
言ふ勿かれ 洲は畫に似ると
誰(た)れか寫さん 鬼神の工(たくみ)
雲は鎖す 蟠龍の窟
霞は明らむ 天女の宮
山は坤軸によって湧き
氣は富峰によって通ず
靈艸 甘露を含み
奇花 惠風に開く
珠樓 光 掩映(えんえい)
玉樹 影 玲瓏
福聚の巖 客を迎へ
蟾蜍の石 虹を吐く
檻前 鱗 潑々
堦下 雨 濛々
音は妙靈にして 妃は瑟(しつ)たり
眼は高望するに 月は熊(よう)たり
舊題 絶壁に留め
新墨 彫蟲を托す
白菊の淵 長く古りて
金龜の名 空しからず
驚潮 千里の外
遙嶺 一杯の中(うち)
變幻の情 何をか限らん
壯なるかな 造化の功

「掩映」照り映えること。
「福聚の巖」福を集める岩。現在の江島神社瑞心門を通って辺津宮に向かう石段途中にある杉山検校の逸話で知られる福石があるが、それと考えてよい。
「檻」欄干のこと。以下は黄金に飾ったその輝きの形容であろう。
「堦」階に同じい。
「妃」女神の尊称で妙音弁財天を指すのであろう。
「瑟」厳かなさま。
「熊」鮮やかに光り輝くさま。]

中島敦 南洋日記 九月二十七日

        九月二十七日(土) ジャボール

 三時四十分起床、甲板に上りて見るに、既に近くヤルートの archipelago を見る。やがて近づくにつれて、帶と見えし一線の上に、椰子樹、家々、倉庫等を認むるを得たり、海は湖よりも靜か。

 五時半港、金子庶務課長及び松井氏の出迎を受け、ランチにて上陸、支廳に行き、宿舍に荷を置きて後、八時より、再びランチにのり、前田氏とヤルート環礁中の一島アジジェーンに向ふ。水の淸澄なること遙かに西部の島々に超えたり。九時半アジジェーン着。ジャボール公學校補習科二年生のコプラ採取作業に從ふを見る。島内一巡。途に一老婆、パンの實の頭に穴を穿ち、パンの葉を漏斗代りに、コプラの汁を絞りて流し込むを見る。斯くして石燒にするなりと。島中椰子、タコ密生、蠅多くして堪へがたし。十一時晝食、この島の女は凡て、良き衣服をつけたり。

 十二時半、ランチは、生徒等をのせ、コプラを載せし舟を曳きつゝ歸途に着く。海豚の一群、船と遊んで遊弋す。時に飛躍するものあり。面白し。二時過ジャボール歸着、四時、獨身宿舍食堂にて夕食、既に暗し。淀川の家に行く。

 林檎、コーヒー、パンの馳走に預かり、七時頃歸る。島はすでに深夜の如く、濤聲と椰子の葉摺の音を聞くのみ。

[やぶちゃん注:「ヤルート」ジャルート環礁(ヤルート環礁 Jaluit Atoll)は現在のマーシャル諸島共和国領の九十一もの島からなる環礁。陸地の面積は十一平方キロメートルしかないが、ラグーンは六九〇平方キロメートルに及ぶ。日本統治時代は南洋庁のヤルート支庁(後に東部支庁ヤルート出張所)に属し、同環礁のジャボール島(Jabor)はヤルート支庁の中心地で、環礁東に位置するイミエジ(Imiej)島には日本軍基地があった。現在の総人口は一六九九人(一九九九年現在。以上はウィキの「ジャルート環礁」に拠った)。

archipelago」英語で群島・多島海の意。語源はイタリア語で「主要な海」の意を示し、特にギリシャ付近の多島海であるエーゲ海の古称であった。

「アジジェーン」ジャルート島の北に離れてある環礁の北辺近くに“Agidyen”という地名を確認出来る。ここであろう。

「公學校」主に日本統治時代の台湾における義務教育機関の呼称であるが、それを南洋庁は踏襲したのであろう。台湾に於ける公学校は明治三一(一八九八)年の成立で、台湾総督府は当時の台湾の現状を考慮し、日本人学童を対象とした小学校及び原住民を対象とした蕃人公学校を別に設置した。明治二八(一八九五)年の日本による台湾統治が開始された翌年の六月に台湾総督府は日本語の普及を目的に「国語伝習所規則」を、同年九月には「国語学校規則」を発布し、台湾全土に十四ヶ所の国語伝習所が設置された。総督府は国語伝習所が成功したことを確認すると、この一八九八年八月十六日に「台湾公立公学校規則」「台灣公立公学校官制」及び「公学校令」を発布し、中央又は地方が経費を負担して公学校を設置し、八歳以上十四歳未満の台湾籍学童に対して六年間の義務教育を実施するという内容であった。またそれには科目(修身・作文・読書・習字・算術・唱歌・体操)や教師資格及び休日等の実務規則も明文化されていた。明治四三(一九一〇)年二月には「公学校規則」が修正され義務教育化がなされ、大正一二(一九二三)年までに「公学校規則」が修正されて日本内地と同様の教育課程が採用されている(後の昭和一六(一九四一)年三月に台湾教育令を修正して公学校・小学校・蕃人公学校を統合して国民学校が改編されているが、これは敦のこの後の十月十日の記載などから見る限り、南洋庁管轄地域では施設や教員配置その他の問題でうまく移行が行われていなかったことが分かる)。台湾公学校については、参照したウィキの「公学校」によれば、公学校義務教育実施して後の昭和一九(一九四四)年までの間、台湾籍児童数は八十七万六千人に達し、就学率は七一%も越えて、当時の先進国並みの水準となっていた。台湾人は日本語教育を通じて知識・技術を習得、『後の台湾発展の基礎となった点では台湾国内でも高く評価されている』。『公学校設立の目的は台湾人に対し徳教を施し、実学を授け、日本国民として養成すると同時に日本語の普及を図るというものであった。公学校は日本語教育を通じて台湾人にさまざまな知識を普及させ、台湾発展の基礎を築いた』とは、ある。南洋庁管轄地もこれをもとにある程度は想像出来よう。南洋庁の公学校についてのデータは他にもあろうかとは思われるが、一つだけ、そのおぞましい公民化教育と軍国主義化を伝えるものとして、琉球大学附属図書館公式サイト内の法文学部教授仲程昌徳(なかほどまさのり)氏の『南洋庁発行「国語読本」の中の「白銀堂」』は必読である。そこにはまさにこの年の昭和十六(一九四一)年六月十七日に石川達三が訪問した、まさしく敦が官吏としてその学校運営に関わっていたところのパラオ公学校を参観しているが、『公学校は「島民の子弟を教育する国民学校で(中略)南洋庁規定の教科書によって内地と同じような小学校教育が、全部日本語で教えられ」ていた。石川を迎えた公学校の校長は、その時間を「唱歌の時間」にしたといい、高等科の女生徒たちを唱歌室に集める。校長自身がオルガンを弾き、少女たちが歌い始める』。それを聴いた『石川は、「それが立派な日本語であったことに、私は裏切られたような気持ちがした」という。そして「少女たちは愛国行進曲をうたい、軍神広瀬中佐をうたい、児島高徳の歌をうたった。日本の伝統を感じ得ないこのカナカの娘たちにとって、八紘一宇の精神や一死報国の観念が理解される筈はないのだ。美しい鸚鵡の合唱であった。しかも少女たちは懸命に声を張りあげてうたっていた。歌をうたうことの生理的な喜びに満足していたのではなかろうか。私は少女たちのいじらしさに胸が詰まった。これがもしも彼女たちの日本人になろうとする努力の表現であるとすれば、その憐れさはひとしほである」と書いている』とあり(カナカ族(Kanaka)とは、ミクロネシア・マーシャル諸島・パラオ等の島々の住民を一般的に呼ぶ俗称で、ポリネシア語で「人」或いは「男」を意味する「タガタ」が音韻変化によりカナカとなったと、ウィキの「カナカ族」にはある)、しかも『軍歌のあと、校長はオルガンを離れて立ち上がり、「最後にひとつ校歌をうたおう」という。石川は、そのあとに起こったことを、次のように書いている』。『生徒たちは唱歌帳の頁をめくった。校長は 白墨を握りながら拍子をとった。私は生徒の唱歌帳をのぞいて見た。五線紙におたまじゃくしを書いてその下に片仮名の歌詞をつらねてあった。コーラスははじまった』。以下、その校歌の歌詞とともに石川の感懐が記されている。

   《引用開始》(一部の空欄を詰めた。以下同じ)

    みいつかしこきすめらぎの、深き恵みの露うけて、

    椰子の葉そよぐこの丘に、そ丶りて立てるまなびやは、

    日毎に集う我等の庭ぞ、あな嬉しやな、嬉しやな。

私は悲しくなって来た。元気なコーラスはますます元気に、楽しげに第二節に移った。

    天恵うすきこの島に、盲人のごと産れきて、

    西も東も知らざりし、我等が眼にも日はさしぬ。

    みなまなびやの賜ぞ、あな嬉しやな、楽しやな。

 この歌を作った人が誰であるか、私は知らない。ただ、その作者の支配階級意識に驚嘆 した。そしてこの歌を嬉々として歌う少女たちを涙なくして考えることはできなかった。 天恵うすき島に盲人のごとく生まれて、西も東も知らなかった、この民族の悲劇は、スペインに占領されドイツに譲渡され、さらに日本の統治を受けていま、この事実だ。しかし 私は疑う、この少女達にかくも悲惨な民族の悲劇を教え自覚させる必要があるだろうか。 こういう侮蔑的な歌をうたわせて恩に着せる必要がどこにあろう。

   《引用終了》

 次に仲程氏は先立つ昭和十五(一九四〇)年二月二十八日にサイパン公学校を見学に行った農民作家で日本プロレタリア作家同盟、戦後の日本農民文学会に加わった丸山義二(まるやま よしじ 明治三六(一九〇三)年~昭和五四(一九七九)年)はそこで学芸会を見学するがそれは、視察に来た彼らのためにセットされたものであって本科一年生の男子によってなされた「歓迎の辞」について、

   《引用開始》

 アクセントは少々訛るがハッキリした日本の標準語で、「東京のお客さま、お客さま方には・・・」と、その男の子が気をつけの姿勢でいい出した時、私は顔をあげていることができなかった。耳をふさぎたいような気がし、私は顔を伏せた。何が「お客さま」だと思った。私たちの方こそ「お邪魔」にあがったのであり、まことに相済まぬという態度で、かれらがいかに教科をきき、いかに教科を理解するかを傍から静かに見学するのがほんとうなのだ。かれらの好意は廊下での私たちへの挨拶で十分すぎるくらいである。先生は自分の可愛い生徒たちに何という卑屈な言葉をいわせるのであろう!「東京のみなさん」ならまだしも、「東京のお客さん」とは、言語道断だと思った。せめて教育だけなりと、一日も早く、この種の態度を改めてほしいものである。

 丸山は、東京に帰ってからそのことを知人に話すと、「センチメンタル」だと一蹴されるが、「妥協できない」といい、「日本人になりたい」というチャモロの切実な訴えや「新附の民たるがゆえの情けなさ」に思い及ぶ。さらには南洋群島文化協会野口正章が「チャモロは何を求むるか」で指摘している「一般在住内地人のかれらに対するいわれもない差別待遇ないしは蔑視的な態度」について触れた一文を引用したあとで、「ゆうべの島民の家の『良家の子女』といい、今またこの公学校の学芸会といい、私の胸は鉛をのまされたように重かった。かれらにこの屈辱をあたえているものは何か。その何かのうちに私自身がまじっているのだと思うと、私は、自分で自分がいやらしかった」と書いている。

   《引用終了》

とその義憤を綴っている。「チャモロ」族 “Chamorro”とはミクロネシアのマリアナ諸島の先住民を指す呼称で、元はスペイン語の「刈り上げた」とか「はげ」という意味を表す言葉を語源とするという(ここはウィキチャモロに拠った)。

 仲程氏は、『石川や丸山は、多分少数派であったが、軍歌や、校歌として「侮蔑的な歌をうたわせ」恬として恥じない教育、さらには「卑屈な言葉をいわせる」教育、そのような教育がなされていることに対し、いち早くそれを「島民社会の特殊性に対する考慮の不足」だと喝破したのに矢内原忠雄がいた。彼は次のように書いている』として当時の、ファシズムを批判し続けた経済学者(戦後に東大総長)矢内原の鋭い批判を記されておられる。

   《引用開始》

 公学校の教科目は修身、国語、算術、地理、理科、図画、唱歌、体操、手工、農業、及び家事(女)であり、その大要は、小学校に準ずるものであるが、右の中最も力を注いで居るのは国語であって、本科各学年に於いて毎週授業時間の約二分の一(十二時間宛)、補習科に於いては約三分の一(十一時間乃至十時間)を国語に当てるのみならず、凡ての学科の教授用語にもすべて日本語を用い、助教員たる島民が授業を担当する場合にも島民語を用いしめない。国語中心の教育の効果として数えられる点は、(1)各主要島群毎に言語を異にする島民に対して共通語を与うること、(2)官庁及び日本人の事業若くは家庭に雇用せられ、又は商人との取引上実益を得ること、(3)日本語を通じて近代文化を吸収する機会を得ること等にあるが、かくの如き国語普及政策はひとり南洋群島のみならず、我国の諸植民地に共通せる教育方針であって、根本に於いては同化主義政策の表現と解しなければならない。又小学校(日本人児童)と公学校(島民児童)との間に教員の転任を自由に行うことは、一応は日本人教育と島民教育とを一視同仁するの趣旨を現すものではあるが、往々島民の風習や思想について理解浅き教育を施すの弊害を招くことなしとせず、前述の徹底せる国語教育方針と相待って、島民社会の特殊性に対する考慮の不足を感ぜしめる。[やぶちゃん注:ここまでが矢内原の引用。]

 矢内原は、そのように「公学校の教科目」で、もっとも重要視されているのが「国語」であるとして、南洋庁が何故にその「国語」に力を注ぐのか、その意図を明快に解説している。矢内原が南洋群島調査を行ったのは昭和八(一九三三)年。当時用いられていた南洋庁発行になる「国語読本」を矢内原は持ち帰っている。

 矢内原の持ち帰った「国語読本」が、本学附属図書館内に開設されている「矢内原文庫」に収められていることは、あまり知られてないのではないかと思うが、本稿で触れたかったのは、実は、その「国語読本」と関わることであった。

 矢内原が持ち帰った「南洋群島国語読本」は、本科用巻一から巻六及び補習科用巻一、巻二の計八冊であるが、補習科用巻二の最後「四十七」に、「手が出る時にわ意地を去れ。意地が出る時にわ手を去れ」(いじぬいじらーてーひき、てーぬいじらーいじひき)ということわざを基にした伝承「白銀堂」の話が収録されていた。補習科用巻二は公学校用最終の国語読本だと思うが、その最後の最後に沖縄の伝承を収録したのは、何故なのだろうか。

  すでに紙幅が尽きようとしていて、この興味ある課題についての検討はおあずけということになるが、そのことを考えていく上で、忘れていけないのが「在住邦人の本籍別人口を見るに、昭和八年四月一日現在邦人人口三〇、六七〇人中、沖縄県人は一七、五九八人であって、五割七分を占める」(矢内原『南洋群島の研究』)ということ、そして「島民にいわせるとその(人種・引用者注)序列は、内地人、島民、沖縄県人ということになるらしい」(梅棹忠夫「第四部 紀行」『ポナペ島 生態学的研究』今西錦司編著所収)というように、沖縄が見られていたという問題である。

 島の人口の半分以上を占めながら、「人種序列」として最下位に見られていた沖縄、そのことをまず押さえることから「白銀堂」物語収録の謎ときは始まっていくのではないかと思われるが、委任統治下にあった南洋の「教科書問題」を見ていく上においても、まず「矢内原文庫」に収められた数多くの南洋資料の閲覧に通う必要がありそうである。(ちょっと宣伝めくが)附属図書館には中々のものが収められているのである。

   《引用終了》

以上の引用は、実際の仲程氏の当該記事を殆んど引用させて戴く結果となったが、これは一つは、仲程氏の言わんとされるところが南洋に於ける公民化政策とそこで平然と行われていた差別(若しくは差別教育)が、ダイレクトに日本の戦前戦後の沖縄に於ける公教育の問題点を炙り出すことにあることを示したかったからであるが(それが仲程氏への私の最低限の礼儀と心得たのである)、それ以上に、以上の諸人の義憤がそのまま官吏教科書編集掛(国語編集書記三級)として南洋庁内務部地方課勤務であった『官吏としての中島敦』への批判的視点をも自動的に惹起させるものであるからである。敦はまさに石川や丸山が受けたような『歓迎』をそれこそ毎回受けていたに違いないにも拘わらず、しかもそれについての彼の、石川や丸山が感じたような複雑な感懐や矢内原が指弾する観点がこの日記には今のところ見当たらないのは何故か、ということを重く受け止めねばならないという問題提起という点に於いて必要であると考えたからである。私は敦が救い難い軍国主義者であったとも思わないし、土方久功が南洋の人々に深い共感を持っていたが故にこそ敦は南洋に於ける盟友として彼を選んだのだとも硬く信ずるものではあるが、しかし、同時に『官吏としての敦』がそうした批判的視座に対して麻痺してしまっていたかも知れないという可能性(それは最早、自身の命運への諦観に影響されたものででもあったかも知れない)への批判を看過させるものではあるまい。

 最後に同二十七日附のたか・桓宛書簡を以下に示す。

   *

〇九月二十七日附(ヤルートにて。中島たか宛。封書。封筒なし。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一二七)。

 九月二十七日、三時半に起きて(もう、とつくに明るいんだ)甲板へ出て見ると、遠くに棒を横たへたやうな一線が見える。それがヤルートの島なんだ。恐ろしく低い、細長い島さ。一番高い所(土地)で、海面より五尺とは高くないんだからね。たゞ、一面の椰子の樹しか、遠くからは見えない。役所からの出迎がある。六時上陸。狹い島さ。上陸して二十歩あるくと、もう役所だ。挨拶(僕も役人になつてから、挨拶(オレの大嫌ひな)と名刺の交換ばかりさせられるんで閉口さ)がすんでから、丁度、別の島へ出る便があるといふので急いで、ポンポン蒸氣に乘つて、環礁(クワンシヨウ)の中へのり出す。珊瑚礁の島が澤山あつまつて、丸く輪を作つてゐる。直径十何里の輪だ。ヤルートはさういふ島だ。◌ それを環礁といふ。その中の海は、湖みたいな譯だ。別の島へ渡つてから、コプラの採集を見て、歸つて來た。午後、宿舍(官舍のあいてゐるのに、はいるんだ。八疊二間に六疊の家を僕一人で占領)に落ちつく。食事は近くの、獨身宿舍の食堂。(又々、食事がガタ落チ。短い期間だから、いいさ。)

 夜、淀川の家へ行く。雜賃商だ。淀川のお父さんに始めて合ふ。もう、この島に二十年だ、といふ。僕が船の上で、ヤルートへ着いたら、パンとコーヒーがほしいと、一寸言つたもんだから、淀川が、用意しておいてくれた。パラオになくて、ヤルートにパンが出來るのには驚いた。

   *

〇九月二十七日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートで。ヤルート島の夕陽の絵葉書。旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号三五)

   *

 今朝(けさ)ヤルートにつきました。低(ひく)い、ほそ長(なか)い島です。大きななみが來たら、島中(ぢう)水をかぶつてしまひさうな氣(き)がします。けれども このへんは なみがとてもしづかなので、そんな しんぱい は ありません。]

耳嚢 巻之七 齒の痛口中のくづれたる奇法の事

 齒の痛口中のくづれたる奇法の事

 

 柘榴(ざくろ)の皮を水に付てせんじ□、さてあま皮を取て痛(いたむ)所に入置(いれおけ)ば、治する事たんてき也。即效の妙法の由、藥店へ取(とり)に遣(つかは)す。干(ほし)たる柘榴有(あらば)、又下料(げりやう)なる物の由。横田退翁物語り也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。

・「柘榴」フトモモ目ミソハギ科ザクロ Punica granatumウィキザクロ」の「薬用の」項の「果皮」には、果皮を乾燥させた石榴果皮(せきりゅうかひ)はその樹皮や根皮と同様の目的で用いられることが多く、中国やヨーロッパでは駆虫薬として用いた。但し、根皮に比べると揮発性アルカロイドの含有量は低く効果も劣る、とあり。また、回虫の駆除に用いられたこともあったようであるが、犬回虫を用いた実験では強い活性はみられなかった、とした上で、『日本や中国では、下痢、下血に対して果皮の煎剤を内服し、口内炎や扁桃炎のうがい薬にも用いられた』 とあって本記載の効能を傍証する。

・「せんじ□」底本には右に『(置カ)』と補注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『せんじ含(ふくめ)』とある。この場合の「含む」とは、マ行下二段活用の他動詞で、(水や味を)沁み込ませる、の謂いである。

・「たんてきに」形容動詞「端的なり」の連用形で、まのあたりに起こるさま、たちどころであるさま。

・「横田退翁」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『横田泰翁』とある。本巻の先行する「養生戒歌の事」に既出。そこの鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 歯の痛みや口中が爛れた際の奇法の事

 

「――柘榴(ざくろ)の皮を水に漬けて煎じておき、後、その甘皮を取り除いて痛む所に詰めおいておけば、治すること、たちどころで御座る。即効の妙法の由なれば、拙者も直ちに薬種屋へ買いに遣わしましたところが、干したる柘榴が御座って、これまた如何にも安きものにて御座ったれば、一つお試しあれ。……」

とは、横田退翁殿の物語りで御座った。

秋の夜を打崩したる咄かな 芭蕉

本日二〇一三年十月二十四日

陰暦二〇一三年九月二十一日

 

  秋夜

 

秋の夜を打崩(うちくづ)したる咄(はなし)かな

 

[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十一日の作

前書は元禄七年九月二十三日附の窪田意専・服部土芳宛書簡に拠る。「笈日記」には、

  廿一日二日の夜ハ雨もそぼ降りて靜なれば

と前書し、「まつのなみ」「こがらし」「浪化日記」等には、

  菊月廿一日、潮江車庸亭

と前書する。「菊月」は九月の異名。「潮江車庸」は「しほへしやよう(しおえしゃよう)」と読み、通称潮江長兵衛という大坂の芭蕉の門人の俳号。裕福な町人であったらしい。その屋敷で九月二十一日に芭蕉・車庸・洒堂・游刀・之道・素牛・支考が一座して七吟半歌仙(七人で歌仙三十六句の半分十八句一巻の連句を巻くこと)の夜会が興行された際の発句である。この句会は蕉門内で対立していた洒堂と之道の仲を取り持つ意味もあった故に一種の言祝ぎの句としても素直に読める。]

人間に鶯鳴くや山櫻 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   人間に鶯鳴くや山櫻

 人里離れた深山の奧、春晝の光を浴びて、山櫻が咲いて居るのである。「人間」といふ言葉によつて、それが如何にも物珍しく、人蹟全く絶えた山中であり、稀れに鳴く鶯のみが、四邊の靜寂を破つて居ることを表象して居る。しかるに最近、獨自の一見識から蕪村を解釋する俳人が出、一書を著して上述の句解を反駁した。その人の説によると、この句の「人間」は「にんげん」と讀むのでなく、「ひとあい」と讀むのだと言うのである。即ち句の意味は、行人の絶間絶間に鶯が鳴くと言うので、人間に驚いて鶯が鳴くといふのでないと主張して居る。句の修辭から見れば、この解釋の方が穩當であり、無理がないやうに思はれる。しかしこの句の生命は、人間(にんげん)といふ言葉の奇警で力強い表現に存するのだから、某氏のやうに讀むとすれば、平凡で力のない作に變つてしまふ。蕪村自身の意味にしても、おそらくは「人間(にんげん)」といふ言葉において、句作の力點を求めたのであらう。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。現今の読みも「人間」は「ひとあひ(ひとあい)」で、意味も人に対する懸想や愛想、人付き合い、交際、さらには文中評者の言うような行き過ぎる人々の人間(ひとま)の謂いでとっているように思われる。しかし朔太郎のこの「人間」を「にんげん」と読んで人跡の絶えた「人里離れた深山の奧」の景とするには聊か無理があるように思われる。かといって私は「ひとあひ」説によって里山の山桜と桜狩の喧騒とその合間の鶯という如何にもな景も今一つ好きになれぬのである。私は寧ろ誰とも妥協せずにこの句は、
 人閒(じんかん)に鶯鳴くや山櫻
と読みたい欲求に駆られるのである。そこが花見の客がちらほらと行き来する場所であろうが、深山幽谷であろうが、そんなことは実はどうでもいいことだ(どうでもいいというのはどちらでもよいという謂いでもあるが、同時にその孰れかを同定することに意味はないという謂いでもある)。その「鶯」の音と「山櫻」を心眼でこの輪廻の哀しくそれでいて儚き哀れの人事と自然の間合い――「人閒(じんかん)」――に聴くしみじみとした思いを詠じたものと私は詠みたいのである。そこには朔太郎の人跡未踏の地の静寂も、評者の車馬人声の喧騒も包含され吸い込まれ消えてゆくであろう。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第14連》

 ひとつの言葉を釣らんとするには、まづ倦怠の餌を月光のなかに投じ、ひとすぢの絲のうへをわたつてゆかなければならぬ。そのあやふさは祈りである。永遠の窓はそこにひらかれる。

[やぶちゃん注:前の第十三連とこの第十四連は底本では行空きなしで連結しているが、諸本を参照に分離した。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第13連》

 ひとつの言葉はしたたりおちる木の實であり、その殼であり、その果肉であり、その核であり、その汁である。さうして、木の實の持つすべてのうるほひであり、重みであり、動きであり、ほのほであり、移り氣である。
[やぶちゃん注:この第十三連と次の第十四連は底本では行空きなしで連結しているが、諸本を参照に分離した。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第12連》

 ひとつの言葉は草の葉である。その上の螢である。その光である。光のなかの色である。色のまばたきである。まばたきの命である。消なば消ぬがのたはむれに似てゆらびく遠い意志である。

[やぶちゃん注:第十二連の「ゆらびく」は「搖ら曳く」で、ゆれて棚引くの意。

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第11連》

 ひとつの言葉は空中に輪をゑがいて星くづをふくみ、つぶさにそのひびきをつたへ、ゆふべのおとづれを紡ぐのである。

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第10連》

 ひとつの言葉は、影となり光となり、漾うてはとどまらず、うそぶきをうみ、裂かれては浮み、おそひかかる力の放散に花をおしひらかせる。

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第9連》

 ひとつの言葉を嗅ぐことは、花園のさまよふ蜂となることである。觀念は指をきり、わきたつ噴水に雨をふらし、をののく曙は闇のなかに身をひるがへし、やはやはとし、すべてはほのかなあかるみの流れに身ぶるひをしてとびたつのである。

鬼城句集 秋之部 柿

柿     柿賣つて何買ふ尼の身そらかな

 

      柿秋や交易の市も昨日今日

 

      柿秋や追へどもすぐ來る寺烏

 

      柿の木に小弓をかけて晴れにけり

 

[やぶちゃん注:「小弓」は「こゆみ/おゆみ」で遊戯用の小さな弓、ここは下弦の月以降有明月までのそれを柿の木に懸けたそれに見立てたものか。ただ案山子のように鳥除けに実際に小弓を懸ける呪(まじな)いとしての風習が地方にないとは断言出来ない。識者の御教授を乞う。]

2013/10/23

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第8連》

 ひとつの言葉に觸れることは、うぶ毛の光るももいろの少女の肌にふるへる指を濡れさせることである。指はにほひをきゝ、指はときめきを傳へ、指はあらしを感じ、指はまぼろしをつくり、指は焰をあふり、指はさまざまの姿態にあふれる思ひを背負ひ、指は小徑にすゝり泣き、なほさらに指は芬香の壺にふかぶかと沈みてあがき、壺のやうな執著のころもに自らを失ふのである。
[やぶちゃん注:「芬香」は「ふんかう(ふんこう)」と読む。よい匂い。芳香に同義。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第7連》

 ひとつの言葉を眺めれば、あまたの人の顏であり、姿であり、身振であり、そして消えてゆかうとするあらゆるものゝ別れである。含まれたる情熱の器は、細い葉のそよぎにゆらめいて、現を夢ににほはせるのである。

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第6連》

 ひとつの言葉に身を投げかけることは、恰も草木の生長の貌である。そこに芽はひらき、葉はのびあがり、いそいそと地に乳をもとめるのである。この幸福は無限の芳香をもつ。
[やぶちゃん注:「いそいそ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第5連》

 ひとつの言葉に舌をつけることは、おそろしい鐘のねの渦卷に心をひたすことである。空々寂々、ただひそかに逃れんとあせるばかりである。

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第4連》

 ひとつの言葉を聽くことは、むらがる雨のおとを聽くことである。數限りない音と色と姿とけはひとを身にせまるのである。

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第3連》

 ひとつの言葉に、もえあがる全存在を髣髴させることは、はるかな神の呼吸にかよふ刹那である。



義母の一周忌を終えて名古屋より先ほど帰鎌した。

行く春や逡巡として遲櫻 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   行く春や逡巡として遲櫻

「逡巡(しゆんじゆん)」といふ漢語を奇警に使つて、しかもよく效果を納めて居る。芭蕉もよく漢語を使つて居るが、蕪村は一層奇警に、しかも效果的に慣用して居る。一例として

     櫻狩美人の腹や減却す

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。「櫻狩」の句は底本ではポイント落ち。「櫻狩」の句は、

  一片花飛減却春
さくら狩(がり)美人の腹や減却(げんきやく)す

で、前書は訓読に従えば「一片の花 飛んで春を減却す」と読み、これは杜甫の「曲江 一」の冒頭の一句で、たった一枚の花びらでさえ散っても春の情趣が減ってゆく(春が過ぎ去ってしまう)の謂い。蕪村はそれを桜狩に来たはいいが、客の美女が腹を減らして歩き疲れているさまに諧謔したのである。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第2連》

 ひとつの言葉におぼれて、そのなかに火をともすことは、とりもなほさず、窓わくのなかに朝と夕の鳥のさへづりを生きのままに縫箔することである。

鬼城句集 秋之部 蔦

蔦     大木の枯るゝに逢へり蔦蘿

[やぶちゃん注:「蔦蘿」は音は「てうら(ちょうら)」であるが、無論、ここでは「つたかづら(つたかずら)」と訓じている。蔦、蔦葛に同じい。]

2013/10/22

秋もはやばらつく雨に月の形 芭蕉

本日二〇一三年十月二十二日

陰暦二〇一三年九月 十九日

 

  其柳亭

 

秋もはやばらつく雨に月の形(なり)

 

昨日からちよつちよつと秋も時雨かな

 

昨日からちよつちよつと秋もしぐれけり

 

[やぶちゃん注::元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月十九日の作。第一句及び第二句ともに「笈日記」に、第三句は「六行會」に所載するもの。第二句目についてのみ「ちよつちよつ」の後半は底本では踊り字「〱」。

 同年五月十一日に江戸を立って郷里伊賀上野へ二十八日まで滞在した後、膳所の菅沼曲水宅、嵯峨野落柿舎(ここに滞在中の六月八日に同月二日(推定)に芭蕉庵での寿貞逝去の報に接する)や京辺を巡り、七月に伊賀へ帰る。九月八日に出立して大阪へ向かうが、体力の衰え著しく、到着翌日の十日から本句を詠んだ翌二十日頃までは連日夕刻になると発熱・悪寒・頭痛に苦しめられた

 「其柳」は「きりう(きりゅう)」で、大阪の門人。本句はこの日彼の屋敷で行われた八吟歌仙(八人で歌仙三十六句を連ねること)夜会興行の発句であった(芭蕉・其柳・支考・洒堂・游刀・素牛・車庸・之道)。

 「笈日記」に第一句につき(踊り字は正字化した)、

此句の先、〽昨日からちよつちよつと秋も時雨かな、といふ句なりけるに、いかにもおもハれけむ、月の形にはなしかへ申されし

と附記されてある。

 芭蕉の逝去は同年十月十二日――もうあまり、彼の時間は残されていなかった。]

山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   山吹や井手を流るる鉋屑

 

 崖下の岸に沿うて、山吹が茂り咲いて居る。そこへ鉋屑が流れて來たのである。この句には長い前書が付いており、むずかしい故事の註釋もあるのだが、これだけの敍景として、單純に受取る方がかえつて好い。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。朔太郎の言う前書は以下。後に語釈を附す。

 

加久夜長帶刀(かくやのをさのたちはき)はさうなき數寄(すき)もの也けり。古曾部(こそべ)の入道はじめてのげざんに、引出物見すべきとて、錦の小袋をさがしもとめける風流などおもひ出つゝ、すゞろ春色にたへず侍れば

 

・「加久夜長帶刀」平安中期の官吏で歌人藤原節信(ときのぶ/としのぶ 生没年未詳)。天皇及び東宮の護衛に当たる下級SPであった帯刀舎人(たちはきのとねり)の長。加久夜長帯刀と呼ばれた。「後拾遺和歌集」などの勅撰集に歌三首を残す。長久五 (一〇四四) 年河内権守に任ぜられているので以下の能因法師とは同時代人。

・「古曾部の入道」能因法師(永延二(九八八)年- 永承五(一〇五〇)年又は康平元(一〇五八)年)。「古曾部」は現在の大阪府高槻市古曽部町で能因の隠棲地。

・「げざん」見参(げんざん)。

・「引出物」饗宴初対面の際の主人から客に対しての贈答品。ここでは互いの門外不出の秘蔵の品を見せ合ったのである。

 これは井手(井堤とも呼称した。現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町)がそこを流れる玉川(木津川支流)の河鹿蛙(かじかがえる)の鳴き声と山吹で知られた歌枕であったこと、平安末の藤原清輔の歌学書「袋草紙」にあるそれを元にした藤原節信と能因法師の邂逅の際の逸話に基づいている。ここで蕪村が仄めかしている「錦の袋」に入れたものこそが句の眼目の「鉋屑」で、二人が始めて出逢った際、互いに引出物として見せ合ったそれは能因が「長柄(ながら)の橋の鉋屑」、節信が「井手の蛙(かはづ)の干物(ひもの)」であって、そのフリーキーな風流コレクター振りに互いに畏れ入ると同時に意気投合したという和歌奇譚を元にした句想である。評釈者の中には流れる「鉋屑」は山吹の散るさまを鉋屑に喩えたとするものもあるが、それでは短歌の亜流で俳諧としては堕したものとなろう。蕪村自身も他に「只一通(とほり)の聞(きき)には、春の日の長閑なるに、井手の河上の民家などの普請などするにや、鉋屑のながれ去(さる)けしき、心ゆかしき樣也」(引用元不詳。谷田貝常夫蕪村攷記載に拠った)とはっきりと述べており、朔太郎の謂いは正当である。]

噴水の上に眠るものの聲 大手拓次 《第1連》

 噴水の上に眠るものの聲

[やぶちゃん注:本詩は全19連(底本では12・13連目が行空きなし改行で一続きの連のようになっているため18連であるが、これは版組の誤りにしか思われないので行空きを施した)からなる、長い散文詩であるが、僕はこの詩を始めて読んだ際、恰もウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を始めて読んだ時の感動に通ずるものを覚えた。それは一命題が恐るべき確度と強迫性を以って迫ってくる論理命題のようである。だから僕はこれを強いて恣意的に一連ずつ独立した言説(ディスクール)として示すことにする。ここでのみ大手拓次を読む者は、その一連ずつを――蛇を生殺すやうに、凌遅致死の刑を處せられつつあるやうに、焦燥的變態的強制的に、味わふことになる。――総てを示し終えた後に全詩を眺めることとしよう。従って標題の《 》は便宜上私が附したものである。……告白すれば――詩集「藍色の蟇」が終わってしまうのを――少しでも遅らせたい――という思いもないわけではないのである……


 《「噴水の上に眠るものの聲」第1連》

 ひとつの言葉を抱くといふことは、ものの頂を走りながら、ものの底をあゆみゆくことである。

鬼城句集 秋之部 蕎麥の花

蕎麥の花  山の上の月に咲きけり蕎麥の花

2013/10/21

上海劇団夢

僕は上海の劇団に招聘されて出演することとなる。
それは戦前の上海租界を舞台とした近代劇で、僕は日本人租界の若き通弁役、主役級の配役達と絡む重要な脇役である(夢の中の僕は二十代なので「若き」は悪しからず)。日本人俳優は僕一人である。
しかし僕は中国語が全く出来ない(事実である)。
リハでは台詞の総てをカタカナに直したものを現地通訳に発音して貰い、それを丸覚えして臨んだ。
ヒロインの美しい女優との絡みのシーンなどではドキドキしたが、台詞の臨場感の表現には相応に自信があった。演出家も言っていることは分からないが、表情や身振りを見る限り、満足して呉れているようだ。

しかし、所詮、中国語が離せない僕は、オフになると何か鬱々としているのであった。

フランス租界の青年役(「シベールの日曜日」の大好きなハーディ・クリューガー似)と一緒にホテルのレストランに食事に出かけると、その店の前の看板に僕の好きピカレスク詩人フランソワ・ヴィヨンの詩の一節が書かれていて、僕はそれに感動してしまって、彼にそのことを説明しようとするのだが、すっかりフランス語を忘れてしまった(事実。僕は一応、大学の第一外国語はフランス語であったが、もうすっかり忘れてしまった)ため、片言の英語で語るしかなく、それを彼は何か如何にも憐れむように笑って聴いているのだった。

僕の定宿はラビリンスのような九龍城めいたアパートである。
時々、自分の部屋が分からなくなって、その迷路のような中をカフカの小説の様に上がったり下りたりするシーンが続く。
隣人の中国人たちは僕が全く中国語を離せないのに、何故か皆、親切だ。

そんな中で僕は、
『……これから……どうしよう……』
と悩んでいるようだ。

シーンが変わる。
僕はその宿のラウンジにボーイの服装で立っているのであった。
そうしてベルベットを持ってひどく汚れたフロアーにある机を懸命に磨いているのであった。
その側を先の女優が通りかかって、僕に、
「何故、そんなことをしているの?」
と声をかけて来た。
……しかし、僕は何も聴こえないように……もくもくと机を磨いているのだった。

――その時、「夢を見ている僕」は気がついたのだ――
――「夢の中のその僕」は役者人生を擲って――この迷宮のような妖しい旅宿で――「聾唖の中国人のボーイとして生きる」ことを選択したのだ――と……



変わった夢だった。
しかし何か僕は仄かなペーソスとともに爽やかな諦観ともいうべき意識の中で、今朝、目覚めたのだった……。

ではまた――随分、御機嫌よう――

菜の花や晝ひとしきり海の音 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   菜の花や晝ひとしきり海の音

 前と同樣、南國風景の一であり、閑寂とした漁村の白晝(まひる)時を思はせる。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。]

香水夜話 大手拓次

 香水夜話

 まつくらな部屋のなかにひとりの女がたつてゐた。
 部屋はほのあたたかく、うすい霧(きり)でもただよつてゐるやうで、もやもやとして、いかにもかろく、しかも何物かの息(いき)かがさしひきするやうに、やはらかなおもみにしづまりかへつてゐる。
 をんなは、すはだかである。ひとつのきれも肌にはつけてゐない。ひとつの裝飾品も身につけてはゐない。
 髮はときながしたままである。油もくしもつけてはゐない。
 顏にも手にも足にも、からだのすべてに何ひとつとして色づけるもののかげもないのである。
 女は、いきたまま、まつたくの生地のままの姿である。肌の毛あなには闇がすひこまれてゐる。べにいろの爪には闇(やみ)の舌がべろべろとさはつてゐる。ふくよかなももには、しどけない闇のうづまきがゆるくながれてゐる。
 まつしろい女のからだは、あつたかい大きな花のやうにわらつてゐる。手もわらつてゐる。足の指もわらつてゐる。しろくけぶるやうな女のまるいからだは、むらさきのやみのなかに、うごくともなくさやさやとおよいで、かすかな吐息をはいてゐる。
 女は白いふくろふだ。その足はしろいつばめだ。
 闇は、きり、きり、きり、きりと底へしづみ、女の赤いくちびるは、白く、あをじろく、こころよいふるへをかみしめて、ほそい影をはいてゐる。
 女の眼(め)は、朝の蛇のやうにうす赤く黑(くろ)ずんできて、いつぴきの蝙蝠がにげだした。
 女のからだは水蛭のやうによぢれて、はては部屋いつぱいにのびひろがらうとしてゐる。
 あへぎ、あへぎ、息がたえだえにならうとしてゐる。
 このとき、女の左の乳房にリラの花の香水を一滴たらす。香水のにほひは、さくらのつぼみのやうなぽつちりとした乳房にくひついて、こゑをあげてゐる。

鬼城句集 秋之部 草紅葉

草紅葉   土くれに二葉ながらの紅葉かな

 

      砂濱や草紅葉してところところ

 

[やぶちゃん注:「ところところ」の後半は底本では踊り字「〱」。「〲」ではない。]

 

      稻の中に夕日さしこむ紅葉草

 

[やぶちゃん注:「草紅葉」は多様な丈の低い草本類が秋に色づくことで、「草の錦」などとも言うが、最終句の「紅葉草」と言った場合は限定された種である双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科ヒユ属ハゲイトウ Amaranthus tricolor の別称で、最終句もそれを詠んでいると考えられる。以下、ウィキハゲイトウ」によれば、ハゲイトウ(葉鶏頭・雁来紅)は一年草で日本には明治後期に渡来し、花壇の背景や農家の庭先を飾る植物として広く栽培され、『アマランサス(ヒユ属)の1種である。主に食用品種をヒユ(莧)とも呼ぶが、アマランサスの食用品種の総称的に呼ぶこともある』(本邦でもかつて東北地方で小規模ながら「アカアワ」などという呼称で食用に栽培されていたとウィキアマランサス」にある)。『属名の Amaranthus は、「色が褪せない」の意味。そのために「不老・不死」の花言葉があるが、これは以前この属に属していたセンニチコウによるものである。種小名の tricolor は「三色の」の意』。英名の Joseph's coat は、『旧約聖書に登場するヨセフにヤコブが与えた多色の上着のことで、鮮やかな葉色をこの上着にたとえている』。熱帯アジア原産の春蒔きの草花で、根は牛蒡状の直根、茎は堅く直立して草丈は0・八~一・五メートルほどまで伸びる。『葉は被針形で、初めは緑色だが、夏の終わり頃から色づきはじめ、上部から見ると中心より赤・黄色・緑になり、寒さが加わってくるといっそう色鮮やかになる。全体が紅色になる品種や、プランターなどで栽培できる矮性種もある』とある。グーグル画像検索「Amaranthus tricolor」は。]

2013/10/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 9 モース先生駕籠に乗る――その決死のスケッチ!

 この魅力に富む場所を後にすると、道路はせまくなり、奔流する山の小川に出喰わした。水は清澄で青く、岩は重なり合い、坂は急に、景色は驚く可きものである。山々は高く嶮しく、水量は普通かかる場所に於て見られるものよりも遙かに多く、山間の渓流というよりも事実山の河川であった。狭い小径は大きな岩と岩との間をぬけたり、岩にそって廻ったり、小さな仮橋で数回川を超したりしている。この水音高く流れる川に沿うて行くこと一、二マイルにして登りはいよいよ本式になり、急な坂かはてしなき石段かを登ると、所々、景色のいい所に小さな腰掛茶屋がある。その一つは特に記憶に残っている。それは岬(みさき)みたいにつき出た上の、木立の無い点に立っていて、単に渓谷のすばらしい景色を包含するばかりでなく、三つの異る山の渓流が下方で落合うのが見られる。最初の休憩所で見た旅人達のある者が我々に追いついたので、しばらく一緒に歩いた。娘たちは、笑い笑い日本語で喋看(しゃべ)り、時々「オー、アツイ、アツイ」と叫ぶ。私に判った言葉はこれだけ。Hot を意味するので、その日はまったく焦げつくように暑かった。一人の老人が私に質問を発する。私はそれに応じて「汝不可解なる愚人よ、何故汝は汝の言論を作出しないか云云」というようなことをいうと、彼はそれに対して「ハイ」という。「ハイ」はイエスで、我々の逢う人達は、彼等の了解しないことのすベてに対して「ハイ」という。
[やぶちゃん注:現在のいろは坂(この名称は昭和初期から)に入ったものと思われる。途中の「特に記憶に残っている」「腰掛茶屋」とは、現在の「中の茶屋」よりももっと下であろう。現在の地図上で見ると大きな渓谷は二本であるが、当時は他の谷合から流れ出る有意に太い流れが今一本あったとしてもおかしくはない(何せ、私は小学校六年の修学旅行でしか日光に行ったことがない迂闊者である。これらの景観から位置同定が出来る箇所がありますれば、是非、御教授戴けますよう、よろしくお願い申し上げる)。
「一、二マイル」1・6~3・2キロメール。
「汝不可解なる愚人よ、何故汝は汝の言論を作出しないか云云」原文は“"You incomprehensible idiot, why do you not frame your speech," etc., etc.,”。後半は分かり難いが、何ゆえに汝は汝の言葉を役立たせることをしないのか、どうして私に分かるように喋ることがことが出来ぬのか、というモース自身が神となって野蛮にして無知な人間に語りかける霊言を発することに決め込んだといった感じか? 識者の御助言を求む。
「ハイ」我々日本人は相手の言葉を承諾した意(「イエス」)を現わす時以外に、相手に対してあらたまって応答する際に、「はい?」とも使う。後者は特に相手の言っていることが分からない場合にも普通に使用することを考えれば、それらをひっくるめて(というよりモースの英語の質問に対しては殆んどの日本人は意味不明の意の「はい?」をしょっちゅう用いたと考えてよい)『我々の逢う人達は、彼等の了解しないことのすベてに対して「ハイ」という』と感じたものと思われる。無論、言わずもがなながら、初等英語教育を受けた際やヨーロッパ言語で奇異に感じる(私は大いに奇異に感じた)ところの、返答が肯定文なら“yes” やそれに類する語、否定文なら“no” やそれに類する語を用いるモースにとっては、日本人は、なんにでもかんにでも「ハイ」と答える“incomprehensible idiot”と映ったとも言えようか。]

M74
図―74

M75_2
図―75

 我々一行中の二人は、かわり番こに「カゴ」に乗った。私も乗って見たが、こんな風にして人に運ばれるのは如何にも登山らしくないので、八分の一マイルばかりで下りて了った。駕籠(かご)は坐りつけている日本人には理想的だろうが、我々にとっては甚だ窮屈な乗物で、長い脚が邪魔になって、馴れる迄には練習を要する。私は一寸休んでいた間に急いで駕籠のスケッチをした。長い、丸い竿を肩にかつぎ、それからぶら下る駕籠を担いながら、屈強な男が二人、勢よく歩いて行く所は中々面白い。かごかきはそれぞれ長い杖を持って自身を支え、二人は歩調を合わせ、そして駕籠は優しく、ゆらゆら揺れる。その後からもう一人、これは先ず草疲(くたび)れた者に交代するためについて行く。図74ほカゴで、図75は乗っている時内側から写生したものである。
[やぶちゃん注:「八分の一マイル」約200メートル。早(はや)! モース先生、余程、堪え切れなかったと見える。まあ、確かに図を見る限り、こりゃ、サイズも振動も、悪魔のようにキツそうではある。]

海士の屋は小海老にまじるいとゞ哉 芭蕉

本日二〇一三年十月二十日

陰暦二〇一三年九月十七日

 

海士(あま)の屋(や)は小海老(こえび)にまじるいとゞ哉

 

海士の屋の小海老に交る竈馬(イトヾ)哉

 

海士の屋は小海老もまじるいとゞ哉

 

[やぶちゃん注:元禄三(一六九〇)年、芭蕉四十七歳。この年の九月十三日から二十五日まで、当時、大津にあった芭蕉は門人千那(せんな)らのいた琵琶湖西岸の堅田に滞在した。堅田滞在中、芭蕉は「拙者散々風引き候而(て)、蜑(あま)の苫屋に旅寢を侘び」(九月二十六日附茶屋与次兵衛宛書簡)たと記している。冒頭句は「猿蓑」所収で先の「病雁(びやうがん)の夜さむに落(おち)て旅ね哉」の句と並載する。「泊船」では同句同様、「堅田にて」の前書を有する。二句目は「帆懸船」所収の、三句目は「軒傳ひ」の句形。因みに私は二句目の句形で腑に落ちる。

 なお、本句は高校の古典の教科書にもしばしば載る通り、向井去來の「去來抄」の「先師評」に「猿蓑」選句入集時のエピソードが載る(同じものは「無門關」にも所収)。以下に示す(底本は岩波文庫ワイド版「去来抄・三冊子・旅寝論」に拠った)。

 

  病鴈のよさむに落て旅ね哉             はせを

  あまのやハ小海老にまじるいとゞ哉         同

さるみの撰の時、此内一句入集すべしと也。凡兆曰、病鴈はさる事なれど、小海老に雜るいとゞハ、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也と乞。去來ハ小海老の句ハ珍しといへど、其物を案じたる時ハ、予が口にもいでん。病鴈は格高く趣かすかにして、いかでか爰を案じつけんと論じ、終に兩句ともに乞t入集す。其後先師曰、病鴈を小海老などゝ同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり。

 

この「先師評」、芭蕉の「笑ひ」は「病雁の」の句を自身乾坤一擲の句として、則ち、去来の評言を全的に支持するものとして、去来によって自画自賛的に示されているのであるが、実は最晩年の芭蕉の「軽み」の詩想から考えるならば、寧ろ「海士の屋は」の句こそが、従来の事大主義的な芭蕉自身の偶像的自己の、その殻を割り砕くべき世界を拓いた句でもあったと私は思っているのである。だからこそ、この芭蕉の「笑ひ」の意味は多層的で分裂的であって、如何にも芭蕉らしい笑みであると感じている。この「多層的で分裂的」とは、安藤次男が「芭蕉」(昭和五四(一九七九)年中央公論社刊)の中で言ったように、『おそらく芭蕉は』この同く堅田で詠まれた両吟の『優劣を尋ねたのではない。いずれも湖西の秋の哀を詠んだ作品ながら、連衆の心を持つ作りと孤心をもつ句作りと孤心のにじみ出た句作りとが生まれるのは俳諧の宿命、そのいずれを採るかは、このとき只今きみたちの心を染める色合によることだ、と芭蕉は言っているのだろう』という意味に於いてである。

因みに今も思い出すのであるが、遠い昔、初めてこの部分を授業した際、教師用指導書の中に、この「小海老」が孤高の芭蕉で、「いとど」(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ Diestrammena apicalis)が有象無象の詩想を持たぬ似非俳諧師とする解釈があるというのを読んで眉唾を感じながら、つい、その際下劣な言志とも言えぬ言志的噴飯解釈を面白がって授業で紹介してしまった自分自身を今も恨む気持ちが未だに消えずにあることをここに告解しておきたい。]

中島敦 南洋日記 九月二十六日

        九月二十六日(金)

 晴。海面、油の如し。終日デッキにありて、内田百閒「無絃琴」を讀む。

[やぶちゃん注:「無絃琴」昭和九(一九三四)年中央公論社刊の百閒の作品集。私は今一つ彼が好きになれない(というか興味が惹かれない。夢記述系の「冥途」や「旅順入場式」が私の夢記述の感覚から全く退屈でつまらないとしか感じない。これは彼の夢の系が全く私とは通底していないからだと直覚する)ので本書は未読であるが、桃猫氏という方の「桃猫温泉三昧」というブログのこちらに、その中の掌編「菊世界」についての解説がある。]



亡き義母の一周忌の法要のために本「中島敦 南洋日記」の更新は暫く休止する。

菜の花や鯨も寄らず海暮ぬ 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   菜の花や鯨も寄らず海暮ぬ

 菜種畠の遠く續いてる傾斜の向うに、春晝の光に霞んだ海が見え、沖では遠く、鯨が潮を噴いてるのである。非常に光の強く、色彩の鮮明な南國的漁村風景を描いてる。日本畫よりはむしろ油繪の畫題であらう。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。]

白い鳥の影を追うて 大手拓次

 白い鳥の影を追うて

 

 わたしの感覺の窓がすつかりととぢられてしまふ。さうして、ばうばくとしたひとつの羽音がきこえる。その羽音は香料をふくみ、音樂をわきたたせ、舞踊をはしらせるのである。わたしはしづんでゆく、しづんでゆく、かぎりない地軸のなかへ、黄金の針のやうにきりきりきりきりとしづんでゆく。なほ、わたしはおそろしい靜かさと激動との追迫によつて、さらにはてしない混沌のなかへしづんでゆく。もはや、わたしの身のほとりには、四季の幻影は咲きこぼれ、意慾の發端は八面の舌をもやし淸麗な神體はそよかぜのやうにやはらかくそよいでゐる。

 わたしは噴水をのぞみながら、しばられた孤獨のわなにかけられて、ふかくふかく世紀をながれゆく驅橋(かけはし)をわたり、破滅のうへにれいろうとした芽(め)をふく墓標をいだくのである。

 水晶色(すゐしやういろ)の感情はなげられた母體(ぼたい)の腹(はら)をさいてさけびをあげ、蛇をよみがへらせ、蛙をまねき、犬をいつくしみ、なめくぢを吸ひ、馬をそだて、狼と接吻するのである。

 月のあかりのほのかにさすやうに、たえまなくしづんでゆくわたしの身に、いつとはなしにささめ雪ふりしきり、たそがれの風みだれ、海原の波舞(なみま)ひあがり、曠野(くわうや)のくさむらにゆく白狐(しろぎつね)のあしおとがきこえる。

 太古の銅盤(どうばん)のさざらさざらとひしめく騷音(さうおん)のかなたに、水邊(すゐへん)の蘆(あし)のやうにあでやかにしなづくり、ほのめく微音(びおん)の化粧(けしやう)してとびゆくもの。はツとしてみれば、わかき一羽(は)の白鳩(しらばと)である。幻影は洪水のやうにあふれてきはまりなく、鳩のゆくへに追ひせまるのである。鳩はすずしくまひあがり、かろくめぐり、いなづまの爪のやうに消えさる。鳩は白い尾のかげをのこし、うすあかい指のかげをのこし、みづのながれをひきおこし、ふしぎにも傳統のゆめのそびらをたたいて靑空へかけり、あたらしい癡人(ちじん)の手をみちびくのである。

 このとき、わたしの足は薔薇の噴水となり、わたしの肌は薰香(くんかう)にむせぶ眞珠のたまとなる。

 

[やぶちゃん注:太字「さざらさざら」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 秋之部 水引の花

水引の花  水引の花が暮るれば灯す庵

 

      水引の花奉れ命婦達

2013/10/19

耳嚢 巻之七 古錢を愛する事

 古錢を愛する事

 

 古き事する色々の内、古き人の書を愛する迚、古錢を愛する者あり。さる謂(いはれ)もありけるなれど、愛せざる心よりは可笑(わらふべし)。予許(よがもとへ)へ來(きたれ)る知れる者谷の何某、古錢多く集め、日本錢の内大德通寶といえるは當時天下に六文の錢の由、貯へて人にも見せける由。彼(かの)人の物語りに、古錢抔當時商ふもの聞(きき)も及ぶまじけれど、江戸町中に右古錢を商賣取遣(あきなひうりとりや)りして豐(ゆたか)にくらせる者有(ある)也と語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:記載内容には特に連関を感じさせないが、前及び前の前の書き出しの「予許へ來る」というやや寸詰まりの表現特徴の共通性から、これら三つが同時期に一遍に書かれたものであることが窺われるように思われる。

・「古錢を愛する事」表題の直下には鈴木氏の『(目次ニハ「古錢を愛する人の事」トス)』という割注がある。

・「古錢多く集め」岩波版の長谷川氏注に、宝暦頃(一七五一年~一七六三年)から『古銭を愛好し珍奇の銭の収集の風が盛んで、にせの古銭作りまで行われた』とある。

・「大德通寶」大徳は中国は元の成宗(テムル)の治世で用いられた元号で西暦一二九七年~一三〇七年に相当する。岩波版の長谷川氏注には、幕臣で北方探検家であった近藤正斎明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)が著わした本格的な古銭蒐集関連書の濫觴とされる「銭録」『に「倭存唐佚銭」として大徳通宝あり』と記しておられる。まず、この近藤正斎という人物であるが、名は守重、通称近藤重蔵(正斎は号)で。寛政七(一七九五)年~寛政九(一七九七)年に長崎奉行出役として海外知識を深め、蝦夷地警衛の重要性を幕府に提言、後に目付渡辺久蔵らの蝦夷地視察の一行に加わって蝦夷地御用掛配下に属し、数回に亙って蝦夷地・千島方面を探検、特に高田屋嘉兵衛の協力を得てエトロフ航路を開き、享和二(一八〇二)年にはエトロフ島にあったロシアの標柱を廃して「大日本恵登呂府」の木標を立てるなど、ロシア南下政策に対する北辺防備及び開拓に尽力(ここまでは主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)、文化五(一八〇八)年には江戸城紅葉山文庫の書物奉行となったが、自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、文政二(一八一九)年に大坂勤番弓矢奉行に左遷、文政四(一八二一)年には小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居、悪いことに文政九(一八二六)年に長男近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となったのに連座して近江国大溝藩にお預けとなって、そのまま死去、死後三十一年も経った万延元(一八六〇)年に赦免されるという波乱万丈の人生を送った人物である(ここはウィキの「近藤重蔵」に拠る)。彼はまさに当時でも珍しい貨幣研究家兼収集家でもあったらしいが、長谷川氏の示す「銭録」という書物は、浩泉丸氏の古銭サイト内の「新寛永通寶分類譜【泉家・収集家覚書】」によれば、古銭収集家の間では幻の名著とされているもので、日本貨幣図史ともいうべき性質の書ながら、明治三九(一九〇六)年に刊行されるまで全く無名の資料で、しかもこの書は「寛永銭録」として編集が始められた経緯があり、再発見された当時は寛文期から享保年間の項が欠落していていたため、大正年間に浅草の古書店で欠落個所が見つかり、古銭蒐集家によって売買されるまで全容すら知られておらず、しかも一般に刊行されたものでもないために現在でも稀覯本で、コレクターでさえ実見することはまずないというまさに幻の書であるらしい。因みに、当該リンク先によればこの近藤正斎、身の丈六尺を超える大男で、体力・記憶力とも抜群に優れていた超人だったとあり、他にも彼の興味深い事蹟が満載で必見である。やや前置きが長くなったが、大徳通宝はこの本話にもある通り、希少というより、その多くがかなり怪しげなもの(まさに古銭として捏造された贋金)であるようだ。中国古銭の収集家の個人サイト「謎の珍品古銭」にまさにその大徳通宝の「実物」画像があるが、サイト主御自身が『すでにオモチャの領域』『無知の人がボロ古銭を元に真似して作った残念な作品』、数枚の良品もあるが多くは『何か怪しい』『イケない複製かも知れ』ない、『拓本を元に作ったイケない品物の様な気が』する、頁末には『真贋は永遠の謎』とまで語られているからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古銭を愛する好事家の事

 

 古きものを趣向せること、これいろいろと御座る中にても、古き人の書体を愛すると申して、その彫琢の残れる古銭を愛する者が御座る。

 そうした趣味嗜好と申すものは、それなりに各人の謂われが、これ、御座ろうものなれど、そうしたものにとんと愛着の湧かぬ私のような者から見れば、これ、失礼ながら、お嗤(わら)い以外の何ものでも御座るまいて。……

……さても、私の元へ来たれる者の中の、谷何某(なにがし)と申す御仁、これ、古銭を多く蒐(あつ)めて御座るが、日本国に今ある古銭の内に「大德通宝」と申すもの、これ、現今、天下にたったの六枚しかない銭の由にて、谷殿は何と、これを数枚も貯えておられ、同好好事の人々にもそれを見せて御座る由。

 その谷殿の物語りに、

「……根岸殿などは、古銭なんどと申すもの、当今、商う者がおるとは、これとんと、聞きも及ばざることとは存じますがのぅ……実は江戸市中には、こうした古銭を商売として取引致いては、まんず、大金(おおがね)を得て豊かに暮らしおる者も、これおるので御座る。……」

とのことでは御座ったよ。……まあ、そんなことも、これ、あっても不思議ではない世の中では、御座るのぅ……♪ふふふ♪

ブログ・カテゴリ 松尾芭蕉 始動 / 病雁の夜さむに落て旅ね哉

ブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」を創始する。
僕にとって芭蕉はローツェ南壁である。
永く芭蕉を記すことに、ある種の奇妙な畏怖に基づく忌避を感じてきたことを告白しておく。
また、多くの芭蕉という高峰を目指す方は多く、僕の登攀は有象無象の無名者の一人に過ぎないし、そこにオリジナリティを帯びさせることは難しい。が、一つ、芭蕉がそれぞれの句を詠んだであろう時間に対し、シンクロニティを以ってブログにそれらを示すことは、僕にとっては個人的にある意味を持って迫るものがあるようには感じられるのである。

以下、陰暦の期日を示し、その句が当該日若しくはその直近に詠まれたことを資料で附記検証しながら、芭蕉の景観と感慨を共時的に辿る旅を始めようと思う。

提示する句の底本は正字表記である中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波書店刊)を用いた。
期日同定等には新潮古典集成の「芭蕉句集」「芭蕉文集」その他を参考にした。

――私は数えで五十七歳――芭蕉より六年も永く生き継いでしまったことに、何か、内心忸怩たるものを感ずる今日この頃である――


本日二〇一三年十月十九日
陰暦二〇一三年九月十六日

  堅田(かただ)にて

病雁(びやうがん)の夜さむに落(おち)て旅ね哉

病雁(やむかり)のかた田におりて旅ね哉

[やぶちゃん注:元禄三(一六九〇)年、芭蕉四十三歳。この年の九月十三日から二十五日まで、当時、大津にあった芭蕉は門人千那(せんな)らのいた琵琶湖西岸の堅田に滞在した。堅田滞在中、芭蕉は「拙者散々風引き候而(て)、蜑(あま)の苫屋に旅寢を侘び」(九月二十六日附茶屋与次兵衛宛書簡)たと記している。前者は「猿蓑」所収の、後者は「枯尾花」所収の句形。因みに私は前句を、

病雁(やむかり)の夜寒(よさむ)に落(お)ちて旅寢哉

と詠みたくなる部類の人間である。因みに、畏るべき芭蕉の碩学安藤次男氏は「芭蕉」(昭和五四(一九七九)年中央公論社刊)の中で(私は正直言うと彼、安藤次男以外の、有象無象の芭蕉の評釈に対しては、これ実は舌を巻いて驚いた経験は殆んどないといってよい)、「病雁」の読みについて実に四頁近く(これが蕪村の句ならが「鴈」を「ガン」と読む方がその風土に叶う、という補説も含めるなら六頁近く)に亙った考証を示しておられる。その鋭い洞察は当該書をお読み戴くとして、彼はその一つの理由として『私自身、この句をむかしはビョウガンと読んでいて、いまはヤムカリと読みたい気持ちがある。その理由は』『年齢と、一方また関西に育ち、成年になってかりに東京に住みついて、齢四十を超してときどき故郷のことを考えたりもするようになった人間の心情の微妙な変化にも関わっている。人はしらず私にあっては、ビョウガンは青年のきおいだった。のみならず、この吟、以後の芭蕉の運命を予感させるような孤独感に充ちているだけに、かえってそうよみたくなる心理が、私にはある。それは作者自身にもなかったとはいいきれまい』と述べておられる(この「孤雁」の章は昭和四〇(一九六五)年二月の『文学』が初出で、当時、安藤は四十六歳であった。因みに安藤はこの後にそこから引き出されるところの主智的な風土性からの論証も示しているが、ここでの私にはそれは不要であると感じられるが故に省略する。やはり原書に必ず当たられたい)。この部分を読んだ当時の私(二十二歳)が、やはり全く同じように「やむかり」と読みたかったから大いに共感したことを思い出すと同時に、齢四十六の安藤氏が『人はしらず私にあっては』と限定し、『のみならず……かえってそうよみたくなる心理が、私にはある』と言った気持ちが、今の私(五十六歳)にも『かえってそうよみたくなる心理が、私に』もある、と書き添えずにはおられぬのである。]

中島敦 南洋日記 九月二十五日

        九月二十五日(木) クサイ

 未明クサイ着。七時半レロ島上陸、警部補派出所に至り巡警の案内にて、公學校へ行く。西川校長と二時間會談後、獨り往きて、レロ城趾を見る。熱帶樹下の甃(イシダタミ)路。迂餘曲折して續く。石の壘壁、古井戸。苔、羊齒類の密生。蜥蜴。蜘蛛の巣。椰子。巨大なる榕樹二